創 世 記
第19回
「ナンバー19」



 そういうお名前のバンド(ていうかデュオ?)もおられましたが「じゅうく」はわたしにとって、たいへん意味深い、無条件に"愛"と直結するナンバーになってしまいました。

 現在横浜Fマリノス所属そっちでは11番の坂田大輔さまが、アンダー23・オリンピック代表に選ばれて、2004年3月1日バーレーン戦(のベンチ)で、まとった日本代表ユニのナンバーだったので。
 いや、「代表」としては、FIFAワールドユース2003UAEラウンドで、ワールドユース大会において日本人として初の得点王(といっても通算「4ゴール」で、同点だった選手があと3人――ドゥドゥ(ブラジル)、E・ジョンソン(USA)、カベナギ(アルゼンチン)――いたわけですが、まぁとにかく)の栄冠があり、その時彼は実は「10番」だったんですけど……。
 彼が、いっこ若い世代なのに、あの大久保嘉人を押しのけて、栄えあるオリンピック代表に選ばれた! というニュースが出たのが2月16日。おりしも代表ユニが2004年のニューバージョンに変わったところで、「買おうかなぁ、どうしようかなぁ」と迷ってたたわたし。坂田くんが出るなら、彼のサポになろう! と決心。でも、いったい背番号が何番になるのか、わからないんですね。JFAのサイトを見ても、スポーツNAVIを見てもわからない。未決定らしい。
 いつもサッカー(応援)用品を頼んでいる辻スポーツの辻幸三郎さまに「何番になるかそっちでは早くわかりませんか?」「すみませんがわかりません。2月20日のキリンチャレンジカップ(U-23 対韓国戦)は、言わばオリンピック最終予選UAEラウンドの壮行試合ですから、たぶん、そのナンバーになるかと」「じゃあ、それ見てから発注しますが……それで3月1日に間に合います?」「間に合わせます!」間に合いました。
 かくて、わたしの「2004バージョンのユニ」は「SAKATA 19」になって、もちろんどの世代の代表の試合のたびにも、女子の(おめでとう!)試合でも、必ずそれ着て、ヤタガラス旗を振って応援しているんですけど(我が家では、国民の祝日に玄関先に日の丸を掲げるかわりに、日本代表の試合の日にヤタガラス旗を掲揚します)。
 ご存知のかたはご存知のように、坂田くんは日本ラウンドのメンバーには残れず、アテネにいけるかどうか、ちょっと……イヤ、正直とっても……怪しくなってきました。
 でも……わたしはそんな坂田くんが好きです。
 どうも、そんな坂田くん「だから」好きなような気がする。

 そもそも日本のサッカー人口はこのところかなりすごいわけで、そんな中、こどもの頃からずっと、同年代の周囲の子たちより『圧倒的』にうまいやつらだけが生き残って、サッカーに青春を賭け続けて、やがて、ほんの一握りのひとたちだけが、お正月の高校選手権とか、Jリーグとかに出てテレビに映ったりするようになる。
 そこにいるのは全員、もと「おやまの大将」だったと思う。
 ちっちゃい頃から、誰にも負けたことがなかった、つねに圧倒的に一等賞だったひとたち(中には双子とか、静岡県のようにやたらにサッカー少年密度が高くて、幼い頃からすでにいま一緒にやってるコと知り合いだったりする場所もあるわけだが)。
 それが……えーと、ウロオボエな数字だが、毎年毎年200人ぐらいの新人がJリーグにスカウトされてやってきて、その約半分が鳴かず飛ばずのまま一年で解雇されて消えてしまう。J1チームの一軍で活躍できるのは「おっそろしい選別」を潜り抜けてきたひとたちだけ。その上さらに「代表」がある。夢を言えば、日本代表として世界各国代表と戦い、全部制覇し、四年に一度のワールドカップで優勝でもし、「最優秀選手」とか「得点王」とかにでもならないかぎり、「完璧な」勝利はありえない。
 ほとんどの「もとお山の大将」は、このどこかの時点で、いやおうなく、挫折を味わわされるだろう。ライバルたちと比べて「何かがイマイチ」な自分を見つめさせられる。
 この試練に耐え切れないと、戦い続けられない。挑戦し続けられない。なまじ、もとが「大将」だったからこそ、プライドを傷つけられるぐらいなら、とっととあきらめて、別の何かになろうとしたりしないとも限らない。
 神童とか、開校以来の秀才とかいわれたやつが、高校・大学・大学院と、だんだん「同じぐらいのレベル」のひとたちの寄せ集めの中に没していって、ふと気がつくと、その集団の中では「ごく平凡なやつ」にすぎなくなってしまっている……みたいなもんです。
 でもって。
 プロスポーツ選手の「旬」は短い。
 ケガでもしたら、なおさら短い。
 すると、遠からぬ将来には、JFA日本サッカー協会理事になるとかどっかのチームの監督になるとかであくまでサッカーに関わり続けるか、もしくは、まるで別な商売をはじめるっきゃない。
 ワールドカップもオリンピックも四年に一度ずつしかないから(交互にズレてはいるが)、たまたま、「肝心なとき」を失ってしまう危険性も高い。ひどいケガをしたとか、カラダ壊してしまったとか、なんらかの理由で「自分の最高の時」を輝かせることができないと、とっても悲しいことになる。

 坂田大輔の場合、背の高さではヒマラヤじゃなくてヒラヤマ190に叶わず、途中出場の少ないチャンスに何故か得点する強運では高松大樹に叶わず、瞬発力や突進力やボール扱いのうまさでは大久保嘉人や田中達也にいまひとつ叶わない。アンダー23オリンピック代表候補としては、実に「ビミョー」な位置だ。Jリーグで所属しているマリノスにも、これまた、久保とアンジョンファンという「どっちもフル代表クラス」なふたりの「次」ぐらいのポジション。

 だから
(顔だちとか無精ヒゲとか、いまどきギャル男風の金茶髪ロン毛などなどの全身のルックスと、「動き」の質――単に機敏なだけではなく、なにげにダラダラしていて気配を消しているかと思うといきなりキラーな動きをするあたり、ウルフだ、とわたしは感じる――が超好み、だということをおいといても)
 わたしは彼が好きでたまらないんだと思う。
 切り立った崖っぷちを必死に駆けている(おお、ブレードランナー!)から。

 安泰な地位なんかどこにもない。右も左も、足を踏み外したらこわい絶壁だ。ちょっと怠けて手を抜いたら(いや足か?)それで終わりだ。たちまち二軍オチするだろう。いや選手生命そのものも危ないかもしれない。
 自分より「うまい」「強い」連中がいることはよくわかっている。否応なしに自覚させられてしまった。まずは彼らになるべく近づけるように努力し続けなければならない。自分なりの良いところを磨きつづけなければならない。そうして、たまに出場のチャンスがめぐってきたとき、ちゃんとフルコンディションで働けるように、少ない時間で最高のパフォーマンスが見せられるように、常に準備していなければならない。
 Qちゃんこと高橋尚子選手が、アテネ五輪のマラソンの「補欠」にすら選ばれなかったことについて尋ねられたときに、「補欠では監督のメニューはこなせない。実際に本気で戦うんだという確信がなかったら、戦えるところまで自分をもっていけないし、維持できない」といったような意味のことを答えていた。そうだろうと思う。
 ケガするかレッドカードにでもなっていないかぎり、まぁ順当にレギュラー出場「できるだろう」ことが決まっている選手よりも、常にその「次」ぐらいのランクにいる選手のほうが、シンドイと思う。セツナイと思う。
 それは……モノカキでいうなら……編集さんのほうからヒッパリダコではなく、連載がひとつ終わると次の話がくるわけでもなく、『こんなの書いてください』としょっちゅう言ってもらえるわけでもなく、あるいは、どんなゲンコウでもいいからとにかくくださいと言われるような立場などではまったくなく、たまたまにお呼びがかかった時に、「やるじゃん」と言われるだけの自分にしておかなければならないことと同じだ。
 基本的にはウレッコのひとたちに比べると圧倒的にヒマだから、自分の中から自然と出てきてしまったものをどうしても書きたくて書く。練習しておくみたいに。売れるかどうか、発表できるかどうかわからないものに、何ヶ月もの時間とエネルギーをつぎこむのは、正直、ツラい。だが、そうせずにいられない。いつかすべてが実を結ぶと、信じて。

 そーゆーわたしは、たぶん、坂田くんに「自分」を見てるんだと思う。
 もし自分がいまコドモで、運動神経がよかったら……こんだけサッカーが好きなんだから(見てるだけだけど)サッカー選手になりたいと思ったに違いない。「もし男子だったら」という条件をうっかりつけそうになったが、こないだの北朝鮮戦を見たあとでは、「女子であっても」「是非やりたい!」度合いがかなり高いかもしれない。
 たぶんまったく勝手な思い込みなのだが、
 坂田大輔はわたしにとっては「こうなりたい自分」の象徴だ。
「確実」より、「ぎりぎり」。
「安全」より、「ばくち」。
「現状維持」より、「意外性」。
「トップオブザトップ」より、「あと一歩でもしかするとトップ」。
「既にみんなが認めていて流行してるものや、一流ブランドだと烙印を押されてるもの」より、「ヘンだったり傷があったりして売れ残ってしまったもの」「あまりに個性的すぎて誰も手を出さないオリジナル一点もの」。
 つまり
「マジョリティー」より、「マイノリティー」、それも極少、へたすると「唯一」。
 自分は、モノカキとして、そして、人間としても、なるべく、そーゆーもんでありたいと思う。
 ゆえに、よそに「典型的なそーゆーもん」をみつけると、やたらな共感というか同盟というか"愛"を感じてしまって、すっかりイレコンでしまうのであった。

 う……うわぁ!
 サッカーに、あるいはスポーツに、なんら興味のないかたには、おそらくとってもつまんないことを、長々と書いてしまいました。すまん。
 けど

 すべて「細部」は全体の反映。
 ようするに、たぶん、わたしというやつのやることなすことの根源には、上に書いたようなことがら、よく言えば「可能性」悪くいえば「不確実性」への希求があるのではないかと思う。
 それはわたしがモノゴコロついてまもなく「転校生」になり、以来、高校入学までのほとんどの時期をずっと「転校生」で居続けたことと無縁ではないだろう。
 民主主義の基礎は必要悪としての多数決で、社会は主として絶対多数の幸福を多く実現する方向に向かってすすむべきものであるかのように喧伝されている。タテマエはそういうことになっている。……とかいいながら、実は国民の大多数をしめるサラリーマンや零細企業関係者の幸福よりも、既得権益者のそれを守ろうとする力があまりにも強いではないか、とか、ほんとに少数の少数民族などは保護を訴える権利があるからかえって得をしてるように見える気がしないでもない、とか、まぁいろいろあるわけだが……
 転校生というのは「はみだした存在」で、「多数」に含まれないというか、圧倒的に「多勢に無勢」状態に直面させられたやつだ。それまでいたところとこんどきたところとのあらゆる場面での微妙な「違い」をつねに意識せざるをえないし、新しいほうに擦り寄るのか、それともこれまで培ってきたほうを頑固に守りぬくのか、ぶつかるごとに、いちいち自分で判断してきめないといけない。しかも転校が一回こっきりではなくて、「またここからもいずれそのうち去ることになる」と思っていたりすると、すべてがものすごく「たにんごと」に見えてしまったり、「虚無的」に感じられるものになったりする。
 否応なくものごとを客観的にみる目を養わされるわけだが、それは幸福なこととは限らない。はたまた、つねに「なかなか溶け込めない、完全にはナカマにしてもらえない、ほんとうのともだちができない」こと、大仰ないいかたをすれば「孤独」に、忍耐し、辛抱しつづけなきゃならないことになる。

 いっこ、いつか使おうと思ってだいじにあたためてる卵があるのをここで紹介・披露しよう。わたしのもんだよ。誰も盗むなよ。
『永遠の二年生』
 というタイトル。
 タイトルだけがあって、まだ中身がない。
 でも、どういう意味なのかは自分ではわかっている。
 どんなものになるかは漠然とだけ、わかっている。
 中学や高校は三学年でできている。
 タマシイがいちばんやーらかくて、まだ自分がうまくかたまってない時期を、わたしらはみんな「三年くぎり」で過ごす。あるいは過ごした。
 三年生は、センパイで、「上」で、エライ。
 一年生は、新入生で、フレッシュで、可能性に満ちている。
 なぜかガッコウという組織では、どの年度にもその時の「一年生と三年生」がナカヨシで、「二年生」がはみだす傾向があるもんじゃないか?(個々の事例ではなく、あくまで一般的なナガレとしてですが)。生徒会とか、部活動とか、あるいは運動会や文化祭などの「実行委員」みたいな学年横断的な事物にかかわりあう場合、一年生は三年生の言うことをよくきいて手足となって働いたりしてかわいがられるのに対し、二年生は「ナマイキにも」逆らってみたり、なまけてみたり、勝手な単独行動をとってみたり、とにかく、三年生にとっては「めざわり」な存在になりがちじゃないか?
 実際の学校生活では、去年の一年は今年の二年になり(落第したやつは別)三年生は卒業していく。でもって、こんど二年生になったばかりの去年の一年生は、今年三年生最上級生になった去年の二年生からみると、「去年のあのイヤな三年とツルんでた気にくわぬヤツラ」なので、やはり、二年生は「ウザがられ」、今年の三年生もまた、新たな一年生のほうをついヒイキし、可愛がるのである。
 ガッコを卒業してみると、たかだか二三年のトシの差なんてないも同然で、そんな中でセンパイだコウハイだといちいち意識してこだわっていたのはまったくアホくさくなるのだが、実社会にも「三年生的」なポジション、「一年生的」なポジションがある。「指導者」「体制側」「現状を作り出したやつら」「管理職」と、「それにスナオについていくヒヨッコ、ペーペー」だ。というか、会社などの組織はだいたいが「それ」でできている。年功序列は廃止したとはいえ、組織はかならずピラミッド構造だから。
 で
『永遠の二年生』
 は、ここでも「浮く」。
 あるいは漂う。
 落ち着かない。
 上からは抑え付けられ、下からは追い上げられ、それでも、自分らしさを捨てることができない。
 わたしは『永遠の二年生』であり、
 他にもおおぜいおられるであろう、この世の多くの『永遠の二年生』タイプの人たちに向けて、「おーい、みんな、元気かぁ」と言いたいのだ。「楽しくやろうぜ」と言いたいのだ。「ケッ、ったく三年も一年もウザいよな」「この世はやつらのモンだと思ってやがる」と。そして、『二年生』であり続けていくことの「おかしさ」と「かなしさ」を、「たのしさ」と「しんどさ」を、バカバカしさと、バカバカしいとわかっていてもどうしても譲れない何かを、いつかマジにステキに、描きたいと思っているのだ。



 この『二年生』の「2」もそのひとつであるが、数字とは不思議なもので、単なる整数のひとつでありながら、どうもそれだけではない。数秘術なんてものもあるぐらいで、どうやらひとつひとつにその特殊な性質や「意味」があるらしい。
 特定のナンバーが、特定の個人にとって、特定の思い入れのあるものになる、ということは、みなさまがたにもご経験があろう。
 初恋のひとの誕生日とか。初エッチの日の日付とか。あるいは何浪もしてようやく合格したときの受験番号とか。逆に、組ちがいでハズレだった宝くじのナンバー、あるいは、もうちょっとで万馬券を取らせてもらえそうだった時の「まさか」の穴馬のゼッケン。収監されて番号で呼ばれるようになったその一連の数字の並び。
 人生の機微つまり喜びや悲しみにはさまざまな数字が付随することがあり、その瞬間から、1から無限にいたるまさに無限個の正の整数の中の本来なんら特別なところはないはずのたった「いっこ」がたまさかあなたにとって「特別の数字」になってしまう。
 わたしはもともと「9」が好きで、それはもっぱらかつて「009」島村ジョーさまが好きだったからだが、二乗すると9になる「3」も好きで、クミは「93」とも表記できるとこが、内心気にいってたりした。
 でもって
 こんど新たに「19」というフタケタの数が、さっきダラダラ書いたようにやたら「思い入れのある数字」になってしまい、そもそもこのラノのこのコラムは草三井ことさか○だいすけさまが「はじめに」に書いてくれたように、坂田と酒井の二人の「大輔」の恐ろしいまでの偶然の一致がなければ、そもそもはじまるわけもなかったもので、酒井くんはなんの因果かその時点できっぱり19歳だった。
 だから……
 長かった(笑)ここまでは、この第19回の「まえおき」なはずだったんだが。
 そう。
 わたし、この番号で、このコラムは、とりあえず、いったん「終了」するのが正しいのではないかと思っちゃったのだ。

「アラもう19回なの? まぁ19回! じゃあ、そこまでよね」
 と。

 ついこないだの第16回のおしまいの部分にくっついてた、さか○だいすけとくみさおりの愛の交換メール(?)みたいなの、あれはなんなんだ、あれからまだ一週間とたってないじゃないか、永遠に書き続けたかったんじゃないのか、そんなにトットと気が変わるのか、オマエは! と、すかさずツッコミが来そうだが(笑)
 すんませんそうなんです。
 わたし、多情で濃密ですが燃えやすくまた冷めやすく、おまけにとってもワガママなんです。

「やめろ」といわれると「やらせろー」と言いたくなり、
「やめないで」といわれると「もういいだろ」と言いたくなるのは、
 これはわたしだけではない、世のヘソマガリの全員がニヤリとしながら頷かざるを得ない「自然な反応」でありましょう。
 だってさ。
 ひとからやめさせられるのは不本意だけど、自分からやめたくなったらもうできねーじゃん、というのが、いたってジコチューなやつの『本能』あるいは『煩悩』なのでございますね。

 ていうか、
 そろそろネタもつきてきたし。

 早見裕司さまの『ジュニアの系譜』はじめ、他にも何名かの優秀な執筆人による「執筆」が着々と画策準備されつつあり、ならば、こうまでダラダラと長くなってしまったものは終息させて、すみやかに別のかたにバトンタッチしてもいい頃合だな、という気もしちゃうのでございます。

 ほんまに勝手なやつで申し訳あたりませんが、「遊び気分」で書きたくなって書き始めたコレ、夢中で遊んで知らぬまに遊びつかれていたこどもは、カラスがカーと鳴く声をふと耳にして、夕暮れ時が近づいているのに気づき、いつの間にかそーとー空腹になっているのに気づき、「あっ、もうかえらないと、かーちゃんに叱られるう!」なんてあわてて思うんですね。
 こんなやつですから、またなんの予告もなくいきなり舞い戻ってくるかもしれず、他のかたがお書きになられたのを読んで黙っていられなくなって乱入するかもしれず、未来のことはわかりませんから、なんら確約はできませんが
 とりあえず、なまじ20なんてキリのいい数じゃなく19でやめる「わざとらしさ」こそが「わたしらしさ」であるという直感?を重んじて(♪14番目の月がいちばんすき、とYUMINGもおっしゃっていることだし)、ここで、とりあえず、この項目は終了したいと思います。



 最後だから、作家と作品はたしかに分かちがたいもので、一時は臍の緒でくっついていたものだけど、いったん生まれて世の中に出てしまえば、もうベツモノなんだよ、という話をしよう。

 不思議なことがあるものでしてね。
 すっごい優しい、人間ばなれしてこころの清らかな天使か聖人のような登場人物をたくみに造形することのできる作家が、実際の自分の人間関係は「どへたくそ」で、ほとんど「ひとの気持ちのわかんない」「ぜんぜん優しくないひと」であったりすることって、珍しくもなんともないのね。
 あのキャラが書けるなら、そーゆーふうにすればひとに好かれるってことがわかってるはずだ、あーゆーふうにしてもらうとひとは嬉しいのだな、感動するのだなとよーくわかってるはずだ、だったら、実際アンタもそーすりゃいいじゃん? と思うのだが、ここらへんには「わかっちゃいるけどやめられない」というあの名文句が関係しているのかもしれない。
 逆に言えば、サイコパスで冷血な連続殺人犯の鬼畜な心理描写をこれでもかとリアルに描いてみせることができるひとが、こわいほど悪いひとかというと、そんなことはない。能天気に楽しいコメディを描くひとが、実は明るく希望にあふれた日常の真反対の状況におかれていたりすることもある。
 というか、むしろ、ほとんどそーなんじゃないかって気すらする。


多田かおる
「愛してナイト」(テレビアニメ化)、「デボラがライバル」(映画化)、「イタズラなKiss」(テレビドラマ化)など。99年不意の事故により逝去。
公式:多田かおるオフィシャルサイト

 故人になられてしまった多田かおる先生が『愛してナイト』だったかなぁ、もうすっごいハッピーでラブリーで可愛くてステキな楽しいマンガを連載していたとき、「大好きなんですよー」と、とある編集さんにいったら、……実は、多田先生はいま大変で、闘病中の母上が入院しておられる病院にツメておられて、病院だから消灯がある、夜中にも描かないとシメキリに間に合わない、だから真夜中でもちゃんと灯りのある「階段」に腰を据えて描いておられるのだ……という打ち明け話を、聞かされたことがある。
 ウソでしょ! と正直思った。
 作品には、そんなカゲはミジンもにじませておられなかった。
 あくまで元気で楽しくて、ハッピーだった。
 なんて強い、なんてスゴイ作家だろう、多田先生は……!
 そう思って……カゲリひとつないマンガのキャラたちの笑顔をみているうちに、どうしようもなく泣けてきて、以来、多田作品は、おかしければおかしいほど泣かずに読めなくなった。ご本人が天国にいってしまってからはなおさらである。

 そのへんからかなぁ。
 いや、もとからかな。へそまがりだから。
 わたしは無邪気で根っから明るいコメディを観ると、涙で画面がろくに見えなくなるほど泣いてしまい、あまりにもシリアスすぎるものを見ると、ついつい顔をゆがめて失笑してしまう。
『チャンス』という、『ピンクパンサー』で有名なピーター・セラーズというひとが「知的障害をもってるひと(たぶん)」の主人公を演じる映画を観にいった時のこと。
 映画館じゅうのひとがゲラゲラ腹をかかえて笑ってるシーンで、わたしはたったひとりハンカチを顔にあてて号泣をこらえている自分を発見して、これはどうも間違いない、脳みそにおかしな回路ができている、と確信した。
 世界はオセロ板みたいなもので、ハシッコに白がくると、全部の黒がだだだーっとひっくりかえってしまう。陰陽はたがいを補完するから、一見セキララに浮かびあがっている表層の下には、正反対なものをおのずと内包している。悲劇は悲劇でありすぎればもう間違いなく喜劇であるし、喜劇は喜劇として完成度が高いほど悲劇なのだ。

 よって……「今年最高の感動作品、これは泣けます!」みたいな方向にとっても自信たっぷりに宣伝されているものを視聴あるいは読書などすると(最近そーゆーのなんか多くないスか?)「まってました! おねがい、泣かせて!」とすなおに思ったりなどできない。
 むしろ、「どれどれ、ナンボのもんや。お手並み拝見……ふうん?」みたいなつい冷笑的なタイドをとってしまいがちになったりする。
 逆に、笑えます、ギャグです、ぜったい楽しいです、といわれているものだと……ほんのちょっとした一瞬のせいで、うるうるきて、しまいには、だーだー泣いて、ハナミズまで垂らして、あうあうオットセイのように嗚咽してしまったりするんである。
 我ながら壊れてるとは思う。

 どんな種類のものであれ、ものを作るひと……つまりクリエイター……は、未完成で不幸で満たされていないこの世界を『補完』するための何かを作り出すためにエネルギーを使う。
「クリエイト」創りだす、とは、そういうことだ。
「世界」は当然現存する自分、ここにいまいる自分を含むから、そこから生まれてくるものは、確かに自分から出たものでありながら(だから著作権は主張するが)、自分そのものの影というか真逆というか、ウィルスに対するワクチンのようなものになりがちなのではないかと思う。

 だからね、作品にホレてしまって、この作品の作者はきっと「この作品のもたらした印象と同じ印象をもたらしてくれるひと」だろう、と思ったりするとたいがいマチガイです(笑)。
 なにしろモノカキとかクリエイターというのは全員「職業的うそつき」なので、「ないものを作り出す」名人で、演出とか、演技とか、ミスディレクションとかが「得意」なのですから、だまされてはいけません(笑)。あるいは、だまされていることを承知の上で、楽しくだまされてください。

 そんなこんな言うわたしも、作者と作品をちゃんといつも「区別」できているかというと、そんなこたーないよ。だめっす。「わかっちゃいるけどやめられない」。
 そして、鍵穴を調べれば鍵のかたちがわかるように、影を見れば実体のほうがなんとなくわかるように、デキてしまうものは生んだもののなにがしかはどうしても引き受けている。
 すべての作品にはどうしても作者の「指紋」が捺されている。

 いつだったか、同世代の同性の同業者のナカヨシ一同が十名ぐらいかなぁ、集まったとき、
「わたし、コドモの頃、オンナの子って苦手だった。だから、こんないいオンナともだちができたのは、この世界に入ってからだよ」
 とひとりが発言し、わたしもそうだよ、わたしも、と次々に手があがった。
「わたし、コドモの頃、通信簿にいつも、協調性がないとか、ナマイキだとか、我が強いとか、問題児だとか、個性が強すぎるとかって書かれた」
 わたしも、わたしも、と何人もが言った。

 この21世紀も、吉屋信子先生の時代から、実はさほど隔たっていないのかもしれない。
 一般的にいって、女性の性質はふつう、保守的で現状肯定的であり、絶対多数に融和的であり、なかまはずれになるぐらいなら周囲にあわせるし、オトコ受けのいいファッションはコレだ! と言われればすなおにそれを模倣するし、自我などというウザッタイものにへたに拘泥したりせず、いくらでも何度でも妥協をし、そのかわり身軽に次々に変遷することができるのではないだろうか。
 なのに、モノをかかずにいられないオンナは、他人の視線をなんとも思わない「異形」の「怪物」の一種で、コドモの頃から近所でも評判の変なコで、ごくふつうのひとであるところのクラスメイトたちには理解してもらえず、女子集団の中では、浮いてしまうか孤立してしまいがちなのだ。
 だからこそ、
 ものがたりという自分だけの世界に逃避して、そこに棲みかをみつけるのかもしれないし、
 因果が反対で、
 あまりにも強固な自分を持ってしまっているから、現実とうまくやっていくことができないのかもしれない。

 では、そんなやつらの書くものがたりが、なぜ商売になるのだろう?
「ふつうの女の子たち」はそんなもの好きではないのではないのか?
 それとも……一見ふつうに適応してうまくやっているひとびとも、内心では「周囲にあわせてばかりの八方美人な自分」にウンザリしていたり、状況にあわせて擬態するようにしょっちゅうコロコロ態度を変えるから「ほんとうの自分はどこ?」状態になったり、するのではないのか?
 なんだかわからないが、
 われわれはともあれ読者を獲得することができて、「こんな自分」でも生きていける場所を見つけた。
 もしかすると、ある頻度で、読者さまがたうちの何人かに「実はほんとうはこうじゃなかった自分」を発見させ、また「新しい怪物」を再生産していったりすることもあるのかもしれない。
 男性作家/読者の場合はどうなのか、あるいは男女どちらにしろ同性愛的なかたがどうかなのか、わたしオトコじゃないしヘテロなんでよくわかんないんですけど、先にあげた女子の例とは必ずしもまったく同じではないにしても、そっちはそっちで別の事情から……たとえば、社会のあるいはなんらかの集団の構成員としてのあるべき自分のなすべきことがらと、若いオスとしての本能のあふれるままの行動との乖離とかなんとか……やはり、引き裂かれていて、ダブルバインドで、平気で矛盾なのかもしれない。


 作者と作品はベツモノである。
 が、ひとは、自分のものの考えかたという狭い檻の中に住んでいるケダモノなので、他人もふつーは自分と同じようにものを考えるだろうと無意識のうちに誤解してしまうものだったりする。
 疑り深いひとというのは、本人がいつも笑顔の底で他人を出し抜くチャンスを狙っているものだし、
 嫉妬深いのは、本人が現在まさに浮気やフタマタをしているか、過去にそーゆーことをして隠しているか、ラブハンター願望を常に抱えているかのどれかだ。

 ものを書くということは、
 しばしば多くの登場人物に独自の性格づけをし、一定の動機を与えることでもある。
 どんなに必死に変化をつけようとも、空想や研究によって補おうとしても、すべてのキャラにはその作家ならではの偏重が刻印される。
 すべての小説が架空という意味でファンタジーであると同時に、続きがどうなっているか知りたいという意味ではサスペンスであり、なんらかの謎とその解明がある限りミステリである側面も持っていないことはなかったりするわけだが、罪(犯罪として法に問われるほどのものでないとしても)の種類なんてそーそー多くはない。『セブン』で有名になった七つの大罪を列記してもいいのだが、もっと単純に、「経済的動機」「怨恨・嫉妬・プライド」「愛憎」の三つに限定してもいい。三原色がすべての色を生み出すように、この三つが微妙にぐちゃまらに重なると、ありとあらゆる動機が発生する。
 どの作家も、そのうちのどれかに(意識的であれ無意識的であれ)独特の固着がある。
 だから、作品を読まれるということはこっちのココロの奥底の一番ヤバイところにあるドロドロなものをさらけ出すことに他ならないのだが……

「わかっちゃいるけどやめられない」ゲンジツには行動できないことであっても、そもそもまったく「わかってない」ことはかけないはずだ!

 が……不思議なものでして……

 小説のかみさまというのが降りてくるとですね、本人が「書ける」ものを、作品が勝手に「越えて」しまうことがあるんだよね。
 いわゆる「キャラが勝手に動き出す」状態になったりして。
 書いてる端から、作家本人が「ええっ、そうだったのか!」なんで驚いたりする。
 なにげにたまさか「そーゆーこと」にしておいた設定が、あとあとになってから、実は重要な伏線で「だから」なになになのだぁ! などという、「作者も知らなかった真相」がある瞬間突然みえたりするんだよ。
 ファンタジーなどの場合は、この世ではない世界そのものを『造る』わけだけど、ほんとーにマジ、齟齬のなく整合性のあるこの世ならぬ新しい世界をいっこまるごと作ろうとすると、一生に一作品も書けるかどうか、はなはだアヤシイわけ。だって、みなさま、『現にあるこの世』のことだって、スミからスミまで理解なんてしてないでしょ? 文化・経済・歴史・政治その他その他、全部熟知なんてしてないでしょ? でも、日常生活には不便はないよね。

 小説のかみさまが降りてくるタイプの作家の場合、ものがたりを先におしすすめるために必要な場面、必要な空気、必要なすべてのものは、必要になったその時にいきなり「きわめてリアルに見える」のね。
 映画みたいに見えるひともあれば、漠然としたまだ文章化できないイメージで見えるひともあるだろう。文章そのもので出てきてくれれば便利なのだが(笑)少なくともわたしの場合はそうではない。わたしは「夢をみるように」小説をみる。
 ご存知のように、夢はまず「雰囲気」だ。たとえば、なぜ悲しいのかまるでわからないのだが、やたら悲痛な悲しさだけがとにかくあったりする。そこで起こることがらが悲しいのではない、いわれたセリフが悲しいのではない、しかし、とにかくひたすら悲しいのだ。
 その悲しみが大きければ大きいほど、なんとかして、他の悲しみではないこの悲しみを、まさにこれそのものを、伝えたいと思う。なぜか、その悲しみはわたしだけのものではありえず、大勢のひとに共通するものに違いないと確信してしまっているからだ。わたしが慎重にうまく描きさえすれば、万人に「ああ、これは知っている、わたしもこれを見つけたことがある」と思ってもらえるのではないかと思う。
 かくて、わたしはなんのカタチもない「雰囲気」を必死にデッサンする。なんらかの輪郭がとらえられたと思えたら、配色し、トリミングし、額縁にいれる。

 こういうわたしの書き方は「計算しつくされたプロット」になりようがない。「お約束のキャラ配置」(たとえばガッチャマン型……つまり、主人公と、皮肉屋で侮れない二番手と、デブなやつ、チビなやつ、紅一点)などを、きわめて「戦略的」に設定することもできない。ストーリーは、起承転結もあらばこそ、ただのイキアタリバッタリだ。

 われながらよくこれで四半世紀も生き延びてこられたものだと思う。

 そもそも日本人には「一芸に秀でる」「なにかにひとすじにうちこむ」ことに対する尊敬の伝統があり、ワンパターンと呼ばれること必ずしも非難ではない。『水戸黄門』がお手本だ。「毎度おなじみ」の展開、クオリティ、いつものおなじみの登場人物、キメゼリフ。それらをこそ、そのほうを……イキアタリバッタリで、海のものとも山のものともわからない何かより、あきらかに「好む」「ほしがる」層が大勢ある。
 そちらのタイプの作品をコンスタントに生み出すことができる作家のほうが、そりゃ、安心して買える。

 なにしろわたしゃ、かみさまが降りてこないとなにもできないわけで、かみさままかせ、他力本願だから、作品の質とか、量とか、すまんが本人にもどーにもコントロールできない。で、いちいち毎度やることが違って、この前の自分をこんどの自分が裏切るようなこと、しょっちゅう起こる。
 こないだの作品が『このみにバッチリ』だったから、次も読んでみようっと! な読者のひとにとっては、ほんとに迷惑なまでに不器用で申し訳ない。

 しかもわたしは、ひとつの作品にはその時点で持っているすべてを出し惜しみなく徹底的に注ぎ込まずにいられないほうだ(なにしろかみさまがそうしろっていうんだもの!)。おかげで、何かをイッコ書きあげると……あるいはひとつのシリーズを終えると、もののみごとにカラッポになってしまう。
 次になにかをやるためには、自分自身の精神的肉体的エネルギーを蓄えつつ、ものがたり世界で、なにかがゼロから……あるいはゼロに近い種子のようなものから……ひそかに発芽して育っていくまで、じっくりと時間をかけて待っている以外、なにもできない。
 かみさまー、そろそろ降りてきてくださいー、といくら祈っても、かみさまにはかみさまの都合があるらしく、とっとと降りてきてくれるときもあれば、なかなか降りてきてくれないときもある。いまこられても困るっつーに! な時に降りてきちゃうことすらある。
 だからシゴトがのろい。
 ていうか、計画的にできない。
 したがって余裕がない。
 高度資本/消費主義社会には実に不適応で、まったくもって不器用だけども、他の方法は選択できない……。
 こうして改めて考えこむと、こんなタイプにうまれついちまって、しかもそれ専業でプロで食っていこうとするのは、ほとんど無謀としか言いようがない。
 かみさま、いつ来なくなるかわかったもんじゃないんだし。

 だがしかし……ここまで歴然と不利なのがわかっていてもそれでもなんとかして自己正当化でもしないととてものーのーと生き続けてはいられないから平気な顔してしゃーしゃーと正当化するんだが……わたしは幸福なのだ。
 なにしろかみさまと直通しているんで(あああぶない発言……)
 かみさまは、根がイジワルなのか、他でもいろいろ用事があって忙しいのかしらないが(まぁそうだろうなぁ、人類60億もいるしなぁ)ほんとにタマにしかきてくれないけど、きてくれたときには、たいがいスゴイものをくださる。
 わたしごときのセコい脳みそがセッセと企てる論理の限界など、ヒョイッ、と超えてしまうようなものを。
 スゴイもの、といって、嬉しいとか素晴らしいとか言わないのは、まことに不遜であるがそれがしばしば、わたしがひそかに欲しがっているものと、どーも、ちゃうことが多いからである(あああ、このバチあたりめが)。
 ともすると、ひとがもらったもの(たとえばベストセラーとか。○○賞とか)を見て、胃袋がキュウと鳴くほどの飢え渇えをかんじてじまったりするからだ。

 だがしかし。
 かみさまは、完全で万能であるからして、背負いきれないものは寄越さないもんだそーだ。
 ということはだ、わたしが欲しいと思っていたものは、わたしにはふさわしくないものだったということになる。わたしはわたしがもらったもので満足せんといかんということになる。
 よその誰かがもらったものは、まさにそのひとがもらうべきものだったのであって、わたしなどがいくら欲しがっても詮無いのである。
 よって……
「ったくさぁ、かみさま、勘弁してよ、もうちょっとちゃんとメンドウみてよ。頼むよ」とかなんとかブツクサいいながらも、わたしはわたしがもらってしまったものを後生大事に預かって、あたためたり、洗ったり、セッセとみがいたり、やりすぎて壊してあわててボンドでくっつけたりしながら、なんとかそれなりのかたちにして、また「世界」にむけておかえしするのである。

 わたし自身はどんなにズタボロになってもかまわない(ほんとはイヤだけど、できればハッピーでラッキーでルンルンにしていたいけど)が、作品だけは(なにしろかみさまから来たありがたいものなので)幸福になって欲しいと思う。いつでもどこかで誰かに発見され読まれて、「好き!」といってもらえたらいいなと思う。「おう、これぞ、わたしが読みたかったものではないか!」と……、作者であるわたしは顔も性格も年齢も境遇もなんにも知らない一生であうこともない語り合うこともないどこかの誰かに見つけてもらってとことん「愛される」可能性を持ち続けていて欲しい、そのためには、できるだけ長いこと生き延びて欲しい。

 作品は、たまたまかみさまがこのわたしを選んでくれて、わたしによって受肉され、この世に届けられたかもしれないけど、本来は、「天」にあるものだから。
 ただのイッコの人間という物体にすぎないこのわたし自身よりも、
 そっちのほうがエライ。
 ずっとエライ。

 わたしという現象は
 仮定された有機交流電燈の
 ひとつの青い照明です
 (あらゆる透明な幽霊の複合体)
 風景やみんなといっしょに
 せはわしくせはしく明滅しながら
 いかにもたしかにともりつづける
 因果交流電燈の
 ひとつの青い照明です
 ……
          宮沢賢治『春と修羅』序


 こんなに美しい表現を生み出してくれたセンパイがおられるのだから、もう、これ以上ヨタを重ねる必要もあるまいが、あえてつけくわえさせていただくと


 いのち、は、一瞬たりともとまらず動き続け、どこにもけっして留まらない。

 コレに対して、作品は少し「別の次元」にある。
 ある意味では静止している。変わらない。しかし、有限のいのちを持つ受け取り手という個々に異なった相手を得るつど、いきなりキラキラと開花する。まるで硬い石のような種が雨の季節に芽吹くように。氷河に埋もれていた太古の種子すら、あたためられてよみがえるように。

 いかなる作者も、作品に奉仕するために偶然選ばれた宿主にすぎない。



 そりゃーあたしだって人間ですから、プライドとか、メンツとか、これまでのつきあいとか、因縁とか経緯とか過去の実績とか日常生活上の必要とか、いろいろいろいろ瑣末なことがあるわけだけども、
 自分がラクすることとか、有名になることとか、儲けることとか、みんなにチヤホヤされることとかを、ついつい求めてしまいそうになるんだけども、

 かみさまからもらったものを、ちゃんとステキにかたちにすることができて、世界に向けて送り出すことができたら

 ほとんどそれだけでかなり幸福なんです。



 ああ。人生80年。モノカキには定年も引退も退職金もない。道はまだ半ば。どこまでいけるんだろう。いかねばなぁ。



 ちなみに……この項目の大半は、5月5日には書き上げていたものなのだが、その後、スレッドなどで多数の会話を交わしたゆえ、6月5日に、かなり手をいれた。原型は半分ぐらいしか留めていないと思う。
 余計なことや、スレッドのほうでもうさんざん話題になりわたしもわたしなりの考えをいちおう述べてしまったことは思い切って消して、それでもどうしても伝えたかったことを足した。
 ゆえに……もしかしてスレッドはあまりに怒涛のように次々にいろんなものが出てきてるから読んでませーん! というかたがおられたとしたら、すまんが、どうかそちらも読んでいただきたい。

 "ライトノベル"の創世期の諸般の事情をセキララに書くつもりが、気がついたらほとんど自分のことばかりしゃべくってきた。なにしろすまん、ジコチューなのだ。こんなやつのことなどどーでもいいかたがたにとっては、さぞかし鼻についてうっとおしかったことだろうと思うが、各スレの盛況を見ると、それでもなんらかのかたちで何人かのひとびとの思考を触発し、活発な議論のタタキダイになることができたらしい。少なくともその点では、意味がなくはなかったのではないかと思いたい。
 大勢の、これがなかったらたぶんそうそう知り合えなかっただろうかたがたと、かなりディープに交流することができたのも、わたし個人にとっては嬉しい収獲であった。8月頭には都内某所でえんため大賞の授賞パーティーがあるはずで、ファミ通文庫関係者は大勢つどうはずだ。スレで知り合った(なんだか、普通の友人たちと以上に、すんごいややこしいことに関して、さんざんいろいろ話し合って、もはや戦友のような気がしないでもないかたも少なくない)かたがたのうち何人かには、その場でお目にかかれるのではないかと思い、楽しみにしている。その前にいきなしどっかで刺されたりするのかなぁ。氷室さんの予言、はやくも成就されてしまうのだろうか……ううむ辞世の句をつくっておかねば。

 いんやー、ダラダラ好きなように書かせていただいて、ババアのくりごとに長らくおつきあいいただきまして、ほんとうにどうもありがとうございました。みなみなさまにこれからもステキなことがたくさんたくさんありますように。
 じゃ、また。

(2004年5月5日 久美沙織)    

公開日 2004.6.18


目次にもどる

『ライトノベルファンパーティー』にもどる