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こちらは掲示板の過去ログとなります。
新たな書き込みは出来ません。ご了承下さい。


「ライトノベルとイラストの関係」を探るスレ

0 名前 : 極楽トンボ@管理人 投稿日 : 2004年05月29日(土) 08時29分34秒
このスレでは、「ライトノベルとは何か?」という定義論をあえてスルーし、イラストとの関わりに絞って考えていこうというものです。定義は諸説あれども、現状ではライトノベル=イラストの付いた小説という形をとっていることがほとんどです。
そこで、
●そもそもイラストは必要不可欠なものか
●ライトノベルではイラストは従か主か、あるいは等価な関係なのか?
●ライトノベルに与えるイラストイメージの影響
などなど、イラストに関わる事柄についてはよろしければこちらに書き込んでみてください。
あまりに意見が分派するようでしたら、その際には改めて新しいスレを派生させたいと思います。

参考ログ(より詳細に見るには創世記スレを直接ご覧ください)
http://maijar.org/sugoi/cgi-bin/bbs/bbslog/bbs-b.html

1 名前 : 極楽トンボ 投稿日 : 2004年05月29日(土) 08時54分18秒
私の個人的な考えでは、ライトノベルにとってイラストは一体不可分なものだという認識があります。
確かに小説はイラスト抜きでも成り立つものであるという考え方は大切ですが、一種のパッケージ商品なのではないだろうかと考えています。
私自身は本文の挿絵がなく表紙絵だけしかなくとも、また絵柄がなんであれ全く気にせず購入はするのですが、イラストがないとどうにも寂しい気持ちになります。
小説+イラスト=1、ではなく小説+イラスト=2と考えれば、微妙に見え方も違ってくるのではないでしょうか(言葉遊びのレベルかもしれませんが)

うーもどかしい。まだ自分の中でも確たる形になりきっていない部分があります。

2 名前 : さかなや 投稿日 : 2004年05月29日(土) 14時13分50秒
 創世記スレ2>>68 海燕さま

>カーテローゼ・フォン・クロイツェル
 あ、道原かつみさんが描いてたんですね。
 ……たぶん、道原かつみさんのマンガかOVAの方で出てくれば決着するだろうとは思ってました。

 しかし、セミロングですか。意外とフツーですね。マンガ版の黒狐くらいのインパクトを期待してたんですけど(笑)

 余談ですが。
 ファンロードのシュミ特のイラストで、ツインテールっ娘にしてた人がいて、あれも可愛いなとか思ってたり。

>>ライトノベル読者は感じなかったのか
 いや、だって、「ライトノベルだから読む」ワケじゃなくて「読んで面白かった作品がたまたまライトノベルだった」だけですし。
 好きな作家さんや作品に対するレッテル付けなら反発もしますが、ジャンル全体がなんと呼ばれようが知ったこっちゃないかと。

>>1
>ライトノベルにとってイラストは一体不可分
 作品としての小説の本質は文章なのかもしれませんが。
 商品として考えるなら、イラストは重要な要素だと思います。

 「お客様は神様です」ってのが商売の鉄則なワケで、それは扱う品が魚だろうがサービスだろうが小説だろうが変わらないと思うのですよ。
 で、お客様が喜んでくれるなら、それこそ何だってやるのがプロの誇りではないかと。お金をいただくってのはそーいうことですし。

3 名前 : 葛西 伸哉 投稿日 : 2004年05月29日(土) 15時29分55秒
 極楽トンボさまには既にメールで連絡してありますが、現在コラムめいたものを書いております。
 久美さまのスレッドで何気なく「小説から出でて小説とは異なる【ライトノベル】」なんていう話を振ってしまったために、どうも余計な混乱をスレッドに招いてしまったようで、どうせならばどれほど不完全であっても、その事について話し合うための叩き台があった方がいいだろうと思い立った次第。

 その中でも触れましたが、現在の「ライトノベル」業界では編集者も作家も、イラストに対する考え方はレーベルごとどころか個人ごとに大きく異なっています。恐らくはイラストレーターの方々にもさまざまなスタンスがあるでしょう。
 もちろん読者の皆様にはそれぞれ好きなように楽しむ自由があるのですが、論を展開する際にすべてのライトノベル、すべての作家をひと括りにしてしまうと、混乱の元なのではないかと存じます。

4 名前 : 海燕 投稿日 : 2004年05月31日(月) 06時37分54秒
>ファンロードのシュミ特のイラスト

ああ、そのファンロードはたぶん僕も持っている。田中芳樹特集の号はすべて買っているから。「銀河英雄伝説」「創竜伝」「アルスラーン戦記」で3号連続シュミ特したこともあったなあ。

>好きな作家さんや作品に対するレッテル付けなら反発もしますが、ジャンル全体がなんと呼ばれようが知ったこっちゃないかと。

でもたとえば「クズノベル」とか「読み捨て小説」とか呼ばれたらやっぱり反感があると思うんですよ。久美さんが「ライトノベルなんて呼ばれたくない」と感じたのは、そういう蔑称に近いニュアンスをこの名称のなかに感じ取ったからでしょう。つまり小説家久美沙織にとっては、自分の作品が「ライトノベル=軽い小説」に分類されることは侮辱以外のなにものでもなかった。しかし、多くのライトノベル読者はそういうふうには感じなかった。もしくは感じても気にしなかった。このあいだにある落差はなんなのか。

たぶん久美さんには、優れた小説というものはそれほどかるがるしいものではない、気軽に手に取って30分間楽しく読んで部屋の隅に投げ捨てて忘れてしまえるようなものではない、決してそういうlightなものではありえない──という感覚があるのだと思う。だからこそ自分の作品をlight novelと呼ばれることには強烈な抵抗があった。自分は決してそんなものは書いていないと考えた。僕にもかなりそういった想いはあります。やっぱりほんとうに素晴らしい作品は、そう軽く読み捨ててしまえるようなものではないと思うんですよ。

これはリーダビリティが低いということではなくて、真に優れた作品は読後に簡単には胸から去らない重いものを残すものである──という意味です。しかしその一方で、lightであるということをべつだん悪いことだと感じない読者もいて、そういうひとがたくさん存在したからこそ、ライトノベルという名称は普及したのでしょう(ひょっとしたら、多くの読者はライトノベルを読みながらもそれを決して高く評価してはいないというだけのことなのかもしれないけれど)。

久美さんのようにこの言葉に強い反感を感じるような読者が多数派だったら、やはりここまでこのジャンル名が普及することはなかったと思います。たしかに、なにも考えずにこの名前を受け入れた読者も多いことは事実でしょう。しかしそれにしても久美沙織が考えたことをなぜかれらは考えなかったのかという疑問は残る。中学校低学年レベルの英語力がある人間なら、ライトノベルという名前から「軽い小説」を連想するはずですし、それに対して久美さんほど抵抗感があったら、その名前を拒否したと思うのです。

そういうふうに考えていくと、やはりかれらはライトノベルが「軽い」ことを事実だと感じていて、それに対して反感を抱かなかったといえると思う。まあ、客観的に見て、やっぱり軽いですし、ライトノベルは。もちろんなかには、妹尾さんがいうように、重い読後感を残すものもある。しかしそれは全体から見れば稀有な例外であって、気軽に読めてあとぐされがないことがライトノベルの特徴であるという印象を覆すほどのものでないと僕は考えます。そういうものが悪いとは、僕は思わない。ただそれだけしか知らないのはもったいないとは思いますね。ほんのすこし手を伸ばしさえすれば、さらなる豊穣に手がとどくのに。

>で、お客様が喜んでくれるなら、それこそ何だってやるのがプロの誇りではないかと。

これは皮肉ではなく、以前から真剣に考えていたことなのですが、それならば作家は自分自身が心の底からくだらない、ばかばかしい、こんなものを真剣に読むやつは莫迦だ、と考えるような内容でも「お客様」が望むなら出すべきでしょうか。それがプロというものでしょうか。僕自身はそうは考えたくない。やはりプロとは自分が考える最高のサービスを客に提供する存在であってほしい。自分自身で評価できないようなものは出版してほしくない。

たとえば戦時中に反戦的な内容の本を出せば(仮に出版できたとしても)強い反感を買うでしょう。しかしそういうときは好戦的な内容の本を出して読者の興味をそそるのがプロの仕事だ、とは思いたくない。ビジネスとしてはそれが正しいのかもしれない。読者も満足し、時には感動しさえするかもしれない。しかし作者自身がその内容に対して疑義を感じるなら、やはりそれはただ読者に媚びているだけなのではないでしょうか。しかし、ただ作家自身が満足でさえあれば、読者がどう感じようとかまわないというのもそれはそれでエンターテインメントとして間違えている気がする。

なにかで読んだ政治家と有権者をネタにしたジョークにこんなものがあります。「あなたはなぜ私たち有権者を莫迦にするのですか?」「きみたちが私に投票したからさ」。作家が読者が望むものならたとえ自分が評価しないものでもなんでも提供すると考えるなら、このジョークを作家と読者の関係にも敷衍できるようなことになるかもしれません。「あなたはなぜ私たちを莫迦にするのですか?」「きみたちが私の書いた本を買うからさ」。やっぱりこういう状況はいやだなあと思うのですが、それならどう考えれば良いかといえば、よくわからない。うーむ。

5 名前 : 来無 投稿日 : 2004年05月31日(月) 10時00分03秒
海燕さまへ
>自分自身が心の底からくだらない、ばかばかしい、こんなものを真剣に読むやつは莫迦だ、と考えるような内容
を望む相手は既に「お客様」では無いのでは?ただの金蔓で
非売品や扱いの無いモノを売れとゴネるのは客じゃないだろうと思うのです。
コーヒー専門店に来て、カツ丼とか注文する奴は客じゃないと思いませんか?
(メニューに載ってれば別だけど…カツ丼をメニューに加えるのは
 コーヒー専門店のすべきサービスではないと思います)
金さえ払えば客ということなら、一番偉いのは金です
そういう客から無条件に要求を受け入れるのは金の為なら何でもすると言っているだけです
それはプロとか職人の姿勢じゃないだろう、と思うわけであります
自分にとってはあまり興味ない、つまらない、あるいは嫌いだと思っても
適正な値段をつけて売ることは、その価値をキチンと判断し認めて無いと出来ません

客と言うのはやはり仕事を認めて対価を払おうとする人だと思うです
moreを求める人にbestを尽くすのがプロであって
otherを求めてくる人は客ではない、と言うか
moreなのかotherなのかの判断は結構難しく、一見すると全くotherなんだけど
実はmoreの先だったりと言う事はあると思うんですけどね
だから、心の底から馬鹿だと思ってたけど実は、って事もあるんだとは思うんですけど
価値が無いと判断するものに値段を付けて売るのは、詐欺やぼったくりでしょう

6 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年05月31日(月) 12時07分30秒
わたくしめが“ライトノベル”という名称、と「自分の作品をそのうちのひとつだと思われること」に強く抵抗を感じたのは、その名とその名で呼ばれるものへの傾倒が、「コンビニの棚における生鮮食料品なみの速度で、フィルムつきカメラなみのおてがる気分で、次々に生産され選択され消費されることの奨励(あるいは甘受)」にみえたからです。

わたしが小説を好きなのは、それが本来は「ことばというカタチを持たない不思議なものの万能に近い力で、ほとんどありとあらゆることがらを表現でき、伝達でき、味わえるものだから」でした。
太古の昔によその国のひとが書いたものでも、じっくり読みさえすれば(翻訳がどへたくそでなければ?)理解できる。見たことも聞いたこともないものを脳みその中で再構築できる。文化背景やものの考えかたがまるで違うひとの考えたことが「わかる」。
書物のうちでも小説は……たしかに天下国家を語るような「大説」ではなくて、たんなる一個人のちょっとしたエピソードをつづったものにすぎないかもしれないけれども……それでも、ここにいま実際にいる自分とはまるで違う誰か……登場人物……の人生(の一部)を、あたかも自分がそのひとになったかのように追体験できる、というところが、わたしには魅力的でした。
自分の肉体や生まれつき周囲にある環境は現実社会では乗り越えることはできないかもしれないし、人生は一回きりですが、読書をし、本に没頭することによって、まるで別の人生をちょっと生きてみることができたり、別の世界に行ってみたりすることができる。本を読そば、自分が無限にゆたかになる。その「魔法」が好きだったんですね。

ここで過去形で申しておりますのは、いまやコンピュータ、ことにCGの発達が、過去ウン千年ただコトバのみに可能だったことに「近いこと」をより視覚的なカタチで安価に素早く提示できるようになってしまったからです。大軍勢のモブシーンなど、昔はほんとにおおぜいのエキストラを用意しなきゃみせられなかったものが、実際に「リアルに」大迫力に、まるでその場に居るかのように体験できるようになってしまいましたから。そうして「具体的に目に見えるカタチ」はコトバのなにより苦手とするところでもある。特定のイラストレイターによる特定のキャラの顔などは、実際のその絵を見せれば瞬時にわかりますが、コトバのみではけっして十全に正確に伝えることはできません。

視覚は人間の五感の中で、もっとも頼りにされる度合いの高いものですから、具体的な視覚対象を直接提示するメディアは強い。多くのひとに、ほとんど苦役を強いることなく(劇場の椅子が硬いとかはあるかもしれませんが)楽しませることができます。視覚の楽しみに強く縛られた脳みそは、具体的にコレと差し出して見せてもらえていないものをわざわざ空想の力で補ってまで「見よう」とはしなくなるのではないか……という懸念が、正直なくはありません。

それでも、小説が生き残るとするなら、あくまでコトバの魔法を信じ、それではじめて享受できるような体験をこそ愛する送り手/受け手がなければならない、のではないかとわたしは思っています。
「脳みその中で起こること」つまり「想像力を駆使してはじめて捉え得るなにか」をひとさまからいただいたとき、あるいは自分が発信して誰かに受け止めてもらえた時、わたしはすごくキモチイイ。幸福になります。これが、文字によってものがたりを読むことのエロス=快感だと思います。このキモチヨサを、自分はあきらめたくはないし、若い世代の読者のかたがたにも、できれば伝えたいと思うのです。

7 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年05月31日(月) 12時12分41秒
わぁん。多くのひとに……楽しんでもらうことができる、でした。読そば、は読めば、です。コトバの力を信じているやつにしてはヌケているのがわたしの欠点です。

8 名前 : さかなや 投稿日 : 2004年05月31日(月) 23時48分16秒
 ごきげんよう。

>>4
>自分自身が心の底からくだらない
 読者に媚びて適当にウケの良い物を作れ,と言っているのではなく。
 作品の受け手には敬意を持ちましょうって話です。それはライトノベルだろうが18禁ビジュアルノベルだろうが同じことだろうと。

 で,そうやって敬意をもって真剣に相手を喜ばせようとして作った物が,くだらない物であるはずがないと私は考えます。

 それから。
 相手を馬鹿にしている心に,誇りなんかないと思います。

>イラストと空想
 一枚のイラストから,その背景にある物語を想像することが私にはよくあります。
 ある場面があって,なぜその場面があるのか,これからどうなるのか,そういった事を考えるのはとても楽しいと感じます。

 イラストも,文章と同じ「表現手段の一つ」だと思います。
 たかがアニメ画,と言う人もいるかもしれませんが,やっぱりそこには絵師さんの思想があると思うのです。

>ライトノベルとイラスト
 そう言えば,挿絵のない小説でもライトノベル扱いされてる物もありますよね。例えば「さよなら妖精」とか。ああいう作品はどういった位置づけになるんでしょう。

9 名前 : 新木 伸 投稿日 : 2004年06月01日(火) 03時23分35秒
 前スレでも中途半端なまま終わってしまって、どうにも不完全燃焼だったので、こちらにお邪魔することにします。

 まず、まとめから。

A.作者は作品の価値に確信を持っている。読者も喜ぶであろうと考えている。
B.作者は作品の価値をまるきり信じていない。さらに読者をナメていて、こんなものでも喜ぶと思っている。


 どうも、「AでなければB!」というように、論が短絡しちゃっているように思えないのですが。
 僕が前スレから「旅人と水。穴の開いた器」の件で言い続けていることは、AとB以外に、皆の考えていないCやら、ひょっとしたらDやEというものまで、プロのありようとしては許容されるのではないの?
 ――ということなのですけど。

 僕も自分の価値観に照らし合わせて考えるなら、Aであったほうが良いと思いますし。自分自身もそのように仕事をしていますし。
 また作り手がBのような考えを持つのは、誠意がなく、歪んでいるために、いけないことだと感じていますし。
 そのあたりについては異存はないのに、どうも私が「B」を支持しているというように受けとられて、過剰な猛反発を食らっているような気がしてならないのですが。

 このほかには、たとえば「C」っていうケースだって考えられますよね。

C.作者には自分の作品の価値がよくわからない。だが欲しがっている人がいるので売っている。べつにナメてもいないし、侮ってもいない。ただ相手には価値があったのだろうと納得している。


 ここで問題となるのは、それぞれの「価値観」というものですよね。
 問題を単純にするために、作者と読者、二者の価値観だけを考えます。

a.作り手の価値観でOK。買い手の価値観でOK。
b.作り手の価値観でNG。買い手の価値観でOK。
c.作り手の価値観で不明。買い手の価値観でOK。
d.作り手の価値観で不明。買い手の価値観でNG。
e.作り手の価値観でOK。買い手の価値観でNG。
f.作り手の価値観でNG。買い手の価値観でNG。

 売れる物は、このうちのa〜cまで。
 d〜fのほうは、どうであろうと売れません。
 読者が価値を認めはしたが、価格には見合わなかったので見送った、というのも、NGのうちには含まれます。
 このa〜cまでの3種類に共通しているのは、読者的価値観で「OK」――つまり、金を払う価値があるとみなされたものである、ということです。

 ここには誰かの思想であるとか、良い悪いとかは関係してきません。
 ただ単に、現象としてそうなるということ。
 売り手がどう思っていようと、買い手が価値を見いだしたら、それは買われてゆくものなのです。
 売り手には「売らない=販売に共さない」という選択肢はありますけど、いざ値段を付けて並べておいて、売らないということはできません。

 売る際に条件付きで出されていたなら、もちろん別です。
 しかし本というのは、そんな条件なんて明記されていませんよね?
 楽しんでくれる人。この本を良いと思ってくれる人。作者の価値観に共感してくれる人。――そういう人だけが買っていってください、なんて、条件付きで店頭に並べられているわけではないはずです。



 物の売買などというものは、売る側と買う側との問題なのであって、双方が納得しているのであれば、他人がとやかく口出しをすべきものではないかと思います。

 また誤解を生みそうですので、繰り返し、説明を試みますけど……。

 僕個人としては――。
 作者の立場であるときには、自分が良いと信じるものを、すくなくとも対価に見合う状態にして売っています。
 もちろん対象読者は設定して書いています。
 自分の書いた作品に、どういう価値が、どのくらい存在しているのかも把握しています。自分の価値観によって欠点や欠陥だと判断されるものは、時間や手間や、その仕事の対価やら、自分のブランド名(筆名)の信用指数との兼ね合いのなかで、可能な限り直してゆきます。

 ――が、しかし。
 対象読者以外の人に買って貰っても、まったく構いません。少年少女向けに書かれてますけど、還暦を迎えたおじいちゃんおばあちゃんが、「いまの若い人の気持ちをわかろう」なんてつもりで購入されるのでも構いません。
 はたまた小学校の3年生女子あたりが、「エッチな本」としてこっそり実用とするために買ってゆくのであっても一向に構いません。(これは望むところかもしれないので、ふさわしい例ではないかもしれません)

 自分の認識している魅力や価値以外のところに、なんらかの価値を見いだして購入してもらっても、こちらとしては、まったく構いません。
 買い手の目を信じていますので。
 価値があると思われたなら、なにか、僕の狭隘な意識では知覚し得なかった、なんらかの価値がそこにはあるのでしょう。
 ぶっちゃけトイレの紙が切れていたので、ページを破って尻を拭くために――ということで購入されるのであっても、僕としてはまったく構いません。すくなくとも、なにかの役には立つのですから。(子供の頃に、一回、この用途で雑誌を購入したことがありました)

 自分がギャグのつもりで書いた話をシリアスと読まれて人生になにがしかの教訓を得られても、シリアスのつもりで書いたものをギャグと受けとられて抱腹絶倒されても、なんら構いません。

 余談ですが。
 じつはうちの実家は、製菓機械なんてものを作る工場をやっていまして。柏餅だとか、団子だとかを作る機械ですね。
 その機械は、もちろん「菓子を作ってもらうため」に製作して、販売されていたわけですが……。一度だか、外国から買い手がついて、どこかに飾るから売ってくれ、なんて話が来たことがありまして。
 明治の頃から、ずっと同じ設計で作られていた古い機械だったので、珍しかったのかもしないし、アンティーク的な価値でも見いだされたかのかもしれないし、なんかの酔狂か、芸術のオブジェにでも使うつもりだったのかもしれませんし。なんに使うのかはわかりませんけど。
 身なりのいい外国紳士が運び出してゆくのを見て、子供心に「いいのかな」と思ったもので、父ちゃんの作業着の裾を引いて、「いいのー?」と聞いてみました。父が毎晩、真剣に遅くまで仕事して、くたくたになっているところを見て知っていましたから。
 しかし作った本人が、「いいんじゃないの」と返してきたもので、なるほど、いいのかと思ったわけでして。


 上記は、自分が売り手のときの話です。
 次は自分が買うときのことです。

 作り手がどのような思惑でそれを作ったのかということは、考えれば読み取ることはできますが、購入を決める際には、あまり影響を及ぼしません。
 自分の用途に適していて、自分にとって価値があるので、お金を払うことにしたわけですから。

 作者は愉しんでもらおうと誠意を持って書いていることがわかっても、自分の狭隘な価値観に照らし合わせてつまらなければ、「つまんね」と途中でうっちゃってしまいますし。

 緑茶用の急須で、紅茶やウーロン茶を淹れたりしますし。急須職人の方は不本意かもしれません。しかし僕の知ったこっちゃありません。
 スプーンを食器としてではなく、工具として使用したりしますし。ヤスリで粉にして、ステンレス材料として使ったりしますし。
 ある特定の形をしたペットボトルが欲しいがために、あまり飲みたくもない炭酸飲料を買ったりしますし。中身を捨てたりはしませんけど。嫌々飲んでいたりします。これも清涼飲料水を作られた方には不本意ってものでしょうが。
 あとオマケのフィギュアが欲しいばかりに食玩を買ったりします。お菓子のほうは、まあ仕方なく食べてますけど。
 新聞も読むよりは、ペットの巣材として使うために取っていた時期もあったりします。
 また原稿を書くためにファミレスに篭もったりします。食事をするためでもなく、歓談するためでもなく、ノートパソコンを持ちこんで仕事をするために。
 レモンを食べずに顔パックとして美容のために使ったりすることも、これまではありませんが、今後はあるかもしれません。

 こういうことは、作り手やサービスの提供者に失礼であるので、やめるべきことなのでしょうか?

 作られたものは、作り手の思った通りに受け取ってもらわなくてはならない。そうでなくてはならない。
 そういう価値観があるのは、どうしてなのかと不思議に思います。
 あ、いえ、もちろんあっても構わないのですけど。「絶対にそうでなくてはならない」と固く考えられてしまうのが、どうしてなのか不思議なわけです。

 僕が言いたいのは、作り手が思う「価値」と、受け手が思う「価値」とは、必ずしも一致するものではないということ。また作り手が思う「欠陥」と、受け手が思う「欠陥」もまた、一致するものではないということ。
 むしろ、どちらもズレていることのほうが、多いということ。

 「価値」というものを考えるとき、作り手の思うところの「価値」だけしか考慮しないのはなぜでしょう。
 作り手の狭い視野では知覚できなかった「価値」が存在していて、そこに対価を払う受け手がいることを容認しないのはなぜでしょう。
 たとえば製菓機械をオブジェとして飾るから売ってくれ――みたいな。

 受け手が自覚していない価値に対価が払われることまで容認するという観点に立てば、例の「デッサンの狂いの絵」の問題は、なんの問題もないことになるのですが。

 「この製菓機械のモーターは連続使用していると加熱して発火するのだ。このモデルには欠陥があるので売れないのだ」というのは作り手の認識する欠陥です。
 「いえ平気です。動かしませんから。飾るだけですから」と、そこを欠陥としない買い手もいるわけです。

 ある人の価値観では、デッサンの狂いが我慢ならなかったとします。その人にとっては、それは「個人的な価値」を著しく落とす欠陥なわけですね。
 しかしまた別の人の価値観では、デッサンの狂いは欠点とはみなされないわけです。その人にはその人なりの他の価値観があって、そちらのほうで価値が生じているわけです。

 十二国記の例でもあるように、「イラストがないのは小説として欠陥」「イラストが付くのは小説として欠陥」――と、イラストの有無に関して、対極の価値観を持つ読者のために、両方のパッケージがデザインされて出荷されていますよね。
(海燕さんは両方買われてしまったようですが。それは貴方が特殊というものです。「コンプリートされていないコレクションは欠陥」という、かなり特殊な価値観を、海燕さんが持たれているからでしょう)

 真っ向から対立する価値観が、ここには二つあるわけです。
 イラストを付けることが「正しい」わけでもなければ、イラストを付けないことが「正しい」わけでもありません。
 同様に、デッサンの狂いを重視することが正しいわけでも、軽視することが正しいわけでもありません。

 ただ商業的な戦略としては、「どちらを重視したほうが、より多くの購買者の支持を受けられるか」という分析はあるでしょうね。




 小説だって――。
 「軽いことは欠陥である」と思う人もいれば、「重いことこそ欠陥である」と思う人もいるわけです。
(ここでいう「重いこと」というのは、読むために集中力、想像力、辞書引きなどの精神的、物理的な負担を強いることです。また読んだ後の人生や思想に大きな影響を与えることです)

 同じ書き手の中でさえ、これだけの相違があるのです。
 ましてや読者のあいだには、どれだけの価値観のバリエーションがあるのやら。想像もつきかねます。――と言っていると商売にならないので、可能な限りリサーチして、把握していようと心掛けているわけですけど。
 僕としては、なるべく多くの人に歓んでもらいたいわけです。それが自分の生活にも繋がるわけですから。
 自分のなかに、まだ自分で認識していなかった「価値」が眠っているかもしれません。
 自分自身はまるで興味もなかったけど、じつは受け手に取ってはすごく価値のあるものがあるのかもしれません。そういうものを自分は書けるのかもしれません。これまで「尻乳」「エロ」「バトル」「宇宙」「センスオブワンダー」「コメディ」などと、色々と売ってきておりますが。もしかしてやってみたら、自分は思ってもいなかった意外なものが、すごいクオリティで書けるのかもしれませんし。
 読者の歓ぶものが自分の中にあるのなら、切り取って、陳列して、買っていってもらおうと思っています。心臓でも、内臓でも、括約筋でも、なんか価値があるというなら、キロいくらで切り売りしますが。

 書きたい物と、書ける物と、そして売れる物(買ってもらえる物)――。
 この三つは、まあ大抵のケースにおいてすべて別である。それが自分の12年のプロ生活を生き抜くうちで得た知恵でした。
 往々にして、本人が好きで書きたいと思っている物と、実際に書くとクオリティの高くなる物と、そして読者に受け入れられて売れる物とは、別なのです。

 一致してたら、それは幸運です。
 幸運を望んでいても仕方がありません。
 自分に書ける物のなかで、売れる物を探して、創作意欲やらと相談しつつ、摺り合わせを計りつつ、書きたい物もこっそりと目立たぬように混ぜて作品を書きあげるぢゃ。――と、僕は通りすがりの老師に、昔、そう教わりました。





>ライトノベルという呼びかた

 個人的には、読者への負担が少ないという意味で、ライトといわれているのではないかと思っています。
 まずライトノベルの特徴として、難しい言葉には総ルビが入りますよね。
 他の方はどうかわかりませんが、僕は対象読者の下限の平均的読者が、辞書を引かなければならないような言葉を使うことは極力避けています。読書を中断させて辞書を引いてもらうことは、ひどく負担となりますし。そもそも、その読者の家には、一冊の辞書もないのかもしれない。
 どうしても必要があって、あえて難しい言葉を使うときには、そこが読めなくても、周辺から意味を察することができるようにしています。またその場合でも、学習辞書に載っている程度というのが、使える言葉の限界です。

(関係ないですけど。独り言ですけど。攻略本がないと遊べないゲームはどうにかしてくれー。たかが娯楽で、負担高すぎやしない? 最近のゲームは、攻略本とセットで遊ぶことを前提にして作られているような気がしてならない。アイテム取り損ねてガンガン進んでゆくと、ヘタレプレイヤーは後々詰まってしまって、投げ出すことになりかねなかったり〜)

 あと描写などでも、たとえば人物のイメージとか。
 登場人物の髪、目、身長、体つき、服、装備品――などなど、そういったデータを羅列してゆき、読者の頭の中で想像力を駆使してイメージ構築をしていってもらうようなものが、以前では描写と呼ばれていたものだと思います。
 といっても、僕などは、「ライトノベル以降」でしか小説を読んできていないのですけど。
 集中力を発揮して想像してもらうのではなく、ずばっと人物が視点人物の目にどう映ったか、たとえ印象をベタ書きすることになっても、想像というプロセスを飛ばして、印象を直接的に与えてゆく描写に変わってきているような気がします。

 読んで、想像して、視る――のではなく、
 読む、視る――というように、

 想像のステップを飛ばすのですね。想像するには集中力がいりますから、その分、読者の負担は軽くなります。
 負担が軽いという意味で、ライトということで。



 読者への負担を考えてゆくと、映像メディアのほうが楽なのは確かです。
 個人的には、映画やドラマやアニメなどより、漫画のほうがさらに楽に感じます。
 動画メディアは、流しているあいだじゅう、ずっと注視しつづけていないとなりません。でも漫画は好きなところで中断できるし、あるコマが気になったら、ずーっとそこだけを見ていたりすることもできますし。
 録画済みの番組を他人と見ていると、僕はしょっちゅう巻き戻しをしたり一時停止をしたりするので、一緒に見ている人間に叱られます。映画は巻き戻しできないので、集中力を上げて観賞しないとならないので気力がいります。映画館に映画を見に行くのは、なんか一日仕事になってしまいます。

(映像メディアでも、連続朝ドラマのように、やたら冗長で同じことを繰り返し重複させていて、30秒ぐらい所用で立っていても、不都合なく話が伝わってくるような、特化したジャンルもありますが)

 ただライトノベルというものが、「読者への負担が軽い」だけでは、やがて他のメディアに負けていって、淘汰されていってしまうのは自明です。その点に関しては、もっと優れたものが、他に山ほどあるのですから。そして読者というのは、いわば、愉しめるなら「なんでもいい」わけですから、べつに小説にこだわらなくたっていいわけです。

 エンターテイメントという娯楽の分野で、ライトノベルが生き残るためには、他のメディアではできないことをやるしかないでしょう。

 たとえば僕などは、逆に「絵」を見せることで頑張っているつもりです。
 描いてある「絵」を見て、「絵」が伝わる――なんてのは、あたりまえですよね。そこにはなにも驚きがない。
 しかし、書いていないのに、文章しかないのに、読むだけで「絵」が浮かんできたら、どうでしょう。べつに想像とかもしていないのに、苦労もしていないのに、文章を目で追いかけていただけなのに、自動的に「絵」が浮かんできたりしたら……?

 「すげぇ。小説なのに。文章しかないのに。絵が浮かんでくるよー! しかもコレ動いてるよー!」とか、感激してくれるのではないでしょうか。
 こういうものは、「小説」でなければ与えられない驚きだと思います。

 これが実践できているかどうかは、まだ聞かないでください。
 現在、修行中。人生これ修行。

10 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月01日(火) 11時11分07秒
>想像のステップを飛ばすのですね。想像するには集中力がいりますから、その分、読者の負担は軽くなります。

そうですね。
“ライトノベル”の“ライト”がその負担の軽さを標榜しているように見えたゆえに、わたしは「それは小説の将来に対する背信だ、自殺行為だ!」と感じたわけです。
新木さまは「負担が軽いのがなぜ悪い? 負担なんて軽いほうがいいじゃないか」とおっしゃっているように見えるので(もし誤解だったらごめんなさい)何故、軽負荷に対して警戒心があるかについて以下、説明いたします。

けっして啓蒙小説やらビルドゥングス・ロマーンばかりを絶対視するわけではないのですが、ある程度トシいっちゃってもう自分の生活を確立してしまったひとがヒマつぶしに読むものではなく、これから人生の選択をたくさんしていこうとする若いひとに読んでもらうものには、そのひとの将来のためになるもの、特に読書筋肉に対して栄養となる成分がきちんとあったほうがいい、とわたしは考え、たとえば小説ドラクエなどはそういう意識で書きました。

ウチの亭主の祖母(故人)は波多野勤子(はたのいそこ)という心理学者で教育論者だったのですが、昭和四十年代だか五十年代だかに、マンガの隆盛に対して「識者」のかたがたから強い懸念の声があがった時、「マンガ・オヤツ論」を述べてマンガ擁護をはかったことがあるそうです。マンガの中にも良いものがたくさんあり、禁じたらかわいそうだ、しかし、確かにマンガ「だけ」読ませるのはよくない、「三度のごはん」にあたる「児童文学」や「ずかん」や「がくしゅうしょ」の類もきちんと十分に読んだ上で、オヤツをつまむぐらいにマンガ「も」読むのが健全なのではないか、というのがその論旨でした。いまとなっては、親御さんの世代がそもそもマンガすら読まないかもしれなかったりするし、比喩としてではなく毎日きちんとした「三度のごはん」を摂らせてもらえないお子さんも少なくなかったりするわけですが。

軽いもの、甘いもの、オヤツは、わたしだって好きです。全面的に禁じろ、などという気持ちは毛頭ありません。体脂肪率が高くてダイエットしないとならないという意味では、食べすぎないようにいまだに気をつけていますが。

ただ、こと成長期にかぎっては、誰でも、あまりオヤツを食べ過ぎるのはほんとによくない。ましてや、ごはんの代わりにしちゃいけない。そう思うわけです。

だから、若い読者を前提としたときに、わかりやすさ、噛み砕きやすさ、甘さ、舌触りのよさ、など「ばかりを」肯定的に考えるのはいかがなものだろうか、と思うのです。
オヤツのように見えていても、栄養十分でカロリーひかえめ……なんてものなら悪くないような気がしますが、カロリーメイトやヴィーダーインゼリーをこどもの常食にしてしまったら、やっぱマズイでしょう。
顎の筋力や内臓、そして脳みその発達を考えれば、「噛む」ちから、消化する能力、満腹中枢、日本人ならではの箸の使い方、などを、健全に適格に十分に発達させるような食事が必要だろうと。たとえその時その場ではあまり食べやすくなくても。
トーフとかハンバーグとか柔らかくて食べやすいものばかりではなく、たまには、メザシを頭からバリバリ食べるとか、コボネの多い魚をいっしょうけんめいおハシつかって食べるとか、野菜や海草やキノコもちゃんとバランスよく摂るとか、旬の材料を使ったお献立で季節感を知るとか、そういうゆたかな食生活を、成長に応じつつ、やっていけないと不幸だと。将来困るのはそのひと本人だろう、とわたしは思うんですね。

というわけで、文章も「噛み砕くのにやや根性がいる玄米」とか、「ちょっと苦くて、感触が気持ち悪いレバー」とか「セロリ」とか「ピーマン」とか「納豆」とか、ほんのちょっとした抵抗でスキキライされがちなものでも、読めばちゃんとタメになるようなものに、淘汰されては欲しくないわけです。

ふつうによく噛んで食べても理解できない消化できないととしたら、そりゃ読者の想像力がウンヌンという以上に、書かれたもののほうの質が悪い、調理が、書き方が、ヘタだ、ということももらろんあるわけですが。

小説を読む場合、ふつうは誰か特定の主人公(複数いる場合も含めて)に感情移入して、その感じることや考えること行動などを追いかけて読んでいくわけで、そのひとが幸福なら幸福に感じ、不安なら不安に感じる。早い時点でその「感情移入」がスムースにできるなら、多少ややこしいスジガキであろうとも、どこかわからない世界の話で知らない固有名詞が頻出してきたりしても、先を読みたくなるわけで、読んでいればいろんなことが徐々にわかってくる。

わたしは『ドラゴンファーム』シリーズを書くときに、少数の例外の場面以外は徹底的に三人称主人公限定視点を使って「異世界」を描くことに挑戦しました。いわゆる「神の視点」を使えばザックリ説明できるのですが、それはしないことにした。あくまで主人公(架空のその世界に生きていて、メタな意識は皆無ですから、「日本の現代に生きている読者の理解」を助けるためにモノゴトに説明をくわえたりなどは一切しない)の感じたことや考えたこと、行動したこと、誰かと交わした会話などだけを追いかけていった。だから、そういうものをあまり読んだことのないかたには、すごく読みにくかっただろうと思います。
たとえば、「神の視転」をやめて、どうしても主人公限定視点にするなら、その主人公が現代のこの日本からなんらかの不思議の力で「異世界」に行ったことにするほうが、そりゃ現代の読者からすれば百倍わかりやすいハナシにすることができるわけです。主人公は、ほぼ読者と「同じていどの語彙を持ち」「同じ常識を持っている」んですから。何かこの世ならぬものを形容する場合にでも、「なになにに似てる」などとこの世のモノを持ち出すことができますし。
でも、それだと、主人公はずーっと、このいまの現実のシッポをひきずってしまう。
そーゆーのは、やりたくなかった。
あえて、この世とキッパリ切り離してみることで……ハードルはやや高くしてしまったかもしれませんが、そのハードルをめんどうがらずにヨッコラショと越えてくれたひとは……「架空の世界の住人」になりきって、その、ありえない世界でのあれこれを楽しんでもらえるはずだ、と考えました。

“ライトノベル”の読者のかたがたを、お子さま扱いしたみたいに読めたらすみません。ただ、あくまで外からみた感想ですが、多くの“ライトノベル”読者のかたは、それ「しか」読まない、それ「から」読み始めている(少なくとも自主的には)ような気がするのです。ですから、「オヤツは、まずごはんをちゃんと食べてから!」と婆は言ってしまうのでした。




11 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月01日(火) 11時56分41秒
シメキリが半月延びたのをいいことにまだここにハマッているわたしを誰かなんとかして! と他力本願に考えつつ……

>書きたい物と、書ける物と、そして売れる物(買ってもらえる物)――。この三つは、まあ大抵のケースにおいてすべて別である。

まったくその通りです。それが悩みの種じゃん、なんです。
そっちはすごく納得できるんですが、

>A.作者は作品の価値に確信を持っている。読者も喜ぶであろうと考えている。
>B.作者は作品の価値をまるきり信じていない。さらに読者をナメていて、こんなものでも喜ぶと思っている。

この二分法はどうでしょう、ここまで誰もこんなことはおっしゃっていないのではないかと思うのですが。

先日、新木さまはご自身のことを「職人さん」なのだと、おっしゃいました。では「職人さん」と、そうでない(つもりの)もの、の違いはどこなんでしょう?

以下はわたしの印象ですが、職人さんは「認められた一定水準に達した製品 = 常に同質以上なモノ、を、あくまで複数、コンスタントに作り続けることに熟練し、そのための技術を会得したひと」なのではないでしょうか。
そうでないタイプというのは、この「認められた一定水準」に関しての内的な縛りをもともと持たないのではないか。なんらかの衝動に突き動かされて「たまたまできちゃったもの」「やっちゃったもの」ものには、そのつどワガママな愛情を感じてしまうため、それが水準に達していようとそうでなかろうと、それを大切にせずにいられない。認めてもらえれば嬉しいですが、認めてもらえなくてもやっちゃうものはやっちゃう。認めてもらう方向に自分を修正することが「できない」。なにしろ偶発的にたまたまできるものしかできないので。このタイプは、なにかを「複数」作ることは、とうぜん苦手です。というか不可能です。なにしろ、あくまで「たまたま」なんで。

この「でないほう」から逆照射すると、職人さんの、自分が作り出したそれぞれのモノに対する「愛」は、自分のそれに比べると、すみませんが、希薄に見えるんですよ。なにしろ職人さんは、いくらでも需要に応じて同質のものを「複数再生産」できる用意があり、そのことを誇りに思っておられるわけですから。

「愛」という用語はややこしいので、ここで、それぞれのタイプが何に「殉じる」覚悟があるか、というかたちで問い直せば、問題がやや明確化するかもしれない。
「でないタイプ」は、唯一絶対の、そのたびにたまたま偶発的にできてしまうものに、そのつど、殉じます。
「職人さん」は、それよりはむしろ、おのれの技量に、シゴトに精魂傾けてきた自負に、殉ずるのではないでしょうか。

テキスト主義……誰が書いたものであれ、どのようなカタチになったものであれ、個々のテキストそのものがおもしろいかそうでないかがもっとも問題なのであって、あとは瑣末な偶発事象であると認識しているタイプ……であるわたしは、「職人さん」にはなれません。自分に技術が「ない」とは思いませんが、誇りに思えるほどの技量などありません。小説の神さまからのお助けがないとなにもできない、永遠の「そのたびにイッパツ屋」です。
そんな自分でいるのは、正直ツラクてならないんですが、そうなんだからしょうがない。まして、職人さんたちと同じシェアを競うのは圧倒的に不利だとわかっているのですが、こうしかなれないんだからしょうがない。

『流れよわが涙、と警官は言った』(P・K・ディック)をお持ちのかたは、第11章を読み返してください。ここで、ディックは「愛」について、なんとも深みのある対話を展開しています。(ルールについて、も泣ける話がありますが、それはここでは関係ないのでおいといて)。
意見を表明しているのは登場してきたばかりの女性キャラで、この物語のここまでの主としての視点保持者はむしろその発言に対して懐疑的というか「賛成したくない」みたいな態度をとっているあたりが、ディックらしいんですけども。

愛は悲しい。悲しいから素晴らしい。要約すればそういうハナシです。

わたしの(自分の書いたものについても、ほかのひとの書いたものについても)小説に対してもっている愛も、つまりはそういうものなのだと思います。

12 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月01日(火) 12時15分33秒
しつこくてすみません。あと、お客さんに対するタイドっていうのもありますね。

職人さんは、お客さまがたの要望にちゃんと対応することができる。お客さまダイレクトでなくて、仲買のクライアントの注文に対しても、できる。
そうでないタイプは、残念ながらそれができない。ただ自然と「できちゃう」ものしかできない。お客さんから注文がきても、「悪いけど、どんなものができるかオレにもわかんないし、できるものしかわたせない。いつできるか? おてんとさんに聞いてくれ」みたいなこと、言っちゃいがち。

でないタイプが職人さんに「勝てる」場面があるとしたら、誰もそんなもの注文しないもの、なぜなら、まだこの世に似たようなものがひとつもないものが、「たまたま」できちゃう場合だけかもしれない。

とかなんとか書きながら、実は新木さんもわたしも、あるいはどの書き手もみんな、多かれ少なかれ「職人さん的な面」と「そうでない面」を両方もっているのではないかなぁ、とも思えてきました。純粋に100パーセントどっちかだけだ、なんてことはないですね。きっと。

はたまたどっちにしろ、あるいはどっちが濃厚であるにしろ、なにしろそうやって生み出したものが、個々のお客さんの手元で「どう使われるか」に関しては、確かにどちらも手出しはできない。お客さまの好きなように、なので。

ただ、どちらかというとどちらサイドに自分の意識を振り向けているか、どういう自分であろうとするのか、は違いますね。
それはもう、みんなそれぞれであたりまえ。ひとが自分と違ってたからって文句つける筋合いのものではないし、逆に、自分がみんなと違ってヒトリボッチだと感じたとしても、どうしようもない。

どっちしろ、お客さまは、作者が「どんなタイプであるか」なんてことはふつうは気にしないです。そういうのを検証するのは評論家のかたがたで(笑)。いわゆるお客さまとはちょっと違う。お客さまがたは、ただ売りにでているものを手にとってみて評価なさるだけです。費用対効果的に納得がいけばご購入いただけるでしょう。

ただ、「書いたもの」のムツカシイところというのは、ふつうは「ミズテン」で、ナカミを細かく吟味確認してから買うわけではないということ。たとえば、音楽だったら、街角で流れてきたのを聞いて「あ、いいな」と思ってCDを買う、買ったら練習してカラオケで歌う、なんてことがありますが。

「職人さん」のほうが立場が強い、羨ましい、というのはこの点です。文芸関係のものであっても「職人さん」が売りに出すのは、かならず一定の基準以上の質のものだけなはずだから。誇りある職人さんは、わけのわからない傷のあるものとかは、納品する前に自分ではじいちゃうでしょうから。「でない」度合いが強いものにはそれができないんですよ。そのキズもたまらなくいとおしいというか、キズのないものなんてできそうにもなかったりして。


13 名前 : 天戸 司郎 投稿日 : 2004年06月02日(水) 01時02分39秒
こんばんは、天戸と申します。

作者さま方のコラムや議論を楽しく読ませて頂いております。ありがとうございます。
久美様の『創世記』スレッド2と葛西様の『《X》の足音』感想スレッドと、どこにするか迷ったのですが、議論の本線っぽいこちらにしました。ここは作家さん以外が発言してもよい場所なのか不安がありますが、ライトノベルについて私が考えてきた事も、ひょっとしたら何かの役に立つかもしれませんので書き込みします。

なお、まとまるまで書き込まずにいてずいぶん日が経ってしまったのでまとまった分だけ書いています。
そのため、久美様の懸念している「ライトノベルに豊かな栄養があるのか?」という問題が抜け落ちてます。
「なにも学ばないということはありえない、経験を積めば何かは学ぶはず」という考えの持ち主なので深く考えませんでした。
それが評価すべき「学習」なのかどうかなど、論点を整理して考え直してみます。
考えをまとめにかかっているので、まとまったらまた後日書き込ませて頂きたいと思っています。


・ライトノベルは「軽さ」が特徴だけど
純文学に分類される作品と比べるととにかく読みやすいです。とにかく「軽い」メディアなんです。
そして「軽い」事は悪い事ではありません。軽い事と重い事はその特徴つまり長所や短所が異なるだけで、どちらが優れているというわけではありません。軽騎兵と重騎兵、あるいはレンジャーとファイターの役割が異なるように、それぞれがそれぞれの得意とする分野があり、得意とするやり方があり、向いている仕事があるだけのはずです。
ですから文章表現という大きなくくりの中に「重たい」純文学と「軽い」ライトノベルという、それぞれの機能に特化したサブジャンルを持つのはおかしな事ではありません。大切なのはどちらがどういう役割に向いているか?という事を考え、利用し、(作者も読者も)選択するという事だと思います。


・「軽さ」というよりも「早さ」が大切
そして文章表現が他のメディア−−テレビや映画、漫画などと比較され、選択されようとする事を考えると、「軽さ」が必要な時代なんだと思います。既に指摘されている通り、他のメディアの表現力はかなり向上してきています。それは扱えるものが増えたという事……幻想的な、実在しない映像/画像が作れるようになった、という事だけではありません。カットの技法、映像の編成の技法、演出の手法など「どうイメージを伝えるか?」という事に対して真剣に挑戦をし、改善を行ってきているという事でもあります。
それは「いかに早く、かつ濃密にイメージ/メッセージを伝えるか?」という努力です。ですから本当に気をつけなければいけないのは「軽さ」ではなく「早さ」なのだろうと思います。素早く、それでいて正確に濃密に情報を伝えるという事、つまりキーワードは「早さ」なのだと思います。
(ですが……ファーストノベルはライトノベルよりさらに微妙な表現かもしれないですね)
そしてライトノベルは、おそらく意図せずに、でしょうがその「早さ」に向かって文章表現が進化して作られつつあるものなのだと、そう考えていました。


・「早さ」をキーワードにライトノベルを読み解く
厳密には例外もあるでしょうが「多くの場合」という事で考えると、何を省略して「早さ」を得るか?という文脈が見えてきます。

「ライトノベルは何故、イラストが付いてまわるのか?」
 >キャラクターの外見など視覚的なものは文章で描写するよりもイラストで見せた方が早いから。

「ライトノベルは何故、典型的なキャラクターのパターンを持つのか?」
 >人間関係の描写、背景説明を省略できるから。
  読者をすばやく安心させ、余計に頭を使わせないで済むから。
 (構造が理解できると安心する……のは私だけでしょうか?)

「ライトノベルは何故、キャラクター小説と呼ばれるのか?」
 >ドラマの中心には人間がいるから。
  「早くするために」と考えて背景は省略できたとしても、人物は省略できない。
 (演劇にも役者さんだけ配し、小道具は椅子1つだけ、といった舞台もあります)

「ライトノベルでは何故、手の込んだ描写が少ないのか?」
 >大筋を素早く読ませるために細部を省略しているから。

もちろん、描写にこだわる作家さんはいます。イラストを重視しない作家さんもいます。
それは漫画家さんに劇画タッチの方がいたりするのと同じで、ライトノベルというジャンルが持つゆらぎの内なのではないでしょうか?


・漫画と比較して手抜きではない事を説明すると
省略する、というと手抜きのように悪いイメージを持たれるかもしれませんので、ちょうど出てきた漫画家、漫画の「省略」を参考にしながら「目的のために目的外の部分を削る事」の効用を説明したいと思います。

「デフォルメとトーン」
 >デフォルメにより線を思い切り省きました。
  トーンの使用により立体的な表現を省力化しました。

「表情、仕草のパターン化」
 >読者と共通認識を持つ事により省力化しました。
  例えば喜怒哀楽の表情などは「記号化した」と言っていい程の状態になっています。

「人物への集中」
 >漫画の描写もやはりキャラクターに集中しています。

「背景の省略」
 >絵画ではきちんと描かれていた遠景、近景、小物などは大胆に省略されています。


・文章表現が強いのはどこなんだろう?
「ライトノベルは早さを追求した文章表現である」という事で、私の考えは完結しているのですが、こういう話題も上がっているので少し。
「対等の速度を得るために省略するのはいいとして、じゃあ、何で勝負するの?」という問題にノータッチというのも気が引けますので。

「説明するのが得意」
 >映画だとナレーターが読み上げる部分ですね。
  漫画だとなんとなく「それっぽい」背景の右上とかに文章で書かれるようなもの、
  「そしてアメリカ精霊連合王国が誕生するのである」
  のようなヤツですね どうしても絵になりません。

  構造を示す時や、長い歴史を端折って説明しなければいけない場合などに有利、という事です。
  これは漫画や映画などよりも「複雑な背景、舞台、道具」を手軽にコアとして使える可能性に繋がります。

「心情描写が得意」
 >得意、というより自然にできる、というべきでしょうか?
  映画や漫画で登場人物が自分の心情を吐露し続けたら、しつこいですよね?
  ところが文章で、視点を登場人物に持っていくと「ひたすら感じた事を書いていける」のです。
  視覚的に描写する事はあまり得意ではないかもしれませんが、
  感じた事をそのまま描写する事はとても得意なはずです。

  逆に視覚も感覚としてとられ「見たまま」な描写を(どうすればいいのか分かりませんが)すれば、
  映画や漫画などよりもより強い臨場感を得られる可能性がある、のかもしれません。
 (視覚からアプローチするのではなく、知覚からアプローチするという事です)



・本当に筆力が必要なのはライトノベルの方である
これは私はほんとうにそう思っています。根拠は「同じきれいに見せるのであれば、塗り固めてきれいに見せるの方が簡単だ」と言われるからです。
ライトノベルは作家さんが伝えたい所以外の場所はできるだけ削られるものです。いや、実際にはそこまで削り込んでいるわけではないでしょうが、もしも削れるだけ削った文章表現をしたならば、それは文章の素描画のようなものになるはずです。それでいて面白い、というのはすごく難しい事だと思います。
そういう意味では「純文学」で書いている作家さんの「ライトノベル」も是非読んでみたい。そのためにも、早くライトノベルというのは「早さを追求した文章表現の形式なんだ」という認識……でなくてもいいから、表現の一手法として認識されて欲しい。


普段、いえたまに私はそんな風に考えているのです。
駄文で長々と、お邪魔しました。

さらに議論が活性化したりするといいなと、楽しみにしています。
あと、できれば私が浮かないように他の普通の読者の人も書き込んで欲しいなー、と思いつつ。

14 名前 : 新木 伸 投稿日 : 2004年06月02日(水) 03時04分58秒
>久美さん

 ハメちゃっているのは僕ですか。なんだか関係各所に恨まれてしまいそうな気が……。

 僕のほうは、毎日、他人に読んでもらうための文章を30枚以上ほど書くことを修行の一環として、日課としていますので、これ普段の日常です。
 この12年、ずっとこんな感じです。
 日によっては100枚くらい書いちゃうこともあって、そこまでやっていると、さすがに仕事にならんのですが。こちらに書いているものは、だいたい修行ノルマの半分くらいですので、まだ余裕はあります。



>>A.作者は作品の価値に確信を持っている。読者も喜ぶであろうと考えている。
>>B.作者は作品の価値をまるきり信じていない。さらに読者をナメていて、こんなものでも喜ぶと思っている。

 僕も極端すぎる二文法かとも思いました。まるで根拠なしの気のせいでもないだろうと思っていますが。でも「僕にはこう見えているんですけど」ということをぶつけてみることで、「いやそうは言ってない」とか「私は違いますが」とか、話の発展が得られればいいなぁと思いまして。



 職人に関してですが。
 久美さんの誤解がひとつありまして。
 職人が自負を持つべきなのは、自分の経験や技量などではなくて、その技量が生み出す「モノ」の品質のほうです。
 僕などは未熟もいいところですので、「積み重ねてきたもの」ぐらいにしか拠り所を持てないらしく……。(12年とか、毎日30枚だとか、しきりに吹聴しているのはそんなことが理由でして)
 もし久美さんの目に、職人というのが「ウデのほうに自信を持っているものらしい」と見えてしまったのでしたら、それは僕の不明からくることですので。
 本当の職人というのは、もっとこう、悟りみたいなものを開いた人たちのことです。
 自分の技術なんてものを軽く見ていたりして、「そんな途方もない技術を墓場まで持ってくなー!」と周りが叫んでようやく認識してくれるぐらいの人たちです。

 職人が自負を持っているモノの話。
 ベアリング職人やら、歯車職人やら、ネジ職人やらがいたとします。
 彼らは自分の生み出すベアリングや歯車などの品質に――たとえば金属球の真球度の精度に殉じるわけです。一万個出荷して、その一万個のどれもが一定精度で、一定以上の品質であることを誇るわけですね。

 たとえば肉屋がいたとします。その肉屋は目利きの腕も確かであり、肉をさばく包丁技術も、温度や衛生管理への気遣いも確かなものであったとします。肉屋が殉じる――というか、なにに誇りを持つのかというと、店頭に並べられた肉の品質です。
 肉の解体は手作業で行うものですが、もし自分の腕よりも確かな「肉の解体機械」というものが出回るようになったら、肉屋は自分の手で解体するのをすっぱりやめて、機械を導入することでしょう。
 げんにロースのあたりのブロックを、しゃぶしゃぶ用にスライスすることなどは、昔は手作業でやっていたようですが、最近は機械でやってますし。
 長年培ってきた自分の腕や技術でさえ、その必要があれば、すぱっと捨てられてしまうのが真の職人というものです。

 あと、じつは白状しておかなければならないことがひとつありまして。
 僕の言っている「職人」は、僕がこうでありたいと思う理想像というものでして。つまり自分が「憧れているもの」であって、現状の自分が「職人」であると、そう考えているわけではないということです。
 自分はそうであると思いこみたがっている自分がいます。いまの自分はすでにそうなれているから、もう努力しなくていいんだよ、という内なる声の誘惑がいつも聞こえてきています。

 この「憧れ」に関しては、久美さんもそうなのではないかと思ったりもします。
 「私は小説の神様に仕える巫女なのよ」――と、そんなふうに僕の聞いた話なども、話半分ということで、「久美さんはそういうものに憧れている」というように受けとらせていただくことにします。

 でもここでも思うことがひとつ。
 僕は「職人」に憧れていたりするわけですが。果たして自分の資質は職人向きなのか?
 憧れるものと、向いているものと、なれるものとは、それぞれ別々の方向を向いちゃっているのが常ってもんですし。するとここにいる「職人に憧れている新木伸」という者は、「職人には向いていない」ことのほうが確率的にいえば多かったりするわけで……。それこそ、一品物でたまたまできちゃったものを突き詰める道のほうが向いていたりするのかもしれません。
 じつは自分は職人目指してないほうが、世の中のためになるんじゃないの? みたいなことは常に考えていたりします。
 ああ。でもなりたいなぁ。職人。
 てなわけで、俺の人生なんだから俺の好きにさせろーと、ミーハー職人道(笑)を突き進んでいるわけですが。

 あと、職人が自分の生産物に対して「愛」がない、あっても希薄に見える。――という話は、例の「隣の芝はいつも青く見える」理論によって、「錯覚」と証明できてしまうと思うのですが。
 これを言ってしまうと叱られてしまうかもしれないのですが、職人に憧れる僕のような人間から見ると、職人タイプでない方の書かれる話には「愛」が足りないように見えてしまうのですね。
 でも、もちろんそんなことはないわけで。
 僕の狭隘な視野と価値観で見ればそう見えるのかもしれないけど、本当にそうであるかどうかは、あくまでも別なわけでして。





>丈夫な顎や体を作るという話

 柔らかいものばかり食べていると、歯や顎が体が弱るという話ですね。

 ああ。耳に痛い。
 カレー、ハンバーグ、スパゲティ――と、そんな消化の良すぎるものばかり好んで食べてきていたせいで、なんだか血糖値が上がってきたようで。いまも朝食として「繊維質50%、オールブラン」なんてものを食べていたりします。最近の主食は玄米ご飯です。
(ブドウ糖としての吸収のしやすさを示したGI値なんてものを調べると、案外とスパゲッティは低かったりするのですが)

 お子様ランチによく入っているのも、そうした「カレー/ハンバーグ/スパゲティ」ですね。

 ――で、食べ物の話では、栄養学をはじめとする分野の長年の研究によって、噛みごたえと歯や顎の関係やら、栄養バランスと発育の関係やらとのあいだに、きっちりとした因果関係のあることがわかってきています。
 いま、一介の一消費者でしかない我々が、「海藻はミネラル、小魚はカルシウム、繊維と歯ごたえのあるものがいい」と、事実に基づいた正しい共通認識を持てているのも、栄養学を研究した人が、あらゆるメディアで宣伝の努力をしてきてくれたからですが。

 しかしその論を、物語の摂取という観点でも、そのまま通用させてしまって、いいものなのでしょうか。
 かたや食事という、生存に絶対に必須な行為についての話。
 かたや読書という、生存に必須ではない娯楽であるものについての話。

 お菓子ばかり食べて育ってしまった人が出たら、一般的にいっても大変困るかもしれません。内臓も弱っているでしょうし、長生きできそうにもないですし。
 でも軽い物語ばかり摂取して育った人が出たとしても、なにか目立った不都合はないように思うのですが。

 いまの日本では有り得ないでしょうけど……。たとえば生きるのに精一杯で、「物語」というものに触れることも愉しむことも、ほとんどなかった人がいたとします。ではその人の精神が人間的に豊かではないかというと、決して、そんなことはない気がするのですが。
 人間形成に、物語って、そんなに影響を与えるものなのでしょうか。
 軽い物語だけを摂取して育っても、いろいろとバランス良く、軽重取り混ぜて物語を摂取して育っても、なにか大きな差が出るものではないだろうと思うのですが。

 このへん、あくまで「気がする」とか「思う」とか、そんな思いこみ程度の話ですので、説得力のカケラもないのですけど……。どこかに同意してもらえたりすると、説得力はなくとも、納得力は生まれるかもしれませんが。

 「漫画」というものが登場したときも、「こんな低俗なものを読んでいてはためにならん」てな議論が起きたはずだと思うのですが。「視覚に頼りすぎて、考えたり想像したりする力を失わせる」とかいう話なども、絶対にあったはずですが。
 漫画ばかり読んで育った世代は、いま四十代前半ぐらいまででしょうか。
 その年代以降の方々には、人間的に軽いとか、精神が豊かでないとか、なにか目立った悪影響が出ているものなのでしょうか。
 もし久美さんが、「私は見てきたので、そうだと言っている」ということですと、これはもう、頭を下げるしかないのですけど。


 軽い物語が読者に与える悪影響とか、そういう大義に関わることではなくて、単に「軽い話は好かんから、そっちに傾いちゃ個人的に困る。読み手として、また書き手として」という話でしたら……。

 僕は個人的には、軽い話しか読まないものですので……。個人的には困らないのですが。
 ライトノベルの中でも半数から、ややもすると3分の2ぐらい、一読者として読むには重たすぎてNGなものもあるぐらいですし。
 十代の思春期の鬱屈した心理とか、少年少女に固有の悩みなどをテーマに扱ったものなどは、「いまウケているもの」のリサーチとして仕事としてしか読みませんし。

 多様性はあったほうがいいと考えますので、バランス良くどちらもある状態が望ましいと思っています。これは感性でなくて、理性のほうで。
 理性抜きで、個人の感性と欲望だけで物を言うのであれば、世の中すべて俺様の好むものだけにしろー、って、そうなっちゃうところですけど。


 しかし、そうした「趣向」の話でしたら、個人ごとに違うものですし、同じ個人にしたって、年齢によって変わるものですし……。
 僕はいま思春期の鬱屈した話を嫌っていますが、自分が思春期だった頃には、そういう話を求めて追い回していましたし。安っぽくガジェットを消費してゆくSFモドキに熱を上げていたりしましたし。
 これは「昔の自分には本物がわかっていなかった」ということでなく、ただ単に、加齢や経験によって自分の物語に対する味覚が変わってきただけと考えています。

 そんなわけで。
 軽いものばかりでは不幸であろう。――ということは、ないのではないかと。子供にとっては駄菓子に囲まれる生活が夢なのかもしれません。
 もちろん久美さんにとって、それは不幸に感じられるというのは、わかります。

 ただ食物などの必需品に関する話ではなく、これは本来不要な嗜好品の話なのだと、そのように僕は考えています。
 つまり偏っていることで、困ることもないのではないかと。





>買われてゆくとき

 小説は中身を確認できない――に関しては、一瞬「???」となったのですが。

 だって表紙を見ただけで、どんなヤツラが出てきて、そこがどんな世界であって、どんな展開になってゆく話なのか、だいたい推察できるじゃん。表紙以外でだって、帯の宣伝文やら、煽りのあらすじっぽいもので、作品の中身を示す営業努力は山ほど行われているのに。――とか思いましたが。

 テキスト主義である久美さんのいうところの「中身」は、つまり本文の小説文章のことだったのですね。そう理解して、納得しました。

 でもそれでも……。
 お客さんって、けっこう中身を見てくれていますよ。

 大型書店の店頭で、一日張りこんで、観察していたことがあるんですが。
 まず表紙もしくはタイトルを見ます。お客さんは、まずは本を手に取ってみるべきか、そこで決めてます。
 本を手に取って、手元まで持ってきて、帯と表紙とをじっくりと数秒見つめて――。そこで戻してしまうときもあれば、表紙を開くか裏を返すかして、「煽り(あらすじ)」の部分を探しだして、読みはじめることもあります。

 いきなり本を開いて、中の確認をはじめる人もいますが、これはわりと少数です。
 また中には表紙さえもロクに見ないで、いきなり掴んで、いきなりレジに――なんていう人もいますけど。これは「作家買い」なので特殊ケースですね。その作家の新刊であれば、内容に関わらず、とりあえず買っておく――と、心に決めている人の行動。

 さて。「煽り」のチェックで棚に戻されることもあれば、次の段階である「本文チェック」に入ることもあります。
 本文チェックに入ってから後も、色々なパターンがあるのですが。
 とりあえず最初の三行なり、最初の一行なり読んでもらってから判断されたのであれば、「中身を見て選んでもらった」と言えるのではないかと。

 これをもってして、「中身を見てもらった」とするのであれば、結構多いですよ。
 大ざっぱな数字になりますけど、表紙を見る人間が1000人いたら、20人ぐらいは中を開いているのではないかと。
 およそ50人にひとりの割合ですね。なんと2%もあります。


 これまた大ざっぱな数字ですけど、各段階の人数を記しておきます。
(この数字の信憑性に疑いがある方は、どなたでも、店頭で一日張っていればチェックできますので、ご自分でご確認ください)

1.1000人いたら、表紙見て「いらね」とするのが950人くらい。
2.残り50人のうち、表紙より先に進むのが6割の30人。表紙と帯だけで戻してしまうのが4割の20人。
3.残り30人のうち、煽りを読んで戻すのが。6割の20人。
4.残り20人のうち、冒頭から、もしくは開いた本の途中から適当に読み始めて、半ページ以上読むのが10人。
5.5ページ程度読むのが、5人。
6.本をレジに持ってゆくのが、3人。
(内容チェックにも、1行、3行、1ページ、3ページ、5ページと、細かく各段階があるのですが省きます)


 数字ばかりを並べていてもイメージできませんので――。
 棚には各文庫の今月の各文庫の新刊が、だいたい40冊程度並べられているわけですね。
 一人のお客さんがやってきて、ずらりと並んだ本のうちから、手に取ってみるのが、だいたい2冊程度です。そして手に取った本をレジに持ってゆく割合が、15冊に1冊で、6%ぐらいでしょうか。

 つまりお客さんが7〜8人来たら、なにか1冊がレジに持っていかれるという感じです。
 なお前記の「作家買い」はここには含んでいません。

 ディテールを飛ばして、大ざっぱに要約してみます。
 本を見て、手に取るより先に進むのが、1000人中の50人くらい。
 手に取られてから先に進むのが、50人中の20人中くらい。
 そして中身である本文を見てから先に進むのが、20人中の3人ぐらい。


 最後は本文を見て選ぶわけですし。
 1000人中の20人ものお客さんが、本文を見て選んでくれているわけですし。
 中身を見て選んでもらえていない、という意見は、僕には納得できかねます。中身というのが、テキスト主義の定義による「本文」を示しているにせよ。

 ちなみにパッケージまで含めてが「中身」であるという観点に立つと、1000人中の1000人が、中身を見て選んでくれていることになったりします。

 該当で配っているチラシやティッシュの広告などが、どれだけのリターン率があるかということと比べてみたりすると、えらい効率で買っていってくれていることになるわけですが。詳しく知りませんが、あちらは1万配って2〜3件のヒットだとか。前にどこかで見ましたが。
 もともとなにか買うつもりで本屋の売り場を訪れているわけですから、同列に比べられるものではありませんけど。

15 名前 : 新木 伸 投稿日 : 2004年06月02日(水) 04時22分06秒
>久美さん

 レス忘れ、です。
 ドラゴンファームについて。

>>わたしは『ドラゴンファーム』シリーズを書くときに、少数の例外の場面以外は徹底的に三人称主人公限定視点を使って「異世界」を描くことに挑戦しました。いわゆる「神の視点」を使えばザックリ説明できるのですが、それはしないことにした。あくまで主人公(架空のその世界に生きていて、メタな意識は皆無ですから、「日本の現代に生きている読者の理解」を助けるためにモノゴトに説明をくわえたりなどは一切しない)の感じたことや考えたこと、行動したこと、誰かと交わした会話などだけを追いかけていった。

 ええと、それはライトノベルでも、ごく普通の文法なのではないかと思うのです。
 視点を場所的にも感性的にも、主人公から片時も離さずにおくということ。
 たとえば「メルト」という長さの単位が出てきて、それが何メートルであるのか、説明しないということですよね。主人公も周囲の人物もその単位を普通に使って会話していたりして。
 主人公の意識に張り付いていることをやめて、ちょっと離れて、1メルトは何メートルであるのか解説できちゃえば楽なのを、あえてやらない。せっかく使える「神視点」を使わず、あえて手足を縛って戦うようなことをする。

 ――と。
 そういうことが「歯ごたえ」ということでしたら、ライトノベルの大半は歯ごたえがあるかと思います。大丈夫です。
 どちらかといえば主流派かと。

 アニメや漫画やゲームだと、そうした意味では、歯ごたえありまくりになりますよね。
 小説では容易に説明できてしまえますから、するのか、あえてしないということが、選択肢のひとつとして存在しますけど――。
 漫画ではト書きで書くしかないですし、アニメならナレーションでやるしかないですし、ゲームではそもそも会話文しかないので、どこかのキャラが「1メルトは○メートルで」なんて話してきたら気色悪いですし。どれも一目で読者に「この世界作り物じゃん」と見抜かれてしまって、興醒めさせてしまいますから。
 はじめから選択肢はないようなものですよね。

 そういった強力な他ジャンルに対抗する以上、世界への没入度で負けないために、神視点使わない縛りを自らに課すファイティング・スタイルは、いまライトノベルでは一般的だと思うのですけど、どうでしょう。

16 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月02日(水) 09時50分41秒
天戸さま。「早さ」の件、なるほどです。たぶん天戸さまは「速く読める」スラスラ読める、ということをおっしゃっておいでなのだと思いますが、「速く書ける」ほうも同じぐらい重要ですね。いまの時代は、ごくたまにポツンとしか書かない作家より、毎月のようにどんどん書くひとのほうが重宝されますから(読者さまにも、版元さまにも)。

先日、鈴木輝一郎さんに御著作『時代小説の書き方』を送っていただいて読んで「なるほどー!」と思ったのですが、時代小説・歴史小説の書き手に取って永遠のライバルは池波正太郎さまと、あと誰だっけ、とにかくすでに古典的な「御三家」であると。時代小説が描くのは「戦国時代」とか「江戸時代」の話なので、ずーっと昔に書かれたものでも、だからといって古びて価値が減ずることはない。なにしろネタははじめから十分古いし、歴史小説のウエイトが高ければ扱っているのは「みんなが知ってる史実」(つまりアラスジもキャラももろバレ)で、どう見せるか、どう演出するかだけが問題になる……と。それはそれで大変そうですが。

若い主人公の「いま」の生活感覚や日常会話を内容に含むもの(“ライトノベル”ももちろん入ります)では、常に、内容が「アッというまに古びる」「通じなくなる」危険性がありますです。流行の最先端であればあるほど、次のシーズンには「もうダサい」というアレですね。
消費の速度に危機感を持つわたしとしては、やはり、できれば「どんなに時代がうつりかわっても通用するもの」を淘汰して欲しくないのですが。

新木さま。職人さんというコトバから「うけとる印象」やっぱり違いましたね。きのうの『プロジェクトX』でいえば、エレベータの「レール」を一ミリの狂いもなく取り付け得る「技術」に誇りをもっているようなひとを「職人さん」というのだとわたしは思っておりました。その技術の結果としてできた「モノ」にも、確かに自信はおありかもしれませんが、それは、あくまで「耐久消費財」あるいは「消費財」つまり「商品」としての「デキ」を誇っておられるのではないかというのがわたしの感触でした。
親が自分の(不出来でも)コドモを愛するような、そのものの現実的客観的な「ていど」の有無、「価値」の如何に関わらず、とにかく愛さずにいられない、のと、それとは、わたしには違うように見えるのです。

でもって
>その年代以降の方々には、人間的に軽いとか、精神が豊かでないとか、なにか目立った悪影響が出ているものなのでしょうか。

これはまったくの誤解です。人間性やら精神やらの話は一切しておりません。あくまで「言語」の、「日本語の文章」を消化 = 理解する能力についての話です。

言語能力のうち「伝統的な美」に関しては、まちがいなく年々衰退していると思います。

たとえば『聞け、わだつみの声』を読そば、太平洋戦争当時(いまよりずっとモノがなかった頃)には、きのう成人になられたばかりの酒井さんと同じぐらいのかたがたが、漢文やら擬古文調美文やらを自由自在に使いこなしていて、驚きます。カッコいいなぁと思います。わたしもそーゆー教育をうけたかった。
あの本に出てくるのはもしかしたら将校クラスの、エリート意識の高かったかたがただからかもしれませんけれども。

もちろん、メールやチャットやBBSの隆盛は、独自の表現(たとえば顔文字とか、2チャンネル用語とか、いまどきの女子高生のわざと記号を使った文字とか)を発展させていますが、これらはむしろ、「それを理解しない層」を判別し、素早く排除するためのものとして機能していることが多いようにわたしには見えます。
はたまた、ニュースやバラエティなどに登場なさるごくふつうの若いかたの何気ないお喋りを聞くと、「むり」「まじ?」「やばい」など、ごく短い「ひとこと」で所要の大半を片付けておられる傾向が強いように見え、それで、イザというときに大切なひととちゃんとコミニュケーションがとれるのだろうか、自分の真意を伝えて理解してもらうことができるのだろうか、と婆はつい心配してしまったりもしますです。
語彙に対する貪欲さや、言語センス、ことばで何かを正確に伝えるための訓練は、つねにやっとかないと、錆びてしまうものであると同時に、やはり、幼い頃に……体質の基盤が第二次性徴ぐらいの頃までに決まるように……素地を作っとかないとアカンもんなんじゃないでしょうか。まずしっかり基礎コンうっとかないと、ちいさな平屋でもちょっとした台風で壊れちゃう、みたいな。

いわゆる『こくご』つまり日本語教育は、ともすると「鑑賞」に時間を割きすぎ、「実用」をちゃんと教えません。「鑑賞」では、鑑賞される作品を「自分の頭で考えて批評検討」することなどはほとんどの場合に教えることはなく、あくまで、実在する作品が唯一の「正解である」という立場を取りがちです。

古池○ かわずとびこむ水の音
「○の中に入る文字をこたえなさい?」
のようなテスト問題は、単なる暗記の奨励にしかなっていませんし(意味が通ればいいだけなら、古池「に」、「は」、「で」などもアリだと思うんですけど)。

よく、「ここで作者がいいたいことは次のうちのどれでしょうか?」といったスタイルの設問がありましたが(いまでもまだそうなのかについては実は知りません、わたくしめが生徒・学生だったころにはそうでした)
「いいたいことがスンナリわからないようなどヘタクソな文章を、教科書だのテストだのに持ち出すんじゃねぇ!」と、いつも思っておりました。

教科書も『国語』の先生がたもいまひとつアテにできない中で、どうやってコトバとその使い方を学んだかといったら、そりゃ、わたしの場合は、間違いなく、字が読めるようになってから今日までに聞いたコトバ、読んできた活字からです。活字でいえば、本も雑誌も新聞も、町の看板やらパンフレットも、なんでもかんでもです。

ですから、
たまたまこうして「提供する側」にまわってしまった以上、できるかぎり「間違っていない」日本語、できれば、自分にできる範囲で可能なかぎり「きれいで楽しくて魅力的な」日本語を、なるべく使いたい、使うことで活性化して、次代にも遺して伝えていきたい、と思うのでございます。
特に、若いかたが多く読むことが想定される場やものにおいては、その気持ちがよりいっそう強いのでございますが……こういうのを余計なお世話と申すのでございましょうか。











17 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月02日(水) 09時55分32秒
へんなとこにカッコが入ってしまってごめんなさい。


18 名前 : 海燕 投稿日 : 2004年06月03日(木) 01時49分42秒
普通の読者の人です。レスと第16回の感想など。

>まず、まとめから。

いや、べつにこんなこと言っていませんよ。言っていないと思うけど。どこをどうまとめられたのかわかりません。

>「さよなら妖精」

あれはさすがにライトノベルとは呼べないと思いますけど。作者がライトノベル出身であること以外は、内容的にライトノベル的な要素はまったくありませんから(そもそもライトノベル時代の作品からしてちっともライトノベル的ではなかったけれど。でもえるえる萌え)。個人的には表紙もふくめてイラストが一枚もない小説はライトノベルではないと断定して良いのではないかとおもいます。

>古典的な「御三家」

ふつうに考えると、池波正太郎と司馬遼太郎と藤沢周平かな? この3人の書く小説は超絶読みやすいです。「剣客商売」なんて、はっきりいってそこらのライトノベルよりもよほど「速い」。そういえば冲方さんは「剣客商売」はライトノベルだと言っておられましたっけ。それはさすがに無理があると思うけど、本邦屈指のファーストノベルではあるでしょう。

>「早さ」

なるほど、納得がいく意見です。そういえば「多重人格探偵サイコ」第1巻のあとがきで大塚さんが速度が云々というような話をしていたなあと思い出しました。注文してから30秒で出てきて3分で食べられるファーストフードのように、速く読んで速く楽しめる小説。それはそれで価値があるのでしょう。実際、僕もライトノベルを読むのはたいてい余裕がなくて軽くてあっさりしたものを読みたいときだし。しかし僕にも久美さんとおなじで「そういうものばかり読んでほしくないな」という気分があります。

そりゃマックのてりやきバーガーはおいしいし、ケンタのフライドチキンも悪くない。おそらくそれはそれで超高級料理に匹敵するほど膨大な人材と開発費を蕩尽された奇跡の味なのでしょう。しかし「ほかにもおいしいものはたくさんある」。ケチャップの味とかマヨネーズの味といった要素にたやすくは還元しえないほど複雑玄妙な、それを食べることが陶酔と至福を意味するような料理もこの世には実在する(らしい。食べたことないけど。参考文献「美味しんぼ」)。FFも悪くないとはいえ、やっぱりそういう料理も味わってほしいんです。

速くて安くてうまい吉野家の牛丼もいいけれど、1枚5万円の松坂牛のステーキも食べてみてほしい。いやじっさいにビールを飲ませて育てた牛を食べようとすれば大金がかかりますが、読書の精髄を味わうために必要なのはほんのすこしの努力だけです。かんたんに読んでかんたんに忘れ去ることを赦さないかわり、読むものの心を深く揺り動かす真の名作のみがもつこの世のものならぬ陶酔を、妖しい眩暈にも似た感動を、ひとりでも多くのひとに知ってほしい。これは僕のエゴにすぎないかもしれませんが、それでもやはり心からそうおもいます。

>「純文学」で書いている作家さんの「ライトノベル」

三田誠広「雲隠れ霧隠れ」はどうでしょう。芥川賞作家が物した時代小説ですが、その荒唐無稽さはかぎりなくライトノベルに近いと思います。なにしろ物語は主人公の霧隠才蔵が気が付いたらなぜか空を飛べるようになっていた──という場面から始まる。猿飛佐助(なぜか女の子!)は三十三分身の技を使うし、真田幸村はサイコロを振って作戦を決める、終盤には水戸黄門の祖先も出てくる、もうめちゃくちゃ。「純文学の作家は小難しいことばかり書いている」と考えておられる方には読んでほしい作品ですね。記憶に頼って書いているのでどこか間違えているかもしれませんが。

>言語能力のうち「伝統的な美」に関しては、まちがいなく年々衰退していると思います。

これはそうでしょうね。作家側にしても、第16回で名前が挙がっている谷崎潤一郎ほど美しく艶がある行間に悪魔の微笑みを垣間見るような名文を書く作家はひょっとしたらもうあらわれないかもしれません。谷崎よりもうすこしあとの時代の三島由紀夫や川端康成の文章にしても、今日では比肩するものを書く作家を見出すことは困難です。漫画が悪いわけではまったくないけれど、漫画ばかり読んでいては文章能力が衰えるのは当然の話かと。だって漫画は文章じゃないんだから。そのかわり画像把握能力は高まるだろうけど。

現代日本は世界でも最も識字率の高い国家ですが、かつては一部の教養層に独占されていたその知識が社会の裾野まで広まったために、選ばれたひと握りの天才による「貴族の文学」は滅んでいったのかもしれない──そう考えることはどう考えても傲慢な思い違いではあるのでしょうが、しかし喪われた二十世紀が遺した宝石のような文業のかずかずを思うとき、僕たちひとりひとりが荷うことになる二十一世紀がはたしてそれに匹敵するものを生み出しえるのか、いくらか不安でなくもありません。杞憂ならよいのですが。

>ハヤカワ屋さんは、エスエフというヘンタイさんのための特殊遊郭

いやまあ、早川はミステリもファンタジーも一般小説も出していますけどね。

>馬琴の息子

は病気で寝たきりじゃなかったかな? 「南総里見八犬伝」の28年間については、いつも馬琴の執筆の苦労に焦点があたりますが、僕はその月日のあいだこの作品を支持した読者のことも考えずにはいられません。いまよりはるかに平均寿命が短い時代のことです。おそらくは続きの展開を気にしながら世を去ったひとは枚挙にいとまがなかったでしょう。そうでもなくても「これはきっと未完に終わるだろう」と考えたひとが大半だったのではないでしょうか。実際、馬琴の作品のなかでもたとえば「近世説美少年録」などは未完のまま放り出されているのですから。

28年間読みつづけて、ついにこの当時としては世界最長の小説の最終話をよみ終わった読者の気持ちはいかばかりか、想像を絶するものがあります。もしも「ガラスの仮面」の完結を見ることができたらその気持ちがわかるはずだ、と僕はつねづねおもっているのですが、無理かな。無理だろうな。続き出ないもんな。「グイン・サーガ」に期待しましょう。こちらは栗本さんがあとほんの100冊ばかり書けば終わりそうだし、「ガラスの仮面」よりは可能性がある(もうすでに「八犬伝」の10倍くらいの分量があるんだけど。いいんだ。出るかぎりついていくから)。

>年間七万点以上

そんなに出ていたのかあ。これはたぶん漫画とか参考書とか実用書とかエッセイとか翻訳作品も含めての数だと思うのですが、しかしそれにしても膨大な数字に思えます。たった24時間で200冊もの本が書店に並べられ、売れ、あるいは売れず、いずれにしろその大半がわずかな月日のあとには消えていく──そういうことですね。それじゃ消費サイクルも早くなるわけだ。1日に200冊が出版されるということは、書店の側はその本を並べる場所を毎日あたらしく本棚のなかに見つけ出さなければならないということですからね。

>「ソーントーン・サイクル」

これは名作だからみんな探し出して読め読め。「石の剣」はタニス・リーかパトリシア・A・マキリップかという耽美でハイブロウなファンタジーでしたが、僕が最高だとおもうのはやはり最終巻「青狼王のくちづけ」。これは凄かった。ほんとにほんとに凄かった。僕はこの小説が作家久美沙織の最高傑作だと思っていますし、お世辞抜きで、この国のファンタジー小説史上に冠絶する作品だとおもう。僕が瞠目したのは色彩感覚のあざやかさです。

その圧倒的な鮮烈さはタニス・リーの言語道断的傑作(神さま、僕のどうしようもない言語感覚をお赦しください)「死の王」に比肩するのではないでしょうか。読んだのは数年前なのですでに記憶はたしかではないのですが、僕は作中の色彩について青は男性、赤は女性、白はイノセントというイメージで読みました。そう考えるといろいろな物語展開がひどく象徴的に思えてきます。

そして物語は呪術的な文体に乗って次第に加速しつつ終章において遂に近代小説のフレームを超越しほとんどフェアリーテールの領域に至る。この結末をその直前の場面もあわせて少女趣味と侮るひともいるでしょう(「幻想文学」では最終巻がイマイチだと書かれていた記憶が)。しかし、ここには真に普遍的な、個人の才幹が生み出しえる限界を超えて物語のオリジンに近いところまでたどり着いた作品だけがもつ力強さがある。世界じゅうの何千何万もの作品が描いてきたものとおなじ種類のハッピーエンドだからこそ、胸に熱くひびく。

僕は心のなかでよだれを垂らしながら読みました。しあわせだった! 脳が溶けた。出版に関しては久美さんには不本意な事態もあったのでしょうが、すくなくともここにひとりこの小説を愛してやまない人間がいます。たとえ絶版になって書店からは消えたとしても、読んだひとの心にいつまでも残り、語り継がれる──そういう本もありますし、そういう本こそ僕は読みたいと思っています。

19 名前 : 天戸 司郎 投稿日 : 2004年06月03日(木) 02時14分20秒
こんばんは、天戸です。静かになってしまったのは私のせい?
いえ、お忙しければそのままで構いませんが、ちょっとドキドキしています。

新木さまの「読者にあわせて、より読者に受け入れられる形で提供する」という姿勢はすごく攻めているな、という感じがして好きです。でも読者としては「どういう価値で判断されても構わない」というのはちょっとがっかりします。

違った価値を許容される寛容な心と、自分の価値を大切にされる事は全く別の問題です。違った価値を許容できる読者が、自分の大切だと思う事、面白いと思う事などを「これを見てよ、すごいでしょ、面白いでしょ?」と作者さまが主張してるもの、つまりその方の作品に触れる事で別の価値に接する事ができる。それが面白いのではないか?と考えるからです。

だからわがままな読者としては、新木さまには自分の主張されるものをもっと大切にしていて欲しいと思うのです。あー「でも別の価値で判断してしまったとしても怒らないで下さいね」ともわがまま極まりない読者は思ったりするのです。すいません。

そういえば攻めているという意味では久美さまの『小説 ドラゴンクエスト』などはかなり攻めていたように思います。ゲーマーという読者とは全く違う相手の所に出かけていって、本を渡して読ませていたのですから。

小説のように人口を増やしたい娯楽では「今、人が集まっている」ところに切り込みをかけるのは、重要なアクションになりますね。ゲームのノベライズは相変わらずありますが……ゲーム攻略本にノベライズされる作者さんが短編を織り込むといった例はありましたっけ?新木さんがおっしゃるようにセットで売られる事が多い昨今ですから、それなりに「人が集まっている」のであり、そこに釣り糸を投げ込んでみるのも面白いかもしれないと、ふと思いました。いや、それだけのために攻略本を買いかねない私としては自殺行為になる発言ですが。

コミックのノベライズに原作の漫画家さんがイラストを描く事があるのだから、コミックの単行本の方に小説家さんが数ページ書かせてもらう、とかいうのもありのような気がするのですけど、そういう企画も見ないですね。……これまたそれだけの為にコミックを買いかねない私としては自爆発言ですが。

>谷崎潤一郎先生
以前、谷崎潤一郎先生の「文章読本」を読んだ事があります。「ビジネスマンは文章の書き方が重要」という事実があり「実用文章の書き方」などのセミナーとかあるのですが、そのテキストの参考文献に挙げられていたので。

そこでは擬古文や和漢混交文を取り下げていて、口語文が推奨されています。個人的には漢文や擬古文もかっこいいと思うので、そういうのも残っていて欲しいなとは思うのですが事実は事実として書いておきます。

読書から何を経験とし、何がより役に立つのか?という点は、すいませんまだ宿題の途中です。ですが読解力が論理思考能力やコミニュケーション能力などの基礎学力ではないか、という話があるので、現在そこの部分を追跡調査、比較検討……をしようかなという段階です。もし「数テンポ遅れてる、待っていられない」というのであれば検討してみて下さい。

20 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月03日(木) 10時08分58秒
>池波正太郎と司馬遼太郎と藤沢周平

あ、確かそんな感じでした。シバレンが入ってないんだぁ、吉川エイジはどうなのよ? などと思った記憶が。ありがとうございます。

それはともあれ……うひゃあああああ(真っ赤)

海燕さまそれはホメすぎ。嬉しすぎ。ありがたすぎ。あああ、そんなたいしたもんじゃねーす。でも、海燕さま的にはツボだったんですね。よかったよかった。そういうひとに見つけて読んでもらえるのが一番です。

天戸さまも、ありがとうございます(泣)そういうふうにいっていただけると婆も生きていてよかったなと。小説ドラクエの攻防も筆の誤り(田中啓文さんごめんなさい)は、次の回に出ます。お楽しみに。

21 名前 : さかなや 投稿日 : 2004年06月03日(木) 22時33分38秒
 ごきげんよう。

>>18
>イラストが一枚もない小説はライトノベルではないと断定
 うーむ,ワタクシ的には「さよなら妖精」はライトノベルなのですが…… 

 他にも,バルタザールの遍歴・終戦のローレライ・田中芳樹さんの中国歴史モノってあたりも私はライトノベルだと思ってるんですけど,世間的には違うんですかね?

 この辺,ちょっと他の方々の意見もきいてみたいです。

>藤沢周平さん
 大好きな作家さんです。上杉鷹山のお話が完成しないままになってしまったのはとても惜しいです。

 とにかく,この方の書くご飯が美味しそうなのですよ。
 白いご飯と熱い味噌汁をここまで美味しそうに書く人ほかにいないと思います。

 あと,撃剣の描写も見事。
 小説でのアクションシーンは,動きを細かく描写するより,何を狙っているか書く方が緊張感が出るってこの方の小説読んで知りました。

>池波正太郎さん
 お話の構成は上手ですが,
「文章は今ひとつ…」
 と思います。

 とりあえず,作中で「読者諸兄」と語り始めるのはいかがなものかと。

 以上,あくまで個人的な意見です。毎度ながらの乱文にて失礼しました。

22 名前 : 来無 投稿日 : 2004年06月03日(木) 22時45分21秒
新木さま
今更な書き込みですみませんが
まとめ…ん〜なんだか食い違っていてよく解りませんが
商取引が成立するかどうかと、プロ、職人としての心構えと言うのは、直接関係ないでしょう?
商取引がどういう場面で成立するかと言う話はあなた以外はしていないと思うわけです
菓子職人が「古い機械をオブジェとして売った」としても、この取引に菓子職人の仕事は関係ないです

購入する側が購入品をどう使うか、は基本的に購入者の自由です
デッサンが狂った絵だって、商品にならない訳ではない、が、それは取引としての話
欠陥のある機械を承知で売るのは機械職人ではない
デッサンが狂ってることを承知で売るのは画家ではない
それはブローカーの仕事です
もちろん、自分の未熟を知っていて、万全を期してはいるが
万全でない可能性が高い事を承知している、と言うのは違いますよ
自分の及ぶ限り万全を尽くしている以上不可抗力なんですから
作る側の立場で相手が気づかないならOK、買うって言うんだから売っちゃうというのは
菓子職人でいえば、傷んでいる事を知っててこっそり売るのと一緒です
プロならば、たとえお供えとかに使われて、食べられなかろうと、きちんと美味しいお菓子を作る筈です
本来の目的通りに消費してもらえれば確実に美味しい、楽しい、お得
その為に万全を期すし、腕に曇りをかけるような事はしない、と言うのが職人だとそういう話であって、
買われた後どう使われようとそれは知るところではない、その辺は新木さまの創作態度と変わるところは無いのではないですか?
ですが、どう使われるか解らないからといって、本来の用途的に自分でNGと判断できるものを商品として売るのは、プロや職人じゃありません
それこそ、有名作家なら描き(書き)損じのゴミだって売れるでしょう。しかしそれを売るのは文章のプロじゃありません
あえてプロというならブローカーのプロということではないでしょうか
無視出来る存在だとは思いませんがメーカーとしてどうあるべきかと言う話でブローカーは直接話に関係ないですよ

で、繰り返しになりますが、デッサンと言うのは基礎です
デッサンが狂うというのは文章で言えば、てにをは、が、おかしいとか、誤字脱字があるとか、そういうレベルの話です(もうちょっと広く高度な話ではあるかと思いますが)
正しくて当たり前、狂ってないのが本来あるべき状態であり、その先も(デッサンが素晴らしいと言うだけでも感動させるような作品)あるんです
正しくて当たり前な事を間違っているのは恥であり、出来る限り避けるべきことです。解ってて直さないのはただの手抜きです
もちろん人間完璧な人はそういないので頑張ったって間違う時は間違います、大抵の人は間違うでしょう
恥をかく時はかいてしまうわけで、そういうときはすみやかに恥を雪ぐ努力をすべきです
これは、構成だとか色使いだとか、物語だとか面白さだとかと天秤にかけれるようなものとは違います

23 名前 : 来無 投稿日 : 2004年06月04日(金) 00時53分48秒
久美さま
国語の話ですが、
言葉の場合は特に、誰もが同じプロトコルを持つことがまず何より重要です。でないと言葉が通じない。
学校で教えるのは基本中の基本、言葉、日本語の「基準」「ものさし」であろうと思われます。
ものさしであるからには尺度がいろいろあってはまずいんで答えは基本的に一つな筈です
基本になる言葉の基本的解釈、最大公約的解答をきちんと身に付けておかないと言葉を交わす者同士のすれ違いが大きくなるだけで困ったことになります
ここに個性は要りません、むしろ邪魔、だから、「学習(真似て、倣う)」ですし、学校の教師が持っているのは「学習指導要領」です

>「ここで作者がいいたいことは次のうちのどれでしょうか?」
ある入試で作者からクレームが来たなんて話も聞きますが…
実在の作者が何を考えているか、読者個々人がどんなニュアンスを感じたかはこの際、どうでもいいんです。
学校の国語の授業とは、こう書いてあったら、こう解釈するのが原則、こう書いたら、こう解釈されるのが常識、であることを「定義」する作業なんだと思います
であれば、ややこしい、ある意味悪文である方が素材としては望ましい、解釈が多岐にわたりそうなものほど基準を定めておく必要があるでしょう
むしろ、ここ最近、学校教育に没個性の批判が出て、個性重視のあまりか感性偏重の授業になってるんじゃないか(知らないですけどね、実態は)
言語能力の低下はそれも一因なんじゃないかと思われるわけで昔はもっと徹底した模倣と暗記だったと思うんですがどうでしょう?
個性が要らんからと言って人格無視するような教育が良いってことは無いですが

徹底して基準を刻み込めばその後、どこに行こうと座標を見失うことはないだから自分でたくさん読んで書いて好きなだけ勉強しろ、とそういうことなんだと思います
もっとも、そういうことを解るように教えてくれた人は学校出てから出会った人なんで、学校がいまいち頼りにならんのは、確かと言えば確かなんですが…

24 名前 : 新木 伸 投稿日 : 2004年06月04日(金) 05時31分35秒
 とりあえず17番の久美さんの書きこみまで、返信させていただきます。
 20時間も爆睡していましたら、日付が1日変わっておりました。(→寝るのが趣味)

 ……と、書きこもうとしたら。
 おー、やったー!
 初の「メッセージデータオーバーエラー メッセージデータは(20000)未満にして下さい」が出ました。

 よって後半部分は、別書きこみに分割します。




>久美さん
>職人に関する話

>>親が自分の(不出来でも)コドモを愛するような、そのものの現実的客観的な「ていど」の有無、「価値」の如何に関わらず、とにかく愛さずにいられない、のと、それとは、わたしには違うように見えるのです。

 エレベーターのレール張り技術者の回は、見てはいませんけど、べつのところで存じています。
 ここで「技術者」と言っていますが、技術者と職人とは、呼び名は違えど同じものです。工業分野における職人が技術者ですので。

 愛なくして、どうして1ミリの狂いもなくレールが張れましょうか?
 たとえば自動車などは数千点の部品によって構築された精密機械です。どの部品も規定の品質、規定の寸法を守って鍛造/切削されています。部品のひとつでも規格外であったなら、エンジンはまともに動作しません。――が、どの自動車も「あたりまえ」のようにエンジンを回して走っておりますし。高速道路を何万台の車が通行していても、故障で立ち往生している車は皆無です。うちの自動車は草三井さまよりも年寄りだったりしますが、草ぼうぼうの駐車場に野ざらしにしてあっても、一月にたった一回しか使わなくても、いつもノートラブルで動いてくれてます。
 こんな「奇跡」が普通の光景として見られるのも、自動車職人の「愛」あってこそです。

 レール張り職人は、たしかにレールに1ミリ以上の狂いがあって、それが設置し直さなければ修正不能であると判断したなら、躊躇うことなく、レールを引っぺがして張り直すことでしょう。
 それをもって、職人は生産物に対して「愛」が足りない。しょせんは代替え可能な「物」に過ぎないと考えている。――と、久美さんはそのように感じてしまわれるでしょうけど。

 もちろん「不良」であったなら、それは潰されます。けっして出荷されることはありません。
 ですから――。
 そうならないように自身の「技術」を磨くわけです。
 傷つけねばならず、削ったり、叩き直したりしなければならないのだとしたら、生産物のほうではなくて、自分のほうであるべき。職人はそう考えますので、技術を高めようとするのです。


 久美さんは作品をコドモにたとえられていますけど。
 不出来なコドモを庇おうとすることも、コドモが不出来にならないように自分の側で最善を尽くそうということと、どちらも愛のひとつの形ではないかと思うのですけど。

 不出来なコドモを世に送り出さないために、自分の身を刻みつけるのが職人であるということで、ご理解していただけないでしょうか。
 それもまた愛であろう、とか。

 職人が出荷前に生産物を撥ねることがあるのは、その不出来な生産物が悪さをしないためです。高速道路の途中でエンジンが止まっちゃったら大変です。
 首を撥ねなければならないのなら、せめて自分の手で――という気持ちからです。けっして「愛」がないからではありません。
 いわば、我が子を始末しなきゃならん親の気持ちなのですが。(おたがいにコドモのいない立場でコドモをたとえに出していても架空の話にしかならないのでしょうけど)

 この話のたとえが「コドモ」なのでアレですが。いくら不出来でも首を撥ねちゃいかんだろう。――てな倫理の話になりかねないですけど。

 小説に関しては、すくなくとも生産物であるのは確かです。命を持っているのかというと、形而上的にはともかく、現実的には生きているわけではありません。機械などと同様、「物」として扱って差し支えないかと思います。

 職人の生産物に関しての「愛」の話――。
 これ以上ということになると、もうこんなふうに言葉を尽くしているよりも、「愛ゆえに生産物の命を絶つ職人の話」という形の「物語」にして、久美さんに読んでいただいて、涙を流させて感動させることで問答無用で「納得」させちゃう、という手ぐらいしか残っていなさそうなのですが……。

 ここで10年待ってください、必ずお見せしますから、とか言えちゃうとカッコいいのですけど。
 こういったテーマ性の強い話は、僕の職分ではないので、ちょっと書かないのではないかなぁ、と思ってみたり。
 いま温めている話で、「子は親離れしなければならない。親は子離れしなければならない」なんてテーマ性の強い話がありまして。それがひょっとしたら、僕の作家人生のなかで唯一書くことになる、テーマ性の強い話かもしれません。(でもたぶん売れないだろうなぁ(笑))





>軽いと重厚な話

 伝統的な美を使いこなす能力の話。
 細やかな機微を読み分ける力として受け取りましたが、大筋、間違っていませんでしょうか?

 軽いということはどういうことか。それと対立する重い(重厚?)なこととはどういうことか。
 このへんの「軽い/重い」を決めることがなにかという件に関しては、「読者の負担の大小」ということで共通見解に達したと考えています。
 そしてここで――。

 「きれいで楽しくて魅力的な」

 ――という新たな方向性が、久美さんより出されてきました。
 これはどのように受けとるべきかと、少々、悩みました。

 「軽い(負担が少ない)」ということと、「きれいで楽しくて魅力的」ということとは、べつに対立していないように思えます。むしろ負担が少ないということは「楽しい」に繋がることですから、軽いということは、「楽しくて魅力的」であるといってもよいのではないかとも思いました。「きれい」のほうは「軽さ」とはあまり関わりはないですが。重くてきれいもあるし、軽くてきれいもあるでしょうし。

 ちなみに「きれいで楽しくて魅力的」の逆をいうと、「汚くて、つらくて、反発を食らう」となるのではないかと思います。
 もし久美さんが「きれいで楽しくて魅力的」を「重い」の具体例として出されたのなら、逆にひっくり返したこれは「軽い」の具体例となるわけですが……。「汚くて、つらくて〜」は、なんだか軽いとは対立してさえいそうです。

 よって、ここで出てきた「きれいで楽しくて魅力的」というのは、久美さんのいう「重い」路線の具体例ではないのだと、受けとりました。

 「歯ごたえはあったほうがいい。そのうえで「きれいで楽しくて魅力的」なものを、私(久美)は書こうとしているのである」――と、そういうふうに受けとりましたが。


 きれいで楽しくて魅力的な小説であることは、僕も良いことだと思うのです。

 思うに――。
 「歯ごたえがある/きれい/楽しい/魅力的」という4つの要素があったときに、最も重要視するものはどれかということではないかと思います。
 ようは優先順位の話ではないかと。

 「歯ごたえがある」>「きれい/楽しい/魅力的」

 「楽しい/魅力的」>「きれい/歯ごたえがある」

 上が久美さん。下が僕で。
 例によって勝手に決めつけちゃってますけど、間違いがありましたら指摘ください。
 僕のほうで「軽い=楽しい」と直結させてしまっていますが、負担が軽いということは、読者にとって楽であるということで、楽なのは楽しいことだろうと、そう考えるからでして。

25 名前 : 新木 伸 投稿日 : 2004年06月04日(金) 05時32分06秒
>閑話休題

 ここでちょっと、小説とは別の方面で、似たような経緯(軽さを追求してゆく)を踏んでいった業界があったことを思いあたりまして。
 ゲーム業界の話は「創世記スレ」のほうでトーシロートαさんが書かれています。軽さと楽さを追究していった結果、ゲーム業界は衰退したのか――否、というよう内容で。

 なので僕は別の業界の話など。

 パソコン業界の話。
 久美さんも執筆にパソコンを使われていますよね。
 そしてパソコンはあくまでも実用の道具であり、趣味として使っているのではないかと思います。

 僕は小説のキャリアはアマチュア時代も含めて15年ですが、パソコンマニアとしては、25年ほどのキャリアがあります。こちらのほうですと、僕にも「創世記」が語れたりします。
 興味のない方には退屈かもしれませんが、すこし話させていただきます。

 パソコンが趣味として使われていた時代があったのです。

 25年前のパソコンは、パソコンという名前でさえも呼ばれていなくて、「マイコン」と呼ばれておりました。
 このころのマイコンというのは、「組み立てキット」だったのですね。最低でも「半田ごて」を使いこなせる人向けの電子キットとして販売されておりました。

 さらにそこからもう数年ほど遡りますと、組み立てキットさえなかった時代もありました。
 デジタル電子回路の設計が出来る人が、自分で設計してコンピュータを作っていたわけです。この時代のコンピュータというものは、「回路設計ができる人」というのが最低敷居ラインとなっておりました。もう高い高い。僕はかろうじてクリアしていますけど。
 このころは「マイコン」という呼び方さえもなかったようで……。ただ単に「電子計算機」です。

 それが数年ほど下って、このおよそ25年前あたりになると、「半田ごてが握れる人」のところにまで敷居が下がってくれたわけです。ここで「マイコンブーム」なるものが起きました。
 これまでは回路設計が行えて、自分で設計して部品を調達して、自分で組み上げられる人だけの趣味であったモノが、一気に、「半田ごてが握れだけの人」のところまで降りてきてくれたわけですね。これで中学生でも手が出せます。
 このブームに乗じて販売されてきたものが、「組み立て済みのマイコン」です。
 「APPLE][」あたりは、はじめ両方存在していましたが、マイコンブームの後期には組み立て済みの製品しかしかなかったように記憶しています。
 そうしてマイコンというものは、「買ってきて電源を入れれば動くモノ」になっていったわけです。

 このころのマイコンというものは、買ってきてどう遊んでいたのかというと、自分で作ったプログラムを動かして遊ぶわけですね。
 言語はおもにBASICなどでした。これは高級言語などと呼ばれていました。機械が直接実行するものではなく、人間にわかりやすい形で書かれたものを、いったん翻訳して、機械の理解できる実行コード直していました。
 ちなみにいま「プログラム」として見ることがあるアルファベットの並んだものは、すべて高級言語です。それ以前の機械語というものは、二桁の十六進数の羅列ですので。

 ここでまた話はマイコン黎明期の話に戻りますけど、「組み立てマイコン全盛」の頃には、「プログラム」というものは、機械が直接理解できるコード――『機械語』を書くことでした。
 これが「組み立て済みマイコン」の時代になると、「機械語」は使えなくてもよくなったわけですね。ここでまたひとつ、ユーザーの負担が軽くなりました。

 はじめは「回路設計能力の有無」であり、その次に到来した相転移は「組み立て能力の有無」であり、次が「機械語能力の有無」であったわけです。

 すると次に予想されるのが、「プログラム能力の有無」なわけですが……。
 これも当然のようにやってきます。

 それが「パソコン時代」の幕開けです。
 PC−9801とか、PC−8801とか、そのあたりの「パソコン」と呼ばれるモノは、ユーザーにプログラム能力を一切要求しないものでした。ゲームもアプリケーションもすべて揃っています。ユーザーはただ「使う」だけでよくなりました。
 パソコンが道具として使われはじめたのが、このあたりからでしょう。
 ええと、大ざっぱにいうと、現在から18年くらい前のことですね。

 PC−9801の頃は、パソコンはMS−DOSというもので動いていました。
 このMS−DOSというものが、これまた使いこなすのにユーザーの「能力」を要求するものでして……。やれコンベンショナルメモリが足りないだの、すぐにナマイキなことを言ってきやがるシロモノでした。

 ユーザーはパソコンを使うためにCONFIG.SYSを書き、AUTOEXEC.BATを編集する必要がありました。
(※注:CONFIG.SYS,AUTOEXE.BAT というのは、コンピュータの設定を記した根本的なファイルのことです。起動するために必要なファイルがなんであり、どこにあるのかを記したものです)
 単体のアプリケーションやゲームを動かすだけなら不要だったのですが、マシンの再起動なしに色々なソフトを併用しようとしたり、日本語入力FEPを性能の高いものに交換して使おうとか、ちょっと高度なことをやろうとすると、どうしても「CONFIG.SYS/AUTOEXEC.BAT」を書く「能力」が必要となりました。


 さて、しばらくするとまた次の相転移がやってきます。
 WINDOWSというものが出てきました。初期のWINDOWS3.1なんて半端モノもありましたけど、一般に普及したのはWINDOWS95以降のものでしょう。

 このWINDOWS以前と、WINDOWS以降とに横たわる相転移はなにかというと、「インストール作業」でしょうか。
 MS−DOSの頃のパソコンというものは、買ったばかりのときにはなにも入っていません。スイッチを入れると、画面は出ますが、「ディスクを入れてください」とか出たまんまで止まっております。パソコンを動かすために必須であるMS−DOSでさえ、「インストール作業」なしには入っていなかったのが、PC−9801時代のパソコンであるわけです。

 それに対して、WINDOWSパソコンというものは、もうOSがプリインストール済みとなっています。買ってきてスイッチを入れれば、「動く」のはもちろん、OSが入っていて、アプリケーションなども入っていて、すでに「道具」として役に立つ状態となっていたわけです。メーカー製パソコンでは、オフィスで使うメジャーなアプリケーションがすべて入った状態となっていました。

 ここにきて、マイコンから始まったモノは、ようやく「道具」として役に立つモノでありそうだぞと、世の中の人々に広く認知されるようになってきました。
 それまではオフィスの片隅に置かれていて、詳しい人間だけが使用していたブラックボックスであったものが、オフィスのすべての席に置かれて「会議の文書はワープロで作成すること」などというお達しがあったのではないかと思います。僕はその頃は会社勤めをしていなかったのでわかりませんが。

 WINDOWS以降よりこちら――。
 まだ次の相転移はやってきていません。この時代は10年も続いているので、いい加減、長すぎるんんですけどね。技術的に難しいところがあるので、まだ数年は先でしょう。個人的には、疑似AIみたいなものが開発されなければ無理だろうと踏んでいます。

 いま現在ではインターネットに入れないことは不便なことであり、一人暮らしをする高校生は自分用のパソコンと回線とを欲しがるくらいです。
 最近のパソコンユーザーというのは、「ソフトのインストールが行えるのは上級者」となっています。パソコンにはじめっから入っているもの以外を、買ってきて入れることができるのは、かなり慣れた人であるわけですね。

 ソフト面以外でも、たとえばメモリの増設であるとか、CPUの交換であるとか、内蔵HDDの交換/追加であるとか。グラフィックボードの変更であるとか。
 そうしたことが自分で行えるユーザーは、ごく一部です。
 半田ごてを握れるのがあたりまえとか、プログラムを組めるのがあたりまえとか、インストールするのはあたりまえとか、そのあたりのユーザーにとってはなんでもないことが、現在の平均的なレベルのユーザーにとっては「不可能なこと」であるわけです。

 いまのパソコンユーザーの多くは、パソコンを「消費」します。
 処理速度が遅くなったら、HDDの空きがなくなってきたら、最新のゲームを遊びたくなったら――パソコンごと買い換えるわけです。

 まあ消費っていったって、リサイクルに回されて資源として再利用されるので、べつにもったいなくはありません。
 鉄は鉄。アルミはアルミ。金は金。ルテニウムはルテニウム。
 パソコンの生産にかかっているのは「原料」と「エネルギー」と「手間」ですし。原料はリサイクルされるからもったいなくないとして、生産にかかったエネルギーや手間のほうも、数年かかって減価償却されていたわけですし。寿命までめいいっぱい働いてのことですから。やはりもったいなくはないでしょう。
 ここでいう寿命というのは稼働寿命のほうではなく、「役に立つ期間」という製品寿命のほうです。

 ゲーム業界における同様な相転移は、トーシロートαさんも書かれていますけど。
 方眼紙を手元にマッピングしつつ、進んでゆくゲームはプレイヤーに負担を強いるものであるわけです。敷居が高いともいいます。
 現在のゲームではオートマッピングが基本であり、読者に方眼紙を要求するゲームは、さすがに遊ばれないわけです。またそれがいいのだと言う声が多数派になることもありません。便利なことは悪ではないと、大勢が認識しているということでしょう。

(このへん、どうも攻略本とグルになって共生関係を結び、攻略本とセットで遊ぶような形態が幅を利かせているような気がしてならないのですが。それどうよ、とか思うのですが。僕は別にゲーム評論家でもゲーム屋でもないので、個人の印象ってことに留めておきますが)

 この先、コンピュータというものは、さらに「軽く」て「楽」であり、使用者の負担を減らす方向に向かうと思われます。
 たとえばマウスやキーボードでしている作業を代行できるようになるとか。
 口頭で指示を与えるだけで、「あのファイル開いて。昨日、書きかけだったやつ」と言えばファイルが開いてくれるとか。
 「久美さんとこのスレッド見に行こう。新規書きこみある?」と聞けば、「1件あるようです」と美少女の声で返してきて、「見せて」と言うだけで見れるとか。

 もはや、このあたりになってくると、個人製作アニメーションが誰にでも作れるようになってくれるのではないかと思いますが。

 「うーん。スカートもうちょい短くしてみようか。あ、三つ編みで巨乳ね。顔にはソバカス浮かべて。――違う、もっと薄めに数も少なく。そうそのくらいで。あとメカのほうは、多脚砲台で――違う。足は4本。さきっちょローラー付きで。塗装は迷彩で――って、それはジャングル迷彩。ここは都市なんだから、都市迷彩だろ。いいかげん覚えろってーの」――てなやりとりをすることで、多客砲台に美少女が乗ってハイウェイを疾駆するシーンが完成していっちゃうとか。



 ――で、話を戻しますが。
 僕などは、なにぶん、マイコン創世記から見てきた人間ですし。自分自身は「回路設計」の能力まで有しているわけですし。すべての相転移を経験してきていますし。
 その毎回ごとに、「おまえらみたいなヌルいやつらがマイコン(パソコン)なんざ使うんじゃねーや」とか、内心では思っていたりするのですけど。

 しかし、パソコンを使うことがどんどん「楽」になってゆき、ユーザーの負担が「軽く」なるというこのことは、悪いことなのでしょうか? 警戒すべきことで、警鐘を鳴らすべきことで、回避すべきことなのでしょうか?
 僕は負担が軽くなることは、ユーザーに恩恵を与えこそすれ、害を与えるものではないと考えます。

 まあたしかに、コンベンショナルメモリ630KBを達成したCONFIG.SYSの芸術的な美しさを解する人とかは減っちゃいましたし。コード数を減らす機械語コーディング技術のトリッキーな美を解する人なんてのも減ってますし。
 自分でプログラムを組める人も減っちゃいましたし。

 ただし「減った」というのは割合の話でして。絶対数では遥かに増えてきている部分もあります。ユーザーの全体数が昔と比較にならないぐらい増えたせいで、プログラムを組める人の絶対数などは、比べものにならないぐらい増えてきています。

 このように……。
 「回路設計ができない」「半田ごてが握れない」「機械語が使えない」「プログラムが組めない」「CONFIG.SYSが書けない」「インストールができない」ということは、それぞれの相転移ごとに出てきたユーザーの変化の例ですが。
 この変化によって、なにか害は出てきているでしょうか?

 たしかに、ユーザーのトラブル対処能力は低くなっているように思います。
 うちの姉など、ソフトのインストールまで行えるのはいいのですが、好き勝手にあれもこれもと突っこんで、パソコンが起動しなくなると電話で泣きついてきたりしますし。
 余っていたメモリを郵送で送ってあげても、自分では差し込めなくて、結局出かけていって僕が差し込むことになったりしますし。
 まあこうしたことも過渡期の問題であって、もうすこし進むと、パソコンは家電のようにトラブルフリーになってくれるものになるだろうと期待しています。
 すでに現在でも、HDDの増設くらいならUSBでプラグ一本でOKとなっています。WINDOWS−XPあたりであれば、なにかソフトをインストールしてトラブルがあっても、「ある時点、その日の状態」に巻き戻しする機能なんてのも付いていまして、だんだんとトラブル対策は強化されていっています。
 いま自動車というものがトラブルフリーになっているように、パソコンの中身がどうなっているか、なんて考えなくても使えるようになってゆきつつあると思います。
(余談ですが、僕は自動車も部品一点一点からフルスクラッチできたりしますし、なんなら工作機械を操って部品も作り出すこともできますが(機械屋の息子ですので)、こちらのほうは歴史に詳しくなく、通り一遍のことしか書けないので割愛します。こちらでもユーザーに要求される能力の相転移が、やはり何回もあったりします。いまではオイル交換のひとつもも出来なくたって、自動車を所有して乗り回せますよね。この負担の「軽さ」も、やはり害になっていないと思われます)




 ――と、パソコン創世記の話は、以上なのですが。
 「小説と関係ないじゃん」と思われたかもしれません。

 はい。すいません。じつは関係ないです。
 しかし、「手軽さ」を売りにして出回り始めた「ライトノベル」というものの存在に、久美さんが「小説はいったいどこに行くんじゃああ」と心配されているのでしたら、他の業界だって、相転移があったって、たいして変わらなかったじゃないですか。だからたぶん小説も大丈夫ですよ。――と、そう言う根拠くらいにはなると思うのです。

 パソコンの相転移の例を見てもわかりように、古い技術を持っている人が食い詰めるかというと、そうでもなく、逆にそれが武器になると思うのです。

 いまや、ソフトをインストールできる人は上級者ですし。ハードの増設をできる人は達人ですし。プログラムが組めたり、半田ごてを握れたりする人は、もはや神様の領域ですし。

 ただ、いまどきPC−9801でMS−DOSしか使わない、とか言っていたら、これはダメでしょうが。
 WINDOWSパソコンを使った上で、古いスキルを活用する方法はあるはずです。

 昔は「プログラムが組める」なんてことはあたりまえのコンコンチキでしたが……。僕も自分で遊ぶのが目的で、自作のゲームを何本も作ったりしましたが。
 いまでは「プログラムを組める」が仕事となって、それで食えていける時代なわけです。
 さらには「ソフトを上手に操作できる」ということが特殊スキルとみなされて、パソコン学校の講師になれたりして、それで食っていける時代なわけです。

 軽いものが「あたりまえ」になってゆく時代の流れと、それによって起きるユーザーの相転移に関しては、これはもう止めようがありません。せいぜい速度を緩やかにするぐらいが関の山でしょうけど……。それだってユーザー全体の利益になるのかどうか。

 ライトノベルは創世記から数えて、25年も経っているのですから、そろそろ相転移の一発ぐらいくるだろうし、そうでなければならないのだろうし、そうなったとしても相転移前の書き手が絶滅するかというと、他を見てわかる通り、そうでもないだろうし……。
 文章のみで物事を伝えきることのできるスキルを持った人間は、文章+αでモノを伝える時代になったとしても、有利に生存できると思うのですけど。

 僕などは、そう考えてるのですが。どうでしょうか。
 だいたい相転移前の古い書き手といったら、僕だってそのうちに入るわけですけど。

26 名前 : 友葉 由名 投稿日 : 2004年06月04日(金) 07時58分00秒
初めまして
>>天戸さま

では自家製文章読本(by 井上ひさし)は、いかがでしょう?
「『話すように書け』と言われるが、書き言葉は話し言葉とは異なるものだ。最大の
違いは、言葉以外の援護射撃(状況等)を期待できないことである。」

いい文章は、やはりいい文章で書かなきゃって言う主張もあると思います。
ちなみに友葉は井上先生派です。ファンですし(笑い



>>新木さま
初めましてです。いつも書き込み、読ませていただいてます。
今日の「古い技術を持っている事、それがこれからの武器になる」という主張は最もだと思いました。
日本の町工場の中では、日本だけではなく世界中の大企業でさえも真似出来ない製品が、職人さんの腕一本で作られている所もあると聞きました。
小説でも、自分以外には書く事のできない話を生み出せる、そんな人が更に出てくるといいですね

しかも、その話を文壇の話からではなく、「パソコン業界」からの話を持ち出した所もすごいと思いました。
いえ、新木さまは「生計を立てている業界以外からの話を持ち出しちゃダメ」と言う人かと思いましたので(アセアセ
常にアンテナを広げているんだなあと関心しましたです。

これからも頑張ってくださいです。
ネットではなく、原稿もたくさん書いてくださいね。

そして正直いいますと、
「>『小説と関係ないじゃん』と思われたかもしれません。
はい。すいません。じつは関係ないです。」というくだりに
少しびっくりしましたです。

思わず「関係無いなら、長々と書く必要ないじゃーん(笑い」と受け止めてしまいました。
でもこれが読ませる計算だとしたら・・・・・・うーん、深いです。新木先生(笑い

27 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月04日(金) 10時42分40秒
2万字? 400字ヅメなら50枚? きゃー!
えっと。全部に細かく対応はできないんですけど、重要なあたりぐらいせめて。

>小説に関しては、すくなくとも生産物であるのは確かです。命を持っているのかというと、形而上的にはともかく、現実的には生きているわけではありません。機械などと同様、「物」として扱って差し支えないかと思います。

あーなるほど。
新木さんがそういうふうにお考えになるということはよくわかりました。
すみませんが、わたしはそうは思いません。

そもそもわたしは「物」にも、ともすると「生命」を感じてしまう原始アニミズム信者みたいなやつなんですが、作品には「本」という固有の「物体」としてもさることながら、言葉という魔法的な性質を持つものの特別な生命が……つまり「ことだま」が……宿っていると信じています。
バカか、とお感じになられるかもしれませんが。

少なくとも、作品にはそれ自体の「寿命」はあるのではありませんか? 作者が死んでも作品が残ることもあり、作者が存命でも作品が死んでしまうこともあります。また、いったん死んだかのように見えていながらいきなり復活することもあります。
わたしとしては、わたし本人なんかより作品のほうにできれば長生きして欲しいです。

>伝統的な美を使いこなす能力の話。細やかな機微を読み分ける力として受け取りましたが、大筋、間違っていませんでしょうか?

「読み分ける」力? いや、むしろ素養(読んで理解し、咀嚼して自分のものにできている語彙や文例の数)と実践(その場で最もふさわしいものを選択し、流麗に繋げていくセンスを有していること)のつもりです。

>「歯ごたえがある」>「きれい/楽しい/魅力的」

中山星香さまの『妖精国の騎士』文庫版19巻の解説で、タケカワユキヒデさんが当節我が国の音楽産業は「サウンドだよりでメロディの価値を見失っている」と嘆いておいででした。「誰もまだ聞いたことのない美しいメロディを作り出すのは大変なことだが、サウンドならいったんウレセンになったら、その同じものを多少お色直ししただけで何度でも使いまわしできる」みたいなことを書いておられたと思います(わたしの読み方が間違っていたらごめんなさい)。

人間、何度も偶然ふれる機会を持つものには「好意」を覚えるようにできてます。
しょっちゅう聞かされる音楽は好きになるし、しょっちゅう顔を見るひとには親しみを感じるし、しょっちゅう耳にする言い回しは自分でも使いたくなる。しょっちゅう流れるCMやしょっちゅうあるバラエティ番組でみる顔は「かわいく」「カッコよく」見えてくる。
馴染んだものがあると、安心感が生まれるし。

が。これが行き過ぎますと、それまでみたことも聞いたこともなかったものに出会った時には「いらない」「関係ない」と拒絶してしまう。食わずぎらいですね。何度も何度も繰り返し薄く働きかけられ、周囲の「みんな」の間にあきらかに蔓延してはじめて「そんなにいいの? じゃあ、自分もちょっとさわってみようか」と思う、みたいな。

つまり、どんなものを「きれい」と思うか「魅力的」に感じるかも、知らず知らずのうちに操作されている可能性がある。誰か特定の主体が操作しているわけではありません。ともすると、単に「消費社会」の便利と偶然から価値が高くなっているものもあるわけです。
なにしろいまは情報にしろ物にしろうんざりするほどあふれている時代ですから。選択の幅はあまりにも広く、すべてを検証してみて、自分の好みのものを漏らさず見つけることなんて誰にもできない。

特に、こどもさんの場合……学校という集団の中で「出る杭」にならないことを自己規範にせざるをえない(個性化教育なんてお題目は唱えられていますが)現状がある。よほど自我のキツい子、協調性のない子でなければ、「みんながいいと思うものをいいと思えないと」つらくて生きていけない。へたするとイジメられるし。

かくて、大勢の小学生女子が、たとえば「モー娘。」さんたちを理想化し、ああいうふうになりたいと思い、あんな服を着たい、あんなヘアスタイルにしたいと思い、できれば自分も将来オーディションをうけてその一員になりたいと思ったりする。「モー娘。」さんは(つんくさんの周到な計算によって)やたら大勢おられますから、誰か自分としては自分とキャラがもっとも近い(と思える)かたに、より似せようとしたりするという意味で、より「使いやすい」目標でもある。

はるか昔、あこがれの女性といったら原節子さまやオードリー・ヘップバーンでした。吉永小百合さまからこっちは……かなりバラけてしまって、ひとによって、梶芽衣子さまだったり、松田聖子さまだったりしたりするようになった。
この間、スタァの活躍舞台が銀幕からテレビに映り、スタァがアイドルやタレントになり、「そのへんにいそう」な身近な存在になっていったりもしました。

わたしが「美しい」と言うときに思い描く中には、原節子さまも含まれます。シロクロ映画の古いプリントでしかみたことないんですが。いくら婆だといっても大学生ごろリバイバル上映やLDでセッセと観たんですけどね。

いま現役の大勢の女優さんアイドルさんにも、かなり美しいかたは大勢おられますよ。画面じゃなくジツブツを見ると、ほんとにすごいらしい。ところが、町を歩いてるおおぜいの女性たちが平均的にいってどんどんきれいになっておられて、こちらも要求水準どんどん高くなっちゃってる。いわば美しさに対してスレッカラシになっている。ちょっとぐらいカワイイだけだと、同性のイジワルな目でみると「でも、笑うと歯茎が見える」「頭悪そう」「あれはぜったいプチ整形」などなど、いろいろ言えちゃったりする。

ただ静かに佇んでおられるだけでこころを打たれるほど「美しい」ひとなんて、いまどきもうめったにいないなぁ、……うーん、GACKTさまぐらいかな? 
いや、時代がスタァに要求する芸風もどんどんかわってますし(どんな美形でも笑いがとれないと……ふざけられないと……ダメみたいな)、スタァの私生活が秘密でもなんでもなくてむしろそこまで含めてウリになってるみたいなのとか、いろいろありますから、実は原節子さまご本人も、当時にあってみたらごくふつーのおねえさんだったりしたのかもしれないですけど。

で、
「美しい文章は(美しいメロディのように)そんなに簡単に書けるものではない」→促成栽培・大量生産できるようなものではない → だから、味わうほうにも、それなりの節義と敬意を期待したい んですけど。
せめて「いただきます」って言ってもらって、ちゃんと集中して、いや食事の場合一緒に誰かいるなら相手のかたとの会話も楽しんでいただきたいわけですが、ともかく、よーく味わって欲しい。なるべく遺さずきれいに食べて欲しいし、はじめてのモノでも敬遠せずに食べてみて欲しいし、硬くてもよく噛んで欲しいし、うそー、サカナの頭ついてるしー、めだまこっちにらんでるしー! キショー! とかいって、キタナイものででもあるかのように灰皿の上に出して取り除けたりして欲しくない。肩肘でマンガ雑誌をおさえながら、コーラかなんかでひとくちごとに流しこみながら、ずるずる無意識みたいにすすりこんで欲しくない。

と思っているのですが、

>負担が軽いことは楽しい。

を肯定すると、上のような「ささやかな(?)希望」はみんなみんな、こっちのワガママであって、かなえられなくてもガマンしなきゃならないこと、みたいに言われているような気がするんですね。
「こっちゃちゃんとカネ払ってんだから、どう食おうと勝手だろ?」ぐらいいわれて、食べかけのドンブリにタバコの吸殻つっこまれても、黙って耐えるしかない。

でも……そもそも文章を読むのが本来あまり好きでないひとにとっては、いちばん負担が軽いのは「なにも読まない」ことなんじゃないですかね?

E.S.ガードナーは自分の「ペリイ・メイスン・シリーズ」(法廷ミステリの古典です)を「週末のお楽しみ」と呼びました。いわゆる純文学のように、しゃっちょこばって気合いれて読んでいただくようなものではありません、わたしは労働者のみなさの貴重な休暇に、気軽に「楽しんで」もらえるものを書きたい、と。
ですから、主として卑近な事件を題材に、正義がかならず勝つようなミステリを多数書きました。いわばアメリカ版の水戸黄門というか。あるいは浅見光彦シリーズに赤かぶ検事を足したみたいな、というか。しかしミツヒコさんがいつまでも結婚できないように(まだしてないですよね? 最近のはすみません読んでないんでずか)寅さんが美女たちにどんなにモテても結婚しなかったように??? ペリイ・メイスンと秘書のデラとは「かなりいい雰囲気」にたびたびなっているにもかかわらず「ベッドシーン」はついに一度も書かれることはありませんでした。
そこは抑制であり、信義であったと思います。
男性の、しかもブルーカラーの読者のかたがたのうちには、そういうものが「あったら」もっと嬉しいひともいたかもしれないですが、そういうのが欲しいひとはそういうのの専門のものがちゃんといろいろあるから、そっちでみつけてきてね、と言えたというか。保守的でプロテスタントな倫理に(タテマエだけかもしれないけど実はけっこう縛られているアメリカの刊行当時の「一般社会」(
特にイナカのほうのひと)は、それで十分とした。濡れ場なんかあったら、むしろ「家にもってかえることができないじゃないか!」と非難されたかもしれない。「ツマやコドモに、おとうさんは、そんなものを読むひとなんだと思われたくない!」みたいな。

ちなみにこれはポルノやエッチ産業を否定しているわけではないですから、そこのところを勘違いしないでくださいね。ただ、そういうものをあまりダダ漏れに、誰でもいつでもどこでも簡単に手に取れる状態にすることに関しては、わたしは反対です。抑圧しすぎるのもいけないですけど。
なんでもあまりにもたくさんあって軽く消費できてしまうようになると、ありがたみが薄れちゃう。クスリが常用するとどんどん効かなくなようなもので、無定見に浴びるとかえってそのひとにとって不幸なことになると思うのです。

というわけで、

>軽いものが「あたりまえ」になってゆく時代の流れと、それによって起きるユーザーの相転移に関しては、これはもう止めようがありません。

に関しては、それはちょっと賛成できないナァ、と思います。

パソコンは道具であって、それを使って(どのぐらいラクチンに)何をすることができるかが問題なのだから、使い勝手がよくなる方向に進化してくれることを誰もが望んでいるわけです。いやほぼ誰もが。いまでは使い道がなくなってしまった特許の持ち主さんとかを別にして、ですね。

小説はそういうものではない。
百年後のひとが見つけて読んで楽しんでくれるかもしれないものです(わたしが昔の映画を見てうっとりしたように)。
「いま」のこの時代に適応することももちろん大切ですけれども、そのことばかりに神経を注ぐともっとおおきな何かを見失うのではないか。新木さまご自身も、どこかでいつか多様性を唱えられておられましたが。

インディアン(アネリカン・ネイティヴ)の教えって、三代先でしたっけ、七代先でしたっけ、とにかくやっていいことといけないことは、自分が実際にはあうこともない遙か後代の子孫のためになるかならないかでキメる、みたいな? わたしはそういうものの考えかたが好きです。プラグマティズムと消費文明は彼らをバカだと笑って軽蔑して「駆除」しちゃいそうになりましたが、どっこい、しぶそく生き延びていて(笑)。

28 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月04日(金) 11時22分45秒
来無さま。
>学校で教えるのは基本中の基本、言葉、日本語の「基準」「ものさし」であろうと思われます。

だったらいいんですけど、現状はそうじゃないんでは。すごいことやってる学校も、中にはあるのかもしれませんけど。

たとえばですね、日本語といっても普通のひとが日常に使うのは大半「話し言葉」です。おとなになってから含めて。ですから、ディベートとか、インタビューとか、プレゼンテーションとか、そういうものの訓練をもっとやったほうがダンゼンいいと思いますね。お店で欲しいものをうまく値切る方法とか、気になる子とともだちになりたいときの話しかけ方とか。誰かにインネンつけられたときのうまい逃げ方とか。まず実用ですよ、実用。

書き言葉も「読書感想文」的なオープン戦みたいなものは、そういうのをあえてやりたがる子がいたら重点的に教えればいいのであって、日常生活でもっと確実に必要で有効な、遠くにすんでるおじいちゃんおばあちゃんからうまくお小遣いを引き出す手紙の書き方とか、懸賞ハガキに当選する書き方とか、いま以降なら、メールやチャットの書き方をこそ、真剣に教えるべきです。なにしろそれで殺人事件まで起きたし。

いま現実におられる国語の先生がたはご自身が子供のころにそういう授業を受けてこなかっただろうし、そもそも大学→学校で一度も「世間」に出たことないひとが大半でしょう。だから、小学一年生で基本のてにをはとひらがなあたりを教えたら、次は、市井のふつうのおとな……いろんな年齢、いろんな職業のひと……を次々に召還してそのひとたちの実践的な会話術を手本に(ときには反面教師に)していくのがいいと思いますね。
でもって、作文系の時にはぜひ、小説家はじめ文筆業の専門家をどんどん召還してほしい。なにしろ一日200点年間70000点の中で食っていかなきゃならなくて、プロのモノカキの8割は自転車操業なんですから、全国の小中学校(義務教育)で少なくとも週に一回ぐらいは、次々にいろんなひとを呼んできて(同じひとがずっと担当すると弊害がでますから)「ようこそせんぱい」みたいに本人の専門的なことがらに関して授業やらしたらいいです。作家のほうも、それで、全国あっちこっちいけたら嬉しいし。

>であれば、ややこしい、ある意味悪文である方が素材としては望ましい、

おっしゃるとおりです。でも、「マナイタの鯉として、教科書に載せますから」っていったら、プロは普通ことわるでしょうね(笑)。わたしも某『小説のかきかた』本で、有名作家のかたの既存の文庫から、適宜いろんな文章をひっぱってきて、ここがおかしい、こういうふうにへんだ、こう読み間違う可能性がある、など、いろいろ指摘してみたことがあるんですけど、版元さまから「おねがいです、これはできません、勘弁してください」と泣きつかれ、いやいや削除しました。悪文の見本って、いくらでもあるんですけど、なかなか使用許可もらえないんですよね。


29 名前 : さかなや 投稿日 : 2004年06月04日(金) 12時46分24秒
 ごきげんよう。

>>23
>来無さま
>個性重視のあまりか感性偏重の授業になってるんじゃないか
 激しく同意。
 だいたい,個性なんて自分で勝手に身につけるもので,学校で育ててもらうようなもんじゃないっす。

 よく,「学校の勉強なんて何の役にも立たない」と言う人がいますが。
 学校は学ぶ機会を与えるだけで,何を学んでどう役立てるかは個人の責任だと思います。

>国語の授業
 どうして作文だの感想文だの感性重視の文章ばっかり書かせるんでしょうね。
 そんなものより,小論文の書き方でも教えた方がよっぽど役に立つのに。

>>28
>久美沙織さま
>普通のひとが日常に使うのは大半「話し言葉」
 そうですか? 少なくとも,私は文書で仕事してますけど。
 起案書・復命書・往復文書に要綱要領など,たぶん,一日に短編小説一本分は書いてるんじゃないでしょうか。

 文章を書く技術は,社会で生きていく上で重要な技能だと思います。
 私の職場でも,各島ごとに「文書事務の手引」が2・3冊ずつ置いてありますし。
 
>小説家はじめ文筆業の専門家をどんどん召還
 仕事で必要なのは「美しい文章」ではなく「わかりやすい文章」ですので。
 小説家の文章は実生活ではほとんど役に立たないと思います。

 むしろ,新聞記者さんを呼んできて文章の書き方教えてもらった方が良いような気が。
 面白味には欠けますが,無駄がない機能美にあふれた文章だと思います<新聞記事

 以上,スレ違いの話題にて失礼しました。

30 名前 : 海燕 投稿日 : 2004年06月04日(金) 13時43分30秒
>「ソーントーン・サイクル」

ほかにも古典童話の原型のフェミニズム的な文脈における読み替え──といった文脈で読むこともできるでしょうが、なにかそう簡単に済ませられないものを感じます。僕がなにより感動するのは、「青狼王のくちづけ」が、あきらかに現代的な要素を含んでいたことです。「サクノスを除いては破るあたわぬ堅砦」が、アイルランドの誇り高い貴族の血をひくダンセイニ卿にしか書けなかったように、「指輪物語」が、衰えゆく大英帝国の最高学府に努める碩学トールキンにしか書けなかったように、「ソーントーン・サイクル」は現代日本に生き「ドラクエ」に感動した久美沙織にしか書きえなかった小説だと思います。

「石の剣」は、ほかの時代のほかの作家が物したとしてもおかしくない作品だったかもしれない。しかし「青狼王のくちづけ」は「なぜ日本人が西洋風ファンタジーを書くのか」という問いへのひとつの解答のようにも思える。すくなくとも僕はそういうふうに読みました。作品は、しばしば著者の意図を超えて読まれます。そして、著者が最もよくその作品を把握しているとはかぎらない。「トリビアの泉」のおかげで日本でも妙に有名になってしまったSF作家アイザック・アシモフが、たまたま著書「銀河帝国興亡史」についてある人物が語っているところに居合わせたそうです。

これがアシモフのまったく意図しない読み方で、かれはいたずら心を出して「しかし、著者はそんなことは考えていませんよ」といわずにいられなかったとか。「なぜわかるのです?」「なぜなら、わたしがアシモフだからです」。しかし、相手はうろたえることなくこう言い返したそうです。「なるほど、それがどうかしましたか?」。そういえばアシモフは、シェイクスピアがタイムマシンで現代につれてこられて、シェイクスピア論の講義で落第してしまう──という短編も書いていたっけ。

>バルタザールの遍歴・終戦のローレライ・田中芳樹さんの中国歴史モノ

感覚的にはわかるような気がします。「バルタザールの遍歴」は未読ですが、ファンタジーノベル大賞受賞作の多くはなんとなく「高級なライトノベル」という印象がある。「星虫」などは発表後数年を経てソノラマから再販されたわけだし、「仮想の騎士」とか、コバルトで出ていてもそれほど違和感なかったんじゃないかな(主人公は女装の美青年剣士で、しかも実在の人物!というなかなかおもしろい小説。下読み段階でこれを選んだのは大森望先生らしい)。イラストがないのにライトノベルだと感じられるのは、

1 カタルシスのありかたがライトノベル的である。
2 物語の素材や世界設定がライトノベル的である。

のどちらかである場合が多いんじゃないかと。つまり世界が中世ヨーロッパ風であったり、アクションシーンが延々と続いたりする小説だとなんとなくライトノベルっぽいなあ、と感じる。のではないかな?

>とりあえず,作中で「読者諸兄」と語り始めるのはいかがなものかと。

まだそれはふつうなほうだと思う。半村良の「講談碑夜十郎」に、いきなり「ところで、先日読者から送られてきた資料によりますと──」と語り始めるところがあって、あれはさすがに唖然としましたね。とんでもない「掟破り」をやらかしているのは、なにもライトノベルだけではないということかも。

>「ベッドシーン」はついに一度も書かれることはありませんでした。

ここらへん、微妙な問題でして、本格嫌いでしられたレイモンド・チャンドラー(ハードボイルドの大巨匠)が、エラリー・クイーン(本格ミステリの大巨匠)に対し、エッセイかなにかで「お宅の名探偵の性生活はどうなっているのだね?」とあてこすったりこともあるようです。クラシックな品位と格式を重視する方向性と、現実性を重視する方向性の対立というか。しばらく前までは「現実派」が勝利を収めたように見えていましたが、20世紀も末になって日本では「品格派」も復活を遂げているようです。

そういえば名探偵エラリー・クイーンと秘書のニッキー・ポッターもつかず離れずの微妙な関係のまま終わりました(初期設定によるとエラリーはのちに結婚しているはずなんだけれど、なぜか最後まで結婚相手は出てこない)。それでは性描写があれば品位が落ちるかといえばそんなこともなく、山田風太郎の小説などはどんなに激しい性描写をしても高貴な雰囲気をたもっているのですが。

>「壁」

思うのですが、本を読む行為には、その本の読みやすさに応じて「壁」がありますよね。たとえば漫画と小説のあいだにはかなり高く厚い壁がある。ライトノベルと一般文藝のあいだにも壁はあるし、一般文藝のなかでも比較的平明なものと難解なののあいだにも、あるいは一般的な現実生活を描いた作品と荒唐無稽なSFやファンタジーなどのあいだにも壁はある。その壁をこえずに、閉ざされた世界のなかで楽しくやっていくのも、べつに責められたことではない。

だれだって「こんな本を読んでいてはダメだ!」なんて強制されるのはいやなものです。ほっといてほしいよね。ただの趣味なんだから。なにを読もうが自分の勝手じゃないか。それになにしろ高い壁を超えるのは、面倒だし、労力がかかることです。たかが趣味にそこまでの力をそそぐ人間はむしろ少数派なのかもしれない。なにしろいまはテレビとゲームとネットとDVDと携帯さえあればなんの労力も払わなくてもけっこう楽しく生きていけますから。

しかしちょっと努力を払ってその壁を超えると、超える前は想像もつかないような広い世界が自分のものになる。それが本を読むということだと思います。ライトノベルの壁の内側だけで一生を終えることも、それはそれでひとつの生き方ではある。だれもそれをいたけだかに責める権利はない。しかしその外にも世界は広がっているんだし、そこは壁の内側以上に豊穣で複雑な世界なのです。できうることなら壁を超えてほしいと僕は願います。そして広い広い広い世界と出会ってほしいと。

>仕事で必要なのは「美しい文章」ではなく「わかりやすい文章」ですので。

ほんとうに「美しい文章」を書けるひとは、ほぼ100パーセントの確率で「わかりやすい文章」を書けると思います。三島由紀夫の散文などそれはそれは整然としていて読みやすい。まあ突然霊感が降りてきて自動筆者状態で書く天才は例外かもしれませんが、一人前のプロの作家なら、すくなくともそこらの素人とは比べ物にならないくらいには「わかりやすい文章」を書くことに習熟しているはずです。そのうえで、時にはそれを犠牲にしても、美しかったり鋭かったりするものを書こうと挑戦しているわけで。まあ、そうでもないひとだってそれはいなくもないでしょうけどね。ほんとうに詩美的な美文を書く作家はもう少ないだろうし。

31 名前 : 来無 投稿日 : 2004年06月04日(金) 14時19分22秒
久美様
>まず実用ですよ、実用。
文章の世界に当てはまるかどうかわからないんですが
私の知る限りの世界で、「まず実用」をやってた人はほぼ例外なく実力的に「まず、実用的とは思えない基礎の反復」を繰り返してきた人に劣ります
(この辺のニュアンスの受け取り方の違いとかあるのかもしれませんが…)
言い方を変えると「まず実用」ならば何より先に(面白くも何ともない退屈な)「基礎」、ということですか
急がば回れというか、学問に王道無しというか。学校は学問の府であると言う観点から見れば「まず実用」はあきまへん
学校と言うところは生活訓練所であって学問をやるところでない、のであれば、「日常生活でもっと確実に必要で有効な」手法を刷り込むのが良いのかもしれませんが
実際には学校には両面的性格があってバランスの問題といえばそうなんでしょうけれど

例えば美術で
石膏像素描、石膏像の裏側の陰の出来方まで暗記するほどやりますが
実際の作品で石膏像描く人は居ません(静物として入れることが無いではないけれど)
人体素描、筋肉や骨格を、それこそどんな厚化粧でも透けて見えるほどやりますが
実際の作品で、そんな徹底した写実をする人は少ないですし、ポーズも作品としてはあり得ないのを描くのが普通です

古武術なんかで
そらもう、嫌になるほど型の反復です
型には用法、使い方が一応ありますが。そんな使い方になる状況は、ほぼあり得ません

でもですね
素描なんかやらずに好きに描いてた人、型なんかやらずに組み手ばっかりしてた人、あるいは護身術と称して痴漢や暴漢の対処法ばかり訓練していた人、最初、というか、割と低いレベルでは優勢なんですけども
(例えば、絵のお仕事をもらえたり、街中でチンピラとの喧嘩に負けなかったり、痴漢を捕まえたり)
何年か経った後、まじめに黙々と基礎だけやってた人の方がレベル高いです。明らかに
もちろん、その頃には応用的な修練もしているわけですけども

で、思うに学校の教育で、何が問題なのかというと、私がそうであったように
今、何をやっているのか、どういう意味なのか。それをキチンと説明出来る教師があまりいないことではないか、と
きちんと段階を踏んで、適切なコントロールのもとでディベートなり実用的な「要素」を徐々に加えていくのは当然の過程であります
そのコントロールには相当の力量が必要です。そんな力量が無いから学校の授業がつまんなかったんだろうな、納得いかなかったんだろうなとそんな気がしてます

32 名前 : 来無 投稿日 : 2004年06月04日(金) 14時24分00秒
自分の補足
>ポーズも作品としてはあり得ないのを描くのが普通です
素描で扱うポーズは、実際の作品ではまず使わない、あり得ないポーズだ、と言う意味ですm(__)m

33 名前 : 投稿日 : 2004年06月04日(金) 18時50分29秒
>新木さん

掲示板の一番上を見てください。

>注意事項
>●1回の書き込み制限は1万字以内です。

と、書かれていますね。
文字数に制限があるのは示されているでしょう?
その上で、

>……と、書きこもうとしたら。
>おー、やったー!
>初の「メッセージデータオーバーエラー メッセージデータは(20000)未満にして下さい」が出ました。

何をはしゃいでいるんですか?
制限を越えたのが嬉しいんですか?

>よって後半部分は、別書きこみに分割します。

文字数が多すぎる、と言われているんですよ。
ただ分割すればいいと?
制限内に納めようとは考えないんですか?

しかも制限を越えておいて、

>はい。すいません。じつは関係ないです。

ですか。
何か意図のある言い回しかもしれませんが、笑えませんね。

文字数が多いことが無条件で悪いとは言いません。
分割も、時にはいいでしょう。
しかし、読む人への配慮ってものがあるでしょう?

プロ作家なら読者を不愉快にしない書き方ができないものですか?

34 名前 : さかなや 投稿日 : 2004年06月04日(金) 20時18分28秒
 ごきげんよう。

>>30
>海燕さま
>1 カタルシスのありかたがライトノベル的である。
 2 物語の素材や世界設定がライトノベル的である。

 なるほど。非常に興味深い御意見です。
 つまり,ライトノベルというのは単なるパッケージではなく,ライトノベル的な内容というものが確かに存在するというわけですね?

 この御意見を読んで,本来は小説ですらないTRPGのリプレイが,しばしばライトノベル的に読まれている理由がなんとなくわかりました。
 例えば,2ちゃのライトノベル大賞でなぜか対象作品になっていたダブルクロスリプレイなどは,まさに上の条件を満たした作品です。

35 名前 : Merlin C. 投稿日 : 2004年06月04日(金) 22時55分50秒
 初めまして、Merlinといいます。某作家さんのリンク集の管理人をやっております。
 こんなところに文章を書いたら知り合い各所からつっこみが来そうでとても怖かったりします(^^;
 とくに、ここに意見をお書きの皆さんに比べたら読書量が圧倒的に足りないと思われるので、「何と間抜けな意見を書いているんだ」と思われる部分もあるかと思いますが、どうぞご容赦いただけるよう伏してお願いいたします。

 ここでの議論を大変興味深く拝読しておりました。
 なんだか「ライトノベルとイラストの関係」というタイトルとかなり乖離した議論がなされているのがちょっとだけ気になりつつ。
 そして、「その人にとって何が正しいと思う」という議論になって何となく水掛けかなと。

 誤解されているような気がして仕方ないのですが、新木さんは「全力は尽くすが、それがどう受け取られるかは受け手の問題」だといっているのであって、「創作物に対して手を抜いても仕方ない」「売り物にならない物も売って良い」といっているのではないと理解しています。
 で、ひとまず小説を物質と考え、より良き「物」としての小説を生み出さんと考える新木さんの気持ちは、わたしが物を作る化学屋を本職としているからというわけではありませんがよく解りますし、久美さんの仰る、文章には言霊があるという考えも、同感でありよく解ります。
 しかしながら「生まれた」物語という混沌に目鼻を付け、死なせることなく世に問うという過程そのものには、さほど大きな差違がないのではないかという印象を受けました。
 例えば陶芸家が釜から作品を出した、その時に「これは自分の思ったものではない」から「叩き壊して」「望みのものを見せる」立場もあれば、「思ったものではないけど面白い物が出来た」から「それを活かして見せる」立場もあると思います。でも、見せていただく方はどちらも「素晴らしい作品だ」と思うでしょう。どちらも「あり」だと思います。

 さて。
 あらゆる文章には「機能」があります。少なくとも「伝える」という機能が。
 そして、小説を含むあらゆる文章の集合体というものからは、書き手の意図が読み取れます。わたしなんかは、「他人の価値観を追体験できるから」読書が好きな人間なので。そこには軽重という価値は存在しません。在るとすればその価値観が自分にどれだけ「合う」か、共感できるかだけでしょう。
 しかしながら、他の人がそれを求めているとは限りません。「スカッとしたいから」読みたい人もいるでしょうし、「考えるよすがにしたいから」読みたい人もいるでしょう。それも「小説」に限った話ではないはずです。
 で、新木さんが「今求められている」と考えて書かれている作品は前者、久美さんが「そうであって欲しい」と考えて書かれている作品は後者であろうと考えました。
 何となくすれ違っている印象を受けたのは、ベクトルがただ単に違っているだけで、その向きは「読者のため」であることに変わりはないんですよね?

 ここで話を「軽重」に持って行くと、どうも今社会の大多数を占める「普段読書をしない」という集合が求めているのは「読みやすい」ことや、「読んだという達成感」らしいという印象を持っています。
 今売れている芥川賞受賞作品は、紙質に工夫をして「厚い本を読み切った」感じを持たせる仕掛けがあるそうです。
 わたし個人の極めて限られたソースでの印象ですが、いわゆる「ライトノベル」が売れているという話を勘案してもそうなのではないかと類推しました。
 で、この「普段読書をしない」層がいきなりハードな「重い」(「指輪物語」原作とか)物を読むと挫折してしまう可能性が高いということが、わたしの友人の体験(1巻で挫折したらしい)から読み取れます。「指輪物語」は壮麗で美しい日本語が使われた訳が魅力ですが、それが新しい読者層の獲得の障害になっている場合もあるようです。
 そのような層に「読書とは楽しいものである」と思ってもらいたいと考えて、多くの出版社は日々活動していると思います。その方が本が売れるからです。それはわたしも望む未来です。
「普段読書をしない」層からわたしのように「半刻も本が手放せない」層へと変移させるためには何が必要か?
 わたしは、「読書訓練」が必要だと考えます。
 外国語の読解を始める時、いきなり重厚な哲学書などを使う人は居ません。筋が掴みやすく、かつ絵が読解の補助をしてくれる「絵本」から「洋書を読む」ことを始める人が多いと思います。
 しかしながら我々日本語を母語としている物としては、「読む」訓練としては絵本では物足りないでしょう。
 そう、それこそ「イラスト」が付いているいわゆる「ライトノベル」の、現在の出版者側にとっての価値の一つでしょう。物語などの文章を読む快感が得られ、ときどき挿入される挿絵が、ともすると障害になる「読解」の手助けをしてくれる。
 そしてそれを読んだ人がさらなる快感を求めて本を買うことを期待する。
 その時、読みやすい作品が必要とされると考えます。
 重病人を癒すにはまず粥から、です。

 お断りしておきますが、これは「出版社」側から見た価値の「可能性」に過ぎない話であり、「ライトノベル」が読みやすいからといってこれを貶めるいわゆる「重厚長大主義」を支持するものではありません。
 先も書いたとおり、わたしは「追体験」が好きなので、新しい物語を次から次へと読んでいきたいという欲求を持っています。その点で「ライトノベル」という物の価値を非常に重視しております。かつそれと同等に、読みごたえある文章も大好きです。「読んだ!」という達成感を味わいたいという部分も否定しませんし。

>国語とか
 国語の読解問題は「作者」が何を言いたいかではなく、「問題制作者」がどう思っているかを読み解くことに過ぎないわけで、結局読解も技術の暗記に過ぎないのです。
 高校までの「校」がつく組織での学習はなべて暗記であるといいきることが出来ると考えています。数学ですらも。何か新しいことを教えてくれうる組織では有り得ないと考えます。
 それはそうです。新しい人間に必要な知識をインストールするのが学校の役割といえますし。
 久美さんは戦前のいわゆる大学出のインテリゲンチャの話をしておられますが、あれから日本語は基礎が簡単になってしまいました。ワ行が黙殺され、書き言葉は音便化され、伝統的に培われた法則が失われた現代国語から、過去の美しい文章は生み出されようがないのではないでしょうか。
 もちろん自主的に勉強すれば書けるようにはなるでしょうけど(最後の部分、来し方の美しき文章は生み出され得べからざらんや、になるでしょうか、美しくないけど)、日常的にそれに触れ得ない社会ですからねえ……。
#なんで岩波すら新(簡体)字に変えちゃうんだよう(涙)
 でも、その中からでも「読んで快い」または「美しい」文章は生まれうると思います。これは軽重とは関係ないと思うんですけど……。

 作文は感性の文ではなく伝達の文を優先すべきという意見は同感です。何いっているか分からない文章が世の中多すぎる。もちろんわたしのこの文章は棚のはるか届かないところに(笑)
 ただ、個性を個性として認めることは必要かと。他人の個性を認めてこその個性。
 他人の顔色を窺わざるを得ない社会、その縮図となってしまう学校でそれに向かうのは大変ですが、理想として。

>パソコンの話
 関係ないですけど、半田ごてでパソコンを作ってみたかった!
 回路設計は出来ないですが半田ごてを扱う訓練はしました。ICだって壊さず付けられると思います(爆)
 でも、さすがに今の32ビットパソコンの組み立てに半田ごてはほとんど使わないですよね。復刻してくれないかな。
 で、Macの多くのコンシューマ向けソフトのインストールは今や極めて簡単で、「フォルダごと放り込むだけ」。相転移起きてますね。
 この先はなんになるだろうと楽しみでもあり。
#あ、インストールが大変だから悪い、という価値観も持ってませんので、念のため。わたしのパソコン出発点はX1です。

 で、パソコンなどの「進化が目に見える」物と違って、小説は「変化」は「変化」であって「進化」とも「退化」とも言いがたいと思います。
 音楽において、ルネサンスからバロック古典派ロマン派までのいわゆる「クラシック」とそこから変容した(と自分は考えている)ジャズやポップス、ビートルズ、さらに変容したダンスとかテクノとか(この辺はよく解らないけど)はわたしにとってはすべて価値は同等であり、ただわたしの趣味はクラシックだというだけのことだと。
 つまりいいたいのは選択肢は読者側にあると。読みごたえのある本から軽い本まで、何を読むかは読者の自由。
 もちろんどのように読んで欲しいという前提はあると思います。クラシックは物音を立てないように静かに、テクノ辺りは一緒になってノリノリ(古いな)という感じで。
 前者には後者が「騒がしいから嫌だ」と思うのでしょうし、後者は前者を「堅苦しくて眠いから嫌だ」と思うのでしょうけど、それはその人の問題だと思うのです。
 ただ、選択の自由は与えられるべきです。その意味で様々な作品はあるべきだと思います。どちらが善いというものでもなく。

 変化で思い出したんですけど、日本の小説、百年前のをそのまま読もうとするととんでもない労力が必要なんですよね。手紙なんてもう読めない。昔はふつうの人が読んでいた文字を。この辺りわたしも(含めて)「退化」だと思うのですがこれが変化の現実で。
 どういう変化が起きるか想定が難しいのなら、現状に全力を尽くすという考え方をわたしは支持します。
 で、全力を尽くしておられる久美さんや新木さんを、わたしは応援していきたいと思います。それがこれからを担う文化になるのでしょうから。

 分かり難い長文失礼いたしました?

36 名前 : Merlin C. 投稿日 : 2004年06月04日(金) 23時04分26秒
 うわ。
 最後の文字が化けた。もちろん「。」です。

37 名前 : 海燕 投稿日 : 2004年06月05日(土) 05時14分28秒
>言い方を変えると「まず実用」ならば何より先に(面白くも何ともない退屈な)「基礎」、ということですか

久美さんは「読書感想文なんていくらでも相手が望んでいるとおりに書くことができた」ひとですから、子どものころから基礎能力は当然あったと思うんですけど、どこでその能力を身につけたのかといえば、それはご自身が仰っているとおり、国語の授業のなかではなく、日常生活の現場においてでしょう。

久美さんに限らず長じて「日本語のプロ」になってしまうようなひとは、多かれ少なかれ文筆の基礎を国語の授業以外のところで身につけてしまうものだとおもいます。そういうひとにとっては、国語教育なんてものは、実はあまり意味がない。「教えられなくてもわかる」わけですから。国語教育とはそこまでいかないひとのためにこそあるもので、だからこそ実用的であるべき、ということなのではないでしょうか。

>つまり,ライトノベルというのは単なるパッケージではなく,ライトノベル的な内容というものが確かに存在するというわけですね?

読者がそういうふうに感じる内容というものは存在するとおもいます。たとえば、いわゆる「剣と魔法のファンタジー」は、それ以前に栗本薫「グイン・サーガ」などの先駆的業績は存在したにせよ、日本においてはライトノベルとRPGのなかで一般化し普及していったジャンルです。だから読者の頭のなかでは「剣と魔法のファンタジー」と「ライトノベル」はどこかしか結びついている。ここから敷衍すると、ライトノベルには「体裁的なライトノベル」と「内容的なライトノベル」が存在するということがいえるかもしれない。

富士見ファンタジア文庫や角川スニーカー文庫から出ている漫画風のイラストが付いている小説、これは「体裁的なライトノベル」です。普通ライトノベルといえばこれを指す。しかし、大人向けにハードカバーで出ているものでも、たとえば古川日出男「アラビアの夜の種族」などはライトノベル的な雰囲気がある。原型が「Wizardly」のノベライズなのだから当然といえば当然です。これが「内容的なライトノベル」。このふたつは分けて考えるべきなのかも。

>わたしは、「読書訓練」が必要だと考えます。

それはたしかにそうなんですけれど、ひょっとしたら「ライトノベルの読書」は「ライトノベルの読書訓練」にしかならないのではないか、ということが僕の懸念です。いえ、たしかになにも読まないよりは読書能力がつくとおもいます。しかし、ご存知のとおり、ライトノベルのなかには「一行ごとにほぼ必ず改行」「ページの下半分はまっしろ」という作品も多い。それが悪いというわけではありませんが、そういうものを読みつづけていても、それに比較して相対的に字が詰まっている一般文藝作品を読む力は身につかないのではないか、と思えてならない。

それならどうすれば良いかといけば、英語教材のようにライトノベルにも多様なリーダビリティのものがあれば良いかもしれません。「とても軽いライトノベル」「ちょっと軽いライトノベル」「ふつうなライトノベル」「ちょっと重いライトノベル」「とても重いライトノベル」というふうに。読者は「とても軽いライトノベル」から入って、すこしずつ重いものに慣れていき、そのうち一般文藝をすらすら読みこなす力が身につく──とうまくはいかないかもしれませんが、そういう多様な作品があれば、読者はライトノベルと一般文藝のあいだの「壁」を超えやすいかもしれません。

38 名前 : 来無 投稿日 : 2004年06月05日(土) 10時10分45秒
海燕様
>子どものころから基礎能力は当然あったと思うんですけど、どこでその能力を身につけたのかといえば、それはご自身が仰っているとおり、国語の授業のなかではなく、日常生活の現場においてでしょう。
>久美さんに限らず長じて「日本語のプロ」になってしまうようなひとは、多かれ少なかれ文筆の基礎を国語の授業以外のところで身につけてしまうものだとおもいます
つまりですね、実用の中から基礎力を自力で養成出来るような人には国語教育なんか必要ないわけですが、大抵の人はそうではない、手紙を上手に書くことより、おばあちゃんからのお小遣いの方が(本来は目安、指標に過ぎない筈のものが)目的になってしまうものです
自力で発見出来る、そういう天才的(そこまで言わずとも秀才、英才)な人間はごく一部、要は谷底に突き落とされても登って来れる仔ライオンなんで放っといても良い
大抵の連中は登るより前に落ちた時点で死んじゃうわけです。壁面登りの要領を教える前に、落下に耐える体力(と、要領なんかなくても力技で壁を登れる筋力)を養成しておくことが必要なんです
で、本当の天才(体力も技術も最初から思いっきり持ち合わせている奴)はともかく、たまたま登って来れてしまったライオンと、体力を養成し、徐々に谷を深くし確実にどんな谷でも登れるように訓練したライオンとどっちがタフで巧いのか、ほぼ後者であるとそういうことです。学問的に先のことを見据えればそうあるべきだと。
とはいえ、地味な訓練に退屈し、逃げ出したあげく小石につまづいて怪我をするようなのもまた多いので、小石をよけるくらいの実用はやっとけ、というのはありだとは思います。文学なんかに将来的にも見向きもしないだろう連中への生活訓練(餞別)としては多いに。だからその辺はバランスだろうと思うんですが、学校はやっぱり生活訓練所と言うよりは学問の学び舎であるべきだろうと個人的には思うので
本来なら小石なんぞ落ちてない整備された平原で、力量十分の教師が当たるべきなんですが、まあ、そうも言ってられない現実はあるでしょうから

というか、いい加減スレ違いのカキコで申し訳ございませんm(__)m

39 名前 : さかなや 投稿日 : 2004年06月05日(土) 10時38分05秒
 ごきげんよう。

>>35
>Merlin C.さま
>タイトルとかなり乖離した議論
 まったくもっておっしゃるとおり。他のスレ住人さまには申し訳ないです。
 一応、スレッドタイトルに関連した話題を入れるようにしてはいるのですが、流れをぶった切るのも無粋ですし……ねえ?

>個性を個性として認めることは必要かと
 いえ、私も個性は必要だと思います。多様性は豊かさですし、一種の安全装置でもありますから。
 ですが、どうも最近「個性」という言葉だけが一人歩きしているように感じられるのです。
 たとえば、「なぜ個性が大切なのですか?」と訊かれて答えられる学校の先生ってどのくらいいるんでしょうね? ……まさかとは思いますが「みんなが個性は大事だって言ってるから個性的じゃなきゃならない」なんて言いませんよね(笑)

>>37
>海燕さま
>「剣と魔法のファンタジー」と「ライトノベル」
 そうですね。それは私も感じます。
 というか「ファンタジー」というのは「ライトノベル」の代名詞になっているような気がします。

 一時期「ロープレ小説」などという意味不明な言葉が使われてましたが。
 世間のファンタジーに対する考え方ってその程度なのかもしれません。

>「体裁的なライトノベル」と「内容的なライトノベル」
 なるほど。
 だとすると「絵がついた小説」というライトノベルの定義は、一部を表してはいても、全体を定義してはいないのですね。

 大抵のライトノベルは体裁と内容の両方を持っていますが、どちらか一方しか持っていない「部分的なライトノベル」というものがあるのかもしれません。……ライトノベルの定義論が荒れるのはその辺りに原因があるのかも。

 しかし、そうしますと、「ライトノベルにとってイラストは必ずしも必要ではない」というスレ主旨的にはあまり面白くないお話になりそうなんですが(笑)

40 名前 : 極楽トンボ@管理人 投稿日 : 2004年06月05日(土) 16時50分56秒
ええと、お互い納得のいく答え……に行き着くかどうかはわかりませんが
とことんまで議論し合う事も必要だと思いますので、
この際スレッドタイトルは余録としてお考えくださっても結構です。
(ここまで来たら中途半端にストップしても気持ち悪いでしょうし)

本来なら、スレを立てた私も議論に加わるべきかと思いますが
とても入り込めそうにないので今のところROMに徹しております。

なお、ごく個人的な視点から「ライトノベル」とイラストに関わる話をしますと
「さよなら妖精」という一枚のイラストもない青春小説を私は反射的に
ライトノベルだと感じた経験があります。
一方「世界の中心で、愛を叫ぶ」も青臭いいわば青春小説のはずですが
こちらはまったくライトノベルだとは思いませんでした。
この辺の直感を分析してみるとなにか得られるものがありそうなのですが
今のところ結論が出てません(そんなもの書き込んですいませんです)

41 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月06日(日) 11時08分26秒
Merlin.Cさま、いらっしゃいませー。お返事?遅くなってすみません。おっしゃっておられること、すごく納得がいってしまって、そうするとかえって何も書けなかったというか。

>重病人を癒すにはまず粥から
そうですねぇ。
>「問題制作者」がどう思っているかを読み解くことに過ぎない
ああ、思い当たります。ですから、市販の問題集の問題より、知っている教師が作ったテストの問題のほうがどうしたって解きやすい(笑)。

こんなところでまた自慢をといわれそうですが、古文の授業で「徒然草」全部が範囲、というテストをやられたことがあります。ズルいわたしは、徒然草入門みたいな本を買ってきて(徒然草そのものでないあたりが卑怯)現代語訳だけはとりあえず全部読み、「テストに出そうもないもの(内容がエッチだとか、長すぎるとか)」を除外し、教科書に載っていてすでに細かく習ったものを除き、さらに担当教師のふだんの「好み」を配慮して「もっとも出そうなとこ」を五ケ、「もしかすると出るかもしれないの」をさらに五ケぐらい選びだし、「この文章の意味が問われる」「ここでカカリムスビの法則について問われる」などの予想問題まで作成しました。クラスのみんなにも無料で(あたりまえ)情報公開したんですけど、古文のテストなんてできなくったってどーでもいいと思ってたらしいクラスメイトたち(ちなみに学年360人のうち、もっともテストのできない40何人……スポーツ本気でがんばってたり、美術系音楽系にいきたかったりするコが中心な、私立文科系ことオチコボレ組だったんですが)は、ぜんぜん気にとめてくれなかった。実際にテストに出た設問文章の4つのうち3つは、予想範囲ズバリでした。点数より、真剣に作戦たてて予測して前もって手はずを整えておいたのが、ちゃんとあたったことのほうが嬉しかった。
国語のテストなんかは、いつもこういう形式だったら、楽しく戦えるのになぁ、と思ったものです。

来無さま。
>その辺はバランスだろうと思うんですが、学校はやっぱり生活訓練所と言うよりは学問の学び舎であるべきだろうと個人的には思うので
うにゃー。あくまでパランスなのは同感でありつつ、極論すれば、小中学校では「学問」なんか本来やる必要はない、むしろすべてのこどもを全力で、両手を広げてむかえいれろ、とわたしは思いますです。登校拒否児なんか出すなよ、と。それに九年間が必要なのかどうかは議論のあるところだとは思いますが。学問にむいていて本人も好きなコは、それぞれの発達度合いに応じて、順次、「ふつうのがっこう」から「学問を学ぶところ(いまだと塾?)」に移せばいい。職能や特殊な知識・体験をみにつけたいコには、どんどんそういう機会を与えればいい……と思うんですけど。
ちなみにこくご教育といえば、朝早くやっている教育テレビのコニシキの、『にほんごであそぼ』ですか、あれはスゴイ。おもしろいし、かなり影響力もあるらしいですね。ちいさなお子さんのいるおかあさんたちが、こどもさんがいきなり幼稚園とかでおともだちからならって覚えてきた「やるまいぞ、やるまいぞ」とかに驚いて、どんどん視聴するようになり、こどもさんといっしょに夢中になっているらしい。

さかなやさま。
>たとえば、「なぜ個性が大切なのですか?」と訊かれて答えられる学校の先生ってどのくらいいるんでしょうね? ……まさかとは思いますが「みんなが個性は大事だって言ってるから個性的じゃなきゃならない」なんて言いませんよね(笑)

ひぇぇぇぇぇ。それってブラックー。でもありそう。ていうか、そこまで意識的に考えてもいないけど実は無意識にそう思っちゃっていたりするんじゃ?








42 名前 : Merlin C. 投稿日 : 2004年06月06日(日) 16時07分42秒
>スレ違い?
 そうですね、せっかく発展した議論がなされているのにそれを打ち切れというのはとても無粋ですね。
 先の指摘もちょっと無粋でした。失礼いたしました。
 わたしとしてもこの議論は大変興味深いところですので、このまま続けていただくことに異存ございません。

>「ライトノベルの読書」は「ライトノベルの読書訓練」にしかならないのではないか
 確かに、頻繁に改行され一冊のほとんどが下半分空白というのもありますね。でも、そういうものばかりでもないと思います。
 今のライトノベルにも多様な重さのものがあると思います。直感的に思い付いただけでも、「ドクロちゃん」と「イリヤ」が並び立つ、それが両方とも高い評価を受けるという文芸ジャンルはそうそうないでしょう。
 それこそがライトノベルの多様性、かつ可能性じゃないかと考えます。

>国語能力とか
 先に書きました文章の「機能」から進めると、「いかに自分が書く文章に機能性を持たせるか」が実用訓練だと言えると思います。
 つまり、「いかに自分の考えを相手に伝えるか」と言うことを考えながら文章を書く訓練。生きていて大抵の場面ではこれこそが必要なんです。
 ですが、これを今の学校教育で教えてもらったかというと、やっぱりそうでもないんですよねえ。
 やれ昨日の遠足の作文だの感想を書けだの。その前に伝わる文章の書き方を教えてもらった方がはるかに教育的だと思うんですけどねえ。
 でも、難しいんだろうなあ。いい参考書なら知ってますけど。

>個性
 あ、言葉足らずでしたね。
 個性なんて放っておけば勝手に出てくるものですし、むしろ出てこなければならないものです。
 認めなければならないと教えるべきは、「他人の個性」です。容姿も思想も身体的障碍も個性。自分とは違うものを違うものとして認め、尊重することが必要なのではないかと考えます。
 何となく違和感があるのは多分、「個性」と「自分勝手」を混同しているような感じを受ける場面が多いような気がするからではないかと(曖昧な文章でごめんなさい)。
 教育機関での教育で厄介なのもこの辺りで。
 そもそも近代の教育が、「社会にとって有利なようにベクトルを揃える」という目的を持っていると考えます。これを極端にすると某「北」の国になるような。
 これは、近代工業において優秀な労働者を確保すると言う目的に添うものです。これがつい最近まで続いていて、ようやく次に進もうとしているような。
 でも、個性個性とお題目を唱えるばかりでどうすればいいのか分からないというのが今の現場でしょうね。わたしの印象ですが。
 あんまり「発揮」されると困る「個性」もありますし。
 その中で教えるべきものが、すべての差違を「好き嫌い」の如き単純な考えで切り分けるのではなく、差違として認めることなのではないかと考えております。

>「ライトノベル」的なものとイラスト
 これは考えれば考えるほど分からない。
 まとめてみようと書いてみたらますます分からなくなってきたので保留させて下さい、数日寝かせて美味しくなっていたら書き込んでみようと思います。

>久美さん
 恐縮してしまいます、わたしもドラクエとか読んでいたクチなので……(汗)

>にほんごであそぼ
 久しぶりに実家に帰ったら家族中それにハマっていてじゅげむじゅげむやっていたので何事かと思いました(笑)
 小さなお子さんはもういないはずなのになあ(笑)

43 名前 : とある挿絵屋 投稿日 : 2004年06月11日(金) 14時38分14秒
むむ、おもしろそうな板を発見
暫くヲッチさせていただきます

44 名前 : Merlin C. 投稿日 : 2004年06月12日(土) 23時20分10秒
 ……もしかしてディスカッション・クローザやっちゃった?(汗)
 それはそうと。

「ライトノベル」的なものとイラストとの関係を考えていて、行き詰まって文章を寝かせていたら、くぼさんと時海さんの往復コラムが掲載されて、これで腑に落ちちゃったんですけど……。
 スレ違いながらわたしの解釈を書かせていただくと、「イラストを文学体験の共有手段として積極的に使っている」ものが「ライトノベル的」だと言われるのかなと。
 言い換えると、「イラストとして場面が脳裏に浮かぶ」ものが「ライトノベル的」と言われるのかなと。

 論を展開していたらやっぱり読書体験の少なさを痛感しました。お恥ずかしい限りです。

45 名前 : くぼひでき 投稿日 : 2004年06月13日(日) 01時15分29秒
わたしもスレ違いですが。。。

Merlin C.さんの
>イラストを文学体験の共有手段として積極的に使っている
を、時海さんとの往復書簡では、増幅させてみました。

たとえば(例は悪いかも)、
かつての全共闘真っ盛りの青年たちがロシア文学を読んで「やっぱ革命だな」っていっていた
その論法が、
そのまま、ライトノベルやマンガやギャルゲーや何かを体験して
「やっぱ萌えだな」
とかになっている。
文芸の享受(消費)が、
読書体験をした人間に、何らかの心理衝動へ向かわせる
ってことの意味では、両者はまったく変わらないんですよ、きっと。

46 名前 : Merlin C. 投稿日 : 2004年06月13日(日) 11時59分34秒
>>45
>くぼさん
「ふしぎ発見」を見ていたら、
「元々仏塔を崇拝していた仏教に仏像を持ち込んだのは1〜2世紀頃の商業国家だった。
 人の姿をした仏は親しみやすいのでシルクロードを伝わって一気に日本まで広まった。
 仏像がなかったら仏教はインド一地方の宗教として消えてしまっていたかも知れない」
 という話を耳にしました。
 これをよすがにすると、イラストで文学体験を共有するという考え方は宗教における「偶像」的なものに対する考え方に似ているような気がします。
「イラストがついていると軽く見える」と蔑むのはいわば「文学原理主義」?

 ところで、考えていた中で出てきたのが「あまりイラストを積極的に使わないライトノベル」。
 直感的に思い付いたのが秋山瑞人作品なんです。「イリヤ」より「猫」の方が強いかな。
 もちろん読者はイラストを使うんですけど、この辺りのスタンスは作者の芸風(という言葉が適切かどうかはこの際置いておきます)に拠るんでしょうか。

47 名前 : くぼひでき 投稿日 : 2004年06月13日(日) 12時59分26秒
Merlin C.さま

>イラストで文学体験を共有するという考え方は
>宗教における「偶像」的なものに対する考え方に
>似ているような気がします

ロシア正教のイコンのありかたも、カトリックが人を聖列していくのも同じ原理かもしれませんねえ。

イラストがついてるものを蔑む心理は、ほんとうにイラストを軽んじてるんだと思います。
その人たちが「文学原理主義」ではないかもしれませんし(文学も軽んじているかもしれませんね、笑)。

>この辺りのスタンスは作者の芸風

ではないかと思われます。
今思い出したんで、引っ張り出してきました。
「SFが読みたい 2004年版」

秋山瑞人さん、冲方丁さん、小川一水さんの鼎談(司会は三村美衣さん)の33ページで、秋山さんがこう言っておられます。

秋山さん「『イリヤ』の場合は特にそうなんですけど、キャラクターの外面の描写はあまりしないんですよ。脇のキャラは描写するんですけど、主役級であればあるほど何も書いていない。たとえばイリヤは「かわいい」のが仕事名だけど、髪形や服装には触れていない。どんなに文字で書いてもマンガやアニメには勝てないと思う。だから……」
三村さん「だから?」
秋山さん「だから、鼻血だすとかわいいでしょとか」

この後、イラストレータさんによって描かれた絵で、「そうか、イリヤは髪が長いのか」とか思ったそうですが、
つまり、意図的に「絵にする部分」は、読者を含むほかの人に手渡してるってことですよね。
このあたり「往復書簡」のほうでは、(作者を含む)読者のライトノベルの「読み方」として書きました(宣伝、あちらにもカキコよろしく〜)。

48 名前 : くぼひでき 投稿日 : 2004年06月13日(日) 13時02分13秒
連書きすみません。
引用部分「仕事名だけど」ではなくて「仕事なんだけど」です。

けど、「かわいい」って仕事名があったとしたら、って考えてちょっと萌えました(笑)。

49 名前 : 木村 航 投稿日 : 2004年06月15日(火) 11時42分37秒
 どもども。他板もおもしろいことを発見して困っている木村航です。
 ふと思ったんですが、たとえば北村薫さんの『夜の馬』とか、あの表紙による装丁が選ばれた背景について想像してみますと、ラノベ的なるものへの「売り方」「くくり方」としての認識が判るかなーと。お嬢様探偵のシリーズとか、より顕著になりますが。
 たぶん、あれは「正体不明の覆面作者・性別もヒミツ」という仕掛けまで含めての戦略として、ああなってたんだろーと思うんですけどね。
 ミステリ畑にお詳しい方いらっしゃいましたら、ミステリの装丁・挿画にマンガ畑の才能が起用されるようになったのはいつ頃からで、嚆矢はどなたで……みたいなこと解説してくださいませんかねえ?

50 名前 : 海燕 投稿日 : 2004年06月17日(木) 14時58分53秒
>ミステリに漫画のイラスト

あまり詳しくはありませんが、僕が知っているかぎりでは、森雅裕「モーツァルトは子守唄を歌わない」講談社文庫版(1988年)の表紙を「パタリロ!」の魔夜峰央さんが努めたあたりが嚆矢かなあ……。僕はそのころまだ10歳だったのでよく知りませんが、当時はそうとう話題になったらしいです。ちなみにこんな絵↓。

http://www.auction.co.jp/mem1/item/mem_itm_item.asp?LOT=215028

パタリロが変装しているようにしか見えない(笑)。楽聖もまさに形無し。大人向けミステリの表紙や挿絵に漫画の絵が使われるということは、いまでもそれほど頻繁にあることではないとおもいます。「クビキリサイクル」みたいなアニメ的な美少女絵が使用されるようになったのは、ほんとにここ2、3年のことじゃないでしょうか。

51 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月18日(金) 08時24分41秒
ミステリをそんなに体系的に読んでいないのですが、ひょっとすると、太田忠司さんの『月光亭事件』あたりが早いほうなのではないでしょうか。

http://homepage2.nifty.com/tadashi-ohta/list/list2.html

52 名前 : Merlin C. 投稿日 : 2004年06月19日(土) 19時08分59秒
 児童文学とライトノベルでのイラスト的なものの扱いについては「あわい」のスレッドに持って行こうと思っていますのでこちらでは触れません。

>ミステリとイラスト
 わたしがはっきりと意識したのははやみねかおるさんの作品からですねえ。ミステリ畑に踏み込んだのもその辺り(森博嗣作品が中心で、そこから古典側に進んだ)なもので、それ以前というとちょっと。
 ただ、ノベルス(いわゆる新書版での作品)にイラストが入ってきたのは、菊池さんを中心とするいわゆる伝奇ものに末弥さんら幻想画家さんたちがイラストを描いたのがはじまりなような気がします。
 その後の例えばC Novelsでは戦記物にイラストが入ってたりしますし(主にヒコーキとかそういうイラストでしたが)。
 それをきっかけにしてノベルスで出版されるミステリが、「イラスト」に目を向け始めたのではないかという、これはあくまでもわたしの印象です。
 議論のたたき台にでもなってくれれば嬉しいです。

 イラストとの関係といえばハヤカワ文庫も面白いですね。
「たったひとつの冴えたやりかた」「星の海のミッキー」は積極的にイラストを使っていますが、「夏への扉」「ファウンデーション」はイラストなんてまるっきりない。
 これは読者層を想定してのことなのか、作品の方向性と兼ね合っているのか……。
 例えば電撃だったらどれだけ重いファンタジーにもSFにもイラストを付けてきますよね。
 ちょっと興味深いところです。

53 名前 : 新木 伸 投稿日 : 2004年06月21日(月) 02時23分18秒
 ご無沙汰しておりました。
 前回の書きこみより二週間ほど経ちます。話の途中でばっくれてしまって、すいません。自分的に休息の必要を感じましたので、しばらくネット断ちしておりました。
 ようやく、こことかそことか、ログを読み終わったところです。往復書簡は膨大なのでざっと通し読みのみ。

 しかし掲示板の書きこみというのは、ライブ的というか、リアルタイムに読み書きして、参加してないとだめですね。二週間分のログを読んでいて、書きたいことがあっても、話題がすでに終わっていたりするという。
 まさに消費されてゆくという言葉がふさわしい体験かなぁと。
 私、昔はTRPGにハマっていたりしたのですけど。TRPGに注ぎ込む大量の時間を小説修行に振り向けたのは、顔を付き合わせたプレイヤーとの9時間に及ぶ濃密な蜜月たる「今」の時間を過ごすより、読者が手に取って読み始めたときが「今」となる小説で、どこかにいる大勢の読者と「作品を楽しむ」という時間を共有したかったからでした。
 6人の顔の見えるプレイヤーより、数万人の顔の見えない不特定多数のほうを選択したということですね。手ずからラーメンを作って提供する飲食店の主人となるよりも、保存の利いていつでも手軽に食べられるインスタントラーメンを大量に作って、大量の食をまかなう職のほうを選択したというべきか。


 ちなみに大筋に関しては、Merlin C.さんにうまくまとめていただいたように(感謝です)、スタンスの違いから来る平行線ではあるが、平行していること自体は悪いことではない。多様性を保つためにも、どちらのスタンスの作家も存在していなければならないということで同意です。
 わかりやすく、軽く、とっつきやすく、その場の楽しさを提供するものを書く作家が、小説初心者の読者を誘致してきて「どうも小説っていうのは楽しいもののようだぞ」と、まず感じてもらう。
 そうして本を読むようになった読者は、より深い味わいのあるものを書く作家が引き受けて、噛みこたえのあるものを鑑賞するようになり、さらには一般文芸まで引っぱってゆくのもよいのでしょうし……。僕はライトノベルの中しか知りませんし、ライトノベルがいちばん面白いと信じて疑わないわけですけど、垣根の外に豊潤な世界があるのでしたら、誰かがその場所へ読者を連れていかれるのもよいかと思います。

(久美さんなどは、ライトノベル的なものに触れると本当にライトノベルしか読まなくなる、というあたりを懸念しているのだということは、わかりますけど……。僕は杞憂だと思う)

 いわばローエンドとハイエンドの棲み分けとでもいいましょうか。
 「パソコン道」も、道具として使うならメーカー製パソコンを買って使うだけですけど、深く楽しむならパーツ交換やら自作やら、なんならICを半田付けして楽しむ道やら、いろいろ選択肢があるわけですし。
 メーカー製パソコンを買った初心者ユーザーが、そのうち、パソコンが趣味になってきて拡張や自作を始めてみたりすることはあるわけですし。
 同様に、小説のほうでも、ジャンルの壁を越境してゆくユーザーはいると考えています。
 またもし越境してゆく人がいなかったのだとしたら、それは、その垣根の先にあるジャンルがつまらなかったというとこでしょう。つまらないものを無理強いするのは、よいことではありますまい。

 僕自身は、物語や小説に触れる初級者〜中級者あたりに向けて書きたいと思っています。軽くて楽しくて、「小説っておもしろいんだ」と思ってもらうという新規読者誘致の役割を果たしているつもりです。
 ただ「やりたいもの」と「できること」と「やっていること」との食い違いの定理によって、憧れていることと、実際にやっていることとの乖離はあるかもしれませんが。――ていうか、実際、かなりの程度で乖離しているでしょうけど。

 インディアンの言葉の、七代先の子孫のことを考えて――については、同意です。
 ただ七代先のために、いま自分がなすべきことはなにか――ということが、過ごしてきた環境と価値観とによって違ってくるだけかと。
 僕としては、とにかく――軽くて、わかりやすくて、読みやすくて、面白いものを提供してゆくことで、小説を読み慣れていない人を小説に誘致して間口を広げてゆくことこそが、七代先の利益になると思っているわけです。



 ……と、前置きはこのくらいにして。

 とりあえず残してしまっている話題を、列挙していってみます。
 ただ時間も空いてしまっておりますし、来無さんも久美さんも、ご面倒でしたら、このままレスを付けずに流してしまってください。(ぶっちゃけ、スルーして無視しちゃっていただいてかまいませんので)
 そのときには、やらないほうがいいものと、こちらで判断させていだきます。(どうも空気読むのが苦手なものでして)


 来無さんとは、デッサン狂いものを世に出して良いのかという件。欠陥を抱えたものを出荷することの是非の話。
 デッサン狂いを(過大に)重視するのは、来無さん個人の私的な価値観とこだわりに過ぎないのではないか。それは一般的といえるのだろうか。市場がデッサン狂いを問題にしていない以上、それは大勢にとっての価値基準ではないのでは?
 ――てな観点における話が残っていたと思いました。


 久美さんには、まず小説は命があるものなのかどうかの件についてのレス。
 同じ人の創りしものではあっても、コンピュータはただの道具であり、小説は単なる道具にはあらざる物――。
 これについては、被創造物に対する不当な差別なのではないかという観点から、ひとこと物申したいと思っていたりするのですが。
 小説に深い愛を感じて、ただの創造物と思わない人がいるように、コンピュータに同じように深い愛を感じる人もいるはずです。

 ほかにも久美さんには、人間の持つ「知性」と「本能」に対して差別があるようにも思いました。
 ここでいう差別というのは、差異はあるが本来優劣はないものに対して、片方が上で片方が下とか、高尚とか低俗とか、価値が高いとか低いとか、片方を不当に軽んずることです。
 ほかにもインテリジェンスに基づくものは高尚な精神活動であり、色恋であるとか、そうした本能的情動はくだらないものであるとか。これらはどちらも人間の脳から発生している情動であって、差異はあるけども優劣の付いているものではなく、上も下もないものでないかと思うわけです。
 あと「教養」というものに対する差別なんかも……。
 格言を知っていることが教養であるなら、ライトノベル的「お約束」を知っていることもまた教養ではないかと思うわけです。格言や「古い言葉遣い」や「難しい言葉」を知っていることは良い教養であり、ライトノベル的お約束を知り得ているのは無価値な教養であるとか。
 「大タコに教えられ」で笑いが発生するのも、「あんたバカァ?」で表情が伝わって萌えエナジーが発生するのも、現象としては似たようなものだと思うのです。なぜ片方の「お約束の共有」が差別されて軽んじられなければならないのか、わかりません。

 このあたりの差別に関する話。他にも挙げるなら芸術家と職人とで、職人が差別されているとかいうのもありますが。
 どれも結局のところは、「ライトノベル差別」に結びついてくるわけで……。
 ライトノベルは浅いからダメ、消えてゆくのが早いからダメ、職人が作っていて愛がないからダメ、教養を不要としているからダメ。二転三転してゆく久美さんの主張は、つまりすべて、「ライトノベルはダメ」というところに集約されるのだと思いました。
 ようするに僕には、久美さんが、ライトノベルというジャンルを「新しいものだから」という理由で差別しているように見えてしまっていたのです。(と過去形で書いておきます)

 差別していることを非難しようというつもりではなく、偏見によって差別しているのだということを認めてもらいたかったのですけど。
 当初、ライトノベルはファーストフードだからいかん、という話に異を唱えつづけていたのも、そのためだったのですけど。

(このへん、百聞は一見にしかずということで……。イリヤを読まれて「あれは傑作」と久美さんは思われたようですし。ライトノベル差別をする理由は、久美さんの中から消えましたでしょうか? イリヤみたいな本が、実際、ごろごろしています。ライトノベルには)
(ちなみにイリヤが傑作であると思われたなら、秋山さんの他の作品もすべて同じレベルで傑作です。秋山さんはいつも同じ仕事をやりますので)


 あと、話題としては、もうひとつ――あれですね。
 味わうほうにもそれなりの敬意を期待したい、という話。
 「カネ払ってんだから、どう食おうと勝手だろ?」と食べかけのドンブリにタバコの吸殻を突っこんだりしても、耐えなきゃならんのか。――とか。

 TRPGで叩き上げてきた人間としては、スタート地点の環境がまさにそういうもの(もしくはもっと悪かった)でしたので、これに関しての個人的な答えは、「然り」、てなことになってしまいます。

 TRPGに関しては、時海結以さんと、くぼひできさんの往復書簡とに詳しく説明されていましたから、説明を省きます。

 TRPGにおいては、GMの語る話がツマラナイと、プレイヤーはダイスを積み上げて(あるいは回して)遊びますし、キャラクターシートの裏にお絵描きを始めますし、席を立ってうろつき始めますし、とどめには「寝ます」し――。
 カネも払っていないのに、なんともまあ、勝手放題をやらかすのがプレイヤーの「普通」なわけです。
 プレイヤーの居住まいを正させ、こちらを向かせ、テーブルに身を乗り出させ、目を輝かせて自分の語る「話」に引き込むのは、GMの才覚というものでした。
 それを行えないGMは、ただ単にゲームが崩壊してしまうだけです。これはプレイヤーの責任でもありますが、責任分担でいったらGMのほうが遥かに大きいでしょう。楽しむためにやってきているプレイヤーを楽しませることができなかったわけですから。
 GMとして「あいつはツマラン」とレッテルが貼られると、次の機会にGMが出来なくなってきます。「語り部」から引きずり下ろされてしまうわけですね。

 すべてのプレイヤーがお行儀良く座っていて、知的好奇心に満ちあふれた眼差しでこちらの一語一句に神経を集中してくれているという理想的な状態が、こちらの努力や創意工夫なしに、はじめから用意されているという環境には、一度として身を置けた覚えはありません。
 これは小説に移っても同じでした。
 基本的に、「ノーサンキュー」と明確に拒絶している相手に「物語」を押し売りするような環境に身を置いていましたし、そういう仕事ばかりをしてきていますし。
 プロ作家としての初めての仕事が、ゲーム雑誌の片隅の、ハガキ応募型読者参加ゲームの世界観作りの「オマケ小説パート」でしたし。(そもそも小説なんて読まないゲーム目当ての読者に、無理矢理に小説を読ませて、さらに楽しませもするという、非常にシンドイ仕事)

 ですから、僕の個人的体験を通して考えると、久美さんの言われるような、読者が節義と敬意を踏まえ、作者の期待する通りの態度で小説を読んでくれるという状況は、およそリアルに思えないわけです。失礼な言いかたを許してもらえれば、「どこの天国の話だよ?」とかいうことになります。
 このあたりは個々人のスタートラインや、体験やら、育ってきた環境やらが違うので、価値観が違っていても、仕方のないところかと思うのですが……。どっちが良い悪いという問題でもないように思うのですが。

 ……と、いうことで。

>>>負担が軽いことは楽しい。
>>を肯定すると、上のような「ささやかな(?)希望」はみんなみんな、こっちのワガママであって、かなえられなくてもガマンしなきゃならないこと、みたいに言われているような気がするんですね。

 個人的なホンネとしては、それはワガママに聞こえますし、ガマンするか、さもなければ読者の居住まいを正させるような出来の作品を書いてぶつければ良いのでは、と思います。
 ただ僕も自分で書いてきて思いましたけど、かなり偏った経歴を通ってきているようなので、僕自身の思うことは、とても一般論であるとは言い難いです。偏ったものの見方――つまり「偏見」でしょう。これもきっと。

 「そんなのワガママ」と言ってしまうスタンスも、「そのくらいは妥当な希望」と言うスタンスも、どちらも共存していて、いいんじゃないでしょうか。
 それが多様性ってもので。
 もし世の中がどちらかだけに染まってしまったら、そっちのほうが、むしろ怖いです。


 あと、これはちょっと確認というか、久美さんにお訊きしたいところなのですが……。(やや信じがたいことなので)
 たとえば文庫本とかって、電車の中で読んだりしますよね。
 ず〜っと立っているのは暇だし、楽しくないから、その時間になんか読むことにしよう。漫画本だとすぐ読み終わっちゃうから、小説なら登下校のときに読んでも一冊で一週間は保つし――。(読書に慣れていない初心者読者は、薄めのライトノベル一冊を5時間くらいかけて読むようです)
 あまり落ち着けない場所と状況で、低血圧のアタマでぼんやりしつつ、30分だけ読んで、降りる駅が来たから、途中でもしおりをはさんで読むのをやめる。特に集中して読むわけでも、とくに楽しみにしているわけでもない。作家名も作品名も、ロクに覚えていない。書店の店頭で、なんとなく手に取って、なんとなく面白そうと思った本を、暇つぶしのために選んできただけ。
 自分の作品がそういう読まれかたをされるのは、久美さんにとっては不本意ということになるのでしょうか?
 いままでのやりとりからすると、やはり、そうなるのかなぁ。(と予測しましたが)

 僕などは、こういう状況でも全然OKでして。「おお。なんと30分も彼を暇潰しさせることができた」と喜んでしまうくちですが。
 前に書いたとおり、語り部体験のスタート地点がおよそ低いところにありますので、「暇潰しさせることができた」ということだけでも、物語の語り部として、かなりの幸せであるわけです。
 なんと30分も、読者の注意をこちらに向けることが出来たのですから。
 他に何を望みましょう。





>Merlin C.さん

>>関係ないですけど、半田ごてでパソコンを作ってみたかった!

 じつは「CPUの創りかた」という、そのものズバリの本が出ていたりしまして。
 10個ほどのICで作れるシンプルなマイコンの論理回路の製作までの実習本です。
 僕も見かけたときに、思わず買ってしまいそうになりましたが……。
 よくよく考えてみたら、どっちかというと自分はこの手の本を書く側だということに気づいて踏みとどまりましたが。どうせ趣味でやろうってんなら、本は買わずに、自分でゼロから設計しなくてはなりますまい。

 「CPUの創りかた」 〜 IC10個のお手軽CPU設計超入門 初歩のデジタル回路動作の基本原理と製作」
 http://www.esbooks.co.jp/books/detail?accd=31189330

 どういうわけか、表紙と挿絵は「萌え系」なのですが(笑)。
 そこはご愛敬ってことで。

 あと音楽や小説と比べて、パソコンは進化しているし、その進化も目に見えるという話ですけど。やや怪しいかと思います。
 コマンドラインからGUIに移りかわったことも、やはり「変化」であって「進化」ではないと思います。やはり相転移したとしか言いようがないのではないかと。
 音楽なども、たとえば「七音階」というものができた時点がありますけど。それ以前の音楽から、それ以降の近代音楽とは隔絶しているわけですが、これを進化と言ってよいものかどうか。
 ということで、小説もパソコンも音楽も、みな同列に「変化」であって、相転移と括ってしまってよいのではないかと思うのですけど。
 「進化」という言葉は非常に曖昧なものなので、NGワードとしておいたほうが無難だと思うのですけど。どうでしょうか。

(余談ですが。拙作のスペオペ世界の中で、400年後の玄人の使うコンピュータは、コマンドライン・インターフェースに先祖返りしているという小ネタを放りこんであったり。何度か相転移を繰り返してきたら、また戻ってしまった、みたいな)

54 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月21日(月) 13時00分53秒
荒木さま、おあえりなさいですー。どもですー。

知性と本能その他。サベツといわれればその通りかもしれません。

本能は、ふつう個体の幸福や安寧や快感を、非常時には生存を、なにより優先する。ところが個体は有限であまりにも短命です。わたしはチッポケで非力な自分がイヤでイヤで、より大きなもの永遠なもの意味のあるものに殉じたいんですよ。だから、本能を二の次にしてでも、なるべく知性を尊重したいと感じてしまいます。

そりゃー痛いのはツライし、寒いのと空腹なのと貧乏なのが三位一体になるとほんとうにトホホでイヤだし、生物としての自分を守りたい気持ちだって皆無ではない。時々は温泉いってウマイもの食って、マッサージでもしてもらって、「あーゴクラクゴクラク」といいたい。
でも、それは、また「何か」をするために、いったん自分を解放して甘やかしてみているのであって、たまたま「アタリ」だったからラッキー♪ と感じるのであって、一生そのままその温泉でずっとゴクラクしていたいかというと……そういうひともいるかもしれないけど……すみません、わたしは勘弁です。そんなの退屈だ。他にもっとスゴイとこあるかもしれない。そっちにいってみたい。どこかにないか探してみたい。わざわざ行ってみたのにハズレで不愉快な思いをしたしてもいい。しょうがない。また懲りずに別なものを探しにいってみてみたい。だって一生はこの一回っきりなんだし。

ラクで便利で簡単ですでに知っていて身に馴染んだものを「意味低く」感じてしまうのは、きっと、これこのように、あくまで欲張りだからだと思います。まだ知らないスゴイものがどっかにあるんじゃないかって思うと、ここにじっとしていたくないんですよ。いくらここが居心地がよくても。
山登りは苦しいからキライですが、たまにがんばって登ってみると、スゴイ景色がこの目で見えたりする。テレビでカンチェン・ジェンガのてっぺんまで連れてってもらったほどの「ほんとにすごい」景色ではないかもしれないけど、でも、自分でそこにたって、自分でそれ見たら、そこらの山のそこらの日の出とかでも十分「うわあ」だったりしますから。スゴイ風とか、空気のニオイとか、この身で感じられて、そりゃやっぱり嬉しい。せっかく登ったのに天気が悪くて途中までしかいけなくて、大雨で濡れて寒くて「ちくしょう、さんざんだ!」だとしても、それもそれで楽しいと思う。こなきゃできない経験なのだから。

「ライトノベル」全部を否定するつもりもありませんし、読み捨てされるもの、ヒマつぶしのための娯楽を全否定するつもりもありません。

ただ、あのう「小説に触れる初級者〜中級者あたりに向けて」お書きになるのなら、ことに初級者の場合ですが、意識的に読み捨てオッケイ・ヒマつぶしレベルのものにしちゃったら、ちょっとまずくないです? 赤ちゃんには、まず母乳の初乳を飲ませるべきでしょう。

いまどきのコドモさんたちは「戦場」である日常生活にへとへとに疲れていて慰めを必要としているようですが、それでもまだ成長期であり、「読むもの」の選び方如何では、たんなる暇ツブシ以上の魂の糧となるものが得られる可能性も高いし、読書は、読解力とか、語彙を増やすとか、それまで知らなかった情報や知見を得るとか、種々の方面で「コミニュケーション」能力をたかめる訓練になるものなのだから、まずそういう「ちゃんと栄養のあるの」をいちおうあるていどの数ぐらいは読んで欲しい。それに飽きたら、疲れたら、それから「楽しみにために」読み捨てのものでも、暇ツブシなものでも、どんどん楽しめばいいと思うんですけど。

だから、いまふうのイラストがついているとか、レーベルが若向けだとか、名前を聞いたことのあるゲームのノベライズだとか、そういう意味で「手にとりやすいもの」→とりあえず「ライトノベル」と総称されているものの中にこそ、こそです! 実は読み捨てにできないもの、暇つぶしのつもりだったのに思わず入り込んでうっかり電車を乗り過ごしてしまうようなもの、ちょっと読んで眠くなったら寝るはずだったのに朝までかかって読みきってしまって、ボーッとなって、学校いく時間にまだ朦朧としてしまっているよをもの(そういった意味ではある種「危険な」、読書という体験に酔ってそのひとが読む前とアトとでなんらかの変化を自分に蒙らずにいられないような)ものが、あって欲しい、とわたしはセツジツに思いますし、
そういうものを「小難しい」「シキイが高い」「暇つぶしにならないからダメ」とコドモたちに拒んでほしくないし、
「こんなのどうせあんまり売れないからなぁ」と版元さまがたに、あんまり冷たくしてほしくないのです。

ちなみに、このパソコンは道具ですが、エリカちゃんと名前をつけて呼んでいます。この名前でピンときたあなたは岡本賢一さまのファンに違いない(笑)。あのエリカちゃんぐらい賢くて使えるコだったらいいのになと思いつつ、まだ使えるものを不便になったからといって頻繁に買い替えたりしたくないので、マザボをとりかえたりCPUをとりかえたりしてその時々の必要に対応させつつ、なるべく長いこと一緒に戦ってくれと願っています。
わたしはモノにもコトダマにもなんにでもともするとイノチとか「やおよろずのかみさま」とか思い出とかを見てしまいがちで、だから、ウチじゅう使わなくなったモノだらけになってもさっぱり片付けられないほうなんですよー。

55 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月21日(月) 13時01分30秒
キャーごめんなさいあらきさまの名前の漢字をまちがえました。

56 名前 : 新木 伸 投稿日 : 2004年06月21日(月) 18時33分17秒
 どもです。久美さん。
 名前間違いの件、じつはけっこう間違われ慣れているので平気です。でもどうせなら「荒気」というように間違えてもらえると、気に入っていたりするので、ちょっと嬉しかったりするかもー。


 知的好奇心というか、新しいものを探しに行こうとする心の働きは、もしかすると、本能の領分であるかもしれません。新奇探索傾向という心理的特性は、ある特定の遺伝子と強い関連性があるという研究もあがっていますし。
 犬だったか猫だったか、「おとなししい/活発いたずらっ子」の性格の違いは毛色か毛の長さと関連していたりするそうですが、それもこの遺伝子が毛の属性を決定する染色体上にあるからだそうでして。

 また愛情なども、これまた本能の領分ですよね。
 親が子を、または人が人を愛するのは、知性の働きによるものではなくて、元からもっている本能によって発生する情動ですよね。
 僕は知的なことと同等に、本能による情動も高尚なものに感じます。


 小説初心者に読ませるものが、まずミルクであるべきということには賛成なのです。
 ただ久美さんの言われる「栄養たっぷり」という点よりも、飲みやすい液体食であることのほうに、僕としては重点を置いているわけですが。
 栄養があるに越したことはないけど、まず流動食でなければ受け付けられずに吐き出してしまうだろう。それでは意味がない。
 よって食べやすいこと優先であり、軽く、負担の少ないことが優先となるわけです。

 僕の言う小説初心者というのは、中学生〜高校生あたりを想定しています。いまだと大学生あたりも入るのかな。漫画やアニメやゲームには日常的に触れてきているけど、小説はあまり読んだことがない。いまちょっと背伸びして、小説というものを読もうとしてみた。――そんなあたりですね。
 このあたりの方々を子供というのは、やや抵抗があります。ヤングアダルトという言葉は、僕はなにか語感が好きじゃないのですけど、まあつまり、子供でもなく大人でもない中間層ということで。
 完全な子供に向けて書かれるものは児童文学というジャンルがあるのですから、そちらの方々にお任せしようと思っています。

 あとこのへんはデータの裏付けがないので、思い入れになってしまいますが。
 児童文学をすっ飛ばして、いきなりライトノベルに立ち寄ってくる読者が多い気がしています。

 で、「楽しい(だけの)もの」と「身になるもの」と、二つのタイプの小説があったとします。実際には比率の問題で、どんな小説でも両方の要素を兼ね備えているはずですが、ここでは話を単純にするために、きっぱり二つのタイプに分かれているものだとします。

 僕の言っているのは、まず「口あたりの良く簡単でわかりやすい楽しさを持つもの」を備える作品から入って、そのうちに「難解な楽しさを持ち、身になるもの」に移行してゆく流れが自然であろうということです。
 まずライトなものから入り、そして読書経験を積むうちに、重厚なものも面白いと感じるようになってゆくという流れですね。

 久美さんの言われる流れだと、まず重厚なものから入って、それで疲れたら軽いものをたしなんでもいいんじゃない――というように聞こえるのですけど。
 これでは最初のところで拒絶反応が出てしまわないでしょうか?

 重厚なものを味わって、面白い、楽しいと感じるようになるためには、訓練が必要だと思うのです。
 その訓練はいったいどこで積めばいいのでしょうか?
 その読書訓練の役割を、ライトで取っつきやすいものが担うべきということです。

 まず簡単な面白さを持つライトなものをたくさん読んでもらい、「読書」ということに慣れてもらったうえで、難しい面白さを持つ作品に触れたなら、拒絶反応が出て拒まれることもないのではないでしょうか。
 ふつう、階段は一段ずつしか上れないものだと思うのです。二段飛ばしておいでというのは、それは無茶なのでは?
 われわれ創作者は、こと「読書」に向いた資質を持っているものですから、二段、三段、あるいは四段ぐらい飛ばして「読書」という階段を上ってきているかもしれません。たとえば小学生で太宰治を読んでみたり、とか。中学生でハードSFを読んでみたり。
 しかし世の中の多数を占める「普通」の読者は、一段ずつしか上れないものである。そう想定しておくべきだと思うのですが。

 これははせがわみやびさんのところに届いたファンレターの話なのですが。
 小学生だか中学生だかの子が、学校の読書課題で、毎日10分ずつ、3ヶ月掛けて完読したと報告の手紙を送ってきてくれたそうです。計算すると、一冊読むのに10時間ほど掛けている計算ですね。
(小学校だと絵付き小説は読書課題に選べないところが多いそうですから、中学生の話かな?)

 こうした子の場合には――。
 本は一気呵成に一日で読みきる。読み始めたら、終わりまで一気に読む。そういう「熟練読者」のところまで到達するまでに、いったい何段のステップが必要になるのでしょうか。

 もしも久美さんが、初心者にもはじめから重厚なものを与えるのが好ましいとお考えなのでしたら、訓練はそもそも不要であるか、訓練は他のどこかで積めるから平気ということになるかと思うのですが。





>エリカちゃん

>>まだ使えるものを不便になったからといって頻繁に買い替えたりしたくないので、マザボをとりかえたりCPUをとりかえたりしてその時々の必要に対応させつつ、なるべく長いこと一緒に戦ってくれと願っています。

 むむ。マザーボードやCPU交換、ご自分でされているのですか。だとしたらスゴイことかも。それができる女性は僕はただの一人しか知りません。(とか、そういうのは女性差別なのでしょうね)

57 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月22日(火) 11時02分43秒
すみません、いわゆるユーザー登録とかだと「自作機」って書くしかないんですけど、実際は亭主にやってもらってますう……! 亭主の父はこれを「愚息機」と呼んでますが。単に交換するだけなら、どーせパチンパチンってはめこむだけなんですから、別にやってできないことはないと思うんですけど、まず「どう選ぶか」考えるとか選択するとかのために新しい情報を常に探しておくなんつーことはめんどくさくてわたしにはできません。はたまた、なんかちょっと気軽にとっかえた結果、既にいれてあるいろんなソフトがちゃんと動かなくなったりとかすると「もうイヤー!」ってなりますからねぇ。テクノストレスは婆の身体と脳みそをコテンパンにたたきのめして、数日つかいものにしなくしちゃったりします。

重厚問題なんですが、

えーと……うーんと……なにも古色蒼然たる古典の名作から入れとかって思ってるわけじゃなくて……単に「ふつう」の単純な……アッそうか。シンプルを極めるようとすると、実はとってもタイヘンでしょう。単純なものほど「研ぎ澄ましたもの」にせざるをえない。美味しんぼのトウフみたいに。
できれば、初心者は、なるべくシンプルなものから入るといい。
そして、シンプルなものっていうのは、ともすると、古典的なものになっちゃう。実際には新しくできたものでも、イマ風であるよりはむしろ、古風だったりする。

シンプルからはいる……は、新しいことにチャレンジしてみようと思ったら、なんの分野でもたいがいそうなもんじゃないですかね。

スポーツでも、ピアノとかギターとか、習字でもソロバンでも(ふるい)なんかはじめる時には、単純でシンプルな美しさをもっているとこから入ることが多いんじゃないかなぁ。
素振りとか、ドレミファソ、ソファミレド、の指づかいとか。漢字の「一」をかくとか。
まず、そうやって、スコブル単純なのを「きちんと」よどみなく、自分らしく、できるようになってから、次にすすむようにしておかないと、へんなフォームを身につけちゃって、アトでかえって苦労することになったりする。

わたし、英語の絵本の翻訳をちょびっとやっているんですけど、正直いって、メッチャ難しいです。
英語の内容をきちんと反映して、短いコトバで、日本語としてきれいなカタチにビシッと決めて、コドモさんも、読み聞かせをするオトナにも、どちらにとっても気持ちよくわかりやすく、できれば、原作者のもっている独特のリズムとかコトバ使いの特徴のいったんをそれなりにはニジマセて伝えたい……とかって思うと、たかが「一行」の翻訳に「ウーンウーン」ってなるんですよ。
自分ではスナオに「これしかないだろう」と思って提出した訳が、編集さんに「違う」といわれることも多々。訳語の是非をめぐって、電話で相談することも多々。意訳でいくか、説明の文章を足すか、思い切ってなかったことにするか……いろいろの手を駆使し、いろんな可能性を検討してみます。
おかげで、一冊の絵本を訳しおえるのに、何ヶ月もかかる。毎度、四回も五回もいろんなひとのチェックとナオシがはいります。そうして、この間に、文章のへんなヒネリとかクセとかは、どんどん消えていくんですね。
まぁ絵本には絵がついてますから、絵を見てわかれ! って逃げちゃえる部分もあり、なにしろ文章も短くて構文も単純で、だからわたしのような翻訳専業じゃない人間にもなんとかどうにか勤まるわけですが(いまんとこクビになってない。その原作者さまのその版元での「ほんやく」はいちおー、わたしにやらせようってことになんとなくなっているらしい)。

あくまで原作の持ち味がドイナカ風「ほのぼの」であり、版元も「きちんと」っぽいほうがお好きだからなのかもしれませんが、
この絵本の翻訳の場合、たとえば、いまさっきかいた「いちおー」とか、「マジ?」「ヤベェだろ」といった雰囲気のコトバは、そのほうがリズムがよくなるなと思っても、最初から使いません。無意識だとわたしはついそーゆーのを出しちゃうんですが……絵本には使わないです。

ただし、いちおー(笑)いまどきの翻訳なわけですから、「おおぜいのひとが海や山や野原にでかけます」などと、あまりに無味乾燥の教科書調にしてしまうのもクヤシイ(笑)。で、わざと「みんなで海とか山とか野原にまでいったりして楽しむんだ」程度に展開することはあり、「たりして → ちょっとくだけすぎ?」なんて赤字を返されたりします。その手のスリアワセをさんざんやって、お互いに「これならまぁいいだろう」までたどりつく。

小説初心者のかたに読んでいただく可能性が高そうな「小説」にも……なにもここまでウザいチェックと校正をやる必要まではないと思いますけど、いちおー(笑)気はつかったほうがいいんじゃないかなと思うんですね。少なくとも、オトナ向け、あるいは、小説読むのがすでに日ごろの習慣になっているひと、単なるヒマツブシのひとつになっているひと、……畢竟、その「小説」がその読者に与える影響はあくまでも「ものすごく多数の中のたったひとつ」にすぎないものになりがちなものを書く場合いじょうに、……こまかく神経を使って、ほんとうにこれがベストなのかどうか、これ以上なおすところはないのかどうか、もっと美しい楽しいわかりやすい書き方はないのかどうか、きちんと自己検証をしながら書いたほうがいいんじゃないかなと。

その結果としてできるものは……イキオイまかせの書き飛ばし気味で速成したものよりは、どこかが「重厚」になってしまうかもしれないし、もしかすると毒や刺激や迫力に欠ける、比較的「穏当」で「なまぬるい」ものにはなってしまうかもしれしないけれど。

……といっても……
「習い事」としてなんかやるのと、単なる楽しみでやることはチガう。小説なんつーのはしょせん楽しみのために読むんだから、別に好きなのを好きなよーに読みゃいいだろ、なんですが……。

すみませんまた自分の話になります。わたしピアノ3歳から小学五年生まで習ってましたが大キライで。親の引越の都合でしょっちゅうセンセイがかわると、そのたびにバイエルの最初まで戻されるのがイヤでイヤで。まるでパーティー全滅してSAVEしてなかったみたいというか。もうそんなんやりたない! って思うんだけど、ちっちゃい頃なんかさからえませんからねぇ。ピアノのセンセイっつーのはたいがい、ちょっと神経質なとこのあるタイプの若い女性で、さからったりするとキレそうだし(笑)。
で、ピアノのおけいこをしろといわれるとたちまちおなかがピーになって逃げ出してました。そんなだから、ぜんぜん上手にならなくて、同じ年のほかのコたちよりどんどん遅れて、余計にイヤになってました。
ところがです。
オトナになって、なんかある日突然、サティのジムノペティーが弾きたくなって(ミーハー)さっそく楽譜かってきて、電子ピアノ(マンションでも外に音が漏れないように)の安いのを買ってきてポンポコ叩いてみたんです。すると、すぐに限界がきちゃったんですね。だって指がマンゾクに動かへん(笑)。弾きたくて、弾けたら楽しいやろと思っただけで、別に、誰かにきかそーとか、なんかイベントで弾かなきゃならないとか、そーゆー「理由」はなかった。だから、楽しくなかったら弾きたくないんですよ。でも、指が動かないんですよ。はがゆいくらい。で、マサカと思いつつ、幼い頃さんざん苦しんだあのニックキ練習曲のたぐいの楽譜を買ってきて、ど基礎のど基本からいっこいっこ階段を登るようにしてやりなおしてみた。すると、さすがにカンタンに弾ける。どんなバカみたいなつまんない曲でも、ちゃんと弾けると嬉しい。で、練習曲10コぐらいいちおーまずまず弾けるようになると、それまで通してなんかぜったいに弾けなかったジムノペティーの一番がなぜか「するっ」と弾けるようになってたんです! 
ジムノペティーには何番もあるし、サティの楽譜集の中にはジュ・トゥ・ヴとかもあったので、そっちも、どーせなら、弾けるようになりたいじゃないですか。すると……もうちょっとウデをあげないとイカンなとわかる。練習曲集の別のを買ってきて、順番にだんだん高度にしながら、マジメにそっちを練習してから「弾きたいの」に時々挑戦してみるのが「いちばんてっとり早い」ってことがだんだんわかってきたんですね。
でもってあんなにキライだったバッハインベンションとかも「またやってみようかな」になってきちゃったりする。無理やり弾かされて、なんてつまんないんだろうこんなのキライだと思っていたバッハの曲が「すごいじゃん、奥が深いじゃん」に見えてきたりする。考えてみれば、そもそも、ピアノ用の楽譜がいちおー読めるのは、イヤだイヤだといいながら無理やり習わされたからだし。

あと……教養主義でスカシたイヤなやつだと思われるかもなぁと思いつつ、言っちゃうんですが、「きちんとしたほう」をまずがんばって覚えてから崩したほうにいくのは簡単ですが、いったん「自己流」を身につけてからそれを払拭するのってタイヘンでしょう?お習字は楷書からはじめるし。
スキーとか、わたしは雪国の地ガキだったことがあるので、じいちゃんやにいちゃんのおフル(とうぜんとっても古い。だから壊してもいい)をもらって勇気イッパツ、崖を直滑降はデキたんです。でも、きれいなターンとかなかなかできるようにならなかった。こわくなったら山側に逃げて、あるいはわざと転んでとまって、なんならお尻ついて方向転換してまたズドーンと直滑降するから、スキー場にある程度の斜面ならそれなりに降りることは降りられるんだけど。中学とかからはじめて習うコって、ちゃんとコーチについて、山アシがどーの谷アシがどーのって理屈を教わって、こういうフォームが正しい、っていうのをまず身につけるとこからやったりするから、とってもきれい(笑)。そして順当にワザをあげていける。ついでにウエアも板とかも新しくてきれい。だから、ムチャして傷つけないようにていねいに滑るので、余計にきちんとしたフォームになる。ちくしょう、いいなぁ、と思ってましたです。 


58 名前 : 三田 誠 投稿日 : 2004年06月22日(火) 11時14分58秒
こんにちは。三田です。
横レスで失礼なのですが、

>「きちんとしたほう」をまずがんばって覚えてから崩したほうにいくのは簡単ですが、いったん「自己流」を身につけてからそれを払拭するのってタイヘンでしょう?お習字は楷書からはじめるし。

 それは、普通に「国語の授業」でやるかと思うのですが。
 小学校から高校までどの道「きちんとした小説」は読まされますし。

 ちなみに、中学・高校あたりの受験勉強では「きちんとした小説」よりも「少しくずした小説」を読みきらせた方が効率がよいとされますね。
 さすがにライトノベルは使いませんが、星新一氏の短編などは現場ではよく使われています。

59 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月22日(火) 11時20分58秒
いろいろ書いてきて思ったんですけど、もしかすると、ライトノベルといわれるものに出あってはじめて「おはなし」あるいは「本」を、自分から(←これ大事)読んでみたいなと思ってくれたひとが「すくなからず居ちゃう」現実が、多数の問題をはらんでるんじゃないのかな。ライトノベルという文言でヒトククリにされているものが実はそうとうに多種多様なものである、ということと、互いにからみあってしまって。

もともと読者層を中高校生に想定するとしたら、そりゃ、セックスやバイオレンスなど、強い興味のあるもの、より刺激的なものが含まれるのはあたりまえ。それをヒマツブシとか、鬱憤晴らしの材料とか、もしかしたらオナニーのオカズにしていただくのも、「役に立つ」という意味で大切なこと。
でも、ちょっと背伸びする小学生なら、中高校生が読むものを読みたがってもあたりまえ。かくて、妙に刺激的なものを「読む」それも「最初に読んで」それでインプリンティングされて、すっかりそこにハマってもっぱらそういうのばかり読むようになってしまうというのは……すみません、オセッカイだと思いますけど、やっぱりなんか、コワイなぁ、と婆は思ってしまうでございます。
その前になにかなかったのか? と。

こうなると……それぞれのおこさんの親御さんの「読書体験」ぶりが気になりますですね。オウチに何かおもしろそうな本がじゅうぶんにたくさんあったら、たまたまポッカリとヒマもてあましたりとかしたら、なにげに手にとってみることもあるでしょうし。

マンガみたいなのばっかり読むな! と、いうのはカンタンですが、じゃあ、親が何かの本を真剣に読んでいて実際に感激している姿をコドモにみせたことがあるのだろうか。あるいは、ちっちゃい頃に、図書館とかにつれてって、こどもに読んでみたいと思う絵本あったらもってきな、読み聞かせしてやるぞ、なんてやったことがあるのか。「これ、ちょっとおもしろかったから(こどもの頃におかあさんがおとうさんが大好きだったから)、オマエも読んでみたら? あとで感想きかせてくれると嬉しいな」などといってくれたりしたことがあるのか。この本に出てくる事件、あるいは、誰だれの気持ち、ちょっと気になるんだけど、おまえどう思う? とか。
そんな親子関係ってキモチわるいですかねぇ。
テレビとかビデオとかゲームとかは、親子いっしょにけっこうみてたりやってたりしそうなんですけど。

60 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月22日(火) 11時23分46秒
三田さま。

>それは、普通に「国語の授業」でやるかと思うのですが。

授業にちゃんと身をいれて参加していれば、確かにそれで十分だと思います。ジヅラをおいかけるのと、「読む」のは違わないですか?

61 名前 : 三田 誠 投稿日 : 2004年06月22日(火) 11時38分59秒
 素早いレスありがとうございます。

>ジヅラをおいかけるのと、「読む」のは違わないですか?

 うーむ、違うのでしょうか?
 正直分かりません。
 これを「違うもの」ととらえてしまうと、「少々難しいものでも頑張って読む」のと「イヤイヤでもピアノを覚えた」のと「イヤイヤでも楷書で習字を覚える」のと「字面を追いかける」ことには違いがあると証明しなければいけなくなります。そんな証明は誰にもできないように思えます。
 
 単に楽に読みたいだけだったら、ライトノベルでさえなくて漫画にいくと思うのですよ。

>それでインプリンティングされて、すっかりそこにハマってもっぱらそういうのばかり読むようになってしまうというのは

 それこそ漫画が三十年以上前から言われつづけたことです。その影響力は、ライトノベルなんか比でもないでしょう。
 手塚治虫がPTAに叩かれまくったのは、もっと前になるでしょうか。
 なぜライトノベルをそんなに気にされるのか分からないのですよ。

 親子でドラゴンボールを読む一家もあれば、親子でロードス島戦記を読むかたもいます。
 親子で菊地秀行を読む方もいますし、我が家は幼稚園から子供に『コブラ』を読ませてました(笑)。
 ライトノベルがゲームやテレビに対して比較的大きな断絶を生むなんてことはないと思いますよ。

62 名前 : 小役人 投稿日 : 2004年06月23日(水) 12時56分03秒
横から入りますが。
なんだか「読書」ということに関してみなさんの間で断絶があるように思います。
その辺をはっきりさせられると、話がうまくつながる気がします。
私にとって本を読むのは純粋に楽しみのためと言うのが多いので
小説だと一番大事なのは物語それ自体です。それも伏線なんかはあんまり気にせずに
ただただ活字を追いながらストーリーを追うのが楽しいです。
いい本だと思えばゆっくり、本の髄までしゃぶるようにも読んだりしますが。
自分がこういう読み方をするのは、代償行為として本を読み出したからじゃないかと言う
気がします。田舎なのでアニメや映画も見れない。子供のころはゲームもあんまり買えない。
そんな中で本だけは文句を言われない家庭だったので
ただただ物語を追うような読み方をしてました。
家族が塾を経営していた関係で、短く切った有名小説の内容を何度も読むということをしていたのも
自分の読書体験には重要だったかもしれませんが。

久美さんは本の中の中まで読めるような読み方を身につけてほしいと、
そういう風に考えておられるように、私には見えます。

なんというか、考えてみるとライトノベルと純文学のちがいとは
「ライトな読み方」を受容される本であるか否かと言う気もします。
ライトノベルのレーベルの本が「ライトな読み方」をされるのは当然でしょうし
そのレーベルでなくても「ライトな読み方」をされる本はライトノベルと呼ばれるんでしょう。
そこに作者本人の意図は関係ないと思います。

ライトノベルがあるんじゃなくて、「ライトな本」を読む、読みたいという層がいるんじゃないかと。

63 名前 : 海法 投稿日 : 2004年06月23日(水) 17時05分48秒
>妙に刺激的なものを「読む」それも「最初に読んで」それでインプリンティング
>されて、すっかりそこにハマってもっぱらそういうのばかり読むようになってし
>まうというのは……すみません、オセッカイだと思いますけど、やっぱりなんか、
>コワイなぁ、と婆は思ってしまうでございます。

こんにちは。横から口を挟ませていただきます。

誤解かもしれませんが、その主張には、もしこの世にライトノベルがなかったら、子供達が生まれて初めて自分から読む本が、きちんとした(?)文学になる、という前提が潜んでいませんか?

中には、そういう人もいるかもしれません。ですが、もし、この世にライトノベル的なものがなかったら、大多数の人は、そもそも本を読まなくなるでしょう。

セックスやバイオレンスの刺激にはまることを心配しておられるようですが、そもそも、セックスやバイオレンスの供給源は、現代社会にあふれています。ゲームや漫画やアニメがあります。

どんな豊富な読書体験も、まずは読んでもらわなければ始まらないと思うし、そして、そのためには、ゲームや漫画やアニメをはじめとするあらゆるジャンルと戦って、時間をもぎとらなくちゃいけないわけです。

それに。

中高生向けのセックスやバイオレンスや刺激に特化したジャンルであっても、人気があって淘汰が行われる限りは、そしてそれが、本という文によって面白さを伝える媒体である以上は。最終的に、媒体の特徴を生かした、読書の楽しみが伝わる作品が生まれ、残るるのではないでしょうか。

セックスやバイオレンスに特化した伝奇小説の一時代を築いた菊池秀行や夢枕獏は、読書家を減らしたでしょうか? 「イリヤの空、UFOの夏」だって、中高生の好む刺激を満載していますし、それが求められる市場の中でこそ生まれた作品でもあると思うのですが。

そもそも、読書の喜びを本当にインプリンティングされたなら、その人は、ずっと本を読み続けるでしょう。読み続ける内には、単純な刺激は鈍磨しますから、より複雑な刺激を求めるようになる。
だから心配することはなにもない。
むしろ、セックスもバイオレンスも何でもつかって、とてつもない面白さを刷り込むべく頑張ろう……と思ってますけど、どうでしょう?

64 名前 : Merlin C. 投稿日 : 2004年06月23日(水) 22時34分56秒
 読んで、自分の考えをまとめるのにやたらと時間が掛かる……。

>新木さん
 どうもです。お帰りなさいまし。
>CPUの作り方
 本屋でちょっとだけ拝見しました。残念ながらまだ買ってません、というよりとてもじゃないけど現時点ではそこまで手が回りません(苦笑)
 わたしが小中学生の頃かな、父が使っていた「マイクロ・プロセッサ回路入門」だったかのモジュラセットをもらったのですが……当時のわたしには歯が立ちませんでした(涙)
 あれは4ビットCPUだったかな。
 プラモデルみたいに作ってみたいという意味では、MZ-80K辺りを復刻してもらいたいものです。……高そう。
 ……何でわたしは化学者なんだ? ふしぎだ。これが人生。
 ちなみにうちのパソ、初代はイリノイ、二代目(今の)はワシントンという名前です。米国製。戦艦ですか(自己つっこみ)。

>パソコンの進化
 あー、たしかに「進化」という言葉は主観によって「古いものを排除する」というニュアンスがあるような。
 変化、あるいは変容(この言葉は好き)にします。

>最初に読んで
 極めて卑近な例ですが、うちの弟を引き合いに出させていただきます。
 うちには、それこそ溢れんばかり、床が傾かんばかりの本で溢れていて、両親揃って本好き、母方の祖父の家の蔵は本で一杯、という家なのですが、わたしはかなり早い時期から本ばかり読んでいたのに対してうちの弟は体を動かすのが大好き! で本なんて全然読まなかったわけです。
 おもしろいよ、と薦めてみても「ふーん」と気のない返事ばかりだったのですが、そんな彼をしてハマらせたのが「スレイヤーズ」。マンガみたいなの。どっかんどっかん。次がゴクドーくんだったかも。でガンダムシリーズ。先日は「ハイウェイ惑星」が面白かったと。
 彼曰く、「食わず嫌いだった」とのこと。何をして彼を食わず嫌いにさせたかというのは想像するしかないのですが、わたしが好きだった、家に大量にあったような本が彼には合わなかっただけのことじゃないかと。つまり、合う本が手元になければ読書なんてするようにはならないと想像できます。
 一般の人に対して皆さんがどのような印象を抱かれているかは分かりませんが、本好きで片時も本を手放せない、という人は絶対的にマイナですよ。本を読むという人も少数派。マンガなら多数派になるでしょうけど。わたしの身の回りを考えてみても、わたし以外に暇つぶしに本読んでる人なんて一人いれば多い方でした。
 世間では「世界の中心で〜」だの「ハリポタ」だのがよく売れているとのことですが、それにしたって100万部単位。世帯数で言ったら10%行かないくらい? しかもそれすら「買ってみたけど読むの辛いから読まない」という人もいたはず。実読数だとどれくらいになるか。多分ヒトケタ%、これがテレビの視聴率換算。わたしは、その程度の市場だと認識しています。
 そんな中、何にハマろうと何を読もうとどのように読もうと、わたしとしては「読書層が増えた」と言うことで単純に喜ばしいことなんです。
 そして、誰かが何かにハマった、その時点でその何かはその人にとって名作ということになりませんか?
 で、読書体験にはマンガとは別の、何らかの快楽が伴うものだとわたしは思っているのですが……。

 今のジュヴナイル小説(敢えてこう書きます、juvenile:青少年、幼若)が暴力肯定的か? 性衝動的か? 誰かが書いていましたがわたしも全くそうは思いません。
 いわゆるライトノベルに入った頃わたしが出会ったのは「ルナ・ヴァルガー」シリーズ(スニーカ)、これよりえっちな男子向け小説を、少なくともメジャーなレーベルでは最近見たことがありません。知らないだけかもしれないけど。お色気たっぷりなのはいろいろありますけど、むしろ一般向け小説に比べて非常に抑制されていると感じます。成年向けなんて頭痛くなります。少女向けはよく解りませんが……。
 また、ジュヴナイル小説群が操る日本語は現代日本語の範囲を大きく逸脱したものばかりか? わたしはこれも否とできると思います。むしろ過度の装飾のない、良い意味で適当な日本語ばかりだという印象を持っています。ま、面白いかどうかはとにかくとしても。
 いったい何が問題になりうるんでしょう?

65 名前 : 海燕 投稿日 : 2004年06月23日(水) 23時30分11秒
>久美理論

久美さんの主張を僕が勝手に代弁するのもどうかと思いますが……ちょっと述べておくと、ここで問題にされているのは、「うまい作家」「良い作品」ではないですよね。ライトノベルだろうが児童文学だろうが、SFだろうがミステリだろうがホラーだろうが純文学だろうが、うまい作家のうまい作品なら問題ない。むしろ「この日本語はあまりにあまりにひどくありませんかそう思うのは私だけですかみんなこれで平気なんですかでもこれってはっきりいってちょっと耐えがたいんですけどどう?」な作品こそが問題なのだと思う。

具体的な作品を例に挙げるとさしさわりがあるので音楽に例えると、べつにはじめから久美さんが最近弾けるようになったというサティとか、ショパンの楽曲を聴けというわけではない。カラヤンとバーンスタインの指揮を聴き分ける耳を身につけろというわけでもない。ただ、若い頃から「あまりにもひどく音程がずれた歌を平然と歌っている歌手」の楽曲ばかり聴いていると、「音感が狂っちゃう」のではないかと心配しているのだと思う。それは杞憂にすぎないかもしれないけれど、そうではないかもしれない。

そもそも、どちらかといえば音痴な僕にはほんとうはよくわからないのですが、ある程度「耳」ができた人間からすると、へたな歌手のへたな歌というものは、それはもう聴きづらいものなのではないでしょうか。そしてそういうひとは、それを平気で聴いている若人を見ると、「これってまずいんじゃないの?」という深刻な懐疑に駆られるのだと思う。そればかりを聴いているひとは、「それが普通」で、たいしてひどい音楽だとも思わないかもしれないけれど。

しかし、まずいものというのは、そう感じるひとから見れば、それはもう歴然とまずいのですね。それこそ、中村うさぎ陛下が新人賞の席で某作品に激怒したというように(その評価がほんとうに正しかったかどうかは実際にそれを読んでいない僕には不明ですが)。そういったものは、たしかにライトノベルだけにあるのではない。日本全国の書店のどの棚にも転がっている。しかし、ライトノベルにおいてそれが顕著に見られるのもたしかです。そしてとにかく「気になるひとは気になってしょうがない」のも事実。

そういった見方に対して、高踏的すぎるという意見もあるだろうし、いまはもはやそういうものが流行る時代ではない、過去にしがみついているだけではないか、という批判もありえるでしょう。しかし「わかってしまう」ことはどうしようもない。耳の訓練によって音感が身につくように、たくさん良い文章を読んでいると「文感」が得られ、もちろん絶対ではありえないものの、「良い文章」と「悪い文章」を直感的に判定できるようになる。そしてそれは、直感的であるがゆえに、しばしば本人にもどうしようもないものなのである──ということなのではないかと、愚考いたします。

>新木理論

一方の新木さんの理屈をまとめるとこんな感じかと。

1 小説を読みこなすには日本語の読解能力が必要である。
2 その能力は人間に初めから備わっているものではなく、訓練によって身につける類のものである。
3 「重い」小説はそれを読むために多大な能力と労力が必要であるため、読書初心者の読書訓練には不適である。これに対して、「軽い」小説は必要な能力と労力が相対的に小さいため、それに適している。
4 故に「軽い」小説には初心者の読書訓練用の作品として大きな存在意義がある。

このうち、1と2は反論するひとはいないと思う。まず客観的事実といっていい。もし3が真であるなら4も真であると考えてほぼ間違いないだろうから、問題なのは3だ。これについては、「軽い」「重い」というあいまいな言葉の意味合いを定義したうえで対話しなければ意味がないのではないか。僕が考えるに、「小説が軽い」とは「その小説を読む際、読者の心理的抵抗感が小さい」ということである。もう少し具体的にいえば、小説の「軽さ」とは、次のようなものではないだろうか。

1. テーマが深刻でない。
2. 雰囲気が明るい/ユーモラス。
3. ページ数が少ない。
4. ページあたりの文字数が少ない。
5. 難解な語句を使用していない。
6. アニメ/コミック的である。
7. 展開が高速かつ軽快である。

まだあるだろうが、これらの要素を選択することによって、小説を「軽量化」することを、僕は否定しない。なんといっても、小学生で「罪と罰」を読む子どもは滅多にいない。ふつうはまず「アンパンマン」やら「クレヨン王国」から入るものである。ラスコーリニコフの苦悩と絶望を味わうのは、そのあとで良い。これらの作品は、子ども向けに書かれたものだから、子どもが読むことを想定してあらかじめ読書にかかる負担が軽減するように記述されている。たとえば、「驟雨」と書いてもわからない場合に配慮して、「にわか雨」と書く、というふうに。

これは過去にもふつうに行われてきたことだし、児童向けの作品を書く作家なら当然考えるべき作法であるといえる。そういった配慮をまったく考えもしない作家は、おそらく児童向けの小説には不適当だろう。だから、僕は「軽い」小説にもそれなりの価値はあると思う。なにげなく手にとって、気軽に読みはじめ、しかも読みはじめたら続きの展開が気になりいつまでも頭から離れない。授業中でも、トイレタイムでも、絶壁で宙吊りになった主人公のその後が気にかかってしかたない。素晴らしいではないか。

読書能力を向上させるための最前の方法は、読むにあたいするおもしろい本を読むことである。絵本でも純文学でも基本的にそれは同じだ。だから、僕はこう考える。問題なのは「軽い」ことではなく、低俗なことであり、稚拙なことであり、幼稚なことであり、くだらないしかいいようがないことである、と。ある作品が「軽い」ことは、それが低俗なことや、稚拙なことや、幼稚なことや、くだないことの言い訳にはならない。軽くて深い小説もあるからである。

一例を挙げるなら、森絵都の「カラフル」がそうだ、と僕は思う。すべてのライトノベルには、軽く、しかも一度ページをめくったらその世界に否応なくひきずりこまれ、「現実」と「虚構」の比重が逆転し、あらゆる悩みを忘れ去ってその世界に没頭してしまうような作品を目指してほしい。たしかに、漫画には、かつて「くだらない」「たかが漫画」と評され、長い時間をかけてその評価を払拭したきた歴史がある。ライトノベルもそれと同じだ、と考えることはできるだろう。

しかし、今日、漫画に対する評価が上がったのは、「漫画はくだらなくなどない」と主張し、そして実作のなかでそれを証明してきた数しれぬ作家たちの偉業があるからこそではないだろうか。もし「子ども向けの軽い小説なのだから、低俗でも、稚拙でも、幼稚でも、くだらなくてもしかたない。いや、むしろそういうものこそ望ましいのだ」と主張するのなら(あくまで仮定の話で、じっさいにだれがそう言っているというわけでもないが)、やはりそれは見下されてもしかたがないものであると言うしかないのではないか。と、僕は思うのですね。

「カラフル」は、別スレで名前を挙げた「DIVE!!」と同じく、ライトノベルではなく児童文学の括りに入る作品ですが、とても斬新でユーモラスでおもしろく示唆に富み感動的でありながらこれっぽっちも説教臭くない名作でした。いわゆる「あたらしい児童文学」に属する作品なのでしょう。感覚的にはかぎりなくライトノベルに近いと思う(映画化されたそうだけれど、そちらの出来のほうは僕は知らない。たぶんあまり期待できないのではないかと僕の無意識はささやきかけています)。「カラフル」の冒頭はこんな文章です。

 死んだはずのぼくの魂が、ゆるゆるとどこか暗いところへ流されていると、いきなり見ずしらずの天使が行く手をさえぎって、
「おめでとうございます、抽選にあたりました!」」
 と、まさに天使の笑顔をつくった。

うまいでがしょ? 平均的なライトノベルと比べても、まったく難しい言葉は使われていないのに、明るく、飄逸で、意外性があり、物語の世界へぐいぐいひきずりこむものがある(と、僕は思う)。この小説は上記の「軽さの七条件」を、「テーマが深刻でない」と「アニメ/コミック的である」を除いてクリアしていますが、それでもなおかつ、ちっとも幼稚でも、低俗でも、稚拙でも、くだらなくもない。二十歳を過ぎたいい大人が素直に感動できてしまう、森絵都版「素晴らしき哉、人生!」とでもいうべき作品なのです。

もちろん、すべての作家に森絵都のようであれ、と言いたいわけではありません。いろいろな個性があるでしょう。ただ、小説には「軽さ」と「深さ」を、息をもつかせぬリズミカルさと思わずほろりとするようなせつなさを、両立させることもできるのだ、と言いたいのです。ライトノベルなんだからしかたがない、とは僕は思わない。むしろライトノベルだからこそ、徹底的に無駄が省かれ研ぎ澄まされたスマートでユーモラスでスタイリッシュな文体で小説を書いてほしい──そう願うのは贅沢なのでしょうか。そんなことはないと僕はそう思うんだけど、どう?

66 名前 : Merlin C. 投稿日 : 2004年06月23日(水) 23時46分45秒
 おっとっと。
>ジュヴナイル小説群が操る日本語は現代日本語の範囲を大きく逸脱したものばかりか?
 オノマトペが多いという特徴はありますね。これも今のジュヴナイル小説に始まったことじゃないような気もしますが。
 たしかにこの辺が装飾的と言えば装飾的かな?

67 名前 : 海法 投稿日 : 2004年06月24日(木) 00時27分50秒
 海燕さん、こんにちは。

 ライトノベルにおいて、稚拙な作品が多く見えるとしたら、それは、単純な錯覚でしょう。

 (自分のことは棚にあげさせていただきますが)どんなジャンルでも、市場が広がると、底辺の質は低くなります。粗製濫造の言葉どおり、市場が広がる時には、つまらない、下手な作品も、出やすくなりますから。

 しかし、市場の拡大は、同時に、切磋琢磨も生み出しますし、多様性も保証します。

 「ライトノベルにおいて、稚拙な作品が顕著に見られる」としたら、それは、ライトノベルの人気が上がっていることの裏返しでしょう。

 単純に稚拙で下手な作品は、すぐに淘汰されるように思えます。そして、その淘汰の中でこそ、良い作品が生まれますから、市場の成長、それ自体は良いものだと思います。

 ライトノベルのあるべき姿としての「軽さ」を「稚拙でいいや」と理解してる作家はいないだろうし、いたとしても、本当に稚拙な作品を書いていたら、すぐに消えるだろうから(そしてそうした作家を消すためにこそ市場原理が必要だと思いますから)心配の必要はないと思いますよ。

68 名前 : 新木 伸 投稿日 : 2004年06月24日(木) 08時59分43秒
>久美さん
>パソコンとか

 久美さんのところも、パソコンは旦那さんが組んでいるわけですね。
 うちもそうです。パソコン様のお世話は、すべて僕の役目。――と、このあいだまではそう思っていたのですが。
 最近USBのカードリーダー(デジカメのメモリカードを読み込む用)を買ってきてあったのですが、僕がなにもしないでグースカ24時間近く寝ているうちに、ドライバのインストールが済んでいて、使えるようになっておりました。起きたら「使えたよー」との報告。うちの奥さんが自分でドライバを入れていたようです。
 これもパソコンのOSがWINDOWSだったおかげでしょう。敷居の低いパソコンだったおかげですね。
 もしMS−DOS時代のデバイスドライバだったら、CONFIG.SYSを編集して色々と書きこまなければならないわけで、たぶん無理。敷居が高すぎです。

 パソコンというのは道具ではありますが、使いこなしてゆくことには「楽しみ」があると思います。自分でカードリーダーを使えるようにしてきたうちの奥さん、楽しげでしたし。
 僕が起きていて横で見ていると、「なんでそんなこともできんのじゃ」とすぐ叱りつけて階段の4段飛ばしぐらいを要求してくるので、ぜんぜん楽しくないそうです。

 ――で、小説も同じと考えるわけです。
 階段の一段一段は、低いほうがいいと。
 あまりに一段が高すぎると、それを乗り越えられない人を切り捨ててしまうことになります。それはあまりにもったいない。
 小説ってのが楽しいものであることは、このスレを読み書きしている人なら、誰もが確信しているはずです。
 小説は、楽しいんです。
 なるべく多くの人に、この楽しさを知ってもらいたい。そう思います。


 習いごとの話は、非常に同感です。
 長い目でみたら、きちんとした順序でやっていったほうがいいのですね。そのほうが効率がよいし、上達も速い。
 僕など、なにをやるにも最短距離を突っ走らないと気が済まないたちでして……。我流で好きなようにやっている若者を見ていると、正しいやりかたでやれー、とばかりに、言いたくなって仕方がない性分です。(ていうか、かなりの頻度で怒鳴り込みにゆきます。海燕さんもその被害者の一人でした。その節はすいません。>海燕さん)
 このあいだ心理テストの性格判断などをやってみたら、「合理的」の項目に最大点の20点がついたりして、自分でもビビったりしましたが。(笑)
 どうりで、昔、ボーリングなどを友人と遊んでいたときに、「お前とやってると楽しくない。俺は上手くなりたいわけじゃなく、ボーリングを楽しみたいんだ。ボーリング修行をしたいなら一人でやってろ」などと言われてしまうわけです。

 「小説を読む」ということは、世の多くの「普通の人」――「小説に対して、そう愛着もない一般の読者」にとっては、習い事とは違う性質のものであるのだと。
 僕は諸々の反省と失敗を通じて、思うわけです。
 なにせそれは「娯楽」なのですし。
 自己流の変な癖をつけてしまうというのも、楽しみかたのひとつなのではないでしょうか?

 たとえば料理をするとき――。
 カレーでも作るとします。まずレシピを確認して、そこから必要な材料を網羅した買い物メモを作りあげて、スーパーにいってすべて揃えてきて、レシピの手順通りに料理を作る。――という最短距離を邁進してもいいわけですし。
 または、なんとなく材料を買ってきて、レシピなんて気にしないで、なんとなく感じたふうに作り始めて、足りない材料があったら再びスーパーに出かけていって、そうやって数倍の回り道をしながら作り上げたら、始めに作ろうとしていた料理と違うものができあがってしまった。――ということでも、その最中の時間が楽しければ良いのではないかと思います。
 「娯楽」で料理をするのでしたら、本人が楽しいかどうかが、あくまで大事なわけですね。

 たとえばカラオケをするときに――。
 ヘタな歌を大声でがなり立てていたっていいわけです。(まあ同室の人には迷惑ですけど、どうせ聞いちゃいないんだし。いいですよね)
 まあ本気で上達しようというなら、発声法やらなにやら、色々と系統だった訓練体系があるのでしょう。「とりあえず大声で歌う」なんていうことをして喉を痛めていないで、基礎からみっちりやるほうがぜんぜん早いわけですけど。

 僕は、料理は仕事でやっていた時期があるので基礎からやりまして。
 カラオケのほうは仕事でも習い事でもなく、単なる「娯楽」ですので、もう基礎もへったくれもないわけです。一生ヘタクソなまま、がなり立ててゆく所存でいます。上達するなんて気は、いまのところ、これっぽっちもありゃしません。

 久美さんも、国語の授業はツマラナイ、本を乱読して自己流で言葉の扱いかたを身につけた。――と、以前に書かれています。
 習い事として、国語を最短経路で学ばされるのは、嫌だったわけですよね。

 小説を上手く読めるようになりたいわけでなく、小説を楽しみたいだけの読者に対して、なにをどう読めと他人が押しつけてゆくのは、詰まるところ、「ツマラナイ国語の習い事」と同じことなのではないでしょうか。

 思うに、久美さんはパソコンに関しては、「楽しみたい。役立てたい」のであって、上達したいわけではないですよね?
 ソフトウエアを組んでみたり、半田ごてを握って作ってみたり、はては回路設計したり――と、そちらの方面には、久美さんがいまだ知り得ない「豊穣なる世界」が、広々と拓けていたりするわけですけど……。保証します。マジ面白いっすよ。絶対に。小学5年生から高専2年生まで、僕はそっちの道に人生懸けようとしてたぐらいですから。
 でも、いまは興味のないことを押し売りされるのって、いらんお世話ってもんですよね。
 たとえば僕が、「そんな適当に使ってクリックしているだけじゃ、いつまで経っても自分でOSを組めるようにはなりませんよ! とりあえずマウスの使用禁止!」とか言ったりしても、大迷惑なのではないでしょうか。

 そしてまた仮に気分が向いたとして、ちょっとコンピュータのことやってみようとおもって、「プログラムとか組めるようになってみたいなぁ」と思ったときに、専門書ばかりで、やさしい入門書が市場になかったりするのは、困ってしまうのではないでしょうか。

 専門家の目から見たら簡単すぎるように見える入門書でも、やはりそれは必要なものだと思います。
 パソコン関係の書物にたとえるなら、実際のところ、ライトノベルっていうのは中間的な実用書あたりになるでしょう。
 初心者と中級者あたりを包括するもの。範囲はだいぶ広いです。
 その範囲には小説は初めてとか、人生において数冊目という読者も含んでいますし。何十冊も読んでいる人もいる。もっと多い人向けのものもあります。

 ちなみに「このラノ」の読者票で上位にきている作品は、百〜数百冊はライトノベルを読んできている「通」好みのものですので、中級〜上級向けといったところでしょうか。





>物語原体験とか

 小説――というか、「物語」に触れる最初の体験っていうのは、まず普通は「絵本」ですよね。
 その次は、やはり児童書となるのでしょうか。そこから次の段階が、昔ならジュブナイル。いまならライトノベルとなると思います。
 その次は……、僕は自分自身が上っていないのでわからんのですが。一般文芸? 純文学? SF?

 ちなみに僕の物語原体験は、やや特殊で、「お話レコード」でした。
 ひらがなさえ読めないような頃に、なぜかレコードプレーヤーの使い方だけは習得していまして。LP版(とか書くと、二十代の人はわからんのだろうなぁ)の30センチあまりのレコードを両手で抱えてセットしては、鳴らせていました。アラジンと魔法のランプとか、人魚姫とか、そんなお話を何度も何度も飽きもせず一人で聞いていましたっけ。
 ちなみに絵付きの本でした。プレーヤーから流れてくるお話を聞きながら、その場面に相当するページを開いて、「絵」を眺めるわけですね。
 いまにして思えば、絵付き物語の原体験でした。本はたしか50ページぐらいあったはず。
 なにせ幼稚園にも上がっていない幼児だったもんで、想像力が足りないとか叱らないでやってください(笑)。
 音声による語り口があると、怖い場面では怖い声で、楽しい場面では楽しい声で語ってくれるので、とても負担が軽かったのを覚えています。




>親から受け継ぐ読書体験

 深沢美潮さんの「フォーチュンクエスト」などは、最初の読者の世代がすでに母親となっていて、その娘も小学生になっていたりして、親子二代で新刊を待ち侘びている、なんてことが起きているそうですが。

 小説の中(というか「物語」というものの中)に、高尚なものと低俗なものがあるという考えは、僕にはありませんので……。
 ライトノベルを読んで育った親が、ライトノベルを子に薦めて、自分も一緒になって読む。――という図は、とても微笑ましく思います。

 音楽なども、クラシックが高尚で、ポップスは低俗ということはないかと思います。聴いて心地よいものと、そうでないものとがあるだけで……。それと同じことでないかと。
(僕は最近のポップスは聴いていて耳に心地良くものが少ないので、おもに80年代のものを聴いていたりしますが。これは最近の音楽が低俗なのではなく、単に好みに合わないだけですね)

 一生ライトノベルを読み続けてゆくのも、そのうち趣味嗜好が移り変わって一般文芸作品を読むようになるのでも、SFに転ぶのでも、どれでも良いかと思います。本人が楽しければ。
 ただ、訓練を積まないと良さがわからないものというのは確かに存在していて、そういうものを読んで味わえるようになるには、どこかで訓練を積む必要があると思います。




>セックスやバイオレンス

 バイオレンスとか死に関してはさておき。
 ライトノベルって、セックスに関しては、妙に抑圧されている気がするのですけど。
 忌避されているというか。

 たとえば思春期の男の子の心の中なんて、8割ぐらい「えっち」なことで満たされているわけですよ。クラスの女子のミニスカートやら太腿やら、ブラウスに透けてるブラのラインやら、はてはうなじやらヘアピンやら細い手首やら、ありとあらゆるものに煩悩を刺激されまくっていたりするのが「普通」なわけですが。
 しかしそういうものって、高校生あたりの主人公が出てくる話では、あまり扱われませんよね。せっかく心理描写が大々的にできるメディアだというのに、そういうことには、なぜか触れていかない。
 性衝動を持て余して、振り回されているはずの思春期のキャラクターが、まるで四十も過ぎた大人の男のように、女の子を前にしても落ちついていたりする。

 そんなのは等身大の少年像としてリアルではないし。
 面白くないや、と読者にそっぽ向かれてしまう原因にもなりかねないので、僕などは、せっせとそういうコトを小説に持ちこんでいたりするわけですけど。

 ことセックスに関しては、「ライトノベルは過激すぎる」って懸念はいらないと思います。
 むしろぬるいです。
 ベッドシーンひとつあったぐらいで話題作になるってのは、どんな牧歌的世界ですかそれは。てな感じです。
 現状としては、不健全なほどに健全すぎるぐらいであるかと。
 少年がエッチな妄想ひとつしないのが、平均的ライトノベルってものです。

 なんでそこまで「健全」になってしまって、「性」ってものをないもののように取り扱うことになるのか、僕にはちょっとわからないのですけど……。
 エロネタを作中に放りこまない主義の方には、ぜひ訊いてみたい気がします。なぜ貴方はエロを避けるのか――と。

 ちなみにどのへんが「過激」となるラインなのかというと……。
 僕もすべてチェックしているわけではありませんが、最高峰と思われる一例をあげてみます。
(以後、ややネタバレあり)



「おねがい☆ティーチャー みずほと桂のMilky Diary」 電撃文庫 Please!/原作 雑破業/著
http://www.esbooks.co.jp/books/detail?accd=31092366
 愛しあう女教師と男子高校生とが、物語を通して愛情を紡いでゆき、最後に結ばれ合うというストーリーでして。プロローグが「事後」のシーンで、エピローグが「事前と最中」という構成になっています。
 個人的には、最近ではこの作品がいちばん生々しいかったかなぁと。

「Room No.1301 おとなりさんはアーティスティック!?」 富士見ミステリー文庫 新井輝/著
http://www.esbooks.co.jp/books/detail?accd=31174137
 こちらも別の意味で生々しいのですけど。ただし最中のシーンはなし。事前と、事後に戯れているシーンぐらい。ひとりは拾った造形芸術家の女の子で、もうひとりは主人公の実の姉というのがアンモラルなのですが。





>重厚問題

 「古典の名作を読め!」――と久美さんが言っているのだとは、僕も思っていませんが。
 まあしかし実際のところ、なにが久美さんの言われるところの「重厚」で、どんなものを読書初心者に読んで欲しいと思っているのか、僕にはよくわからないのです。

 僕の言う「軽いほう」なら、僕は定義できます。
 海燕さんの挙げてくれた――。

>>1. テーマが深刻でない。
>>2. 雰囲気が明るい/ユーモラス。
>>3. ページ数が少ない。
>>4. ページあたりの文字数が少ない。
>>5. 難解な語句を使用していない。
>>6. アニメ/コミック的である。
>>7. 展開が高速かつ軽快である。

 ――と、こういった属性をすべて含むことになるのですが。

 もっと端的に、一義によって定義すると、単位時間あたりに読むことのできる文字数が、一文字でも多い小説のことです。
 単位疲労度あたりの読破文字数という基準でもいいのですけど。(同じことですので)

 3と4の「ページ数が少ない」と、「ページあたりの文字数が少ない」というのは、心理的な疲労度を減じる効果がありますので、一見矛盾しているように見えますが、読者に読んでもらえる文字数を稼ぎ出すことに繋がっています。

 たとえページあたりの文字数が少なくとも、同じ時間で、たくさんページを読んでもらえばいいのだし。
 たとえ一冊当たりのページ数が少なくとも、同じ時間で、たくさん冊数を読んでもらえばいいのだし。

 たとえば――。
 同じ運動量をするにせよ、軽い運動を長時間行うのと、重い運動を短時間行うのとでは、前者の「軽い運動を長時間」のほうが、運動後の疲労は少なくなる理屈です。

 まあ、実際に僕の書いている作品は、やたら分厚いし。(ライトノベルで300ページオーバーを「普通」としたのは、たぶん僕であるかと思います)
 さらに字ばっかりで真っ黒だし、3と4に関しては実践してないんですけど。
 あと最近7も危ないかなぁ。(汗





>海燕さん

>>むしろライトノベルだからこそ、徹底的に無駄が省かれ研ぎ澄まされたスマートでユーモラスでスタイリッシュな文体で小説を書いてほしい──そう願うのは贅沢なのでしょうか。そんなことはないと僕はそう思うんだけど、どう?

 実作者は努力していますよ。たぶん。みんな。

 ところで海燕さんには、以前にも一度、「小説を書かれてみてはどうでしょう?」と、作り手側のほうにお誘いしたことがありますけど。
 小説家というのは、資格不問、経歴不問で、誰にでもなれる職業です。
 なんなら、実作者となって、理想のライトノベルを体現されてみてはどうでしょう――と僕はそう思うのですけど、どう?

 外野から野次を飛ばすより、グラウンドに入ってきて汗を流したほうが楽しいと思うんだけどなぁ。
 一度しかない人生なんだし。ヘタな踊りを踊るダンサーにブーイング飛ばしているよりも、ステージに飛び上がってヘタな踊りを披露する側に立ったほうが、汗だって掛けるし、楽しくはないですか?





>絶対音感っていうのは、「呪い」なのでは?

 絶対音感とか、ありますよね。音の周波数が正確にわかってしまうという能力。
 文章に関しても、そういった、いわば「絶対文感」みたいなものってあるのではないかと思うのです。

 このへん、「デッサンが狂っている絵は我慢ならない」という話題とかにも繋がることなのですけど。

 絶対音感を持っている人は、少しの音のズレも気になって音楽を普通に楽しめなくなると言います。僕は絶対音感なんて持っていないので、本当かどうかはわかりませんが。

 ただ小説に関して、似たようなこと起きていることを実感として持っています。
 視点の狂いであるとか、日本語のおかしさであるとか、またはプロット的な不備や不整合とかが気になって、物語を素直に楽しむことができないのですね。
 さらに僕の場合には、キャラクターに関して感受性が高いらしくて、「あのキャラとあのキャラ、かぶっているじゃん。目鼻立ちと髪型変えただけじゃん!」とか、そんなことも気になってしまいます。
 また「死んだ会話文」というのが特にダメでして……。他がどんなに素晴らしくとも、会話文が生きていないと、もう気になってしまって、楽しめなかったりするわけです。

 文章がわかる。視点がわかる。――そういう「絶対文感」という能力は、制作者としてはメリットをもたらしても、読者としてはデメリットしか与えてくれません。
 ものを知らないほうが、なんでも美味しく摂取できるはずです。僕も昔はそうでした。中学生の頃に触れた物語が、いかに輝いていたことか!

 美食家という存在が、なまじ味がわかってしまうがゆえに、普通の人が「美味しい美味しい!」と言って喜んで食べている様を、唾を飲みこんで、恨めしそうに眺めるだけしかできないのです。
 ――と、これは海燕さんのサイトの日記からの受け売りですが。

 まあ作家を志して以来、楽しむために小説を読むことはなくなりましたので、そうであっても、とくに問題はないのですけど。(すべて研究のために読むので)

 そうした「絶対文感」なるものがあるとして――。
 まあ、僕などの持っているのは、たいしたものでもないでしょう。
 久美さんはさらに確とした絶対文感を持っていて、「こんなんあかん」と激しく思われてしまうのかもしれません。

 ただ、小説が「読者のもの」である以上、多くの読者が気にしないものというのは、それは欠点と言えるのでしょうか。
 それを正すことは正義となるのでしょうか。
 この場合には読者にとっての「正義」という意味ですけど。
 絶対文感を持っていない読者は、多少壊れた日本語でも、気にせず物語を楽しんでいるわけです。それはイケナイことなのか。なんとしてでも正さねばならないことなのか。

 僕は、そうは思わないわけです。
 だって「娯楽」なのですから。受け手が楽しんでくれるなら、それでいいじゃないですか。





>中村うさぎさん激怒事件

 これは久美さんが詳しいはずですけど……。
 文章力のことではなく、キャラ造形とストーリー展開に関してのことだったようです。

「第5回えんため大賞、選考のことば」
http://www.enterbrain.co.jp/entertainment/
http://www.enterbrain.co.jp/entertainment/novel05.html

69 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月24日(木) 10時43分59秒
うんとね。
「通俗」は素晴らしいと思うんです。それはエンターテインメントってことだから。でもさ「低俗」ってコトバもあるでしょ。

低俗って何か? 通俗とどこが違うのか?
これを区分しようとすると、すみません、……新木さまがどうしてもひっかかる種類のコトバかもしれないのが、出てきてしまう。
卑しいもの、下品なもの、品性下劣で、趣味の悪いもの……このへんが、低俗じゃないでしょうか。

ウケを優先すれば、低俗などおそれてはいられない、卑しくてなにが悪い、どうせ人間みんな根は卑しいんだ、そのかわり受益者のほしがるさまざまな要素に関してはサービスたっぷり、可能な限りの高水準をめざすぞ! という態度もあると思う。

ただね、それって、……ともすると……
エルメスのバーキン(予約もなかなか受け付けず、しかもナンジャソリャに高い)をいますぐ安く欲しがるひとがたくさんいるからそっくりのニセモノ作ってバカ安で売ります、それで儲けてなにが悪いんですか、みたいな方向にゆきがちだと思う。

ホンモノだと信じてだまされて買うひとは気の毒だが、そもそもそんなに安く簡単に手に入るなんてオカシイ怪しいと思わないのはオロカだし、自分だけそんなラッキーにめぐりあえるとノンキにも信じてしまうのが無用心だし、そんなに節約したいなら、そもそも高級バックなんて欲しがらなきゃいい。

ニセモノをニセモノと知った上で買うひとだっているだろう。
見た目が気に入って使い勝手とネダンがおりあってるしホンモノはなかなか手にはいらないそうだからこれで十分、わたしにはこれでちょうどいい、ってひともいるかもしれない。一見理にかなっているし、自分の「分相応」をわきまえているように見える。
でも、その態度が、偽ブランド業者というワルモノを生き延びさせて、本家本元やそのユーザーに迷惑をかけるということに対しての自覚や責任感がないという点で、やっぱり肯定できない。

奴隷じゃない「市民」にはひとりひとり自分の選択や行動が社会の全体に及ぼす影響を真剣に考える責任があり、「おかしい」「まちがっている」と感じるものをみつけたら、関係当局なりメーカーなりに積極的に意見を言って問題を是正する一助となる「義務」がある、とわたしは考えています。もちろんそのひとの感じかたが間違っている場合もありますけど。
怠りの罪は、行いの罪に勝るとも劣らない。「そいつはちょっとイカンのじゃないかなぁ……」と思いながら、なにもせずに放置するのは、直接犯罪に手をそめることに匹敵するほどタチが悪い。

中には、ニセモノだとバレないことを願いつつ口説きたい女の子にプレゼントするために買うひととか、ニセモノでもいいとにかくバーキン欲しいだっておともだちみんな持っててわたしだけないのは屈辱で! なひととかだっていると思う。
「愛」なんてどこにもない。みえや欺瞞(ようするにニセモノ)と執着ばっかり。そーゆーのイヤなの。生理的にキライ。ごめんなさい。




70 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月24日(木) 11時16分57秒
誤解をうけそうなので追記。

人間の卑しさを主題に据えてとことんつきつめて描きぬくことができたら、それはじゅうぶん読み応えのある問題作になると思う。
たぶんそれは読み手の卑しさに直接アクセスするのではなく、そこからテイクオフしたところに視点を持って、畢竟、卑しさに「ついて」考えたものになるから。

やっぱわたしは「いっしょうけんめい考えこまずにいられなくなる→能動的」になってしまうようなもののほうを「感じる→受動的」より価値高く感じてしまうのかなぁ。

ゲラゲラ笑える、思い切り泣ける、性的昂奮を得る、暴力シーンでスカッとする……などの感情および情動に対する刺激に価値がないと言っているわけではないんですよ。
そういうのも人生に必要だし。
ただ、そういう刺激はいまいち効果が持続しない。
「あー、おもしろかった!」で終わる。
いやそれで終わってなにが悪いとすかさず新木さまに言われそうなんですが……読み捨てオッケイの暇つぶしならほんとそれでオッケイだよね、なんですけど……

うーんなんなんだろ?
ようするに、ケチ? 強欲?
どうせ読むなら、せっかく時間かけるなら、そっから単なる受動だけじゃなく、何か持ってかえってきたいみたいな。
だって、年とるとほんと、時間ってアッという間にすぎてしまって、ついこないだのことだと感じていたのがよく考えてみると何年も前のことだったりして「えええっ!」みたいですからねぇ。

うわぁまた時間がぁぁぁぁ!

71 名前 : 新木 伸 投稿日 : 2004年06月24日(木) 12時16分32秒
 お仕事がんばってくだされー。久美さん。
 締め切り明けたら、また続けましょう。
 僕も平気で二週間くらい逃亡してますしー。二週間や一ヶ月ぐらい停滞状態にあっても、ぜんぜん平気ですが。


 僕のほうも、「考え深く、なにか後に持続して残るものがある物語」に価値がないなんて言っているわけではないのです。

 そういうものもある。
 そうでないものもある。
 どちらも共に存在していて、読者が自由に選べる市場というものが、いちばん豊かで健全であろうと思うわけです。

 ――で、安直なパチモンなんかは、ほうっておいても淘汰されます。
 身銭を切って商品を選んでいる消費者の目を信頼しましょう。
 金を払っている人は真剣そのものです。ライトノベルというものは、子供のわずかなお小遣いから、600円という大金と引き換えに買われてゆくものなわけです。その商品選択の真剣味たるや、ダンナの稼ぎでブランド品を買い漁る奥様の比ではありますまい。


 あと自由市民の問題提起の義務と怠りの件に関しては、やや疑問です。

 「自分(だけ)が認識し得た問題点があり、それを申告するのが社会的正義であり、自由市民の義務でもある」

 この命題が真であるとするためには、他の皆の目がすべて節穴であり、当然明らかである問題点がまるで見えていないという前提を置かねばなりません。

 僕はそこには同意できないわけです。
 つまり自分の目や見識などより、消費者の目のほうを信頼しているということになります。
 自分が「これダメだろ!?」と思ったとしても、売れているなら、それはアリなわけですね。

 たぶん、そこが久美さんと最も違うところなのではないかと。
 僕は消費者を信頼しきっているわけです。完璧に。
 良いものは良いと言ってもらえるであろう。つまらんものはつまらんと言ってもらえるであろう。――と。

 自分がどう思おうと、大勢に支持されて、売れたもんが価値のあるものなのです。
 たとえば自分が「ええっ!?」ていうようなものであっても、それが売れているなら、それは価値のあるものだと思うわけです。
 それがどんなものであっても、です。
 このとき自分と消費者と、どちらの目のほうが節穴であるかといえば、もちろん、そのものの価値を見ることのできない自分の目のほうが節穴なわけです。

 もし消費者を信頼できなくなったときは、プロを辞めるときだと思っています。
 そうしたらアマチュア作家になって、「うちの店の味がわかんねーやつは、うちのラーメン食うんじゃねぇやっ!」とか客を選ぶようなコトを言ったりしようかと(笑)。
 まあ無償で提供する作品であれば、作者が客を選んだって、かまわないですよね。

 二十歳ぐらいの頃には、「なんでこんなもんが売れているんだ!」とか。売れているけれど自分的には価値を見いだせないものを話題に上らせて、同門の作家志望者同士で議論しあっていたりしました。売れているものにはなにかしら、必ず理由と価値とがある。それが自分たちに見えていないだけ。――そうした前提で激論を交わして、時には掴み合いにまでなりながらも、悔し涙と血とを流して分析していたりしました。

 売れているものには価値がある、とはいっても。べつに付和雷同するわけでなくて。
 自分の良いと思うものを皆に良いと思ってもらいたいし、受け入れてもらいたいという願望はあるわけです。そこで読みやすくしてみたり面白くしてみたり、可愛い旗を立ててみたりと、商品価値を付け加えていって、普及に努めてはいますけど。
 だからライトノベルでSF(スペオペ)を書いてみたんですってば。売れないものには価値がないという市場原理に抵抗するために、ちくしょうおもしろいんだぞ宇宙の冒険は、てなことで。

 久美さんの書かれた自身のエピソードの中で……。
 転校続きで、常に39人対1人のマイナー側にいなくてはならなかったという過去であるとか。そのへんの体験が、大衆の目を信頼できない価値観の形成に、なにか関係してくるのでしょうか。



 さて僕も仕事をしなければ……。
 ここ10年、キャラの主観に乗っかった一人称的な「キャラ寄り三人称」ばかり書いてきたもので、純粋な三人称というものが書けなくなってしまっていました。
 ちと習作にて練習中……。

72 名前 : くぼひでき 投稿日 : 2004年06月24日(木) 13時04分58秒
新木さま

おひさしぶりです。おかえりなさいませ。

おっしゃることには、ほぼ同意。
おもしろさの基準は、それぞれの読者が自分でえらぶこと、です。
けど、
>>自分がどう思おうと、大勢に支持されて、売れたもんが価値のあるものなのです。

これはちと怖いと思う。
大勢に支持されたものが価値がある
っていうのは、へたするとそうでないものを圧倒し、「粛清」していくこともある。

圧倒するだけならまだしも、そうでないものを淘汰ではなく、つぶしていきかねない。
そしてそれは、支持されたもの本体およびそれを支持する者たちの手によって行われていくことのほうが多い。
むしろ、支持する者たちによる「自発的な」環境規定がこわい。

それは政治の話、かもしれないですね。
けど、大勢はときに凶器になることもあると思いますです。

73 名前 : 三田 誠 投稿日 : 2004年06月24日(木) 18時08分06秒
こんにちは、やはり修羅場中なので一言だけレスを。

>大勢に支持されたものが価値があるっていうのは、へたするとそうでないものを圧倒し、「粛清」していくこともある。
>そしてそれは、支持されたもの本体およびそれを支持する者たちの手によって行われていくことのほうが多い。

ハリーポッターが売れたからとか、世界の中心で愛を叫ぶが売れたからとか、そういう結果、粛清されたものってありましたっけ?
市場自体がコンビニなものを求める結果、ロングセラー商品が出しにくくなるとかいうことはあるのですが、これは「支持されたもの本体およびそれを支持する者たちの手」とかいう例ではないですよね。

>卑しいもの、下品なもの、品性下劣で、趣味の悪いもの……このへんが、低俗じゃないでしょうか。

なんとなく、アメコミ暗黒時代を思い出してしまいますね(笑)。
少し説明を加えさせていただくと、「暴力的なものはいかん」「下劣なものはいかん」と、本当に取り締まられた時代がアメリカの漫画にはあります。

結果、どうなったか。
ほんとーにあたりさわりのないものしか出せなくなって(ああ、陽気なバットマンなんて!)、アメコミは二十年進歩から取り残されたと言われています。
このへんは僕などより海法さんが詳しいでしょうね。

逆にやりたいほーだいやって本当に駄目な作品が増えていったスペースオペラの作品たちが、一瞬であきられていったという経緯もあります。
ゲーム好きならアタリショックといえば分かりやすいでしょうか。

まあ、何が言いたいかというと、市場原理というのは存外に真っ当じゃないかという話です。

74 名前 : 海法 紀光 投稿日 : 2004年06月24日(木) 19時03分22秒
 三田さんにお呼びいただいたので、調子に乗って少しだけ。

 アメコミバッシングの経緯は、堺さんによる以下の記事に詳しいです。
http://www.so-net.ne.jp/SF-Online/no6_19970818/special2_2_6.html

 このバッシング以降、アメコミにおいて、スーパーヒーロー以外のジャンルが事実上死滅し、メジャータイトルのほぼ全てがスーパーヒーロー物という、ご存じの(しかし、改めて考えるとなんだかよくわからない)状態が生じます。

 バッシングのきっかけとなったのは、ECコミックスの、エログロスプラッタなホラー、犯罪路線の大ヒット。
 子供の頃、このECコミックスに、大はまりしてたのが、かのスティーブン・キングで、彼は後に、ECコミックスのオマージュである映画「クリープショー」を、ジョージ・ロメロとともに作っています。

75 名前 : くぼひでき 投稿日 : 2004年06月24日(木) 20時34分15秒
>三田さん

そう。わたしの意見は、杞憂なんです。
文学の市場原理のみならず、どんなものでも、真っ当であることを願うだけなのです。

76 名前 : ヤン 投稿日 : 2004年06月24日(木) 22時08分45秒
 単純な疑問なのですが、ライトノベルを「子供向けの低レベルな小説」と
 見下している一部の大人がいたとして、それで問題あるんでしょうか?

 私は年齢的にも、立場的にも、自分は大人のつもりですが、ライトノベルは
 好きだし、私の知り合いの大人も偏見なく楽しんでいます。
 ここでたまに出てくる「世間」という言葉の主体がどこにあるのか、正直、
 あまり実感できないんですよね(^^;

 書店の売り上げを見ても、ライトノベルが上位に入っていない週はありません。
 もし仮に偏見があったとしても、ポルノメディア等と違い、制作上の制限や、
 発売に関する制限を課せられている訳でもありません。
 もちろん、ジャンルの要求する制限はあるでしょうが、これは何でも一緒だし。

 自由に書けて、売り上げ的にも小説メディアの中では上位のジャンルで、
 一部の大人にバカにされているといっても、実害がある訳でもない。
 一体、ライトノベルが不当に低く見られていると思う理由がどこにあるのか?

 おそらく、メイン読者層である中高生は、そんなこと考えもせずに素直に
 楽しんでいるのではないでしょうか?
 実は私達自身の中にこそ、「いい大人になってライトノベルを読んでる」ことへの
 抵抗感があり、それがコンプレックスとなってありもしない「世間の偏見」という
 モンスターを形作っているのではないか、と思うことがあります。 
 自分自身が一番抵抗を感じているからこそ、自分に対しての正当化の理由として、
「ライトノベルには大人の鑑賞にも耐える素晴らしい作品がある」ことを証明せずに
 いられない、というような。

77 名前 : 海燕 投稿日 : 2004年06月26日(土) 01時22分04秒
>ライトノベルにおいて、稚拙な作品が多く見えるとしたら、それは、単純な錯覚でしょう。

僕はライトノベルにおいてほかのジャンルに比べて稚拙な作品が相対的に多いとは主張しません(感覚的にはそうだと感じますが)。ただ、稚拙な作品が「ある」ことはたしかだし、そういった作品はライトノベルであるかどうかに関わらず稚拙なのだ、とは主張します。ようするにSFだろうがミステリだろうが純文学だろうがポルノだろうがライトノベルだろうが下手なものは下手、稚拙なものは稚拙。「SFだから」「純文だから」稚拙なものが稚拙でなくなりはしないように、「ライトノベルだから」「軽い小説なのだから」稚拙なものが稚拙でなくなるとは考えないということです。もちろん稚拙だが魅力的、という作品もあるでしょうが。

>「暴力的なものはいかん」「下劣なものはいかん」

僕は下品なものや暴力的なものを規制すべきだとは思いません。ただ下品なものは下品である、低俗なものは低俗である、愚劣なものは愚劣である、くだらないものはくだらないとは思います。もちろんこの判断は僕の主観でしかないので、場合によっては「いや、これは低俗ではない。あなたはなにもわかっていない」と反論が来る場合もあるでしょう。しかし、その場合、議論になるのはある作品に対する評価であって、「小説には良い小説と良くない小説が存在する」という価値観は共通している。

念のために言っておくと、下品とか低俗とは性的な描写が多いといった意味ではありません。どんなに猥褻で暴力的な描写を繰り返しても上品なものは上品であり、どんなに表面を取り澄ましても下品なものは下品である、と思います。山田風太郎の「くノ一忍法帖」は女忍者たちがつぎつぎと強姦されて殺されていく物語ですが、どこまでも高貴かつ凛冽無比な小説でした。小説の執筆は時にストリップに例えられます。もし作者の心根が卑しければ、それは隠し切れず匂うことでしょう。

>大衆の目

を僕は無条件で信頼はしません。大衆が常に正しいと考えるべき根拠を知らないからです。歴史上、大衆は何度も何十度も何百度も何千度も間違えています。これからは間違えないと考えるべき根拠があるでしょうか。もちろん、大衆の支持が通ぶった似非評論家の目などよりよほど的確である場合だってあるかもしれません。しかし、「常に」そうであるとは限らない。人間は時に間違えるのだから、人間の集団である大衆も時に間違える。それがあたりまえだと思います。たしかに何十年というスパンで見れば大抵の駄作愚作は淘汰されて消えていくものと思われますが、だからその時その時その時の作品を批判する必要がないとは思いません。

>だって「娯楽」なのですから。受け手が楽しんでくれるなら、それでいいじゃないですか。

僕はそれを否定しません。どんな作品でも個人が読んで愉しむことは自由です。ただし、受け手がどれだけ愉しんでいようが、駄作は駄作だ、くだらないものはくだらない、とは主張します。どんなに世間で流行っていてもダサい格好はダサいように、どんなにベストセラーになっても低劣な内容は低劣。某新興宗教の教祖が書いた小説や説法の本などは、たぶん合計何百万部も出ているかと思いますが、だから良いとは信じません(きちんと読んだわけではないから、くだらないとは言い切れないけど)。ただし、前述のようにどんな駄作でも読んで愉しむことは自由で、べつになんの問題もないと思います。

78 名前 : 三田 誠 投稿日 : 2004年06月26日(土) 02時20分39秒
こんばんは。
本来、自分のレスにつけておくことですが、ちょっと誤解があるようなのでそこの訂正だけ。

>たしかに何十年というスパンで見れば大抵の駄作愚作は淘汰されて消えていくものと思われますが、だからその時その時その時の作品を批判する必要がないとは思いません。

スレッドからしてそうなわけですが、くみにゃさん→新木さん→僕→海法さんとお話しているのは、「ジャンル」レベルでの話ですよ(少なくとも僕の認識では)。
作品レベルであれば、トンデモなんかが流行ったりするのは当然のことですので。

79 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月26日(土) 07時09分54秒
大森さんが、豊崎さんと共著の『新人賞メッタ斬り!』でメッタほめておられたので「そんなにおもしろかったのか!」とあわてて『陋巷に在り』(酒見賢一さん)を読むことにしました。で。
新潮文庫のこの本の第一巻のアトガキを、お読みでないかたがた、どうか読んでみてください。ちょっと長いですがタチヨミできない分量ではない。
コトバはそもそも呪術であり、かきとめたそれはまさにそうだ、と酒見さんはおっしゃっておられますです。
なるほどー!
だから、よそのシャーマンが強力な呪文つかったりシキガミを飛ばしたりすると魂がヒリヒリするのね。こっちの結界(←のつもりのとこ)に踏み込まれたりすると「くそー、破られたか!」って、いきなり戦闘モードの音楽かかっちゃうのね。

80 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月26日(土) 07時10分28秒
まちがった。文学賞メッタ斬りでした。

81 名前 : 新木 伸 投稿日 : 2004年06月26日(土) 09時55分46秒
>>自分がどう思おうと、大勢に支持されて、売れたもんが価値のあるものなのです。

 これに関しては、話の流れ上、自分のスタンスを明らかにするために、やや誇張して書いてしまったようで……。

 僕は「絶対的な価値」とかいうものは信じていない人間ですので、ここでいう「価値」というのは、大勢の選択したものは、すくなくとも、その選択した当人にとっては価値のあるものであろうと、そういう意味です。
 大勢が価値を認めたということが、つまり、売れるという現象なわけでして。
 売れたモンとは、つまり、大勢が価値を認めたモンなわけです。

 消費者の目というか、市場原理というものは、存外に真っ当であると思います。
 完璧に真っ当ではありません。しかし必要充分なくらいには真っ当である。僕はそう思います。

 そもそも自分が何のために作品を書いて世に出しているのかと考えてみれば、「他人の評価を受けたい」からなのですね。
 俺、これは面白いと思うんだけど、君、どう思う? ――その回答をYESなり、NOなり、具体的な形で、不特定多数の読者にぶつけてみて、返答を貰いたいがために、値段を付けて売ってみるわけです。
 「金」というものは、誰に対してもかなり普遍的な価値を持つものでして。価値につく値段というのは、かなり真っ当なものだったりします。

 他人の評価を受ける必要がないのなら、世に出して問うてみる理由はないわけです。たとえば完璧な自信があり、世界中の人々がノーと言っても、自分一人は価値を信じ切れるようなものだとかなら、わざわざ世に出して問う必要はありません。
 また他人の評価があてにならないものに思えたなら、やはり世に出して問うてみる理由は消失するわけです。

 そんなわけで僕は、いま現在、この市場原理は完璧ではないまでも、それなりにまっとうなものだと思っていますし。もし今後、小説における市場原理が真っ当でないと感じるようになったなら、商業的に小説を書いて世に問うことはやめるでしょうし。


 というか、小説というジャンル内であれはいかん、これはいかん、なんてやっている場合ではないと思うのですけど。
 携帯電話の料金やら、ゲームに掛けるお金や時間やら、漫画やら、そういったものと競合して、「携帯よりゲームより漫画より、小説のが面白いよねー!」と言ってもらって、小説にお金を使ってもらわなければ困るのですよ。我々は。プロは。生活かかっていますし。
 人が生存するのに本来不必要なものを作っていて、生活できてしまえるなんていう、夢のような生活が維持できているのも、小説というものが広く娯楽として認知されているからなわけで。

 10年、あるいは20年も前なら、小説と競合する娯楽の強敵はないようなものでしたけど。時代の流れにともなって、無数の強敵が続出しているわけですし。
 小説内部の細々したジャンルに目くじら立てて、ライトノベルは軽薄低俗だから排除せよ、なんて言っているよりも……。小説というメディア全体が、他の強敵メディアにいかに対抗し、それに勝る希求力をいかにして持つのかということを考えるべきなのではないかなぁ、と。
 まあライトノベルだけが生き残って、他の小説メディアが軒並み衰退滅亡してしまっても、ライトノベル作家の僕としては、痛くも痒くもないんですけど。

 どうも、なんの疑いもなく、「小説は百年経っても残っている」と盲目的に考えておられる方が多いような気がするのですが。気のせいでしょうか。

 僕は、そうは感じていません。
 なんの工夫もなく、なんの変化もないままであれば、百年後はおろか、ほんの二十年後にさえ、小説というものは残っていないかもしれない――と、そう感じています。

 これまで小説は、主人公の心理をベタ書きしてしまえるという他にない特性ゆえに、「感情移入」に関しては、すべてのエンターテイメントの頭を押さえて、ナンバーワンの座に君臨しておりました。しかし現在では、すでに「ゲーム」にその地位を奪われてしまっています。
 なら進化すべき方向としては、3Dゲームのリアル体験に打ち勝てるような「主人公一体度=感情移入度」を備えてみるとか。

 またムービーに代表される強烈な絵的イメージを放射してくるメディアに対しては、越えられないまでも、肉薄するようなイメージ伝達度を備えてみたりとか。

 小説っていうのは、現在の形で完成されたものではなく、まだまだ進化の余地が残されているものだと思うのです。

 まあ、このあたりのことに関しては、僕は実作者ですので、言葉で語るより、自分の仕事で語るべきところでしょうが。




>見下されている(かもしれない)ライトノベル

 僕個人には、見下されているというコンプレックスはまったくないですし。
 世間からあらぬ偏見を向けられているという被害意識もありません。
 ジャンルとしては隆盛を誇っていて、週間ベストセラーランキングなどを見ても、一般文芸に引けを取らないポジションを占めていますし。
 ロングセラーという点からいっても、20年以上も新刊で売られ続けているものもあります。たとえば菊池秀之氏のエイリアンシリーズであるとか。「ライトノベル」という言葉自体よりも寿命の長いライトノベルもあるわけです。

 「ライトノベル」という言葉に対しても、「軽妙な小説」というふうに、肯定的に捉えていますし。
 自分は「ライトノベル作家です」と胸を張れます。
 ライトノベルという言葉が出てきたときにも、うまいネーミングを付けたものだなぁ。と思っていましたし。

 自分自身、十代の頃から、ライトノベル――当時はジュブナイルと呼ばれており、ライトノベルという言葉はまだ発明されていませんでした――を、「楽しいもの」として受けとめて、読んでいましたし。
 なにが楽しいものであったのか。年代も感性も自分に近い等身大の主人公が登場して受け入れやすいこと。そして現実に近いけれど、ちょっぴり非日常感のある舞台で心躍る物語が展開すること。この2点でした。
 書き手に回ったいまでも、その楽しさを込めるように努力しているつもりですが。はてさて。


 あと僕個人には、「大人の鑑賞にも耐えられる素晴らしい作品がある」ことを証明するようなつもりはありません。

 ライトノベルは子供(青少年)の観賞に供するものであると考えていますし、大人の鑑賞には、それ向けの小説があってしかるべきかと思います。子供心を残した大人の方には読んでもらいたいと思いますが……。子供を主人公にした話にリアリティを見いだせなかったり、興味を持てない方もいますから、べつに無理強いするつもりもありません。
 小説には「対象読者」という概念があります。上下5歳から10歳程度までは許容範囲であるとしても、対象年齢や対象読者層を大きく外れた人物を楽しませることは、並大抵の技量でできるものではありません。
 子供の観賞に耐える大人向け作品が少ないのと同様に、大人の鑑賞に耐えられる子供向け作品もまた、少ないわけです。
 そういった現象自体には、とくに問題はないかと思います。また対象読者が広いことや、狭いことにも、なんの優劣もないかと思います。
 対象読者の広い作品は、限定された狭い読者への希求力は弱い傾向があります。たいていトレードオフの関係です。




>批判ということ

>>どんな作品でも個人が読んで愉しむことは自由です。ただし、受け手がどれだけ愉しんでいようが、駄作は駄作だ、くだらないものはくだらない、とは主張します。

 ここのところが、どうにも、わからないのですけど……。

 個人がなにを愉しむかということは、自由ですよね。そこはわかります。
 また個人がなにを駄作であり、なにを傑作かと思うこともまた、自由ですよね。そこのところも、わかります。

 ただ海燕さんは、「駄作は駄作だ、くだらないものはくだらない」と主張するそうですけど……。
 これはなぜなのか。なぜ自分の感じる良し悪しを、周囲に向けて大々的に主張しなければならないのか。
 そこのところが、僕にはわからないわけです。

 僕自身は、世に対して「傑作である/良い」という風評を広めることはあっても、「駄作である/悪い」という風評を広めることはしないものでして。


 仮に海燕さんが、「駄作である」と主張する作品があったとします。
 しかしその作品のことを、「傑作だ」と思っている人もいますよね。
 海燕さんの「駄作である」という声は、そういう人に向けて発せられるものなのでしょうか? 「駄作である」という主張は、自分とは違う認識を持つ相手に働きかけて、自分と同じ認識に揃えるために発せられるもの?
 しかし、ある人が傑作と思っているものを、他人から駄作であるとけなされることは、まず反発や不愉快な感情しか呼び起こしませんよね。「ああ。やっぱりこれは駄作だった。私の目は曇っていた」などと考え直すことは、まず起きないかと思うのですけど。

 また、その作品のことをよく知らない人もいます。
 そういった人に対しては、海燕さんの「あれは駄作である」という主張は、予備知識を与える役割を果たしますよね。鵜呑みにしたなら、「あれは駄作らしいから、避けておこう」となるわけです。実際に作品に触れることなく、その作品からの回避行動を取らせることになります。そのために発される主張なのでしょうか?

 もちろん海燕さんは、駄作であるという主張ばかりでなく、傑作であるとも主張しているのだと思います。
(実際、そうであることは僕はよく知っていますけど)

 しかし、「あれは駄作である」の声は、どういう意図を持って発せられているものなのでしょうか?

 要点をまとめますと……。
 思うことは自由。そこには賛成です。
 ただし思ったこと(特に否定的意見)を、わざわざ言うのはなぜなのか。ということです。

82 名前 : 葛西 伸哉 投稿日 : 2004年06月26日(土) 19時04分23秒
 簡単に。
「健全な市場原理」を尊重するのなら、批判・否定的な意見の発信も肯定するべきでは?
 面白い物を面白い、つまらないものをつまらないと受容者個々が自由に述べてこその「健全な市場」ではないかと。
 ただ、その批評や感想自体が公に向けた発言であれば、その発言も更なる批評や検証の対象になるというだけのことで。

83 名前 : 新木 伸 投稿日 : 2004年06月26日(土) 23時40分27秒
>>「健全な市場原理」を尊重するのなら、批判・否定的な意見の発信も肯定するべきでは?

 言葉が足りませんでした。

 批評を発信するということ。
 自分が批評を行えば、その意見がまた、さらなる批評の対象となる。それを承知の上であれば、肯定も否定も自由である。――そこに関しては、同意です。

 僕が海燕さんに訊こうとしたのは、肯定なり、否定なり、ある作品に対しての評価を言明して、発信するその動機のほうです。

 ある作品を面白いとするなり、良いとするなり、肯定する意見のほうは、僕にもわかるのですね。
 それは自分が良いと思うものを広めたいという気持ちからでありましょう。

 これは実作者である僕もやっていることですので、たいへんよく分かります。自分が面白いとおもうものを広めたいがゆえに、作品を書いて頒布しているわけですから。良いと口で批評するだけというのは、いかにもローコストすぎる気はしないでもありませんが、それは個々の取り得る方法の違いというものでありましょう。
 ここに関しては、自分と同じものなのであれば、わざわざお伺いする必要はないわけです。


 ただ否定するほうが、これがどうにもわからないわけです。
 小説家はやらないことですので。
 たとえば有毒物質が含まれている食品を告発するとかであれば、そこにはおよそ万人が認めうる正義があったりするわけです。放置しておいたらとんでもないことです。誰であろうと知り得た人が、すぐに世に向けて発信すべきことでしょう。

 ただ小説っていうのは、そうしたものではないわけですし。
 ある作品をつまらないとする人もいれば、その同じ作品を大変良いとする人もいるわけです。はじめから統一された価値観などないところで、様々なものが雑多に存在しているわけです。そして市場の荒波に揉まれていると

 どこかの誰かはきっと肯定しているであろう「ある作品」に対して否定的意見を感じるということは、突き詰めるならば、「自分の美学には合わない」ということなのでしょう。とても個人的なことです。

 それを表明することに、どんな意図があるものなのか。
 そこが知りたいわけです。

 気にいったものを広めたいという心境(肯定的意見)と、気にいらないものをなくしたいという心境(否定的意見)とは、じつは等価なのかもしれません。

 ただ肯定的意見を発信することは、気に入ったものを広める効果を期待できます。またその作品を気に入る人が出てきたなら、その人に対しても利益を与える行為ともなります。「こんな面白い作品を教えてくれてありがとう」と感謝されます。

 しかし否定的意見を発信することには、気に入らないものを消し去る効果が本当にあるのでしょうか? また仮に気に入らない作品を消し去ることに成功したとします。するとその人は、なにか利益を受け取るものなのでしょうか。
 そうした作品でも気にいっている人はいるわけですね。そうした人にとっては、迷惑この上ないことなのでは? 「こんな作品にハマっていた自分の目を覚ましてくれてありがとう」なんて感謝は、あり得ない気がするのですね。

 ――と考えてみたうえで、肯定的意見を発信することは意味があることだけど、否定的意見を発信することは、意味がないのではないかと思うのです。

 これは批判する自由があるかどうかとは、別の話。
 否定的批判には意味があるのかどうか、という話だとお考えください。

84 名前 : 削除しました 投稿日 : 削除しました
削除しました

85 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月27日(日) 08時42分36秒
否定的批判に意味があるのか?
もちろんある、とわたしは思います。
なぜなら、マスコミは、どっちかというとそれをやりたがらないからです。

わたしなんかのとこにもたまに「もうすぐこんな本を出します。オススメです。よかったらご高評ください」みたいな一筆つきで、非売品の状態の(カバーがまだついてないとか)本が送られてくることがあります。
わざわざそこまでテマと予算をかけるからには版元は、どうやらそうとうにがんばって売りたいんだなぁというのが歴然です。
そーゆーもんには、(そんな熱心な宣伝をめったにしてもらったことのないワタシとしては)まず嫉妬と敵愾心がある。
とーぜん、重箱の隅までつつくつもりで読みます。

もし読んで「絶賛」を送ると、それが「だれだれさんのコメント」というのを明かした状態で新聞広告などに使われたりする。版元さまとしては、そういうコメント欲しさに、あちこちにバラマクわけですね。こちらも、コメントの発言者としてだろうとなんだろうと大新聞各誌に「名前が印刷してもらえたら」そりゃートクなので、できればホメたいわけです。絶賛したいわけです。ひとのフンドシで相撲をとることになるとはいえ、めだってナンボですから。

ところがです。
一読「……ウッ……」で、とてもじゃないけどホメられないと感じてしまったりすると、これが困る。
ホメたい。でもホメられない。引き裂かれます。
引き裂かれますが……わたしは実作者で、さらに新人賞関連とかでいろいろ書いてきたりした人間なので、あまりなモノを誉めたりすると、自分で自分のくびをしめることになる、と感じます。
ああ、ちくしょう。なんでこんなタコな本送ってくるんだよ!
なんでもっと本気で「ステキー」っていえるのを送ってよこさないんだよ?
引き裂かれる苦痛に、ほとんどサカウラミします。
しかし結局は……久美沙織がちょーホメてたの読んだけどサイテーじゃん! あいつ、わかってねーなー、趣味わりーなー、といわれるのはなによりイヤだ。そんなことになるぐらいなら、大新聞に名前が出る素晴らしいチャンスを……ああ、くやしいけど、しょうがない、棒にふろう! と選択します。
で、泣きべそかきながら、黙ってる。
すると、これがまた、電話とかメールとかで「いかがでしたー?」なんて連絡かかってきたりする。
いや、版元さまは、ほんとーにアンナモノを売りたいらしい。

しょうがないので「すみません。読ませていただきましたが、わたしにはちょっと……いまいち理解できなかったというか」なんてなるべく穏当にゴニョゴニョ申したりしますと(あまりにヒドイ時、送ってくれたひとがナカヨシの時とかは、もっと正直にひどすぎるでしょーあんなものよこすなよバカ、みたいなことも言っちゃったりしたこともあったかも)「わかりました、どーも」でサヨウナラ。

もちろん「ひどい。最悪。読む時間がもったいない」なんて感想は、広告などに出ることはゼッタイにありません。
そして、そんな本でもなぜかイケると思われたらしいかたがたの手放し大絶賛が、新聞の一面広告などの大金をかけたところに並んで、多くのひとの目に触れます。その作品は、実はハリウッドで大作映画を制作中で、先行発売する原作本は初版ウン万部、わずか一週間後にたちまち重版! とかになるわけです。

たくさん売れたならそれでいいじゃないかそれだけ価値があるということじゃないかという理屈からすると、この作品は「大成功の大傑作」になるわけですが……正直こうなると、はっきりいって、内容は二の次です。宣伝戦略の勝利です。
版元が「これを売ろう、なんとしても売ろう」と決心して手間と予算を惜しまなければ、そーとーいきます。そーとーいくような決心をさせる要因は、たいがいの場合、「別の要因とのからみ」です。映画化、テレビ化とか。芸能人有名人のひとの本とか。

そういうのに比べると
「この小説はすごい。好きだ。傑作だー!」
という、編集個人のオモイイレなんかは、そんなにたくさんの予算とか使えないです。ザンネンながら。

なにしろ本の場合、いったん売っちまえば、返品はされないですからね。2ページほど読んでBOOK OFFにソッコー持ってかれても、部数は出る。部数が出れば、それがまた「強力な宣伝材料」になる。
そして、ベストセラーはベストセラーだから買ってみる、というかたがたが、世の中にはけっこう大勢おられますからねぇ。もちろん、その中には「どれどれ。どんなもんだ?」と懐疑的に読んでみて、「なんだこれは。なんでこんなに評判がいいんだ? もう××(←ホメたひと)の言うことなんか信じねぇぞ!」ってひともいるかもしれませんが、
「へぇー。これが“いい”小説なんだ。いまどきはこういうのがハヤリなのね」と素直にうなずいて、さらに、素直に感動してしまうかたもあるでしょう。

行列のできる食べ物屋さんにはつい並んでしまって、並んで待って食べる。待ってる間にどんどん食欲が増進したし、せっかく待ったんだから「おいしかった」と思わないとクヤシイ。だから、美味しいと思う。そういう心理は否定できるものではない。

ベストセラーを読んで「つまんなかった」ときっぱり言うには、それを「おもしろがった」大勢のひとたちとは「違う」こと、そこから「孤立すること」になる。
たかが本一冊、好きなように読めばいいだけなので、おもしろがるおもしろがらないでエライエラクナイが決まるわけじゃなし、なにもそんなことでケンカする必要なんかないんですけど、ひとが喜んでるものをうっかりクソミソにいったりすると、これはまずゲキリンに触れる。
「なんで? なんで素直に感動しないの? あんたへんだよ。そもそも、そんなにエラソーにいえるほどのあんたナニサマ?」って。

自分が面白いと思ったもんをひとにけなされると、不愉快ですからねぇ。「わからない」ひともある、と思えるならいいですが、相手の言い様がカチンとくると、なんだかそんなクダラナイもんを面白がった自分がバカにされたような気がしたりちゃいますからねー。

でもって……ここまで書いてきたのとちょっと反対になっちゃうかもしれませんが、ひとが好きになって喜んで面白がってるものの話をすると、まるでわざとのように些細な欠点を列記してやたら分析的にクソミソにいいたがるヤツっていうのも世の中にはいます。誰かが「いい」というと反射的に「よくねぇ!」といいたくなるタイプね。とりあえずまず「NO」といってから、その理屈を考える。これがまたみごとにいくらでも出てくるんですねぇ。よくない理由が。そーとー長いこと聞かされてから、なんだかへんだなぁと思って、ひょっとしてアンタ実はこの話題の作品まったく読んでなくない? って訊ねると「あたりまえだろう、そんなくだらないもの読めるか」(笑)……いや笑い事じゃねーですが。

誰とはいいませんが、その昔、とあるマンガ賞の授賞式でバッタリあったとあるひとが、授賞した作家のその作品がどんなに無意味で時代遅れでくだらないか、口をきわめてののしるのでヘキエキしたことがあります。そのかたはたぶん、自分のほうがよっぽどその賞にふさわしい問題作をたくさん書いている優秀な作家なのにこれまで何年も待っているのにちっともくれない版元とか選者を憎んでいて、その賞をとれちゃうひとはみんな「コスっからく、うまいことやりやがった」ヤツラだと思ってたに違いない。いやその気持ちもわからなくはないですけど(わたしだって賞とったことないし)。悔しいからって権威を貶めたり何かをただただ軽蔑したりするっつーのは、イソップの酸っぱいブドウのキツネさんだよねー(笑)。たまたまパーチーで隣になったわたしにブツブツ言うぐらいなら、どっかに書くなり、発言するなりしろよ、と思うんですけどね。

話を戻すと、新聞雑誌等の署名入り書評欄などでも、否定的意見はあまり見かけません。思わず罵倒したくなるようなものは、みなさま、お読みになっても、それについてまったくコメントしないのがふつうなんだと思います。読んだのになんら言及しない、ということが明確にわかればそれが十分批評になるわけですが……「ここんとこが惜しい」「前作に比べると期待に応えてくれなかった点もある」ぐらいに書いてある時には(そのコラムの著者にもよりますが)たいがいの場合、「ははぁ、ようするにダメなのね」と受け止めるのが正解だったりする。ビミョーなところまで読み込むと、あまりにヒドいので何か言くなっちゃったけど、セキララはヤバイから、一見ホメてるようにみせかけてチクリとクギをさしている、実はやめとけよ、とメッセージ発しているかもしれないものがけっこう見つかったりする。すると、「どれどれ、どこがそんなにビミョーなのよ?」って逆に読んじゃったり。

映画評とかだと「これはちょっと」と素直に書いてあるのも少なくないのに……おすぎさんとかね。あっ、でもヨドチョーさんはどんなヒドイ映画でもなんとかしてホメるのが芸でしたねぇ。映画がひどすぎる時は、登場している俳優の別の作品をホメるとか(笑)これまた注意深く聞きさえすれば「ははぁこの映画はひどいのね」とわかるようになっている。
ヨドチョーさんは「映画は映画であるというだけで素晴らしい。どの映画もみんな愛さずにいられない!」ひとだった。
だからこそ……それでもあまりにも「ちょっと」な時には、ちゃんとそれがわかるような伝達のしかたをした。

そんなこんな考えると、否定的としか言い様のない批判にも、十分意味はあるし、そういうものを受け手としては大事にしなきゃならないんじゃないかとわたしは思いますが。

ちなみにシメキリ伸びました! ていうか、ケツカッチンしていたアトのやつのほうが伸びたので、もともとそれ自体としては余裕のあった書き下ろしの期日をいっぱいまで使えるようになったというか。やれやれ〜〜〜! でもここでユダンするとまたケツに火がつくのは自分だッ!

86 名前 : 葛西 伸哉 投稿日 : 2004年06月27日(日) 15時38分00秒
新木さま

 私も自サイトでは映画や舞台などに対して否定的な意見も含んだ感想など述べているので「その意図を知りたい」という事でしたら、今回はいち「当事者」の意見として書かせていただきます。
(ところで新木さまは小説の中で「作者が否定したいテーゼを体現したキャラを悪役として登場させる」というケースについてはどうお考えですか? 新木さまご自身がその手法を採用するか否か、是か非かという事ではなく、そういう手法を用いた作品は存在しない、あるいは例外的少数とお考えなのでしょうか?)

 さて、ある作品について否定的な見解を公表する動機・意図ですが、私自身が実際に持っているものを含めて、以下のようなものが想定できます。

1.意思の表明
 装丁の印象や事前情報に基いてある本を購読する事で「買う価値、読む価値がある本」と判断したという、いわばプラス票を投じた形になります。で、実際に読んだ後でつまらないと判断したら「読んだ結果、つまらなかった」と自分の立場をニュートラルか、より正しい側に移すべく意思表明するのは自然な事でしょう。少なくとも当人の心理として。
 実際の書名を挙げるのは差しさわりがありますけれど、ベストセラーでも「話題の本だから」という理由で買ってみて、ネット上で読後の不満を表明している人がたくさんいるものもあります。中には「そんなに酷いのなら話の種に読んでみよう」という人もいます。
 ここで否定的言説の発表が許されない事、不自然で特殊な事だったらどうでしょう。売れたという事実だけが残り、読んだ人間が不満を感じたという方のデータは提示されない。これで「健全な市場原理」が作用するでしょうか?
 私は市場原理を尊重はしますが、無条件で信奉はしません。「売れているものにいい物が多い」というのは統計的・確率的事実ですが、絶対の真実ではないと思います。売れるか売れないかというのは極めて普及し、有効なモノサシではあっても唯一絶対の尺度ではありません。少なくとも、複数の異なる判断基準が並列していた方が他者の参考としても有益でしょう。
 売れていてもダメなものはあるし、売れないものの中にも何らかの意味で有意義なものがあるはずです。少なくとも、そう考えないと私ごとき売れないフィクション屋はやってられません(苦笑)。

2.共感や批判を求める
 ある作品について自分の意見を明らかにする事で、同じ感想を持つ人からの補完、あるいは反対意見を持つ第三者の検証を受ける事ができます。その議論を通じて自分の見解が修正されたり、知識や思考力が深まるというのは単純に喜びです。
 納得できない反対意見であっても、他人の考え方を知る機会としては貴重ですしね。

3.ストレスの解消
 そして、何かについて意見や感想を述べるというのは別に具体的な影響力・効果を及ぼす事だけが目的とは限りません。少なくとも、ネットが普及した現代では、多分新木さまが考えているよりも敷居の低い、気軽な行為です(だから、個々の情報の重要度・影響力は相対的に低下してるとも言えるわけですが)。
 自分がつまらない本を読んだり、ダメな映画を見たりした時に、その感想を腹の中に溜めず、友達に話したりすることでスッキリするという経験はありませんか? あるいはしょーもないダメ映画のビデオと酒、ツマミを持って友達のところに遊びに行った事は?
 現代では、それと同じ事をネット上で不特定多数に向かっても行えるというだけの話です。仮にこういう行為を禁じて、有益で思慮深い情報しかネット上に存在しなかったら、それはそれで不自然ですし、つまらないと思いますよ、私は。


 ご考察の参考になれば幸いです。

87 名前 : 新木 伸 投稿日 : 2004年06月28日(月) 00時13分05秒
>葛西さん

>>「作者が否定したいテーゼを体現したキャラを悪役として登場させる」というケースについてはどうお考えですか?
 その物語のなかで、悪役というものは、好ましい属性を備えた主人公によって打ち負かされるわけですよね?
 はっきり悪役として立っているキャラが、最後に負けることなく勝ってしまうのであれば、勧善懲悪から外れたパターンです。僕は実例を出せないのですが、例外的少数だろうと思われます。(イソップ童話の原書のほうにはあったような気も。悪人がのさばって終わる話とか)
 そもそも登場人物に善も悪もないというパターンもありますけど、それはまた別となりますよね。善悪に塗り分けすることを嫌う価値観の提示であったりとか。
 ちなみに僕自身は、自分の嫌う悪党が出せなかったりします。せいぜい小悪党として描くのが関の山。読者がその小悪党に感情移入してしまうようなシーンを一回くらいは差し挟んで、さらに心理的クッションを置いてしまう軟弱ぶりです。
 嫌悪しか向けられない本物の悪党ってものが、どうしても出せません。
 エンタメ作家としては弱々な限りなのですが(笑)。

 物語で悪役が出てきて倒されるという構図では――。
 いちど「否定すべき対象」を具現化させたうえで、それを懲戒して破滅させることで、教育的な効果を狙うわけですよね。

 物語内においてテーマを立てるときに使う手法と、ネット上などの批評行為で否定的意見を発信することと……。
 ぜんぜん関係ないじゃん、と切り捨ててしまえる気もするのですけど。なんだか引っかかるところがあるので保留とさせてください。考えますので。

 どなたか、明かりを射しこめられる方の参戦求む。
 もしくは勿体付けずに葛西さんが考えを述べてくれるとか。なんか隠してるんでしょう〜? (笑)


>>1.意思の表明
 本を購入することで投じてしまったプラスの一票が誤りであると気づいたために、それを回収するためにマイナス票を投じるということですね。
 これはいままで考えたことのない観点でした。
 たしかに個人としては自然な動機であるかと思います。ただ自然であるからといって、それが理性的かつ合理的であるとは限りますまい。
 まず「大勢の購読者のうちの一人」という、サイレントに投じられたプラスの一票に対して、わざわざ声を大にして表明されるマイナス票は、重さとして釣り合わないと思います。大勢の聞こえるところで、大きな声で物申すことは、マイナスに大きく振ってしまうことになるかと思うのですが。
 釣り合いという観点で考えるなら――。
 ひとりの友人から「あれ読んだ? どうだった?」と訊ねられたときに、「読んだけど、面白くなかったよ。読まないほうがいいかも」というぐらいが、自分の一票をリセットしてニュートラルに戻すという意味では、ちょうど良い代償を得られるバランス点だと思います。(自分が誤った投じた一票のかわりに、自分が影響力を及ぼせる他人が一票を投じることをストップさせる。1票と1票とでバランスする)
 大勢に向けて表明することは、明らかに、それを越えていますよね。

 あと、損したと思った読者が腹いせのために取っている方法のひとつとしては、ブックオフに叩き売って、いくらかでも資本を回収することですよね。
 まあこれは別な面で問題噴出となるのですけど。つまらなかった本への腹いせとか、個人のストレス解消としては効果的なのかもしれないけど、出版界全体にダメージを与えて、回り回って「読者」である自分の利益も損なうような、空に向けて唾を吐くような非理性的な行為なわけです。



>>売れていてもダメなものはあるし、売れないものの中にも何らかの意味で有意義なものがあるはずです。少なくとも、そう考えないと私ごとき売れないフィクション屋はやってられません(苦笑)。

 ここは、僕とは逆でしょうか。
 売れていてもダメなものはある――と考えはじめると、妬みやら、嫉みやら、不公平感やらが渦巻いて、ややこしい底なし沼に落ちてゆくばかりだと思うのですけど。
 売れているものは、なんらかの売れている理由がある。ただその「良い部分」が、自分の狭隘な感性に引っかからないものであるだけ。としておいたほうが、心穏やかに過ごせると思うのですけど。僕的には。
 「オッカムの剃刀(※注)」という話がありますけど。
 「売れている」という現象を説明するときに、「売れているけどダメなものはあるし、良い物もある」とするのと、「売れている物はすべて素晴らしい」とするのでは、どちらが必要な仮定が少なくなるかと考えていきまして……。
 後者のほうがよりシンプルであったので、僕はそちらで納得することにしているのですけど。

(オッカムの剃刀。ウィキペディアより引用)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%A0%E3%81%AE%E5%89%83%E5%88%80
(オッカムのかみそり; Occam's Razor)は、13世紀の神学者オッカムが考えた哲学主題。
現代でも、科学理論を構築する上での基本的な指針として支持されている。
「ある事柄を説明するのに、必要以上の仮説を立ててはならない」というのがそれである。言い換えると、「現象を同程度うまく説明する仮説があるなら、よりシンプルな方を選ぶべきである」



>>2.共感や批判を求める

 これはわかります。ただこれを主目的にして批判意見を述べるのなら、アプローチの仕方が変わってくるはずですよね。
 「俺、○○はすげぇつまらなかったんだけど、みんな、どうよ? あれ面白いと思った人いる? どこが面白かった?」とかになるでしょう。
 この「2」が主目的である意見表明は、見てすぐにわかります。
 また否定的意見を述べつつも、建設的方向に向かおうとしていることがわかりますので、見ていて不快感も覚えません。また肯定派の人だって、相手を納得させれば仲間が増えますので、望むところでしょうし。



>>3.ストレスの解消

 ストレスの解消という狙いも、とてもよくわかるんですけど。
 しかしそれなら公共の場所で、不特定多数に対してやってもらいたくはないですねぇ。
 たとえば家庭内やら、もしくは仲間内やら、特定の知り合いとかで、愚痴でも不平不満でも聞いてくれるだけの間柄の人に向けて言うのならともかくとして。
 不特定多数というのは、一面識もない相手ということです。
 赤の他人の方々をいきなりとっ掴まえて、自分のストレス発散のために、○○がいかにくだらないかということを語るという行為は、時代やマナーの変化というものを考えに入れたとしても、まだちょっと、不作法の範疇に入らないでしょうか?
 よほど温厚な人でも、これをやられては、不快感を感じると思うのですけど。
(それを言うなら、赤の他人をとっ掴まえて、○○がいかに素晴らしいということを語ることもまた不作法ってことになるのでしょうが)

 ネットに書いて、人に見せる、ということは――。つまり、赤の他人をとっ掴まえて、ストレス解消をはかるということですよね。

 葛西さんの論では、ネットが普及した現代では、個人が不特定多数に影響を及ぼすという行為が気軽に行われていて、それを肯定してように思えます。
 ごく親しい友人を電話で掴まえて愚痴を聞いてストレス解消するのと同じレベルで、見知らぬ他人を掴まえて、つまらなかった作品への憤りをぶつけてもいいとするわけですよね。
 僕は、それはどうかと思いますけど。僕個人の価値観とか倫理観とか美学的に。

 ただその状況が面白いかどうかと考えると……。
 面白そうではありますね。たしかに活気はありそう。
 ただどうしても、それはいけないんじゃないか、という自分自身のモラルによるブレーキが掛かるわけですが。人間が古い?




>久美さん

 ええと、大筋でいうと、「マスコミではダメをダメということはやれないことだから、ネットではできてもいいんじゃない」ということでしょうか。

 最近、雑誌の一部ではホンネズバリの批評なども見かけるようになって、それなりの例外は増えつつあるようにも思いますが、一般論としては、やっぱりマスコミのメディアではホンネをズバリ書いちゃうとまずいですよね。スポンサーがらみのことが原因なのかと思っていますけど。
 ゲーム雑誌のライターさんとか。レビューを書くときに、いかにダメとベタ書きせずにダメを「描写」するか、そのへんで大変な苦労をされてますし。

 ただ、否定的意見を発信することの意味というか意義というか。
 否定的意見を大勢に発信する本人自身の覚悟というか、そうする狙いというか策略というか、そうしたものに関して久美さんは触れられていないままだと思いますので、そのへんについても書いていただきたいかなぁと。
 「そんなこんな考えると、否定的としか言い様のない批判にも、十分意味はある」とありますけど、ここが飛躍しているように感じられてしまって、わからないのです。


 以下、余談です。

 帯の推薦文とか。僕も前にたった一回だけ、依頼が来たことがあります。「褒めなきゃならないというのはわかりますが、作品を見ないことには、褒められるかどうかわかりません。ついでに言うと、僕が本当に楽しめて褒める作品って、市販小説の中にだって100冊に1冊もありません」とか、正直に話して、他の方に回してもらうことにしました。
 読者としては、すごくレンジが狭いんです。
 売れているものには自分の気づけない価値がある、と信じこまなければやっていけないのは、そうした事情もあります。
 久美さんもかなり好みが激しいようですけど。いままでの読書人生において、真に推薦できる本がぎりぎり二桁しかないという僕の貧しさに比べると、とても豊かなのではないでしょうか。

 実際、久美さんの場合には、どのぐらいの割合なのですか?
 「こんなモン」と「ステキ」の存在割合ってことですが。小説全般という大きなくくりでも、一般小説とSFとライトノベルと小分けにされてもかまいませんので、お聞かせ願えると嬉しいです。

 ちなみに、僕は上記のようにステキ率0%に近い人間なのですが、身近な人間を例に出してみますと、たとえば、僕がしょっちゅう電話でしゃべくりあっている、はせがわみやびさんなどは、ステキ率100%に近かったりするわけで。0〜100%のあいだで幅があるものだと思いますし、そのこと自体にエライエラクナイはないかと思います。
 また一般的な読者(サイレントマジョリティ)というものは、ステキ率に関して、すくなくとも50%より上にいるものだと思います。たぶん70%とか80%だとか。なにを読んでもみんな面白いと思う。でもお小遣いは限られているから、いちばん面白いものだけしか買えない。
 ちなみに、ここの「このライトノベルがすごい!」は、そもそも「まいじゃー委員会」と協賛関係にあるぐらいですので(それとも委員会内の一企画?)、ここに集まるような方々は、どちらかというと、ステキ率50%未満の、マイナーに属する方だと思われます。
 サイレントマジョリティの反対だから、ラウドネスマイナーとか?
 「まいじゃー」っていうのが、そもそも、「売れた物は、すでにまいじゃーにあらず」っていう概念ですし。


>>そんな本でもなぜかイケると思われたらしいかたがたの手放し大絶賛が、

 他の方が大絶賛しているものを、「手放し」と言ってしまうのは、どうかと思います。
 僕のときも、他の方が帯の推薦文を担当されて、絶賛されていましたけど、「ああ。その作品の価値を見いだせる人のところに仕事が行って良かったなぁ」と思いはしても、「あんなものを良いと思うだなんて」と思ったりはしませんでした。
 このときには、実際に読む前にお断りしていたので、どんな内容であったのか、いまだに知らないままなので、「あんなもの」とか思いようがないのですけど。
 ひょっとしたら、自分的にも大絶賛する内容であって、まさに僕のところに来るべき仕事だったのかもしれません。(およそ1%の確率で)


 宣伝と部数と内容とのカンケイ。については、方向が違うのでパスするとしまして。


>>そして、ベストセラーはベストセラーだから買ってみる、というかたがたが、世の中にはけっこう大勢おられますからねぇ。

 また久美さんがどうしても引っかかる種類の言い回しになってしまうかと思うのですけど。周囲の人間とのコミュニケーション(話題合わせ)のために買ってみる。眺めるようにして読んでみる。――という読みかたもアリかと思います。
 集中して精読しなきゃ、読んで欲しくない。――というのもアリでしょうし。
 どんな読みかたをしてくれたって構わない。たとえば話題作りのためだって。――というのもアリでしょうし。
 作者側の思惑は思惑。読者側の思惑は思惑。一致しているのが望ましいかもしれないけど、一致していないことが悪いわけでもない。
 僕の考えかたとしては、金を払ってくれる読者の目的こそが「正道」であって、読者にとって愉しみかたの邪道などないとなるわけです。
 「この本、すげぇトンデモ本だって聞いたから買ってみるー」でもいいわけです。
 作者の希望からしてみれば、トンデモ本として読まれるのは邪道な読みかたなのでしょう。しかし、トンデモ本を期待して買った人にとっては、それが正道ってもんですよね。
 金払っているのは読者なのだし。好きに読んでちょーだい、と、まな板の上の鯉状態というか。



>>ベストセラーを読んで「つまんなかった」ときっぱり言うには、それを「おもしろがった」大勢のひとたちとは「違う」こと、そこから「孤立すること」になる。

 僕的には、なんといいましょうか。最大限にオマケしても、ステキ率1%ってくらいなもんで、なにをどうしたところではじめから孤立していますので。
 わざわざ自分が孤立しているということを、声を大にして、「私はこんなにマイナーなのですよっ! みなさんわかってください!」と主張しなければならない理由が、よくわからんのですけど。叫んでも虚しくなるだけでしょう。そんなに孤立したいもの? マイナーでありたいもの?
 マイナーであることが孤高であって偉いわけではないし、メジャーであることが偉いわけでもない。そんなところでエライエラクナイは決まらない。そこについては、とても賛成です。

 ていうか、ステキ率1%の人間としては、メジャー側の群れの中に入りたくてたまらんわけです。感性がマイナーであったりメジャーであったりすることが、エライエラクナイと関係ないのであれば、マイナーが偉くないのであれば――。なら「寂しくない」ほうがいいなぁ。
 だから、僕が声を大にして言うことは、「みなさん僕はこんなにメジャーなのですよっ!」というほうなのですね。

 あっちいけ、ゆうなー。ゆわないでくれるといいなぁ。ゆわないでよ、ねぇおねがい。
 ――みたいな。



>>誰かが「いい」というと反射的に「よくねぇ!」といいたくなるタイプね。
>>これがまたみごとにいくらでも出てくるんですねぇ。よくない理由が。そーとー長いこと聞かされてから、なんだかへんだなぁと思って、ひょっとしてアンタ実はこの話題の作品まったく読んでなくない? って訊ねると「あたりまえだろう、そんなくだらないもの読めるか」(笑)……いや笑い事じゃねーですが。

 えーと。本題とは関わらないところで隅つつきで恐縮なのですが……。
 それから、もしかして……。久美さんの自嘲のニュアンスを込めたサインを、僕が見逃してしまっているだけかもしれませんけど。
 「ライトノベルはあかん」に関する久美さんの論が、まさにそうしたものではなかったでしょうか?
 なんだかへんだなぁと思っていたところに、ぴたりと、「じつは最近のライトノベルは読んでない」と来たわけですし。

88 名前 : 葛西 伸哉 投稿日 : 2004年06月28日(月) 01時37分39秒
新木さま

 悪役に関する話はネガティブ意見の表明の話とは別です。これは私の方が言葉足らずでした。でも、別に裏に秘めた意図とか、何かを誘導しようというつもりはありません。こういう時こそ「オッカムの剃刀」を振るってくださいよ。私が何か勿体つけているというのがいちばんシンプルな結論なんでしょうか?
 ただ、新木さまの以下の発言が気になったので確認したかったのです。

>>ただ否定するほうが、これがどうにもわからないわけです。
>>小説家はやらないことですので

 この書き方からすると新木さま個人のポリシーではなく、小説家一般という話ですよね? では、否定すべきテーゼを悪役に背負わせて、それを否定するタイプの小説の扱い・認識がどうなっているのか不思議だったのです。少なくとも、ひとりの小説家であるところの自分は「否定すべきテーゼを悪役に託して、主人公にそれを打破させる」という技法は普通に用いているもので。


「オッカムの剃刀」は私も存じております。しかし、現実の多様性を汲み取れないほどの過度の単純化は剃刀の乱用ではないかと。ヒゲは剃ってもいいですが、眉毛や耳までそり落としちゃ使いすぎというものです。
 例えばある本が売れた場合、もちろん「内容が面白い」という可能性が最大でしょう。しかし、それだけでは前回挙げたような「売れているけれど、読んだ人間の不平不満が噴出している」本の説明ができません。売れる要因として「装丁がいい」「宣伝が素晴らしかった」「同じ作者・同じシリーズの前作が素晴らしかった」「ヒットした映画やゲームの関連本である」「酷すぎると評判なので話の種に買った」などさまざまなものが想定できます。
「内容が面白い」以外の「良さ」も存在するのです。
 その可能性−−いえ、事実を無視して「売れたものは例外なく内容が面白い」とはしない。しかし、もちろん「売れた」という事実は揺るがない輝ける巨大な勲章であるし、私が認識できない良さがあるという可能性も無視しない。それが私の言う「市場原理を尊重はするが、無条件で信奉はしない」という事です。

 新木さまの論調で非常に気にかかるのが「人間の行動はすべて合理的であり、目的に適っており、理性的である。なおかつ個々人は己の行動が全体に及ぼす影響について常に配慮し続けなければならない」という事を前提にしていると思しき点です。それは個人のポリシーとしては有意義かも知れませんが、他者の行動にまで前提として適用するのはいかがなものでしょうか。
 私は「人間というのはもっと気分に左右されるし、不合理だし、個々人が勝手に振舞った結果として生じた現実を尊重すべきであり、結果としての均衡こそが『バランス』であり『秩序』である」という立場を取ります。
 現実に、現在ネットでは小説に限らず映画、演劇、ゲーム、ドラマ……さまざまなものに対して否定的な意見が表明されています。その現実が存在するという事実から目を逸らさないという意味では、確かに私は現状を「肯定」しています。
 極めて感情的だったり、何らかの私怨に基いているであろうバイアスのかかりすぎた評価もあります。もっと単純に人格攻撃やデマも存在します。こういう形での発言には不快を覚えますし、もちろん「賛同」もしません。必要とあれば反対意見の表明もします。ですが、私の倫理観や美学に適わないからといって現実が変わってくれるわけじゃありませんしね。
 ただ、前の発言でも触れた通り、誰もが気軽に情報を発信できる事によって相対的に個々の情報の重要度・影響力は低下していますし、上記の通り自己にとって不快・不利益な情報に対する訂正や反対意見の表明も気軽にできる事で、結果的にバランスは取れているんじゃないでしょうか? もちろん、現状がベストであり問題なしという意味ではありません。改善されるべき点や、技術の発達、機材の普及に比してモラルやルールが未整備な点もあるでしょうが、それは個々の参加者の行動や住み分け、必要とあれば法の強制などによって変化していくでしょう。

 話を根っこまで戻しますが、プロ作家というのは読者の金と時間を支払わせる代償に、その作品にどういう感想を抱くかという全権を読者に渡しているのだと私は考えています。購読した以上、それにどんな否定的意見を述べようが、口汚く罵ろうが、それは読者が当然持っている権利です(仮に、最初から貶すために買ったとしても、です)。
 その時「私が作品を貶したら作者や出版社は嫌がるだろうな」とか「この小説を好きな人は不快だろうな」と、全体のバランスまで配慮する必要はまったくないでしょう。
 極端なたとえ話ですが、新木さん流のバランス論、影響力の自覚論を突き詰めれば「私がこの作品を褒めると、この作品に反対の意見を持つ人は不愉快なんじゃないだろうか」「これを褒めた結果、迷っている読者の背を押した事になると、ライバル社のビジネスチャンスを奪ってデメリットを与える事になるんじゃないか」とかまで考慮する必要が生じて、結局肯定否定好悪に関わらず、いかなる意見の表明も不可能になっちゃいますよ。

89 名前 : 海燕 投稿日 : 2004年06月28日(月) 06時18分36秒
>否定的意見を発信することは、意味がないのではないかと思うのです。

僕は一貫して「作品の真価をあきらかにする」ことを続けているつもりなんですが。その作品がよくできた作品なら(僕がよくできた作品だと感じ考えたなら)そう書く、そうでないならやはりそう書く、それが表面的には時に賞賛的に見え、批判的に見えるだけのことで、内容を表現するための修飾に凝ることはあるにせよ、架空の長所や欠点を捏造しているつもりはない。

したがって僕にとって「批判する」行為は「否定する」こととはまったく異質なことです。僕としては、宝石を隅々まで鑑賞した結果、あらたな傷が見つかったとしたら「ここに傷がある」と正直に告げることが最も誠実な行いだと思いますし、じっさいに傷があるのなら、それはどうしようもない事実なのだから愛読者にとってそれがどれほど不快だろうが無理に隠してもしかたがないことだと考えます。

もしその指摘が論理的に間違えていたら、僕のほうがその誤りを指摘されるだけのことです。また「低劣なものは低劣だ」とは、わざわざ大声でその作品のひどさを宣伝してまわるということではなく、もしその作品について発言する必要が生じたなら、「多くのひとに支持されているから優れているに違いない」とは認めないということ、自分自身の判断によってのみ良否を決定しそれを発言し自分で責任を負うということです。

>しかし否定的意見を発信することには、気に入らないものを消し去る効果が本当にあるのでしょうか?

ひとの不幸は蜜の味、他人を不快にすることほど楽しいことがあるでしょうか。というのは冗談ということにしておいて、まあ、気に入らないものを消し去りたいと思って言っているわけではないんですね。たしかに批判的な論調の批評なり感想は読むものを不快にすることがあります。しかしそれもようするに書き方の問題が大なのであって、ほんとうに筋の通った批判というものは、熱烈なファンにさえ、「敵ながらあっぱれ」じゃないけれど、「認めたくはないが、たしかに理屈は通っている」と思わせるものであれるのではないかと思う。

むろんそれはけちな皮肉、嫌味、中傷、悪口、嘲笑といったものとは次元の異なるものでなければならないはずで、僕の場合はそこまでのものを書ける自信がないからつい幇間的な文章にとどまってしまう場合が多いのですが。正直にいえばネットに転がっている「批判」とはたんなる悪口や感情論である場合がほとんどだと思います。しかししばしばそれは読者自身がいかに浅薄な「読み」しかなしえていないかの証左になってしまいます。だいたいたくさん読んでいるマニアほど偉そうに主観を振りかざすものなんだよなー。自分の読みが浅いなんて考えもしないんだからまったく。

いや、まあ、なんか、ブーメランのように自分のもとに返ってきてぐさりと胸に突き刺さる言葉ですが。ぐさぐさぐさ。しかし、稚拙といい、未熟とはいっても、僕はこの世にあふれるすべての本に対してそれなりの敬意を持って接しているつもりです。それは個々の作家、作品へのリスペクトではなく、もっと大きな、「創造」というひとがひとを超える奇跡への敬意、無を操って有を生み出し、ただ想像力の鑿だけで現実世界から夢の世界を削り出す神秘の御技そのものへの尊敬の念です。

僕などは平凡が灰色のコートを着込んで曇天の下を這いずりまわっているようなありふれた人間ですから、非在の夢が渦巻く虚構の荒海へ乗り出そうという勇敢な旅びとにはそれだけで尊敬を感じます。すくなくともかれらはチャレンジャーではあるのですから。成功する可能性があるのは挑戦するものだけであり、その過酷な戦いに敗れ去った挑戦者たちの無数の無残な屍にうえにのみ、真の、その存在そのものがひとつの理想であるような傑作は生まれえるのだ、と僕は信仰しているのです。

>ステキ率

どの程度で率に含まれるのかわかりませんが、僕は生まれてからいままで本を読んで「損した。読まなければ良かった」と後悔したことはたぶん一度もないですね。本を読んで「金返せ」と怒る心理というものは実は僕にはさっぱり共感できません。どんな内容の本でも、読みさえすればかけた労力だけのものは得られると思う。長所や欠点がいくらあっても、あんまり関係ないんですね。好きか嫌いかということには。

そもそも僕はどうやら簡単なことで簡単にしあわせになれてしまうお得な性格らしく、母などにはよく「おまえは何を食べさせても美味しそうに食べるねえ」といわれます。毎日白いお米が食べられるだけでけっこう満足。漫画版「風の谷のナウシカ」全7巻を読んだあとは「好きなだけ空気が吸えるってしあわせ」と心から思いました。シンプルな性格で良かった。海原雄山なんてきっとたいして人生が楽しくないにちがいない。

僕が思うに、本というものは畢竟、読者自身の心理の深層を照らす魔法の鏡なのであって、ある人物がある本についてどう考えるかという問題は、その本がどのような本であるかと同時に、その人物がどのような人物であるかをもあらわしている。ある本を読んでつまらないと感じたら、作者の無能を指弾するまえに、自分がなぜそう感じたのかじっくりと考えてみるのもひとつの手だと思います。案外、答えは自分の外ではなく内側に転がっていたりするものです。

90 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月28日(月) 12時04分24秒
論理的にキチンとした文章がかけなくてすみません。

わたしは確かに好みは激しいかもしれませんが、白か黒かオール・オア・ナッシング的な選択はしないほうだと思います。平気で矛盾してるし。

悪役問題も同じ。そもそも悪に役割固定した「イヤなやつ」なんていますかねぇ。「よくない行為やドジやうかつやアサハカ、短慮や嫉妬、怨嗟、偏見に満ちたものの考えかたなどなど」はそりゃあります。あるでしょう。ある時期のある境遇にあるあるひとにはなんだかそれがヤタラに多い。それが大勢にとって迷惑なものになるとメダツ。あるいは、特定の観察者から見るとと誰かがそう見える(ここには相性の問題もはいる)。 
勧善懲悪はスカッとサワヤカですが、悪がそう単純な悪ではないとすると「懲らしめること」は絶対肯定はされえない。第一、ほんまにこころの優しいひとは、敵を倒したがらないでしょう。倒さなきゃダメだ殺さないとイカンとわかっていても、やらなきゃこっちがやられるみたいな時でも、もう一息ってとこまでいって、殺せなくてためらうシーンがよくあるじゃないですか。きのうの「新撰組!」のヤマナミさんがまさにそうでした。すると、戦場の地獄を生き抜いてきたサノスケがなんら躊躇なくグサッとやっつけてくれる。あるいは、沖田くんがやられそうになった瞬間、芹沢さんが自分がさっきなにげなくほうり捨てたフクベに足を滑らせる(神の配剤……あるいは、自分のバカな行為が自分にかえってくる、ですね)。これは三谷コーキさんの工夫で、ほんとは文机につまづいたそうですが。
わたしは、悪を懲罰するシーンを書くよりは、戦士の気高い死を書くほうがずっと好きですねー。自殺(的行為→蛮勇)を肯定してるみたいに見えたらすみませんが。
やらなきゃならないのにどうしてもやれない優しいひとも好きだし、いつでも自分の手を汚す覚悟を持ってるひとも好きですが、隆慶一郎世界の「死人」(武士道とは死ぬこととみつけたひと。葉隠れ系ですね)にいっとー萌えちゃいます〜〜〜♪ このキャラわけはあくまで「戦う」運命に正面から直面することにしたひとたちの「うちの話」であって、金持ちケンカせずと平和にのほほーんとしているひと、戦いを回避するべくずーっと前の前のほうから手をうっていく策士なひととかが、キライってわけじゃないですよ、為念。

誰だっていつかは死ぬ。寿命満貫大往生タタミの上で死ぬ、病院で点滴とか酸素とかにつながれた状態で死ぬ、事故や犯罪に巻き込まれて死ぬ、……いろいろありますが、自分の戦いを戦いながら死ぬのってカッコよくないですかー? そういうひとの話とか読むとわたしは「うらやましい」と思ってしまいます。ステキだ、わたしがオトコだったらそうなりたい、イヤ女でもよければなるぞなりたい、と思います。
戦いながら亡くなるということはかならず「なにかの途中」で、遣り残したことが出ちゃう、その点は残念かもしれないし、残されるほうには迷惑かもしれないけど。この平和な時代、そういう死に方ができるひとはあまりいないし、職業も限られるかもしれないけれど。消防士さんとか、警察官とか、戦争記者とか……殉職の可能性がゼロではないことを自覚しながら日々戦ってるがんばってるひとたちってスゴイ素晴らしいじゃないですか。サラリーマンだって、ほんとに好きでやりがいのある仕事をやっていて、激務でからだやこころを壊したら殉職です。イヤ殉じることができるのはなにも仕事に限らないですよ、思想とか、愛とかに殉じたひともカッコいいです。
まして自由な創作の中では、必ずしも現代や平和な時代ばかり書く必要はない。架空の嘘だからこそ、好きなように演出したりデフォルメしたりできるからこそ、こんなのカッコいいでしょー! なのを書くことだってできる。
メロスだって一行目からいきなり激怒しますけど、悪逆非道の王がいて、へんな命令とか罰を与えるから、メロスやセリヌンティウスがジタバタともがいて、戦って、弱くてマヌケでみっともなくて、それでも敵に対してよりも自分自身と戦って、とりあえずギリギリで勝って、でも、それが等身大のカッコよさになって、ああ人間ってステキだね、友情って、信じるってステキだね、になる。その予定調和というかお説教くささに片腹痛くなるひともいるかもしれませんが、こういうタイプだど悪役ってのは、つまりはイイモン側のヒキタテ役で、むしろ「お役目ご苦労さん」では。

はたまた……翻訳ミステリなどの犯罪ものとかでは、悪くなるとどんなに大変かもさんざん書いてみせてます。ここ近年読んだのでは『転落の軌跡』とかってのがほとほと気の毒だったなぁ。『凍てついた夜』とか『ダーティーホワイトボーイズ』とかエルロイの暗黒四部作とか……堕落とか邪悪とか絶望とかって、極まるとむしろ、そーとーせつないですよ。

わたしは「わるいやつ」本質的にはきらいじゃないなぁ……イヤ実際ご近所にいたり、家族にいたりしたら、コワイしウザイしタイヘンでしょうけど。

で。

>そんなに孤立したいもの? マイナーでありたいもの?

んー、したいっつーより、もうしちゃってるというか、生まれつきしちゃってたのよね。それを自意識過剰とか傲慢とかあるいは被害者意識とかいわれるとゴメンナサイなんですけど。
あのね。日常会話は「グルーミング」で、内容は無難を最上とするものでしょ。顔見知りと出くわしたら黙ってないで軽くコトバを交わすことそのものが重要なのであって、いきなり何かの問題について真剣に意見を交換したりはふつうしない。「おはよう」「どこが早い! もう午後二時だろう」「蒸しますねぇ」「ダガルカナルはもっと暑かった」これではご近所関係はすぐに破綻します。
よって世の中で交わされる天文学的分量の日常会話の大半はグルーミングです。おサルのノミ取りっこ。あなたが取ってくれたからこんどはわたしが取りましょう。それは社会を円滑にすすめるために重要なこと。そこでは、暗黙の了解の境界線は踏み越えないのがフツー。
そりゃ、会議とかクレームとか愛の告白とか、たまには例外もありますよ。本気でホンネの自分の考えをいわなきゃならない場面もある。ただ、そーゆーのに慣れてないひとは、ともすると肝心な場面で自分の真意をうまく表現できず、わかってもらいたい相手に十分に理解してもらえず、タイヘンだったりするわけですが……まぁ、世間一般の人生の日常に起こるようなことというのにはたいがいモデルがあり、真心というのはコトバの羅列以上に、表情とか、ボディランゲージとか、声の響きかたで伝わったりするので、そんなに取り返しのつかない大失敗になることはあまりない。グルーミングが得意なひとは、社会では生きていきやすいことは確か。

ところが……グルーミングが生まれつき「苦手な」やつがいる。これが「マイナー」とか「孤立」とかのタイプですね。
たとえば、ベストセラーを「話のタネに」読むひとというのは、読書はそれそのもので完結する個人的体験としてではなく、それを利用してグルーミングつまり社会生活の円滑化に使うためにあるものとして捕えておられることが多いんじゃないですかね〜? 一冊ごとに違うかもしれないですけど。
読書にかぎらず。「トリビアの泉」も、連ドラも、ニュースも新作映画もあるいはゲームもそうでありうるし、そうでないものでもありうるわけですが……そこでは「自分の独自の感じ方」よりも、「世間での評判」に近づくことのほうが有効なんですね。なにしろグルーミングなので。
だけど、そーゆー世間ではグルーミングの材料にすぎないものにいちいち何かを強烈に感じてしまい、とてもグルーミングのタネに留めておくことなんかできない、なにしろグルーミングは苦手なやつにとっては、それについて誰かにグルーミングをしかけられても、ほどよいグルーミングで返せないんですよ。グルーミング失敗。
グルーミングが苦手なやつでも、ノミはつく。で、背中のカユイところは、しょうがないから、そこらの樹木にでもこすりつけて自分で解消するしかない。
ただし……ごくたまーにめぐりあう、自分と同じぐらいグルーミングの苦手なタイプには、すなおにいえる。「あの……すみませんけど、ここんとこカイてもらえません? ……うおーー! そこそこそこ。ああああ、きもちえー!」なんかこのスレとかでやってることって、グルーミングというよりは、そっちのような気もする(笑)。

例に出した「版元宣伝部が社運をかけてるもの」に対しても、この比喩で考えるとね、ようするにグルーミングの材料を出されてたのに、こっちは「いーや、わたしはあんたとはグルーミングしない!」っていってる問題だと思うのね。
他人にここはこうして欲しい、ここがカユイからかいてくれ、と言われると(なにしろグルーミングが苦手なので)困ると。

本人的には、単なるバランス感覚じゃないかと思ってるんですけど。
宣伝が成功していったん売れたら、マスコミは(少なくとも非署名原稿)は、まず追従します。セッセと話題にする。とりあげられる機会が多いというだけで、すごいアドバンテージになる。なにしろ新作一日二百冊の時代なんですから。
そういう特権的なホメかたされるもの、いわば「強者」に対して、一個人が反旗をひるがえすというのは……そうとうの有名人でないかぎり……しょせん「蟷螂の斧」でしょう。
だからこそ、やるし、やりたくなるし、やっちゃっても後悔しないです、わたしは。

個々の作品に関していえば好きなものやまほどありますよ〜! ただ、それについてグルーミング会話はしたくないだけです。誰かと「よかったねー」「ほんとにねー」と言い合うことにはあまり興味がない(たまにはやりますよ。ほんとの仲良しとは。“あの時同じ花を見て美しいといったふたりの心と心がいまはもう通わない”ではありませんが、ほんとうに好きなともだちと、同じものに感動できることを再確認するのは、やっぱり嬉しいことですから。
世間でいいと言われてるものに「遅れずについていく」ことにも、そんなに強くは興味はない。まったくやらなくはありませんが……だっていちおう社会人だし、ことに本に関してはいちおーギョーカイ人なので……でも、むしろ、それよりは「ねぇねぇ知ってる? こんなステキなのあるよ」って発信したい。

>自嘲のニュアンス

古くから新人賞に関わっているので「まったく」読んでこなかったわけではありません。十分にたくさんは確かに読めてませんが、たまたま読んだものの何割かが、いまひとつ好きになれないものであったことは事実でした。だから「ライトノベルなんてあんまり読んでないし好きじゃないからライトノベルについてなど語れない」と最初の酒井さんのご依頼に対して返事をしたのです。これは例にあげたひとの態度とは違うつもりです。その後みなさまからススメられたものやアンケート結果の高かったものを読んで目からウロコを何枚も落とし、平気でどんどん変節している途上です。

91 名前 : 海法 投稿日 : 2004年06月28日(月) 12時20分15秒
>新木さん
 ライトノベルを買う側からすれば、批判的意見は、おこづかいをうまく使うために必要だと思います。

 私は、今、ライトノベル(600円〜)は気軽に買いますが、ゲーム(6000円〜)を買う時は、前情報を集めますし、その時には、一般プレイヤーによるレビューも重視します。
 買ってみて、たとえば美少女ノベルゲームで、絵は少ないわ、シナリオはグダグダだわ、バグは多いわ、こりゃクソゲーというのを掴ませられると、さすがに懐が痛いので。そういっった趣味に合う合わない以前の、質の低さとかは、すなおな情報が欲しいです。雑誌や宣伝だけでは、なかなか見えてこないので。

 小中学生にとってのお小遣いは、私の資料代の数十倍の重みがあるでしょうから、ライトノベルを一冊買うのは、6000円〜のお買い物と考えれば、そうした情報が欲しいだろうことは、想像できます。

 私がゲームを買う時は、一般的な感想を総合して決めることがあります。「すげー面白い」と言ってるやつが何人いるか。これまでの経験上、私と趣味の合うやつは、どう言っているか。「つまらん、金返せ!」と言ってるやつが何人いるか。

 ネットを情報源として見た場合、「つまらん。金返せ!」という意見も、結構、重要な位置を占めています。そうした意見を必要としている以上、自分が購入した時は、それを発信する、というのも、理解できます。

> ひとりの友人から「あれ読んだ? どうだった?」と訊ねられたときに、
>「読んだけど、面白くなかったよ。読まないほうがいいかも」というぐらいが、
>自分の一票をリセットしてニュートラルに戻すという意味では、ちょうど良い
>代償を得られるバランス点だと思います。(自分が誤った投じた一票のかわりに、
>自分が影響力を及ぼせる他人が一票を投じることをストップさせる。1票と
>1票とでバランスする)
> 大勢に向けて表明することは、明らかに、それを越えていますよね。

 そこには、ネットに接続する人は、複数のサイトの感想に目を通すことができる、という視点が欠けていると思います。
 「大勢に向けて表明する人」が、さらに大勢いることで、バランスが取れるのではないでしょうか。

 無論、実際問題、常にバランスが取れているわけじゃありません。また、一期一会ともうしましょうか。一個のサイトの否定的な感想が、本来、幸福な出会いになるはずだった一人の読者と一冊の本との出会いを永遠に奪い取ってしまうことの恐怖はあります。実作者としては(是非はともかく)怒りも感じます。大勢に向けて表明することの責任を、もうちょっと感じてほしいなぁと思う時もあります。
 そういう点では、新木さんのご意見に賛成できるかもしれません。

 が、ネットで、本の率直な感想自体を否定すること自体は、肯定します。

92 名前 : 来無 投稿日 : 2004年06月28日(月) 14時57分16秒
新木 伸様
○、△、×で評価しようが、○○○、○○、○で評価しようが、◎だけ評価してそれ以外黙殺しようが大した違いは無いと思いますが。
否定的評価は声に出さないというスタンスが意味を持つ様に見えるのは、声に出す人間がいるから相対的に評価が穏やかに見えるだけの錯覚です。全員が沈黙で答えるなら沈黙=×であり、口に出して褒めなきゃ気を悪くされるだけでしょう、そうなれば沈黙することは平和的なんでもなくなります。

根拠の無い誹謗や中傷は別にして、悪い所を悪いと言ってもらえないのは私なんかはむしろ困るのですけど。
気に入らないときに当たり障りの無い言葉(場合によっては褒め言葉)で去ってしまう人は、大変に怖く厳しい相手です
きちんと批判や叱りを与えてくれる方がずっとやりやすい。
もちろんそういう怖さ厳しさが必要な場合はいくらもありますし、相手に甘えちゃいけないのは確かですが。
また、娯楽であろうと、(駄目な所を)解って楽しんでいる場合はともかく、駄目な所が見えていずにそれを良いと思っている状態は私自身良しとしません。適当に話を合わせてもらって何年も後に一人赤面するくらいならその場で喧嘩した方がマシです。価値観の違いといったらそれまでですが。

>大勢の聞こえるところで、大きな声で物申すことは、マイナスに大きく振ってしまうことになると思うのですが。
それを言ったら、大勢の聞こえるところで賞賛することはプラスに大きく振ってしまいますね。広告等がある分最初からプラスの方にかなり偏っていますし。
>自分が誤った投じた一票のかわりに、自分が影響力を及ぼせる他人が一票を投じることをストップさせる。1票と1票とでバランスする
これ本当にバランスとれてるのだろうか?購入はプラス1票だけれど非購入はマイナス1票ではなく棄権なんじゃないか?全部で一万人が購入し、全員が否定的感想を持ちそれぞれ一名の購入を阻止しても、残るのは1万部の実売というプラス評価のみ。既に売れた一万部が、売れてなかったのに等しい結果で(つまり出版費用分丸損で)やっとイーブンという気もしますけど。

>ブックオフに叩き売って(中略)空に向けて唾を吐くような非理性的な行為なわけです。
そうですか?市場原理だけで言うなら、よほど健全な行為だと思うのですが。売れるものが全て素晴らしいなら、叩き売られるようなものは素晴らしさが足りない、って話にならないかな
?新古書店の問題は回し読みの規模が「旧来の想定を超えて」無制限に拡大しすぎる点だと思いますが、手元に置く程の価値が無いと思われたものが市場にダブつくのは市場原理からしたら当然でしょう。一番健全なのは新品を購入しそのまま愛蔵したくなるような出版を心がけることだと思いますが、それが出来ない業界であれば衰退もやむなしではありませんか。気軽に読めて簡単に読み捨てられる文章を大量生産するのも天に唾する非理性的な行為ということにもなるでしょう。(安易な価格破壊は長期的に見て不健全なのと一緒ですな)業界が衰退して社会が困るならどこかでブレーキがかかるでしょう。ブレーキがきかずに恐慌に陥ることもあるかもしれませんが社会が必要とするなら規模は縮小しても復活するでしょう。衰退期に直撃した作家は生活に困るかも知れませんがそれが市場原理ってものです。
私は創作の分野の価値基準を市場原理だけに任せるのは乱暴に過ぎると思ってはいますが。

>売れているものは、なんらかの売れている理由がある
同意します。が、その理由は必ずしも、内容の質によらない、求められない、と思いますし。理由を内容の質に求めることが出来ても、それと欠点があるかどうかは別の話だ(ほったらかしにしていたデッサンの話はそういう話)、と思います。営業戦略など外因もひっくるめて内容の質の内だというならそもそも前提条件がかみ合いません。私は外因は外因、内容とは直接関係ないと思います。

>「ある事柄を説明するのに、必要以上の仮説を立ててはならない」
「売れているけどダメなものはあるし、良い物もある」というのは
「売れる要素が十分あれば売れる。売れる要素と内容の質は必ずしも一致しない」ということであって「売れる要素」さえ確定出来れば「売れていること」を説明出来ますが
「売れている物はすべて素晴らしい」は「売れる要素がある」以外に、そのことが「素晴らしい」という、価値観を設定する必要があるのでは。「オッカムの剃刀」に従うならこちらの方が複雑なのではないかと思います。

>よほど温厚な人でも、これをやられては、不快感を感じると思うのですけど。
TPOの問題でしょう。ファンサイトの掲示板やチャットでいきなり批判をぶてばそりゃ不作法でしょうが、自分のサイトでやってる分には問題無いでしょうし。公共の場所といってもそういうコンセンサスがとれてる場所なら問題無い筈です。誹謗や中傷はもちろん別ですが。聞きたくなければ、他所に行けば良いだけです。選挙運動みたいに聞きたくなくても拡声器でガナっているわけではありません。
>ごく親しい友人を電話で掴まえて愚痴を聞いてストレス解消する
方がよっぽど酷くないですか?親しい友人の愚痴じゃ拒むわけに行かないんだから。
>個人が不特定多数に影響を及ぼすという行為が気軽に行われていて
それこそがネットの特性であり存在意義だと思います。それまでは作家かマスコミ、芸人くらいしかなかったんですから。方法が。
無論マイナス面があることは否定しませんが、選択された情報を一方的に受け取るしかなかった時代よりよっぽどマシじゃないか、と。

93 名前 : 新木 伸 投稿日 : 2004年06月29日(火) 03時29分13秒
>葛西さん

 ほら。やっぱり隠していたではないですか。(笑)
 「小説家」と一括りにしてしまったのが、まず、いけなかったわけですね。それは葛西さんの鬼門的なものであったと。
 ええと、これは小説家を「小説を書く人」と読み取ってください。

 映画を評論するときの葛西さんは、葛西伸哉という小説を書くときと同じ屋号を使ってはいますけど、いわばアマチュア映画評論家という立場になりますよね。またゲームの話をするときには一オタクだったり一コアユーザーだったり。そしてサッカーの話をするときには一サッカーファンとなったりするのでしょうし。

 小説家がどこまで小説家でありうるのかというと、小説を書いているときと、あとは、せいぜい、小説を創作するに際しての、実際の方法を語っているときぐらいまででしょうか。創作論――のあたりまでいっちゃうと、これまた実作者の領分から外れてしまうと思います。文学者とか?
 またエッセイを書いていたら、そのときのその人はエッセイストでしょうし。
 また子供の教育論に関して語っているときには、教育現場の人間……ではないのだから、なんだろう。アマチュア教育評論家とでもいうあたりかな。

 そういった意味での、「小説家は小説しか書かず、その中では否定意見を投げつけることはない」ということなのですが。まあ言葉が足りなくて誤解させてしまったのは申しわけありません。
 まあしかし、そういうことで、よろしくお願いします。
 小説家はなにかを肯定する形でしか世に出しません。――と、そう思うのですけど。これに反例はありますでしょうか。僕の浅い見識のなかで考えてみると、ないように思ったわけです。

 ――で、作中で悪役を出して、打破させるということ。
 これはやはり否定しているのではなくて、肯定しているほうに含まれると考えます。まあ「良い/悪い」の二元的な対立構図で説明する以上、どちらかが肯定されたなら、もう片方は同時に否定されているわけですけど。
 ただ物語的に、どちらにスポットが当たるのかというと、やはり主人公側であり、その行動方針や価値観の「肯定」であるのだと思われます。

 たとえば作者が卑劣なことを否定したいとして。
 卑劣極まる主人公が卑劣を尽くし、そして満足感や喜びを得ず、最後にはみじめに破滅してゆく。因果応報で苦しみ抜いて救われない物語だとか。……うーん。あるのかなぁ。ありそうかも。あるかもしれない。誰かやっています? あったらごめんなさい。でも少数の例外ってことで、いいですよね?


 ある作品が売れる要因として、様々な要素がある。
 これについてはわかるのです。ただ僕自身は、その要素の細目への関心が薄いというか……。
 作品を出して世に問うときに求めるものが、葛西さんとは違うのかもしれません。
 僕は「評価」そのものが欲しいのであって、それが装丁が良かったからでも、宣伝が素晴らしかったからでも、前作が良かったのでリピーター的意味合いがあったのでも、メディアミックス展開の中における原作の影響力でも、話の種だったのだとしても、占いで「あ」の付く作家の本が今日のラッキーアイテムだったからでも、大便をするときに尻を拭く紙がなくて緊急を要していたのであっても、どれであってもさして気にしないわけです。
 わざわざ書店まで出向いて、あるいはネット通販で注文して、あるいはキオスク通過の際にゲットして――とにかくポケットからお金を出して買っていった以上は、読者はなんらかの価値を認めてくれているわけです。
 その事実だけでも充分でして。「なんらかの価値」というものが、なんらかの価値のままでもいいということです。そこに対して分解能を高くしておく必然がない。
 ただ、分析しないと、自分の書く物に価値を込めることもできなくなります。「評価が欲しい」という目的に対して向かおうとすると、必然的に分析をしなくてはならなくなります。ただもともと関心が薄いので、やはりシンプルで大ざっぱな分析になってしまうわけです。
 思うに葛西さんには、自分の作品が評価するにあたって、その細目をきっちりと把握しておかなければならない、なんらかの理由があるのではないでしょうか?
 そしてここから先は単なる当て推量になりますが、たとえば「面白いから買った」というのが、葛西さんの真に欲する評価であるとか。
 売れた冊数のうち、どのくらいが自分の真に欲する評価を受けて買われていったのか、それをしっかりと把握しておかないと気持ち悪いとか?
 そういうことはあったりします?

 売れる理由に複雑な分解能を持つことと、シンプルな分解能を持つこと。
 ある物事に関する分解能は、関心の深さによって決まりますから。「面白かったから、ってことでいいじゃん」というシンプルな僕と、「いや。そんなに単純なものではない」という葛西さんとの違いは、なにな合理的な説明が付けられるように思います。

 僕は接客業で飲食業をしていた経験があるのですけど。
 お客さんをおもてなしして、そのお客さんが笑顔で帰っていかれるときに――。
 それが自分の調理した料理が美味かったからなのか。もし美味かったのだとしたら、今日の食材が良かったおかげなのか、それとも自分の調理技術のおかげなのか。
 または店の雰囲気が良かったからなのか。
 もしくは、そのお客さんが10年前にもこの店にやってきていたことがあって、店の変わらない汚さぶりにノスタルジーを感じてくれたせいなのか。
 まあどれであっても、うれしさとしては同じです。
 そこにある一点の事実は、お客さんが楽しんだということ。満足されたということです。
 僕はおもてなしをしたお客さんが、どのくらいの量、満足していったのかということを気にします。なにに満足したのかについては、それほど気にしません。
 量か、質か、とか。
 このことは、そこが問題となるのでしょうか。


 合理性至上主義と、それの押しつけ、っていうのは、たしかにあるかもしれません。

 ただ葛西さんも相当に合理的な人だと思いますよ。
 自分がそうであるから、読者も(きっと)そうであろうという期待というか、無意識の思いこみがあるように思うのですけど、どうでしょうか。
 「内容」「装丁」「宣伝」「作者買い」「ノベライズだから」「話の種」――と、読者が惹かれるものを細分化していますけど。

 しかし、実際にそこまで意識して買っている人がどれだけいるのやら。
 小説というのは、基本的に600円という、コーヒー一杯程度の価格で提供される低価格なメディアですので、購買に踏み切るときの関心レベルもまた、かなり低いところにあるはずです。
 昼に600円で何食うかな。ハンバーガーかな。牛丼かな。ファミレスでランチかな。――程度の選択に要する関心と、意識の動きということに言い換えてもいいですが。

 600万円の物を購入するときの決断、判断には、明確に理由を求められるでしょう。気軽に600万円の買い物をする人は、そうそういません。
 でも、たかだか600円の物を購入するときの判断根拠なんて、それにくらべたら1万分の1程度の薄弱なものではないかと。
 でも喫茶店で600円の飲み物を注文するときに、合理的に説明可能な理由を持って注文を決定する人がどれだけいるのでしょうか。漠然とした「なんとなく美味そうだったから」といった理由で注文を決めている人がほとんどではないかと。
 小説の場合にも、やっぱり、「なんとなく面白そうだったから」なわけです。

 ただその「なんとなく面白そう」という薄い関心を掴まえて、商売にしている側としては、どんなふうなものを提供すればチャンスをものにできるのかという分析は必要かと思います。
 そちらの話もするなら、話を分けたほうが良さそうですね。

(※注。このへん、海法さんから指摘がありましたね。600円は子供にとっては重たいはずだ、という指摘が)


 各自が気ままに動いていった結果が、時流というものである。合理主義者から見れば、いかに混沌としていくようであっても、それが現在の社会が唯一達成可能な「秩序」の姿である。
 ――と、勝手にまとめてしまいましたが。これもわかります。

 ただ葛西さんの言う、「誰もが気軽に情報を発信できる事によって相対的に個々の情報の重要度・影響力は低下しています」というところが、飛躍していて、いきなりは納得できないのですが。補足説明がほしいです。

 大勢の人のそれぞれの意向が作り上げる総体を、「川の流れ」に例える人もいますけど。
 僕は個々の人間を脳細胞に見立てる比喩がお気に入りであったりします。何万人、何十万人、何百万人という単位の大勢の人は、全体で「脳」という器官を構成しているわけですね。個々の脳細胞は発火して、自分の接続している周囲の脳細胞に信号を送るわけです。
 その信号は、またそれぞれの脳細胞の中で処理される。なんらかの理由で「発火」に至れば、また周囲の別の脳細胞に信号を伝達するわけです。
 発火は個々の脳細胞の内的要因によって、ある閾値を越えると起こります。脳細胞の中身はブラックボックスなので、どんな価値観がとぐろを巻いているのか知ったこっちゃありませんが。
 ここでいう「発火」と「信号伝達」というのが、言葉やらなんやらによるコミュニケートなわけです。この掲示板でいま行われているようなことも、そうした発火と伝達のひとつの形態。
 誰かがなにか言わざるを得なくなって、「文書を書いて投稿ボタンを押す」ということが、いわゆる発火の閾値を越えたということ。
 そして、その意見を誰かが読むというのが、「伝達」ということ。
 脳細胞のネットワークの働きには、シナプス間の間隙だとか、神経伝達物質の量などで、伝達効率なんてファクターもありますけど。
 それはおのおのの文章力であったり、読解力であったり、書きこみに触れた時点の注意度や集中度であったり、もしくは感性や価値観の共振度であったり、――するわけです。
 僕らは脳神経の一個なわけですか。かなりの面で符号していますね。面白いですね。

 ――とするのであれば。
 肯定的意見の表明というのは、いわば興奮信号である。
 また否定的意見は抑制信号に該当すると思うのです。

 ああ……。自分で墓穴を掘ってしまった気がしたのですけど。
 そう考えてゆくと、興奮信号ばかりがあってもいけないわけだし。抑制信号もあって、バランスしていないとならないですね。
 ふむ。納得。
 まあ興奮信号と抑制信号のバランス量という観点からいえば、否定意見のほうが多すぎやしないか? てな気持ちもあるのですけど。抑制が利きすぎている状態は、無気力状態となるわけですから、いかんのではないかと。ただそれについては定量的なデータもなしに話していてもしょうがないので、やめておきます。

 あと僕のもともとの極論である「否定意見はゼロにすべし」というものでした。
 それに関しては、すくなくとも、ゼロである必要はないということで納得しました。
 よって論を引き下げさせていただきます。

 あと肯定するにせよ、否定するにせよ、影響範囲と影響力、あと自分がなんのために発火して情報伝達するのか、それを自覚しておけよ。――というのは、これは僕流の美学と価値観とであって、僕はそーゆーのが「普通」と思っていますけど、これまた例によって極マイナー領域にあるものなのでしょうね。他人に押しつけるものではないのでしょうね。むう。美しくない。まあいいか。

 ただ、「誰でも気軽に情報を発信できる」という状況は、僕にはニューロン(脳細胞)の異常発火現象であるように思うのです。異常発火はよくないでしょう。それは脳の病気ってもんです。
 その心配は、葛西さんの言う「情報の影響力は低下している」ということに納得できれば消えるものではありますけれど。
 発火の数やら、それぞれの脳細胞が接続している相手の数(掲示板は何万人でも閲覧可能)は増えてはいても、一個一個の発言の重みが減っているのでバランスは取れている。……のかなぁ。ホントですか? 根拠は?




>海燕さん

 自分は批判はしていても、否定はしていない。――ということですけど。

 宝石に付いている傷を発見した海燕さんが、「この宝石には傷があった」と大勢に向けて報告することは、「傷有」という単なる事実の指摘のみならず、海燕さん自身の価値観に基づく「意味」までも添付して送り出していることにはならないでしょうか?

 ひとつとしては、海燕さん自身に、「傷はあるのは悪いものである。よって良くないという意味で発言した」という意図が、意識的にせよ、無意識的にせよ、込められていたりするのではないか。
 もうひとつは、海燕さん自身に「事実の指摘」以上の意図がなかったにせよ、読んだ読者が「宝石に傷があるのは悪いことなんだな。つまり傷有りのこれは、悪いってことだな」と勝手に了解してしまわないかどうか。

 ぶっちゃけ、欠点を指摘するということは、悪いと言っているように見えるということなのですけどね。
 そのものに対して関心が薄い人にとっては、理由のほうはじつはどうでもよかったりするわけです。論の途中をすっ飛ばしてでも、結論である「つまり良いのか悪いのか?」のほうを素早く求めたがるものだと思うのですけど。

 ――で、そもそもの「否定的意見っ言っちゃっていいの?」という件に関しては、葛西さんへのレスにあるとおり、「いいのだ」となりましたので。
 残る問題はもうひとつのほうだけとなりました。

 海燕さんは、否定的(と受け取られる)意見を発信することで発生する影響力の範囲であるとか。なんのために影響を及ぼすのかという目的意識に関して、自覚的であったりするのでしょうか?


>>僕は一貫して「作品の真価をあきらかにする」ことを続けているつもりなんですが。

 なぜ、明らかにしなければならないのですか? それにはどんな意味があるのですか?
 他の誰でもない自分が?

 そのところに関して、無自覚的であるのか、自覚的であるのか、自覚的であるならどんな理由であるのか。海燕さんからの回答はまだ頂けていないように思います。


>>ひとの不幸は蜜の味、他人を不快にすることほど楽しいことがあるでしょうか。というのは冗談ということにしておいて、

 あらら。残念。冗談だったのですか。くだらない作品に熱を上げているやつらとか、傷有りのものに気づいていない目が節穴のやつらとかに、一泡吹かせて、不快にさせてやりたいからなのです。それがホンネです。
 ――とか言ってもらえたら、つい、信じてしまっていたかも。(笑)
 だって、筋が通りますもん。

 「気に入らないものを消し去りたい」というのは、僕が当て推量して、可能性のひとつとして挙げてみた理由のひとつです。これではないわけですね。
 で、不快にさせることは、書きかたによっていくらでも抑えられるものだし、不快にさせるために意見を書くわけではないので、可能な限り不快度は低く抑えることにしているわけですね。なら2本目の線である「人の不幸は蜜の味仮説」も否定されると。

 あとなにやらチャレンジャーへの賞賛という話も出てきましたけど……。
 荒波へと船出してゆくチャレンジャー号の船腹に傷があるのを発見してしまった。船に乗っている船長からはおそらく見えないであろう。それを知り得た自分は報告しなければならない。――とかいう義務感みたいなものとか?
 これは仮説第3号となりますけど。


>>「金返せ」と怒る心理

 金返せ、と思ったことはないにしろ。
 時間を無駄にしたー、と思ったりしたこともないのですか? この本を読むかわりに、なにか他の本を読んでおけばよかった、とか。
 単なる暇潰しという枠を越えて物語を味わおうとしている人は、質にこだわるようになると思うのですけど。
 一生のうちに鑑賞できる物語の数は有限なのだから、どうせなら、上質のものを味わいたいと思ったりはしないものなのでしょうか?


>>いや、まあ、なんか、ブーメランのように自分のもとに返ってきてぐさりと胸に突き刺さる言葉ですが。ぐさぐさぐさ。しかし、稚拙といい、未熟とはいっても、僕はこの世にあふれるすべての本に対してそれなりの敬意を持って接しているつもりです。

 えーと、いきなりよその場所での話で恐縮ですが。ついでにマナー違反で恐縮ですが。
 ぐさぐさぐさ。――と、ぜひ僕にも胸を一刺しするお手伝いをさせてください。
 たとえば海燕さんのサイトの書評の愛読者として、過去において、もっとも不快になったときの例であるとか。

 海燕さんは、ある作家がいかに素晴らしいのかということを語るために、別の作家の作品を引き合いにして、そちらがいかに凡庸であるのか。文章の直接比較をすることで、自分の推す作家が天才であり非凡であるのかということを書かれていたことがありますよね。
 ――と、これは、僕の主観に映ったことでして。
 事実は多少違いました。
 海燕さんが実際にやられていたことは、じつは逆でありまして。
 ある作家のデビュー作が凡作であることを証明するために、海燕さんが常々ご贔屓にしている作家の、やはりデビュー作の書き出し一行を持ちだしてきて、それと比較したわけです。これこれこのように、見ての通りこんなに凡庸であるでしょう。――とされていたわけですけど。
 ただそうしたことが一度だけでなく、複数回も目にすると、読んでいる人間の主観としては、「まーた、いつものご贔屓の作家を持ちあげたいのだなぁ。誰かをまた引き合いに出してきたなぁ。今度の獲物はあの人か」と見えてしまうわけです。
 凡庸、凡作と貶される作品に対して敬意を持っているとは、とうてい思えないようになってしまうのです。

 このことは、「否定的意見を言うのって、それどうよ」という僕の価値観の形成に、すくなからず影響している事件でもありますので、こうしてルール違反を犯してまで、ぐさぐさぐさとやってみた次第ですけど。

94 名前 : 新木 伸 投稿日 : 2004年06月29日(火) 03時29分55秒
>久美さん

 物語の中に悪役が出るにしても、イイモンのヒキタテ役として出てくる。――というのは、僕もその通りに思います。
 ついでにいうと、引き立て役とわかっていても、悪逆非道なヤツを出せない(出したくない)というところまで同じだったりします。



>>>>そんなに孤立したいもの? マイナーでありたいもの?

>>んー、したいっつーより、もうしちゃってるというか、生まれつきしちゃってたのよね。それを自意識過剰とか傲慢とかあるいは被害者意識とかいわれるとゴメンナサイなんですけど。

 いえ。どれでもなくって。
 「久美さんはマイナーに憧れているのでは?」とそう言っているのですけど。

 久美さんは自分がマイナーであることを、ことあるたびに力説されていますけど……。
 もし本当にマイナーなのであったら、そしてそれが揺るぎもしない事実であるのなら、周囲に認知させる必要はないと思うのです。

 人は自分の持っていないものに憧れる理論ってものを、前に提唱したことがありますけど。まさしくそれなんじゃないかと。

 たとえば久美さんの自伝の中にある、転校を繰り返されていて、その度にマイナー側に居ることを余儀なくされていたという体験の話であるとか。
 これは立場としてはマイナー側です。
 しかし心理としては、これは普通であって、メジャーなものなのでは?
 マイナーな立場にいることを嘆くということ心理自体が、そもそも、メジャーな感性であると思うのですけど。

 孤独。寂しい。嫌なのよね。
 ――これって、「普通」の感性から生まれてくる気持ちですよね?

 孤独。嬉しい。やたっ。ラッキー!
 ――こういうのが、「マイナー」ってもんですよね?


 グルーミングが苦手といいますけど。
 しかし久美さんは、グルーミングは必要であると思われてもいます。それは感性として普通であって、やっぱりメジャー側なのでは?
 そして実際、グルーミングが、かなり上手であるように思われます。(一般社会の基準で言ったらどうかわかりませんけど。すくなくとも、このあたり一帯を見回しまして)
 すくなくとも、この掲示板において、久美さんを嫌ったり反発を覚えたりしている人はすごく少ないのではないかと。

 これは5000ガバスぐらい賭けてもいいんですけど。
 久美さんと僕と、どちらのほうがグルーミング上手かと訊いたら、10人中の12人ぐらいの方が、「久美さん」と挙手すると思うのですけど。両手を挙げる人が2人ぐらいはいる計算で。

 グルーミングが必要? ふざけんな。無価値だ。役にたたんわ。そんなもの。ていうかぶっちゃけ害悪だ。消せ。
 ――とかいうのが、これ、マイナーな感性ってものだと思うのですけど。

 久美さんは、グルーミングが苦手なだけですよね。グルーミング自体は必要で良いことだと思っているし、グルーミングされることは気持ちがいい。本当をいうと、してもらいたい。でも自分はそれがうまくないから、なかなかやってあげられないし、だからやってももらえない。

 たとえば真にマイナーな性質はどんなのかというと、グルーミングされると、怒り狂って噛みつくような性質です。普通はない性質だから、特異でマイナーなんです。


 「版元宣伝部が社運をかけてる宣伝文句」に関しては、それがグルーミングであったのだと言うには、裏を取らないとなんともいえないと思うのですけど。
 大絶賛していたけど、じつは心にもないことを言っていたのだ、なんて事実があったならともかく。
 そうでないのにグルーミングと決めつけちゃうのは、論理的におかしいです。穴があります。

 僕などは、心にもないことを言って絶賛する、なんていうややこしい事態を想定するより、ステキ率が高い人のほうが一般的には多いのだから、自分の次にオファーの行った人がステキ率の高い方であって、心から絶賛されていたのだろうと考えるわけです。
 そっちのほうが仮定が少なくなるってものですし。

 ステキ率は高いほうが、どうやら一般的であり、普通であるらしいのですが。
 僕はなにせ1%のほうなので、そんなの絶対ウソだろうと思うのですが、観測にかかるかぎりでは、どうやらそうらしいのですが。



>>古くから新人賞に関わっているので「まったく」読んでこなかったわけではありません。

 ライトノベルを読んでいないということに関して。
 すいません。久美さんがコラムなどで書かれていた誇張込みの記述を真に受けて、本当に読んでいないものと思っていました。
 ちなみに僕も推薦するほど読んでいない、と言って断ったくちなのですが、家に置いてある蔵書はライトノベルだけで千冊程度でしょうか。最近のものも、ベストセラーとロングセラーを中心に、けっこう追いかけて買ってはいますが、ステキ率が異様に低い人間ゆえ、一冊につき数分の飛ばし読みにて、筋と構成とキャラと設定類と文章なんかをチェックしているという程度であって、とても「読んでいる」と言えたものではありませんので……。
 ああ。貧しい読書生活ですねぇ。




>海法さん

 経済力10分の1の人間にとっては、600円の失敗が大きな痛手であるから、地雷を踏んで痛い目を見てしまったときには、「おーい! ここに地雷があったぞー!」と皆に触れ回ることを義務として感じる。――という論ですね。

 肯定と否定のバランス点はどこかにあるのかとか。
 おなじ否定のなかにも、感情的で無責任なものもあれば、上記のように個人的欲求よりは義としての否定もあるだろうし。
 そのあたりに踏み込むつもりは、僕としては、とりあえずありません。

 「否定意見すんな」ということと、「否定意見は考えて行おうね」という話とは、別物であるわけで……。
 僕の言っていた前者の極論は、とりあえず撤回しましたし。

 僕は葛西さんの言われていたことを、僕の自己流で解釈しているかもしれませんが……。皆が引っ張り合いをしているうちに、自然と取れたものがバランス点であり、それ以外のバランスの取りかたというものを、人類の発明した「社会」ってシステムは持ったためしがないじゃん。てな観点もあるでしょうし。




>来無さん

>>根拠の無い誹謗や中傷は別にして、悪い所を悪いと言ってもらえないのは私なんかはむしろ困るのですけど。気に入らないときに当たり障りの無い言葉(場合によっては褒め言葉)で去ってしまう人は、大変に怖く厳しい相手です

 来無さんは、「グルーミング不要論」の方なのでしょうか? 潤滑油なんて、そんなもん無駄と思っています? 僕と同じですか? いまだかって、ただの一人もお目にかかったことはないのですが。

 それはそうと、前のデッサンの件のときにも感じたのですけど(あちらを蒸し返すつもりではないですけど)、来無さんは、こと「良い」と「悪い」に関して、自分基準の一元的な価値観しか想定されていないように思うのです。

 たとえばある人の価値観に基づく「悪い」ということが、別の価値観に基づく人にとっては、どうしても得心のいかないことであることもあるわけです。
 だから「良い悪い」で話すのはやめましょうよ。それは主観から脱却していない概念だから。口にした瞬間に、主観の押しつけ属性を備えた言霊になってしまいますよ――と、前々から、久美さんなどに働きかけていたりしたわけですが。

 「私にとって良い」はいついかなる時においても真理でありましょう。
 しかし「それが相手にとっても良い」ということは、真理とならない場合もあると。むしろそのほうが多いのではないかと。

 悪いところを悪いと言って、ざっくりと刺すことは――。そこがたしかに患部であって、流れた血が悪い血であったら、痛みはともかく、結果的として見れば良いことになるでしょうが……。
 来無さんが患部と思って刺したところが、相手にとって患部でなかったりしたら、それは相手にとっては痛いばかりで、なんの役に立たないことですよね。

 来無さんの場合、自分の個人的なものでしかない「良い」という価値観が、万人にも通用するものであるという無意識的な前提がうかがえる部分などを、ひとつあげてみます。


>>全部で一万人が購入し、全員が否定的感想を持ち

 たとえば、このような無茶な前提を、無茶と思わずにやられてしまうところであるとか。
 一万人が購入して、一万人が否定的感想を持つなんてことが、起きるはずないじゃないですか。
 1万人の人間は、1万種類の主観を持った別個人なのですから、それが一色に染まるのは、仮定の中でさえ無茶ってもんでしょう。
 50%否定とか、70%否定だとか、割合で計るというのならともかく……。
 オール・オア・ナッシング。白か黒か。いやにはっきりしすぎているとは思いませんか?

 売れている理由を求める話にしてみても、「作品の質」という言葉を使われておりますが……。
 来無さんにとっての「質」の定義と、別な消費者にとっての「質」の定義とが違っている可能性は、考えないのですか?
 現に「軽いことは良いことか」という話に関しても、「読書の負担が少ないことは質が高い」とする観点と、「負担が少ないことは質が低い」とする観点と、まったく相反する観点が並び立っていたりするのですけど。
 あのあたりの議論を見られていて、なにも思うところはないのでしょうか?



 新古書店問題に関しては、市場原理を出されてきていますが。
 あるひとつの観点を見落とされているように思います。

 創作物は工業製品とは性質が違うのだということ。「価値」の本質がどこに備わるのかという部分ですね。
 消費者は物質としての「本」に対して対価を払っているわけです。おそらくは消費者である来無さんが、その部分しか見ないのも、ある意味、仕方がないのかもしれません。

 しかし供給側は――おもに作り手のほう、おもに作者のことですけど。
 実体のある「本」それ自体を提供することで、お金を頂いているわけではなく、「小説を読んでもらう」という部分に対して対価を受け取っているのですね。
 著作のダウンロード販売をしたって、同じぐらいの対価は頂けるわけですよ。長編小説1冊につき、60円程度ぐらいには。印税分相当には。

 このへんは、まあ、テキスト主義に反旗を翻しているような僕が、なにをかいわんや、てなところがあるかもしれませんが。まあ聞いてください。

 ようは作者というのは、「読んだなら、金払ってよ」――と思っているということです。
 本の価格の内訳を、大ざっぱに書きますと、原材料1、印刷1、出版社2、著者印税1、書店2、流通3――ということになるのかな。割合は正確ではないもしれませんが、だいたいこんなものでしょう。
 このうち、工業製品的な価値に対して払われているのは、印税を除いた9割の部分です。出版社や印刷所の取り分なども、回し読みされるより新品で買ってくれたほうが利益に繋がるわけですが……。それは電化製品のリサイクルなどでも同じことですし。

 工業製品の販売と本質的に違いがあるのが、残りの1割の媒体によらない部分なわけです。金額的には1割といえども、じつはここに「著作物」としての最大の価値が込められており、それが取引されるモノの中心であるということ。
 まあ、スーパーで1個200円で売られているキャベツだって、農家から農協に卸されるときには1個20〜30円ぐらいなもんですから。物の本当の価値は市場価格の10%ぐらいが相場ってもんですね。

 消費者は実体のある「本」に対して金を払っている。そのつもりでいる。
 しかるに作り手側は「内容を閲覧する行為」に関して金を取っている。そのつもりでいる。
 このへんの意識の違い。おたがいの「つもり」の違う部分こそが、問題の本質であるわけです。
 創作者側が言葉を尽くして訴えかけても、新古書問題がなかなか消費者側に理解されないの理由は、ここにあります。

 買った本を売り払おうがなんだろうが、自由だろう。と消費者は思う。自由なんですね。たしかに9割の部分までは。残りの1割こそが、問題なのです。
 著者は自分の作品を読んで楽しんだのなら、もしくは不満を言うのなら、その権利の行使に見合っただけの金を払えと思う。

 ブックオフで買った。つまんなかった。――なんてのを見ると、とほほと思います。僕にお金を入れてくれていないのだから、本当なら、その人には不満を述べる権利さえありゃしないんですけど。(僕から見たなら)

 まあ、法改正でも行われて、新古書店で中古本が販売れるときにも印税が徴収されるようなシステムにでもなれば、丸く収まるんでしょうけど。当分なさそうですし。
 CDなんかは、きちんとシステムが整備されているんですけどね。レンタル屋で借りようが、カラオケで歌おうが、きちんと著作権者に印税が支払われています。

 自転車操業的なことをしている三文小説家としては、自分の日々の暮らしを維持するのが精一杯といったところで、社会や経済の仕組みを変えるためになにかをしようなんて、とても手に余ることです。
 せいぜいが、こんなところで、ことあるたびに説明させてもらって、理解を得ようとするぐらいが精一杯でして。



>>業界が衰退して社会が困るならどこかでブレーキがかかるでしょう。ブレーキがきかずに恐慌に陥ることもあるかもしれませんが社会が必要とするなら規模は縮小しても復活するでしょう。衰退期に直撃した作家は生活に困るかも知れませんがそれが市場原理ってものです。

 ここに関しては、同意です。市場原理とはそうしたもの。べつに他の業界に比べて、過度に保護してもらおうなどとも思っておりません。
 しかしブレーキがないというのは、正しい市場原理とは言えますまい。

 いまブレーキがまったくないから、ブレーキ付けておこうよ。車が崖から落ちたら、そりゃ明らかに間違っていたってことは誰にでもわかるだろうけど、その前にブレーキ踏んだっていいんじゃない? なにも実際に落ちてみなくたって……。
 ――と、そんなふうに言っているわけですけれど。

 いや、まあ、いいんですけどね。
 べつに現存する作家なんて、全員が死滅したところで……。そこで社会が反省を踏まえて、こんどはブレーキ付きにしました、という新世界が拓けたなら、どこからともなく生えてきて、伸び放題になるのが作家ってもんだろうし。
 物書きっていうのは、雑草みたいなもんです。放っておいたって、物語を書いて人に読ませようとするものです。
 むしろ一度焼け野原にでもなったほうが、既存のしがらみやら、頭の固い権威だとか、既得権益やらがなくなってしまうから、物凄い活気に満ちあふれた大盛況時代が訪れるのかもしれないけど。戦後の日本経済みたいに。
 実際になったらどうなるのか、なんてことは。やってみないかぎりは、誰にもわからないでしょうが。

 ただ、いまのこの出版界を支えている消費者の方々はどうなのでしょう?
 活字依存症の方も多々おられるようですし、一時的なことにせよ、創作活動というものが衰退してしまうなんてことが起きるというのは、理性で考えたら、けっして望ましいものではないのではないと思うのですけど。
 そう考えて、「腹が立ったからブックオフに叩き売る」という行為は、吐いた唾が顔にべちょりと降り掛かってくる行為であるのではないかと言ったわけです。


 うーむ……。
 なにかケースは違えど、久美さんの「ライトノベルは軽いからいかん。長い目で見れば、それは損じゃん」ということと、同じことを言っているような気も。

95 名前 : 葛西 伸哉 投稿日 : 2004年06月29日(火) 05時31分33秒
新木さま

 81番の発言で貴方が「批判的意見を表明する人の動機がわからない」と仰られたので、私は86で該当者のひとりとして己の心理および想定しうるパターンの例を開陳してみせました。それに先立って、82では81の論旨に矛盾を感じたので「意図がわからない」「批判的意見は表明すべきではない」という貴方の発言は筋違いではないかと質しもして、皮肉や韜晦ではなく、本当に知りたがっていると判断しました。
 本来ならば既にお答えする理由はないのですが(私はここに自分語りをしに来ているのではありませんので。正直、86では余計な事を書きすぎたと反省しています)、最低限の礼儀として以前の発言の不足から生じたであろう質問にはお答えしたく存じます。

「情報の重要度・影響力の相対的低下」については91の海法さま、92の来夢さまの発言で既に触れられている事とほぼ同一ですが、ご理解いただけていないのであれば補足しましょう。
 単純化されたモデルを考えてみてください。とりあえず話を本に限りましょう。下手な比喩は話を混乱させるだけですしね。
 この世に書評家がひとりしか存在せず、発表の媒体もひとつしかなかったら、本を購読する際に「書評」を参考にするエンドユーザーにとって、この書評の影響力は絶大です。100%の力があります。しかし、相反する価値観・評価基準を持つふたりの書評家がいれば、ユーザーはどちらが自分の好み・価値観にマッチする書評家なのかを判断し、検討する事ができます。
 これで書評家の影響力・重要度は単純計算で半分になりました。100人の書評家がいれば、ひとりが有する影響力は全体の100分の1。要するに、それだけの事です。
 現在、ネットという過去に例のない「発信の敷居」が低い媒体でこれまでにない数の書評が溢れています。ネット上のひとつひとつの書評が市場に与える影響は、かつて限られた新聞や雑誌にだけ書評が掲載されていた時代に比べれば小さいでしょう。また、同時にネット上の書評という別の指針、参考にできる情報が存在する事で新聞・雑誌の書評の影響力も低下しています。新聞などは参考にしなくても、ネット上での評判は参考にするという人は多いでしょう。特にライトノベルなどはネットの評価が主流と言えます。新聞や雑誌にはほとんど情報がないのですから。
 もちろん上記の通りこれは単純化したモデルです。実際には、個々の情報の信頼度や自分との相性なども大きなファクターになっているでしょう。ちょうど91で海法さまがゲームの例で仰られているように。
 以上で、前回の補足説明は終わりです。

 最後に、老婆心ながら二点ほど。
 他者の動機が理解できないと言いながら、他者の感情を一方的に想定して話を進めるのはいかがなものかと存じます。動機や行動様式を理解不能な他者の感情を把握するというのは合理主義の徒としてはそれこそ「適正なバランス」を失した行為ではありませんか。この反応についてもまた「鬼門」がどうこうと仰られるかも知れませんが、私が現在抱いている感情は、恐らく貴方が想定しているものとは別ですよ。
 それと、先に述べた通り私は貴方が「理解したい」と仰られたので、異なる価値観・行動様式を持ついちサンプルとしてデータを提供しましたが、その後の貴方の対応は「理解」が目的のようには見えません。
 貴方とは価値観・行動様式・習慣が異なる他者がいます。私以外にも。貴方は他者を「理解」したいのですか? 他者から「承認」を受けたいのですか? それとも他者を「説得」したいのですか? あるいはただ「議論」したいのですか?
 上記の文は形式上質問文にはなっていますが、回答は不要です。

96 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月29日(火) 12時04分10秒
>孤独。寂しい。嫌なのよね。

孤独。人間のあたりまえ。しょうがないもの。
あるいは、
「気のあわないひとと無理をして和気藹々の演技をするぐらいなら、ひとりでいるほうがずっとラクチンだし、落ち着くし、幸福」
なんですけど。

演技でもにぎやかに和気藹々をする必要がある場合にそれを全部拒むというわけではありませんよ。はじめて会えるひととすごく気があって仲良くなることもある。出会いのチャンスを全部こばんでたら、もったいない。はたまた職業的理由、社会的理由(冠婚葬祭とか)で、ちょっとオックウでも義理というか礼儀を重んじて、出かけることもありますよ。いった先で「あー、なんか場違いだったみたい……」と居心地が悪くなっても、それはそれで「居心地が悪いという経験」をすることになり、わたしらの職業の場合たいへん重要な時間なわけですし。
でも、そんな場面にしょっちゅう身をさらしたくはない。だから、あんまりたくさんはそういうことをしない。出不精です。

一緒にいることがほとんどの場合そうとうに嬉しい相手とでも、のべつずーっとべったりくっついている、あるいは「そのひとのことならなんでも知っている」みたいな関係は苦痛です。
亭主とわんにゃんが一番近い存在ですけれど……いつでも、すべてから離れて、好きな時にひとりになれる時間・場所を確保してあります。たぶんこうしていないと精神的に壊れちゃいます。

グルーミングに関しても同じです。

必要だということはわかっている。でも自分がそれを苦手だということもわかっている。そしてやたらに「グルーミングしたがり」のひとがいることも。
やたら「グルーミングしたがるひと」には、できればあまりグルーミング「したくない」んですよー。

おっしゃるとおり、苦手だというわりには実はグルーミングがそんなにヘタではないほうかもしれん。たぶん「これはグルーミングだから」ときっぱり意識すると、スイッチが切り替わるんでしょうね。ひとが喜ぶツボをみつけて押して、ひとが喜んだ顔を見ると嬉しいし。誰かをちびっとでも幸福な気持ちにすることのできた自分を発見すると、ああよかった、と思いますから(ともすると自分なんてこの世に生きていてなんの価値があるんだろう? 二酸化炭素を排出してるだけでは……とおちこみがちな性格なので)。

けどね、だからこそ、すんごくグルーミングが好きなひとで、通りすがりじゃない関係になりそうな相手に、なまじ1度、相手の希望するようなグルーミングをつきあっちゃうと、これがけっこうヤッカイでねぇ。いつでも同じようにされるものだと思われてずっと要求されてしまったりする……というか相手が要求しなくても「こたえなきゃいけない!」と勝手にどんどんがんばっちゃうというか。
でも、そんなのそうそう続かないですから。
それがだんだん重たくなってくると、まごうかたなくグルーミング会話をするべきところでうっかりあるいはちゃっかり明らかにグルーミングをはずれた要素(コトバ尻をとらえて、ちょっとルール違反の追求しちゃうとか)をブチこんでしまう。それで、相手をカンカンに怒らせてしまったことが多々ありますです。

おとなじゃないなぁ。

97 名前 : 来無 投稿日 : 2004年06月29日(火) 15時15分13秒
新木 伸様
>潤滑油なんて、そんなもん無駄と思っています?
バランスの問題です。摩擦しかなければすり減っちゃいますが、潤滑油だらけでヌルヌルなのは気持ちが悪いと。(いや、逆か…あんまりヌルヌルだと気持ち良くn←黙れ)
(周りが敵ばっかりじゃ確かに疲れますけどもねえ、味方なんだかよくわかんない奴に囲まれているよりは敵の方が裏切らないし信用が出来ます。味方に当たる心配が無いのだから遠慮無しに当たるを幸いぶちのめしていけば良いのだし、というような性格ではあるんですけども)
きちんとした批判や真っ当な欠点の指摘は適度な摩擦、多少痛くたって手遅れになるよりマシ。ブレーキパッドに油差しちゃまずいだろと、そういうことですが。

>「良い」と「悪い」に関して、自分基準の一元的な価値観しか想定されていないように思うのです。
ですから、商品価値と良し悪しは直接関係ないと言ってるんですが。デッサンにしろ、狂ってても、いい絵、好きになれる絵はありますし。正しくてもつまんない絵はあります。現に私の持っている絵の描かれている本の大半はデッサン狂ってますよ。せっせと買ってるわけです、そういう本。
商品価値というのは主観に左右されます。だから、売れるものが誰かにとって何らかの意味がある、ことには同意してるじゃないですか。私が言う良し悪しというのは主観に左右されない、され難い部分、特に技術的なこと等の話です。
数学で答えが間違っているのと一緒です。
テストの点が悪くても気にしない。仕事で使わないから成績悪いのは影響しない。これは価値観の相違でしょう。数学が出来ないからと言ってその人の魅力とは直接関係はない。
だけど、答えが間違っているのは変わらない(問題が理解出来ない人にはそのことが解りません)し、その人が数学が不得手だということも変わらない。出来なくても別段問題はないかも知れないが出来た方が幅が出るのは確かだろう。出来ないよりは遥かにましでしょう。(努力と見合うかどうかは個人の状況次第です)まして数学が仕事に関わっているなら、不得手のままじゃ不味いはずです。絵のデッサンというのはそういう部分なんですけどね。数学者や数学の教師で程でなくとも商社で働くのに計算苦手じゃ困るだろうと。
傷を気にしない、ということと、傷が無いということは違います、と言ってるだけです。素人は気にしないかもしれないし、認識出来ないかもしれない。だからといって傷が無いことにはならないし、プロなら素人より傷の認識が出来なきゃいかんだろと、そういってるんですけど。ここで言う傷は味とか景色になるような傷のことではありません。

>だから「良い悪い」で話すのはやめましょうよ。それは主観から脱却していない概念だから。口にした瞬間に、主観の押しつけ属性を備えた言霊になってしまいますよ
私はむしろ、新木様が主観の相違を盾に思考停止してるように思えるんですけど。大抵の人は「好き、嫌い」という主観に基づく評価と「良い悪い」という客観(あるいは純粋に客観とはいえなくとも、一般的妥当性のある、客観性の高い視点)に基づく評価は分けて考えているのではないですか?確かに売れ行きというのはその大小判断に主観は混じりようもないですが、その大小が出来る原因分析に主観入りまくりではありませんか?

>一万人が購入して、一万人が否定的感想を持つなんてことが、起きるはずないじゃないですか。
当たり前じゃないですか。そんなことが起きるなんて言ってませんよ。数値化する際にモデルを簡略化しただけの極論に決まってます。
仮に購入者が全員否定しても(等という現実的にあり得ない極限状態を設定してみても;近い状態の本は存在しますが)売り上げという評価には否定が反映されない。つまり購入と非購入ではバランスがとれていない。と言ってるだけです。

>「小説を読んでもらう」という部分に対して対価を受け取っているのですね。
解っているつもりなんですけどね。
別に媒体に金払っているわけではなく閲覧に対してお金払っているつもりなので。特にライトノベルは。
消費者からすると媒体関係ないんじゃないかな。あんまり。本の媒体としての価値なんてせいぜい枕かカップラーメンのふたの重し(今時はシールが付いててもうそんなことにも使えない)位しか無いんで。明らかに内容でしょう。価値は。情報と言うか。
もちろん媒体の方も良い装丁で保存価値が高いとなればその分も込みで金払いますけど。だからむしろ今はおまけとか限定版とかだして売るんじゃないですか?媒体の方に付加価値をつけて。(儲からないんでむしろただの客引きらしいけれども)

で、ですね「内容を閲覧する行為」の価値は内容の魅力によって価値が変化します。
物質であろうと情報であろうと値が付いて、変動するもんです
つまんないものに高い閲覧料は払えません。人から閲覧体験を聞くだけで十分なこともあり得ます。大量に読み捨てられる文章は、どれ読んでも大して変わんないし、無理に読まなくてもかまわないよね、となれば金の払いは渋くなります。

一回読んで捨てるだけの内容に500円なんてもったいないと思う人がいて当然。閲覧料は値崩れを起こしてくるわけです。
著作者としては一回だろうが何百回だろうが個人一冊につき著作権料が欲しいところでしょう。個人が2冊買えば2冊分、1冊を二人で読んでも2冊分。(絵画なんかそうすると飾っておくだけで著作権料が発生したり、どこかで誰かが絵を売買するたびに作者の元に一部が入ってくると。作者からしたら結構な話ですね。)
それならダウンロードというのはいい方法かもしれませんよね。出版と言う経費のかかる形態を省いて閲覧料を下げられますし、閲覧回数を操作出来ます。ダウンロード一回数十円、それなら手頃として買う人も居れば、本に着いている挿絵を眺めたいだけの人はそれでも高いと買わない。
一回読んで捨てるような文章は1回限り(あるいは期限あり)10円、制限無し50円だったら後者は売れないでしょう。ここでも閲覧料の価値下落ですね。何度も閲覧したい文章なら、制限無く読める方を買うでしょう。いつでもどこでも読み返したいような文章なら本を(一冊と言わず。電車用とかお風呂用とか、保存用とかに)買いますな。
ほらやっぱりこれが一番健全。何人もで一冊を回し読みされる所に印税を課すより、個人で複数冊買ってもらえる作品の方が作者も出版社も印刷所も取り次ぎも書店も運送屋もみんな嬉しいことにならないですか?
売るのはもう閲覧しなくていいと思うから(下落ですね)売っている。
媒体とかなんとかでなく要は中身如何でしょう
高い閲覧料をとられた挙げ句くそつまんないものであれば「金返せ」ってことになります。新古書店に売り払う、大した値はつきゃしませんから大分損ですけども。いきおい新本の売り上げは落ちる、作者は貰える筈だった印税が貰えない。結果として回り回って閲覧料の返金をしてもらったことになると。作者や出版社はロクでもないものに高い閲覧料ボッタクってたんだから自業自得と。だから市場原理的に健全であるというのです。

>僕にお金を入れてくれていないのだから、本当なら、その人には不満を述べる権利さえありゃしないんですけど。(僕から見たなら)
入ってるじゃないですか。ブックオフに売っぱらった人が最初に買った時に。つまりそれだけの金額が閲覧価格の適正価だと(市場原理から言えば)そういうことでしょう
売れるのがすべて素晴らしいなら、新古書という形態だって素晴らしい筈じゃありませんか
(実際新古書店という保険があるから、思い切って冒険してみる。ってことはあるわけですよ。
普通なら印税が入らない作家に入ることもある。でなけりゃ、名のある作家しか手出せないじゃないですか。今ふと思ったんですがライトノベルだけが部数を延ばしてるのは新古書店で回ってるからてのもあるんではなかろうか。一人一人の部数は上がり難いがタイトルはどんどん出る。とか、何の根拠も無いですが)

言っておきますが、私は創作を市場原理だけにまかすのは乱暴過ぎて「反対」ですし、新古書店の味方ではありません(一度も利用したことは無い)。好きな作家の本を買うのに新古書店に回るのを待つなんて人を見ると…とほほな気分にはなりますし。その作家さんにはファンでこれか、と同情を禁じ得ません。

>CDなんかは、きちんとシステムが整備されているんですけどね。
中古販売にもですか?中古販売するたびに印税って入るんでしたっけ?
レンタルやカラオケは理論上は無限に利益が増えますからね、一つ購入するだけで。

新古書店の場合、そこで買って読んだらまたそこで売る、レンタルとどう違うか。というのはありますけどね。明らかに所有権(無制限の閲覧権)が一度移っているし、レンタルは返さなきゃいけないのが最初の条件であって、新古書の場合は愛蔵して全然かまわないわけですから。

マンガ喫茶や図書館等はいくらか払ってもいいとは思いますが、本は原則手にしてる人、唯一人だけが閲覧可能ですから。複製も大変だし。その意味では音楽に比べて著作権の発生する新しい価値というのが生まれ難い気はしますね。

>しかしブレーキがないというのは、正しい市場原理とは言えますまい。
ブレーキが無い(エンジンブレーキしか無い)のが本来の市場原理です。だから。放っとくと、時々恐慌を起こします。勢いがつき過ぎちゃうとバブルが膨らんではじけちゃいますし、速度が落ち過ぎてもエンスト起こしちゃう。神様の見えざる手はすごく大きいので、人間の一業界の存亡などと言う細かい所までは面倒見ないでしょう。長いスパンで巨視的に見ればなんとかバランスがとれてるだけです。

>活字依存症の方も多々おられるようですし、一時的なことにせよ、創作活動というものが衰退してしまうなんてことが起きるというのは、理性で考えたら、けっして望ましいものではないのではないと思うのですけど。
とは、思いますよ、だから、市場原理だけに任せるというのは乱暴に過ぎる、と思っているんで。
ブレーキを踏むというのは市場原理だけには任せないということですよ。
売れりゃいいというものではないし、売れないものにも良いもの大事なものがある。だからその辺を考えて多少売り上げが減っても品質を保全し、売れない物も保護しましょう、というのが市場原理に対するブレーキでしょう、踏み過ぎは良くないけど適度に踏まないと崖下に転落しますよ、と。

とはいえ、消費者から言えば、同人誌だろうとWebページだろうとかまわない部分はありますし(もちろん本という媒体の形質自体にも愛着はありますが)、出版業界と創作活動は違うだろうし。
>物書きっていうのは、雑草みたいなもんです。放っておいたって、物語を書いて人に読ませようとするものです。
モノ書きに限らず創作する人ってのはそうだと思います。だから別に消費者としてはねえ。市場原理よりはモノ書きの本性の方を信じてるんで、業界が衰退することは別にかまわんかもしれないなあと、思ったりしないこともない。です。
まあ、「腹が立ったからブックオフに叩き売る」ような行為はそもそもその本に問題があるんで、褒められた行為とも言わないけれど、ゴミ箱代わりに使うだけなんだから大した影響は無かろうと。
「腹が立ったからブックオフで口直しを買った」とか言うんだったら痰までかぶりそうな気配は感じます。

>なにかケースは違えど、久美さんの「ライトノベルは軽いからいかん。長い目で見れば、それは損じゃん」ということと、同じことを言っているような気も。
軽いのはともかく、何もかんも軽かったら吹けば飛んでしまうやろう、そらどう考えてもちょっと不味いよなあ。とそういう所に落ち着くのではありませんでしょうか。

98 名前 : Merlin C. 投稿日 : 2004年06月29日(火) 22時34分08秒
 出遅れました……。最近いろいろありまして。相転移と申しましょうか。

>大衆とか
 わたしはこれは無条件で信用できるものではないと考えます。
 マス・コミュニケーションが発達するにつれて、大衆の意見がより簡単にまとまるようになってきました。その史上最悪の例がドイツ第三帝国なわけです。そこまで悪い例を持ち出さなくても、日比谷焼き討ちだの関東大震災後のデマだの日本の第二次大戦参戦だのアメリカのアカ狩りだの、大衆がろくでもないことをやらかした例はそれこそ枚挙にいとまがないわけで。
 見えちゃった人間の心理としては、大衆がいかに思うことであれそれは指摘しなければならないだろうというのがあります。それで怒り出す人もたくさんいますが。
 例えば音感。幸か不幸か持ってしまった人間としては、ちょっと昔の例えになりますがかわいいだけのアイドルが歌うようなおとっぱずれのどーしょーもない曲が何で売れるんだろうととても疑問に思うわけで。ジャケットは見るだけで買おうとは思わないとか。
 例えば文学。五十音順の一番最初に挙がる(と思う)文学賞の作品が何でこんなに持て囃されるの? とか。
#ちなみにわたし、数年前のも今年のも肌に合わなかったものだからもう偏見持っちゃってどうにも。
 例えば科学。正体不明のマイナスイオンは持て囃される、害がないと喧伝されているはずの鳥インフルエンザは忌避される。その根底にあるのはただの印象、科学的には全然正しくないとか。まー今のマイナスイオン何とかで人が死ぬことなんて多分あり得ないことですけどねー。
 例えば海燕さんが例示している宝石は、一般的には疵があることは悪いことだとされますが、たまにこの疵が味になって気に入る人もいる。その「疵」を指摘すること自体はするべきではないかと。で、それをいかに判断するかは実際に買う人の考えることじゃないでしょうか。でなければ鑑定士なんて必要ありません。
 書画骨董なんてその最たるものでしょう。「疵」「欠け」すら骨董的価値をもつ。偽物は別です。偽物で人を欺こうとする行為を指弾することは書画骨董の価値とは別です。
 ただ、言えることは「大衆はより単純なものに惹かれる」じゃないかと。大衆の、大多数のその性質に文句を付けたところで、よほどのことがない限りは大衆は保守的でありそのままです。巨大タンカーの舵は切りにくいのです。

 たしかに、いい意見よりは悪い意見の方が伝わりやすいことは事実でしょう。悪口千里を駆けると申します。
 でも、話題に上る時点でその作品は読まれているということになって、それは既に商業的には成功しているのではないかと。
 話題にすら上らないで市場の荒波の波間に消ゆる作品の枚挙に暇はないでしょう。つまり、肯定的であれ否定的であれ評価を受けないことはその作品にとって不幸であると思います。

 批判的意見は、書く方にとっては冷静、客観的に書いているつもりでもそれを読む方にとって見れば自分の判断をぐらんぐらん揺らされる気持ちがするわけです。その揺れを、意見を重ねることによって鎮めるのは大変です。そうでなくても相手は感情的になっている。やったことありますからよく解ります。その相手を冷静に納得させなければならない。
 ましてや受け取るつもりになって身構えて取る批判的意見には何とか対応できるけど、ネットブラウズしていて不意に見つけてしまった批判的意見には受け取り体制がないものだからよけい過剰に反応してしまうような感じもします。
 だから、否定的な批判意見は難しいものだし、それを上手く書ける人間が批評家として文章を書いているのでしょうねえ。わたしなんてそれをする勇気がないから、否定的意見は沈黙を以てするのですけど。

 今の出版不況を勘案するに、構造的デフレーションではないかと。大量に生み出されるために相対的に価値が低下して、読み捨てられるならまだしも売れずに返品されて裁断機に大量に掛けられるなんていうとてつもない不幸が起きているような気がします。
 大量に生み出すためにそれまで認められなかったような質のものすら大量に出回るようになり、多くの読み手に「つまらんものだ」と評価されるようになってしまって。
 正直、次に来るかもしれない大恐慌が怖いです。わたしはいつまでも新しい本を読んでいたい。古い本も読みたい時に手に入る環境がほしい。
#だからわたしが古書店を利用するのは、絶版した本を探す場合に限っているわけです。生理的に他人がきたねー手で読んだ本を読むのがいやだというのもありますが(笑)
 だからこそ、つまらないものはつまらない、こんなもの市場に出すんじゃねえ、というような抑制も必要なのではないかと思います。
 売れないものは売れないんだから、きちんとした、質の保証のある出版物を、売る方にはとても求めたい。その意味では、批判的意見は価値があるのではないかと考えます。
 つまり、大衆ではない市民としての評価。暴走する市場にブレーキを掛けるための抑制たる批判。下り坂でブレーキのかけ方を間違えるとスリップして転けたりしますから力加減は必要かなとは思いますが。売らんかなの肯定的意見だけというのは結局暴走を産みかねないと危惧するのはわたしだけでしょうか。既に暴走しかかってるし。あるいはしちゃってる?(汗)

 新古書店だってあれでしょう、一度刷っちゃったものはもう売れなければ資金回収できないんだけど売れるまで待ってたら在庫に税金がかかるわ倉庫代がかかるわで結局マイナスでしかないんだからタダみたいな値段でうっぱらっちゃったほうが捨てるよりはいいだろうという結局デフレなわけで。
 文化で儲けてるんだからその文化にいくらか還元しろという論調は分かりますが、それは売り手の姿勢の問題であって消費者を批判するべきではないかと。だって中身が同じだったら消費者としては安い方に流れるでしょう。この消費者には、理を尽くして説得することは価値がありますがだめだと禁止することには効力がないでしょう。あ、たしか中古CDとかDVDのシステム的整備もまだだったと思います。中古で売れてもアーティストには一銭も入らなかったと思います。
 生産者たる作家さん、それにごく近い編集さん辺りまでなら「中身」としての価値を重視するのでしょうけど、印刷されて売られた時点で「本」というモノに化けている。消費者レベルではそれはもう完全にモノです。工業製品です。モノだったら安く手に入るところに行きたい。より安いCDプレーヤを求めて秋葉原で足を棒にするのと同じように、より安く売っている店で本を買う。それは多くの消費者にとって自然なことです。中古屋なんて中身でなく外見がきれいか、揃っているかに金を出す。もはやそれぞれに価値のある著作物として扱われていない。だからきれいなモノ、品薄なモノは高い。
 わたしも「中身」の価値を重視していますから、この一般的な消費者の行動は、こと本の話では批判的なのですが、ある意味仕方がないような気もします。
 だから批判すべきは中古販売されると金が入ってこない構造そのものであり、その構造を許しているくせに変なところで厳しい著作権の考え方そのものであり、大量生産物とはいえそれぞれに固有の価値があることを認めない拝金主義的な考え方でしょう。
 まあ、ここには「新刊が古書店に流れて安くなってから買う」などという本読みとして外道なやり方をする人間は来ないと思いますけどね。むしろ新刊がより早く置いてある本屋を探して足を棒にする人間ばかりかと。

 売れているものには価値があるか。それは、消費者にとって何らかの価値が見いだされているのでしょう。だって売れているんだから。ではその価値とは何か。中身だったら作者にとってこの上ない幸せでしょう。でも、中身の何が売れているものと売れないものを分けるのか? それは誰にも分からないかと。分かれば苦労しないし。
 でも、分からないからこそ考えたいと思う、それを考えることによって納得できる結論に達するかしないかはとにかくとして、考えることこそに価値を置く、そこから何か生まれればめっけもんなのが理性であり科学であり宗教だと。「分からないけど素晴らしい」は宗教ですらない感覚だと思います。それは受け取り方の違いじゃないでしょうか? どちらがいいというわけでもないでしょうし。

99 名前 : ヤン 投稿日 : 2004年06月29日(火) 23時18分44秒
 難しい話になってますが……
 掲示板というのはコミュニケーションの場でもある訳ですから、単純に、
 読んだ人間が不快にならないような書き方を心がける気遣いがあれば、
 あまり問題にはならないのではないでしょうか。

 個人的には、一番嫌なのは何かを褒めるために、別の何かを踏み台にすること。
「あのヒット作よりも、こちらの方がよっぽど面白いよ」と他作品を引き合いに
 出してきて優劣を決め付けるやり方。

 また、「これに感動してしまう人がこんなにいるのは不思議ですね」などと、
 それに感動した人間を見下したかのような視点でものを言ってる場合。

 こういう批判の仕方は、作品だけでなく、その作品を好きで楽しんでいる
 読者までバカにしているように見えて、内容が妥当であるかどうかとはまた
 別の次元で、不快感を感じることがあります。
 批判するのは当然自由なのですが、そのやり方によっては他人を不快にさせ、
 傷つけることもあるという自覚は持っているべきではないかと思います。

100 名前 : 極楽トンボ@管理人 投稿日 : 2004年06月30日(水) 00時43分06秒
基本的に議論そのものには介入しない方針なので一つだけ。
既に言及もされてますが
「できるだけ簡潔に」「比喩は控え目に」を推奨します。
比喩の多用と長文化で議論の本質が見え難くなってます。
他の人もできるだけ議論に参加しやすいようご協力をお願いします。
(比喩に対応するために比喩で応じるのでこういう状況になっているのは
理解できますので今後は……ということで)

101 名前 : 削除しました 投稿日 : 削除しました
削除しました

102 名前 : 海燕 投稿日 : 2004年06月30日(水) 03時00分04秒
簡潔に。

>自分は批判はしていても、否定はしていない。――ということですけど。

ということではありません。僕はこんなことを書いていません。そろそろ他人の発言を自分なりに意訳して議論を進めるのやめにしませんか。

>ぶっちゃけ、欠点を指摘するということは、悪いと言っているように見えるということなのですけどね。

「悪い」という言葉の定義の問題にすぎないでしょう。僕は自分が100%客観的な無色透明の批評をしているとは主張しません。そこには当然僕の主観による価値判断が混入しますが、それを完全に避けることは僕の能力の限界を超えているため、放棄しています。しかし、個人の主観の枠を超えたあきらかな論理的間違いがあれば、それを認め訂正するでしょう。

>なぜ、明らかにしなければならないのですか? それにはどんな意味があるのですか?

あきらかにしなければならないわけではありません。どんな意味もありません。ただそうすることがおもしろいからそうしているだけの趣味です。

>時間を無駄にしたー、と思ったりしたこともないのですか?

金銭や時間を浪費するリスクはあらかじめ計算してあります。それらの損失は長期的に見れば予測の範囲内に収まるでしょうし、そういったマイナスがあってもなお最終的に収支がプラスになると信じるからこそ読書しているわけです。

>「まーた、いつものご贔屓の作家を持ちあげたいのだなぁ。誰かをまた引き合いに出してきたなぁ。今度の獲物はあの人か」と見えてしまうわけです。

主語が間違えているのでは。「新木さんに」そう見えるのでしょう。僕は自分の発言内容の具体的な誤りには責任を持ちますが、読んだひとがその裏事情についてどう想像をたくましくしたかまでには責任を持てません。僕が新木さんの書き込み動機についてどんなひどい下衆の勘繰りの妄想を抱いたとしても、その内容について新木さんにちっとも責任がないのと同様です。マナー違反を自覚しているのなら、この話題はここでやめましょう。この場は僕のサイトについて語る場所ではありませんし、僕がどんなにいいかげんでばかで性格が悪くても、すべての評者がそうだとはいえません。

>グルーミング

以前いた職場に毎日のように僕にキャラメルをくれるひとがいました。好意のあらわれだということはわかるし、ありがたいことなんですけれど、僕はキャラメルがきらいなんだよー。小心な日本人らしく「ありがとうございますぅ」とマルチみたいに素直な笑顔を浮かべて受け取って食べていましたが、つ、辛かった。いや、わかっているんだ。ちゃんと拒むべきだってことは。自分の意志を通すべきだってことは。でも僕にはできない、できないんだよー。はい、僕もグルーミング苦手な非社交的人間です。しくしく。

>かわいいだけのアイドルが歌うようなおとっぱずれのどーしょーもない曲が何で売れるんだろうととても疑問に思うわけで。

かわいいからでは(笑)。こういうのって「中味はカスだけどイラストだけ綺麗なライトノベル」とどこか似ているかもしれませんね。僕はイラストが綺麗だから中味はこの際読まなくてもいいや、と思って本を買うことがけっこうある。

103 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月30日(水) 09時26分34秒
>キャラメルをくれるひと

わははははははははははは! 
すてきー。
そういう場合は、ムリにめしあがらず、ポケットにでもいれておいて、その日どっかでたまたまであった誰かに「これ、あげます」ってあげる、なんてどうでしょう?(毒入りかもとかって疑われるかなぁ)

とかいいつつ。思い出した〜〜〜。
とある打ち合わせにいった席で、お茶にチョコレートがついてきたんですね。いっこはその場ですぐ食べちゃったんですけど、打ち合わせ相手のひとが最後まで食べないでいて、じゃ、っていうときに「あ、これよかったら」ってくださったんです。「ありがと」ってなにげにコートのポケットにいれておいたら……
冬だったんですけど。
電車のキップを同じとこにいれといて、ふと出したら、なんだか不気味なウンコ色なものが指にべっとりとついてくる。キップも汚れてる。そう。チョコレートだったので、ちょっとあったまったら「しっかりとけちゃった」んですーー!
あの時は泣いた。

でも、ほんと。もらったものにナンクセつけるなんてできないですよねぇ。とにかくその気持ちにありがとうをいって、もし自分がニガテなものだったら、誰かもっと好きそうなひとにあげるのがいちばんだと思います。

おりしもお中元シーズン。みなさま、もらった相手が「……ああ、できればコレじゃなくて……」と思うようなものは、なるべく贈らないように気をつけましょう(笑)。

104 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月30日(水) 09時29分18秒
ちなみにわたしは、お中元もお歳暮も年賀状もここ数年ただのひとつも出したことのない(もらうほうは拒まない!)とんでもないやつです。賃貸マンションにすんでたときには、大家さんにだけは観葉植物の鉢植えを贈ってましたけど。
ただし、どっかでたまたま誰かの好きそうなものをみつけたりすると、お誕生日とか記念日とかお礼とかなんにも関係なくても、「これみたとたん、○○ちゃんのだと思ったから」と、いきなり贈ったりはします。

105 名前 : 新木 伸 投稿日 : 2004年07月01日(木) 06時17分06秒
>葛西さん

 一発言の重みに関して。
 単純化モデルで、1人の書評家しかいない場合から比べると、100人の書評家がいる場合には、重みは100分の1になっている――という話ですけども。

 発言の参照回数も変動させるべきパラメーターとはならないでしょうか。

 1人の書評家の書評を一人の購買予定者の行動を左右する場合と、100人の書評家の書評が100人の購買予定者の行動を左右する場合とでは、重みは同じになると思うのですけど。

 ネットが気軽に利用できるようになったということは、「気軽に情報発信できる」=「書評家が増える」ということでもありますが、購買予定者が気軽に書評を読むことができるということも意味しているはず。
 情報発信者が増えているぶん、情報を受け取る人も同じぐらい増えているのだと仮定すると、一情報の重みは変わっていないことになると思うのですけど。……どこかで間違っているかな?

 発信者が増えるほどには、それを受け取る人は増えていない――と、暗黙の前提があったりしますか?
 いわばWEBでの情報発信という行為は、誰も聞いていないカラオケの歌状態であるとか。




>来無さん

>>私が言う良し悪しというのは主観に左右されない、され難い部分、特に技術的なこと等の話です。数学で答えが間違っているのと一緒です。

 しつこくデッサンの話ですが。
 ここに考えかたの相違点があるのかと思いました。
 数学っていうものは、人間が発明した概念であり、「絶対的解答のある統一世界観」ですよね。誰がどう検証したって、正しいものは正しい。間違っているものは間違っている。そういう白黒はっきり付く世界観です。
 これとデッサン間違いの問題とを、同列に扱ってしまうことが、僕が違和感を覚えるところなわけです。

 数学の解答というのは、誰にとっても正誤が一意に定まるものです。
 あらゆる人間の主観を離れたところに、数学というものは厳然と存在しています。――そういう定義で創られたものが数学というものですので。
 解が違っていることは、(誰にとっても)誤りであるわけです。

 しかし「絵」というものはデッサン以外にも様々な魅力の要素がありますよね。
 来無さんは人間の魅力に喩えられていますけど……。数学はできなくても、魅力ある人がいるのと同じように。
 数学を重視すべき職種に就いている人が、数学が苦手ではまずいだろう。それはたしかにそうでしょう。
 そして来無さんは、絵描きはデッサンが重視されるべき職種なのだから、デッサンが狂っていたらいかんだろう――と論を運ばれるわけですけど。

 そこのところに、本当にそうなのでしょうか、と問いたいわけです。
 来無さんにとっては、絵というものには、デッサンが絶対にはずせない要素と思われていることはわかります。


>>まして数学が仕事に関わっているなら、不得手のままじゃ不味いはずです。絵のデッサンというのはそういう部分なんですけどね。数学者や数学の教師で程でなくとも商社で働くのに計算苦手じゃ困るだろうと。

 ここのところ。
 「〜なんですけどね」とか、「〜困るだろう」とか。
 来無さんも、ほんの少し確信に欠けるためか、推測やら、限定的な仮定やらの言葉を使われていますよね。
 僕もそこを疑問に思っているわけです。その「だろう」という推測は、どうなのですか、と。

 実際、不得手でもそうまずいことになっていないようだし、困っていないみたいだし。
 現実を見ると、デッサンはそう重視されていないように見えます。

 たしかに僕も、自分自身の「好み」でいうなら、デッサンがしっかりしていたほうがいいですし。「この体、どんな骨格が入っているんだろう? 無茶でない?」てなものよりは、背中側を想像できたり、皮膚を剥いたら骨格や筋肉まで出てきそうな絵柄のほうが好みですけど。
 しかし自分の好みと、物事の良し悪しとは、直結しないように、混同しないように気をつけているつもりです。なので、自分はそーゆーの嫌いと思っても、嫌いだから悪い、と直結はさせずに、「待った。本当にそれでいいの?」と立ち止まって考えるわけです。

>>大抵の人は「好き、嫌い」という主観に基づく評価と「良い悪い」という客観(あるいは純粋に客観とはいえなくとも、一般的妥当性のある、客観性の高い視点)に基づく評価は分けて考えているのではないですか?

 ――ということでしたら、来無さんも、主観評価と客観評価とは分けていただきたい。デッサンが狂っているのは自分主観的には悪いけど、客観主観では悪くない(かもしれない)という観点に一度は立たれてほしいのですけど。
 いまのままですと、来無さんの「デッサン狂いは嫌い」という主観的判断と、「デッサン狂いは良くない」という客観的判断とが同じものですので、来無さんの心の中で二つの物事が短絡されてしまっている懸念が拭いきれないのです。

 デッサンがおかしくてもOKであり、それが多くの実例として観測されているのであれば、消費者の多数を占める価値基準のなかでは、デッサンというのはだいぶ低いところに置かれている結論づけなくてはならないのですが。

 デッサンが狂っているというのは、事実でしょう。
 しかしデッサンが軽視されているというのも、やはり事実でしょう。

 どちらも良い悪いではなくて、単なる事実として認定できると思うのですけど。
 宝石に傷があるかないかと問われたら、傷はある。だがお客さんは気にしていないらしい。――となるのでは?
 実際、この絵はデッサンが狂っている、なんて言ったところで、気に入っている人の心の中で、なにが変わるとも思えないのですけど。はじめからそれを問題にするタイプの人であれば、その絵を気に入ったりはしませんよね。

 あともうひとつ。
 僕と来無さんとのあいだで、デッサンというものについて、用語のすりあわせを行っていないままですから、同じものについて語っているのかどうかも怪しかったりするのですけど。



>>プロなら素人より傷の認識が出来なきゃいかんだろと、そういってるんですけど。

 プロといっても全方位にすげぇ能力を持っているわけでもないですから……。
 特に重視されていない部分においては、素人以下であったりすることもあるのではないでしょうか。
 いま現在、観測する限りにおいては、デッサンは重視されていない。――という現状についての認識については、異論はありますでしょうか?




>市場システムについて

>>(絵画なんかそうすると飾っておくだけで著作権料が発生したり、どこかで誰かが絵を売買するたびに作者の元に一部が入ってくると。作者からしたら結構な話ですね。)

 痛たたっ。
 たしかに絵画は、売りっぱなしですね。キャンパス代と絵の具代にも満たないような捨て値で売られた絵に、何百万ドルも付くことがありますし。著作者が死んでいるならともかく、生きているあいだに高値の取引が行われているときの、その胸中となるや……。

 死角からざっくりと刺されて、とても痛かったので――。
 「閲覧したら金払え」と思うことが、著者のわがままであるというこの意見は、胸に留めさせていただきます。


 健全な市場原理に関して。
 読者が適正と感じる閲覧料が、本の価格を下回っている。売られてゆくのはそうした本。そうした本が売られてゆく結果として売り上げが落ち、淘汰が進むのは、市場としてはむしろ健全である。
 ――と、要約してみましたが。こんなところでよろしいでしょうか。

 ただ、健全な市場原理なのかなぁ。と例によって疑問を感じる部分がありますので、そこをおたずねします。


 新古書店というものを消費者の観点から眺めてみます。
 すると購入後に不満があれば、ある程度の返金が行われるシステムが、事実上、成立しているわけですよね。
 また消費者は本を「定価」で買わずとも、多少のデメリット(出回るのが遅い。豊富でない。他人の手垢が付いていて気持ち悪い)を容認すれば、定価より安く購入するチャンスが得られたりするわけです。

・返金が保証されるシステム。
・定価以下で購入できる機会の提供。

 この2点に関しても、存在していたほうが「健全」と、来無さんは主張されているのだと受け取ってOKでしょうか?

 僕自身は、購入者の購買行動になんの責任も生じないっていうのは、どうかと思ったりするのですけど。
 面白いと判断した。買った。つまんなかった。――となったとき、それは自己責任じゃないのかなぁと思うのですけど。自己責任を問わずに、投下した資本の回収をさせちゃうのは、消費者の目を甘やかすことにはならんですか?
 子供がお金を握って駄菓子屋に行って、買ったお菓子がまずかったから買えてくれーとおばちゃんに泣きついても、「ダメ」とあしらわれて悔しい思いをすることで、購買者としての目が鍛えられてゆくものだと思うのですけど。またへんな喩えを出してしまいましたけど。(笑)
 痛い思いをしても容易にリカバリーできてしまえて、痛みを帳消しにできる状況を作り出すことは、短期的には消費者にとって嬉しいことなのかもしれないけど、長期的には目を曇らせてしまうことにならないかなと。
 そうした意味で、不健全ではないかと思うのです。必要以上に甘やかすのは不健全というものでしょう。

 まあ新品購入価格と、売り払った差額とが、その責任としての分担額ということになるのかもしれませんけど。



>>(実際新古書店という保険があるから、思い切って冒険してみる。ってことはあるわけですよ。

 そもそも、新刊を立ち読みできるという、ほぼ完璧な「味見」のシステムが確立しているというのに、それ以上の保険を消費者に与える必要があるのでしょうか?
 べつにビニールに包まれていて、「表紙買い」しなきゃならんモノではないでしょう。「小説」って商品は。だまされたとか、失敗した、って、そう思うことが、よくわからんのですけど。

 スーパーの試食コーナーできちんと漬け物を試食していて、そのうえで一パック買っているのに、やっぱりまずかったから返金しろ――ってのは、わがまま以外のなんでもないような気がするのですが。
 試食できるのに、試食しないで買ってゆくのも、また自由ってもんですが。


 ふたつめ。「定価以下で購入できる機会」の提供に関しては――。
 これはやや別な問題であるかと。
 ある商品に付ける値段を、売り手側がコントロールできない状況というのは、よろしくないと思うのです。
 このへん、社会学的には購買欲求曲線やら、いろいろありますけど。
 かならずしも一つの定価で売ることが最大の収益をもらたすわけでないことは理解しています。
 パソコンソフトなんかでは、旧バージョンを廉価版にして出したりすることがありますし。定価では買わないけども、もうすこし安ければ買う――という層はかならず存在するわけです。

 しかしある商品をある価格で販売するということを、商品を提供する側がコントロールできなくなる状況は、市場が不健全になる原因なのでは?
 べつに中古販売を禁止すれば、それと同じぶんだけ新品が売れるだろう。なんていう頭の悪い発想をしているのではないですけど。
 新品同様の本が、発売者の意図によらず、安い価格をつけられてしまうということの是非ですね。

 このへんに踏み込むと、「再販制度」の是非なんていう話に発展してしまうのですけど。

 再販制度についてはご存じだとは思いますが、いちおう、ギャラリーの方のことも考えて、解説されているページにリンク張っておきます。(オッカムのカミソリの話も、解説はギャラリーの方のためだったり)

「バーチャルネット法律娘 真紀奈17歳(ログまとめ)」より
http://homepage3.nifty.com/machina/c/c0011.html

 再販制度の擁護論としては、「安売りをしないことで、売れない(が価値がある)ものを守ることができる」てなものがあると思います。
 再販制度撤廃論は、市場の健全性を推進するため、となるわけですが。

 仮に再販制度が撤廃されたとすると、売れない本など、末端の書店などは仕入れ価格を下回っても売らなくてはならなくなったりするわけです。一方的に販売業者が厳しくなります。
 出版社や流通は、売れない本がたとえ原価割れしても、すでに出荷済みであるので、それほど痛手をかぶらない。――が、それも短期的なことであって、売れない本を出荷しているメーカーは信用されなくなるし、本当の売れ筋しか作れなくなってきたりして影響が出てきます。
 そして消費者のほうも、安く手に入って喜ぶけども、その喜びも短期的なもので、長期的には、「売れてないけど、これ好きなんだよなー」というマイナー路線はことごとく消え去ることになって、無難でメジャーなものしか手に入らなくなる。
 ベータデッキは消え去って、VHSしか残らんわけです。親指シフトキーボードは、なかなか手に入らないわけです。国産パソコンPC9801は死滅するわけです。

 まあ、著作物以外の業界では、普通に行われているところなんですが。
 業界全体で痛みを経験して、淘汰されるべきものは淘汰されていったほうが、健全であろうといえば、健全なのでしょうが。



>>中古販売にもですか?中古販売するたびに印税って入るんでしたっけ?

 CDの場合には、中古には適用されてないですね。
 やはり永久視聴権の売買って扱いになっているのではないかと。



>>とはいえ、消費者から言えば、同人誌だろうとWebページだろうとかまわない部分はありますし(もちろん本という媒体の形質自体にも愛着はありますが)、出版業界と創作活動は違うだろうし。

 昔は、創作して人に見せるためには、出版するしか選択肢がなかったわけで、考えるまでもなく、「創作」=「出版」だったわけですけど。いまは世情が違ってきていますよね。ただ単に見せるだけなら、WEBのがぜんぜん効率がいい。

 小説家としては、小説だけ書いていて、人並みの生活ができる社会になってくれていれば、どんなんだっていいんですけどね。
 有料メールマガジンだとか、WEB閲覧課金制だとか。いろいろ他のビジネスモデルはあるはずですけど。
 ――しかし僕などは、ほんとに小説を書くぐらいしか能がないもんでして。そんなビジネスモデルとかを考案してみたり、作り出してみたりするなんてことは、とてもとても……。
 まるで別種の才能が必要なわけです。
 だから既存の確立したビジネスモデルにおんぶにだっこで、出版社と出版業界とのお付き合いをしつつ、業界の端っこで保守的に既得権益をすすっているぐらいが関の山なわけでして。

 仮に実業家としての商才があるなら、自分で出版社を作ってしまうことも、既存のビジネスモデルをひっくり返すような小説の売りかたを始めることも可能なわけです。
 日本はアメリカに準じる自由経済の国だから、どんなベンチャービジネスを個人が始めたって自由なわけですし。

 やることもやらんで、現状に対してうだうだ口だけで文句を言うのは好きではないし、身の程もわきまえているしで、現状肯定なわけです。
 再販制度擁護。新古書店は困る、と。


 というように、市場原理まで話がゆくと、手に余る問題となってきますので……。
 この話題に関しては、このへんで収めませんか?
 僕のやっているのは、「新古書店オッケー」と言っている人を見かけたら、その場で、即座に異を唱えておくということでして。
 可能なら説得する。そして不可能そうなら、せめて新古書販売が行われることで生じるデメリットを認識してもらうということで。
 その二番目の目的は十分に達せられた気がしますけど。




>Merlin C.さん

>>見えちゃった人間の心理としては、大衆がいかに思うことであれそれは指摘しなければならないだろうというのがあります。

 「見えちゃったもの」がなにか、ということにも関わるでしょう。

 唐突ですが、「命以上に重要なことはない」――この命題については、YESってことで、よろしいでしょうか?
 そしてこの基準で大別するなら、すべての問題は、「人の命に関わること」と「命に関わらないこと」の二つに分けられるでしょう。

1.ナチスドイツ問題。
2.音感問題。ある歌がうまいのかヘタなのか。
3.さる文学賞問題。
4.科学問題。マイナスイオンがもてはやされている。
5.科学問題。鳥インフルエンザを大げさに騒ぐこと。
6.宝石問題。傷の有無。(正しくは「疵」かな? 宝石内部の模様状の結晶欠陥のことですよね)

 すべて一緒にして同列に並べられていますけど、乱暴すぎるかと。

 1と5とは、命に関わってきます。
 2と3と4と6とは、なにがどう転んでも、命には関わりません。マイナスイオンを大量吸引したところで、人は死にません。(たぶん)

 命に関わることは、「見えちゃったら」指摘しなけりゃならないでしょう。そこに異議はありません。
 たとえばエンジンオイルの警告灯が付いているのに車を走らせようとしている人がいたら、僕は誰であろうとも注意しに行きますし。相手が迷惑がっていたとしても、それは言っておかねばならない。
 しかしカーステレオで音程の狂っている歌を流している人に、わざわざ「その歌手は音痴ですよ」と注意しに行くそれは、道義的責任の範疇から外れるんじゃないかなぁ。
 その歌がいかに音痴だったとしても、誰も死にませんし。怪我もしませんし。
 そもそも誰も困りもしないんじゃないでしょうか?

 そういった、どうでもいいような些細なことに対して、わざわざ口を開いて発言しなければならないのは、なぜなのか。どうしてするのか。なんの目的と意味とがあるのか。
 ――というのが、当初の疑問なわけです。


>>新古書店だってあれでしょう、一度刷っちゃったものはもう売れなければ資金回収できないんだけど売れるまで待ってたら在庫に税金がかかるわ倉庫代がかかるわで結局マイナスでしかないんだからタダみたいな値段でうっぱらっちゃったほうが捨てるよりはいいだろうという結局デフレなわけで。

 僕は一般の消費者が売る場合の話を想定しています。
 業者による一括処分の話ではありませんし、そもそもそういったことが起きているということには僕は懐疑的です。やはり断裁処分してるでしょう。だって新古書店に流したら、自分の首を締めますもの。また再販制度の維持に血判押している以上、そうしてもらわんと現行不一致ってもんですし。
 ぶっちゃけ、デマなのではないのですか? 裏は取られていますか?

 本を「モノ」として扱うか、「モノではないもの」として扱うかに関しては、前に、久美さんにさんざん「小説はモノでしょう」と言っていたことを振り返ると、耳に痛いです。
 来無さんのレスにもある通り、他の工業製品と比べて、本とその生産者だけ特別に扱えと主張することが「わがまま」であるのかどうか、もうすこし、考えてみたいと思います。





>海燕さん

>>そろそろ他人の発言を自分なりに意訳して議論を進めるのやめにしませんか。

 もうしわけない。
 海燕さんの書かれることを、なんと解釈すればいいのか困ったうえでの苦肉の行動なのだと理解がいただけると……。
 もうすこし、ズバリとホンネを言ってくれると助かるのですが。
 以前、「うちのサイトへの出入り禁止」と、ハッキリ僕に離縁宣言を言い渡すことのできた海燕さんらしくもないです。
 僕が言葉の潤滑油を不要とする人間であることは、すでにお話してありますよね? 言葉をオブラートに包まなかったせいで傷つけてしまうという配慮は、すくなくとも、僕に関しては不要です。


>>作品の真価を明らかにする話

>>あきらかにしなければならないわけではありません。どんな意味もありません。ただそうすることがおもしろいからそうしているだけの趣味です。

 作品の真価を明らかにして、世に発信することが、なぜおもしろいのですか?
 海燕さん的には、それは、なぜ?


>>「まーた、いつものご贔屓の作家を持ちあげたいのだなぁ。誰かをまた引き合いに出してきたなぁ。今度の獲物はあの人か」と見えてしまうわけです。

 これは僕の感じた不快感の内容についての記述ですね。海燕さんの過去の別所での書き込み不快感を感じたと述べた以上、それがどのようなものであるかと説明する責任があると思って書きました。「不快感を感じた」だけでは、ただの言いがかりであると思えましたので。
 ある人がある書き込みをして、それによって誰かが不快感を感じたとき――その発言者が、相手の感情にまで責任を持つ必要がないという論には、とてもうなずけません。
 たとえば僕はいまマナー違反を犯していて、こうして海燕さんのことを場所違いで追求していたりしますけど。これだって、見ている方が不快感を覚えたのなら、僕の責任でありましょう。
 どなたかが「不快です」と表明されましたら、僕は謝らないとならないでしょうし。
 新木は場所もわきまえずに因縁をふっかけるやつだ――という印象を持たれた方がいましたら、それも僕の担うべき責任ってものでしょうし。
 僕は文責を取るためにこうして名前を出して書いているのであって、責任を取るつもりがないのであれば、はじめから匿名にして書いています。




>キャラメルをくれるひと

 あー。僕はそれ、「僕はキャラメル食べないんで、誰か他の人にあげてください」と言ってしまうほうですね。食べないひとがもらってしまうのは、無駄ってものだし、合理的でないし、ぶっちゃけいけないことだとも思うし。誰かへの再譲渡に失敗すると、その食べ物は無駄となってしまうことに……。
 貰うときに辞退可能ならともかく、お歳暮など、届いちゃったものは仕方ないので、なんとか用立てようとしますけど。(お歳暮不要って言っておけばいいのか)

 ちなみに僕は、お中元もお歳暮も年賀状も、届いた年賀状のお返しも、ほとんど出したことのない「普通の人」です。これが世間的には「ひどい」となることは知っているのですけど、自分的には出さないほうが普通と感じるもので、自分の行動が「とんでもない」とは感じないのです。久美さんは「自分はイケナイ」と思われるぶん、やはり感性としては「センター寄り」なのではないでしょうか。
 自分が貰えなくても全然かまわないから、自分もあげなくてもいいようにならないかなぁ、と考えたりします。
 ただ蕎麦好きの小説師匠には、小諸に旅行に行くたびに現地の蕎麦を届けています。これは心理的な負債の返済であって、いわば自己満足のためであって、潤滑油として送っているわけではないですが。

106 名前 : くぼひでき 投稿日 : 2004年07月01日(木) 09時37分16秒
新木さま

横からごめんなさい。

 ログをずっと読んでいて、そろそろ、スレの主旨からはずれていってるように思うんです。各論反対がずっと続いていて、全体への回帰・高次への止揚がすすんでいないのでは。

 コミュニケーションの意義としては、この掲示板は、相手を折伏・論破することに目的があるのではなく、対話に目的があると思います。
 わたしの考える対話とは、相容れない(かもしれない)他者と、同じ場所でそれぞれの意見を表明し、それぞれの意見を聞く。それのみです。

 1 Aが意見を表明する。
 2 Bが Aの意見と同じ場に立ち、自らの見解を表明する。

 その後、AとBは、お互いの意見を尊重して、次の話題にうつる。

 もちろん、同じ場に立つために、ある事項を確認することはあろうかと思います。しかし、この部分は違うと思う、この部分はこうだ、と自説まっしぐらの状態で進み、そこで拘泥するなら、対話は成り立たず、本来得るべき結果を迎えることができないと思われます。

 相手との意見の相違は、ある一定のときに止揚して、次のステップに、より高次の話題に進めると思います。
 国家間の対話でさえ、この部分とこの部分は、今後継続していくこととして、お互いの折り合いのついた分だけ、声明の発表、条約の締結、といったことができるのですから。


 この掲示板は、ほんとうに読者にはまたとない、作家の意見をライブで見ることができる、貴重な掲示板です。こういう見方をした作家がいる、こういう意見を持つ読者がいる。そこに、自分はこういう意見を持つといって書き込む作家または読者がいる。なるほど、これが多様性というものか。その多様性は、意見の同一化では収斂されない。そこがまた良い。

 これを楽しまずして、対話は成り立たないと思われます。
 それこそ、この掲示板で交わされる問題のほとんどは、ここで引いたら死ぬ、なんてことは無い話題なので。

 浅慮ですが、受け取っていただければ幸いです。


 さて、対話にもぐりこみます。

 生活資金を使い込んでまで本を買うのが無常の楽しみ、のわたしとしては、買った本が「なんじゃこりゃ!」となったとき、
「ま、買っちまったものはしかたない、今後この作者の本は買うまい(または気をつけよう)」。
 という判断をします。

 それは作品からだけでも判断しますが、たとえば、対談であるとか、新聞・雑誌に出した書評であるとか、作者が書いたそういったものを読んで、
「あ、この人の意見はおもしろいな。本を買ってみよう」
 ということもあります。
 もちろん、その逆「こんな意見の人の本は買うまい」もあります。

 この掲示板でも、さまざまな評価がなされたり、その作家が来臨したりと、いった感じで、わたしの知らない本や、評価を保留していた本、買うのをためらっていた本について、あらためて手が伸びた本もあります(たとえば、ドクロちゃんは買うのをためらっていた本。イラストで止まってました。だってパンツ見せてんだもん。けど、読んだら大爆笑。全部そろえてしまいました^^)。

 このスレの主旨からいえば、イラストで食わず嫌いしちゃいかんな、と思いました由です。

107 名前 : 葛西 伸哉 投稿日 : 2004年07月01日(木) 13時06分23秒
くぼひでき さま

 ホント、対話というのは難しいものですね。自戒も込めての発言ですが「多様性を尊重する」と宣言しつつ「でも、自分の考えが多数派/正統派であってほしい」「自分の支持する考えはもっと尊重されるべき」と思ってしまうのは避けがたい陥穽なのでしょうか。

 さて「イラストが購入判断の際に不利なパラメータになる」というのは日頃あまり意識しないケースですが、思い起こしてみればいくつか実例も心当たりがありますね。面白い視点の提供、ありがとうございます。
 そう言えば、くみにゃさまも『イリヤの空、UFOの夏』のイラストに抵抗というか違和感を覚えたという話をしておられましたね。第一印象を操作する力が強い分、実はマイナスの効果をもたらすリスクも大きいというのは見落とされがちかも。
(このあたりは小説家にはどうしようもない部分なので、編集者の皆様に頑張ってほしいところです)
 まあ、だからといって極端な好悪が出ないような無難な絵ばかりになっても本末転倒。それこそネットなり雑誌なり「第一印象」以外にも本の中身を知り、購買判断の材料にする情報が増えればいいんでしょうけどね。「このライトノベルがすごい!」もそのひとつなわけですし。

 それと、ネットで情報が気軽に発信できるようになった分、大昔に比べれば作家と読者の間の垣根が低くなっているのも事実。ご指摘の通り、作品以外の作者の人柄などに触れる機会も多いでしょう。
 ひとりの書き手としては「がはははは、俺様がどんなに悪人だろうが書いたモノは面白いのじゃあっ! さあ、読め! 読んで感動しやがれ!」とまで断言できれば豪快で格好いいのかも知れませんが、そこまでの自信がない私としては、どんな形であれ読者の不興を買うような言動は控えたいですね。特に若い読者にとっては、作者と作品の間の敷居も低いでしょうし。
 もちろんこっちもイラストの話と同じで、無難に波風を立てない事がいちばんというわけでもないでしょうけど。

108 名前 : 削除しました 投稿日 : 削除しました
削除しました

109 名前 : 草三井@STAFF 投稿日 : 2004年07月01日(木) 14時58分46秒
失礼します。
極力、氏名欄をお書きくださるようお願いいたします。

110 名前 : damaka 投稿日 : 2004年07月01日(木) 22時42分57秒

一読者ですが、少々きになりまして、横から失礼します。
damakaともうします。

新木様

>どちらも良い悪いではなくて、単なる事実として認定できると思うのですけど。
> 宝石に傷があるかないかと問われたら、傷はある。だがお客さんは気にしていないらし
>い。――となるのでは?

新木様はこう仰っていますが、お客さんは気にしないということが問題とはなっていない
です。

また、新木様は21の発言で

> 「価値」というものを考えるとき、作り手の思うところの「価値」だけしか考慮しない
>のはなぜでしょう。
> 作り手の狭い視野では知覚できなかった「価値」が存在していて、そこに対価を払う受
>け手がいることを容認しないのはなぜでしょう。
> たとえば製菓機械をオブジェとして飾るから売ってくれ――みたいな。

と仰っています。それに対応するように来夢様は、22の発言で、

>購入する側が購入品をどう使うか、は基本的に購入者の自由です
>デッサンが狂った絵だって、商品にならない訳ではない、が、それは取引としての話
>欠陥のある機械を承知で売るのは機械職人ではない
>デッサンが狂ってることを承知で売るのは画家ではない
>それはブローカーの仕事です

と仰っています。また、同じ22の発言で、

>デッサンが狂うというのは文章で言えば、てにをは、が、おかしいとか、誤字脱字がある
>とか、そういうレベルの話です(もうちょっと広く高度な話ではあるかと思いますが)

とも仰っています。

宝石という比喩を持ち出されていますが、傷があることは分かっているという前提の
話しですね。

> 実際、この絵はデッサンが狂っている、なんて言ったところで、気に入っている人の心
>の中で、なにが変わるとも思えないのですけど。はじめからそれを問題にするタイプの人
>であれば、その絵を気に入ったりはしませんよね

で、実際確かにそういう人は、多いでしょうね。
でも、その製品、あるいは作品を生み出した職人、職人という言い方があれならば、
生産者、としての姿勢はどうなのよ?
ってのが、話しの本筋なのではないのでしょうか?

実際、これをイラストや小説にあてはめると、作品に瑕疵があるのはわかっているけど、
現状これが精一杯だから、今はこれを世に送り出す、でも次は……。という姿勢と、
瑕疵があるけどいいやぁ、これでいってしまえ、っていう姿勢の違いがあると思う
のです。

僕ら、購入するほうは確かにその違いは分からないですが、送り出すほうの姿勢として、
来夢様は、前者でいて欲しいですよね。っていうお話しをされていただけかと思います。
ですが、新木様のおっしゃりようは、まるで後者でも、作品を作り出すほうは構わない。
といっているしか受け取れません。
こういう姿勢は、購入する人間としては、見せられると幻滅してしまうのです。
できれば、いつでも最高の作品を世に送り出してる、という姿勢じゃないと、
その作品に対価を払うほうにとっては、片手間で創られた作品にお金を払うことに
なるわけですから。

まぁ、それでも構わないという人も多いのでしょうが、自分はそれはちょっと嫌かなぁ、
という人間なものでして。



111 名前 : 極楽トンボ@管理人 投稿日 : 2004年07月02日(金) 04時15分21秒
正直介入するかどうかかなり迷ったのですが……
(なお以下の処置に関するご意見・要望などはお手数ですが
この掲示板ではなく管理人宛に直接メールでおねがいします)

まずは書き込んでくださっているみなさんへ。
一応このスレのタイトルは『「ライトノベルとイラストの関係」を探るスレ』です。
時には話題が脇道にそれることもあるでしょうし、それも大変有益なものだと思いますが、現状さすがに話題がズレすぎてます。
しかも一部で、話題がループしつつあります。
あまりにズレすぎた話題はこの際【白紙】として、改めて上のタイトルに絡んだ内容について意見交換をお願いします。


そして新木さんへ。
書き込んでくださるのはありがたいのですが長すぎて、読み手がついて行けませんので簡潔に論旨をお書き下さい。ここは意見交換の場所ですので、読み手が処理しきれない書き込み量は問題があります。
それから全体的に脱線が目につきます。
脇道にそれ、そこでの意見交換でさらに脇道にそれを繰り返された結果完全に話題が迷走しています。ここは『「ライトノベルとイラストの関係」を探るスレ』ですので、そのあたりをご一考下さい。


よけいな口を挟んでしまい申し訳ないですが、以上よろしくおねがいします。
では今後とも有益な意見交換を。揚げ足取り合っても不毛ですしねっ!

112 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年07月02日(金) 06時21分06秒
極楽トンボさま、あんど、別スレですが、ボボヴィッチさま、ご心配あんどお手間をおかけしてしまってごめんなさい。お気遣いありがとうございます。

そーいえば「……イラストの関係を」スレでした……!
そこで強引に宣伝。
高橋葉介先生にイラストを担当していただきたかったので、根まわし(?)先生のスケジュールの空き待ちその他に時間がかかってしまい(イラスト関連以外にも事情はいろいろとありましたが)、気づいてみればナント書き下ろし原稿をあげてから一年以上刊行が延びてしまっていた本が、こんどの8月にでますぅー! 光文社さまのノベルスなので、ライトノベルとはもしかするといえないかもしれないんですが、葉介さまのイラストを「パッと見」には、「そう」思うひとがいてもおかしくないものになるはず。タイトルは『偽悪天使』でございます。拙の片思いをこころあたたかく受け止めてくださった葉介先生は、すばらしいイラスト案(いわゆるラフ)を既に描いてみせてくださいました。必要とされるイラスト点数を何枚も何枚もオーバーして(泣)。あんまりたくさん、あるいはあまり近くのページにイラストがいくつもはいるのはノベルス的には……なので、せっかく描いてみてくださったうち何枚も「つかえない」ことになるのにー! もったいないやら、ありがたいやら。ほんとうに嬉しくてなりません。思わず「こんなに素晴らしいなら、いっそ全部葉介さまのマンガで読みたいぐらいだ」と申しまして、担当編集者に苦笑されましたですが。
我ながら、挿絵のない本のほうがもともとは好きだとか、テキスト主義だとかいってきたのと思い切り矛盾していますが、すみません「中にはそういう作品もある」んです。
ちなみにご担当願うことがかなってからは、こちらからは「なんでも好きなようになさってください」とだけお願いいたしました。ラフを見せていただいたのも、あくまで確認と、ミーハーでとにかく一刻も早くみたかったからです。その結果、葉介せんせいのご提案というかアイディアをとりいれて、「本文」のほうを一部(再校で)やりなおすことに決めました! ちなみに登場人物の服装の問題です。葉介せんせいが「こんな服にしたほうが面白い?」と疑問符ツキでメモ書きされていたものがあったので、さっそく「ハイ、そうします!」とイタダクことにしたのです。
「なるほど、これが作者が特定の絵師さまのイラストをはじめから想定していて、なにがなんでもそのかたに絵を描いてもらいたいとコダワッて、絵師さまがそれにハップンなさった一例ね?」
と思っていただければ幸い。

113 名前 : 葛西 伸哉 投稿日 : 2004年07月02日(金) 06時46分20秒
くみにゃさま

 最近のライトノベルは「ヒットしたらシリーズ化」が前提になっているので、最初は想定していないケースでも同シリーズの2冊めからは作者にとっても「お馴染みのイラストレーター」さんという事になるんですよね。
 2巻以降でイラストレーターの方の個性・持ち味を考慮したり、本分では触れていなかったのにイラストで加えられた特徴やディテールを盛り込んだりという事、私は普通にやってますね。これが恐らくいちばん手軽で直接的な「文章とイラストの良好なフィードバック」ではないかと。

 ただ、これもくみにゃさまの発言と関わる事ですが、イラストもまたセールスポイントのひとつという事は、編集としては小説家とイラストレーター、両方のスケジュールを管理しなくちゃならないわけで。これが良い事ばかりとは限らないのが難しいところ。
 本文は上がっているのにイラストの方の都合で発売が遅れたり、逆にイラストレーターの方がスケジュールを空けて待っていたのに原稿が締め切りに間に合わなかったりと、どっちのケースも耳にした事がありますし……。シリーズ長期化の結果、始まった頃は新人だったイラストレーターが人気絵師になっちゃってスケジュール管理がますます難しいなんてケースも。
 このあたり、一般小説でも多少はあるでしょうけど、ライトノベルでは特に深刻な悩みと言えるかも知れません。


114 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年07月02日(金) 10時44分19秒
そうですね。スケジュールの問題はデカいです。特にカラーページは。ヘタすると本文より早くシメキリが来たりしちゃう。

その昔、雑誌掲載での話。わたしではないとある作家の原稿がなかなか入らない。いっぺんには入りそうにないので、できたとこまでもらって、イラストレイターさまがどんどん書いていた。すると、本文の最後の最後になって「服装」についての描写がはじめて出てきた! 具体的にどうだったか忘れましたが、タートルネックにしておいたら、ワイシャツだった、みたいな違い。しょうがないのでそのままだしちゃったんじゃないかと思いますが……。

ザ・スニーカー(三田さまの御作品が載ってましたね! レイアウト、本文の一部をとりだしてるところとか、カッコよかったです! すみません内容はまだ読ませていただいておりません)を拝見すると、すでに表紙や目次は作家名×絵師さま名ですし、広告などを見ても絵がそーとーに重んじられているんですね。こうなると……モジ書きのほうは、素晴らしい絵に恥ずかしくないように、ほんとにいっしょうけんめいがんばらないとですね。

115 名前 : 新木 伸 投稿日 : 2004年07月02日(金) 11時22分49秒
>管理人様

 えー、ここのところの管理者削除件数の多さとか、なにやらお世話を掛けていますが。
 どうも変なところから特攻されてくる方々が後を絶たないようで。
 これは僕の責任ではないのですけど、いちおう、僕のせいといえば僕のせいでもあるわけですし。

 話題の無限ループと長文化に関しては、了解しました。
 自制したいと思います。また道を踏み外すことがありましたら、遠慮なくお叱りください。




>くぼさん。

 おそらく僕は、伝達がなされていないと思ってしまうために、延々と同じ主張を繰り返してしまうのでしょうね。
 言葉という不確実なプロトコルを通してみたときに、戻ってきたチェックサムが合っていないから伝送エラーが出ているらしいと判断する。それでリトライを繰り返してしまう。さらに冗長性を上げて、伝達エラーが出ても訂正できるように、言葉の量を増やしていこうとするとか。無限ループと長文化はこれで説明できるような。
 そういうのもコミュニケーションはコミュニケーションなのかもしれませんけど。機械としてのコミュニケーションというか。

 AとBが提示されたら、いくつかの質問を挟みつつ、次に移る。
 くぼさんの提示される人としてのコミュニケーションの方法を、一から学ばせていただきたいと思います。
 思えばそうしたコミュニケーションは、ほとんど取っておりませんでした。





>葛西さん

 対話。会話。コミュニケーション。議論。討論。
 話し合いを意味する言葉はいろいろありますが。
 ここは後ろ二つを行う場所ではないということで、了解しました。(気づくのか遅いよ、てな話はあるでしょうが)

116 名前 : 三田 誠 投稿日 : 2004年07月02日(金) 13時26分11秒
>三田さまの御作品が載ってましたね! レイアウト、本文の一部をとりだしてるところとか、カッコよかったです! すみません内容はまだ読ませていただいておりません

それは編集を誉めてあげるところでわw
「すみません」はいりませんから、ぜひぜひアンケートの「一番良かった作品」に「レンタルマギカ」と書いて送ってください(笑)

117 名前 : 削除しました 投稿日 : 削除しました
削除しました

118 名前 : くぼひでき 投稿日 : 2004年07月02日(金) 21時55分26秒
>葛西さま

ご同調いただき、ありがとうございました。
 読む/書く人間が集う以上、自論がそうした避けがたい陥穽になってしまうことについては、しかたないことだろうと思います。言葉でやりあっていき、そこにコンセンサスができあがる現場、というのは何にも変えがたい楽しみですし。が、お互いが楽しんで討論、対話できればいいな、とはおもいます。

 さて「イラストが不利なパラメータになるかもしれない」という視点を、面白く思ってもらえて光栄です。
 文章よりも絵のほうが、情報量が多く、伝達速度も速い分、ライトノベルにおいてはやはり看過できない力を持っているのではないかと思います。
 それは宣伝力、といってもいいのではないかと思うほどです。
 知らない作家であっても、好きな絵師さんだから、といって買う人もいるのではないかと思います。
「ライトノベル作品の享受」には(実際に絵が無くても)語彙としての絵が必要である。それは執筆または製作時点でも同じではないか。というのが、わたしの持論ですが(この辺、時海さまとの交換書簡で拙く論じております)、それとは別に、やっぱり文章好きの人間としては、
「このライトノベルは、文章の力がすごいんだぜ!」という作品も大好きだし、これからも多くそういった作品にめぐりあいたいです。




>久美さま(もしかして、くみにゃさま、のほうがいいですか?)

高橋洋介先生!
まみやくんは全部持っております。なんて、うらやましい!
 でも、絵を書く人の、生の絵ってのは迫力ありますよね!!
 ずーっと以前、10年ばかり前(23,4歳のころ)、仕事で奥田ひとし先生の『イース 太陽の帝國』を毎月、生原稿を拝謁してました。ネームの写植してたんです。同時に、山田章博さんの『ロードス島戦記―ファリスの聖女』も。
 山田先生のはファックスネームしか見られなかったんですが、奥田先生は締め切り日以前にいつも入稿されてたんです。パラフィン紙をめくったときの感激。今でも忘れません。ホワイトほとんどないですからねえ。。。。
 あ、つい長話で昔話を。


>新木さま
 ご同意いただいて、うれしいです。ありがとうございました。
 門外漢がうるさく言ってると思われましょうが、ご海容くださっってうれしいです。
 冗長性については、言語の不確実性が原因となって相手にきちんと伝達できてない不安がわくことで起こるのだと思います。言葉についていえば、冗舌、はそのために起こることが多いですね。
 わたしなども、自分に自信のないことについては多弁を弄することが多くて、知人によく叱られます(^^;。

 いずれにしても、現役作家と、こうして対話ができるのがうれしいです。今後ともよろしくお願いします。

119 名前 : 葛西 伸哉 投稿日 : 2004年07月03日(土) 00時29分35秒
くみにゃさま

 自分のコラムにも書きましたが、イラストレーターさんがどういうタイミング、どういう工程で仕事をするのかというのもスケジュールや担当者によってさまざまのようです。もちろん本文をちゃんと読んでいただいた上で仕事をしていただけるのが最高なんですが、作家と絵描き双方の都合でそう上手くばかりいかないのが現状のようで……。
 本文とイラストの内容が齟齬をきたすケースでも、くみにゃさまが例に挙げてくださったような場合のみならず、ちゃんと本文が出来ているのに編集者からの指示が不正確で、しかも上がってきた画稿のチェックも杜撰という事も残念ながらあるようです。
(そもそも私のコラムがこの話題から派生したので、多少合流してしまうのは仕方がない事ですが、自コラムで「編集者による指名買い」という話を出したのは、裏返せば仕事の精度や誠実さに難のある編集者を、読者がチェックする機会もあってしかるべきという考えによります。小説家や絵師ばかりでなく、ライトノベルでイラストが重要というのなら、それを指定する編集者も有能であれば賛辞を受け、逆ならば非難されてもよいのではないでしょうか)


くぼひできさま

 そうですね。お互い参加者として実りある対話なり議論なりを心がけたいですね。例えば各人の創作ポリシーや価値観、好悪などコンセンサスが得られない/得る意味がない話題もありますし、定量的なデータの検討が不可能だったり、関わるパラメータが多すぎてある程度妥当性のある推論までは可能でも、唯一の正解の出しようなどない議題もあります。
 まあ、そのあたりの見極めはそれぞれの理性と良識、コミュニケーション能力に頼るしかないでしょうけれど(来夢さまが述べた、TPOをわきまえる、って奴ですね)
 不利なパラメータとしてのイラストの話ですが、くぼさまが述べた『ドクロちゃん』のケースのように、ある人々にとっては強烈なアトラクションとなる「ぱんつ見せ」が他の方には忌避材料になる事もあります(笑
 結局、これも総論としては小説そのものと同じで「多様性」が市場に存在し、本文にマッチしている事が肝要なのでしょう。ぱんつ丸見せ萌え美少女が好きな人も、それが苦手な人も面白い小説に出会えるように。
 ちなみに私見ですが、ライトノベルにおける有意義なサイクルの一例として「人気作家のネームバリューで新人イラストレーターを推し、そうやって育てたイラストレーターを補助ロケットにして新人小説家を送り出す」というような形がありうるのではないでしょうか。もちろん小説家と絵師、どちらが先でも後でも構いません。
 これとは逆に、最近電撃文庫に見られるような「シリーズが切り替わっても、作家と絵師のコンビを変えない」というのもまた興味深い方法論です。これはこれで、メリットもデメリットもあるでしょうけど。

120 名前 : 新木 伸 投稿日 : 2004年07月03日(土) 06時53分36秒
 いまひとつ、対話のルールがわかっていなくて不安であったりしますが。
 自信を持ち、思考を煮詰めあげて、簡潔な短文のエッセンスとしたものを、一回、置いてみるところまではOKなのですよね?




>表紙絵の功罪

 これは自分の経験からの一例の報告として。

 ぱんつ見せの話が出ていますが。
 僕の場合には、ソックスと長手袋だけという格好のお姫様が、主人公に横抱きにされている――などという破廉恥な(笑)表紙絵の本があったりしました。

 「じつは万能なんだけど女の子に対してだけはてんで純真でウブ」という主人公の性格付けを示すためと、アメコミ的大雑把スペオペのノリの説明のために、そうなっていたりするわけですが。
 マイクロビキニのヒロインと、アメリカ的男性美ヒーローの取り合わせって、アメコミでありそうな配置ですし。

 しかし露出度が過ぎたようで、普通の感性の読者の方は、レジに持って行きづらいという声が出てきてしまうほど。
 また「ギャル系かと思って敬遠していたら、しっかりしたSFだった」とかいう声をよく見かけたりもしました。
 つまり表紙絵で逃してしまっているお客さんも、かなりいることですね。
 しかし同時に、その表紙絵のおかげで得た読者もいるわけで。
 トータルして「得た分−失った分」として見てみると、おそらくプラスになるのではないかと思っています。

 誤解のないように申しあげておきますと、僕はこの全裸表紙を嫌っているなんてことはなくて。(むしろ個人的には喜んでいたりします)
 えっちな展開もかなり含まれているシリーズですので、表紙からそれとわかることは、作品内容にマッチした適切な「ラベル」であると考えています。





>表紙絵は、著者にはどうにもならないのか

>>(このあたりは小説家にはどうしようもない部分なので、編集者の皆様に頑張ってほしいところです)

 葛西さんが、このようなことを書かれていましたけど……。
 もちろん決定権は編集さんにあるのは当然ですが、判断のための参考意見として、表紙絵の構成についてプランを出してみたり、討議してみたりすることなども、しないものなのですか?

 それまでに充分な話し合いがあって、意志統一が行われているなら、計らずとも意見が一致したりしたりしますので、話し合い自体が不要になったりすることもあるでしょうが。
 たとえば白黒挿絵の10枚分の位置や内容に関してなど、著者側と編集さん側とで、別個に「このシーンをこういうふうに」と叩き台リストを作って付き合わせてみると、8割方は一致していたりして、苦笑したりすることもしばしばですけど。

 編集、イラストレーター、作者――作品を創りあげているのはこの三者なのですから、意志が一本にまとまっておらず、別々を向いていたり、ばらばらだったりしては、良い仕事ができないと思うのですけど。
(このへんは、編集さんのスタンスによって様々で、色々な方法論があり得そうなところですが)

 意見が食い違ったときこそ、じつは飛躍のチャンスでして。摺り合わせの課程では、たいてい、思いもしない良いものが現れてきます。
 これがまたおもしろくて。

121 名前 : 新木 伸 投稿日 : 2004年07月03日(土) 07時10分32秒
 上の補足。

 本を作っているのは、編集、イラストレーター、小説家、の3人と書きましたが。
 もうひとかた、忘れていました。デザイナーの方。

 装丁を決定する重要な仕事であります。
 クレジット表示に名前が載るような重要度です。
 僕の次の新刊が今月20日に出たりするのですが、ここ数日、夜中の3時4時に平気でメールが届いてきたりします。編集さんとデザイナーさんが、徹夜で頑張られている様子。

 うっかり失念してしまったのは、デザイナーという職種が、編集と直接連絡を取り合うポジションだからでして。
 ライター仕事を行うときには直接やりとりをすることもありますが、小説の仕事では顔さえ合わさないことがほとんどで。僕もいまの仕事では、仕事ぶりは拝見させてもらっていますが、顔も知らなかったりします。
 小説の場合には、原稿をすべてのページに渡って同一の段組で流し込むから縁がないのかなぁと。ライター仕事のときには、レイアウトや文字数をデザイナーが決定しなければ原稿を書き出すこともできませんから、小説よりは縁が深くなります。

 またイラストはもっと縁が深くなります。
 イラストの場合には(特にカラー)、トリミング位置やら、ロゴをかぶせる位置やら、ロゴの書体の選択など。デザイナーの領分が、かなりありまして。
 素材である絵をそのまま使うことはほとんどなく、加工して使うことになりますから、デザイナーの腕によって、同じ絵が生きも死にもしますし。

122 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年07月03日(土) 08時54分56秒
ファミ通えんため大賞小説部門の選考会にいってきました。

その後のご苦労さんお食事会の席で編集のかたに聞いた話。

雑誌やネットに「一枚だけ」絵が出た絵師さまを発見してこのひとは良い! と思い、とりあえず誰の何の作品という具体的なアテはないまでもまずは顔ツナギしコネクションをつけとこうと「あなたの絵が好きです。こんどシゴトしましょう!」と連絡をしてご快諾いただいていたのに、たまさか具体的な話が先に出たよその社にとられてしまうこともあると。
新しい絵師さまのステキな絵のついた本が一冊出ると、各社編集がたちまち群がってしまうと。
で、いまどきは人気作品はほとんどシリーズ化してしまうため、ちょっと出遅れると、シゴトしてもらえるチャンスがどんどんなくなると。よほどシゴトの早いかたでないと、シリーズを2本か3本抱えてしまうと、それ以外のものをお願いするのはなかなかムツカシイと。
ほんとうにタッチの差で「とられちゃって」クヤシイ思いをなさったことがあったらしいです。
いろんなレーベルがともすると同時期にいっせーに殺到するので、うかうかしてられないみたい。

作家あるいはその担当のほうから絵師さまにアプローチなりラブコールなりするというのはよくあるわけですが、逆に、絵師さまのほうから「この作家が好き、このひとの本に描いてみたい!」みたいなことをおっしゃって実現したことってあるんでしょうか? そんなことしてもらったら小説書きのほうとしてはそーとー嬉しいと思うんだけど。ちなみにわたしはないです(泣)。



123 名前 : くぼひでき 投稿日 : 2004年07月03日(土) 09時40分40秒
>葛西さま

そうか、アトラクションでしたか、あれは!。
 ここらで、ちと、ひとつ見せとくか、って感じなのかなあ(笑)。

 人気作家のネームヴァリューで、新人イラストレーターを、はたまた、その逆の形。
 これについては、ライトノベルでは具体的にはわからないんですが、マンガだとあるように思います。作家→絵師ですが、原作付で描かせて、それによってコマやポーズなどの間合いを感得させて、そのあとオリジナルへ、っていう感じ。その逆は、あるのかな。
 コンビを変えない方法については、現物を見たとき「あれ、変えなかったのかな」というふうに思いました。
 そのとき2点で邪推したんですが、1つは「両方同じであれば、前のシリーズと混同して買う人もいるかな」というものと、「両方同じであれば、前買った人は安心して手を出すかな」というものと。
 さすがに、前者はないだろうと思います。買う前に中身確認するでしょうから。しかし、一瞬混同して、中見て、「あ、ちがうんだな。でも、安心」という両方の形があるかな、とも考えました。
 このとき、表紙絵、そのタッグは、製品から読者へのインタフェースになってるのだと思います。見慣れたインタフェースであれば利用しやすいですから。



>久美さま

 絵師さまからのアプローチでは、徳間から再刊(新作も出ました)された、梶尾真治さんの「エマノン」シリーズでは、鶴田謙二さんが「この作品の絵は、ほかの人に渡したくなかった」ということで、絵を担当されたそうです。
 にしても、エマノンの最初の本『おもいでエマノン』は、最初の単行本では新井苑子さん、次の文庫で高野文子さん、そしてデュアルで鶴田謙二さんと、すごいなあ。

124 名前 : 新木 伸 投稿日 : 2004年07月03日(土) 19時39分25秒
>久美さん

 イラストというのは作家に付くものではなくて、あくまでも作品に付くものだと思いますので、もし絵描きさんからのアプローチがあった場合には、作家側が、その絵柄に合わせて作品を書くということになるのかな、と考えてみたり。

 作家側なり、編集側なりから働きかけがある場合には、「次のこの作品には、この人の絵が合うと思う。あの人なら、この作品にマッチングする絵をきっと描けるに違いない」てな見込みでアプローチが行われるわけですよね。
 その真逆なのだとすると、「この人なら、私の絵柄にマッチングする作品を書けるに違いない」てな見込みによるアプローチになりますよね。やはり。

 これは漫画やアニメやゲーム作品のノベライズであれば、あり得るケースかも。
 「BASTARD!! 黒い虹(I)」/ベニー松山著、集英社スーパーダッシュ文庫刊――のあとがきによると、ベニー松山氏は、原作者である萩原一至氏の指名だったりするそうです。
 たしかに、この人以外、いったい誰が書くのか、というベストマッチングでありました。二巻早くでないかなぁ。

 ちょっと例が違うかな。
 この場合には原作が漫画作品なので、絵柄だけの話でもなく、世界観やらストーリーやらまで含んでの作家指名であったわけですし。

 オリジナルで新企画で、書き起こしの小説で――となると、難しいかもしれません。
 本がまだ企画書段階にあるあたりから、イラストレーターさんの選定が始まったりするわけですが、まだその頃には、作品は形もないわけですし、存在するのは部外秘の企画書だけ。早いとここから一ヶ月で原稿が上がってきたり。ゆっくりやっていても数ヶ月で原稿が上がってしまうわけですが……。
 存在しない作品に対して、絵描きさんの側からアプローチすることは難しいのではないでしょうか。(個人的にごくごく親しい仲などで、作品内容をあらかじめ話してもらっていた場合などを除く)

 となると、復刊時だとか、ハードカバーから単行本への再収録時だとか。シリーズ途中でなんらかの事情によってイラストレーターがチェンジされる瞬間を狙うとか……。
 チャンスが非常に限定されてしまいますよね。


 ちなみにうちの奥さん、イラストレーターをやっているのですけど。
 おたがいの仕事には惚れ込んでいますけど、しかし自分の書くある作品に、相方の絵柄が合うかってことになると、やはりそれは別問題なわけでして。
 いかに好きかよりも、いかにマッチングしているかってことで判断してしまうと、まず一緒に仕事する機会って起きないものですねー。
 次の次の企画案あたりで、作品の毛色がたまたま合うので、一発狙ってみるつもりではありますが。

125 名前 : 葛西 伸哉 投稿日 : 2004年07月04日(日) 19時28分56秒
「イラストレーター側からのアプローチ」という件ですが、発想としては興味深いのですけれど現状では実現しにくいと思います。
 まず既に指摘されている通り「まだ作品が存在していない」という事。くぼひできさまが指摘した『エマノン』は、発表済み作品の文庫化という特殊なケースだからこその例外でしょう。
 そして、より重要な理由として「イラストレーターの側には、そうする理由がないのではないか」という事です。
 小説の場合、作家がどれほど極端なテキスト主義者でも、本という形で市場に流通させるためには表紙にイラストがつくのは自然な事。
 しかし、イラストレーターの場合、自分が起点となって創作したタブローがテキストで補われる事を望むでしょうか? 恐らくは「画」そのもので完結させ、その中で全てを表現する事を望むのは小説家と同等かそれ以上なのではないかと思うのです。
 それに現状では作業工程が「小説→イラスト」の順になっているだけではなく、単純なボリュームで考えても「小説が主、イラストが従」という形が多いのですから、自分が起点になっても分量的には小説の付属物になるというのも釈然としない話でしょうし。
 やはり『エマノン』のように、イラスト担当の方があらかじめ作品そのものに好意を持っているような例以外では起こりえない事かと愚考します(もちろん、まず自らの内から湧き出でてきた作品と、小説など他者の仕事の上に付加価値を与える作品では、考え方も違うでしょうけれどね。このあたりは推測でしかないので、ひょっとしたらとんでもない独断に基いているかも知れません。イラストレーターの方のナマの意見を聞く事ができれば嬉しいのですが)。

 もっとも、これはあくまでも「現状」の話。
 拙稿「《X》の足音」でも述べた通り、今後イラストをより活かしたスタイルが生まれ、発展していく可能性はあるでしょう。例えば、イラストレーターから作家にアプローチするのではなく、編集者がプロデューサー的な手腕を発揮して、イラストを活かすために適切な作
家をチョイスし、企画を動かすというような事はあり得るでしょう。
 前回の発言内で述べた「作家とイラストレーターのコンビを変えない」という方法論は、その観点からも意味あるものだと思うのです。
 個人的にも「ライトノベル」の可能性の追求として、イラストを起点とした企画案も持っています。まだ構想とも呼べない思いつきレベルの話ですけどね。

126 名前 : ヤン 投稿日 : 2004年07月05日(月) 08時02分34秒
 ごくごく希なケースですが、安彦良和さんが
 自分で小説を書いて、イラストも描いてますね。
 10年程小説の新作は発表されてないのですが
 私はこの人の作品は結構好きでした。

 話の流れには関係無いのですが、イラストでたまに
 本文と絵の内容が違うことがありますよね。
 右手で掴んだはずなのに絵では左手で掴んでいる、
 なんて細かいものから、服装や髪型が違う、絵の構図
 自体が描写と全く合ってない、という大きな食い違いまで。
 このようなことは、なぜ起きてしまうのでしょう。
 よければ、差し支えない範囲でこっそり教えてください。

127 名前 : くちにゃ 投稿日 : 2004年07月05日(月) 10時41分36秒
>本文と絵の内容が違う

本文挿絵のラフをFAXなどで見せてもらって作家が確認する作業を、一般的には省略するからではないかと思います。
たいがい、そんなこと不可能なぐらいスケジュールがおしているわけで、もしラフではよくわからなかった部分を細かくかいてみてもらったら「ああっ違う!」だった場合には、書き直しをしていただくほどの時間的余裕などないです。まして絵師さまが売れっ子さまで忙しかったら、そんなこと「心情的にも」頼みにくいんでは……

絵は、挿絵イラストにしろ、マンガにしろ、担当さまに提出する時点では完成原稿というかほぼ「版下」とイコールな状態(活字組みなどはあるわけですが)。そこであえて差し戻してやり直してもらう、という習慣がそもそもあまりないのではないかと。

この点、文章はギリギリまでナンボでもなおるし、わたしのようなソコツものの場合、初版で出てから山のようにミスがみつかって、「増刷で直す」というのがほぼ習慣化しちゃってる。

でも……CGを使ってお書きになるかただと、ひょっとすると、一部だけちょっと直すのがそんなにタイヘンではなくなるようなこともあるのかな?

128 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年07月05日(月) 10時42分46秒
ホラ自分の名前さえ間違う(泣)。

129 名前 : 葛西 伸哉 投稿日 : 2004年07月05日(月) 13時31分37秒
ヤンさま

「小説家本人がイラストも描く」というケースはご指摘の安彦氏の他に、早見さまのコラムで取り上げられている折原みと氏などのケースもありますね。私は少女小説には疎いので他にも例があるかも知れません。詳しい方からのフォローをいただきたいところです。

 さて、本文の記述とイラストが食い違う件。前の書き込みでも触れましたが、正直嘆かわしいケースもあります。
 直接経験した事ではないので話半分で聞いていただきたいのですが、編集者の中にはイラストに関して小説家に一切の関与をさせないタイプの方もいます。実際、本来は編集の領分であり、作家の意見まで拾ってくれるというのはある種の好意というか、善悪良否ではなく、個人の方針の違いでしかないのですが(繰り返しますが、イラストの選定や配置などに関しては本来は編集者の権限下にあり、作家の口出しは参考意見か、場合によっては「余計なお世話」だったりします。作家が必ずしもビジュアルに明るいわけではないですし)。
 それですべて上手くいけば何の問題もないのですが、スケジュールその他の理由でイラストレーターさんにも原稿全文を渡すのではなく「××が○○してるところを描いて」というような指示だけを与え、そこで上がってきた画稿のチェックも甘く、もちろん作家側の確認を取らないというケースも存在する、のだそうです。残念ながら。
 できれば最低限、ラフなどで一度確認させていただければ、大筋に関わらないディテールなどであればイラストに合わせて記述を修正するという事も可能なのですけど……。

130 名前 : くぼひでき 投稿日 : 2004年07月05日(月) 16時55分53秒
こんにちはー

「小説家本人がイラストも描く」というケースでわたしが知ってるのは、
あさぎり夕さん。
室山まゆみさん。
篠原千絵さん。
水樹和佳子さん。

けど、折原さんも含めて、マンガ家さんがその後、小説をってパターンですね。

131 名前 : nya 投稿日 : 2004年07月06日(火) 01時03分26秒
こんにちは。すいません、素人ですがお邪魔します。

小説家さんが絵師もなされているパターンを私の知ってる限りでひとつふたつ書いていきます。

昨年のデビューなので知らない方の方が多いと思うんですが、講談社WHの佐島ユウヤさんは
デビュー作と次作ともにご自身で挿絵を描かれているようです。

あと、この度長いシリーズを完結なされた樹川さとみさんが別PN(仁さとる)で挿絵描きもさ
れてました・・・はずです。ちょっと今きちんと確認取れませんでした・・・。
仁さんは樹川さんのでは「風の翼」のみですが、他に前田さんや高瀬さんの小説に挿絵を描か
れてます。
この件、昔どなたかの小説の後書きか昔の本人のプロフィールかなんかで見た気がするんです
が・・・樹川さんの昔の作品って実家だから確認取れません。

絵も描かれる小説家さんって別PNのことが多いんじゃないでしょうか。
あとジャンルちょっと外れるんで書きませんが、いわゆる女性向のとこでは何人か見かける気
がする・・・。

132 名前 : ヤン 投稿日 : 2004年07月06日(火) 08時23分11秒
>くちにゃさま
 どうも、はじめまして(笑)。

>くみにゃさま、葛西さま
 教えていただいてありがとうございます。
 私はずっと、文章が完成してからイラストを付ける、
 あるいは作家の方から細かい指定が送られるものだと
 考えていたのですが、そうでないケースもあるんですね。

 その小説の、盛り上げどころ、ここに絵が欲しいという
 指定は、何より書いた作家自身が一番分かっていると
 思うのですけどね。
 外野の意見としては、構造改革を望みたいところですね。

 イラストではありませんが、京極夏彦さんが、自分で
 パソコンを使って編集、校正までして、そのまま刷れる
 形まで完成させてから入稿しているらしいですね。
 元々、ページの終わり毎に必ず「。」がきて、文章が
 ページをまたがせない等のこだわりを見せていた人で、
 段組や構成まで自分で決めたいと考えられているようです。

 私的には、もっと京極さんのような、もしくはそれ以上に、
 文章だけでなく、構成や装丁、イラストの配置まで含めた
 パッケージ商品としての小説をプロデュースするところまで
 作家本人がやっても面白いのではないかと思いますけど。

133 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年07月06日(火) 09時05分59秒
ヤンさま。いぢわる(笑)。

あのね、かなり「好意的な編集さん」と「好意的な絵師さま」を得ることができたとしても、「ここに絵が欲しい!」を反映させるのはむつかしいです。なぜなら、絵はふつーは「均等に」いれるでしょ。そりゃ数ページ程度の誤差はあるでしょうが、あんまりどっかにだけ固まってあったり、ずーーっとずーーーっとずーーーーーっとなくていきなりあったり、しないよね。
ところが、「ぜひ絵が欲しい」とこって、だいたいそんなにバランスよくバラケてないのよ(笑)。冒頭は、主要な登場人物が出てくるところで紹介のために絵が欲しいし、クライマックスはなにしろクライマックスなんでいろいろ「絵になる」シーンがあるはずなんだけど、そこにだけ重点的に絵をいれてもらうわけにいかない。
それにね。
美味しいシーンであればあるほど、絵がじゃまになったりすることもあります!
だってさぁ、なまじ絵があると、フツーは「絵を先に」みちゃうでしょ。絵の場合、チラッと眺めただけでかなりの情報がよみとれてしまう。文章はいっこいっこ読んでかないとわからない。するってーと、せっかく周到に演出しておいたのが、なまじ良い絵、正確な絵、もりあがる絵をいれてもらったせいで「ネタばらし!」になってしまうことすらある。

京極さんウンヌンですが、瀬名さんがこないだ『遊歩人』だったかなぁ、何かに書いておられたんですけど、昨今の電子ツールでは好きなように「文字を拡大」して読んだりもできるんですと? するってーと、フォーマットがかわる。もともとあるいわゆる「何字×何行」あるいはそれを「何段組みにする」とかっていうのを、「読者ひとりひとりが」テキトーに改変して読むことができようになっちゃう。電車の中などでそういうキカイで読むのってだんだん普及してくると思うんだけど、京極さん、どうするのかなぁ(笑)。「このフォーマットで読め!」って指定するとか鍵かけたりするのかなぁ。それはさておき、こうなると、「作品」というのはまさに「ダウンロードされるソフトそのもの」ってことになるわけで、どうやって課金していくのか、が大問題になりますですね。いまだに原稿用紙に手書きでお書きになることにこだわっておられる作家のかたも大勢(エライかたにかぎってわりと多く)あるわけですが、このテクノロジーの進歩と普及は、ワープロやらネットやらの普及以上にすごい議論を呼びそう。

134 名前 : 葛西 伸哉 投稿日 : 2004年07月06日(火) 09時27分15秒
ヤンさま

 構造改革、確かに完全にノータッチ、ノーチェックで通されるのは辛いのですが、実を言うと私個人としては必ずしも小説家の意向が反映される事が是とは思ってなかったりします。
 小説家はテキストによるフィクションの専門家ではあっても、イラストを含むビジュアル演出の専門家、ブックデザインの専門家ではないからです。私自身、拙著で口絵や帯に関してアイディアを出した経験もありますが、それはむしろ担当編集者が「その意見を数あるアイディアのひとつとして検討し、最も有効なプランを検討できる」という信頼があったからこそ、シロウトの無責任な思いつきもも振ってみる事ができたわけで。
 くぼひできさまやnyaさまが挙げてくださったようなイラストレーターや漫画家としてもプロである方、あるいは京極氏のように装丁家出身というのはやはり例外なのではないかと思います。

 繰り返しになりますが、やっぱり私も含むほとんどの小説家はビジュアルに関してはプロとは言えないでしょう。
 だからこそ、プロフェッショナルなプロデューサーとして信頼できる編集者(あるいは専業のプロデューサー)が多数存在してほしいのです。 

135 名前 : 来無 投稿日 : 2004年07月07日(水) 14時21分33秒
久美様
>もりあがる絵をいれてもらったせいで「ネタばらし!」になってしまうことすらある。
これ結構あって困りものだったり…。文庫だとまだしも版形の大きな雑誌だと思いっきりネタバレになってしまう挿絵が…思い返すとやたら多い気がするのですが…

>「このフォーマットで読め!」って指定するとか鍵かけたりするのかなぁ。
それが一番順当だと思います。
PDFファイルなんかはレイアウトをかなりの水準で維持出来ますし鍵もかかります。電子出版ソフトってのもありますから、そういうのを使ってもいいし、容量は多少食いますが画像ファイルで配布するのもアリなんではないでしょうか。

20年前はパソコンのモニタで作ったイメージをそのまま紙にプリントアウト出来ることが一大事でありました。
イメージを忠実に伝えようとする理念は紙が電子ツールに変わっても一緒な訳ですから、落としどころはそう遠くない所にあるでしょう。

「ダウンロードされるソフトそのもの」であれば既にダウンロード販売は定着してますし。何よりノベルゲームと言われる、読みもの主体のゲームがあるので、既にノウハウは出来ていると考えてよいかと。ユーザーの著作権に対する意識も本のそれよりは高く維持出来そうな気がします。

アナログにはアナログの良さがあると思うので本や、原稿用紙に万年筆をふるう作家に消えて欲しくはありません、ありませんが、デジタルにはデジタルの良さもあるので、変に対立する事無く上手に住み分けていただくのが一番かなぁ。

葛西様
>実を言うと私個人としては必ずしも小説家の意向が反映される事が是とは思ってなかったりします
>小説家はテキストによるフィクションの専門家ではあっても、イラストを含むビジュアル演出の専門家、ブックデザインの専門家ではないからです

小説家がテキストによるフィクションの専門家でさえあれば良かった時代はもしかすると、(知らないうちに)過ぎ去っている可能性も…ないでしょうかね?…。絵心のある作家、京極氏の様な作家が例外であった時代はちょっと前に終わっていて既に否応無くそういう心得を持たなければ大半はやっていけなくなる時代になっているとか…

スペシャリストの技術はソフトウェアの高度化で情報が共有出来一般に開放され、その分それまでの専門家にはゼネラリスト的バランス感覚、調整能力が重要になって来ているのが流れなんではないかと。もちろんスペシャル度が群を抜いていれば純粋なスペシャリストで居続けられるわけですが。
パソコンの普及で消えていった職分、職能というのがデザインの分野なんかで結構あるんですが、その分一人で全般的にやらなきゃいけなくなってるようです。


そういえば、編集シミュレーションのゲームってどっかにあったような。作家や方向性なんかを選んでいくら売れるかって言う…エンジンの精密さはさておきちょっとインターフェイスを変えれば、そのまま編集支援ソフトに…レイアウトはもとより、自分の文章入力したら、方向性の合うレーベル、絵師から、帯の推薦文依頼する人から、の名前が最適順から、ずらっと吐き出されてくるようなのが出来たりして…(ネットの登録サイトと連動すればスケジュール調整も完璧…とか…)

136 名前 : 葛西 伸哉 投稿日 : 2004年07月07日(水) 21時13分36秒
来夢さま

 では、本業でもない、充分な訓練をつんでいるのでもない作家が「片手間で」、あるいはツールの力を借りて「お手軽に」済ませたイラスト指定やレイアウトでよいのでしょうか?

 ことさらにネガティブな言葉を用いた極論である事は承知しております。しかし、やはり「作家が映像表現・演出にまで通じているべき」「既にそういう時代が到来している」というのはやはり飛躍した考えかと思います。
 確かにさまざまな分野でパソコンの普及・ツールの進歩の恩恵はあります。しかしそれは従来手作業で行っていた試行錯誤が容易になったからだったり、過去の「最適表現」がデータベース化された事による省力化・時間やマンパワーの節約が主だと思うのです。その結果、複数分野にまたがる能力を有したプロが生まれる余地は大きくなりましたが、全員がそうなっているとも、そうなるべきとも私は思いません。
 映画や演劇、ゲームなどでは役者が20点、音楽が30点、演出が35点……と各要素が合計されてトータルの作品が100点になるのではありません。100点満点の役者と100点満点の音楽と、演出と美術と……と全ての要素が高得点であって初めて全体の高クオリティが達成されます。そこで必要なのは全部の仕事を満遍なくひとりでこなす事ができる人間ではありません。各分野でそれぞれ高度な能力を有するスタッフなのです。
 ゼネラリストの存在を否定するわけでも、ゼネラリストの実績を軽視するわけでもありません。ひとりで全体を統括できればイメージのズレやブレがない作品に仕上がるでしょうし。ですが、やはり各分野で充分な能力を持った人間が協力し合う事によって、より優れた作品を生み出す事が望ましいのではないでしょうか? 京極氏や130番の発言で名前が挙がった方々などはやはりまだ例外でしょう。

 私見ですが、イラストレーターには単に文中のイメージを過不足なく絵に置き換える「描画技術者」ではなく、本文から作者も明確にしていなかった(あるいは考えてもいなかった)イメージを汲み取り、拡張し、逆にこちらを刺激するくらい挑戦的な「表現者」としての仕事を期待したいのです。
 もちろん、それが為されるためにはイラストレーターの方のみならず、編集者の意欲と理解、そして能力が必要なのですが。

137 名前 : 葛西 伸哉 投稿日 : 2004年07月08日(木) 02時37分54秒
 前の書き込みに補足。
 言うまでもない事とは思うのですが、もちろん小説家自身の研鑽も怠っちゃいけません。他の業種の方が「片手間」で書けるのではない質のものをちゃんと供給して、編集者やイラストレーターの「いい仕事」を誘発しなくちゃいけませんね。
 現状で自分にそれが出来ているかと言われれば心もとないのですけれど。

138 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年07月08日(木) 11時17分22秒
来無さまのカキコミを読んで「うわぁ婆はもうダメだぁ〜〜!」とビビッたのですが、葛西さまのカキコミで「あ。だもう少し大丈夫かもしれない。よかった」とちょびっと上向きに。

あのー、なまじ完璧にノッて集中してシゴトした直後って、他のことがメチャクチャ、ダメになりませんか? 

わたしはすごーくシゴトがはかどった直後は、しばらくマトモにしゃべることすらできなくなります。
アタマの中には言いたいことがあるのに、それがまとまんない。すんなり出てこない。無理になにか言おうとすると「うわあわ」とかって、わけのわかんない発語になっちゃって「あ、いかん、ダメになっちゃった」と自覚して、しばらく待たないといけません。
なにしろ自分のことなのでサベツ的おとしめる的意味はまったくないつもりで発言しますが、これは一種の急性言語障害なのではないかと思っております。
あるいは、脳みそのある部位だけを異常に使いこんだため、他の方面にアクセスできなくなっている、一種のハングアップではないかと。
ちなみに、呼吸などはフツーにできているので、不随意運動まではとまりません。歩くとか階段を下りるとかはいちおーできますが、ちょっとフラフラです。コップを持とうとして落とすとかはやります。たんに疲れきってるだけ、あるいは、徹底的に空腹になるあまり、かもしれませんが。

これって我ながらすっごい不思議でした。なにしろ平気でどんどん書いてるんですから、日本語は使ってるんです。日本語を「理解したり、組み立てたり」する脳みそは、メチャクチャ活性化して、たぶんターボかかってる。でも、パソコンの前でふつうはいちいちしゃべりながらやったりしてないですから(たまには会話の部分とかを声に出していってみてチェックすることもありますが)長時間黙ってるわけで、よって、「ことばを口に出して言う」部分、あるいはベロを動かすとか、口を動かすとかの筋肉を働かせる部分かなにかで、なんか一時的に断裂が生じちゃうんだと思う。

言語をつかさどる部分の「内部」(脳みそ的にそれが物理的にひとかたまりなのかどうかはともかくとして)ですら、こんだけ別々なわけで、日本語を書く機能がカッカと燃えていたら、絵を描くセンスなり技量なりがもしかりにあったとしても、なまじ「同時に」燃やそうとするとたぶん脳がパンクするんじゃないかと思うんですけど……もちろん、メモリ数とかCPUとかが「もっとマシ」だったら、さらなる過負荷にも耐えられるかもしれませんが。

ピアノとかギターとかを弾きながら歌が歌えるひとも、
クルマの運転をしながら世間話ができるひとも、
BGMがハデに鳴っているファミレスなどで打ち合わせができるひとすらも、
「すごい」
と思ってしまうほど「たいがいのことは、一度にひとつしかできない」わたしは、脳みそタイプとして「石器時代なみに旧人」なのはたぶん間違いないとこなんでしょうねぇ……料理しながらうっかりテレビにみいっちゃうと、焦がすし。

ビジュアルが得意な脳みその部分と、言語が得意な脳みその部分がしっかりリンクして、統合されてたら、ほんとすごい作品ができるだろうなぁ。オーケストラのフルスコア(楽譜)をパッと眺めたらちゃんと全部の楽器が鳴って聞こえるひとと同じぐらい、スゴイと思う。ちなみにわたしはハ長調の四分の四拍子の単純なのの単なる両手用の楽譜でも、時々「えーと、ここがドだからー、いっこ、にこ、さんこ……あ、シタのラの音なのね」と、いちいち指でさして数えないと読めないです。呼んだら楽譜に「ら」とカキコミます。じゃないとまた忘れて数えないといけなくなるからです。


139 名前 : 来無 投稿日 : 2004年07月09日(金) 06時00分16秒
葛西さま
>本業でもない、充分な訓練をつんでいるのでもない作家が「片手間で」、あるいはツールの力を借りて「お手軽に」済ませたイラスト指定やレイアウトでよいのでしょうか?
うんにゃ、全然。無理にも十分な訓練をつまにゃならなくなる、本業の中にそういう事まで含まれてくるかもよ?と言うているのでして、そうなったときは、片手間、お手軽でお茶を濁すしか無い人はある意味消えていくか、隅っこでこっそりレトロ風味を売りにしてやってく(やっていけるものであれば)しかなくなる人も少なくなかろうと、そういう事です。ええ、もちろん現状ではまだそうなっちゃいないでしょう。でも、文章を書く事は随分楽になりました。文章を書く事が特別でなくなれば、感性と文章の上手さだけが勝負になりますが、技術は支援ソフトが高度化したら差が縮まらざるを得ない。残るのは感性だとすると感性が大きく広く働く人が有利になるだろうと。
ただ、デザイナーの話でもそうですが、実際に単能で他の事が出来なかった人は職を替えるしか無い、でなければ、死にものぐるいで新しいスキルをものにしなきゃならなかった事例は既にある、わけです。つまり素人ですと言っていられない、否応無くプロにならざるを得ないそういう事例です。
文章やイラストのスペシャリストの仕事が簡単に兼務出来るとは私も思いません、思いませんが、既にイラストもかけて文章もいけるような人は少なくないでしょう。イラスト文章兼務の人がまだ例外なのは業界の保守的体質も大きいかと。(いずれも、マンガ家やアニメータで知名度のある人だから受け入れただけ、な気が。募集要項でデータでの応募が「今時」フロッピーのみなんてのを見かけるにつき、単に編集が勉強不足なだけじゃないかとも思う)
>映画や演劇、ゲームなどでは役者が20点、音楽が30点、演出が35点……と各要素が合計されてトータルの作品が100点になるのではありません。
無論何でも均等に出来るべきというのではなく、必殺技はしっかりあって、そこまでのコンボがちゃんとそつなく出来る、というのがいいのでしょう。波動砲だけじゃヤマトも沈んじゃうぞ、と。才能も持ち点が決まってるわけではないので得意技以外が0点である必要は全くない。今まではそれでも良かったけど、これからは0点があると落第するかも?もちろん0点がなくても平均点とれる技がなけりゃ落第です。
>やはり各分野で充分な能力を持った人間が協力し合う事によって、より優れた作品を生み出す事が望ましいのではないでしょうか?
そらそうです。だからスペシャル度が群を抜いていれば純粋なスペシャリストで居続けられると思う次第。ま、必殺技を持ったゼネラリストの集合体ならより有機的結合も望めるような気もしなくもないですが。スペシャリストの道をひたすら先鋭化するかゼネラリスト的有能さを持つかは選択肢でしょう、前者は決して嫌いじゃありません、むしろ大好きです。トップスペシャリストの有機的結合による良作なんて涎が出るほど欲しいに決まってます。が
一方でそういうのは希有な事例だろうとも思うわけで、どんなに頑張ったって天賦の才には限界があるという人が大半である以上一般論的にはどっちにすべきかと言うと後者かなあ、と。今さら他の職能なんか身に付かねーという向きにはもう突っ走ってもらうしかない(久美様なんかは十分突っ走れるように思うので突っ走って下さい思いっきり)。(だから原稿用紙に万年筆な人もイイと思うんですよ)。もちろんどちらであろうとプロレベルの技術に手抜きがあっていいってことじゃありませんです。
もうひとつ、プロデューサー方式ってのも90年代にもうピークを過ぎてるような気はしてて、それだけに定着もしてるんでしょうけど、今さら、って気分はあります。
>挑戦的な「表現者」としての仕事を期待
いい仕事ですねえ、そういうの。そのためには「挿絵」は「挿絵」として確立した一つのジャンル(実際そうなんですけど)としての意識がもっと必要じゃないかと思います。
逆説的に『挿絵の「描画技術者」』である事が求められるような気がします。挿絵と普通の一枚絵との区別がきちんとついてないと「表現者」としての仕事は出来ないんじゃないかなあ、と。ネタバレ絵なんてのはその代表かも知れず(今号のドラマガざっと見て3,4作品ネタバレ絵気味でした、絵としては好ましい絵なんだけど、見ちゃうとストーリー読めちゃうなあ…という挿絵としてはどうなん?と)

久美様
>絵を描くセンスなり技量なりがもしかりにあったとしても、なまじ「同時に」燃やそうとするとたぶん脳がパンクするんじゃないかと思うんですけど
おそらく両方出来る人には単なる出力機器の違いな場合もありそうです。つまり同じ事をやっていてそれを絵にするか文字にするかだけの違いだったり。
思考の基は言語なので文字にするか絵にするか音にするかってのは変換方式の違いだけな気がします。要は辞書があるかないかの問題で。一旦再起動しないと切り替え利かないって場合は多分にあるんでしょうけど。

140 名前 : ぎをらむ 投稿日 : 2004年07月09日(金) 23時35分45秒
>来無さま

>思考の基は言語なので文字にするか絵にするか音にするかってのは変換方式の違いだけな気がします。

文章や音楽は分かりませんが、少なくとも絵に関しては、
考えることと同時に考えないこと、意識しないことも大切な要素です。
無意識と偶然に特化したシュールリアリズムという描き方まであるぐらいですし。

例えば、CGの流行で最近減ってしまいましたが
アナログ絵における絵具のにじみ方や飛沫の飛び散り方は
経験でかなりコントロールできるものの、
描いている本人でも分からない偶然性があります。
画材によってどうしてもできてしまうムラもあります。
同じにじみやムラを出そうと思っても絶対に全く同じモノは再現しません。
でもそういうものも含めて絵なんだと私は思ってます。(笑)

141 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年07月10日(土) 08時24分55秒
>思考の基は言語なので文字にするか絵にするか音にするかってのは変換方式の違いだけな気が

そーかなー。ビジュアルとか音をほんとうに「創る」ひとっていうのは、もともとそっちでイメージして、そのままアウトプットもしているんじゃないかと思う。
「思考」というと、なんとなく言語化できるというかしないといけないような気がしちゃいますが、ここで思考をあえて「脳みそを働かせている」という意味だとすると、まったく言語にコミットしない思考があると思いますよ。いわゆるサヴァン症候群(昔、イディオ・サヴァンといわれていたもの。『レインマン』でダスティン・ホフマンがやったのとか。おウマの写真の表紙の『彼らはなぜ天才的能力を示すのか?』ってご本とかが有名)のひとなんかの例を見ると、人間の脳みそでも必ずしも言語機能が充実していないと動かないということはないのだ、と実感できますです。
わたしも昔作詞作曲をしたことがありますが(あるのよっ!)メロディを創るって、いわゆる言語的思考錯誤は全然関係なかったよ。ただバクゼンとしたメロディ(あるいはその一部)がいきなり「ぽん」とある。それを定着させるときに、記録できるかたちにするためには、ハナウタでうたってみたり、鍵盤でなぞってみたり、音符に書き出してみたりしないといけなくなっちゃうんだけどね。

142 名前 : 来無 投稿日 : 2004年07月10日(土) 15時57分52秒
ぎをらむ様
シュルレアリスムにおける無意識ってのは何も考えてないってことではないわけで、表層で意識してる事と実際に考えている事が違う(と考えられる)から心理的オートマティズムてな話になるわけでしょう。
プリミティブな思考を既存の表現方式にとらわれずに表現しようって事じゃないかと思うんですけども、思考の無い物は表現じゃないと思います。無心でとか、思考を超えて、みたいな事は慣用的にはいいますけど、無、とか、空ってのは、何にも無い状態ってわけでもないものですし、思考を超えようというそれ自体が思考の産物です。
>同じにじみやムラを出そうと思っても絶対に全く同じモノは再現しません。でもそういうものも含めて絵なんだと私は思ってます。(笑)
アナログはみんなそうでしょう。口から出た言葉は二度と同じ調子では聞こえませんし、音だってそう、絵も同じ、それはアナログという手段の特性です。表現手段は単なる道具ですよ。
水彩に水を差してにじませるのは絵ですが、壁のシミは人の顔に見えても絵じゃないでしょう?どうなるか解らないことをやるのは、どうなるか解らない事を見越してやっているのであって偶然とは違う。確率論的必然です。
キャンパスに絵の具を振りかけてみるのだって、乱数的効果を期待して(計算して)やってるわけだし、結果バランスのいいものを選択します、思った効果が出なけりゃ失敗作です。アナログの特性に従って、思考を具現化している事に変わりはありません。
デジタルだって乱数を利用したフィルターはありますし数学にだって計算しきれない数はあります、それを扱う事は考えない事や意識しない事ではありません。


久美様
普通人間は思考を組み立てるのに言葉を使っているそうで、言葉を持たないと高度な思考を合理的にまとめられない。らしい。
通訳など大人になってからバイリンガルになった人であまりに達者な人は、自分が何語でものを考えているか解らなくなって神経を病むケースがあるそうです。(言語中枢が成長しきってない子供のうちに複数言語環境に置かれると平気だそうで。何分昔に読んだ話なので真実かどうか自信はないですが)
こんな話が記憶にあったので言語という言葉をつかったわけですが、アルゴリズムといったほうがよりふさわしいのか(なんか違う気もする…)、言葉(文章)のちょっと上にある言葉を生む元になるものみたいなニュアンスで。
人によってはそれが文章に近かったり、メロディに近いものだったり映像に近いものだったり、共通してるひともそうでない人も居るとは思うんですけど、共通してる人にとっては別段違う事をしている意識はないってこともあるんじゃないか、と。
脳の言語野を通さないと言語じゃないかというとそんな事はなく、むしろ言語野が働かない為にその機能を別の部分が補おうとした時に近くにある野の機能との親和性が高くなるのではないでしょうか(これには何の根拠もないですが)
確かに言葉は不自由でも、その人なりの言語、という事ではと思ったりしてるんですよね>サヴァン症候群<普通と同じ回路を使えないだけ(その為に結果が普通と異なるだけで)で別に違う事をしているわけではないのじゃないか、という気がします

>ビジュアルとか音をほんとうに「創る」ひとっていうのは、もともとそっちでイメージして、そのままアウトプットもしているんじゃないかと思う。
文法(メタな意味で)から違うということではないですかね。切り口というか。文章(言葉)を音楽や絵に翻訳してるんじゃなくて文章も音楽も絵も同階層だと思うんですけども。素材から何から全く共通しないって人も居るでしょうね。
>ただバクゼンとしたメロディ(あるいはその一部)がいきなり「ぽん」とある。
ポンとあるように見えても、知らない音は生まれてこないですよね?四分音(半音の半分の音)とか超音波とか。そこにはその人の音楽言語(音楽的文法、規則性)が出来ていると思うわけです、鼻歌で歌う、鍵盤でなぞる、音符を書くっていうのは、そのまま言葉をしゃべる、や、筆記といっしょではないか、であれば基底になるものは意識してないだけで結構共通してるんじゃないでしょうか。



143 名前 : ぎをらむ 投稿日 : 2004年07月10日(土) 20時13分36秒
>来無さま

>思考を超えようというそれ自体が思考の産物です。

>どうなるか解らないことをやるのは、どうなるか解らない事を見越してやっているのであって偶然とは違う。確率論的必然です。

あ、なんだ、そこまで考えられているのですね。
はい、おっしゃる通りです。
139の来無さまの書き込みでは、そこのところが飛ばされているように感じたので、
140の書き込みをしたのですが、差し出がましかったかも知れません。
失礼しました。

>表現手段は単なる道具ですよ。

これに関しては厳密には微妙かな、と考えます。
前衛芸術だと表現そのものが作品になってしまうこともありますです。

とはいえ既存のライトノベルにおいては、
イラストは具体的内容を指定され、それを分かりやすく描くものなので、
表現=手段だと考えて差し支えないでしょうね。

144 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年07月11日(日) 10時03分02秒
>共通してる人にとっては別段違う事をしている意識はない

あー、それはそうかもしれないです。
でも、それが創作活動に結びついてなんらかの作品になった場合、それを受け止める側も「作者がなんらかの部分を表現しているときに発火していたのとまぁだいたい同じに相当するような部位が同時に発火してそれを受け止める脳みそ」である確率はすんごい低いような気はしちゃうな。
なんか、あくまで「という場合がありうる」という空論の話に聞こえるかもしれないんですけどね、たとえば、作者はドミソの和音+超音波、を弾いているつもりなのに、受け取る側はバクゼンと「ソ」の音しか聞かなかったりとか、そーゆーことが起こらないかなぁ? いや、そういうことが起こって「も」じゅうぶん面白くて、作品として意味があるかもしれない。うーむ。これって結局単純な「読者が100人いたら100人読み方は違う」って話なだけかな。あるいは作者の側が自分が弾いてる音を全部把握はしてないかもしれないし。失礼しました。


145 名前 : 葛西 伸哉 投稿日 : 2004年07月11日(日) 22時17分14秒
来夢さま

 まずはひとこと。ツールの発達によって文章を書く事そのものが楽になった時に重視されるのが「感性と文章力」という言い方には多少の抵抗を覚えます。「感性」という分析や検証が困難な言葉をヘタに用いると思考停止・議論拒否につながりかねないんですよ。ストーリーの組み立てやキャラの構築、構成、演出、表現、すべてに渡ってそれこそ「スキル」の占める地位は小さくないはず。単なる言葉尻の問題とは思いますが、ちょっと気になったもので。

 プロデューサー方式というのは確かに音楽などの分野では普及してますが、小説ではどうでしょうか? まだほとんど試されていないどころか、試す意味のある事であるとさえ看做されていないのが現状ではないでしょうか? 複数の異なる才能を結集して最適のものを生み出すという方法論ではなく、まず小説ありきでオマケとしてイラストをつける。何のために、どうイラストをつけるかという「演出意図」が不在だからこそ、来夢さまが嘆いたような小説の表現意図を台無しにするようなイラストの付き方が生じてしまうのでしょう。
 この事態を解決するためには、来夢さまが仰るようなひとりで全部を担当できるゼネラリストというアプローチもあるでしょうし、私が主張する実力あるプロデューサーが存在するという方法もあるでしょう。プロデューサー方式を取った場合、各パートを担当するスタッフが必ずしもゼネラリスト的資質を持っている必要はないと思います。ちょうど演劇や映画の各パートスタッフのように、自分の専門以外の分野で実作能力がなくても、意図や良し悪しを見抜く判断力があればそれで充分ではないかと。
 ただ、この件に関しては来夢さまご自身も「選択肢」と仰ってますし、私もゼネラリスト論を否定する意図はありません。検証不可能な話題であり、現状をどう捉えるかという判断の問題。そして、お互いに自説を第一としながらも相手の発言にも一定の妥当性を認めるという状態にたどり着いたように私には思えます。そちらさえ異存なければ、この件に関してはこれで一端シメとしませんか? もちろん、来夢さまが納得できないというのであれば、まだ意見を交わす意思はあります。

146 名前 : 来無 投稿日 : 2004年07月12日(月) 09時25分45秒
伸哉様
>「感性」
失礼いたしました。一応意図としては、お言葉を借りると
「文章力」=「ストーリーの組み立てやキャラの構築、構成、演出、表現、すべてに渡ってそれこそ「スキル」」
「感性」=「意図や良し悪しを見抜く判断力」や洞察力
に近いニュアンスである心づもりではあります。
  現時点では労力のかなりの部分が、近い将来スキルのかなりの部分が機械的サポートを受け得ると、判断力や洞察力が重要になるだろう事と、「確かなそれ」を持つのは(実作の労力や熟練に頼る部分が僅かになる為に)実作力を持つ事にほぼ等しくなるだろうこと。(ある事柄をきちんと判断出来ると言う事はそれについて造詣が深い事に他ならないとも思うのですが)
  またかなりの部分が機械でサポート出来るようになると個々のスキルは(労務として軽微になってゆくが故に)単独の労働(業務)として成立し難くなる。結果、個人で複数のスキルを持たざるを得なくなる可能性が高い、と言うのが骨子です。

>プロデューサー方式というのは確かに音楽などの分野では普及してますが、小説ではどうでしょうか?
小説と言う分野に限ると確かにほとんどないのかもしれませんが、出版という括りで見ると、浮世絵の時代からあるわけで手法として目新しさは感じません。雑誌では戦前から、漫画では20年位前から(単に私が認識出来ている範囲だけなのでもっと以前からかもしれませんが)。で、小説の分野がもたもたしてる内に技術的ブレークスルー起きちゃってんじゃないの?と思うのが今更感の所以でして…

>この件に関してはこれで一端シメとしませんか?
これからの方向性として主に据えるには不安、疑問がある、というだけで、方法論として否定する気は全くありませんのでシメていただいてかまいません。(シメませんか、と言われた後にクダクダ書いてしまいましたが不明瞭であった前書き込みの単なる釈明のつもりですのでご容赦ください、納得してないとかそういう事とは違います)

147 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年07月13日(火) 07時32分43秒
うわー、ぎをらむさま、うわー! 驚嘆!
  
すっげぇすっげぇ刺激的で、知的で、ちょーおもしろいですー!
ほんとーだ。そのとーりだ。すげぇなぁ。

すみません今日まで、「ゲーテ」コラムの存在に気がつきませんで。そもそもわたしゲーテさまのこの論というのをぜんぜん知らなかったです。おもしろいなぁ。

148 名前 : ぎをらむ 投稿日 : 2004年07月13日(火) 08時47分41秒
>くみにゃさま

わたくしのつたないコラムを読んで下さいましてありがとうございます。m(__)m
あちこち強引に繋げてあって、グラフィック専門の方が見られたら
ツッコミどころ満載なのですが、
そこのところは万人向けに書いておりますのでご容赦下さいませ。
(というか、難しいことを簡単に書くというのはとても難しいことですね。汗)

イラストの話ばかりになって「ライトノベルとイラストの関係」に
話をもって行けなかったのが残念です。
表紙イラストが何冊かでセットになっているというのも、
ライトノベル特有のものではなさそうです。
コミックではよくあるのではないかと。

ちなみにスタッフの方が日付を間違えているだけで、
コラムが掲載されたのは7/12です。(笑)

149 名前 : 来無 投稿日 : 2004年07月15日(木) 00時37分55秒
ぎおらむ様
取り敢えず、オスワルト色環やイッテン色環がゲーテ色環と大した違いがないってのはどうかと…明度や混色の捉え方が違うでしょう?
ニュートンにしても「客観的に」色彩を分析しようとしてたわけですし、どちらかと言えばオスワルトやイッテンはニュートンの末では?



150 名前 : ぎをらむ 投稿日 : 2004年07月15日(木) 02時22分07秒
来無さま

>明度や混色の捉え方が違うでしょう?
>どちらかと言えばオスワルトやイッテンはニュートンの末では?

おっしゃる通りです。
さらに言うなれば印象派の時代にオストワルトシステムはなかったですし、
あの色環は私が手持ちの安物ソフトで作ったもので、
本物のオストワルトシステムとは色相が少しずれています。

印象派の絵が明るいのも色相だけの問題ではなく、
明度、彩度の問題もあったわけです。

ツッコミどころ満載なのです。

ですが、そこを逐一細々と書いていると
色彩学や絵画芸術の専門書になってしまいます。
それでは私の文才ではもの凄くつまらないものにしかならなくて、
「このライトノベルがすごい!」に来る人に
読んでもらえないと思ったのです。

私としては読む人をだますつもりはなく、
ゲーテ→ターナー、カンスタブル、ドラクロワのロマン主義
→印象主義→現代のグラフィック
の色彩の流れを分かりやすく読んでもらおうと思って書きました。
現代のデザインやカラーコーディネートに使われている色環には
ニュートン色彩論に基づくものも多い訳ですが、
絵に色彩論を採り込んだのはゲーテの流れを組む
ロマン主義、印象主義であり、
現代のイラストもゲーテ色彩論の末裔だと思っております。
これは私の主観であって、イラストレーターさんの中には
「俺はニュートンの末裔だ」と言われる方も居て当然ではありますが。

・・・・・でも、こういうことを書いても
ほとんどの人にとっては面白くもなんともないじゃありませんか?

そこは興味がある方が自分で調べられて
より正確で深い道を行けば良いのではないかと。

いえ、私も以前に来無さまの書きこみに対して
瑣末なところでツッコミいれたりした訳で人様のことを言えた
義理ではないのですが・・・。(^^;

151 名前 : ぎをらむ 投稿日 : 2004年07月16日(金) 00時50分08秒
来無さま

私の中の結論としては私のあのコラムは、
分かりやすく書こうとしたものの、
自分の力不足のために矛盾を抱えた中途半端なものになってしまったなぁ、
というところです。
大半の人が気にしない内容の部分であっても、
しっかり作らなければなぁとあらためて思いました。

ご意見ありがとうございました。
この次に書かせてもらえる機会がありましたら、
もっと良いものを書くよう努力いたします。

タイトルだけはいろいろ思い浮ぶんですよね。
「もっと電波を」とか。(笑)

152 名前 : 来無 投稿日 : 2004年07月16日(金) 01時39分58秒
ぎおらむ様
いやあ、あのままではニュートンが可哀相だなあ、と。(マックスウェルが光の三原色の実験をやった(ことによってニュートン、ヤングの見識の正しさが証明された)のも印象派前期と重なるので)
主観の部分はともかく、事実と異なる部分だけは、とツッコンで見ました。決して前のツッコミに対する意趣返しじゃありませんのでご勘弁ください
>大半の人が気にしない内容の部分であっても、しっかり作らなければ
大半の人が気にしないってことはそこに嘘や間違いが在るとそのまま通っちゃいますからね。いや、もう自分も気をつけないとあかんのですが。

153 名前 : ぎをらむ 投稿日 : 2004年07月18日(日) 16時55分41秒
ちょっと私のコラムのせいで、
だいぶ話がイラストオンリーに行ってしまったのですが(汗)、

>●そもそもイラストは必要不可欠なものか
>●ライトノベルではイラストは従か主か、あるいは等価な関係なのか?
>●ライトノベルに与えるイラストイメージの影響

これらを考える時、イラストの新人賞から見てみたらどうでしょう?
例えば電撃(メディアワークス)ならば、
「電撃小説大賞」とともに「電撃イラスト大賞」というのもあって、
これが単なるイラストの賞というより実質、
「ライトノベルのイラストレーターを目指す賞」になっているように思います。

ドラゴンマガジン誌やザ・スニーカー誌でもイラストコンテストがあって、
評価が高ければプロのイラストレーターに、
しかも主にライトノベルのイラストレーターになっていますよね。

恐らく、こういうのって最初からあった訳ではなく、
ライトノベルにおいてイラスト&イラストレーターが
重要視されるようになってできたものだと思いますが、
そこのところどうなんでしょう。
(主旨がはっきりしないですが話題振りということで・・・)
Black Goat BBS3 Ver2.01