「「おまえの言葉は正論だよ、フレイムの若い騎士よ。だが、世の中にはいろいろな人間がいて、いろいろな考
えがある。人々の考えはあるいは矛盾し、あるいは対立している。そして、すべての者が他人を理解しようとは
思わぬものだ。それゆえ、自らの考えを推し進めてゆくためには、他人に強制するしかない。そして、そのため
には権力がいる。」
スパークは、首を横に振って、黒の導師の言葉を否定しようとした。
「わたしの言葉を否定したとて、何の意味もないぞ、若者。真実とは言葉で語られるものではなく、目の前に
あり、五感によって感じられるものだからな」」
(水野良『ロードス島戦記7・ロードスの聖騎士(下)』より)
「「昨晩のような失敗は二度と繰り返しません。己がなすべき任務を忘れ放棄するような真似は、絶対に・・・
・・」
スパークの言葉はパーンに対してではなく、自身に向けられているようだった。まるで生涯の誓いを立ててい
るような趣だった。
汗を拭っていたパーンの手の動きがぴたりと止まった。
「それも、困るな」
「困る・・・・・。なぜでしょうか?」
スパークはパーンの意味するところが理解できず、そう尋ねかえした。
「自分を捨てるなということさ。与えられた任務をただ果たすだけの男にはなるなよ」」
(『ロードス島戦記6 ロードスの聖騎士(上)』、p129より)
-1-
冲方丁氏の「『第六大陸』論」において主題とされたのは、「果たしてライトノベルに、本当に職業が書ける
のか――?」という問いかけでした。
そこで指摘された通り、ライトノベルにおいて、職業に代表される《立場》というものは、実に重要な意味を
持ちます。
なぜなら、ライトノベルとはまず何よりも、「まだ何者でもない」読者を想定して書かれるものであり、《立
場》とは、正に人を社会の中で「何者か」たらしめる最大の要素であるからです。
そして、日本のライトノベルの歴史において、《立場》の問題を正面から語った作品として真っ先に挙げられ
るべき作品こそ、水野良『ロードス島戦記』ではないでしょうか。
-2-
この作品について語るにはまず、「trpg」というものについて、改めて説明することから入りたいと思い
ます。
trpg。テーブルトークロールプレイングゲーム。日本語に無理に訳せば、「机を囲んで、それぞれが選ん
だ人物の役割を演じる遊び」(何とセンスのない)とでもなるでしょう。
数人(4〜6人ぐらいが普通でしょうか)で集まり、一人がゲームマスターと呼ばれる、《「司会」兼「審
判」兼「神」》を務めます。そして、後の者は、それぞれ自分が選んだキャラクターを演じます(プレイ
ヤー)。まあ、「戦士」とか「魔法使い」とかです。そして、プレイヤーは、その選んだキャラクターに成り
きって、ゲームを行います。たとえば○○神を信じる「神官」のキャラクターを選んだのなら、ちゃんと○○神
の教義にしたがった行動をとらなければなりません。
そこでは、基本的に、どんなキャラクターを選択しても構いません。別に男のプレイヤーが女のキャラクター
を選んだっていい。ただ、その場合にはちゃんと「女」として、考え、行動しなければならないのです。たとえ
ば、装備にも、実用性を重視するだけではなくて、外観にも気を使う-----顔まで覆う鉄兜をかぶるのは避ける
とか-----などにも配慮しなくてはいけません。即ち、まさにロール(役割、立場)をプレイする(演じる)の
が、trpgなのです。
それは何を意味するか。多くの場合、社会の中でまだ「何者でもない」存在であるプレイヤー達は、trpg
の世界の中で何らかのキャラクターを創り上げることにより、その世界の中で明確に「何者か」となるのです。
そこに、trpgというものの最大の面白味があります。
水野良は、そのtrpgを日本に広めることを目的とした、「グループsne」の中心メンバーであり、その活動の
一環として、それをもとに一つの小説を書きました。それが『ロードス島戦記』です。
つまり、この小説は、その背景として、「架空の世界を共有した、複数の人間の経験」を持っていることにな
ります。
---これは特筆すべきことであると思います。なぜなら、それは、「架空の世界」と「人間の経験」、その相
互に融合し難い二つの要素、それが鮮やかな結合しているということですから。
-3-
『ロードス島戦記』は、戦乱に荒れる島、ロードス島を舞台に展開される、「剣と魔法の世界」のお話です。
物語の始まりを告げる次の引用文は、その世界の雰囲気を鮮やかに伝え、読者をその世界の中に引き込んでいき
ます。
「ロードスと呼ばれる島がある。
アレクラスト大陸の南に位置する大きな島だ。大陸からこの島まで、船に乗れば二十日あまりの旅になる。そ
の距離のためか、大陸とロードス島の行き来は少ない。ロードス島北西部にある自由都市ライデンの商人たち
が、ガレー船によって行う貿易だけが、その少ない行き来のすべてといってよかった。
大陸の住人の中にはロードスのことを「呪われた島」と呼ぶ者もいるという。確かにロードスには呪われたと
しか思えないような場所がいくつかあった。「帰らずの森」「風と炎の砂漠」、そして、「暗黒の島」マーモ。
忌まわしい怪物どものうごめく地下迷宮も各地にあり、暗黒神ファラリスの教えも根強く信奉されている。
三十年ほど前には、「最も深き迷宮」と呼ばれた魔宮から、強大な力を持った魔神どもが、その封印を解かれ
ロードス中を恐怖のどん底にたたき落としたという事件があった。
魔神との戦いは三年間続いたが、最後には人間や、エルフ、ドワーフら亜人たちの手によって魔神は再び封じ
込まれた。今では、その戦いの傷痕も癒え、元の退屈ではあるが平和な日々に戻っている。だが、その事件は大
陸にも伝えられ、呪われた島としての風評を確かなものにした。しかし、ロードスに住む人々にとっては、自分
たちが住む島がどう呼ばれていようが、それはささいな問題だった、島の人々は自分たちが日々を暮らしてゆく
ことだけで、結構忙しかったし、もっと深刻な問題をいくつも抱えているからだ。」
(水野良『ロードス島戦記1 灰色の魔女』より)
その世界で、どういう話が展開されるのか――そのあらすじを話すことが必要かとも思うのですが、あまりに
長くなりそうなので省略させて頂きます(すいません)。それで、煎じ詰めれば、どういうテーマでその話しが
貫かれているのか、を考えたいと思います(いかにも強引ですみませんが。)
-4-
---『ロードス島戦記』のテーマは、《立場と人》です。
一言でいってしまえば、「人には《立場》が必要だが、《立場》だけの人間になってはならない」、それがこ
の作品のメッセージです。
『ロードス島戦記』には、さまざまな《立場》がでてきます。王、王族、騎士、魔術師、神官、亜人(エル
フ、ドワーフといった、人間に似ているが違う種族)、傭兵、部族の長、盗賊、商人・・・・・。それぞれの立
場に、それぞれの義務があり、信じるものがあり、誇りがあり、思考の限界があります。
『ロードス島戦記』のキャラクター達は、皆その《立場》との葛藤の中を生きています。それだからこそ、そ
の登場人物は実に魅力的な存在となったのです。
人は完全に「個人」として社会に孤立して生きてはいないし、生きることはできません。「立場を越えた発
想」といえば聞こえはいい。しかし、人は、「個人」としては何程のこともできない人は、《立場》を必要とし
ます。
そして必要であるものには、それを保つための義務があります。その義務を果たしてこそ、人はその《立場》
を利用して、何事かを為すことができる。
「立場を越えた発想」というものはあり得ません。行われるべきなのは、「新たな立場の創造」でなければな
らないのです。
-5-
---物語の話に戻ります。
主人公は、パーンという青年。彼は、やがて「自由騎士」と呼ばれるようになります。あらゆる既存の《立
場》から自由であり続けた者であるがゆえに、です。
逆説的にいえば、パーンは、「自由」という最も難しい《立場》を生きたわけです。確かに人は「個人」とし
て単独では何程のこともできません。しかし、パーンは、様々な《立場》の「穴」を埋めることで、それらの
《立場》に捕らわれざるを得なかった人々に、その《立場》としての義務を果たしながら、その限界を超えさせ
ることを可能にしました。
パーンは常にジョーカーでした。あるいは、触媒といった方がより正確かもしれません。
彼は一人では、大したことでは出来ません。彼はよくあるファンタジーの主人公のような、一人で数百人を打
ち倒すような、人間を越えた化物ではありません。それどころか、一人の戦士として卓絶した存在ですらなく、
物語中、彼以上の戦士、つまり、純粋な「個人」としての力なら彼を凌駕する人物は何人もあらわれます。彼は
戦士として、どうしても勝ちたいと念じていたライバルに、結局勝てないままで終りさえします。
しかし、それにも関わらず、『ロードス島戦記』において、パーンというキャラクターの果たす役割は比類の
ないものであり、物語は彼と、そしてもう一人の人物を最大の原動力として展開します。
-6-
彼は常に、作中の世界における一つ一つの歴史の「主役」ではありませんでした。いつもパーンが関わる様々
な動きの「主役」は、「主役」となるべき《立場》を有する人物達だったのです。
まず、第一巻で語られる「英雄戦争」。パーンは、魔女カーラによって仕組まれた、二人の「英雄王」、
ファーンとベルドの対決による双方の死と王国の崩壊、混乱の時代の継続という劇の筋書きを(多少変更はさせ
ても)なぞったに過ぎません。
第一巻によって語られる「英雄戦争」の主役は、パーンではなく、カーラでもなく、カーラによって踊らされ
た二人の「英雄王」です。
第二巻で語られる、砂漠に住む対立する二つの部族の抗争と和解。それに関してもパーンはやはり主役ではあ
りません。
主役はあくまで対立する二つの部族の長、「傭兵王」カシューとナルディアです。両部族の和解は、カシュー
王の意志と、ナルディアの決断によって成りました。パーンが行ったのは、その下ごしらえです。
第三巻より語られる、アラニアの村々の自治独立運動、そして第三巻、四巻を通して語られる、「黒衣の将
軍」アシュラムの野望と、フレイム王国の興隆。それらについても、やはりパーンは主役ではありません。
前者は、独立を指導する「北の賢者」スレインが主役であり、後者の主役は、対立する二つの国の指導者、
「傭兵王」カシューであり、「黒衣の将軍」アシュラムです。パーンは、それらの主役への協力者に過ぎませ
ん。
第五巻によって語られる三つの王国の物語。「王たちの聖戦」という副題が示すように、この巻でおこる、三
国の復興は、その王たち、「神官王」エト、「竜公子」レドリック、「帰還王」レオナーです。パーンはいずれ
の場合にも、やはり彼らの協力者にとどまります。
そして、第六巻、七巻によって語られ、この物語のひとまずの幕引きとなる「邪神戦争」。これにいたって
は、パーンはほとんど舞台に登場さえしません。ここでの主役は、各国の王たちです。
-7-
---しかし、それにも関わらず読者は、この物語を動かしていたものが、パーンとカーラという、二人の「個
人」であることを感じるはずです。
カーラは、事態を動かす《立場》を持つ者、「〜〜王」とか「〜〜将軍」といった者を「駒」として操り、天
秤の均衡を保とうとします。それに対し、パーンはその「駒」を、「駒」でなくする。その《立場》の限界を超
えさせるのです。
いうならば、『ロードス島戦記』で行われたのは、「《立場》と《人》」の関係についての、異なる思想の間
の綱引でした。
カーラは、人は《立場》に勝てないと考えます。《ある《立場》におかれれば、人はかならずその状況にひき
ずられた行動をとる、人は《立場》の呪縛から逃れられない》―――カーラの行動は、《人の《立場》に対する
絶対的な弱さ》を前提にしています。
一方、パーンはその反対です。《人は《立場》に従いながらも、その限界を超えることができる》と考えま
す。人々が持つ《立場》、人々の「今」を完全に否定せず、そこから新しい《立場》を生み出せる、新しい《立
場》につなげていけると考えます。
-8-
話しが少し、逸れますが、『ロードス島戦記』のテーマは《立場と人》であると私は書きました。そのテーマ
は、違う言葉でいえば、《自由の意義》ともいえます。
「《立場》にとらわれない生き方」などというものを描いても、《自由》は描けません。《立場》というもの
を、拘束を描いてこそ、《自由》を描くことができるのです。
そして、ライトノベルの主な読者とは、「何者か」でありたいと思う一方、社会を構成する個性のない歯車に
なることは強烈に拒絶する存在です。そうした読者にとって、この《自由》を巡る問題は、切実なものとならざ
るを得ない。そうである筈です。
-9-
---話を戻して、「そのパーンとカーラに代表される、二つの思想の戦いはどうなったのか」という問題に帰
ります。
ここで、その問題について考えるには、もう一人の人物について見なければなりません。
それはスパークという人物です。彼は『ロードス島戦記』の最後の方であらわれ、パーンに変わり、主人公的
位置を占めるようになります。
---はじめて『ロードス島戦記』を読んだ時、私はこの「スパーク」というキャラクターが、もどかしくてい
らいらして、嫌いでした。「なんで作者はこんな奴をだして新しい話をはじめるんだ」、正直、そんな風に思い
ました。
しかし、しばらくして読み返した時、「スパークを書いて、はじめてパーンが書ききれたのだ」、と思うよう
になりました。また、「スパークのような人間が出てきて、はじめてパーンの、パーンの仲間達のやってきたこ
とが意味を持つのだ」、と。
---即ち、彼こそ新しい《立場》を創る者なのです。
-10-
『ロードス島戦記』の最後に、カーラは滅びました。これは、カーラの思想の敗北でもあります。
しかし、それはパーンの思想の勝利をすぐに意味するものではありません。
なぜなら、自由とは、それだけでは何物でもないからです。
---その上に何を築けるか。それを託されたのがスパークであり、そのスパークの物語が『新ロードス島戦
記』です。
このスパークの物語如何によって、パーンとカーラが代表する考えの対立は、この物語の中で、一つの決着を
見ることになるだろう---そんな予感と共に幕を閉じたのが、『ロードス島戦記』という物語でした。
その後に続けられた物語を含む、それ以降の水野良という作家の活動をどう評価するとしても、また、物語を
描き出す文章の格が、例えば『十二国記』等とは比べるべくもないものだとしても、『ロードス島戦記』という
作品の価値は、日本のライトノベルの歴史において燦然と輝くものであり、こうした企画には当然、一席を用意
されて然るべき存在ではないでしょうか。
-11-
良質なライトノベルとは、御伽噺の国への逃避の道具などではありません(※1)。
物語という形を持ってしか描けないことがある。あるいは物語という形でこそ、描きたいことがある。だから
こそ、生まれる物語があるのです。
『ロードス島戦記』の"剣と魔法の世界"、『第六大陸』の"月世界"という《世界》は、それぞれ、決してテー
マのための手段に過ぎないものではなく、長い年月と人々の想いで紡がれた独自の生命を持つものです。そし
て、それ故に、そうした世界を通してこそ描けるものがある。
---そこには、例えば『十三歳のハローワーク』などでは、決して及びもつかない力があるのです。
-12-
最後に、このコラムを投稿させて頂くきっかけとなった『第六大陸』論を寄稿された、冲方丁氏について、少
しばかり触れさせて頂きます。
その論の締めくくりとして、『マルドゥック・スクランブル』によって、ライトノベルというジャンルにおけ
る、最高・最良の旗手の一人となった冲方丁は、「果たしてライトノベルに、本当に職業が書けるのか――?」
という問いかけ発しています。
その直後に明示されているように、作家はその問いを、他の誰よりも自らに対して発したのでした。
ここで一言付け加えるならば、冲方丁は既に試みに着手しているのではないでしょうか?ただし、《職業》と
いう枠ではなく、私が『ロードス島戦記』で取り上げた、「《立場》と人」というもう一つ大きな枠組みの中
で、の話ですが。
冲方丁が素晴らしいパートナー・伊東真美と共に現在進行形で紡いでいる物語、『ピルグリム・イェー
ガー』。
"剣と魔法の世界"や"月世界"にも匹敵する、"イタリア・ルネッサンス"という魅惑的な世界を舞台に、数十人
という様々な《立場》を抱えた登場人物達が織り成すその物語は、その開始以来、私にとって、最も続きが待ち
遠しい作品の一つなのです。
---特に、第三巻・第七話のあのシーンは、夏目房之介の登場以降、急速に発展しつつある漫画評論の世界の
中で、現在の漫画表現の一つの頂点として、当然、大きく語られるべきもののように思えます。
以上。
※1
この定義における「良質でないライトノベル」の代表格としては、茅田砂胡『デルフィニア戦記』が挙げられ
るのではないでしょうか。
キャラクターに《立場》と人との葛藤が生じたとき、常にそれを嫌がって逃げ、作者が天より授ける無理矢理
な力で解決させてしまうあの作品は、「何者でもない」読者に向けられた作品として、最も大切にされるべき
《意志》が欠けているように思うのです。
▼プロフィール
斑猫
「蝸牛の翅」管理人(暫定再開中)。
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