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『ライトノベルを読む理由』 著/秋山真琴

「勿論僕ときみとの間には絶対的な距離、絶対的な障壁がある以上、きみの気持ちを完全に理解できるなんていうことはただの欺瞞に過ぎないのかもしれない。ここでは僕は『僕はきみではないのだからきみの気持ちは分からない』なんてことを言えばいいのかもしれない、それが本当なのかもしれない。だがね、本当のことでも言っていいことと悪いことがあると、僕は思うのだ。そして同様に、たとえ欺瞞であったとしても、言わなくてはいけない欺瞞というものがあるのだと思う。だから僕はこう言うのだ、『きみの気持ちは分かるよ、様刻くん』と。それに本当のところ、きみの不安が分からないというわけではないのだよ、この僕には。この僕は、その手の不安をずっと抱えて生きてきたようなものだからね」
「不安? この気持ちは不安なのか?」
「ああ、その表現が一番正しい。あるいは『恐怖』と称してもいいかもしれないな……」
「恐怖。殺されるかもしれない、という恐怖か?」
「なんだそりゃ? そんなのは常識だ、恐怖と呼ぶには値はしない。『恐怖』とはね……『自分は世界と関係していないのではないか』という恐怖だよ。世界が自分の関係のないところで進行していく、その恐怖だ。世界に対し――不安になっているんだ」
「……なるほど」
(西尾維新著『きみとぼくの壊れた世界』143ページより)


 小説、それもフィクションの小説を読む理由について。
 フィクションだから読む価値がないのか、それともフィクションだからこそ読む価値があるのか、賛否両論あるでしょう。例えば、フィクションを読む人間はフィクションを必要として、そうでない人間はフィクションを必要としていないのかもしれない。その場合、フィクションを読む理由は、現実から逃避するため、現実では味わえないような感動を得るため、手軽に楽しい時間を過ごすため、ただの暇潰し、などでしょうか。
 挙げられる例が少なくて申し訳ない。
 こんにちは、秋山真琴です。

 フィクションと言うのは、創作された虚構の物語を意味します。対義語にノンフィクションと言うのがあり、こちらは事実だけで構成されたものを意味します。
 本日は「このライトノベルがすごい!」という企画に関連して、「どうしてライトノベルは読まれるのか」という点について、やわらかい形で語っていきたいと思います。どうぞ、よろしくお願いします。


 まずは冒頭に引用させていただいた、西尾維新の著作について説明しましょう。
 西尾維新というのは第23回メフィスト賞を受賞し、「京都の二十歳」としてデビューしたライトノベル風ミステリを書くと称される作家です。その著作には思春期の若者たちの言葉を代弁するものが多く、中高生を中心に人気を博しているようです。今回の企画にもその著作が何冊か含まれているので、結構な票を集めるのではないかと思います。
 数ある著作の中から、『きみとぼくの壊れた世界』からの一節を借りたのは、引用した直後の箇所があまりに強烈だったからです。未読の方のために説明しますが、多く喋っているのが病院坂黒猫という女子高生で、相槌を打っているのが主人公で櫃内様刻という男です。この会話の直後、主人公の櫃内様刻は心の中で、病院坂黒猫を否定します。『自分は世界と関係していないのではないか』なんてものは、恐怖でも不安でもない、と。
 西尾維新がどういった思惑を持って、主人公に病院坂黒猫を否定させたのかは、わかりませんが、この箇所を読んで秋山はショックを受けると同時に、思わず笑ってしまいました。何故なら秋山の考えでは、西尾維新の愛読者こそが、病院坂黒猫なのですから。
 思うに。
 ライトノベルを愛読している人間が、ライトノベルを読むのは――自分が世界と関係していたいと思うからではないでしょうか。

 話を少し戻しますが、先ほど秋山は、フィクションを読む人間はフィクションを必要としているのかもしれないと書きました。一口にフィクションと言っても、その幅は広いでしょう。歴史小説や時代小説などは、虚構は含むものの、その度合いは少なく、ノンフィクションに近いと思います。逆にジュヴナイル、ヤングアダルト、ファンタジィ……ライトノベルは虚構を多く含んでいるがゆえに、フィクションの中のフィクションと言ってしまっても差し支えないと思います。
 これを先ほどの例に当てはめるならば、ライトノベルを読んでいる人間は、フィクションを強く欲していると言うことができます。これは類推に過ぎない上に、過言でもありますが、現実の生活が苦しい人ほどライトノベルを読んで、架空の世界に浸りたいのではないか。そして本の中に入り込みつつも、その本を書いている作者、出版している会社、同じ本を読んでいる読者と仲間になることで、自分を世界と関係させて、自分自身を生に繋ぎとめているのではないだろうか。そう、秋山は思います。

 まあ、仮にそうだとして――自分自身を世界に関係させて繋ぎとめておくための手段として、ライトノベルが読まれているのだとして、どうしてライトノベルが選ばれたのか。
 秋山はその頃まだ生まれてないので知りませんが、全共闘の時代には特定の思想が、全共闘に参加した人間を世界に繋ぎとめておくための手段として使われたかもしれません。また明治時代においては多くの純文学が世に出されたのは、文学が人間を世界に繋ぎとめておくための手段として使われたからかもしれません。それらについてをここで語ることはしませんが、どうして現代においては、思想でも文学でもなく、第三の選択肢――ライトノベルが選ばれたのか、というのは気になるところです。


 ライトノベル。直訳すれば、軽い小説。
 このジャンルに含まれる作品の多くは、質か量のいずれかにおいて、意図的に軽さが演出されているように思えます。また、重いテーマを扱ったものであっても、ライトノベルというジャンルが有する「作品を浅くする効果」によって無理やり軽いものに変えられているように感じられます。
 作品を浅くする効果とは何なのか? 端的に言って、それは思想と文学の排除です。
 かつて、思想や文学が自分自身を世界に関係させて繋ぎとめておくために使われていたのだとしたら、それらの敷居は相当に高かったことでしょう。勿論、この敷居の高さによってより強固な連帯感が得られるのかもしれませんが、現代において求められているのは深い関係ではなく、浅いものです。あまり多くの段階を踏むことなく、容易に得ることのできる連帯感――自分と世界が関係しているという感覚――をライトノベルは有しているがゆえに、これほどに若者を中心に人気を手に入れたのではないでしょうか
 またライトノベルにおいては、sfやミステリといったジャンルが持っている系譜というものがありません。ライトノベルには祖もいなければ、それを引き継いだ作家もいないのです。いつの間にか発生して、ただそこにあるという不定形のジャンル。その「どこから読みはじめても構わない」という取っ付きやすさが、ライトノベルの敷居を下げているのではないでしょうか
 他にもアニメ調のイラストや、後書きの存在など、様々な手段がライトノベルの敷居を下げる手段として駆使されています。そしてそれらによって、たとえ重いテーマを扱っていたとしても、それが重くないもののように歪められてしまう。例えば生死を取り扱っている重い小説であっても、挿絵に萌え萌えなキャラクタが描かれていたら、雰囲気はちょっと変わってしまうでしょう?

 正しく、こういった点において、ライトノベルは現代の若者に受け入れられているのだと思います。思想や文学を勉強する必要もなく、安易に手に入る連帯感。読書を通して得ることのできる、自身と世界との関連性。
 以上を踏まえて、もう一度、冒頭の引用を振り返り、読者の代弁者とも言える病院坂黒猫が、作者の代弁者とも言える主人公に否定される様は、――どうでしょう、実にシニカルであると言えませんか。


 ここで謝っておきたいのですが、秋山は別段、ライトノベルというジャンルやその愛読者を否定したいわけではありません。むしろその逆……秋山自身、ライトノベルおよびフィクション小説が大好きですし、読書を大いに奨励している人間でもあります。
 今までの「ライトノベルを読むのは、自分が世界と関係していたいから」という意見は、ひとつの示唆――あるいは考え方、程度に取っていただければ幸いです。何かしら反論、同意がある方は、リファラを飛ばしてくれたら反応いたします。はてなでも、構いません。

 さて。
 最後に秋山が考えるライトノベルの魅力を語ります。
 ライトノベルの魅力――それは既存ジャンルに対し、挑戦的な態度を取ることができる点にあります。
 例えばミステリには「ノックスの十戒」というのがあって、これには「秘密の通路や秘密の部屋を出してはならない」というのや「読者の知らない手がかりによって事件を解決してはならない」といった細かいルールが存在し、そういったルールを破った作品は「アンフェアだ!」と言われ、批判の対象になります。
 しかしライトノベルの場合、前述のように系譜を持たないこともあり、定石や基本を持ちません。それゆえ好き放題、逸脱することができるのです。そこには戦闘機なのに剣で斬りあってしまう作品もあれば、まさかの超能力で事件を解決する探偵が登場する作品もあります。
 今まで律儀にルールを守ってきた作品群に背を向け、全力で逆走する無謀とも言える作品の数々がライトノベルにはあるのです。それらは駄作・地雷・壁本と呼ばれることがありますが、そういった作品には蔑称こそ名誉でしょう。

 大衆に認められた名作よりも。
 隠れた傑作よりも。
 踏みにじられた駄作こそが、面白い。
 地雷未経験者に、秋山は手を差し伸べます。
 今こそ、この不定形にして未然形の領域に足を踏み入れてみないかと。
 この全方位フロンティアにして、向かうところ敵のみの激戦区に。
 爆発した後のグラウンド・ゼロにして、誰もいない青空の下に。
 出会えたのなら歓迎し、こう言いましょう。
 ようこそ、と。

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▼プロフィール

 秋山真琴。雲上回廊管理人、自称暇人。
 オンライン文芸マガジン『回廊』編集長。
 現在「萌えミステリ往復書簡」を連載中。
url : http://www5a.biglobe.ne.jp/~sinden/