『撲殺天使ドクロちゃん』 論 撲殺天使ドクロちゃん
おかゆまさき
電撃文庫/メディアワークス
ISBN 4-8402-2392-0


 結論から言って、誰かがやるべきだった作品である。特に、自分が属するジャンルに不満を持ち、活気がない、売り上げが落ちている、読者のニーズが分からない、やりたいことが分からなくなってきた、などと口にする作家・編集は、こういうことをすべきだった。
 パロディ作品の出現は業界成熟の証拠である。幾つもの手法が定型化し、何度となく繰り返され、しかもそれが広範囲のニーズを獲得していなければパロディは成立しない。パロディがあって初めて業界は成熟し、かつ新たな発展への足がかりをつかむことが出来る。
 パロディとは読者・書き手・編集の間で成立した共通了解を再確認させる装置である。作品内でパロディされているものがそもそも何なのかを読み解かせることで、そのジャンルがどういった要素で成り立っていたかを現実的な共通了解として認識させるのである。
 それは閉じていた場所に穴を空けて、外部にあるものを流し込む役割をも担う。それまでお約束ごととされていたものに疑問を呈し、それとは違う法則や常識を流し込んでぶつけ合わせ、意図的な破綻をもたらすことによって、使い古された手法の再定義をはかる。
 周辺から遠巻きに眺めるような視点(ドン・キホーテ式)でそれをやるか、頭上から見下ろすような視点(デウス・エクス・マキナ式)でそれをやるか、あるいは内なる声(トリックスター式)としてそれをやるかは、はたまたそれら全ての手法を入り乱れさせるかによってパロディの行方が定まる。
 『スレイヤーズ』や『日帰りクエスト』がファンタジーにおいて頭上から見下ろすような視点によるパロディを行ったのに対し、『撲殺天使』が行おうとしているのは男性向けライトノベルにおける内なる声としてのパロディである。
 その『撲殺天使』の手法の根幹は、以下の一文に端的に表れている。

 《突然こんな自分の妄想から抜け出したような可愛らしい女の子に微笑みかけられて茫然としない男が、はたしているでしょうか》

 まず「突然こんな」という文頭である。
 小説に限らずギャグの多くが「転」を要求される。起承転結のうち「転」で物語の大部分が構成され、いわゆる「オチ」でさえ次なるギャグへの「転」でしかない。
 この恐ろしく早いテンポを文章化するにあたって『撲殺天使』では「突然こんなこと」がひたすらに続く。全ての事象が「突然」起こり、それがさらに別の「突然」になぎ倒されてゆく。何が伏線になるかはそのときのノリによる。そのとき最も「突然」と思われるものが自然と伏線になる。ドミノ倒し式の展開であり、その中核が「撲殺」である。突然に撲殺されかつ生き返る主人公によって、延々とさらなる「突然」が語られてゆく。
 
 そして「でしょうか」という文末である。
 この作品に特徴的なのは主人公の一人称における丁寧語である。激しい出来事の全てが穏やかで冷静ともいえる「ですます」口調で語られてゆく。これが「突然」と対をなして非常に面白いテンポを生む。「転」だけの爽快感は、容易に読者の疲労感を招く。ドタバタギャグは情報が多くしかも全てがナンセンスだから当然である。それを「ですます」口調で効果的に和らげる。丁寧語だから語尾が長くなる分、ワンテンポの休息が常に与えられる。しかも激烈な事態に陥っているにもかかわらず丁寧な口調というギャップ自体が楽めるため、次の「突然」への楽しみが邪魔されることはない。
 と同時に、これが読者への訴えかけとなっている。それは哀願であり問いかけでありときに煽動である。この作品における一番の被害者である主人公の声こそ、読者を引きずり込む一番の牽引力となっているのだ。
 しかもこの訴えかけは、物語内の事態を説明すると同時に、常にパロディを内にふくんでいる。そのキーワードが「妄想」である。

 「自分の妄想から抜け出したような」と「可愛らしい女の子」という言葉回し。
 本来、「可愛らしい女の子」自体に、何の問題もあるはずがない。害もなければ嫌悪をかきたてるようなものでもない。ましてや妄想などという言葉に修飾されて意味が通じるものではないはずである。それなのに「自分の妄想から抜け出したような」と表現された途端、何か途方もない問題がそこに起こっているかのような印象を帯びる。
 これは、ただ単にヒロインが主人公を撲殺するという意外性を強調する文章ではない。「可愛らしい女の子」という存在がどこから来たかということへのパロディなのである。
 その存在が、多くの読者のニーズによって成立したものであること、書き手も編集もイラストレーターも意図的に造り上げてきたものであること、しかもそれがジャンルの常識として共通了解が成立していることなどが浮き彫りになる。
 そうした風潮へ向けられた端的な批判や皮肉の言葉が「妄想」である。極端なまでにデフォルメされた美少女の絵や文章は、よからぬ思いによる産物であり、ときには病的でさえあるという意味合いで「妄想」という言葉が用いられるというわけだ。
 この作品の主人公は、そうしたジャンルの常識と一体化された人物である。
 「妄想」と自己批判しつつ、実際にそれが現実化すれば「茫然」とするしかない。そういう人物像が、パロディとして、かつギャグとしてここに成立しているのである。これは誰もがやろうとして果たせなかった視点である。
 「自分の妄想から抜け出したような可愛らしい女の子」という一文は、ジャンルとその周縁、さらには個々の内面の全てを凝縮させることに成功した希有なヒロイン(のパロディ)描写である。
 これは「妄想」という言葉を積極的に使用し、笑いかつ笑われる関係を主人公と読者の間に成立させた文脈である。「妄想のごとき可愛い女の子」になぎ倒される主人公を読者が笑うという構造は、明確な風刺であり、『撲殺天使』が優れたバランス感覚と広範囲な視点によるパロディ作品であることを示している。
 
 また一方で、この作品を論じる上で欠かせないのがオノマトペ(擬音語)の多様化である。これまでライトノベルは多くのオノマトペを作中で使用し、読みやすいテンポの良い文章を成立させようとしてきた。それを『撲殺天使』ではさらに発展させている。
 「どかーん」「ずごっ」「ぐさっ」などは、本来、意味のない言葉である。それが『撲殺天使』では、徐々に意味のある言葉へと転じてゆく。
 たとえば《スパァン!》《ぴしゃん!》《すぱん!》という音は、押入のふすまを閉める音として使用されるが、これが段々と音だけになってゆく。
 《すぱん!》という一文を入れるだけで、具体的な出来事は書かない。それだけで誰が何をしたのかが明確に理解出来る。
 それは人物の声としても応用される。《さっそくエスカリボルグを振り回さごぱッ!》という最後の悲鳴だけで具体的に何が起こったか容易に想像がつく。
 これはギャグ漫画に匹敵するテンポを、小説で生み出す上で画期的な手法である。
 そうしたオノマトペの応用のうち最も効果的かつ、この作品の中核をあらわすのが、
 《ぴぴるぴるぴるぴぴるぴ〜♪》
 という(ヒロインの声か何かの音楽かは不明な)音である。
 撲殺された主人公を甦らせるときの天使の力を表現したこの一文だけで、何がどうなったか全て想像がつくばかりか、得体の知れない余韻までもたらしてしまう。
 最後の一文がオノマトペで終わるというギャグ漫画ではよくあるオチを、『撲殺天使』では小説において見事に成立させている。
 
 さて、この作品が下品であるかどうかは問題ではない。当然のごとく下品だからだ。
 「妄想」というのは下品の部類に入るものである。撲殺と再生におけるグロテスクな描写も下品なものであろう。頭上の輪を奪われた天使は、激しい下痢に苦しむ。両親は《札束》の魔法によってヒロインを家族として受け入れる。学校の先生は《ドクロちゃんはナイスバディですね。先生も体育の時間が楽しみです》と教室で放言する。眠りにつく主人公にヒロインが読み聞かせる本は《フランダースの犬奴隷》である。
 こうした下品さは、パロディ視点やハイテンションを生み出す上で必要なものである。映画『オースティン・パワーズ』や『最終絶叫計画』や『少林サッカー』などでもそうだが、パロディにおいて上品さなど何の効用もなさない。要求されるべきはバランス感覚とセンスと本質的な良心である。
 表立って口に出すことが出来ない《小さいロンリー純情ハート》とともにある《汚れきったリビドーまみれの心》をおおっぴらにし、いかなる道徳律とニーズとがこれまでとこれからに渡って存在し続けるのかを問い、そしてジャンル再定義のきっかけを与えることこそパロディの意義である。
 それはまさに「世界の秩序のために主人公を堕落させに来た天使」というフレーズそのものなのである。
 

 ※蛇足だが、未来の国から来た『あの存在』を見事にパロディ化していることも、この作品の特徴の一つである。これまた誰かベテランのプロがやるべきだったのではないか。おかゆまさきさん、乙一さん(ファウストVol.2)といった若手の作家が率先して危ない橋を渡るところに、ライトノベルの力強さを感じる。



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