『イリヤの空、UFOの夏』 論 イリヤの空、UFOの夏
秋山瑞人
電撃文庫/メディアワークス
ISBN 4-8402-1944-3


 ノスタルジーをかき立てる作品に共通するのは、時間への抵抗である。否応なく時間が過ぎ去り、やがてある状況が終わってしまうことに唐突に気づき、何とか押しとどめようとする。あるいは過ぎ去ってしまったものに対し、その再現や追憶を求める。
 いずれにせよ抵抗自体は必ず失敗に終わる。誰も時間を押しとどめることも巻き戻すことも出来はしない。だがその抵抗自体は無益ではない。そうしなければ得られないものもあるからだ。それが何であるかによって、その作品のノスタルジーの行方が定まる。
 『UFOの夏』は、冒頭から時間と真っ向勝負をしている。敗北必至の大勝負である。夏休みの最後の一日、全く宿題には手をつけておらず、言い訳のしようもなく、あと十三時間足らずで二学期が始まり、そうなれば主人公は「八つ裂き間違いなし」である。
 そして主人公は「憎むべき時計塔」をにらみつつ、夏休みが終わる前に学校に忍び込む。過ぎ去ってしまった時間、間もなく過ぎ去る時間に対し、最後の抵抗を試みる。すなわち学校のプールに夜中に飛び込んで泳いでやるのだ。「死刑囚だって最後にタバコくらいは喫わせてもらえるのだ」から。
 まさにこの冒頭部分から主人公の「UFOの夏」は、終わりに向かって始まる。しかもこの作品はそれを「時限爆弾」と称する。ここで描写される全てが、いつか終わるものとしての始まりを告げるのだが、問題はそのディテールの作り方である。
 人物の描写においてそれは端的に表れている。まず外貌描写がほとんどない。どのような外見かは一切書かず、次々に目の前をよぎる風景への感想や、ふと思い出したことや、全く関係のない物事を通して、どんな人間かが浮かび上がってゆく。そして多くの場合、人物の前提や結論として、衣服や小道具が描かれる。しかもそれが非常に直截である。
 主人公の最初の具体的な描写は「ぱんぱんに膨れ上がったダッフルバッグ」であり、ヒロインの具体的な描写の最初の言葉が「スクール水着を着ている」である。
 この手法の効果的なところは、その人物の最適な外貌を読者がおのずと想像することを妨げない点にあると同時に、その人物の物語的な役割を伏せたままにするという点にある。物語的な役割を伏せるとは、簡単に言えば、ある難題なり事件なりが降りかかった場合、本当にその人間が解決するのかどうか、あらかじめ示さないということだ。
 これが物語に緊張を生む。小説における人物は、描写をすればするほど、その描写が物語上の役割と不可分になってゆく。肯定的に描かれるにしろ、否定的に描かれるにしろ、「こういう描写をされた」ということを根拠に、読者はその後の展開をあらかじめ読む。
 だが『UFOの夏』では主人公が何をしてくれるのかおよそ予想がつかない。むしろ、次々に鮮やかな風景描写・心理描写が続くにも関わらず、主人公が役割的に空白であり停止していることから、何もしてくれなさそうな予感さえ感じさせる。
 (このディテールの作り方が、のちの「大食い勝負」ではいかんなく発揮され、どっちが勝つのか分からないという緊張感とともに、有り得ないほど感動させられる)
 こうした描写は、作中に作家自身の感性を露出させやすくなるという点で、読者を限定してしまうと言われる。その作家の感性に共感できないと読めないと言うわけだ。だがそれはどんな小説でも同じことである。もしこの作品が読者を限定しているならば、その要因は、役割不明の緊張にあると思う。もっと言えば、無力の予感である。
 ライトノベルが、キャラクター小説と称され、その極端な人物造形に特徴があるとされるが、これは定義の一部に過ぎない。ライトノベルにおける最大のテーマは、人間関係である。ある人物たちが、それぞれどのような役割を持ち、どのような関係にあるかが、端的に表現されねばならない。そしてその関係が永続的なものであることを示し、さらにはその関係性が、作品の主題・世界観・物語、そして文体にまで通底して表現されていることが、ライトノベルの手法の最たるものだ。
 それはTRPGにおけるパーティであり、近づいては遠ざかる恋愛であり、相棒であり、先輩後輩であり、兄弟姉妹・家族であり、敵と味方であり、主従関係である。
 これはライトノベルが主に未成年を対象としたレーベルであることと関係がある。未成年が物語に求めるものは、自分とは何であるかという指標であり、他人とどういう関係を結ぶかという指標である。これらに対しライトノベルは、極端な人物造形と、端的な人間関係の提示によって応え続けてきた。
 さらにライトノベルは、読者に対して「あなたもこの人物たちと関係が持てる」という姿勢を取る。この関係を持つとは、役割を得ることである。スポーツや芸能でもそうだが、観客は「観客という役割」を与えられることによって、それに参加する。ライトノベルもその姿勢を堅持し、読者に「読者という役割」を与えるものとして発展してきた。
 そして『UFOの夏』の主人公・浅羽である。ヒロインと出会うことで、かつてない役割を与えられることになる。ヒロインに助けを求められるばかりか、ヒロインの戦う理由にまでされてしまうのである。だが浅羽は、冒頭から、とにかく役割不明の描写を繰り返された存在である。その役割に耐えられない人物であることが浮き彫りになってくる。はっきりとした外貌描写を持たないことが、なおさら無力感をかき立てる。それでいながら、常にヒロインは浅羽にその役割を期待し続ける。むろん、読者も、期待する。
 これはプロットの巧みさというより、ひとえにディテール力の賜物である。このようなディテール力は、ノスタルジーをテーマとする上で、もはや凶器に等しい。役割を与えられたにもかかわらず、それに耐えられるのかどうか全く不明な描写の人物であるにもかかわらず、精密で、はかなく、次々に移り変わる風景と心の描写は続くのだ。まるで縄で縛られたまま疾走する馬に引きずられてぼろぼろになる主人公を見させられるようである。
 終盤ではその凶器が無差別なまでに振るわれる。終わりに近づく時間に対するせめてもの抵抗が、どれほど過激になろうとも、結局は失敗に終わるのだと繰り返し告げられる。
 ただし描かれ方は非常に正しいとしか言いようがない。作者の秋山瑞人さん自身、「これは難病ものの変形」と言っていたが、病状認識の手順が溜め息が出るほど正確である。
 難病の進行において、ほとんどの者が、まず病状を否認し、そのために孤立に向かう。そして自分や他人に怒りを抱きつつ、取引に向かう。「何か素晴らしいことをすれば、病状が回復するに違いない」という取引行為である。これは全力で病状から逃避する行為である。その取引が無に帰すことで抑鬱に陥る。苦しい抑鬱が消え去ると、ようやく受容――多くの場合が心身疲労による思考停止が訪れる。その受容が過ぎ去って初めて、やっと本当の希望がかいま見える。その希望が何であるかは、その人のそれまでの生き方によって違う。その希望が見える人もいれば、見えないまま逝く人もいる。
 そうした過程が、ものの見事に『UFOの夏』では少年と少女の行方に重ね合わされるのだ。もはやそのディテール力は、鈍器のように読者を滅多打ちにする。読者を限定するというより、耐えられなくなる読者が続出したのではないか。そして、この作品の本当の意味での容赦のなさは、次の一文に端的に表れている。
 《だってそんなの、見届けるだけでもすごい勇気がいるしさ、途中で何気なく目をそらして耳も塞いで、最後にはどうせその子のことなんかきれいさっぱり忘れて最初から何もなかったことにしちゃうんだろうな絶対》
 こんなことを言われながら、主人公と読者は、「見るのも耐え難いものを見せられる主人公と読者」という役割を続けるしかないのである。これは難病に陥った患者の、友人や恋人や家族の役割である。
 そして永遠に続くことを願ったものが終わりを迎えるにあたって、ひときわ強くその凶器が振るわれる。最終的なヒロインの結論として、実に凄まじい衣服が描かれるのだ。「スクール水着を着ている」という登場からは想像も付かない代物を着用させられたヒロインである。そこで浅羽は最後の役割を与えられ、それに応える。
 そして浅羽はこの作品のノスタルジーを自ら迎え、完結させる。見事なエピローグだと思う。浅羽がその役割を全うさせるのは、ひどく悲しくて、そして嬉しい。
 これもまたライトノベルとしての正しい終わり方の一つだろう。人物造形と人間関係をテーマとする上での一つの結論なのだ。
 なぜならノスタルジーとは多くの場合、人間関係を失うことで初めて獲得された自我が、遠く過去を振り返ることで生まれるものなのだから。



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