創 世 記
第8回  「蝶はここにはすめない!」





 愛と憎悪は裏表だと前回申しましたが、ファンのかたが「好きな相手」に対する感情というのはどうもそれの「極端な」やつに走り勝ちだ、というのが、「そういう季節」を一瞬とはいえ過ごしたわたくしめの正直な感想であります。
 松田聖子さんがトンカチで殴りかかられた事件とか、美空ひばりさまも硫酸をかけられた事件とか、もちろんジョン・レノン暗殺とか、なんか過去にもいろいろありましたが、いや、アイドルやスターのかたがたというのはほんとうにほんとうにたいへんだと思います。ひとの妄想をかきたてるのが宿命な商売なんだから、といえばそれまでですが。
 「スキ」なあまり、「自分だけのものにしておきたい」あまり、チヤホヤされているすがたをみたり、他人と親しげにしている姿をみると、激しい嫉妬や独占欲をかきたててしまう……ものなのでしょうか?

 いま思い出してもいちばんゾッとしたのは、「ファンレター」にまじって、なにやら分厚くフカフカしたデカめの封筒が届いたときのこと。「あーら、ひょっとしてTシャツとかでも送ってくださったのかしら?」とるんるん気分であけてみたら……わたくしめの本が……たしかおかみきの一冊めだったかと思いますが、メチャクチャに切り刻まれ、しかも、「灯油」か「ガソリン」のようなものをうかけられているのでした。その切り刻みかたがねぇ、また、「ハサミでやったな」ってはっきりわかるものなのですね。カッターとか、ムカシ学校によくあった「裁断機」とかそーゆーもんで「バッサリ」一発ならまだ判るんですけど……文庫って、ハサミで切ろうと思うと、けっこうたいへんですよお。ちからいります。根性もいります。手が痛くなりますよう。それをやって、ほんとにこまかくコナゴナに近くなるまでやりぬいて、しかも、なんだかわかんないけど「揮発性」のみょーな物体をかけた。それほどの「負のエネルギー」を、わたしのいったいなにが誘発してしまったのでしょう? ……中にはなんの「手紙」をはいってませんでしたが、「差出人」のとこには、住所とお名前が明記してあったんですが(それがほんとかどうかははかりしれませんが)これが、例の分厚い住所録を調べても見当たらないし、いくら考えても、ぜんぜんまったく少しも何にも、こころあたりがないんですねぇ。
 これにはさすがに強気のわたしも往生し、すぐに担当に電話をかけて、「こわいもんが届いちゃった、そっちに送りかえすから、そっちで処分して!」と頼みました。まんまんがいち、自宅のゴミ捨て場を「チェック」とかされて、その始末についてさらなる「おしおき」をされたんじゃあたまんない、と思った、……というか、正直「ほんまにこわかった」です。


 以来、「すまんが、わたしあてのレターは必ず開封して、ブキミなもんとか、いやなもんとか、わたしが見るとおちこみそうな悪口とかがハイってないか確認して、ないやつだけ送ってくれ。わたしに見せないほうがいいだろうと思うものは、そこで握りつぶして、そういうもんがあったということも、こっちには一切知らせないでくれ」と頼むようにしました。ズルですが。そうでもしないと自衛できませんですもん。なにしろ原稿の真っ最中とかに、いきなり落ち込んじゃったりしようもんなら、シメキリやぶりますから。

 もういっこ。それに比べると、「こわい度」は少ないといえば少ない、いや実は多かったのかもしれないのは、あれは、確かバレイタインデーだったでしょうか? それとも、ひょっとしてわたしの誕生日だったでしょうか? ある朝、早朝、六時ぐらいですかね、当時すんでいた下北沢のアパートのベルが「ぴんぐぽんぐー」と鳴ったのですね。

 ちなみに当時(大学を卒業して、例の修道院付属女子寮でも無事四年間のおツトメをツトメあげ)あっしが住んでたのは、一階がクリーニング屋さんで、二階と三階をアパートにしてひとに貸している、という状態のとこの三階で、道の向かいには「成徳学園」という、いま日本の女子バレーボールのエース少なくとも二名(木村沙織選手と、大山加奈選手)を輩出した名門校があったりなんかしました。月曜の朝とかは朝礼の「……まっすぐナラビナサーイ!」なんて拡声器罵声で否応なしに起こされてしまう、という健康的な環境だったです。駅から近かったし。
 その後、このクリーニング屋さんとアパートはファンションビルに立て替えられてしまった。
 このクリーニング屋で現役バリバリで働いていたじいちゃんつまりわたしにとっての「大家さん」は、時代劇にでできそうな日本男児というか、国粋主義者というか、国民の祝日になるとデカデカとヒノマルをかかげるかたで、わたしがモノカキだと知ると、「ちょっときなさい」とおウチにあげてくださって、すでに自決なさっておられた「ミシマユキオせんせい」の御ジキヒツ(額入り)をみせられたりとか、なかなかおもしろかったんですが(当時は、毎月、きまった日にお家賃を直接オオヤさんにワタシにいくシステムだったりもしたので、オオヤさんとタナコにはかなり交流があったわけですね)じいちゃんがヒマだと、ヤマトの国が世界の中でどんなに素晴らしいかについてなど、いっぱいかたっていただきました。たぶんビルが立替になったのはあのじいちゃんがおなくなりになったからだと思います。アーメン。じゃなかった。成仏してください。きっと靖国神社の英霊と、天国……じゃないのかな、エーと、極楽? で、「あの時ミッドウェーでうまくいってさえいれば……」とかって「タラレバ」の話でもりあがってるにちがいないと思います。

 そんなじいちゃんのオオヤさんがいて、なにしろじいちゃんですから朝が早い。きっとなんか急用に違いないと思って、あわててパジャマにドテラかなんかひっかけて、ドアをあけてみたら……


 知らない男の子がたってました。
 メチャ思いつめた目をして。
 じみーな、いかにも当時の「学生」というか、むしろ「浪人生」みたいな雰囲気の服装・髪型・ルックスのかただった、ということしか覚えてないです。
「………………。」
 無言で、差し出されたのは、花束だったか、なんかちいさなプレゼントの箱だったか。

 とにかく動転したわたしは、それをうけとり、「どうもありがとう、でも、すみません、まだ寝てたし、お化粧もしてないし……ごめんなさい!」とかなんとかいって、にっこり笑いながら、ドアをしめ……へなへなと腰を抜かしました。

 なんでだ? なんで住所がわかったんだ?

 なんと、恐るべきことに、その当時、小説ジュニアには「作家の現住所」が載ってたんですよお!
 作品のおしまいのほうの欄外に。
 すぐさま厳重抗議しましたけどね。
おかげさまで、以後、作家へのおたよりは編集部気付にするように、というふうになりましたが。

 直接ジタクに(事前の連絡なく)おしかけてきたのはそのひとだけでしたが……その程度のことですんでラッキーだったと思いません?

 これらのことがらに比べると、たとえば最近どっかでバッタリ知り合うひととか、たまさか予約をいれたオーベルジュ(宿泊施設)の予約担当のひとが「ムカシ、ファンだったですー!」っていうのなんてのにはもう耐性がつきました。
 ムカシってどうよ?
 わたしはいまでも現役なのよ!
 そう叫びたいキモチは、いまではちっこい丸い石になって、トゲトゲのところも丸くなり、胃の底のほうに落ち着いております。
 みなさん、「ムカシ」好きだった作家にあっても、「ムカシ」スキだったとはおっしゃらないほうがいいですよ。せめて「これこれという作品がすっごくすきです」にしてあげてください。過去形はやめてあげてください。あなたが思う以上に相手は傷つきますから。それはそれはグッサリと。


 さて、例によって例のごとく、いかにもババアのくりごとらしく、ハナシは時系列をあっちいったりこっちきたりするわけですが、ここでいちおう事実をおさらいしなおしておきましょう。

 実はわたしは大学を卒業するまではほとんどモノカキらしいシゴトはしてなかったのです。

 だって、上智、キビシイんだもんっっっ!
 素子は立教に試験の時しかいかなったそうですが(誇張かもしれませんが)上智は、(先生にもよりますが)三回欠席したらその単位は落ちました。おまけに哲学科は総勢40人たらずの「ちいさい所帯」で、誰かがいないとすぐにバレます。在学中は、わたし、試験にオチないのに必死で、原稿なんてそんなに書いてられなかった。なぜなら、わたしは「推薦入試」でいれてもらってたので、わたしがフマジメな生徒であることを示してしまうと、そのせいで出身高校の推薦枠(当時は四人でした)が減らされるといわれていたからです。ウワサかもしれませんが。しょうがないので、とにかくマジメな学生をやるしかなかった。
 ちなみにわたしは大学2年生の時、成績、オールAでした。あとちょっとのところでクラスの「総代」をとりそこねたのです。総代になったのはトミザワくんというひとで、ちなみにカレはのちに新潮社に入社し! 新潮45の編集長とかをやってたらしいですが、シゴト上ではあったことがありません。同じオールAだったのになぜトミザワがわたしより「エライ」ことにされたかというと、もちろんわたしが「楽勝」の授業ばっかりとっていたからです。より、程度の高い、難しい授業コマで、優秀な成績をとりやがったトミザワの勝ちだったんですね。くやしいなぁ。
 ちなみにちなみに、一年生の時にはとなりのこの答案をまるうつしにしてなんとか落第をまぬがれていたわたしがなぜ二年生になって(あの厳しいドイツ語原書購読もあるのに)急にAがとれるようになったかというと、それは「原書購読」だったからこそ、です。つまりですね、文法とか、このカッコの中にはいる単語はなに? とか、この単語の過去形と過去分詞形はなに? とか、そーゆーのは超ニガテなんです。そんなことオボエられん。しかし、わたしには一種の「特殊な」才能があったのですね。それは「一行に三つぐらい見たこともない単語が出てきて、まるでチンプンカンプンな文章でも、かすかな部分と全体のナガレがなんとなくわかると、内容がなんとなく推理できる」という才能でした。ちなみに二年生になると試験に辞書もちこみ可でしたし。わたしはドイツ語はほとんどまったく読めないし理解できないのですが、「日本語力」というかたぶん、さまざまな言語の根底にある「汎語学構造の理解力」みたいなもんはたぶんイジョーに高いんですね。なにせほら、転校生ですから。ものごころついた時から、南部弁と標準語のバイリンガルだったから(笑)。よって、「これこれの文章を訳しなさい」などという試験(二年生になるとほとんどがソレでした)で、何行も何行も何行もどこまでいってもキレメのないおまけに単語同士がダンゴのようにくっついて熟語みたいになる性質をもったドイツ語(←これと、動詞の変化のせいで、辞書ひいても乗ってないモンが山ほど)であっても、「うーん、たぶんだいたいこんな話だろう」って空想して、日本語としてツジツマがあうような文章をデッチあげてかいてみると、なんとそれが「大半あたってた」んですね。

小室みつ子
作詞家・小説家。「TM NETWORK」「鈴木あみ」など数多くの作詞を担当する。「西門加里」名義で作詞していたことも。
公式 : miccos.com

 後年、たとえばイタリア語ぺらぺらの小室みつ子ちゃんにつれてってもらって北イタリアを旅したときに、この「なぜか正解に到達する自動翻訳機能」がすごい威力を発揮しました。ある駅で、みっこがタバコを取り出そうとした瞬間、いきなり、壁に描かれている文字が目にとびこんできて「ねーみっこ、あそこに、ノンフマーレ、ってかいてあるんだけど、あれなに?」「禁煙!」ぽろりとタバコを落とすみっこ。「なんでわかるのおー!」「しらん。なんか目にとびこんできた」。みっこと、旅先のひとがしゃべってるのをボーッときいていると、だんだん「何の話をしているかなんとなくわかってくる」。で、みっこが、たまさか知らない小難しい単語を連発する相手に困った顔してクビをひねりだすと、「あっちにゲーテのお墓があるけど、みにいきたいか、とかなんとかいってるんじゃないかと思うんだけど」とかいって、「そうだわ! それならハナシがつながる。なんであんたにわかるのよお!」と驚嘆されたりしましたです。


 ジマンたらしくてすみません。
 しかし、わたしは「人間の言語」には大モトのネッコに巨大な共通項があると思います。
 そもそも人間はコトバというものを手にいれて、思ってることをコトバのかたちで伝える機能を発達させました。しかし、動物はふつうあんまり便利なコトバを持ってません。持ってませんが、じゃあ群れ動物などは互いにどうやってコミニュケートしているのかというと、「身体言語」です。フェロモンとかも使います。
 大別すると、人類は、「言うほう」に比重を置き、その他生物は「読み取るほう、感じ取るほう」に比重を置いたわけです。
 人類の中でも、「フロ」「メシ」「ネル」とかしか言わないような旦那さんを持ってしまった奥さんなんていうのは、「コトバで示されないさまざまなデータを読み取るほう」を発達させただろうと推論できます。
 外国いって、コトバが通じなくてもなんとなくうまいことやっていけるひとっていうのは、この「読み取り能力」がたぶん大きい。人間同士、どーしてもいいたいことがありゃー、なんとかかんとか通じるもんです。絵描いて示してもいいし、ジェスチャーしてもいい。相手が「こいつは喋りは幼稚園児なみなんだなと判断してくれて、簡単な二者択一つまり「はい」「いいえ」で答えられる質問だけをしてくれたりすると、必要な要件に関しては十分みごとに通じたりします。
 ところが、普段から、自分が言いたいことを言うことばかりに集中しているひと、自分がなんかいったら他人はそれを「聞くもんだ、聞いて理解して、従うもんだ」と思い込んでいたりすると、他人が無言のままほんとは何を感じているかを察する力、弱いんですね。
 身体言語やカオの表情、ことばの抑揚などを含めた「言語のニュアンス」そのものを微妙に感知する能力に関しては、ムゴイほど、差があると。母国語がなにであれ、それの得意なひととそーでないひとがある。
 これが「場がよめる」とかそーゆーことにたぶん関係ありますね。
 読み取り能力が基本OSとして常に動いているわたしは、犬猫の表明している感情はほぼわかりますよ。逐語訳はできないけど。ヘビの気分もカメの気分もわかります。プレーリードッグは……なにをかんがえてるのかわからないというより、たぶん、なにも考えていないんだと思います。うちの猛禽類の気分も(波多野ほどじゃないですが)わりとわかるつもり。
 テレビの動物番組とかで、勝手なナレーションつけてるじゃないですか、よく、「ライオンの赤ちゃんは勇気を出しておかあさんをさがしにいきました」みたいな。「ちゃうやん!」とうちの二名はよくツッコミをいれております。「勝手に擬人化してウソつくなー!」と。

浅葉未来・西在家朱海
『丘の家のミッキー』の主人公。

 とはいえ、言語力というのは、コトバを商売道具にしてシゴトをする以上、そりゃあ磨きに磨いておくにこしたことはないもの。イザというときにサッと抜いて勝負ができるよう、いつもカタナの手入れをシテオカナアカン、ようなものですね。ふさわしいジンブツがふさわしいときに口にするべきことばの「ストック」つまり「語彙」を増やしておくためには、ようするに、先達の(まがいものでない)作品を山ほど見て聞いて味わって、しっかり血肉にしておく必要がある。あるいは、「ほんとうの名前」は魔法である、と魔法方面ではいつも言う(笑)。ふさわしいジンブツにはふさわしい名前をつけなければ、そいつはそいつになれないのです。浅葉未来はアサバミクだったからああいうやつだったんで、西在家朱海くんはニシザイケアケミくんだったから、ああいうやつになった。フュンフはフュンフ(「5」という意味)なのでふだんはボーッと末っ子のフュンフなんだけど、必要なときには本名「ケイオス・デュレント・ペンドラゴン」としてふるまう。ちなみにケイオスはもちろん「カオス」ですね。ドラクエもんでも、あっしは既にきまってしまっているキャラはしょうがないので、せめて主人公には、「いかめしい」名前つけたりとかしてますです。ちっちゃなこどもの時には「リュカ」と呼ばれているけれども、実は(当初は本人も知らないけど、大国の王子さまであとつぎなので)リュケイロム・エル・ケル・グランバニア、なんつー、ごたいそーな名前をもってたりするわけです。ほんと、名前はとってもとっても大事ですよ。


 時系列のおさらいをするはずがなんでこうなるんだ。
 えーと。
 大学卒業しました。修道院付属女子寮も出ていかなきゃならないことになりました。
 22歳です。
 ほんとは、親は、盛岡にかえってこいとゆーたのです。
 しかし、かえっちゃうとねー、ぜったいマジで書かなくなるな、と思った。
 シゴトしてる、勝負しているじぶんというのは、すでに、高校生までのわたし、親に「わたし」としてみせていたわたしとちびっとズレてる。親元にかえってしまうということは、そのズレを、じぶんでビミョーにつかいわけながら生きてかなきゃいけないってことで、それはどうもHP MPを激しく消費しそうである。
 しかも、なにしろ集英社は一ツ橋にある。チンピラ作家は、なにかというと、呼び出されます。呼び出された時にホイホイ、とでかけていけないと、ちっちゃなシゴトでももらえない。ちっちゃなシゴトというのは、ホラ、例の「愛の告白体験記」とかそういうののデッチあげとか、そーゆーこと。あと、新人賞のシタヨミ。一本読むと(当時)1500円だったかなぁ。すっっっごいありがたかったですよ。
 なにしろ、
 プロデビュー一年目のわたしのモノカキ収入は……30万円ぐらい
         二年めが                 70万円ぐらい でしたから。
         三年目からよーやく、三桁万円になんとかなった。
 これじゃ、バイトでもしないと、東京でひとりぐらしはできゃしません。

 残りたい、就職しないで、小説家でやっていけるかどうか勝負してみたい、と申しますと、親はもちろんイイカオしませんでした。
 そこで「三年。三年まってくれ。三年の間に、ヤチンが払えなくなるとかなんとかで、助けをもとめたら、そっこーで盛岡にかえって、見合いでもなんでもする。とりあえず、猶予をくれー!」と頼み込んだのでした。


(C)集英社
「ガラスのスニーカー」
著 久美佐織


 幸いにも、その三年はコバルトが極端な右肩上がりの成長をやっている時で、わたしもかすかなながらオコボレにあずかって、毎月7万円ほどのヤチンを払い、光熱費を払っていくことができたのでした。まだ文庫は二冊かそこらしか出てなくて、ぜんぜんまったく無名だったですけど。ほら、学研でバイトしたりとか。
 ただ、『ガラスのスニーカー』を書いて、それが文庫になったことで、突然音羽方面からハナシがきたんですね。ガラスニは、マジメイッポウでみなりにかまわなかった女の子が、突如、美容とかお化粧とかにめざめて、ふたりのオトコをテダマにとりながら? 出世していく、みたいな、わらしべ長者みたいなハナシだったんですが、これが、とある女性編集者の目にとまった。
 こんどうちで『Be Love』というレディスコミック(←革新的でした。少女マンガ以外の女性マンガの嚆矢といっていいでしょう)雑誌を創刊するんだけど、それに、なんか笑えるエッセイみたいなのかかない? 毎月、みひらき2ページで。






藤臣柊子
漫画化。別冊フレンドから少女マンガ家としてデビュー。後にギャグ漫画を描くようになり、エッセイ漫画や文字のエッセイを書き好評を得る。
公式 : www.fujiomi.com

 はいはーい! とひきうけたわたしは、その頃からナカヨシになっていた(パーティーでみかけてヒトメボレした。前からそのひとのマンガはカッコいいとおもっていてペンネームを覚えていて、ちかくのひとに「あのカワイイの、誰?」ときいたらフジオミシュウコさんよ、といわれて、猛ダッシュでかけていって「おともだちになってください!」と頼んだのであった)柊子といっしょに、アホアホエッセイ『やだ! はずかしい』の連載を開始することになるのです。いやーたのしかったです。毎月好きなだけヨタをかいてたんですから。柊子のマンガもかわいかったし。んで、うちあわせと称して、ビーラブの担当女性「甲斐さん」とその部下の男性と四人で六本木はイモ洗い坂のとあるカラオケ屋にくりだしては、歌いまくって騒ぎまくっていたのでした。バブルのはじまりのころだしねぇ。ちなみにそのカラオケ屋さん(正確にいえば、バー)のもうひとくみの常連さんが中央競馬会さまつまりJRA(ジャパン・レッド・アーミーと読んではいけない)で、いっつも背広すがたのなんだかオカネモチそうなかっこいいおにいさんたちがいて、わしらアホなふたりぐみが「ながさきぃんわー、きぉおおもぉぉぉぉ、あ、め、えだぁたぁぁぁぁ(←柊子のもちうた)」とをやるとヤンヤと喜んでくださったものだったりします。のち、ていうか去年、柊子があたらしくなった府中競馬場の案内小冊子の取材と絵を担当したりしたのもなんつーか、遠い遠い縁なんでしょうか?

 ちょっとまて。音羽には縁がなかったはずではないのか?
 はいすみません。うそつきました。っーつか、「小説」書かなければそんなに問題にはならなかった。さすがに、いちいち「音羽方面からこういう依頼がきたんですけど、ウケてもいいですか?」ときかなければならないほどの「力関係」ではなかったですから。






大原まり子
SF作家。『ハイブリッド・チャイルド』(星雲賞)など文学賞の受賞作があまりに多い。日本SF作家クラブ会長を1999年9月から2年間つとめる。
公式 : アクアプラネット

 楽しかったですー、ビーラブ時代。なにしろレディコミのはじめみたいなもんだったので、いろんなことがありました。沖縄旅行(ご優待サービス価格)の企画がもちあがったのにヒトがあつまんないんだよーといわれて、すかさず、「なかま」をつのってでかけていったり。そうそう、このとき、おーちゃん大原まり子ちゃんもいっしょにいってるんだよな。しかし、ビーラブの編集長がかわったら、わしらのページは「クビ」になってしまって、終わってしまいました。一冊にまとめられないこともない分量はあったのですが、需要がなかったのか、単行本化のハナシはまっっっったくありませんでした。わりと面白いことやってたとおもうんだけどな。ちゃんと「毎回のそのページ」はきりとってとってあるので、もしかしたらそのうちサイトかなんかで紹介しますよ。なにせハナシが古いので、笑ってもらえるかどうかわかんないけど。
 そうだ。あんなに楽しかったのは、甲斐さんが「おねえさん」だったからだと思う。わしらよりたぶん五つかそのぐらい上だっただけだと思う。おとうさん年代の担当しか知らなかったわしらは、ようやく、「じぶんたち」にかなり近い、それでいて自分たちよりちょびっと「世間知や社会性」のある司令塔を手にいれたわけですよ。そりゃー、新鮮な感覚でしたね。

 で……。
 下北沢。
 なぜシモキタに住むことになったというと、これがまったくもって「神のお導き」としかいえないのです。母の大親友「恵子ママ」とその旦那さま(コドモナシ)がシモキタに住んでた! ただそれだけが理由だった。よーするに母としては、鉄砲玉で、爆弾ムスメなこのワタシが、あまりにアホなことをしでかさないように、恵子ママのナワバリにおいておいて、なにか困ったことがあったらすぐにいけ、「時々、恵子ママのところでゴハンも食べさせてもらいなさい」などと指令したのでした。
 わたしはちっちゃいころから「イキ」で「カッコいい」恵子ママがダイスキでダイスキで、恵子ママの旦那さまだったマツシマノオジチャマもダイスキでダイスキで、ですから「恵子ママのそばにいろ」という指令には、逆らうつもりはまったくありませんでした。
 シモキタの不動産価格が、周辺より「ちょびっと高く」ても、だからそれはもうオッケイでした。
 不動産やさんについてきてくれて、例のクリーニング屋さんの上のアパートを一緒にさがしてくれたのも恵子ママです。
 恵子ママと旦那様は、何年かアメリカにすんでたことがあって、おうちはモダンだしかっこいいし、それに「おとな」っぽかった。コドモのないご夫妻なので、家の雰囲気が、コドモのいるそれとはぜんぜんちがうのね。「ディナー」の時に、ちょっとお酒を飲むことも、恵子ママのうちで覚えた。ふつうようのトイレと来客用のトイレが別々になるおうちも、そこではじめてみた。
 そして
 下北沢には、なんと、パラレルクリエーションがあったのです。

豊田有恒
SF界の重鎮。数多くのSFアニメにも携わる。日本SF作家クラブ会長を歴任。古代史を中心とした著作も多い。
関連 : 豊田有恒先生のページ



星敬
SF研究家。在学中より豊田有恒氏に師事。ジュニア小説界にも造詣が深く、ファンタジーロマン大賞第1回〜第4回の選考委員を担当。



岬兄悟
SF作家。「頭上の脅威」でデビュー。長編、短編、ショート・ショートなどの他に、パソコン関係のエッセイ本や編纂集など著作多数。奥様は大原まり子氏。
公式 : ALBATROSS



火浦功
SF作家。「瘤弁慶二〇〇一」でデビュー。ご本人が「すちゃらか小説」と銘打つ軽妙な文体とユーモアで人気を集め、狂信的なファンを生んでいる。



ゆうきまさみ
漫画家。『究極超人あ〜る』、『機動警察パトレイバー』などで人気を博す。近刊に『鉄腕バーディー』『ゆうきまさみのはてしない物語』がある。



出淵裕 デザイナー、監督。『機動戦士ガンダム逆襲のシャア』のメカデザインなど多数手がける。『ラーゼフォン』を世に送り出すなど幅広く活躍。

 パラクリについてはだいぶ前にちらっと書きました。
 ごくごく大雑把にいうと、地元の(実はシモキタではなく東北沢にお住いなのですが)豊田有恒せんせいが、若手SF作家たちに、互いに協力しあったり競争しあったりするような場を提供しよう! とおつくりになられた場所だったのです。コピー機とか、ゲーム機とか、その当時「出現したて」のハイテク器材も、いち早くそこでさわることができました。
 パラクリに所属していたメンツ、出入りしていたメンツを、おもいつくままにあげると、星敬さん、岬兄悟さん、火浦功さん、とりみきさん、ゆうきまさみさん、コマケンつまり小松左京研究会の面々、特撮関係の面々、SF関係各誌の編集部のかたがた……、そして豊田さんちの奥さん「チャコ」さんはじめてムスコさんたちムスメさんたちと、大原まり子姫。
 パラクリのあるマンションの別の部屋には、いつの間にかブッちゃんこと出淵裕さんが住んでて、そこにいくと、LDのキカイと、すごい名作映画のコレクションがありました。「肉弾」も「クラッシャー・ジョー」も、そしてあの「ビューティフルドリーマー」も、わたしはブッちゃんに借りてきて生まれてはじめて見ました。
 そのパラクリは、なんと下北沢駅から、ウチに向かう「途中」にあったのです。
 小田急線のほうの改札を出て、みずほ銀行の横のサカミチをのぼり(その左手側にあったすっごい美味しいシチュー屋さん「伊万里」いまもあるかなぁ)京王線側の線路ぞいに歩いて、フミキリのところで直角におれる。そのへんのマンションに、とりさんが住んでて、でも、むしろ、そこからまっすぐ進む「アナミラ」のほうに、他の誰かといっしょにいるのをよく見かけたなぁ。とりさんのマンガ俳優で有名な田北さんのおられるブックスオリーブをすぎ、田川寿司(よくおせわになったなぁ)のあたりのカドをほんのちょっとミギにはいって、ちょっっといくとパラクリ。その折れるとこをおれずに、まっすぐ二分歩くと、ウチ。
 ちかいでしょーーー!





鹿野司
サイエンスライター。SF、コンピュータ関連について鋭い指摘を行い、絶大な信頼を勝ち得ている。

 同世代作家があんまりオオゼイいない……と思っていたそのさなか、わたしはここでいきなり、ものすごいオオゼイの「同世代」にあってしまったわけですね。そんなにうんといりびたっていたわけじゃなかったけど……「科学者」鹿野司さんにパソコンをおそわったり、シモキタじゅうのオコノミ屋さんを制覇したり、いろいろやったなぁ。ついに辛抱たまらなくなって富士通FM'7を買い、ぴー、ぴぷー、ぷるるるる……と「データレコーダ(という名のカセットテープレコーダー)」のつぶやきを五分ばかりきいてから、「なんとかBEE」という、ひたすら蜂を打ち落とすというゲームなどに熱中、おーちゃんをつれてきてそれをさせて彼女もパソコン道にひきこんでしまったり、シモキタでいっしょに飲んでたハヤカワ(当時)の加藤(いまはコンプティークかな)と、まったく同い年であるばかりか、まったく同じ甲斐バンドの武道館コンサートで、わたしは観客、カレは「バイトのガードマンつまり客を押し返す係」をやっていたことを知っておもわず感動で抱き合ってしまったり、♪ヒーロー、ヒーローになるとき、アーハー、それはいまー! と、アパートの隣のひとから文句つけられそうな声でうたいまくったりしたなぁ。そしてわたしらは語り合いました。おれたちはまだまだ路地裏のチンピラ(「路地裏の少年」! ハマショー浜田省吾さまもだいだいだいだいだいすきだったですー!)さ。でも、あすはヒノキになろう。あすなろう! ……アー恥ずかしい、キタガワエリコじゃあるまいし。
 ま、青春ってやつが、そこにはあったわけっすね。

 で、ですね。
 禁じられていたはずの「他社でのシゴト」にわたしはとうとう手を出してしまったのです。
 それは、あの憧れの『SFマガジン』でした。






「愛に時間を」
著 ロバート・A・ハインライン
早川書房 (1984)




(C)東京創元社 1969
「異星の客」
著 ロバート・A・ハインライン
→bk1 →ama →楽天

 『SFマガジン』との出会いは、中学生の頃で、マタイトコにあたる親戚の男子シンちゃんの家にハハオヤにつれられてアソビにいったらそいつの本棚にそれがズラーっとならんでいて、「こんなおとなっぽい本をよんでるのか!」と驚いた、というのが最初でした。
 で、前にもいったけど、高校生の頃には、別のいとこの本棚から、『愛に時間を』とか『異星の客』とか『アルジャーノンに花束を』とかを借りてきては、せっせと読んでいた。

 ……すごい……!

 というのが、まだアマチュアで、ウブだったわたしの、ナマの感想です。
 そーいえば、もっとちっちゃいころには、メアリーポピンズとか、ナルニアとか、ドリトル先生とかすきだったわけです。それはSFというよりはどっちかというと「ファンタジー」ですけども、ようするに「いわゆる中間小説以外」ということでいえば、いっしょ。


 でね。コバルトには、素子ちゃんがいたでしょ。
 そこで競いたくなかったのね。
 もし、SFとかファンタジーをかくのなら、ハヤカワで書きたい。
 いつしか、そう思うようになっていたのです。
 なぜなら……前の回でかいたように……コバルトの読者には、わたしが「サイコーだ」と思うようなタイプの小説はたぶんウケないだろう、と、容易に予測がついたからです。








あけめやみ
『あけめやみ・とじめやみ』

著 久美沙織
→ama

 幸いにも、コバルト編集部は、SFマガジンに短編を発表することに関しては、まったくぜんぜんなんにも関与してきませんでした。
 「どーでもいい」と思ってたみたいです。
 そこでかいたわたしの作品が、あきらかにコバルト向けでなかった、ということもあったでしょう。
 その頃あっしがかいたもんは『あけめやみ・とじめやみ』ハヤカワJAで読めますんで、よかったらよんでくだせぇ。すげぇワカガキで恥ずかしいけど、「理想」とする、「こんなのやりたい」を、けんめいにやってたりするニオイは感じていただけるのではないかと思います。

 でも、自信、まるでなかったんです。
 だってさぁ。50年代SFって、名作の宝庫なのよ。そりゃもう、すごいのなんのって。
 アシモフさまひとりだってすごいのに、ハインラインさま(←やや軍事系すぎるけど)だけだってすごいのに、それからまたどんどこどんどこもっともっとすごいかたが出てくるのよ。
 ハードルが高すぎる……
 こんなスゴイものはわたしにはとてもかけない……
 だって科学的知識もないし、歴史とか、文化とか、わかんないし……
 こんな「すごいもの」を読んできた読者のかたにむけて、かけるものなんて、ない……。

 なにしろ……平成版おかみきのほうで説明したように、6巻に対する読者の評価が、わたしをどん底までうちのめしてました。
 わたしが「ヨカレ」と思ってやることを「ゆるせない」と感じる読者が(少なくともその意見を表明するためにわざわざ手紙をかいてくるひとたちの中には)あまりにも多かったのです。
 まさかそんな反応がかえってくるとは、思ってもみなかった。
 わたしは、じぶんが、「いまのコバルトの読者のこのみ」からだんだん離れてしまっていることをヒシヒシと感じずにいられなかった。
 もう一度、あくまで読者ウケする方向に軌道修正することはできなくはない。
 そのぐらいの器用さはある。
 でも……わたしはほんとうにそうしたいのだろうか?……???
 どんなに読者が少なくても(SFマガジンとコバルトの読者の差はケタで違ってたと思います)ほんとうにじぶんがやりたいことをやるほうがシアワセなんじゃないだろうか?
 でもヤチンが払えなくなったらどうしよう?

 三年間に一度でもムシンしてしまったら、盛岡にかえってお見合いかもしれない!
(ムンクのポーズ)

 見合い。
 そう。およそわたしなんかに見合いなんかさせたってろくなことにならないことはわかりきってると思うんですけど、一度だけ、ハナシがきたことあったんですね。寮にいたころですよ。20になる前じゃなかったっすかね。
 歯医者さんだったかなぁ。オカネモチっぽかったですよ。わたしはカオもしらないす。
 で、そのあいては、わたくしめの写真をみ、「かけだしの小説家だ」ということをきくと、おっしゃったそうです。
「ああ、文学ですか。上品なよいシュミですね。ぼくは反対しませんよ。家事のじゃまにならないていどなら、続けてもらってもかまわない」
 電話でこの伝言をきいたわたしは、うっかりそれをミミにしてしまったシスターたちが思わずカオをあおざめさせ、十字を切るようなタンカをきって電話をたたきつけ、仰天するみんなにガンをとばしながら、ついでにあたりじゅうのものを蹴飛ばしながら、イカリの咆哮をあげましたね。

 いまだにその時のハラワタの煮えくり返るような感情を思い出しますね。
 世の中には傲慢なやつがいっぱいいるとはしってましたが、めんとむかって(ではなくて伝言なんだけど)イッコの人格に対してこんな失礼なことを平気でいってなんらじぶんでは悪気のないつもりだっつーのに、ほんきで自殺しようかと思うほど絶望しましたね。

 あんたにとっては「オレの内助の功をチャンとつとめて家事の片手間にやってるぐらいならいいシュミ」かもしれないけど、これはわたしには、じぶんそのもの、人生そのものなのよ!
 こんなやろうをオットと呼んで暮らさねばならないぐらいなら、わたしはミカン箱で四畳半でひとりぼっちでもモノカキをつづけてやる!
 そう思いましたね。

 というわけで、「見合い」というコトバはわたしにはほとんどトラウマというか、前門の虎後門の狼天に怒りの天使軍勢地には血に飢えた死神の山、という、最悪の状況そのものをさすのでした。


 のち、ドラクエシリーズで、何度も「世界を救うため、悪の大王と戦う」経験をイヤというほど積んだわたしですが、そのたびに「勇者」になりきり、「勇者」に憑依されたような状態になっていましたが、それは、たしかに苦しかったけど、ものすげー喜びでもありました。そーゆーふーにうまれちゃったんだからしょうがねーす。

 おとなしく、ふつーの「きちんとしたおうち」の奥様におさまる。
 これは、わたしには、まったくぜったい「ありえない」そんなになって、平穏という名のぬるま湯の日常をなんら生産性のないルーティーンな家事だけをソツなくこなしながら生きていくぐらいなら、とっとと舌かんで死にたいのでした。

 じぶんのやりたいシゴトはしたい。
 でも最低限生活できるだけのカネは儲けなきゃならない。
 そして……手書き原稿はワープロになり、じーこらじーこら一行ずつ出していて一冊分にほとんど一晩かかるプリンタは、「うおーはええ!」なレーザープリンターになり(50万円しました)やがてインターネットな世の中になっていくのです。
 ただお話を書いて、ゲンコウのかたちにして、編集さんに手渡すためだけにも「投資」が、それもどんどん新しい「投資」が必要な時代がやってきつつありました。



大森望

翻訳家・評論家。元は新潮社文庫編集部に勤務、久美沙織氏の担当編集。多くの文学賞専攻にも関わる。
公式 : 大森望のSFページ



糸井重里
コピーライター、エッセイスト。「東京糸井重里事務所」代表。活動多彩、著作多数。
公式 : ほぼ日刊イトイ新聞



糸井重里さんがゲーム…

『MOTHER』のこと。敵を殺さない、などの新機軸で評判なった。



mother
『MOTHER』

著 久美沙織
新潮社 (1989)

→ama



綿の惑
『綿の国星』
著 大島弓子
→bk1 →ama →楽天

 いったいわたしはどうしたらいいの。
 さめざめ泣いていたそんなある日……わしの守護天使その1である大森望先生が、「糸井重里さんがゲームつくるんだけど、ノベライズやらない?」と声をかけてくださった。
 そしてそのすこしあと……わたしの守護天使2……おかみきシリーズという超ヒットを助けてくれもしたあのめるへんめーかーが、電話をかけてきた。
「ねーくみさん、ドラクエってしってるー?」
「……名前だけはしってるけど……やったことねぇ」
「こんど、Vが出たんだけど、すっごいおもしろいんだよ。ぜったいぜったいやったほうがいいよ」

 Vをプレイし、感動のあまりひっくりかえったわたしは、めるちゃんとヤベヤベという名のとある編集とともにエニックス(当時。小滝橋通り……いまハングルとか謎のタイ文字とかでみちあふれてるあそこです……の裏通りにあった)をおとずれ、ドラクエダイスキ本みたいなのを書かせてくれないかと頼み……ことわられます。ドラクエは、キャラなどの著作権問題が複雑で、そーかんたんにかってなことをされてはこまると。でも……ワタナベくんは……守護天使3です……わたしの『MOTHER』を読んでくれてました。
「ドラクエ本編そのものではなく、聖霊ルビスの少女時代の番外編みたいなのを、かいてみませんか?」
 きっとあの時ワタナベは、ちょっとした短編のことを考えていたのだと思うのですが。

 ついにわたしは、「ファンタジー」の扉にムンズととりついたのです。
 『綿の国星』だったかと思いますが、作家のおとうさんが構想を得るとき、いかにもおもたそーなまっくろでとりつくしまもなさそうな扉を全力でおして、ギギギーとおして、そこにスキマができて、ワズカな光がさしてくるシーンがあります。
 まさにあれでした。
 腕が折れてもいい。
 むこうがわの光に目がくらんでもいい。
 途中で「ごめんなさい、できませんでした」ってあやまってもいい。まさかイノチまではとられないだろう。
 とにかくやってみよう!
 おもたいおもたいおもたい扉を、わたしは押し始めました。
 ゆっくりと。それから、ぐいぐいと。そして、ちからまかせに。


原稿受取日 2004.3.31
公開日 2004.5.3
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