『マリア様がみてる』 論 マリア様がみてる
今野緒雪
コバルト文庫/集英社
ISBN 4-08-614459-X


 《複雑なのか単純なのか、人間関係って奥が深い》
 『マリア様』のテーマは、上の一文に端的にあらわれている。
 人の喜びや期待、寂しさや悲しみといった感情の多くは、人間関係から生じる。自分が何者であるかという自己意識も、他者との関係の中で浮き彫りにされて初めて現実的なものとなる。他者の批判によって自己意識が削がれる場合もあれば、
 《自分勝手な想像をしていじけてみたりしたけれど、みんながみんな、祐巳に対して批判的な感情ばかり抱いてはいないらしい》
 というように、他者の態度によっては否定的だった自意識も、肯定的なものへと転ずる。
 そうした心の変化に明確な段落と道筋をもうけること――それが成長であり教育である。
 
 『マリア様』における人間関係は「姉妹(スール)」という制度を中心に描かれる。修道女(シスター)に代わって学生自身に指導を任せるという制度で、「姉妹宣言」「姉妹の契り」とあるように、誰と姉妹になるかという選択も学生自身の自由裁量で行われる。
 これは制度化された家族である。団体内の人員を強固に結びつける上で、家族観念はしばしば制度として応用されてきた。キリスト教の教会では信者は「兄弟姉妹」とされる。任侠の世界では互いに「義兄弟の契り」をかわす。儒教の教えの中核は「孝行」である。軍隊では互いを家族として認識することが多い。
 家族観念は最も原初的な人間関係であり、決して無視できない感情をもたらす。
 『マリア様』でも、《ロザリオの授受は婚姻関係と同じ》とあるように、姉妹になることは、おいそれとは破棄できない重要な関係を持つことを意味している。
 なぜ重要となるのか。それは、関係を持つことが義務を背負うことと同義だからである。
 たとえば映画『ゴッドファーザー』では、命懸けでファミリーの掟と利益を守る義務を背負う。なぜなら代々その団体に継承されてきたものを守り、下の世代に伝えなければならないからである。継承されるものは様々で、教えや信仰や信念であったり、領土や縄張りであったり、ときにはもっと漠然とした優しさや美意識であったりする。それらを次代へと継承させる必要性から団体が家族観念が取り入れられ、また逆に家族観念が取り入れられることで多くの「継承すべきもの」が副次的に生まれてゆく。
 『マリア様』における「姉妹」が継承すべきは「清く正しい学園生活」である。これは「マリア様の心」の実現であり、聖母信仰を主眼とした学園の気風である。
 その継承と指導のため、紅・白・黄の三色の《薔薇》の名を持つ「学生代表」たる三年生の少女たちが、下級生と姉妹の関係を結び、ともに「清く正しい学園生活」を実践する義務を負う。

 重要なのは、その呼称である。
 呼称作りは、団体に秩序を与える最も簡便な方法である。良い例が軍隊における階級と敬称である。また最も殺伐とした例は、囚人を数字で呼んで人間性を排除することだ。
 そうした呼称作りは作中の人物造形・人間関係を簡潔に語る上で有効であると同時に、その団体の志向を読者に対して明らかにする。
 この作品の舞台である私立リリアン女学園では、学生同士「さん」づけや「さま」づけで呼ぶ。これはゆるやかな呼称作りである。
 その上で《紅薔薇(ロサ・キネンシス)》《白薔薇(ロサ・ギガンティア)》《黄薔薇(ロサ・フェテイダ)》という「三人の学生代表」の呼称をもうけ、彼女らが姉妹となる相手は《○○のつぼみ(○○・アン・ブゥトン)》《妹(プティ・スール)》という呼称を得る。
 これらは明らかに「美」を志向した呼称であり、「清く正しい学園生活」という重要なテーゼをあらわしている。
 ただし耽美ではない。『マリア様』で描かれるのは美化意識である。それは「マリア様の心」という最高の美であり真実であり善であるものを目指す意識である。その意識を描く上で、決してそれ以外のもの――簡単に言えば下品なものを無視してはいないのが耽美と違う点である。
 《痴漢》《制服マニア》《大声》《淑女らしからぬグーという音》《異臭を放つ銀杏の実》《毛虫がわく》《男嫌いになる理由》など、理想と相反するものを内外に見据えながらも、決して美化する意識を失わない。その美化意識を継承し、支え合うのが「姉妹」である。
 それは秩序への意志であり、いわばパロディが破壊するものを整え直す、逆パロディの装置である。この作品では、ちょうど『日帰りクエスト』などが頭上から見下ろす視点でパロディを行ったのと同じく、「マリア様の視線」が秩序への意志として設定されている。
 主人公たちが、
 《淑女とは言い難い光景であるが、その辺本人たちは気づいていない》
 という状態のとき、ではいったい誰が気づいているかといえば、それはマリア様である。
 彼女たちはマリア様に見られ、またマリア様を見ながら、マリア様の視点で「清く正しい学園生活」を送る。読者もまた、ときにマリア様に見られ、そしてまたマリア様の心と一体化して登場人物たちを見る。

 またこうした美化意識を日常に求めるとき、当然ながらそのほとんどが視覚的なものになる。その筆頭が身だしなみであり、《曲がったタイ》を直すことである。
 その視点が、より美的なものへの傾倒を生むと同時に、ある種の「型」を創り出す。その「型」を守る行為が徐々に内面へと浸透し、やがて身についてゆく。古いたとえで言えば「美しい身体、と書いて躾である」といった観念である。そもそも躾と外見は無関係な観念だが、その二つが美化意識によって結びつけられるのである。
 学園ものの多くがそうした「型」を背景に置くが、この物語では「型」こそ主題である。
 「型」は積極的な成長と教育とともにある限り、心を抑圧するものとはならない。逆に「型」がなければ教育は不可能なのである。「型」の理不尽さは、
 《ただ『嫌』というのをいちいち認めてなんかいたら、世の中まわっていかないの》
 というように、社会に参加する上での訓練でもあるのだ。必要なのは「型」が成長と教育を阻害させるほど劣化しないようにする努力を、どのようにして描くかである。
 この作品の特徴は、その努力が主題として示され、舞台を成立し、人物造形・人間関係において明確に設定され、物語の根幹ともなっている点である。
 優れた秩序への意志――それが《妹》《つぼみ》《薔薇》という呼称にはっきり示されている。それは美的呼称である同時に、上級生と下級生がともに背負う義務の名だ。
 すなわち、薔薇として「咲かねばならない義務」と「咲かせる義務」である。
 《あなたの姉である私の品位まで疑われてしまう》
 《姉まで巻き込むのか》
 《幹部がサボってどうする。示しがつかないじゃんか》
 というように、「姉妹」は、運命共同体としてお互いを教育し合う積極的な義務を抱く。妹である下級生は薔薇として咲くべく、
 《あんな人になりたい》
 という憧れや期待や不安とともに、
 《それ行け》
 と成長の意志を抱く。また姉である上級生は、下級生を薔薇として咲かせるべく、
 《身だしなみはいつもきちんとね》
 《おや皮肉の一つも言えるようになったか、よしよし》
 《後輩に納得できないことを強要させるような人間に、生徒会を引っ張っていくことができるか、ってことね》
 《弁解すべきことがあるなら小出しにしないで、周囲に聴く態勢が整ったときに一度だけはっきり言いなさい》
 《じゃ、教えてあげよう。手、出して》
 といった教育の意志を抱く。それがこの作品の「姉妹」である。
 ここで重要なのは、決して下からの意見を封じない、上の者の態度である。
 意見を口にすることは秩序への参加訓練である。主人公は勇気をもって徐々に意見を口にするようになり、上級生はそれを聞き、受け流し、反論し、諭す。
 ここで「型」が意見を封じる方向へ劣化すれば、たちまちイジメが発生する。イジメは多くの場合、意見表明の場を求めて負の関係を結ぶことで生まれる。個人への悪意という批判される可能性の低い意見を表明することで、秩序へ参加するわけである。
 上の者が教育の意志にもとづいて下からの意見を認める限り、少なくとも、個人攻撃という、矮小化された秩序への参加訓練としてのイジメの多くは、未然に防ぐことが出来る。
 また、そうした個人への精神的な暴力を防ぐために、上級生はときとして、
 《あなたと姉妹の縁を切らなければならないところだったわ》
 という厳しい態度を取る。
 それは彼女自身の誠実さであると同時に、マリア様の心であり、その二つは「型」において一体化される。

 さらに重要なのは、このような「姉妹」を通して、人間関係における「相性」という、漠とした、しかし決して蔑ろに出来ない感性が描かれていることである。
 どれほど優れた教師でも、生徒との相性が悪ければ成長を阻害させる存在となる。
 そのため「妹になることを拒否する」という事態が生ずる。この師の拒否は、いわば生徒の側の義務である。たとえ教師の面目を潰そうとも、自分にそぐわないと思ったら勇気をもって拒否せねばならない。これは強い自己教育の意識のあらわれである。また教師の側も拒否されたことで生徒を憎悪してはならず、それはお互いのことを考えれば必要なことなのだと『マリア様』では語られている。
 これは「拒否」という名の、もう一つの人間関係であり、成長と教育を巡る物語において欠くべからざる心理である。
 こうした積極的で健全な拒否は、「清らかで正しい学園生活」という明確な理想があり、《ロザリオの授受は婚姻関係と同じ》という重要性の認識がなされ、そして正しく継承されるべき美化意識の「型」があって、初めて実現することである。

 制度化された家族の形態をとり、美化意識を核とした「型」を持ち、自己と他者が一体となった成長と教育への意志――それが、この作品における「姉妹」のテーゼである。
 こうした自己と他者をともに教育する意志の表明こそ、人物造形と人間関係を通してライトノベルが実現すべき最良のものの一つではないだろうか。
 その理想形がエンターテイメントとして成立するとき、それは、今なお多くの問題を抱える「学校というもの」が、次代の育成の場という人間が生み出すものの中で最高の産物となる可能性があることをも示すのである。


 ※余談だが、アメリカ的自由教育が、日本での子供を「型」にあてはめる教育と対比されることが多いが、個人的な体験からしてあれはつまり「自由という型」に子供をあてはめているだけである。日本でも、制服も校則も何一つとして無い学校に通ったが、自由放任というのはあれはあれで厳しく苦しい「型」だった。問題はただただ、正しい成長と教育の意志があるかどうかである。そういう意味で『マリア様がみてる』の後書きに、
 《「そうそう、こんな感じ」と共感してくれればうれしいし》
 とある通り、学園内での人間関係に「そうそう、これこれ」と何度も感じさせられた作品である。


原稿受取日  2004.5.15
公開日  2004.5.31


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