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投稿コラム「心の中の王国」 ぎをらむ※ぎをらむさんの簡単な紹介は文末に表記してあります。 はじめに
まず最初に2つ、お断りをしておきます。
2つ目は、このコラムの後半で「ブギーポップは笑わない」、「missing」、「dクラッカーズ」
の3作品の内容に触れていることです。
これら3作品のネタバレを読みたくないという方は、後半は読まないか、
後半の内容を読後速やかに記憶中枢から消去するか、あるいは無意識の底に沈めてください。 0. このコラムでやりたいこと
ユング心理学の心理モデルを使ってライトノベルのちょっと変った解釈をしてみたいと思います。
面白いと思ってやっているだけで、別に心理学的にどうこうということではありません。 1. ユング心理学の心理モデル
図1がユング心理学を私なりに解釈して描いた心理モデルです。
これを見て頂かないとお話にならないので、つまらないかも知れませんが見てください。
間違っているかもしれませんが。(笑)
では最後の「普遍的無意識」とは何かというと、
個人的経験よりも前にある、産まれた時から持っている「何か」です。
これは個人的経験に寄らないので誰もが持っています。
もちろんそれは個人個人の心の中にあるのですが、
誰もが持っているのですから、「普遍的無意識」において全世界の人の心は繋がっているとも言えます。
そのため、図1のように人の心理は「普遍的無意識」という根っこから生えており、
先の方だけが個人個人の「意識」として表に現れていると言えます。
「なんじゃそりゃ」「机上の空論だ」「そんな馬鹿な」
「人間の心が奥底で繋がってる訳あるか」と言われる人もいらっしゃると思います。
それはそれで全然構いません。(笑)
実はユングはこの「普遍的無意識」を考え出すにあたって、
神話や伝承、昔話をヒントにしたと言われています。
心理学者であるとともに民俗学者でもあったユングは、
世界各地の神話や昔話を調べていく内に、
それらが地域によらず幾つかのパターンに分けられると考えるようになったそうです。
つまりユングに言わせると
『神話や昔話は心の奥の奥に誰もが眠らせている「普遍的無意識」が
何かのきっかけで物語の形になったものである』
となりそうです。
ふむ?なんだかこれをライトノベルに当てはめたら面白そうではありませんか。 2. 「閉じた世界のファンタジー」に当てはめてみる
かつてのライトノベルは異世界を舞台にしたファンタジーが主流でした。
異世界で始まり、異世界で終わる、現実世界とは違う閉じた世界が舞台のファンタジー、
いわゆる普通のファンタジーです。
また、図2には「ファンタジーの世界」と対比する形で、「現実世界」があるようにも書きました。 3. 「現実世界から異世界に行くファンタジー」に当てはめてみる
図2では「ファンタジーの世界」と「現実世界」が互いに繋がりをもっていません。
しかしどうせならば2つの世界を繋げてみようという発想が出てくるのは当然のことでしょう。
ライトノベルでも「異世界だけが舞台のファンタジー」とともに、
平凡な生活を送っていた主人公が思いがけず異世界に飛びこんでしまう、
「現実世界から異世界に行くファンタジー」というのが以前からかなり多くあると思います。
すなわち「現実世界から異世界に行く」ということは、
人の「意識」が何かの拍子に「普遍的無意識」へとストンと落ちてしまうことだと解釈できます。 4. 「異世界から現実世界に来るファンタジー」に当てはめてみる
最近のライトノベルでは図3とは逆の発想で、「異世界から現実世界に来るファンタジー」が増えてきました。
退屈な日常にとろけていた主人公の前に、ある日突然異世界からの来訪者が現れる、そんな作品です。
これを心理モデルにあてはめてみると図4のようになります。
(ここより後半。
「ブギーポップは笑わない」、「missing」、「dクラッカーズ」のネタバレがありますのでご注意下さい。) 5. 具体的な作品に当てはめてみる
ここまでもっともらしく書いてきましたが、
実際には上記のモデルにうまく当てはまらない作品も多いと思います。 5.1 「ブギーポップは笑わない」に当てはめてみる
上遠野浩平さん著、電撃文庫刊の「ブギーポップは笑わない」では、
世界に危機が訪れると、宮下藤花という少女にブギーポップという存在が自動的に乗り移ってきます。
「二流の社会生活に押さえつけられた可能性が独立して存在を主張するのが多重人格だと考えている」
「二流の社会生活に押さえつけられた可能性」というのは個人的な経験ですから、これは個人的無意識です。
竹田啓司はこの説に多いに影響され、
ブギーポップは宮下藤花の可能性だという考えから離れられなくなります。
この説をこれまでのモデルに当てはめたのが図5の中の「竹田説」です。
ところが竹田啓司がブギーポップにこの「竹田説」を披露すると、ブギーポップは反論します。
その箇所を抜き出してみます。
ブギーポップ「しかしぼくの場合、宮下藤花の可能性というわけでもないしな」
ブギーポップは自分を「個人の可能性」ではなく「世界の可能性」だと言います。
では「世界の可能性」を先ほどのモデルに当てはめるとどこに来るかと考えると、
全世界の人の心に共通している「普遍的無意識」の中になりそうです。
すなわち図5の「ブギーポップ説」のようになります。
どうです。何だか凄く綺麗に説明できるでしょう。 5.2 「missing」に当てはめてみる
甲田学人さん著、電撃文庫刊の「missing」では、
現実世界とは別に「異界」という世界があることになっています。
「異界」には「異存在」という、魔物というか怪奇現象そのもののようなものがいて、
特定の「儀式」によって現実世界の人へ「感染」します。
また「現実世界」の人が「異存在」によって「異界」に引きずり込まれてしまうこともあり、
これを「神隠し」と呼んでいます。
まぁこれだけならばライトノベルではよくある設定なのですが、
「missing」で特筆すべきことは、
「儀式」が都市伝説や作中架空の民俗学者、大迫栄一郎の著作と絡めて語られること、
そして「儀式」とは参加者に「異界」を「認識」させるものだと強調されていることです。
「missing」において「認識」は重要なキーワードです。
本を読むとか、faxを見るとか、自分の目で見るとか、とにかく「認識」した途端に「儀式」が始まり、
現実世界と「異界」とが接続され、「異存在」に「感染」します。
また、「神隠し」によって「異界」に連れ込まれても、「現実世界」から「認識」されていれば戻ってくることができます。
そして「認識」する対象は都市伝説や、噂話や、説話、
つまりユングに言わせると「普遍的無意識」に属するものです。
ということは「missing」における「儀式」とは「普遍的無意識にある異界を意識上で認識させる」
ことだと解釈できそうです。
また「missing」ではこの他にも
「本来認識できない高次の存在に、イメージ力によって形を与えるのが『魔術』の一側面だ。」
のように、人間の心を「認識できないところ」と「認識できるところ」に分け、
「認識できないところ」から「認識できるところ」へ移すことが「儀式」とか「魔術」の本質であるという文面が
しばしば登場します。 5.3 「dクラッカーズ」に当てはめてみる
あざの耕平さん著、富士見ミステリー文庫刊の「dクラッカーズ」でも「認識」は重要なキーワードです。
ただし「dクラッカーズ」では「認識」に儀式は必要ありません。必要なのは「カプセル」です。
「カプセル」を服用するといろいろな効果があります。
人によっては「悪魔」を召喚できますし、召喚された「悪魔」を見ることもできます。
そしてなんと言っても「王国」に行くことができます。
この「王国」というのは主人公の物部景と姫木梓が幼少の頃に思い描いたファンタジー世界を原形にして、
悪役のベルゼブブが創り出した現実とは別の世界です。
以上の「dクラッカーズ」の設定を、先ほどの心理モデルに当てはめてみたのが図7です。
召喚される「悪魔」は人によって千差万別なので、「個人的無意識」から呼び出されてくるのでしょう。
一方「王国」はファンタジー世界ですから、これまでのように「普遍的無意識」にあると考えられます。
カプセルは「意識」と「無意識」の壁を取り払う役割をしていると解釈できるでしょう。
そして、こういう理屈っぽい説明でうまく伝わるかどうかどうか分かりませんが、
「dクラッカーズ」の素晴らしい点は、
幼少の頃、無意識の内に持っていた幻想を元にしてファンタジー世界を創ったことだと思います。
そもそもライトノベルの作中世界とはそういうものなのかも知れません。 謝辞
最後に、このコラムを発表する機会を下さった白翁さん、極楽トンボさん、その他スタッフの方々に感謝いたします。
2004年3月 ぎをらむ [top]
▼プロフィール ぎをらむ 竜人館管理人。 url : http://www.bekkoame.ne.jp/i/ureshino/giolum/index.html |