創 世 記
第2回  「メディアがこうも違ってくるとねぇ……」



 氷室・新井両氏の偉大な業績について語る前に、まずは、その当時の種々のメディアの状況について喋っておきましょう。間接的ではありますが、けっこう濃厚に関係あると思うので。
 そして、いまとは、すべてがあまりにも違ってるので。

 たとえば音楽ですが。

 えー、ビートルズの結成が1962年(わし三歳じゃ)来日あんど武道館公演は66年。
 ちなみに解散は70年。こうしてみると案外短い期間の活動だったのじゃのう。
 が、しかし、その人気は衰え知らず。

 わしの大学時代の友人某は、日本におけるビートルズ公式ファンクラブのスタッフっていうか幹部を、高校在学中に! やっておったそうです。こやつはこやつで、きっぱり早熟な音楽オタクですね。ジョン・レノンが亡くなった時(1980年12月8日。日本では9日)には、およそ欠席などしたことのない優等生の彼女が授業に出てこなくて、まさか後追い自殺しているんではないかと心配したものです。大丈夫でしたが。彼女はのちに、洋楽担当になりたさに某レコード会社に就職して、不運にも? 柏原よしえさんとか、あみんとかの担当になりましたですが(笑)当時のあみんのサイン色紙の9割は彼女が「そっくりに」書いたものなはずです。バラしちゃいましたが、時効ですよね? だってタレントさんは忙しいし、サインって疲れるんですよ。密室空間で大量にやると、マジックインキのシンナーでトビそうになるし。

 ローリングストーンズ、レッド・ツェッペリン、クィーン、エリック・クラプトン、ロッド・スチュアート、ミッシェル・ポルナレフなどなど、「洋楽」をフツーに聞くひとが増えていったのが、70年代から80年代にかけて。
 しかし、いいですか、若者のみなさん。当時はミュージック専門チャンネルはもちろん、MTVなんつーものはは、まだなかったのです。プロモーションビデオも、ほとんどなし。
 海のむこうでは、エド・サリバン・ショーとか、サタデー・ナイト・ライブとか、モータウンTVとかあったんじゃないかと思いますが、そーゆーもんはほとんど入ってこなかった。せいぜい、モンティーパイソンがビデオになって字幕つきで輸入されたぐらいです。

 音楽というのもは、ラジオかテレビかLPで聞く、のが、ほとんどスベテだった。
 ミュージシャンの演奏っぷり、あるいは、カッコいいルックスを目にしたいと思ったら、『ミュージックライフ』などの雑誌を眺めるか、必死にチケットをとってコンサートにいくか、ミュージカル『ヘアー』ツェッペリンの映画『狂熱のライブ』などなどを見るしかなかった。(ビートルズは、「ロック映画」の発展にも、とーぜん大きく寄与しているわけですね)。

 その頃日本音楽シーンがどーだったかというと、ハイ、フォーク全盛です。(いや演歌とかもあったわけですが、あくまで若者の関心っつーことでいうと)。
 GS(グループサウンズ)ブームが下火になって、吉田拓郎、かぐや姫、GARO、山崎ハコ、青い三角定規、五つの赤い風船、ペトロ&カプリシャス、甲斐バンド……まーいろんなかたがドッと出ました。このへんまではフォークだと思いますが(甲斐さん怒るかなぁ)、だんだんニューミュージックが混じってきます。さだまさしさんとか、オフコースの小田さんとか、ツイストから独立した世良正則さんとか、もちろん井上陽水さまとかユーミンとか、いまもバリバリにがんばって生き残っておられるかたがたも多数ありますです。
 ちなみにわがふるさと岩手出身に、NSPという伝説のバンド、いや、えーと、フォークグループがありまして、これが泣けるんですよ。『夕暮れ時は寂しそう』とか(泣)。今調べたら、なんと21世紀に復活して、去年なんかDVD出てます。うわー。買っちゃおうかしら。

 以上、地元びいきでした。

 えー、ヤマハのポプコンが「あみん」を出したのがえーと、わたしが大学を卒業するころなんですが、
 こういった音楽を支えていたのが「ラジオの深夜番組」です。

 これにはすみませんわたしは詳しくない。




 ウチはかーちゃんが厳しくて、自分のラジオなんてもってなかったし、そもそも夜十時を過ぎたら良い子はグッスリ寝てなきゃいけなかったんで。  でも、パックインミュージックとか、オールナイトニッポンとか、いろいろあった、らしいです。
 で、そこでは、リスナーからの「ハガキによる投稿」がひじょーにさかんだった。
 たとえば『タイコメ』というお下劣なもんを覚えております(のちに本にまとめられたのを悪いともだちに見せてもらった)。
 これは、たくみな「逆文」をつかって、エッチなこととか、下品なこととかを言うという、深夜番組ならではの「芸(っていっていいのか?)」でした。
 もとは「タイツリブネニコメオアラウ」という謎の文章でした。ヤマモトコータローさまの番組だったかなぁ。これ、さかさによむと……ハイ、わかりますね。でもまだやや格調高いというか、現代文的ではありません。でも、この可能性に大喜びしたリスナーがこぞって知恵を絞り、いろんな名作?を生み出しました。いきなりタイコメ文があるだけではなく、そこにいたるまでの「ものがたり」もありました。で、最後にキメのタイコメ文が来るんですね。あっしが覚えてるのは、かたせ梨乃さま(いまではろうたけた熟女さまですが、当時はお若かったのですね)が、何故かイタリア旅行をなさり、そこで、素晴らしい踊りを披露する、「イタリヤデリノマウ」さかさまに読むと……アホくさいですねぇ(笑)でも、当時の若者はこーゆーので充分大笑いしていたのですね。

 はやくも音楽から話がズレてしまいました。

 ついでにどんどこズラしていくと、『ぴあ』という情報雑誌がまた、この系譜です。
 いまのワカモノにはたぶん、チケット屋さんとして認識されているだろう『ぴあ』ですが
 その歴史はこんな感じです。

 70年代の若者にとっては、ほとんど「完璧」な情報源でした。
 ゆっときますけど、インターネットはおろか、ただのパソコン通信すら、まだなかったんですからね!
 わたしも毎週買っては、新作映画案内と、都内のあまたの映画館のどこでなにをやっているかを蛍光ペン片手にチェックしまくり、たとえば「上板橋東映」とかで「ホルスの大冒険」と「わんぱく王子の大蛇退治」がかかる! などという嬉しい情報を手にいれては、スワとばかりにでかけていって、そこがまたふだんはポルノをやっているところだったりして、あえぐおねーさんのポスターにびびり(当時の処女なんてそんなもんです)クセでうっかり紛れ込んできちゃったけど今日はターゲットになりそうなのがいねーなぁとたぶん思っているのだろうどうみても痴漢のおじさんがトイレ前のボロいソファでチビたタバコをふかしてグレてるのを見て、人生ってたいへんそうだなぁと思ったりしました。
 はたまた、「はみだしyouとぴあ」という、欄外の一行冗談コーナーのようなものがあって、もちろんそれらも熟読し、ときには投稿したものです。

 で、ですね。


久美蔵
久美沙織氏運営の個人ページ。写真つき『くみくま日記』は毎日更新。他にも多くの情報が詰まっており、ファンならずとも必見。

 これらすべてから汲み取って欲しいのは、当時、「作品」というものは、味わわせてくれる場所あるいは時間にあわせて出かけていって、そこで必死に集中して味わうものだった! ということです。
 拙サイトの「まくら」の「ザ・スニーカー」のゲーム小説特集アンケートの全文掲載部分にもかきましたし、『ダヴィンチ』の「シネマ・ダヴィンチ」に呼んでいただいたときにも申しましたが、

 あのころのわたしたちには「所有」はありえなかった。

 制作費何十億とかいう大作映画や、好きなタレントのプロモーションビデオを、レンタルビデオ屋でほんの数百円で借りてきて、好きなときに家でみる、なんつーことは、できなかった。
 まして、レンタル落ちあるいは海外輸入海賊版の格安DVDを買う、なんてことはできなかった。

 すると、どうなるか?


『宿なしミウ』
著 久美沙織
集英社文庫 (1981)

「ブルース・リーの映画にべんと持ってって朝から晩まですわってたじゃねぇかッ」
(拙著『宿なしミウ』収録「俺たちに目出度目出度ハリウッドエンディングはない」より)

 ということをやるわけです(当時の映画館には入れ替え制もまだなかったので)。

 わたしは『カリオストロの城』をはじめて映画館でみたとき、すわったきり、三回みました。
 映画にかぎらずです。
 『未来少年コナン』の再放送があれば、コンパの誘いもお茶の誘いもみんなことわり、猛ダッシュで大学を飛び出して修道院付属女子寮(だったんです)にかえり、午後五時の薄暗い部屋のかたすみの一台しかないテレビのチャンネルをそれにあわせ、椅子を画面まんまえに据え付けて、なるべくマバタキをしないようにして、両手を握りしめて、集中しまくって観たわけです。

 もちろん、音声収録テープは既にありました。我が家にはオープンリールのそれもありました。
 好きな番組の主題歌とかを録音したいときには、家族に「ぜったいぜったい音をたてないでよ!」とかっていって(だってテレビに、アウト端子がついてないんです)息をころしてスイッチオン、すると、そーゆー時にかぎって、電話がかかってきたり、トーフ屋が「♪とーふーい」とかラッパをふきながらそこらを通ったりするんですよねぇ。

 8ミリ映写機はありました。そうとうなお金持ちのスキモノじゃないと、とても持てないものでしたし、なにしろ一本の収録時間が3分なんですから、30分番組を全収録するなんてゼイタクはこどもには、まず、ぜったいに、できないことでした。

 SONYのBetaMax J7が発売になったのが、1978年です。わし大学一年です。
 25万円しました。
 公務員の初任給の二倍以上です。

 ちなみにβはその後、VHSとのシェア争いに完敗してしまうわけですが、それはさておき、この頃、「家にビデオがある」子がどんなにすごかったか、わかるでしょ?

(ちなみに、70年代にはさすがにカラーテレビのほうがフツーになってましたが、まだシロクロのしかもってないご家庭もなくはなかったと思います)

 で、なにが言いたいかというと(よそでもすでに何度かいっていることですが)
 誰かのクリエイトした作品のうち「いつでもどこでも比較的安価に手に入って、自分の好きなタイミングで味わえる」ものっつーのは、ちょっと前までは「書籍」「雑誌」だけだったんですね。
 図書館っつーのは、太古の昔からありましたし。
 その他、音楽、映像などなどは、好きだと思ったら、とにかく集中して、一瞬たりともみのがさないように、一音たりとも聞き逃さないように、五感を研ぎ澄まさなければならなかった。
 ゲームは、喫茶店にいって、100円いれて、やらなければならなかった。




『エースをねらえ!』
テレビ朝日開局45周年記念ドラマ。毎週木曜よる9時放送(2004/3/11終了)。7月23日にはDVDが発売される予定。
ドラマ公式ページ
原作本『エースをねらえ!』

 電話もそーだなぁ。
 こないだ、上戸彩で実写版にリメイクした『エースをねらえ!』には、ケータイ電話を使うシーンがいっこも(たぶん。実はわたし最初から全部みてたわけじゃないんですけど)出てこなかったのに、あなたは違和感を覚えなかったでしょうか?
 わたしは、アニメ版『エースをねらえ!』で、ひろみの部屋に「自分だけの電話」があって、ベッドにごろごろころがってネコをかまいながら、ともだちと電話でダラダラ長話をするのを見て、「隔世の感」を覚えた世代です。

 わしらの子供のころ、色気づきはじめた中高校生の頃というのは、電話機というものは家じゅうに一台しかなくて、たいがい居間とか茶の間にあって、子機なんてものは存在してなくて、かかってくると近くにいる誰かが、ともするとママやパパが取る、すると、気の弱いボーイフレンドなんつーのが
「あの……く、く、くみさんを……おねがいしたいんですけど……」
 なんていうと
「どちらさま?」
 なんて聞き返されて
「あ、あの、すみません、いいです」(がちゃん)
 だったりしたわけです。

 もっというと、わたしが小学生の頃は、家に電話がないウチというのがあたりまえにあって、オオヤさんちとか、近所の誰とかさんちで「呼び出し」を頼んだりすらしたんですよ!

 こどもあるいはティーンエイジャーというトシゴロの(つまり社会生活をまだ営んでいないはずの)人間に「個人としてのプライバシー」が確保されたのは、ごくごく最近になってからのことなのだ! ということを、おさえておいてください。
 この辺でも、脳みそ、違うと思いませんか?

 これこのように、わたしたちの生きてきた時代は、連続していながら実はかなりそーとーに違ってきてしまった。
 映画館でケツが痺れるのもかまわず三回連続凝視しまくったわたしたちと、
 「ビデオ、レンタル、あたりまえ、小学生になったらコンシューマー機を買ってもらい、ちょっと遊んだゲームはウッパラって、別の買う」時代に育ったひとたちの
 脳みそ
 は、もうぜんぜんまったく違うはずだ! というのが、わたしがこのところ痛感していることなのであります。

 人間、どーしても「自分」の育ってきた環境とか、文化が「あたりまえ」だと思うもので、イマドキノワカモノのことは、エジプトのパピルスにすら「だらしない」とかかれてるわけで、いつでもどこでも誰でも自分より若いやつは「ずるい、らくしてる、ずーずーしい」と思うものと相場がきまってるわけですが、それにしもここの変化は大きかった。
 そーゆーことをわかった上で、それでも言わせていただきますが、わしらの「消費」はまだユルかった。
 いまのみなさんは、なんでもパカスカ「消費」しすぎる傾向がある。
 ちょっとやってみて、やだったらすぐに捨てる、すぐに欲しがるけど、便利につかうけど、愛着はもたない、執着はダサいから、あまり本気でアツクなったりせず、いらなくなったらすぐに捨てる。
 なにもかも、まるで「使い捨てカメラ」のように。
 だって、いるときは、五分もあるけばコンビニか駅にたどりつくし、そこで売ってるもーん。
 みたいな。
 ちがいますか?

 でもって、「文字作品」っていうのは、消費にむかないんですねぇ。
 なにしろ、じっくりゆっくり読まないといけない。映像作品のように瞬間的にパッと見て理解して、好きかキライかを決めたりすることができない。しかも、「それまでの蓄積」がものをいう。

 活字のつらなりを理解するには、文脈と、行間を読む必要がありますから。
(映像にも文脈みたいなものはありますけど、ま、いちおー)
 ある単語が、どのような場合にどのように使われ、どのようなニュアンスを持つものであるかについての知識がなければ、その単語を理解することはできません。
 でもって日本語っつーのがまた、狭いムラ社会で、ほぼ単一民族の「根回し社会」で流通してきたものなので、「額面上の意味」と「隠された意味」、ホンネとタテマエ、無意味な挨拶的言語と、真剣にそのひとのタマシイから出てきたコトバなどなど、じつに重層的に複雑な構造をなしているわけです。




















(C)新潮社
『バカの壁』
著 養老孟司
新潮社 (2003)
→bk1 →ama →楽天

「ばか」
 というヒトコトを考えてみてください。
 あなただって何種類も使い分けてるでしょ、日常で?
 マジギレ寸前の「ばか」。
 テレぎみの愛情のこもった「ばか」。
 うんざり疲労感の「ばか」。
 しかし、表記すると、みんな同じ「ばか」ですね。
 どのニュアンスでいっているかは、どのキャラがどんな場面でいっているかによって変わる。
 そしてまた、そのキャラがどんなキャラであるのかは、そのキャラがそれまでに言ってきたコトバややってきたことなどなどから、類推される。
 だもんだから、「馬鹿」とか「バカ」とか「莫迦」とか「ばか」とか「いやンばかん♪」とか、いろんな工夫をしたりはするわけですが……それにしても、「ばか」は「ばか」。
 この「ばか」のビミョーな区別がまるでできないやつがいるってえことを、みなさん痛感しているから『バカの壁』がベストセラーになるわけですね。

 ですが、……たとえば
「あんた、バカぁ?」
 と書くと、アレをみたことのあるひとは、必ずや、惣流・アスカ・ラングレーの二次元画像(その発言をした時の表情つき)と宮村優子さまの声が「同時に見えるし聞こえる」。

 というような「ジョウシキ」あるいは「共通の認識」をおのずと持っている同士でのみ通用する表記、あるいは、読者に「そのような認識を期待する」表記、これがいまや書籍界にもどんどん乱入している。
 わたくしめは、いまどきのいわゆる「ライトノベル」というものは、つまり、そのようなものである、と定義できるのではないかと思うのです。
 生まれたときからビデオもCDもへたすると家にパソコンもあって、それらを使いこなすことがあたりまえで、であるからしてすべてのメディアのクリエイト作品をともすると「消費」しがちな脳みそを形成してきてしまったひとたちの、ひとたちによる、ひとたちのための、作品なのではないかと。

 これは、おーきくでちゃうと「文章表現という表現形式における鬼っこ」状態です。


(C)徳間書店
『新人賞の獲り方おしえます』
著 久美沙織
徳間書店 (1993)
小説を書く人だけにとどまらず話題沸騰。続編『もう一度だけ新人賞の獲り方おしえます』『これがトドメの新人賞の獲り方おしえます』とあわせて斬新な創作をめざす人には必読の書。 →bk1 →ama →楽天

 『新人賞の獲り方おしえます』三部作の中でわたくしめが口を酸っぱくして言った(いや書いた)のにいまだに新人賞の応募作品の多くが、どーしてもやっちまいがちなのが、このアヤマチです。

「誰にでもわかるように書け、あんたのおかあさんにも、カドのタバコ屋のばーちゃんにも、遠くはなれた別の県のひとにも、十年後のひとにも、読んだらちゃんとなにがかいてあるのか間違いなく理解できるように書け!」
 これがわからない、できない、そーゆー日本語が使えない、なのに、「小説」を書こうとして、実際に書いちゃって、自分ではデキがいいじゃん! と、幸福にも思ってしまうらしいひとが、あとを絶たないんすねー。

 歌を歌うのがすきだからって、歌手にはなれないでしょ。
 お風呂場でハナウタ歌うのが好きなのなら、歌ってればいい。
 でも、ひとに聞かせようとするなよ。
 カラオケ屋さんでナカマウチで楽しんで盛り上がるならいい。
 でも、それでプロになれると思うなよ。

 ……とかいってたら……あまりにも「あんた、バカぁ?」でオッケイで、というか、そのほうがスキなぐらいのひとたちのパイがでかくなり、その中だけでも充分商売がなりたつようになってしまったように見える今日この頃だったりはするんですけども。

「よくって? わたくしたちは、けっして、いまの目の前の読者にだけ書くのではないの。十年後、二十年後の読者のかたがたに向けても、書かなくてはならないの。そうでないなら、わたくしはあなたを軽蔑してよ、わかった、ひろみ(←?)」

 と、ある時わたくしめにおっしゃったのは、お蝶夫人ではなく、金髪巻き毛でもなかった、希代の天才小説家、氷室冴子せんせいでした。
 というわけで、ようやく話が前の続きに戻りそうです。


原稿受取日 2004.3.22
公開日 2004.4.18
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