《X》の足音 文:葛西伸哉  



 皆様、改めてご挨拶させていただきます。ライトノベル作家・葛西伸哉です。
 掲示板で「ライトノベルは小説なのか」「絵物語とマンガが異なるように、小説から出でて小説とは異なる新しい表現の形としてライトノベルがあり得るのではないか」という思いつきを書きこみました。
 その事について掲示板で小出しするよりも、どれほど不完全でも文章にまとめた方が話を進めやすいかと思い、こうしてコラムめいたものを書かせていただきました次第。
 ただし、久美さまや早見さまのように草創期から現場にいた人間の貴重な証言というわけでも、冲方さまのようにトップランナーの鋭く踏みこんだ分析でもありません。たまたま現場に居合わせてるだけの、二流のオタクくずれです。読んでいる作品の量もさほど少なく、本稿内で触れる話にしても具体的に出版社や作者に取材したわけではありません。
 ただし、骨の髄から小説を愛しているわけではない二流のオタクくずれだからこそ「小説である事」を無上の価値とせず、選択肢のひとつとして相対的に取り扱う事ができるはずです。そこに、敢えて自分が論を張る意味もあるかと。
 本稿は試論としても不充分でしょうし、ツッコミどころも多数あるでしょう。それでも、これを読んだ方の思考が−−あるいは創作活動が−−より高く、遠くに達するための踏みきりのマーク程度に役立つのならば本望です。
 また、自サイトの日記やパソコンゲーム雑誌『BugBug』に掲載されたコラムの内容と重複する部分もありますがご容赦を。

 まず、そもそも現在「ライトノベル」と呼ばれているものは何なのかという私見を述べる事にしましょう。現状が不明ならば今後の展望も開けませんから。
 一般に「ライトノベル」と呼ばれているもののいちばんレンジを広くとったイメージは「特定のレーベルから出版されている、マンガ・アニメ系のイラストが添えられた小説」という事になるでしょう。人によってはこれに「主に中高生向けの」とか「軽めの内容の」とかいうフレーズを付けるかも知れませんが。
 取りあえずこれを前提とした上での疑問。「ライトノベル」とは「ジャンル」なのでしょうか?
 同じ「ライトノベル」と呼ばれている中にはファンタジーもあります。スペースオペラも、ミステリーも、ホラーも。スーパーナチュラルなギミックをひとつも持たない恋愛ものやアクションものも存在します。シンプルな痛快さを売りにしたものも、シリアスで沈鬱なものも。SFやミステリーのように作品の傾向・指向性で分類されるジャンルではないようです。
 では「程度」「質」を指すものなのでしょうか?「ライトノベル」は軽く、粗悪な小説もどきでしかないのでしょうか?
 これも違います。『デルフィニア戦記』や『十二国記』のように、当初「ライトノベル」として出版されたものが装丁を変更して「一般文芸書」になった例もあります。逆の方は具体例が思い当たりませんが「一般文芸書」の中にも本文テキストには一切の改編をせず、装丁をアニメ風にするだけで「ライトノベル」になってしまうものもあるでしょうね。
 とりあえず実例がいくつもある以上、「ライトノベル」と「一般文芸」の違いを「レベル」に求めるのも無理がある話です。

 では、現状での「ライトノベル」とは何か。私は単なる「パッケージング」「分類コード」なのではないかと思うのです。
 三十代半ば以上の方には「ニューミュージック」という言葉を思い出していただければわかりやすいかも知れませんね。その昔「ニューミュージック」なんて呼ばれているものがありました。従来の歌謡曲に対して主に歌い手がソングライターを兼ね、自分で楽器も演奏するような歌をひとまとめにしたものです。RCサクセションもさだまさしもスペクトラムもサザンも、みんなニューミュージック。思えば乱暴な括りです。以前からフォークやロックという言葉はあったのに。
 彼らの音楽はニューミュージックと呼ばれる事で変質したのでしょうか。フォークやロックとは異なるニューミュージックに変わったのでしょうか。
 もちろん違います。それどころか、C−C−Bのようにバンドを組んで自分たちで楽器も演奏しているだけで、楽曲そのものは歌謡曲と同じ作り手から提供されたものもありました。当時と音楽性は大して変化していないのに現在では演歌扱いされている例まであります。
 ニューミュージックとは音楽性に由来する実体のあるジャンルではなく、従来の歌謡曲とは違う事をアピールし、宣伝というか営業戦略上括っているだけのネーミング。棚に並べるための分類でしかなかったのです。
「ライトノベル」もそれと同じではないでしょうか。作品の内実やクオリティとは無関係にある嗜好を持つ消費者層−−有り体に言ってしまえばアニメ・マンガ的な絵柄やガジェットに嫌悪感を抱く事なく、むしろ魅力的に感じる人々への商業的アピールを強めるため便宜的に付与されたコードなのだと。言い方を変えれば『デルフィニア戦記』や『十二国記』の装丁変更バージョンは「別の嗜好を持つ消費者」のために内実ではなくレッテルだけを張り替えて、陳列する棚を変えただけという事なのでしょう。
 余談ながら、イギリスには『ハリー・ポッター』シリーズを本文は同じままカバーデザインだけをおとな向けにしたアダルト・エディションというものがあるそうで。何処も同じ、という事でしょうか。
 実質にマッチしているわけではない「便宜上の分類コード」だからこそ、書き手にも読み手にもいろんな考えが湧くのです。「ライトノベル」が確固とした実体を持ち、定義可能なものであれば、作家も編集も読者も定義された「ライトノベル」らしいものを書き、売り、読めばいいだけの話。
 そうじゃないから、「小説」として書かれたものが「ライトノベル」と呼ばれる事に嫌悪や反発を感じる人もいるという齟齬が生じているのだと思うのです。
(私事で恐縮ですが、私自身は拙作が「ライトノベル」と呼ばれようが「マンガ小説」と呼ばれようが別に平気ですし、声高に「ライトノベル」だと主張したり誇ったりする気もありません。わかりやすさのために名乗りはしますが。それは売る側・買う側の利便性のためであって作品を規定するものではないのですから。どんなラベルを貼ろうと『アニレオン!』は『アニレオン!』だし、『エシィール黄金記』は『エシィール黄金記』なんです。いや、お前そもそも「いわゆるライトノベル」しか書いとらんやないけというツッコミはさておき)

 とは言っても最初に述べた通り、現在「ライトノベル」と呼ばれている小説群にはアニメ・マンガ風のイラストが添えられているのは事実。その事に関しては、書き手にもさまざまな考え方がありますし、どういう形でイラストに関わるのかもレーベルごとどころか編集者ごとに違ってきます。もちろんスケジュールによっても。
 イラストレーターの選定時に小説家の意見を聞き、デザイン等に関しても逐次確認を取る場合もあれば、絵はあくまでも編集の領分であり作家には一切口出しさせないという考え方の編集者もいます。
 私の決して広くない交遊で耳にした分でも、小説家の側だって「あくまでも自分は小説を書いているのであり、どんなイラストがつこうが作品の本質とは無関係」という立場もあれば、口絵の構成や帯にまで積極的にプランを出す人もいますしね。作中の特殊なガジェットや小道具などについては、作家の側が資料やデザイン原案を提出する事も珍しくありません。
 また、スケジュールによってはイラストが先に上がっていて、そちらに合わせて本文を修正したりもします。カバーや口絵などカラーページは先に印刷しなければなりませんし、絵を直すよりも文章に手を入れる方が作業的には融通が利きますから。ストーリーの本質に関わらないディテールなら編集の要求で修正した事も、上がってきた絵を見て自主的な判断でこっそり直した事もあります。
 また、一部に誤解している読者の方もいらっしゃるようなので一応言っておきますが、例外的なケースを別にすると、たとえ小説家に相談があったとしても最終的なイラストレーターの選定をするのは編集者ですし、どの場面を絵にするかを決めるのも編集です。
「ライトノベル」においてイラストが重要と考える読者の方は、もっと編集に注目してもいいんじゃないでしょうか。ファミ通文庫では奥付に担当編集者の名前が明記されていますけれど、この傾向は「ライトノベル」全体に広がっていい事だと私は考えています。読者にしても、作家やイラストレーターのみならず、編集者の名前で指名買いするという選択肢が生まれるのですから。「あの編集者なら、作品に合わないイラストレーターを選んだ事はないし、シーンの選択も好みだから本文も絵も知らない新人だけど買ってみよう」という具合に。

 現状の紹介はここまでにして、ようやく本題へ。
 現在の「ライトノベル」の延長上にあり得る「小説から出でて小説とは異なる新しい何か」を仮に《X》と呼びましょう。何か意味のあるネーミングをしてしまえば、その言葉の意味に思考が引っ張られかねません。
「ライトノベル」という言葉がそうであったように、新しい何かが生まれれば(それが実質を伴うものであれ、既存のものとの便宜上の区別のためだけであれ)それを指す言葉は自然発生や誰かの命名によって生じ、適切であれば受け入れられ、定着するはずですから。無理に作ってそのまま消え去った「E電」とか「実年」なんてのもありましたね。ああ、歳がバレる。
 ここで語ろうとしているのはまだ現世に降臨していない、現在の方向性の先に存在するあり得る未来の話なのですから。もう充分に先走っているのに、勝手に名前までつけるなんてのはやめておきます。

「ライトノベル」の「従来の小説」に比した際の特徴がアニメ・マンガ風のイラストである、という事は前提にしていいでしょう。ならば「ライトノベル」の先にある《X》の特徴もイラストとの関連の中にあるはずです。
 では、単純にイラストの分量を増やし、イラストレーターと作家の打ち合わせを密にするだけでいいのでしょうか?
 それで《X》になるとは私には思えません。それは単にマンガや絵物語、絵本へ近づいていくだけの事です。そのプロセスで「面白い絵本」ができる可能性はもちろん存在しますが。
 では、イラストが主で小説が従? 先にイラストが存在して、それを活かすために小説が書かれたものが《X》?
 これも違うと思います。この着想そのものは試すに足る新しい方法論のひとつでしょうけれど、言ってみればアニメやゲームのノベライズと同じ「イラストのノベライズ」が生まれるだけでしょうね。
 装丁やイラストという、形式上の分類を生み出す差異をはぎ取ってしまえば「ライトノベル」もまた「小説」である事は述べました。ならば《X》に関しても「小説のメリット」を活かしたものになるはずです。
 価格の絶対値が安いというのは文庫本の大きなメリットのひとつですが、楽しみのために読む本は必需品ではなく嗜好品。価値はゼロに近いけれど安いからというだけの理由で買う人はいません。ごろ寝して地上波TV見てるだけならタダなんですから。
 現状の「ライトノベル」の(少なくとも量的な)隆盛は、小説にはマンガや映画、ゲームにはない長所があり、それが受け入れられているからという理由のはずです。

 こうして抽象論をこねくり回していても上手くピントが絞れないみたいですね。私が想定する《X》に近いもの、《X》の足音だと見なしている具体的な作品を挙げる事にしましょう。
 まず、最初の例として電撃文庫の川上稔氏の作品『奏(騒)楽都市OSAKA』を。大前提として『都市シリーズ』は「抽象概念を物体のように取り扱う」というような設定が多数盛りこまれており、小説以外での表現が難しい世界観を持っています。例えば本作で多用されている「技能」描写をマンガやアニメで描くのはほぼ不可能ではないでしょうか。
『OSAKA』のカラー口絵(および目次)は対戦格闘ゲームの取説風になっていますが、これは複数の効果をもたらしています。まず、言うまでもなくキャラクターの紹介。
 そして、作品ムードの紹介。対戦格闘ゲーのスタイルを模す事で本作が戦いの物語、それも異なった流儀と価値観、立場を持つものたちが、個人のスキルのぶつけ合いで戦う話だと読者はごく自然に想像できます。
 しかし『OSAKA』本文の描写は、意外に対戦格闘風ではありません。むしろTRPGの一般行為判定に近い印象があります。これはあるいは考えすぎかも知れませんが、この口絵はやや馴染みの薄いTRPGの行為判定・技能判定の概念を、よりポピュラーな近似の概念である対戦格ゲーのコマンド入力(キャラがポテンシャルとして有していても、それが確実に発動し、効果をもたらすとは限らない)を例示する事で、読者に理解しやすいようにしたのではないでしょうか?
 もし、この推測が正解だとすれば『OSAKA』の口絵は単なるキャラ紹介や本文のイメージを図示するだけではなく、小説本文が読者に与えようとしているイメージを、本文の外から助けるべく配置されたものという事になります。口絵という、本文よりも先に読者の目に触れる場で。
 何しろ登場人物たちにとっては「技能」は当たり前のもの。作品世界内での常識を本文中で説明しようとすれば不自然になるか、大きな負担がかかるかしてしまいます。それを考えれば「口絵」の演出で伝達するというのは、極めて効果的な手法になります。
 これが可能になっているのは、本作のイラスト・口絵までが本文と密接に関わる意図のもとに構築されているからだと私は判断しました。口絵の画像はもちろん、デザインまで川上氏が所属するゲームメーカー・TENKYの名前がクレジットされています。本書が同社から発売されたゲームと連動している事を別にしても、綿密な打ち合わせが可能な制作体勢と川上氏自身がビジュアルに長けている事が、本書の在り方を決定したのでしょう。

 もうひとつの例は、やはり電撃文庫の『撲殺天使ドクロちゃん』です。
『ドクロちゃん』はマンガのようなギャグを小説で描き、しかも小説らしく最適化された作品と言っていいでしょう。物語の語り手が簡単に撲殺されて、しかもすぐに生き返るなんてのは小説にしたからこそ、ギャグの効果が最大になっています(そもそも一人称ってのは、テキストメディアを別にすれば実験映画か一部のアダルトビデオくらいでしか見ない技法ですし。あの内容をアニメやマンガにコンバートしたら、インパクトは小説版よりも小さくなってしまうかも知れません)。
 ですが、本稿では『ドクロちゃん』の別なポイントに注目したいのです。それはアイキャッチです。そう、章の切れ目に入っている「ドクロちゃんと平等院鳳凰堂」とかいうアレ。
 アレって、いったい何だと思いますか?
 単なるイラストではありません。小説本文の何かを図示(イラストレイト)しているわけではないのですから。じゃあ無意味な小ネタかというとそうではなくて「軽い」事を志向している『ドクロちゃん』であのアイキャッチは「読者に集中力の持続を強いない」という素晴らしい効果を持っています。文章を読むというのはどうしても意識を集中させる、多少なりとも疲れる作業です。ところが、あのアイキャッチが入るとまさしくテレビドラマでCMが入ったのと同様に、気持ちが切り替わって集中で生じたストレスが解消されるのです。
『モンティパイソン』『ゲバゲバ90分』などから綿々と続く、短いスケッチを矢継ぎ早に繰り出す事で、観客の気持ちを素速くリセットし、低ストレスで濃いギャグを味わってもらうという手法を小説に導入したのがあのアイキャッチだと思います。
 小説に最初から組みこまれていたのか、それとも発表時のアイディアなのか、不勉強にして知りませんが、極めて有効な手だと言えるでしょう。あれは本文の一部ではなく、しかし本文の効果を高める演出意図をもって存在するパーツなのです。
 また『ドクロちゃん』では巻末の既刊広告や帯をギャグにするという試みも為されています。「びんかんサラリーマン」は『撲殺天使ドクロちゃん』という「小説」の面白さに寄与するものではありませんが『撲殺天使ドクロちゃん』という「一冊の本」の面白さを大きく高めています。アイキャッチに比べれば「オマケ色」が強いものですが、あれも『ドクロちゃん』を語る時には外せない要素です。

 ここまで読んでお気づきの方もいらっしゃるでしょう。私が想像している《X》とは『OSAKA』や『ドクロちゃん』が見せた可能性をより進めたもの。テキストによるフィクションの面白さを主軸に起きながら、それをより効果的にするためにビジュアルやイラスト、ブックデザインまでをも最初から総合的にコントロールし、構築されたものなのです。
 本文に絵を添えるのではなく、本文と絵の連動を、あらかじめ意図して製作された形式。製作というよりも、むしろ「プロデュースされた」と呼んだ方がしっくりくるかも知れません。
 私の狭い読書経験の外まで広げれば、この二作以外にもさまざまな実例があるでしょうね。あるいは、私などには思いもよらない方向からアプローチした作品も。
 ひょっとしてこの《X》が成立した時、作者は小説家ではないかも知れません。単に小説を書くというスキルだけでは実現できないほどの「テキストとビジュアルの連動・融合」ができてこそ「小説」ではない《X》です。
 現代のハリウッド映画が監督ではなく、プロデューサーのものであるように、《X》においては従来の小説家は「テキストライター」として重要な位置は占めつつも、プロデューサーやトータルプランナーの支持を受けて物語文部分を担当するスタッフのひとりになるでしょう。
 もちろん、映画監督が脚本家も兼ねたり、自作をプロデュースしたりするように、テキストライターがプロデューサーの能力も有しているのなら《X》を制作したって構いません。あるいは小説家が自分の「小説」を《X》にすべく、ビジュアルとの連動を設計できる演出家としてのプランナーを指名するというケースだってあるでしょうね。

 長々と言葉を弄びましたが、まだ実際には起きてもいない、現状から想像を広げすぎた仮想の話です。
 けれど、私には《X》の足音が聞こえています。
 そう、それは足音なのです。
 風の音や潮騒みたいな自然現象の音ではなく、明確な意思をもって両足を動かすものの行動の音。
 足音の主が目指しているのが、私のいう《X》の方角だと言い張るつもりはありません。本稿がまるっきりの的外れな妄想という恐れも感じています。
 でも、富士見ファンタジア文庫、角川スニーカー文庫の創刊という、狭義のライトノベルの誕生から数えても十五年以上が経過した現在、これまでの経緯と現状を踏まえ、より面白い「本」を生み出すべく、今に満足せずに工夫を重ね、頭と手を動かしている人がいる。
 それだけは間違いない事だと思うのです。



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