創 世 記
第16回  「突然の中断と組織というものについて」



 「創世記スレ」に励ましのおたより? ありがとうございます。やっぱ、こういうのいただけるとガゼンやる気がでますです。
 なのに、草三井ことさか○だいすけはわたしに先日

 あと1回か2回で、コラムを一区切りいれることにいたしましょう。
 他のスタッフにもそう伝えておきます。
 久美様は「いったん休む」と表現なされ、「また再開することもできる」と示唆なさっておられますが……しかしこれ以上はとても申しわけない気分でいっぱいであります。
 今まで本当にありがとうございました。
 これでコラム『創世記』、完結という運びにいたしましょう。

 とメールを送ってきた。これはわたしが「某社のシメキリが近づいてきたから、もう何回か書いたらいったん中断するかもしれない。おカネになるシゴトもやんないとやばいし」とグチったから気をつかってくれたのだと思う。
 常にディグニティー(威厳)とフェアネス(公平性)を重んじるわたしはちゃんと次のメールも引用するわよ。なんだかんだ事務連絡があって、最後に

 あと5分後に家を出なくてはならないので、これだけ取り急ぎご連絡します。
 失礼にあたる物言いがあったらすいません。

 と、さか○は言うた。
 失礼だなんて少しも思わなかったけどね、ズキッと傷ついたわ。「今まで本当にありがとうございました」は、別れのときにいうことば。そんなにわたしとキレたいの? わたしの御守をするのって、そんなにたいへん? そりゃあ「毎日」のように続きを送って、それをきっちり編集しろというのは過酷だろうとは思うけども。
 あと四日で(今日は4月26日)このラノ第一回投票が締め切られる、つまり、作業が一段落してしまう。ある意味、このラノ発足の目的はとりあえず、無事、終わる。それを過ぎても未編集未アップロードの原稿のが山なんてものが残ってしまったら、そらイヤかもしれん。
 でもね。

 書き手が「書きたい」って言ってるうちは黙って書かせてほしいの。実際スラスラ書けてるうちは、どうかそのまま書かせておいてちょうだい。お願いだからやめろなんて言わないで。せめて、せめて、ここでは……!
(自分のサイトでやれー! というツッコミがきそうだなぁと思いつつ)

 『青春と読書』(集英社の新刊案内雑誌。定価90円。おおきなホンヤさんでたくさん本を買うとタダでもらえたりもする。定期購読もできる)の2003年12月号巻頭エッセイ、ノンフィクション作家の佐野眞一さま『新書ラッシュが生み出す将来の古典』から引用すると、

[無断引用]


 半年ほど前、出版流通に関するあるシンポジウムで同席してフランス文学者の鹿島茂氏が
 言った、こんな辛辣な意見が思い出された。
 「いまの日本の出版状況は、カラオケボックスそっくりです。そのココロは、歌うものばかりで、聞くものがいない。つまり、書く人ばかりで、読む人がいない。年間七万点以上、一日あたり二百点もの新刊本が出ているのは、どう考えても異常です」


[引用おわり]

『ダ・ヴィンチ』
メディアファクトリー刊。「まったく新しい本とコミックの情報マガジン」を掲げる。
公式:WEBダ・ヴィンチ





 だそーです。
 一日あたり二百点んんんん!?
 そんなスゴイことになってたんかい。
 どーりで、読んでも読んでも「ぜひ読みたい」と思って枕元に積んである本が減らず、ともするとわんこに倒されて危険な状態になり、買っても買っても「しまったまだ手にいれてない」本があると思った。一日二百点の新刊は、ひとりの人間にはぜったいに全部網羅できるわけがない。どんなに速読のテクを身につけても。ザッと眺めて自分には関係なさそうなものをとりのけていったとしても。「読みたい」ものを毎日ためこんでいくばかりで、とうてい読みきれっこない。
 だから
 いったんベストセラーになったものが爆発的に売れ(おもしろいから売れるんだろうし、てことは読むべき価値があるだろうと)、権威ある賞をとったものが売れ(ちゃんとしたものだから賞をとるんだろうと)、読書案内系の雑誌『ダ・ヴィンチ』がめでたく十周年を迎え、このミスだのこのSFだのこのラノだのが「アンケート結果上位!」と発表したものがホンヤさんで特別のタナに飾られて、きっちりみなさんの目にとまって売れるシクミになっているわけだ。みんな、誰かにNAVIでもしてもらわないと、なにを読んだらいいやらわからない。すべてを自分で探し出すなんて不可能だ。



斉藤美奈子
文芸評論家。独特なアプローチで切り込む新鮮な評論が人気を博している。「妊娠小説」「文学的商品学」など。

 ちなみに文芸のカラオケ化の指摘は、このわたしもはるかにムカシにどっかで言った覚えがあり、後、文芸評論家の斉藤美奈子さまが、わたしの知らないうちにわたしより先にどこかでおっしゃっていたのを発見し、「申し訳ありませんが、剽窃ではありません、偶然の一致で、ほんとうに知らなかったのです、たんなるシンクロニシティです、どうか信じてください」と(万が一告訴されるといけないから)お手紙を送ったりした覚えがある。よーするに、出版会全体に興味を持ってしまう人間にとっては、当然出てくる比喩なのだろう。







国会図書館だけは全部買ってるはず...
国会図書館は本を買っていません。法律で決まっていて、すべての出版社には納本義務があります。印税支払いのときに50部ぐらい減ってくるうちの1冊が収められているもようです。
(文責:新木伸様)

すみません、おっしゃるとおりです(涙)
(文責:久美沙織)

 で、ですね。
 こんだけ書きたがるやつらがいて読みたがるひとが少ないということは、そら、一点あたり平均の購買数がごく低く限られるじゃん、ということになる。全国に図書館がたしか7000だかあるはずで、その全部が「全部の新刊」を買い上げてくれれば、少なくとも七千部は売れるわけで、版元としてはギリギリでもとりあえず採算がとれるはずなんだけども、一日二百冊年間七万冊買う予算と貸し出し書架および倉庫スペースはどの自治体にも私設図書館にもあるまい(国会図書館だけは全部買ってるはずだけど)。それでも一日二百点も懲りずにセッセと出し続けてるのは、「いっぱつ」大あたりが出たら、コストが回収できるから。悪貨は良貨を駆逐するともいうが、玉石混交ともいう。数うちゃあたる、ともいう。どの著者も、版元も、その「いっぱつ」を願ってやまないわけ。
















(C)角川書店 (2002)
『ぼっけえ、きょうてえ』
著 岩井志麻子
第6回日本ホラー大賞受賞作。少女小説家として活躍していた著者の一般書籍への進出した作として注目されている。
→bk1 →ama →楽天

 かくてどうも「いっぱつ」が狙えそうにもない書き手は、ともすると後回しにされ、場合によってはさっさと見捨てられる。25年も現役やってきて、いまだに真の「いっぱつ」を持たない(コバルトで、あるいは、ドラクエのノベライズでいかにアテた過去があろうとも、おとなの版元の編集の大半の意識には、ようするに「コドモダマシ」でもはや過去のヒトにすぎない、とインプリンティングされているのではないかと思う。ヒガミか?)わたしのよーなのは、どーでもいい、マジメに相手にしなくていい、テキトーにあしらっておけばいい種類のモノカキにすぎないのだ。ちくしょう。
 新人は新人であるだけで「可能性」に満ち満ちているから、少なくとも一回は日の目をみるチャンスをあたえられる。ゆえに、できれば新人のうちに、真の大ヒットを出しておく「べき」なのだった。岩井(もと竹内)志麻子ちゃんの『ぼっけえ、きょうてえ』によるところの再デビュー、あるいは、ノリちゃんこと中村・女王・うさぎ先生の、ブランド狂→ホスト熱→全身改造サイボーグ歴のセキララ告白エッセイによるブレイクなんかは、ほんとうにみごとな、できることなら見習いたい「サバイバル」戦略であった。

 根がウブでひとを信じやすいわたしには(きっと幼稚園のお砂場で教わったことがいけなかったんだ……なにしろ『聖母の騎士』幼稚園だったから……パライソでの身のふりかたしか教えてくれなかった! 地獄でのそれこそが必要だったのに!)、いったんわたしという書き手の書くものを「理解してもらって」強い味方になってもらった(とわたしのほうだけ錯覚している場合もあるかもしれないのだが)相手は、こちらが誠意をもってがんばっている限り、裏切ったりしない「はずだ」という、そろそろ修正したほうがいいんじゃないかな甘い思い込みがどーしてもある。
 しかしながら、出版社というところはほとんどの場合「会社組織」であって、ということは、人事異動がある。「このひとについていけばだいじょうぶ!」と思っている相手が、雑誌編集部や文芸編集部や文庫編集部から、いきなり総務とか倉庫番とかになってしまう可能性もあるのだ。わたしのような本質的にマイナーな資質のモノカキを「ついヒイキ」してくれてしまうような酔狂な(こちらとしては「真に見る目のある」まことにありがたい)担当さんに限って、ある日とつぜん現場を外されるか、胃を病んだり精神を病んだりして入院するか、いきなり退社してインドに放浪の旅に出てしまうか、……気がついたらいつの間にかよその版元に転職なさっておられたりする。



谷崎潤一郎
(1882〜1909)
日本文学史に燦然と輝く大文豪。「細雪」は代表作の一つ。







 MOTHERを書くことになった時、わたしは不安でいっぱいだった。
 なにしろ、思い出して欲しい、ずいぶん前の回に書いたことだが、コバルト荘園農場はエンクロージャー・システム、あるいは吉原の遊郭であった(少なくとも当時は)。アシヌケしようとしたり、よその置き屋に鞍替えしようなんてことをした女郎は、みつかったらオシオキされるに決まっている。
 ハヤカワ屋さんは、エスエフというヘンタイさんのための特殊遊郭だったから、見逃してもらったが、こたび声をかけてくださった矢来町の新潮屋さんは、大店中の大店。なにせイナカの高校の裏門に面した小さな書店で、もっとも大きな文庫コーナーをもっていたのが新潮屋さんだ。毎日のように通って端から端まで眺めた。タイトルを見ているだけでも心が躍った。そこは、あこがれの店であった。「おかみき」のおかげでいったんお久美太夫の名声を得、金襴豪奢な衣装で高下駄はいて傘など傍らからさしかけてもらって仲見世を堂々練り歩いたことのあるこのわたしも、すっかり飽きられた姥桜、若いコたちがどんどん入ってきて、客なんかつかない、お茶をひく毎日。もうこのままコバルト屋にいるのはミジメでならない、かといって、いったん脱出したら、二度と戻れまい。
 すると、新潮屋さんの偉いかた(たしか文庫部のいちばんえらいひとだったんではないかと思うのだが、お名前はよく覚えていない。イニシャルがYだったような気がするが……大森望先生に確認すればイッパツで特定できるはずなんだが)と、当時まだ新潮社の編集者さまで別名だった大森さんが、ごはんに呼んでくださった。
 呼んでくださった先が六本木の当時のテレ朝の近くのイゾルデという思えば不吉な(『トリスタンとイゾルデ』は悲劇)名前の、なんだかすんごいゴージャスなお店であった。ようするにバブル真っ盛りだったんですね、その頃って。わたくしめにとって、もっとも明らかに確かにバブルを享受させていただいたといえるひょっとすると唯一の思い出がこのときですね。なにしろ、すごいお食事で、お食事の席につく前に「食前酒」をいただくコーナーが別にあり、お食事がすんだらすんだで、タバコ(正しくは葉巻)とコーヒーをいただくコーナーが別の階にあるような、まさに「社用族の接待」のためにあるような、超お金持ちのためにあるような、普通の個人がいくとしたら一生に一度よほどなにがなんでも落としたい相手を口説く時しかないだろう、みたいなお店だった。
 そんなところに呼ばれただけでも、そんなに丁重にもてなしていただけるなんて……と恐縮ということばそのままに胃も肩もちぢこまりそうだったわたしは、くだんのYさまに、おのが不安をぼそぼそ漏らした。ようするに、今度のシゴトはしたい、やりたい、いただきたい、でも、やってしまったら、コバルトに「裏切り者」として市中ひきまわしの上処刑されてしまうかもしれない。大恩ある集英社の顔に泥をぬった極悪人として、業界から抹殺されないだろうか? というような意味のことを申し上げたのである。
 すると、Yさまはおっしゃった。
「ははははははははは。なんの。そんな杞憂。どうかご心配なさいますな! あの太平洋戦争のさなか、その作風が好戦的気分を盛り上げるのになんの役にもたたないばかりかむしろ女々しく弱々しく戦うニッポンにはまったくふさわしくないとして、書く場を奪われ、文壇から追われ、蟄居を余儀なくされていたあの、大谷崎潤一郎先生を、ひそかにお庇いし、ご家族含めてみなさまにじゅうぶん衣食足りるよう面倒を見続けさせていただいたのは、わが社、新潮社でございます。その間、谷崎先生がお書きになられたのがあの名作『細雪』なのです。わが社は、作家を大切に育み守ることはあっても、けっしてけっして、見捨てやしません」
 言ったよ。
 言ったよね? 全部が全部このとおりの言い回しじゃなかったとしても、内容はあってるよね? その場にいあわせた証人、大森さん、ウソじゃないって証言して。「はい、たしかに」って、うなずいて。

「おお……」
 わたしは涙のにじむ目をまばたきでこらえながら、テーブルの下でハンカチをもみしだきましたよ。
「わかりました。わかりました。では、では、……やらせていただきます……!」

 こうしてMOTHERのノベライズを書かせていただくことになって、ご挨拶にいったのは、当時エイプ(まーくは原人? 類人猿?)といっていた糸井重里さんの事務所。これがまた、青山の一等地で、おしゃれなビルの何階かで、スタッフなのかいろんな分野のスペシャリストなのか、なんだかおおぜいのひとたちがワイワイしていて、そりゃあすごい活気のある「現場」で。MOTHERの完成した部分(もちろんまだ鋭意製作中だった)の一部の場面をビデオでみせていただいて、「おおお!」と感激。
「どうかよろしくおねがいします」とおじぎをし、どんなところに気をつければいいでしょうかとうかがうと、さすが一行二千万円(だっけ?)といわれる超一流のコピーライターにして「流行最先端」の文化人でもあられた糸井さんは「あー、なんでも好きにしてください」とヒトコト。「テストプレイできるだけのゲームができたら、速攻で送りますし、必要な資料はなんでも送ります。もし、わかんないこととかあったら、いつでも聞いてください」エイプのスタッフのかたから名刺をもらった。
 なんでも好きにしてよかったが、ひとつだけ条件があった。文庫一冊におさめること。
 シメキリはぜったい厳守(たしかゲーム版の発売のなるべく直後だった)。それだけ。

 












(C)TOKYO FM出版 (1996)
『あいたい。』
著 久美沙織
→bk1 →ama →楽天

 みなのもの。ひかえ、ひかえおろう!
 これがわたしがそのちょっとあとに受け取ったMOTHER原板である。基盤むきだしの、完成目前の、バグとりがまだちょっと残っているコレを、ファミコンの(スーパーファミコンではない、原始プロトタイプ・ファミコンである)「いつもソフトをつっこむとこ」につっこむと、なんと! まだ部外者が誰も見たことのないMOTHERをプレイすることができたのである。
 ここらへんと、わたしがほとんど同棲状態だったマエカレと大喧嘩し、いまの旦那さんとくっつくあたりが重なるため、MOTHER制作作業の大半は拙著『あいたい。』にたまさかついでに記録されてしまうことになるんだが、それはさておき。
 全体シナリオをもらい、途中まで実際にプレイしてみたわたしは「これを一冊におさめるなんてとても無理だ……!」と一度は絶望にかられた。しょうがないから、まず、はじめの部分を思い切りカットして、いきなり、ヒロインが登場するところからはじめることにした。わたしはこれまで少女小説家だった、女の子を書くのには慣れている。この傑作に対抗し、小説として読んでおもしろいものにするためには、自分の土俵に無理やりもちこんで勝負するしかない。

 かくてわたしはMOTHERを書き……それは、わりと売れた。
 読んでくださったかたも多いと思う。ありがとう。
 新潮社サイドがどビックリするぐらいの数の「作者へのおたより」が届いた。わたしにしてみれば、いつものとおりだったが、新潮文庫では(少なくとも当時)その読者層に作者におたよりを書く習慣を持つひとが多くなかったので、これは目立った。


(C)新潮社
『石の剣』
著 久美佐織
→パピレス



C・S・ルイス
神学的作品を発表し宗教家として活動。「ナルニア国ものがたり」全七巻は信仰心に基づいた児童向けのファンタジー。同シリーズ最終巻「さいごの戦い」でカーネギー賞受賞。


トルーキン
モダンファンタジーの始祖。「ホビットの冒険」の発表後、その続編「指輪物語」が大ヒット。ロードオブザリングの原作。




(C)新潮社
『舞いおりた翼』
著 久美沙織
→パピレス




(C)新潮社
『青狼王のくちづけ』
著 久美佐織
→パピレス

 で、新潮社で、他のシゴトも……自分自身の創作を……! して良いことになり、ソーントーンサイクルと大森さんが後に名づけてくれる「超マジ」ファンタジーの三部作を書き始めることになる。第一作、『石の剣』。発刊、平成3年1月25日。実ははじめは一冊でやめるつもりだった。いちおー、それなりの結末まで書いたつもりだ。出足はそれなりに快調だった。わたしの目論見はいたってヒネクレたものだった。ヒロインが王子さまに出会う。が、王子さまが愛していたのは馬だったら? かくて、ビミョーに性格の悪いヒロインと、例によってれいのごとく優柔不断な王子さまと、善そのもののように純白な馬の三角関係という異常なファンタジーが成立するのである。
 で、大森さんに言われるのである。「これって、まだ導入部だよね?」
 どっかできいたパターンだなぁ……。
 でも、確かに。ヒロインの運命はこのままだと悲惨そのもの。救ってやりたい気がしないこともない。だから、第二部を書き出した。
 たしかにわたしはのろまだった。なにしろいまの旦那さんと恋に落ちたところで、いろいろとすったもんだがあり、生活が激変したりしていたし。が、「太平洋戦争の間中」『細雪』を待っててくれた新潮社さま、せかされることがあるなんて思っていなかった。
 C・S・ルイスだって、トルーキンだって、傑作はのんびり書いてたんだし。
 重厚ファンタジーを美麗な文章で大マジに書こうと思うと、ハンパでない集中力がいるのだ。なにしろこの世でない世界にまずいって、そこで見聞きして、よくわかり、それを読者にわかりやすい因果関係できりとり、読者にもよくわかるがこの世のものとも思われないような文体で書かなければならないのである。
 かくて第二巻『舞いおりた翼』が出たのは平成四年の六月だった。なーんだ。たった一年半しかかかってないじゃん! もっとすんごい間があいちゃったような気がしてたよ。
 でも確か、ちょうどその頃大森さんは会社をやめちゃって翻訳家専業評論家さまになってしまって、わたくしめには別の担当が(「大丈夫、最高のヤツをつけるから」と大森さんが保証してくれて、それはほんとうにその通りだった)ついたんだな。
 ファンタジーといったら三部作で(ゲド戦記もそのころは三部作でウチドメだった)こうなったら大急ぎで続きを……と、第三部『青狼王のくちづけ』を書き出した。たしか二章分ぐらいまで書いたところだったと思う。
 新潮文庫編集部から電話がかかってきた。
「MOTHER2が出ます。ついてはノベライズを……」
 かくて、第三部はタナアゲになり、キムタクのCMも懐かしいあのMOTHER2の発売からそんなに遅れない時期に無事に本のほうも発売できるよう、大急ぎで準備にとりかかった。
 テストプレイやら、ビデオを見るやら、資料を読み込むやら。そして原稿を書いて書いて書いて書いた。とにかくなにがなんでも期日に間に合うように。
 シメキリ日当日には、担当の桜井京子嬢に軽井沢の拙宅まで来て貰った。彼女が到着するころには終わってる予定で、終わったら焼肉でウチアゲをする約束だった(軽井沢にとおっても美味しい焼肉屋、いやさ、韓国宮廷料理屋さんがあり、超オススメであると言ったらカノジョもそれはぜひ食べたいといったので、そーゆーことになった)のだが、ビミョーに間に合わなかった。「もうあと一時間ぐらいでぜったいぜったい終わるから、ここでちょっと絵本でも読んでて」シゴトベヤの下のマッサージチェアに桜井さんを座らせ、キーボードをたたきにたたきにたたきまくった。「終わったら焼肉、終わったら焼肉」と呪文のように唱えながら。南大門(←焼肉屋)のラストオーダーまでにはなにがなんでも終わらなければならない。
 あとで聞いたが、桜井さんは、わたしのあまりのタイピングのよどみなさに仰天していたらしい。「ああ、今、傑作が完成せんとしているのだなぁ、と感動しました。現場にいるものの喜びを感じました」
「っしゃあ、できたぞーー!」
 そしてわしらは三人(夫含む)で南大門にくりだし、食べに食べ、飲みに飲んだ。原稿のラスト部分はフロッピー(当時)のかたちで、しっかり持ってかえってもらった。

 出た。MOTHER2は、MOTHER番号なしほどには売れなかったような気もするが、それなりにウケたと思う。ラスト近くのとある場面、わたしも泣きながら書いたが、「アレを読んで泣かなかったら人間じゃありません」と桜井さんも言ってくれた。
 わしらはいいチームだったと思う。
 が。
 わしはあまりにもヘトヘトになっていたので、かの書きかけの第三部にすぐには取り組めなかった。実はなんかヨソのシゴトをしていたかもしれない。第三部が、順当に書き終わっていたら、と既に約束してしまっていたドラクエ方面とか。ここらへんになるとコトガラの順序が自分でもよーわからん。
 で、ようやく、なんとかヤッコラショと腰をあげて、第三部完結篇をるんるん書いていたと思いねぇ。また電話がかかってきたのだ。
「……すみません……」
 桜井さんの声は暗かった。
「『石の剣』と『舞いおりた翼』が絶版になることになりました」
「……なん……」
 わたしは一瞬絶句した。
「すみません」
「でも……あのね、うそでしょ。ちょっと待ってよ。もうあとちょっと……一ヶ月待ってくれれば三巻目の原稿が出る。少なくとも、新刊出てから一ヶ月だけでもいいから、三冊そろえてタナに並べて欲しい!」
「すみません、ほんとうにすみません。わたしも悔しい。なんとかならないのか、上司に散々言いました。でも、もう決定してしまったことなんです」
 良き戦友であった桜井京子はぶっちゃけた話を正直にはなしてくれた。
 新潮文庫は、あまりにも総点数が多くなりすぎたので整理することにし、初版以後五万部順当にハケなかった作品は、切ることにしたのだと。

 あの話は……『細雪』はどーなのよ?
 と、わたしは思った。ほんとに思った。
 三部作なんて、三部作そろってから、「そろったら」買おうと思ってるひとがいるかもしれないじゃないかー! そもそも、三作めが遅れたのは……そりゃあわたしも遅筆だったし迂闊でもあったかもしれないが……MOTHER2が間に入っちゃったからで、じゃなかったら、とっくに三冊揃ってるはずだったんだぞ?
 だいたい……いま書いてるのどうするんだ? 一部も二部もないのに「三部」だけあっても……
 ……ハッ、と我にかえったわたしはその点を確認した。
「続けて書いていただいてかまいません。その点はわたしも上にキツく確認しました。その原稿はいただきます。ちゃんと出版します」

 かくて、悲劇の『青狼王のくちづけ』は平成七年の九月に出版され、一回だけ(たぶん)増刷がかかって、あっというまに絶版になった。
 桜井さんまで、どっかよその部署にやられてしまった。
 新潮社とわたしとの関係は、ついこないだまで、ほとんどキレていた。たまに、ひとの文庫の解説を頼まれる以外は。


復刊ドットコム
「絶版、品切れ」のため、手に入らなかった書籍を投票により復刊させよう、という趣旨のサイト。


オンデマンド出版
オンラインで読者の注文をうけ、注文があっただけの量の本を増刷し、それを直接、宅配便その他の手段で注文主の手もとに送り届けるシステム。

 こないだ、復刊ドットコムさまがMOTHER復刻を訴え、オンデマンド版を出してもらえることになった。
 オークションでは、新潮文庫版MOTHER「初版、きれいです」が時々取引されていた。
 かと思ったら、ゲームのMOTHERがゲームボーイアドバンスに移植され、新潮文庫で異例の復刊を果たす。高価なオンデマンド版は思い切り余りまくり、せめて何十冊だか、直筆サインしてくれませんか、それで売ってみますから、と言われたから、もちろん応じた。

 かくも、書き手は、版元やその他の都合に左右されてしまうのだ。

 いまにして思えば……大谷崎と自分が「同格」に扱ってもらえるかもしれないなんて、一瞬でも信じた自分がアホであった。
 生涯食べたものの中でも高いほうから十本の指にきっと入っただろうあの『イゾルデ』のごはんをオゴッてくださったえらいかたは、それなりにご年配だったが、さほどご高齢であったわけでもない。谷崎を庇ったのは「彼」ではなく、彼のはるかなセンパイの誰かで、そのひとはたぶんもうこの世におられないであろう。
 大銀行ですらあっけなくふっとんだバブル後の不況とデフレのこの時代、「作家を大切に育み守ることはあっても、けっしてけっして、見捨てやしない」版元なんて、存在することが許されなくなった。たぶん。そんなふうに存在しようとすると、版元そのものの屋台骨が危なくなるのだから。
 組織は本来、なにかをなすために存在しはじめたはずなのだが、いったん存在してしまうと、その組織そのものを存在させつづけることを第一の意義としてしまう。
 わたしのように、学生→モノカキで、ただの一度も組織らしい組織に所属したことのない人間からみると、組織という怪物の「一細胞」としてのアイデンティティしか持っていない人間とは、話がまるで通じない。お役所とか、メーカーとか。どこでも。
 「そのひと個人」としてどう思うかどう感じるかどう考えるかどうすべきだと判断しているかではなく、「社としては」現状どうである、ということしか(少なくとも社内にいるときには)言ってくれない、言おうとしないひとたちが、なんと多いことか!

 あなたはマイクロソ○トに電話をかけて「仕様ですから」といわれたことはないか?

 よって、もちろん、新潮社ばかりワルモノにするつもりはない。
 たまたま濃厚なネタというかエピソードがあったから語らせてもらっただけである。
 新潮社にうらみなんかない。ありませんとも。だってMOTHERがなければいまのわたしがなかったんだから。恩のほうをより多く感じてますって。ほんとだって。
 できれば、関係の修復を願っている。桜井さんも文芸セクションに戻ったことだし。わたしの結婚披露パーチーでピアノを弾いてくれた竹内くんも(海外翻訳部門だけど)いることだし。
 新潮社さまに、両手を広げて迎えいれられるような作品を、お願いですこの原稿はウチにください、うちから出させてくださいといってもらえるような作品を、いつかそのうちぜったい書いてやる。そうして、全絶版文庫を復刻させてやるーーー! と思うのだが、それってすんごくしんどそう……でも……やりたい。やりたいと思っていられるだけ、わたしにはまだ寿命があると信じる。がんばるぞ。


(C)講談社
『獣蟲記』
著 久美沙織




(C)講談社
『双頭の蛇』
著 久美沙織



高田明美
『うる星やつら』『きまぐれオレンジ☆ロード』等のキャラクターデザインを経て、国内・海外で個展を開くなど絶大な支持を得ている絵師。
公式:TAKADA Akemi Official Web Site

 ついでに、別の理由でやはり関係性が壊れてしまった例をもうひとつあげておく。
 講談社ノベルスである。
 『獣蟲記』『双頭の蛇』二作書いたところで中断し、以来、ずーっとそのまんまになっている。
 高田明美さんがエロチックでステキな絵をプレゼントしてくれたのにである。
 なぜか?
 『獣蟲記』の最初の打ち合わせの時にわたしが大間違いをしてしまったのがそもそもの遠因なのではないかと思う。池袋のコミュニティーセンターで(てことは、『作文術』の講座をもっていたころだな)会う予定のつもりだったのに相手がなかなかあらわれないので、編集部に電話をかけた。誰かがとりついでくれて、やがて、唐木さんという担当さんが、電話に出た。
「あのー、久美さんと逢うのは来週なんですけど」
「……アッ……えっ? そうだぁ! すみません勘違いしました、ごめんなさい!」
「怒鳴られましたよ」唐木さんは不機嫌な声をおだしになった。「女の子待たせてなにやってんだって」
 たぶん、あの時から唐木さんはわたしのことを「バカ」と思ったのだと思う。「このオンナ、きらいだな」と感じてしまわれたのだと思う。
 無理もない。
 相性ってのはあるもので、わたしも正直いって、どことなく、すれちがうキモチを感じていた。ヨカレと思ってすることが、いまいち相手に通じてないみたいな。

 あと……わーーーー! そうだー。
 思い出しただけで恥ずかしさのあまり穴掘って温泉をアテたくなるので、記憶の底にかたくかたく封じ込めてわざと忘れるようにしていたんだけども、実は、このとき、この作品にからんで、もういっこ、もんのすごいマチガイをやらかしてしまっていたんです、わたし。
 それをいきなり思い出してしまって、寅さんが馬に乗ってメリーゴーラウンドのようにぐるぐる走り回っています、が、告白します。
 (ちなみにこの部分だけ書いてるのが5月16日、ここんとこ、スレでおおぜいのかたにアホなミスを指摘していただいて「このミスがひどい!」ランクがあったら、上位ランクイン間違いなしだなぁと思っているわたしで、ミスと言えば……わたしのシゴト歴の中でも最大級のマチガイと言えば……あああああ、アレがあったあ! とうっかり思い出してしまったのがこの話)
 『獣蟲記』初版のオビはこうです。
『獣と蛇、六億五千万年の対決! 超「八犬伝」開幕!!  〜恋人の額に浮かびあがった「犬」の鏡文字は、女子高生布施直見の日常を崩壊させた。少女を守る「八犬士」は現れるのか!?〜』
 いんやーおもしろそうじゃないですかー!
 すげー。読みたい(笑)!
 いや笑ってる場合じゃなくて。
 問題はこの「ろくおくごせんまん」なんす。これってもちろん文中にそーゆー数字が出てくるから、引っ張り出されたのですが……
 まちがっちゃったんですー(号泣)
 ほんとは六千五百万年にしとかなきゃならなかったんですーーーー!
 この数字を言えば「ああ」ってわかるかたにはわかるでしょう。そう、いまから六千五百万年前、恐竜さんたちが絶滅したんですね。
 そんとき、世界が「あるべき方向」から「ちゃう方向」にズレて、蛇、つまり爬虫類系の知的生物が支配するはずだった地球の未来が、獣、つまり、哺乳類系の人類がのーのーと繁栄する方向に「間違って」進んでしまった。それでも(ホラー系ですから、非科学的に)蛇系の本来支配者たるべき魂のうっかり成仏しそこなったみたいなのを生まれつき持っちゃったニンゲンも実はいろいろと生まれてきてて、たとえば、ひとりだけ例をあげれば、クレオパトラなんてぜったいそうじゃん? みたいなネタとかもひそかにあったりしたわけで。ようするに、蛇タイプが、獣タイプに地球を任せてられなくなって、そのへんの軌道修正をするためのサイキック戦争が勃発するんやー、どどんぱー! 
 ……ってはずだったんですけど……
 ここらの目論見、その当時は、まだ隠していました。なにしろ、あくまでのんびりゆっくり何巻もかけて書くつもりで、そーでなくても第一巻めにやたら大量のネタを物惜しみなくバシバシ投入してしまったので(思いつくと思ったことをなんでもどんどこ使わずにいられない、衝動系のわし)、中でいくらなんでも少しぐらいはこっそり隠しておく設定がないと先がつづかない、と思ってしまって、よりによって担当さまにもあくまで隠してて、ウフフあとでびっくりしてね♪ ってオモワクだったのがこのへんで。
「ほんとに、六億五千万年でいいんですか?」一度、唐木さんに、確認されたんですね。たしか電話で。「間違ってないですか、この数字?」
「いいです」わたし、断定してしまったんです。「カッコいいでしょ?」
 なぜあの時、もう一回きちんと確認しなかったのか……いまでも悔やまれますが……イヤ正直、六千五百万年とかいうなんかハンパな響きより、「億」ってついたほうがカッチョいいやんか、という単純な「感性」での選択もあり。百億千億という名作にだって億がついてるやんか、三億円事件だって、さん「おく」だったからみんな騒いだんじゃないか、みたいなまるで見当違いのこともちょっと思ってたりとか。
 もひとつ。実はわたしいつものように原稿やゲラ(校正原稿)を旦那さんにきっちりみてもらってたんで、もしマチガイがあるなら彼がいってくれるだろう、なにも言ってこないからにはマチガッてないだろう、という、ものすごい勘違いをしてしまったんですね。
 ネタいわなきゃ、そりゃ、まちがってるかどうか、わかんないっつーのに。
 ――ちなみに、うちの旦那さんは、わたしが完成した原稿を見せて読んでもらうと、毎度「すごい、おもしろい、天才!」とホメてくれます。でもって、あーよかったぁ! とホッとして熟睡して起きると、あんなにホメてくれた原稿に、数え切れないほどのフセンがついていて、真っ赤になるまで添削されています(泣)。いきなり「ここが悪いあそこもヘン」といわず、いったんホメて「原稿を書く」という行動を「強化」してくれるあたり、実に優秀な調教師……いや、愛と思いやりのあるひとなのだなぁ、と思います。
 それはともあれ。
 原稿は渡しちゃって、校正も返しちゃって、あとは出版を待つだけの状況のある日、たまさか、後の構想について思いついたことをあーだこーだと相談しているうちに旦那さんが「エッ」といいだし、「六億年前にゃあ、恐竜なんかまだいやしませんよ。やっとこ空気とか大陸とかができたぐらいでしょう。あなたひょっとしてヒトケタ間違わなかった?」
 があああああああん。
 う……わあああああん!
 そうなんです。たぶん。調べたはずなのに……調べたのを書き写す時に、ヒトケタ間違ったんです。そうらしい。
 やふおくでも一回やりました。4000円いれるつもりで、40000円いれてしまったんです。うっかり手がスベッて。あわててご出品者さまに「すいませんごめんなさい、ヒトケタ間違いましたあ!」とナキをいれて、「ハイハイ、ジョウシキの範囲で理解しますから」となぐさめていただいたこともあります。
 ハイ。わたしはバカです。サザエさんに勝るとも劣らない粗忽もののあわてんぼうのオッチョコチョイです。だいたい億とか兆とか、はっきりいって実感ないし。一千万年前も一億年前も「ようするにとんでもなく前」ってことやんかー(泣)! そんなんどーだっていいやんかー(よくないよくない)。

 ちなみに地球の歴史の参考サイトはたとえばこちら(ここでは恐竜さんの絶滅が1000万年古いことになってます……研究がすすんだんでしょうか)

 で、その「大間違い」に気づいたのが、発売前、ただし、たぶん印刷中。
 大急ぎで電話して「すみません、やっぱり間違ってました!」って言ったんですけど……
「もうまにあいません」うわぁあああん! 「このまま出ます」ハイ。そうですね。ごめんなさい。すみません。
 あの時、唐木さんは、決定的に「こいつとは、つきあいたくない。つきあってられない」とお思いになったに違いない。「自分がわざわざ確認した時、あんなにキッパリ断言したのはなんだったんだ? いまごろになって間違ってただと? もうデカデカとオビにも書いちゃったんだぞ、どーすんだよ!」と、憤怒なさったにちがいない。
 これはもうまったく一千パーセント(だからそういういい加減な数字を出すんじゃないっつーに)わたしが悪い(泣)
 すみません、すみません、と電話口で小さくなりながらペコペコして、でも、あのー、もしかしてひょっとして将来増刷とかすることができたらコッソリなおさせてくださいね? とお願いしまして、ええ、そーですか、まぁどうしてもってんなら、それでもいいですけどね、作者が直ししたいってものはとめられませんけどね、みたいなことを言っていただいたような気がするのですが……デカデカとオビで強調しちゃった設定をいまさら「間違ってました」でひっこめられるかこの野郎めバカ野郎め! と思っておられたに違いない。むっちゃみっともないもんなー。
 ここで既に「久美沙織というオンナはトコトン信用できない」という印象をつよくつよーーーーく与えてしまったに違いないことはサスガのわたしも実感しておりましたです。「こんなの担当するのやだ」と思われてしまってもほんとしかたないと思いますです。
 そこにトドメのように、運命がまわります。
 『獣蟲記』が出た直後に、唐木さんのところにまわってきたのが、コピペしないとわたしにはとても書けない覚えられない漢字の『姑獲鳥の夏うぶめのなつ』の原稿で、まったくぜんぜん無理ないと思いますけれども、たちまちこれに惚れこんだ彼は、以後、京極夏彦さんにかかりきりになっちゃったんですね。
 京極さんがまた、いったいどこをどうするとそんなエネルギーが出てくるのか、あんなすごいものを次から次へとお書きになるし。わたしとちがって(泣)あんなにあんなに几帳面で、およそつまらんマチガイなどおしでかしになりそうもないおかた、唐木さんにしてみれば、すんごいシゴトしやすい相手だっただろうなぁ(大泣)。
(ハイ、すみません、ここから、ずいぶん前にかいた原稿にまた戻ります。なんか文体が違っちゃってますけど気にしないでください。……ていうか、こーゆーの平気で気にしないワタシとは、ハダがあわないひとがいてはるんやろうなぁ……すんません)

原稿受取日 2004.5.16
公開日 2004.6.2


 で、ある日また電話がかかってくるんである。
「あのー、『獣蟲記』のシリーズのことなんですけど」
「はい(どきどきどきどき。なんかイヤーな予感が。前例が)」
「あと一冊で終わってください」
「……は?」
「だから、あと一冊で。あまりズルズル長くなってもアレなんで」
 って言われてもおおおお!

 ほとんど世の中に出ていないこの本について説明するのも虚しいが、これは獣と蛇に象徴される大宇宙を二分するたがいに相容れない勢力によるところの「八犬伝」なのである。八犬伝だから、犬師が八人そろわんことにはそもそも話がはじまらん。まだ全部のキャラが出てきてもいないのに、これからゆーっくり順番に出してって、それから本題にはいろうと思ってたのに、のーんびり、そーゆー構想をもっていたのに……あと一冊ですって?
 いちおう、執行猶予はつけてもらったのはわかったけども、ありがとうとは、すみません、とてもいえなかった。
 滝沢馬琴は南総里見八犬伝全巻を二十八年かかって書いている。最後のほうは、もう老齢で目がみえなくなっていて、ムスコのヨメ(ムスコそのものには逃げられたんだったか早死にされちゃったんだったか忘れた)に口伝で書き取らせた。無学なヨメに、文字を一字一字教えながら(←泣ける)。
 そりゃー江戸時代はいまよりはノンビリしていたかもしれないけどさぁ……
 八犬伝なんだよ。せめて八冊くださいよお!
 一日二百冊も出てるんでしょー。
 8ひく2、あと6冊ぐらい猶予をくれたって、いいじゃないかああああ!
 そんで、それから、講談社文庫にいれてくれたっていいじゃないかあああああ!
 いくら京極さんなみの、ココロの準備をしてからじゃないと持てないぐらい分厚い本にするとしても、あとたった一冊で終わらせるっつーのは、どこをどう考えても不可能だ。
 予定の構想のどこをどうきってもそうはならない。この不可能をなんとかするとすると、これはもうあれだ、例の『ジャンプ方式』どこがどうツジツマがあわなくてもすべてに目をつぶって、なんでもいいからカタチの上だけとにかくオワリにするという。
 そんなことするぐらいなら、中断のままのほうがマシだ。
 そー思ったもんだから、ほったらかしになっている。
 たぶんとっくに絶版だと思う。

 あ、そうそう。
 前の部分でいい忘れた。多くの版元は、著作が絶版になることを前もって著者に教えてくれたりしない。桜井さんは、ものすごく言いにくいことを、ものすごく言いにくかっただろうに、ちゃんと連絡してくれたいいともだちで、とてもエライ男前な女なのである(新潮社がそもそもきちんと連絡をするという方針であるかもかしれない。なにしろ大谷崎の生活の面倒をみたえらい出版社だから)某コバルトなどからは、絶版になりますからね宣言なんてただの一度ももらったことがないから、いつ絶版になったか当人はまったく知らない。知らないうちになっている。最近ではアマゾンに教えてもらうことが多かったりする。

 読者のみなさま。
 知らなかったでしょ、こんなことがあるなんて。
 あるのよ。
 シリーズが突然中断するのは、単に作家が怠慢だったり遅筆だったりいい加減だったりボケたり関心が他にうつったりするからだけじゃないの。どうしようもない運命がわざとそこに追いやったとしか思えない境遇のゆえにそうなってしまっている場合もあるの。

 だから……書き手が書きたがっているうちは最低限書き続けさせてくれる場所を、わたしたちはいつも探している。信頼して、安心して、この身を……じゃなかった……我が子同然の作品をゆだねていい相手を、探して求めて熱望している。
 もちろん作家も生き物であって、食う寝る休む必要があり、生活費も必要であるからして、できれば、本は借りたり回し読みしたりしないで買っていただきたい。図書館に「購入希望リスト」を出してくれるのでもいいから。
 版元が育ててくれない以上、育ててくれるのは「買い支え」してくれる読者だけなのである。しっかり読んで、感激したらひとに勧めて、絶版になったら復刊ドットコムに投票してくれるような。そしてまた書店も「支え」のひとつだ。書店が、書店店員のみなさまが「この作家は好きだ」と思っていてくれるならば、生きていける場所が生まれる。

 だからみなさん、書店からマンビキするのは、ぜったいにぜったいにやめてくださいね。



 (注 文責:草三井)
 この原稿をいただいた後、久美様にメールをお送りしたところ、
「いやー今朝読ませていただいたメールは名文です。このまんま第16回の「あと」に載せましょう。マジです。」
 と仰せられましたので、その際のやりとりの一部をここに掲載することにいたします。

久美沙織様

 第16回ありがとうございます。
 そしてかなり動揺しております。
 指が震えます。

 まず第一に、久美様の熱意のほどをあなどっておりました。
 私たちはこの企画に際して、たくさんの作家様に投票依頼のメールを差し出しました。限定枠の5作紹介文の執筆依頼です。これは作家様に対して、「一面識もない者」である私たちが、顔の見えない「メール」という形で、「不確定要素満載」であるこの企画に、「ノーギャラ」で参加していただく、というものでした。
 こういうスタートと切ることによって、私の認識は「作家様は無理にこの企画に参加しているのであり、本当ならやりたくない」――というものになっていきました。ただただ、私たちは謙虚になるしかなかったんです。とても「もっと書いて頂きたいんです」などとは口にできない心境でした。ましてや、他の〆切も迫っている、とお聞きした状況ではなおさらです。加えて、その〆切のことに言及された時、これは暗に「もうやめたい」という意思を示されているのだろうか、とも考えました。そして事実そうだと考えました。

 ですから、久美様は、このコラムに相当の熱意を持っている、ということを見せ付けられたとき、世界が逆転いたしました。
 違ったのだと。
 逆だったのだと。
 なにか熱くてどろどろしたものが体の中を逆流しました。
 今回のコラムを通読した後に、私に関する部分を思い返すとなんだか泣けてきました。
 私の至らなさと、あと、これだけの熱意を久美様持っていただけるなんて、こんなに喜ばしいことはないじゃないか――と。















酒井さんの年齢
このやりとりの時点では19歳だったが、6月1日に誕生日を迎えたので現在20歳。

酒井 大輔さま

 読者と作者のかかわりかたというものに、読者も作者もお互いに「みょー」な壁を張ってる場合がある。
 わたしも、(ここまで書いてきたように)正直いってつきあいきれないタイプの読者のかたに翻弄されて、ほとんど「敵視」したような発言をしてきたこともあります。

 でも、ね。
 よーするに、お互いに「ひとり」と「ひとり」の個人なんだよね。
 個性で、タマシイで、「たったひとりの誰か」なんだよね。

 酒井さんの年齢(19)を聞いたときにわたし「まぁ生めちゃう」といいましたが
 「生めちゃう」年齢でも、それでも、こうやって、対等に(それともわたし威張ってる?)同じ熱意で、同じ「プロジェクト」にこうやって関わることができる。
 一緒になってひとつのものを作り出して世の中にむけて発信することができる。
 その程度の差なんだよね。

 なにしろ人類史は何万年、神武天皇から数えても3000年弱、
 あーたが奈良時代、わたしが戦国時代に生まれててごらんなさい。
 そら、まるでなんにもかかわりは起こらんよ。たぶん。

 まー世の中にはいろんな作家がいて、ギャランティがもらえないシゴトなんてできまっかいななひともいてはるかもしれへん。
 でも、言いたいことを言わせてくれて、それを「こっちが読んで欲しいと思うような」相手が読んでくれそうな機会があったら、もうカネなんて二の次になるひとも、少なくないと思う。
 よほど貧窮していない限り、書き手はとにかく書きたいのであって、できれば、カネ儲けのことなんて忘れたいのよ。

原稿受取日 2004.4.26
公開日 2004.6.2


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