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私小説化する男性一人称 東雲長閑

 最近、ライトノベルやその周辺で一人称が目立っていると感じたことは無いだろうか。昨年創刊された『ファウスト』執筆陣――舞城王太郎、佐藤友哉、西尾維新、滝本竜彦――に代表される作家達は、一人称を駆使して同時代に生きる若者の共感を呼んだ。また、一方で、『撲殺天使ドクロちゃん』や『銀盤カレイドスコープ』といった一人称小説も話題になった。しかしながら、戯言シリーズとドクロちゃんの一人称は決定的に異なっている。それは、前者の語り手が作者と同一視可能なのに対し、後者は作者と完全に解離している点だ。大塚英志が『物語の体操』の中で、作中のリアリティを「私」=作者であることに求める小説を「私小説」、作者から切断された仮構のキャラクターに求める小説を「キャラクター小説」と定義しているのを用いれば、前者の『ファウスト』執筆陣の様な一人称は私小説であり、後者の『撲殺天使ドクロちゃん』の様な小説はキャラクター小説であると言える。しかしながら、『ファウスト』の様な小説は、設定や世界観はキャラクター小説的な非現実的なものを採用しており、そこが従来の私小説とは大きく異なっている。
 ここで、ライトノベルとその周辺の主な一人称小説について、表にしてみる。語り手の列の「キャラ」と「私」は、語り手の思考がキャラクター小説寄りか私小説寄りかによって分類したもので、設定の欄は、世界観がほぼ現実世界そのままなものを「私」、現実とは解離しているものを「キャラ」と記載した。語り手が私小説の場合、作者の出身地が舞台に選ばれることが多いこと等々を基に判断したが、あらゆる小説は、キャラクター小説と私小説の混合物であり、二つに分類することは無理がある。例えば、語り手をキャラクター小説に分類した『銀盤カレイドスコープ』も、過 去の回想部等に、私小説的エピソードが顔を覗かせている。あくまで筆者の主観的分
類であることをご理解願いたい。下表から分かるのは、ライトノベルにおいて、徐々に私小説的な要素が混入してくる過程だ。


作品名 作者 発表年 語り手 設定
スレイヤーズ 神坂一 1989 キャラ キャラ
夏と花火と私の死体 乙一 1996 私? キャラ
気象精霊記 清水文化 1997 キャラ? キャラ
ブギーポップは笑わない 上遠野浩平 1998 私三人称 キャラ
*煙か土か食い物 舞城王太郎 2001 キャラ
*フリッカー式鏡公彦にうってつけの殺人 佐藤友哉 2001 キャラ
赤城山卓球場に歌声は響く 野村美月 2002 キャラ
クビキリサイクル 西尾維新 2002 キャラ
lastkiss 佐藤ケイ 2002 私?
毛布おばけと金曜日の階段 橋本紡 2002 私?
されど罪人は竜と踊る 浅井ラボ 2003 キャラ
七姫物語 高野和 2003 キャラ キャラ
撲殺天使ドクロちゃん おかゆまさき 2003 キャラ キャラ
銀盤カレイドスコープ 海原零 2003 キャラ
涼宮ハルヒの憂鬱 谷川流 2003 キャラ
*超人計画 滝本竜彦 2003 キャラ
しずるさんと偏屈な死者たち 上遠野浩平 2003 キャラ
ブラックナイトと薔薇の棘 田村登正 2003 キャラ
*蹴りたい背中 綿谷りさ 2003

*は狭義のライトノベルではない作品


 1989年に登場し、今なお人気の高い『スレイヤーズ』は100%のキャラクター小説である。作者の神坂一と語り手のリナ・インバースは完全に解離しており、その後の富士見ファンタジア文庫の流れを決定付けた。次に訪れたエポックメーキングは1998年の『ブギーポップは笑わない』である。ここで作者は同時代間に漂う、目的を喪失した虚無感のようなものを巧みに掬い上げて、読者の圧倒的支持を得た。しかしながら、『ブギーポップは笑わない』は三人称であり、作者と登場人物の間には一定の距離があった。それが、今世紀に入って相次いで、『フリッカー式』や『クビキリサイクル』等々の、作者の分身ともいうべき語り手が、一人称でじかに語る小説が登場した。『超人計画』に至っては、作者の分身どころか作者本人が登場し、赤裸々な心情が吐露される。この一連の流れを見ると、作者と語り手の距離がどんどん縮まっているのが分かる。そして、作者と語り手の距離が縮まるということは、読者と語り手の距離が縮まっているということでもある。この流れは何を意味しているのか。それは読者がライトノベルに求めるものの変化である。
 『スレイヤーズ』を読む時、我々はライトノベルを純粋な娯楽と考えており、読み終えると、「あー面白かった。」とつぶやいて現実世界に回帰する。一方、『超人計画』を読む時は、大げさに言えば、自分の人生を変える一冊になるかのような大いなる知見が得られたり、文学の新たなる地平が見られたりすることを期待したりと、単に面白い以上のものを期待している。このことから、『スレーヤーズ』より『超人計画』の方が読者にとってより切実な内容を含んでいると言うことも出来るが、逆に言えば、読者が、娯楽を娯楽として楽しめばそれで良いと考えられるような心の余裕を失っているとも考えられる。実際、ライトノベルの私小説化の過程は、日本経済が成功モデルを見失って迷走し、若年失業率が高まり、犯罪検挙率が下がって社会が余裕を失っていく過程と規を一にしている。
 それでは、何故、ファウストに代表されるような作家は、私小説を語る際に、従来のような現実そのままの世界ではなく、キャラクター小説的世界を舞台に据えたのだろうか。一つの要因としてはキャラクター小説的なものを作者、読者共に好んでおり、売れるから、ということが挙げられる。しかし、何人かの評者が指摘する通り、より本質的原因は、「作者がまさにライトノベル的な世界に生きている。」ことにある。ライトノベルの様なフィクションが生きがいである人は、まさに虚構世界と私の距離が接近した小説の語り手の様な生を生きていると言っても過言ではないだろう。
 表に挙げた、私小説的な語りとキャラクター小説的世界観を有する小説の内、野村美月以外の作家――ファウスト執筆陣、及び浅井ラボや谷川流――は全て男性である。また、成長物語の構造を持つ『卓球場シリーズ』は、世界を肯定的に描いているが、その他の作家の語り手は皆、社会にうまく適合出来ずに疎外感を感じており、世界を否定的に捉えている。
 キャラクター的世界観における私小説に関するこの二つの傾向――作者が男性で、語り手が自ら世界に対し否定的――が生じた原因は何であろうか。前者に関しては良く分からない。エヴァンゲリオンやギャルゲー、エロゲーの影響は当然あるだろうが、じゃあ何故、男性が、エヴァやエロゲーにはまったのかと問われれば、答えようがない。ただ、現段階において、男性が私小説的なものを好んでいるのに対し、女性がキャラクターを支持するという構図は、ライトノベルに留まらず、おたく的なもの全般に及んでいる様に見える。例えば、アニメーションにおいては、男性キャラクターが女性キャラクターを駆逐している。手元にある、2004年3月号の『アニメージュ』キャラクターベスト10では、トップ10を男性キャラクターが独占している。以前のリナ、さくら、ルリといった女性キャラクターの圧倒的強さを知る私としては隔世の感がある。一般的に、アニメファンは異性キャラクターを支持する傾向が強いので、少なくともおたくに関しては、男性よりは女性の方が、キャラクターを支持していると言えるだろう。このことは、単なる女性キャラクター人気からの揺り返しと見ることも出来るが、元来、女性の方が、対象から距離を取って楽しむ傾向が強く、やっとアニメーション市場が、女性おたくのニーズに合致した番組を投入しはじめたからだと見ることも出来る。女性のこの傾向は、作者や読者と作品世界が決定的に解離しているやおいものの人気によっても裏付けられる。ちなみに、芥川賞受賞作の『蹴りたい背中』はまさにこの男女の構図を描いた小説としても読める。
 第二の傾向、語り手が自ら世界に対し否定的であることの原因は明白である。フィクションの世界に生きていれば、現実世界と齟齬を生じるのは当然だからである。
(もしくは、現実世界と齟齬を生じているからフィクションの世界を必要としているとも言える。)しかしながら、自らと世界に対し否定的では楽しい人生が送れないので、肯定的に転換を図る必要がある。その方策は、三つある。
 第一の策は、やおい小説における読者の位置まで撤退し、自らの生とは切り離して小説を楽しむことで、多くのライトノベル読者は撤退するまでもなく、この位置に立っているだろうことは、2chで話題になる様なライトノベル(≒私小説的要素を含んだ小説)があまり売れていないことから分かる。
 第二の策は、現実世界をフィクション化することである。と言うと、大げさだが、要はフィクションに関する職業に就くとか、周囲の人間にライトノベルを喧伝するとかいうことで、『このライトノベルはすごい!』も第二の策の一種と言える。
 第三の策は、現状をあるがままに肯定することである。要は、「脳内彼女上等!」と開き直ることで、心理的抵抗が大きいのが難点である。『きみとぼくの壊れた世界』は結論に第三の策を据えた小説とも読むことが出来る。
 キャラクター的世界観における私小説語りの主人公達――いーちゃんはキョンはガユスは滝本竜彦はどうするのか目が離せない。
(文中敬称略)


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▼プロフィール

東雲 長閑(しののめ のどか)
東雲製作所管理人。
url : http://www1.ocn.ne.jp/~ktomura/shinonome.html