創 世 記
第6回  「一ツ橋VS音羽」



 「このラノ」サイト上では、いわゆる「ライトノベル」を、角川系、その他、♀、に分類なさっておられるようざますわねぇ。なるほどねぇ。いまってばそういう時代なんですねぇ。

「セーラー服と機関銃」
赤川次郎原作・相米慎二監督の角川映画。薬師丸ひろ子の人気を決定づけた傑作であり、挑発的な演出の妙で大ヒットを飛ばす。

 ちなみに、前回わたくしめは「集英社だぁー!」と叫んだりなんかしておりますけども、すくなくとも当時はですね、角川さまはほとんど「その系列」の方面には関係ありませんでした。赤川次郎先生の『セーラー服と機関銃』が映画になったのが、昭和57年、つまり1982年。このあたりから突如「参入」されたので、それ以前の角川さまは(特に映画とタイアップで大爆発したのは)きっぱり横溝・森村・大藪路線だったのでございました。

 さて集英社。ちなみにこちらに社史がございます。

 そう、集英社は、小学館の「子会社」(っていいかたはまずいの?)だったのですね。
 小学館が「ドラえもん」で儲けたので(たぶん)分家したんでしょう。
 ちなみに小学館の社史はこっちです。いやーこちらも歴史ながいですねぇ。

 URLにたよってばっかりですみません。
 偏見なく正確なとこを把握していただくには、公式ホームページが一番ですから。

 でも、こーゆーのばっかだと、みなさまもつまんないと思うので(笑)あくまでわたしがなんとなく知ってることを申しますね。
(勘違いとか、ひょっとすると失礼にあたることがあったらごめんなさいなんざますが)

 ある時期、「こども向け路線の版元」には二大派閥がありまして、一ツ橋系と、音羽系でした。
 東京に住んでないひとにはなんのことかわかんないといけないので急いで説明するとコレは地名です。
 一ツ橋というのは、御茶ノ水駅から坂をくだって、古本屋さんなどのとっても多い神田・神保町の交差点から、竹橋インターつまり皇居の方角に向かったほうです。ここに、小学館と、集英社と、白泉社と、
 祥伝社とかがあります。他にもいろいろあります。なにしろ書店街ですから。

神田地区出版社一覧  (BOOK TOWN 神田

 なんで「神田系」のリストに河出書房新社があるんだろう? 
 たしか「国立競技場」のそばだったと思うけど?

 音羽・護国寺方面には、講談社があり、東大(本郷の)とか御茶ノ水大学とかがあったりします。実は「一ツ橋」と「音羽」は、距離的にはかなり近いんですけど(神田の最寄駅が御茶ノ水だってあたりから類推してください)でも、このふたつの「ナワバリ」は、何故かどーしてもキッパリと別々なのでした。
 なぜ、ここに、日本でいちばんでかい(社員数とか圧倒的)出版社であるところの講談社さまがあるのか、それが「原因」なのか「結果」なのかはよくわかりませんが……。
 わたくしめが最近とってもお世話になっている光文社さまも、講談社のすぐご近所にあります。なにしろ光文社の公式サイトで「会社の場所」を調べようとすると、講談社がデカデカと乗ってるぐらいですから。でも、音羽系ではあっても、モロな子会社じゃないみたいですね。ナマエもちょっと(漢字でみればともかく音でいうと)似てるんですけどね。
 ちなみに講談社の社主さまであらせられた野間さまのお持ちになっておられた土地のほんの半分ぐらいをゆずってもらって建てたのが、あの結婚式場、メジロの「椿山荘」だ、って聞いたような記憶があるんですけど、正しい? それは田中角栄さんち(いまはマキコさんち)のとなりのほうです。半分もってかれても、まだものすごい面積です。
 大講談社さまの公式サイトはこちら会社案内のとこみると面白いですよー(笑)なにしろ最初が「大日本雄弁会」なんですから。

 でもって……すみません。わたしは講談社はさっぱりわからんのです。ほとんどおつきあいないし。
 一回つきあいかけたら、……いやこの話は、するとしても、ずーっとずーっと後ですることになるでしょう。
 ともあれ、すみません、わたしは一ツ橋方面のほうのことしかよーしらんのです。
 なぜか? その理由もあるのですが、もうちょっとあとのほうで説明しますね。
 その前にぜひご紹介したいのですが、

 我らが集英社の社歌には

♪ おおパイオニア! われらパイオニア(うろおぼえ)

 とかって部分があって、「家電メーカーなのかオノレは!」と思わずツッタミたくなるぞ、ということです。(くだらねー?)
 もちろん、開拓者という意味だとわかってますけどね。なにもわざわざ有名他社のナマエをサビにいれなくったっていいんじゃないの? って思いたくなりませんか?

一本木蛮
漫画家でありながら、自身の写真集やビデオを出すなどマルチな才能を発揮する。コスプレの印象も強い。
公式 : 一本木蛮電脳公司

 社歌といえば(話がどんどんズレますが)学研はすごいですよー。
 いまでもそうかどうか知りませんが、あのですね、わたし一時期学研でバイトしてたんですね。
 小説書きだけで食えないときに。学研「高3コース」が「降参」に通じるのでよくない! というので「Vコース」と誌名変更したおりしもその年、読者欄の「コメント」とかを書くバイトを、なぜかやらせていただけることになりまして。その時、毎月すんごいうまいイラストをばんばん応募してくれていたのが一本木蛮ちゃんで、当時からそのペンネームで、当時から顔もいまとほとんどかわんなかったですねー(あんまりしょっちゅうハガキくれるんで、アソビにおいでよー、とかいって、あそびにきたら、まぁかわいいコでびっくりしました)。
 で、読者欄のマトメなんていうのは月に一度、一日いけばすんじゃうぐらいのシゴトなんですが、まぁ朝からいってますよね。すると昼休みになる。すると、学研の社員のみなさんは「ざぁーっ」とシオがひくようにいなくなって(おそとにゴハンたべにいくんですね)今日じゅうにシゴトしちゃいたいフリーの人間だけが残る。そこに、校内放送ならぬ、社内放送がかかるんですね。「学研音頭」が。
 全部は覚えてませんよ。覚えてませんけどね。三番ぐらいまであるんです。でもってサビのとこが

♪ ほ〜れトコトン、ほれトコトン、学研音頭で ほれトコトン!

 これはもうメロディーラインと歌詞と共に(なにしろ三番ぐらいまで何度も何度もくりかえされるので)脳みそにくっきりと刻み込まれてしまって一生わすれられそうにないですね。
 学研で(フリーで)働いた経験がある! という人間同士がパーティーなどでバッタリ出会うと、思わず「音頭!」と互いに互いをゆびさしあって(お行儀悪いです)手拍子をうちながら(ときどきスリながら)いっしょにこのサビの部分を歌わずにいられません。「おお、同志!」って感じですね。

 ちなみに夕方五時になると、学研の正社員のかたがたは、これまた、ザザザーッと、はげしく引き潮になってさっていくのです。残るのは、フリーの人間だけ。(わたしたちの読者欄の担当だった編集者のかたは、幼いわたしをあわれにおぼしめしてか、たまにちょっと残っててくれましたが)真夜中までかかってシゴトをして、そこらで夜食を食べて、もう終電も終バスもない時間なので(当時わたしは下北沢にすんでいたので、実は学研へは電車ではおっそろしく不便なルートだったが、バスなら環七で一本だった)、タクシーにあいのりしてかえりましたっけ……ねぇ、サカモッチ? (サカモトさんという、プロのフリー? 編集者のかたが強烈にサポートしてくださっておられたんですね。わたしの前任者であった「まついなつき」さんの時からずーっとやっておられたので、いっぱいいっぱい教えてもらいましたです)。

 さてよーやく「なぜわたしが講談社に詳しくないか」を説明するこころの準備が整いました。
 それは
 「ナワバリ意識」のせいです。


「ハレンチ学園」
永井豪の出世作。当時としては過激な内容で非難をうける。その反論として後半で文部省とハレンチ学園間で戦争を勃発させるなど、マンガ方法論を破壊する傑作とも評される。

 集英社というのは、もともと、マンカでアテた会社なんですね。
 わたしらが小説ジュニアに参加したころは、あの少年ジャンプが、ハレンチ学園で、PTAの目のカタキにされていた頃でございました。少女マンガ系には、りぼん、マーガレット、ぶ〜けなどなどがありました。

 わかってるひとはわかってると思いますが、少女マンガの「絵柄」にこそ、一ツ橋系と音羽系の違いがクッキリハッキリみてとれるものだったりします。
 でもって、わたしは、「りぼん」と「別マ」と「花とゆめ」がすきだったんです。
 だから、どーせなら、集英社でデビューしたい! と思うじゃないですか。

 ところが……そこは……いまは知りませんよ、そんなことないかもしれませんけどね、少なくとも当時は、「虎の穴」でございました。

 実はマンガ雑誌社としては後発だった集英社が、『ジャンプ』で大成功するにいたった秘密?作戦には、「友情・勝利・あとなんだっけ?」の三原則をあくまでもどの作品にもかならず貫くという大原則と、読者アンケート結果をおもいきり重視する「徹底した実利・実力主義」がありました。
 人気が落ちたら、どんなに実績のある有名マンガ家でも、切る。
 たとえばアンケート最下位が三回続いたら「連載のどんなに途中でも、無理やり話をねじまげてでも、できるだけ早く終了させ、連載をやめさせる」。
 それが集英社の「社是」でした。
 そのかし、まったくのポッと出の新人であっても、読者人気のトップをとればたちまち扱いがよくなり、当然大もうけ、巻頭をかざり、表紙をかざり、コミックスはどんどん出してもらえるわけです。

 少年マンガの場合、モチコミ原稿や、新人賞の応募ももちろんありましたが、「偉い先生」「尊敬する先生」のアシスタントにはいって修行をつみ、誰かがうっかりシメキリに遅れたり、原稿をあげないうちにどこかに雲隠れしたりしたら(これを業界用語で「○○先生急病のため、休載します」などといいます)、すかさず、かねて「そんなこともあろうかと」用意してあった短編作品をさしだして載せてもらう(これを業界用語で「火事場泥棒」といいます)テがあった。ていうか、それ、わりとふつうで。だからほら、少年マンガって「そっくり」な絵柄のひと多いでしょ。

 少女マンガ家さんの場合はある意味もっと過酷だったかもしれない。地方在住の才能あるティーンエイジャーがですよ、新人賞などに応募して、目をつけられると、とにかくまず高校を卒業したら、上京をすすめられるわけです。そして誰ひとり知人も友人もいない都会で、出版社がさがしてきたアパートの一室などにとじこめられ、書くべし、書くべし、書くべし……! になったりする。なにしろ週刊のペースっていうのはそりゃ地獄ですからねぇ。毎日、ただただ、描く日々。会う人間といったら、アシスタントと、担当編集者(←ふつう、マンガ家さんのところにとりにいきます。なぜなら、地方出身のウブなマンガ家さんは、東京の複雑な交通網を使いこなせないからです……偏見)だけ。そーして、男子といったら、担当だけ。で担当とデキちゃって、でもその担当は、師匠すじにあたる別の先生ともとうぜんデキていて、おそろしいシュラバがくりひろげられたり……したこともあるかもしれない。いや、ウワサですよ、ウワサ。
 そのような、「拉致監禁」状態の少女マンガ家さんたちが、唯一、ハメをはずせ、天下におのが名と作品のとどろいていることを実感できる場所が出版社主催の「クリスマスパーティー」とか「新春恒例パーティー」とかで、ゆえに、まぁ、その絢爛豪華なことといったら(だって、お衣装にぐらいしかおカネつかいみちないんですから)。とあるパーティーでは、とあるすっごい有名で超一流なマンガ家の先生が、「さんど」お色直しをなさったのをわたくし、目撃したことがあります。

 一見関係ないような話題が続きましたが、いやいや、実はこれが多いに関係あったんですね。

 小説ジュニアの「新人」たちに対して、集英社は(たぶん他社もですが)、この「少女マンガ家」にあてはめられていたシステムを、そのまま、適応させたからです。

 人権意識とか、著作権意識とか、作家の共闘体制とか、ネットによる横の連絡とか、そーゆーものがまだ未発達、いや、へたすると皆無な時代。

正本ノン
小説家。代表作に『風物語 in 横浜』『あいつ』『だってちょっとスキャンダル』 『九月、雨あがりの街角で』などがある。



田中雅美
小説家。『淫虐の爪』『悪虐の宴』『わななき』などがある。

 しかもです。何度もいいますが、わしらの世代には「おねえさんおにいさん」がいなかった。
 いらしたのは、雲の上のような「大家の先生がた」ばかりで、当然のことながら、そういうかたがたとわれわれチンピラは、「ごあいさつ」ていどはできても、親交なんて結べません。まったくぜんぜんハナシなんてあわないしさぁ。こわくて、目もあわせられねーっすよ。
 で。
 海千山千の、『ジャンプ方式』で親会社である小学館を上回りつつあってハナたーかだかだった編集者のおじさんたちは(おばさんもおられましたが少数)、わしら「新人」の「おとうさん」ぐらいのご年配でした。
 さからえると思いますか?
 わしらが、太郎次郎の「おさるの次郎」状態になっていることに「気づきもしなかった」としても、しょうがないと思いませんか?
 なにしろ、書かせてもらえるだけで嬉しかったし。雑誌に載せてもらえるだけで、天にも登るようなココチだったし。おじさま担当に、おじさま担当ゆきつけの謎のバーにつれてってもらって、のめないお酒の相手をしたり、まっさきに覚えたカラオケが『裕次郎系デュエット』だったとしても、無理ないと思いませんか?
 ええ、そうです。わたしらはオボコかったです。わたしだけやないと思います。
 正本ノンちゃんも、田中雅美ちゃん(わたしが『プララブチャ』を載せてもらったときに、同じランクつまり佳作でデビューなさいましたです)も、素子も「東京生まれ東京育ち」だし、わたしも「半分盛岡半分東京」育ちなんですけど(そういえば氷室さんは北海道なんだけど……)それでも! みんな、ウブだった……ああ、なんて純情だったのでございませう(遠い目)。 
 わたしなんかデビュー時大学一年生ですからね、就職活動しようかどうしようか迷ってるときに巻頭長編かかしてもらえちゃって、よーやく文庫も出て(あっそうそう、当時はね、新人はいきなり文庫一冊なんてかかせてもらえないんですよ。さんざんスパーリングさて、担当さまにダメだしをされて、ようやくヨシといわれてはじめて、出していただけるのです。わたしのばあい、デビュー短編から、文庫まで、二年半かな、三年かな、そのぐらいかかりました)。
 ようするに、あたしって、「はみだし」もんなんですね。
 「社会」に出たこと、一度もないもん。
 ガッコーの生徒から、そのまんま「作家」。
 それも、オトナな編集さんの言うことを「ハイ、ハイ」って聞く、生徒みたいな作家。

 ふつうのオトナな世界のことなんてなーんにも知らないまま、しかも、「仮想設定読者・15歳女子・地方在住」相手の小説をかきまくってたんですから、そりゃー、成長なんてしないです。世間知なんて、なーんにも身につきません。そういうわたしにはやがて……遠からず……限界がくるのです。

 ちなみにいまのうちに書いておきたいことがもうひとつ。
 小説ジュニアというのは、集英社の中では「お荷物」部署でした。
 わたしたちが入所(おい)するまでは。
 小ジュ編集部のひとは、廊下の「まんなか」を歩くことはできなかったそうです。
 『ジャンプ』とか『明星』とかのひとがズンズンズン! と歩いてくると、サッとすみっこのほうによけて、そちらさまを先に通してさしあげなければならなかった。
(大名行列かい!)
 しかーし!
 氷室さんのクララとアグネスがあたり、新井さんの星船があたり、コバルト文庫のウレユキがぐいぐいぐいっと右肩上がりになっていくと(なにしろ最初が最低ラインだったんですから、そゃー、いくらでもあがります)、編集のかたがたは、ムネをはって、廊下の「まんなかを!」他の雑誌や単行本の部署のやつらを「ワキにおいやってどかしながら」歩くことができるようになった! のだそうです。
 このハナシをわたしは、担当(酔ったとき)から、何度も何度もきかされました。
 スミッコに追いやられていたときがどんなに悔しかったか、いつか見返してやる、いいや猟銃で撃ってやりたいと(そう、某担当さまは銃所持許可をもっておられるアウトドアなかたでした)思ったことだってなんどもある、とおっしゃっておられました。
 だったら、その結果をもたらしたワシらをダイジにすりゃーええやんか、と、思いますよね? 思いますよね、あなたも?
 でも、そうじゃなかったんですね。
 「囲い込み」したんです。「エンクロージャー」です。少女マンガ家たちにしたように。

 他社でしごとをしてはいけない。
 よその編集にあってはいけない。
 時間的余裕があるなら、とにかく一冊でも多く、ウチにかけ!

 わたしたちはそういわれて、戦闘のまっただなかに、ズイズイ追いやられたのでした。
 ほんのひとにぎりの、新人たちが。

「あゝ野麦峠」
山本茂実のノンフィクションが原作。野麦峠をこえて製系工場に働きにでた少女達の姿を描く。その過酷さが大反響を呼んだ。

 いいえうらんではいません。それがどんなにいい経験だったか、よくわかります。
 なにしろ、作家、いなかったですからねー(笑)てっていてきに、数がたりなかったんですね。
 だから、へろへろの、ホヤホヤの初年兵でも、最前線で戦わなきゃならなかった。
 映画『あゝ野麦峠』をみた時、わたし、号泣してました。あまりにそっくりで。
 イナカから借り集められてきたけなげな少女たちは、劣悪な環境で一列にならんで、カイコを煮るひどい臭気の中、朝から晩までただただ働いた。効率良く、カイコさんから絹糸をつむぎだすことのできるコは、すごくほめられて、お給金もいっぱいもらえました。ダメなやつは、ののしられ、オシオキされ、さらには健康を壊して死んでゆきました。中には、「上司」であるオジサンたちとイイナカになったりなんかしてうまいことトクをするやつとかもいたりしました。

 しかし、日本の産業革命は、その少女たちの苦闘あってこそ、起こったのですーーー!

 ……というとなんだかひたすら悲惨だったみたいですが、んなこたーありません。
 もちろん、楽しかったよ。スッゴイ楽しかった。チャレンジって楽しいんだもの。

 だって、「なにやってもよかった」の。あのころは。なにしろ、ほら、前にいったように「おにいさんおねえさん世代がいない」から、とにかく「きみたちの感覚」でイイとおもうことならなんでもやってみろ、とはいってもらえたの。やってみてダメだと、ムッとされるけどね、少なくとも一回は、やってみることを許された。たまさかやったもんがちょっとあたったりすると、「もっとやれ、もっとがんばれ、どんどんやれ!」って、すごいほめられた。ちょっとぐらいなら失敗してもよかった。また次にがんばればよかった。でも……でも……。

 前に氷室さんはブルドーザーで、荒地を開墾したのだ、と申しました。いや、むしろ、『風と共に去りぬ』の「インターミッション」の前の、ニンジンかじって「わたしはもうけして飢えない!」って凛々しくいうビビアン・リーだといってもいい。何の道具もなかったから、手で掘った。手で掘って、やっと得た資本で、ツルハシを買い、ネコ(一輪車)を手にいれ、そして、それから、ようやくブルドーザーの出番になったんです。
 そう、氷室さんこそ、「♪おおパイオニア」と謳われるべき存在だった。
 氷室さんがとりあえず道をつけてくれたから、だからそこを、わたしなんかは、徒歩とか、トロッコとか、オート三輪(知ってる?)とか、自転車とか、なんかそーゆーダサいもんで、フラフラしながらすすんでみた。ときどき、道からおっこちて、ケガして、みーみー泣いたりしながら。
 するうちに、この部署は「もうかる」ということがわかったもんだから、どっか上のほうのひとが、なにかを決定し、道路公団が舗装しちゃったんですね。その道を。んでもって、年月がすぎると、そこに高速道路とか新幹線とかまで通っちゃったわけですよ。

 そこをいま、さまざまなひととクルマが、ものすごいスピードで通っていく。
 どこへ向かって?
 なにを目指して?

 ハナシが飛びました。

 次には「失敗がけっして許されなくなっていく頃」のことを話したいと思います。


原稿受取日 2004.3.29
公開日 2004.4.28

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