創 世 記
第17回  「素晴らしい原作+担当+ブレイン→これぞ邂逅!」



 MOTHERについてあれだけなんだかんだ書いておいて、小説ドラゴンクエストについて何も書かないわけにもいくまい。スクウェア・エニックス(この二社の統合のウワサをはじめに聞いた時はほんまに仰天したがあっさり実現したな)とは現在まさに仕事が進行中というか継続中であり、ハードカバー→文庫→ノベルスと、三度も形態を変化させながらいまだきっちり増刷のかかっている小説DQ(みだらにドラクエと略してはいけないと、エニックス――執筆当時――の出版部門のえらいひとにさんざん言われた)は、わたしの生活の根幹を長年支えてくれている。まことにありがたい、文句を言うなどもったいない、畏れ多い(ってこの場合正しいんだろうか)存在なのだが……いやー、シゴトですから。
 いろいろとたいへんなこともね、そりゃー、ありましたです。

 まず、なんといっても、原作が偉大すぎるほど偉大であったということが何よりでっかい壁でありました。

ピクミン
任天堂 (2001)
切ないテーマソングのCMで話題を呼ぶ。ジャンル的にはアクションとシミュレーションの要素が入っている。ハードはゲームキューブ。2004年「ピクミン2」も出ている。
→ama

 じゃあMOTHERは偉大じゃないのか? とさっそくツッコマレそうなので、大急ぎでイイワケします。
 言ってみればMOTHERは、糸井さんが趣味で作ったゲームでしょ。だからこそのよさが満載だったのね。世界観とか、システムとかに。たとえば偶然でくわす魔物を「必要以上にいちいち倒さなくても」プレイヤー=主人公のレベルが十分にあがり、きちんとクリアすることができる。MOTHER2のあとがきで書いたとおり、わたしはここに反映されている「思想」にものすごく感激しました。つまり「本質的にイイモンであるはずの主人公は、どうしてもしょうがない場合以外、弱いものイジメなんてことはしないはずだ!」というリクツと、実に平仄(ヒョーソクと読む)があっているわけです。
 どれとはいいませんが、RPGの中には、ありますよねー。そういう「気遣い」がまるでないものが。パーティーアタックを繰り返さないとなかなかレベルアップしないとか、とっくに最終ボスを倒せるレベルになってるのに、まだ全部の召還獣がゲットできてなくて、その分たぶんさぞかしすごいんだろうムービーを全部は見ることができてなくて、ここまで来たからにはそりゃーあるものはなんでも見たいから、結局、釣りセンターみたいなとこに陣取って居座って何日も何日も漫然ともっとも効率のよい敵が釣れることを祈りつつセッセと経験値稼ぎをしないとならなくなって、「アタシ、なにやってたんだっけ……? 世界は崩壊の危機に迫ってるんじゃなかったっけ? なのにこんなとこでただただスパーリングしてていいんだろうか?」って、そのうちに当然のことながら疑問をもってしまうとか。そーゆーの。
 なぜそーゆーことが起こるかというと、シナリオのほうではシナリオのほうでそれなりの都合でフラグをたてたり、主人公一同をレベルアップさせてより高度なワザが習得できるようにしたりとかしてて、その「演出」とか「タイミング」とかにコダワリがあるわけですね。で、ムービーチームはムービーチームで「ここぞ」という場面のムービーなどはのべ何十人が何百時間もかけて作る。どっちも、ヨカレと思って必死にがんばってやったものを譲りたくない。ここを削れとか変更しろとか言われると腹がたつ。「ここまで練りこんでこうなったんだ、譲れん!」みたいなことになっちゃって、「あー、じゃあもうい い、みんなアリにしようアリに!」ってなっちゃってるんじゃないかと邪推するんですが。もしそうだとしたら、そりゃ「船頭多くして」ってアレの典型ですね。
 そーゆー「ゲームバランスの悪い」ゲームは、どんなに凝ってても、キャラがたってても、ストーリーに意外性があっても、画面がきれいで動きがすごくて音楽もカッコよくても、「ゲームとして、基本的にダメ。間違ってる」とわたしは思います。みなさん、思いませんか? 平気なんですか?
 任天堂がMOTHERの誕生を許したのは、もちろん糸井さんの知名度やセンスや実力に関しての信頼度の高さがあったからでしょうし、ファミコン時代にはまだ、そんなにバクダイな時間や予算や人員をかけなくても、じゅうぶんに楽しい(そして売れる)ゲームができたってこともあるかもしれない。
 ファミコンがスーファミになり、やがて主流が移動してプレステ方面になり、PS2になってゆき、ダメバコことエックスボックスとか、ゲームキューブとかゲームボーイアドバンスドとか、各社各ブランドが「このゲームをやりたいとしたらこのコンシューマー機を買ってください!」作戦でがんばってますが。わたしもピクミンはやりたいんですが。ピクミンひとつのためにハード買うのもなぁ……。
 いやいや、ともかく、「ハード側」の性能の向上は、ゲームソフト側にも当然、せっかくの性能を存分に生かしきって、より迫力ある新しい面白さを提供することを要求しますわな。

















高屋敷英夫
脚本家。「飛べ!イサミ」(NHK 1995〜1996)や手塚治虫作品のアニメ脚本など数多くを手がける。



ガンバの冒険
NTV系1975年。原作は斎藤惇夫。手に汗にぎる冒険と友情のストーリー。

 だから、天下のドラゴンクエストになかなか続きが出なかったり、MOTHER3がほとんどできたというウワサが流れたのになぜか出なかったりするんじゃないかとわたしは思ってるんだけど……ゲーム制作サイドの苦労とかは、よー知りません。 

 とりあえず……わたしが「ノベライズ担当(個人的には、ドラクエ伝記作家と名乗りたいところですが)」に抜擢していただいた時点で、すでに、ドラゴンクエストシリーズは黄金のタイトルだったわけです。「いち」から「さん」までができており、その「さん」のゲームが驚天動地の大傑作で、ゆえにめるちゃんに誘われてヲタ本作らせてくれませんかと頼みにいったりしたというのは前述したとおり(ほんとうはドラゴンクエストのシリーズ名はローマ字表示するべきなのですが、機種によってモジバケするので、あえてこーかいてます)。
 「いち」から「さん」までは高屋敷英夫さんとおっしゃるかたがノベライズを担当なさっておられます。高屋敷さんはあの、アニメ『ガンバの冒険』の脚本をお書きになったかたです。
 そのセンパイから『天空三部作』こと、「よん」「ご」「ろく」のノベライズ権? を奪取させていただけてしまって、高屋敷さんには申し訳ありませんが、わたくしめはほんとうに嬉しかったし、ありがたかったです。ものすごい勉強になりましたし、多くの収入を得ることができました。新刊本が書店の「今週のベストセラー」などで燦然とトップに輝くという、モノカキならばだれでもが夢みる経験をさせていただけたのも、小説ドラゴンクエストあらばこそです。
 ていうか、なによりかにより!
 わたしはRPGドラゴンクエストを心の底からスゴイと思っていて、愛していたので、そのスゴイものに関わることができるというだけでも感激でした。
 が。

 ルビ伝での「テスト」を経て、いちおースキルを認められたわたしに振られた最初の仕事が「よん」で、そのゲームがまた、「うそでしょ」というぐらい、当時としては「信じられないほど」クリアまでのプレイ時間の長いものだった。でもって、「さん」までに十分感動していたわたしの目から見ても「すげぇ!」とマジ驚くような構成・展開をもっていた。
「こ……これを小説に? 全部?」わたしは担当のワタナベくん(わたしの歴代担当の中でも素晴らしいひと偉いひとベスト3に間違いなく入る、ものすごく優秀で、しかもシゴトへの愛をもっているステキなやつでした)を上目遣いに眺めました。「十巻かけてもいい?」
「だめです」ワタナベは即座にクビを降り、ピースより一本多く指をたててわたしの前につきつけました。「最大三巻。これは守ってもらいます」
「……うううう……やってみる……けど……」

 主要な登場人物だけで八人いるじゃん! あまつさえ、わたしごのみの美形(←二頭身絵でもちゃんと美形に見えている)悪役ピサロさままでいる。この全員にちゃんとそれぞれのキャラらしさをつけて、しかも見せ場を設けて、しかも、ゲーム版ドラゴンクエストを愛しているユーザーのみなさんに「ちがう!」といわれないようなものを書かねばならないのか……なんちゅー重たい任務や。

 もちろんドラゴンクエストの「第一」の生みの親は、堀井雄二さまです。彼のシナリオとゲームデザインのセンスは圧倒的です。でも、鳥山明さまのキャラ、すぎやまこういち先生の音楽と「三位一体」となってよりスゴミを増していることは否めますまい。そのお三方に対して、どうしたってもってしまう敬意。これがまず、高い高いハードルになりますです。
 しかし、ゲームはゲーム。小説は小説です。
 メディアの特性がまったく違う。
 ゲームでは「オッケイ」な部分が小説ではそうではなかったり、ゲームでは「ここが肝心」な部分が小説ではそのような機能を持たなかったり、いろいろするわけです。
 一例をあげれば、RPGドラゴンクエストをやっている間、プレイヤーがほとんどの時間何をしているかというともっぱら「戦闘」と「探索」でしょ。探索はまだいいです。小説でもそれなりに書きようがあります。しかし、戦闘シーンで、いちいちパーティーの誰を前に出して誰をひっこめて誰になんのワザをかけさせておいてから誰にどの武器でぶっ叩かせる……なんてーのをことこまかにいちいち書いたって、おもしろくもなんともない。
 ゲームでは、そここそが(「よん」の時ってすでにオートコマンドありましたっけ?)プレイヤーの工夫のしどころだ。大ボス中ボス戦以外は、そこらのミチバタや怪しい建造物の中で、同じ敵あるいは敵グループと何度も何度も遭遇して何度も何度もしつこく戦闘をするわけです。戦闘やってる時間が一番長くて、戦闘やって勝つ、勝ってレベルがアップしたり、オカネが儲かったりして、嬉しい。でもって、そのたびにHP MPが減ってったり、アイテムや魔法でそれを回復したり、どの時点でなにをやるかを判断する。ちょっとヨミを間違うと教会でお祈りをしてもらわないとならなくなったりする。はたまた大切なアイテムをとりそこなうとあとあとたいへん。
 よって、
 小説だったらぜったいに、敵のいる塔のテッペンまでイッキに駆け上がらねばならぬところ(じゃないと盛り上がらない!)、実際のゲームの場合、とりあえずまず一階を全部ゆっくりきっちり探索して、もうどこにも隠し扉とかないな、というのを確認して、パーティーの疲労度が半分ぐらいだったら、とりあえず一番近所の村(あるいはもっとも宿泊料金のかからない場所)に戻って一泊してやすんで、こんどは一階は最短距離をつっきって、二階くまなくを探索して……とかって、やるでしょう、やりませんか?
 これそのまんま書いたら、もう何巻あっても足りまへん。  
 「ゲームでやることそのまま」を、そのまま実録小説風に書いたって、ハシにもボーにもかからない、なんら面白くもなんともないものになる。
 どうしたって、大胆な換骨奪胎というやつをやらねばならんのです。
 大ドラゴンクエストを相手に!
 超偉大な人気作品を相手に!

 そのころ『ドラゴンクエスト』というシリーズそのものが既にゲームソフト界の怪物というか横綱というか、エニックス社(当時)の命運を、ほとんどイッコで背負って立ってたわけです。なにしろ出せば300万本とかあっさり売れちゃって、発売日の行列がニュースになり、悪いコドモがうまくトットと買えた子から強奪したとかいう事件までおきちゃうんですから。
 ドラゴンクエスト関連商品、にも、この300万ファンの需要がある。ドラクエえんぴつ、ドラクエノートなどなど、「まるしー」つけて、エニックスの許可を得なければ作れない。この商品の販売ってやつも、エニックス社(しつこいけど当時)の重要な収入源であっただろうし、あり続けているわけです。
 わたし自身、スライムTシャツを持っております。さらには、企画はあったけど実売はしなかったスライム・イヤリングの見本という珍品まで(担当のおかげで)持っております。魔法の鍵のついたキーホルダーは自分で買いました。さんざん使い込んだので、キーホルダーそのものはこわれましたが魔法の鍵はまだ大丈夫です。ガチャガチャで出てきたスライムナイトも大事にしてます。クレーンゲームでしかゲットできなかったらしいのを(アレはまったくヘタなので)オークションでたまさかみつけてワーイ! とゲットしたスライム・リュックサックも持っております(スライムばっかやね……)。わたしもファンのひとりで、ドラクエグッズで「好み」なものがあると、つい、手を出さずにいられないひとりなわけです。

 そんなにも思い入れのあるわたしが、『小説ドラゴンクエスト』という名前の、公認というか、公式というか、とにかく本家本元からきっちり「お墨付き」をつけたものを出そうってんですから、こりゃあ責務は重大ですよ。胃が痛くなります。なにしろストーリーもキャラも原作をさんざん使用させていただくので、ドラクエ独占版権使いまくりです。
 んなことが許される特殊な「商品」には、それだけのしっかりとした価値がないといけないし、ドラクエの名を汚すようなものはけっして出してはいけないわけです。

 よって、ソフト(ゲーム)制作サイドからの「強烈」な圧力があるのも、無理からぬことなのでした。「スジを外すな」というお達しも掛け値なしでした。
「あー、なんでも好きなようにやってください」だった糸井さんとこの仕事とは、もうまるで別な世界でした。

 まずゲームをやります。やりながら、全部ビデオに撮り、同時にメモも作ります。自分の印象に特に残ったところとか、たぶんあとできっちり書くことになるだろうシーンとかは、いろんな角度から丁寧に見返したりします。あとで見つけられるようにビデオの何分めあたりがソレかもメモっておきます。前に戦った敵とまたバッタリ出会ってしまってふつーの戦闘になっちゃったとことかはムダなのであわててビデオを止めて節約しますが、それでも、ものすごい巻数のテープが必要になるの、わかりますね? ちなみに、プレイヤーの「はい、いいえ」でその後の展開がそれぞれ別になっていそうなところは、SAVE機能を使って、「はい」の場合の展開と、「いいえ」の場合の展開をいちいち全部確認します。もちろんすべての「そこらのひと」と会話し、すべてのヒキダシをあけてみるように心掛けます。それでも漏れが生じてしまったりするので、ついには、こんなものを作ってもらったりしました。

 シナリオを熟知した制作サイドのかたが、いっこいっこ確認しながら「会話」の「全画面」を収録したものです。ちなみに画面はモノクロのコピーで、たぶん、エニックス(当時)側にもこれと同じものがあったのだと思います。
 ああ、あのころ録画可能DVDがあれば……!
















マイケル・ムアコック
1939年イギリス生まれ。多くのアンチ・ヒロイックファンタジーを発表。「この人を見よ」でネビュラ賞受賞。エルリック・サーガ(ハヤカワ文庫)は代表作の一つ。

 さぁ、自分はクリアしました。話の全体は読めました。
 しかし……いろいろと疑問がある。
 ていうか、正直いうと、なんかよく考えてみると、結局のところ、よくわかんない謎が大量に残ってる。天空城ってなに? 竜のかみさまとの関係はどうなってるの? 勇者ってなにもの? 勇者にしか着用できないエクイップメントのもとの持ち主がいたよね、そのひとの生涯ってどんなだったの? 前の「かみさまと魔王の戦い」からこれまでの歴史は? かみさま方面と、人間の町とか村とかと、魔界とは、よーするに「この世界」は物理的にいってどういう構造になっているわけ?
 シリーズ根幹、建築でいえば、基礎コンクリートにあたるここらの大疑問をブツブツ言うと、担当ワタナベは、横倉さんという超強力ブレインをつけてくれたのです。「賢者」横倉さんは、まずわたしに、ピサロを描くにはマイクル・ムアコックを特にエルリックさまのシリーズを全部読みこむよう勧め(実に適格なおしえでした)、それから、いっしょに、「この世界」のさまざまな謎をひとつひとつ解き明かしました。でもって、オモテには出さないまでも、いちおースジの通る説明を、三人して必死にひねりだしました。
(そうやって必死にひねり出したものが、「ご」以降の天空篇のシナリオにボトムアップで影響を与えるということがまったくなかったのが、正直ちょっとザンネンなんですけど……「ご」とか「ろく」とかでこの時の“仮設定”にあわないところが出てくるたびに、頭かきむしって悶絶しましたからねぇ)
 さまざまな文化や既存の素晴らしい作品に精通しておられた横倉さんという超頭脳によって、「おおっ、その手があったか!」な素晴らしい啓示を授けられた部分も多々あり。
 この三人が三人そろわなかったら、「よん」はあーはなってなかったです。
 でもって、三人とも、異常なほと「完成度の高さ」にこだわるタイプだった。

 でもって、
 それでもどうしてもわからない、わからないと小説を書くのに障害となるから解決しないわけにいかない大疑問が出てきちゃったりすると、もうしょうがないんで、お忙しいからあまりおわずらせしてはいけないのを知りながら、堀井さんご本人に質問も発しました。
 わたしがもっとも困惑したのは、「よん」の場合、ロザリーヒルでした。この話はどっかで既にしたので、繰り返しになるかたもあるかもしれませんが……。
「なぜ、あのロザリーがとじこめられてる村が、よりによってロザリーヒルという名前なんですか? たとえば、昔そこらにロザリーという聖女のようなひとがいて、なんか奇跡でも起こしたので、そのひとにちなんで、この地方では生まれる娘さんにはロザリーという名前をつけるのがやたら流行っているとか、そういうことなんでしょうか?」
 堀井さんはお答えになられました。
「あのね。ドラクエは小学校低学年の子も遊ぶのね。町とか村とかあんまりたくさんあって、ややこしいでしょ。だから、ロザリーのいるとこはロザリーヒル。わかりやすく、覚えやすく、そうしたの」

 そ、そ、そんなメタフィクショナルな理由は使うわけにいかないー!

 そもそも……小説では、カッコ良さとわかりやすさは、しばしば「相反」するんですね。
 カッコ良く書きたかったらわかりやすさを犠牲にしなきゃならないし、わかりやすくかくとダサイものになりがちなのよー! でもって、わたしはどっちかっていうと、わかりやすいよりカッコ良いほうを選びたいタイプのモノカキなのよーーーーー! ほらなにしろ「小説で読んではじめて得られるところの“エロス”」が、なによりカニよりエビより大事だし。

 ここで諦めるわけになんかいきません。
 知らん顔して開き直ることもできませんでした。
 かくて、わたしは(ワタナベと横倉さんの助けを借りつつ)必死に知恵をしぼって「ロザリーがいるところがロザリーヒルで当然な理由」 ――これなら文句ねぇだろう、これなら見事にスジがとおる、どおだ、ざまあみやがれ! ――をひねりだし、原作ゲームにまったくありもしなかった場面をやたら大量に書くことになってしまったりしたわけです(それがまた偶然にも? 最愛のピサロさまについても――エルリックさまに負けないぐらいイイオトコにしたい一心で――いっぱい書いちゃうことを必然としてしまったりしたので、もう嬉しかったったら)。
 で。
 ハッと気がついたら……
 その部分だけで既に最初の一冊の半分近くを埋めてしまっていたんですねー。なにがなんでも全部で三巻に収めなければならないっつーのに! おかげで一巻めは「ライアン」までしかいけなかった。ゲームプレイ時間を正確に反映するとすると、このままだとやっぱり十巻かかっちゃいかねない……。だめだ。この調子で調子にのってると自分で自分のクビをしめる。あとは飛ばせるとこは飛ばそう。しっかり書き込みたいシーンも、あらすじ調で切り抜けよう。もうそれっきゃない。攻守のキリカエをはやくして、おしてるとこではおしまくり、守るところでは守りきるだけだぁ……!

 そんなこんなで、悩みながら、戸惑いながら、セッセと執筆すすめます。
 なにしろゲーム発売から小説版発売まで、あんまり間があいちゃーいけないんで、シメキリ、かなり早めに厳しかったですから。
 ある程度まとまった部分までできると、編集部におくって、チェックしてもらいました。
 なにしろシーンごとの「正確性」が極めて厳格に求められたので。

 たとえばですね、氷結系に弱いマモノがいたら、そりゃあ、氷結系の魔法が使えるひとは全員それをやるのが「ふつー」です。ゲームをプレイする場合は。でも、小説だとそれじゃつまんないじゃん! それぞれのキャラごとにそのキャラらしい個性ある戦いかたを演出したいじゃん! で、勝手にありもしないワザを繰り出させたり、ふつうにプレイしていてその敵と遭遇するレベルではまだ習得できない計算になる魔法をうっかり出させたりすると、
「ありえません」
 と、きっちり発見されちゃう。
「変更してください」
 どの巻のどのマモノだったか忘れましたが、ぶっ叩くと途中で変形変身していくヤツがあった。でもその色がねー、なんつーかとっても形容に困る色だったんですね。画面的にはハデで怖くていいかもしれないけど。小説的には、文字的には、活字的には「蛍光きみどり」とかって、なんかマヌケでしょ? 真紅とか、漆黒とか、そーゆー「伝統的にわるもん向きの色」ってもんがあって、文章で見る分にはそのほーが「雰囲気出る」。でも、「正しくない」色を使った場合は、もちろんチェーック! されて、「ゲームのとおりに」直さなくてはなりませんでした。
 この問題を打開するために、わたし、色彩辞典とか宝石辞典とかを何冊も購入しました。
 同じような色でもビミョーに違えば、名前もちゃんと違ってて、「おお、これなら雰囲気にあうではないか!」な形容をみつける助けにできますから。その結果が、ほとんどの読者が聞いたことのない「色の名前」になってしまってたって、わたしのせいじゃないもーん。

 そんなこんなで、なんとか「よん」が完成したのです。あんなにゼッタイといわれたのに一巻増えてしまって四巻になってしまいましたが(最初のバージョンでは)。一巻ごとに、それらしい四文字熟語の副題をつけてくれたのは天才ワタナベです。いのまたむつみ先生の絵がまたすばらしかった。胃を抱えてうずくまり、血を吐きそうになりながらがんばっただけの甲斐のあるものができたと思います。

 ちなみに、上のような厳しい検閲?があればあるほど、それをこっそり潜り抜けてイタズラをしたくなるのがヒネクレモノのわたしのサガで、たとえば「よん」の冒頭、ピサロさまと幼いロザリーの出てくる場面には、読みようによっては「ちょーあぶないシーン」があるんですよー。『このラノ』の白翁さんが小学生の頃、「よん」を読んで感動したというので、「ウフ、気づいてた?」と聞いたら「ええっ? そんなのありましたっけ?」読み返してみて「うわああああ! そ、そ、そういうことだったんですか!」
 そうです。

 ほら、カッコ良さとわかりやすさは相反するの。

 どんなにどんなにわかりにくくてもカッコ良いほうがいいの。十分にカッコ良ければ、十分に気持ちいい(読む“エロス”つまり快楽を感じられる文章・文体・構成なら)部分的になんだかよくわかんないとこがあっても、まっとうな読者ならスイスイ気にもとめずに「読めちゃう」ものなの(だから、昔読んだっきり、もう十年も読み返してないってかたは、この際ぜひ、読み返してごらんになってくださいましね。コドモの時にはピンとこなかったところで「ああっ」と驚くようなのがいろいろあったりするかもしれないよ、ふふふ)。
 わかるひとにはわかる、わからないひとにはなにげなく読みとばせるようなもんを、わたしはいーっぱい書きました。ゲームには裏コマンドとか隠しダンジョンとかが「あったほうが楽しい」から。小説版でも、それをやりたかった。
 実はすっごくイカガワシイことも、邪悪なことも、キタナいことも、ワルイことも、検閲の目を逃れていっぱいいっぱい書きこんでおいたのです、意識的に。ルビの必要な難しい漢字熟語も、ふつー日常ではつかわない用語も、どんどん出しました。華麗な場面には華麗な表現を、すっとこどっこいなキャラにはすっとこどっこいな文体を、手品のようにするりと一瞬にうちにキリカエたりして使い分けました。正調ファンタジー風美文から落語モドキまで、ありとあらゆる「自分につかえる武器」を駆使しまくりました。だからまぁ、もしかするとゴッチャゴチャで、バランスは欠いてるかもしれませんけども……。
 だって舞台はこの世じゃない世界なのよ。そんなに単純でわかりやすいわけないじゃん。
 それにね、いくら世界を救うための戦いだっつったって、ケンカはケンカよ。戦闘って本来、チマミレで残酷で非道なものなのよ。それをオキレイな、無害っぽいものにしてしまったのでは、逆に、小学生の良い子のこころにまちがった偏見を与えてしまう。そこんとこ、わたしはものすごく責任感じたし、気をつかった。
 いくら勇者でも、運命の戦士たちでも、戦うってことは生命がけで、強そうな敵を前にしたらすごく怖いはず。ぶたれれば痛いし、ケガすれば弱る。仲間が苦しんでいたら心配で泣きたくなる。リセットボタンおせばヤバいことをなかったことにできたり、教会いってお祈りしてもらえば死んだのが蘇ったり、おカネはらって買った高いくすり飲ませればどんな病気も一瞬でなおったりするなんて、そんなのはウソ。世界はそんなにご都合主義にはできていないのよーーーーーー!

 というような強情なまでのコダワリを貫かせてもらったわたし、確か「ご」の時だったと思うんだけど、「まってよ、にいさん」のあのヒョウキン泥棒コンビがミョーに気にいっちゃって、彼らの「日ごろの生活ぶり」をとことん追求してリアルに描写してしまって、気がついたらその分だけで200枚ぐらいになってて、これはあっさり全ボツになりました。よく書けてたんだけどなぁ。捨てました。残ってません。ええ、たぶんどこにも残ってないと思います。たとえもし、すっかり忘れられた埃だらけのフロッピーとかに残っていたとしても……コミケとかオンライン上とかでこっそりそんなもん発表するわけにもいかないし。みつかったら、たいへんなことになりますから(著作権法違反で)、闇に葬るしかなかった。だって全面的にドラクエによってたっている200枚なんですから。
 そんで200枚まるごとボツにしても、まだ多すぎた。
「今度こそ、何が何でも、三巻で収めなさい」
 堀井先生からの、厳しいお達しがきてたのです。
「じゃあ、思い切ってページ数をふやすとか……」
「だめです! ドラゴンクエストのファンには小さなお子さんもいると何度もいってるでしょう? そのオコヅカイで買える値段のギリギリが、一冊1500円、全三巻。これを越えることは許しません」

 ある日、ワタナベくんと横倉さんとわたしは、エニックス(当時)の一室にこもり、いちおーの完成原稿の全ページをすべて、一文字一文字、一文章一文章、いちいち細かくチェックして、協議して、削りに削りに削りぬきました。ムダな文章は徹底的に排除し、ゆるんだとこは全部シメツケました。もともとはカナにしていたのを漢字表現になおして無理やりツメたとこもあります。行変えしてたのをやめてくっつけて、わずかなスペースを節約したとこもあります。だから「ご」は白いとこ少ないと思う(笑)。わたしの記憶では、たしか、全部やるのに6時間かかったんじゃなかったかな。ほぼ休憩なしで。ぶっとーしで。いったん休憩でもしようもんなら、緊張が途切れちゃいそうだったし、全体を同じテンションで貫くためには、イッキにやるしかなかったし。
 そもそも時間がもうオシてたし。
 その作業が終わったときには、三人とも、気絶寸前の消耗度でしたが……
 その時、(たしかその時だと思うんだけど)ワタナベくんが言ったコトバをわたしは忘れません。
「ひどいことをさせてすみません。もし、これが久美さんのオリジナルな原稿だったら、ボクはココまでさしでがましい真似はしません。でも、ドラクエだから。ボクはドラクエが大好きで、久美さんに勝るとも劣らないほど好きだから。自分の心のドラクエをすごく大切だと思うし、ファンのひとたちひとりひとりがみんなそう思ってると思う。だから、少しでも良いものにできるように、自分たちにできる限りの最大限の努力をしなきゃならないと思うんです」

 その熱いワタナベくんが突然エニックスをやめちゃって、外国に勉強にいっちゃって、スノーボードのティーチング・プロになっちゃったのが、たしか、「ご」と「ろく」の間ぐらいだったのではないかなぁ。わたしは太平洋のど真ん中でオールを流しちゃったような気分になりましたです。

 実は「ろく」は、もうちょっとで、やらせてもらえないところでした。あまりに細かくツッコミをいれてきて、ひとの言うことをきかなくて、へんなとこにこだわるバカ女で、いい加減イヤがられうるさがられてたのだと思います。とういか、堀井さんが理想とするのは、もっともっとずっと「こども向け」の、小学生の良い子が安心して読めるような無害な(笑)よみものだったのに、コイツにやらせとくと、やれ「陵辱」だの「惨殺」だの、ことがチナマグサクなる。小難しくなる。
 今度は別のひとに発注をかけてるらしい、というウワサを聞いたとたん、わたしは真っ青になり、直接話させてくれと電話をかけました。
 天空三部作は天空三部作、三つでワンセットでしょう。お願いですからこれだけはどうしてもやらせてください。ここで著者を変えてしまったら、三部作のバランスが崩れます。
 今度はなるべくわかりやすく、あんまり怖くないように書きますから。ちっちゃい子が夜中にトイレいけなくてチビっちゃいそうなようなシーンは書かないように気をつけますから。ちゃんと原作を尊重して、三冊にきっちり収めますから!
 その時、堀井さんは驚いていらっしゃいましたね。
「ああ、そんなに本気だったんですか」みたいなことをおっしゃいました。「そんなにやりたいと思ってるなんて知らなかった。むしろ、もうたくさんだって、迷惑がってるのかと思ってた」
 いいえ、いいえ!
 なんだかんだ逆らったように見えたのは、おおマジの本気で熱意と愛をもっていたからこそです。テキトーに手を抜いてやったりなんか、わたしはぜったいしてません。だからやらせてーーーと懇願して「ウーン……じゃあ、そんなにいうなら、しょうがないですね」とオッケイしてもらえたときのあの安堵といったら。もー、ダメっていわれるかもって生きた心地しなかったし。
 内心、ここでいきなりクビを切られたら生活できねー! というのも、実はあったんですけど(仕事場たてちゃってローン組んだりしてたりして)。
 それもそれとて、それ以上に、ワタナベ亡きいま、横倉さんの助けも借りられなくなった(なんでだっけ? そうだったと思う)いま、日本でいちばんドラクエの小説化に精通しているのはこの自分本人ただひとりであり、自分以上に「経験値」の高いやつはいない。
 わたしよりうまく書けるやつなんているもんか、いないはずだ! せっかくの二度の経験をもう一回生かさないなんてもったいなさすぎる! というのもありました。








「エンジン・サマー」
著 ジョン・クロウリー
訳 大森望
福武書店 (1990)
該当のあとがきが「大森望のSFページ」こちらに公開されております。

 好きなものにほど手をだしにくい、とSFのところでいいましたが、ドラゴンクエストに関しては、どんな優秀な小説家が手がけても(三冊以内とか、原作に忠実とか、さまざまなハードルをクリアしなければならないという同じ条件だとしたら)、ぜったいに誰にも負けない、他のどの誰より、わたしがやるほうが「マシ」だ! と勝手に思い込んでいたのです。
 アレです。大森さんが何かを訳したとき(『エンジン・サマー』だっけ?)におっしゃっておられたのと同じ。
 ずっと清純なまま大切にしていたい女の子が、トシゴロになって、そろそろバージンを捨てたいようなキモチになっているらしいのがハタからわかる。穢したくない。ほんとはバージンのままでいて欲しい。そのままそこで時をとめてしまいたい。でもそれができないなら……他のやつにヤラレルぐらいなら、このオレがぁーーー! みたいな。
 そんな気持ち?

 で、「ろく」はなんとかワガママを聞き入れていただいて担当させていただいたのですが、「なな」になると、コンペティション形式になりまして、ゲーム冒頭何時間分だったかを事前にビデオで見せてもらい、100枚ぐらいだったかな、原稿にして提出して、バトルして、……敗れ去りました。
 負けたときは悔しかったけど、実はちょっとホッとしもした。これでようやくドラクエの呪縛から逃れられる……と。 

 結果、よかったんじゃないかと思います。
 「なな」は天空三部作とはちょっと雰囲気違うから、ここで作者をいれかえるのは大正解だと思うし。
 正直いって、「なな」のストーリー構成には、わたし首ひねりました。なんだかんだ疑問だらけだったりしたので、万が一コンペに勝ってしまったら、そーとー苦労したに違いない。また堀井さんにイヤがられるような(イヤミなツッコミにしか聞こないかもしれないような)「余計な」質問を大量にぶつけただろうし、あれに忠実に書かねばならないとしたら、ものすごいストレスがかかっただろうと思います。
 イヤ、これはあくまで「やらせてもらえなかったから」そう考えて自分をなんとか納得させているだけ……つまりイソップの酸っぱいブドウのキツネの発言みたいなもので……もし、やらせてもらえていたら、ぜんぜんまったくこんなこと言わなかったかもしれないですけど。
 以下、「なな」の内容に触れるので、もしかしてこれからプレイしたくて、細かなことは知りたくないひとは★から★まで飛ばしてください。


(反転します)

 典型的で、もっとも大きく「ひっかかった」のは、おさななじみの王子さまと思わせぶりに別れたっきり、結局、最後の最後まで会えないとこ。なんか短い手紙が届くだけ。あれを小説で美しく、読者を納得させるように描く自信がわたしにはまったくありませんでした。ありゃー「夢オチ」に次ぐほどの「そりゃないよ」です。「伏線」の回収しそこないにしか見えなくなっちゃうと思います。

(反転おわり)


 ちなみに。
 ナマグサイ話になりですが、
 小説ドラクエの現在出ている版の場合、わたくしめが頂戴できる印税は5パーセントでございます。ふつう10パーなところ、ちょっきり半分ですね。たしかもうちょっと世の中がバブルで景気がよかった頃には6パーだったか6.5パーだかだったような気もするんですが、いつの時点だかで、書籍の原価がどうのこうので、ドラゴンクエストそのものに対する版権の最低基準がなんだかんだで、とにかく今度からこういうことになるけどスマンがひとつよろしく、みたいな感じでそーなった。
 それでも、ええ、たくさんの収入をいただきましたよ。
 他ではありえないぐらいの単位の。
 わたくしが今日あるはまさにドラクエのおかげさまさまです。
 なにしろ、版形が変わるたびにドッと出て、ほぼ毎年のようにコンスタントに増刷がかかるのなんて、ドラクエだけです。もちろんけっしてわたくしめごときの実力などではなくあくまで天下のドラゴンクエストのご威光です。ひたすらありがたく思うのがあたりまえ文句をいったらバチがあたります。
 10パーのうち、わたくしめが頂戴できない分は、原作者、原案者、キャラの使用権、その他、なんかあっちこっちでちょっとずつわけるらしいです。
 もちろん当然です。だって、ストーリーも、キャラも、怖い魔物とかも、いろんな謎も、みんなみんな他の誰かが作ってくれたやつに「のっかって」書いてるだけなんだから。
 ですが、それにしても、もしかしてひょっとして10パーだったら、銀行預金残高に毎月のように溜息をつかなくていいのにな、某社に前借りを頼んだりしなくてもすんだかもしれないなぁ、などと思ってしまうのが正直なところ。
 はたまた、いつだったか、図書館で働いておられるかたにうかがったのですが、貸し出し頻度の高い本のリストを毎年つくっているけれど、小中学生部門では、近年小説ドラゴンクエストのわたくしめの書いたあたりがずっと断トツのケタ違い一位キープだったと。もしかして、英国のように、そういうふうに利用者が多い本の版元および著者、あるいは、若いひとに読書の楽しみを実感してもらうのに役立った人間には(公的機関が貸し出すことによって、書店販売だったら得られたはずの収入の何分の一かでも)補償をする、という制度があったらなぁ……、と思ってしまうのも事実です。

 ちなみに某MOTHERの場合、昔はわたくしひとりが10パーまるどりで、さすが糸井さんちはきっとわたしなんかとはケタ違いに儲かってるからこんなコモノのところからまでいちいち取り立てなくても平気なんだなぁ、と思っていたのですが、平成版MOTHERが発売になることになって、新潮文庫が復刻になったら、「復刻してもいいけど、だったら印税の一部をウチにもくれなくっちゃだよ」といわれたらしいです。「もともと当然の権利だったのだが、これまで行使してこなかった。世の中がこんなふうになってきたから、すまんがいよいよ行使するからね。コレくらいはちょうだい」と。任天堂さんなのか糸井さんなのかよくわかりませんが、とにかく突然にそういうことになったので、単行本一冊のネダンがちょびっと値上がりもしたみたいです。

 世の中、どんどんセチガラクなってるなぁ。

 えー。
 というわけで。

 ドラゴンクエストという日本えんため史に間違いなく残るだろう大いなる「事件」に、七分の三ですが関わり、十何冊も「超りっぱな原作つき」で、つまりストーリーもキャラも自分で作らなくてすんじゃって、楽勝ラクチンなシゴトで大儲けしたんだろう! ズルイな、ラッキーだったな、オマエ、と思っておられたかたがあったかもしれませんが、たしかにむちゃくちゃラッキーだったし(ワタナベ氏がMOTHERを読んで気にいってくれなければありえなかった出会いだったし)、楽しかったし、ズルいのは生まれつきです……そして、シゴトですからね。いいことばっかなはずがないです。苦しんであたりまえ。血を吐
く努力をしてあたりまえ。原作のほうが「優先」だという原則のゆえに、自分の納得のゆく解決法がみつけられずに、歯をくいしばって、苦いものを飲み込むようにして、目をつぶってやっちゃった部分もある。
 あのシリーズには、ふつーの自分の作品を書くときの、何十倍ものエネルギーを使ったような気がする。
 でも。
 結果として現在存在する天空三部作のノベライズ版は、わたしの誇りであります。
 たぶん一生そーでしょう。
 久美沙織の「代表作」は、永遠に、かの素晴らしい原作つきのノベライズで、それを「越える」ものはついにかけないかもしれない。
 まっとーな小説家は、原作ツキのノベライズなんてやらないもんだ、自分オリジナルを書いてりゃいいじゃん、という意見もあるやもしれませんが。
(そもそも、こども向けリライトに否定的だったはずのオマエがそれに近いようなことを自分からやったってことにかんしては反省はないのか? ともツッコマレそうですが)

 原作を深く深く愛するならば、
 ある意味で原作者以上にイレこんでる部分すらあるんではないか(たとえばピサロさまに対して)と自覚していたりすれば、
 原作ツキゆえの制約を納得した上で、「それでも」書くという選択もある。
「書かせてください!」とドゲザしてでも頼みこみたい原作もある。
 自分の持てるすべての力を注ぎ込んでガップリ四つに組んで戦いたいときがある。

 そーゆーこと。

原稿受取日 2004.5.1
公開日 2004.6.10


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