創 世 記
第12回  「残酷なフォワードのテーゼ」




SF大会
SFファンにより開催されるSF祭で、全国からプロ・アマが集結する。1962年から毎年各地持ち回りで行われている。2004年第43回愛称「G‐con」は岐阜県にて8月21〜22日に開催される。
公式:第43回日本SF大会G-con

 SF大会というものをあなたは知っているだろうか?
 わたしはいつの頃からか、都合がつくときには参加するようにしている。一緒にいってくれる旦那さんがいるからでもあるけれども。あんまり遠くで、犬猫を何日も預けなきゃならないような時にはムリなので、企画に文章だけ参加などしていたりする。

 SF大会?
 うわー、クサそー。
 それってコミケみたいなもんだろ。
 ようするにオタクの夏祭りだろ?
 いーとしこいて、コスするのすきだったり、アニソン歌ったりするのがすきなやつらがどっさり集まってるんだろ?

 その通りだ。
 しかし、あれほど「真に頭のいい、思慮深い、思いやりにあふれた人間」の密度の高い集団はないぞ。
 ハタからどんなに不気味にみえても。
 これだけは断言したい。
 いろんな学会にも(亭主のおともで)カオを出したことがあるが、SF大会はそのどれにも負けないほど、よく練り上げられ、構成され、成熟している。まぁ参加者中にはフトドキな例外がいないこともないことは認める。しかし少数だし、あくまで例外だ。そういう類の人間はあのような場には「居心地の悪さ」を感じるためか、次からはあまり参加しなくなるのではないかと思う。例外的な人間は、増えない。多様性はこれを重んじるのが理性であるため、いかな例外とて、条件を満たせば参加を拒まれることはない。

 そこでは何を語ってもいい。思索思考仮定の議論等に関して、いっさいのタブーはない。すべては相対的であり、「絶対の」真実などありえないことを誰もが理解している。自分の意見や感覚だけが「正しい」と主張することの愚を知っている。真の理性による正義がそこでは貫かれている。
「わたしはあなたの意見にはまったく賛成できない。しかしわたしはあなたがその意見を表明する自由を、この生命を賭けても尊重しなければならない」これである。
 たとえば相手がファシストだとしても。なんらかの宗教のガチガチの原理主義者だとしても。その彼の(こっちから見るとどう考えても常軌を逸していて論理的一貫性のない)考えについて、少なくとも一度は、ミミを傾けなければならない、とみんな覚悟しているのだ。

 車椅子などを必要とするいわゆる身体障碍者の受け入れも、早かった。そのサポート体制が考えぬかれていた。SF大会に参加を求める障碍者があって、誰か「つきそい」の人が必要な場合には、費用や宿泊などに関して、彼らの負担を軽減するための措置が「当然のこととして」取られた。
 また幼いこどもさんを連れて参加するひとたちのための、キッズルームの設立なども早かった。
 「できれば参加したいけど、コレコレの理由で難しい」というひとがいる場合、大会実行委員会は、なんとかしてその助けになろうとした。してきた。












『たったひとつの冴えたやりかた』
著 ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア
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『シャンブロウ』
著 C・L・ムーア
ハヤカワ文庫SF「大宇宙の魔女」に収録。現在は絶版。




『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』
著 フィリップ・K・ディック
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『竜の卵』
著 ロバート・L・フォワード
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クェーサー...
「竜の卵」は「クェーサー(準恒星状天体)」じゃなくて「中性子星」ではなかったかと……(汗)
(文責:はせがわみやび様)

すみません、おっしゃるとおりです(涙)
(文責:久美沙織)

 サベツとは、自己とはなんらかがあきらかに違っている他者のありかたやものの考えかたを、頭から拒絶することである。
 SFには、宇宙人やら、多次元の怪物やら、架空の歴史やらといったものが頻出する。
 うんとこさ古いSFでは、宇宙からの訪問者はおっかない敵でスペースインベーダーであって、交渉する間もあらばこそ、とっととミサイルで打ち落とすべき存在だった。
 しかし、少なくともわたしたちが読んできた近年の名作SFの中には、「愛さずにいられないエイリアン(ご存知のとおりこれはガイコクジンをも示すことばだ)」を描いたものも数多い。
 ティプトリー・ジュニアの『たったひとつの冴えたやりかた』もそう。
 CLムーアのノース・ウエスト・スミスに出てくる『シャンブロウ』もそう。
 ブレードランナーという名前で知られているがほんとうは『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』という美しいタイトルであるところのフィリップ・K・ディックの名作の、人造人間のかたがたも、そう。

 わたしが好きで好きでたまらないロバート・L・フォワード博士(作家であると同時に重力物理学者でもある)の『竜の卵』に出てくる、アワビ型宇宙人チーラもそうだ。
 『竜の卵』をもしかするとわたしはハードSF的に正しく理解していないかもしれないけど、わかるかぎり要約する。それは遠くにある特別の惑星で、クェーサーといって、ものすごい勢いで回転(自転)している。だから重力がものすごく大きくて、生物はぺったんこだし、時間は地球上とは比べ物にならないほどすごい勢いで流れている。人間にとっての24時間(地球時間のたった一日)が、そこの知的生物チーラにとっては、一生どころか、四世代ぐらい、いわば、人間なら「一世紀」にあたるぐらいのものすごい差になる。そこへ地球から探査船がとんでいって、わずか何日か滞在する。探査のために、レーザー光線だかなんだかを地表にアテてみたりする。その行為は、なんら悪意のないものではあったけれども、いやおうなくチーラの歴史に介入する。人類の影響をうけたチーラはすごい勢いで発展をとげ、やがて、探査船にとっての「四日後」には、「宇宙にうかんでいる謎の他者」にコンタクトしようと、彼らなりの宇宙船をしたてて、冒険しにやってくるのだ……! その旅だって彼らにとっちゃあ尋常なものではないのである。なにしろ寿命がやたら短いから、地球人のいるとこまでいってかえるだけで軽く「一生」が過ぎてしまったりする。それを覚悟で、それでもコンタクトしにいくのだ。人類における月着陸のアームストロング船長みたいな一匹のチーラが、それを果たす。まさに一生を、ただそのひとつのことがらに賭けて。人間に挨拶をしにいくのだ。「やぁ、ピーター」と。

 あっちこっちで既にいってきた話だけど、繰り返す。
 フォワード博士が来日なさった時、ハードSF系のファンクラブのかたがたが歓迎の会をひらいた。わたしがリュータマを好きだ好きだと言っていたのをしっていたSFマガジンの今岡さん(たぶん当時はまだ編集部におられたと思うのだが)が「くみさんもくる?」と呼んでくれた。ダイスキなチーラをこの世に生み出してくれたひとみたさに出かけていった。和気藹々のカイワは、なにしろハードSF系なので、わたしなんか日本語できいたってチンプンカンプンなのに違いないやつのしかも英語でかわされた。時々「重力」とか「推進装置」とかいう単語をかすかにききとるのがやっとだった。なんかみんなで、ジツゲン可能な恒星間宇宙船の設計についてギロンしていたんじゃないかと思う。はっきりいってわたしなんかにはぜんぜんわかんなかった。そもそも、たしか、あの場にいた女子はわたしひとりだったと思う。そんなこんなで一時間ぐらいたったころだったろうか。コーネル・サンダースおじさんそっくりの福福しくお優しそうな博士の顔をぽーっとみつめるだけでせいいっぱいだったわたしに、優しい今岡さんが、「くみさんもせっかくだから、なにかしゃべってみたら?」と話をふってくれた。こんなチャンスはめったにない。わたしは、ヨタヨタの、小学生みたいな英語で、それでもいちばん言いたかったことをいってみた。
「わたしは、博士のお描きになったチーラちゃんたちが大好きになりました。ピンクアイの運命にどきどきしました。そして、さいごに、クリアー・シンカーが、『やぁ、ピーター』っていって、それをピーターが理解した時には、涙で字が見えなくなりました。あのう……せんせいは、ほんとうに信じていますか? つまり……チーラと地球人ほど、ぜんぜんまったく違う種類のいきもので、みためはもちろん、いきてる時間さえあんなにあんなに違う同士でも、ほんとうに理解しあえると……ともだちになれると、本気で、思ってますか?」
 フォワード先生は……わたしの目をみて、にっこりわらって、おっしゃいました。
「もちろん。ぼくら双方がインテリジェンスを持っている限り、必ず」
(↑これをフォワードのテーゼ、とここでは言うことにします)

残酷な冥王の定理

論理学

必要条件・十分条件

 よろしいか? 
 超重力星の殻なしアワビ型住人チーラにすら「親近感」をもったり「共感」したりできる(してしまう)感性のもちぬしにとっては、たかが同じ人間の、つまり互いに99パーセント以上同じDNAをもっている同士(いや実はチンパンジーともそうなんだが)を「いきなりサベツ」したり「キョゼツ」したりするなんてことはありえないのだ。っつーか、感情がどんなにそっち方面に振れても、理性でガマンしてやっちゃいけないのだ。ついウッカリやりそうになったら、思い切り自己反省して、頭壁にぶつけて、顔を洗って出なおさなければならないのだ。肌の色がどうだとか、性別がどうだとか、性的傾向がどうだとか、犯罪歴があるとか、宗教が、タブーが、生活習慣がどうだろうと。それは「たまたまもってしまった差」でしかなく、「越えられないミゾ」ではない。われわれは「互いに似ている」のであって、「もしかしたらあなたがわたしでわたしがあなただったかもしれない」仲同士なのだ。
 ただひとつ、越えられない壁があるとしたらそれはあれです、『バカの壁』です(いやあの本の内容はじつは自戒だったりするわけですが)

 なにしろフォワードのテーゼの「対偶」(逆の裏)は、

対偶...
「双方にインテリジェンスがあれば、必ず理解し合える」の対偶は「どちらかにインテリジェンスがない場合には、理解し合えない」ではなくて「理解し合えない場合、どちらかにインテリジェンスがない」だと思います。「双方にインテリジェンスがある」ことは「理解し合う」ための必要条件ではなく、十分条件だと思いますので。
(文責:通りすがり様)

すみません、おっしゃるとおりです(涙)
(文責:久美沙織)

 「インテリジェンスを持っていない」相手とは、たとえ、同じ人類でも、民族でも、同年代でも、同時代人でも、同性でも境遇が似てても同級生でも隣の住人でも、じつは「コンタクトはできてもコミュニケートできない」。
 もうちょっとフツーのことばでいうと「ちゃんとハナシてるつもりでも、じつはハナシ、つーじてない!

 にならざるをえないんで。
 でもって、さっきの論理学URLを見てもらえばわかるように、もとのテーゼ(命題)が正しいならば、対偶は必ず正しいのである。

 インテリジェンス、なんつーことを言い出すと、やっぱNOVAに通わなきゃとか、東大にはいれるひとはいいなぁとかそういうふうにお考えになるかもしれませんが、いんやいんや、そんなこた申しておりません。
 あるとき、あるところで、わたくし、恐るべきエピソードを聞きました。
 中学生だったか高校生だったかマサカと思いたいですが大学生だったかわすれましたが、試験があったんだそーですわ。

問題。地球が球であることを証明できるような証拠を三つあげよ。
答え。1・先生がそういったから。
   2・ともだちもそういってる。
   3・オレもそう思う。

 わたし一瞬ものすごいギャグだと思ってオオウケしたんですが、それから全身ゾーッと鳥肌がたっていることに気づきましたです。このひとがもしかしてマジだったらどうしよう? そう思ったので。

 あのね、このものすごい思考停止は、じつはかなりの広い範囲に蔓延しているんですね。
 わたくし、あるとき、都内の某女子校に「文化講演」なんつーものをたのまれたものですから、事前にお願いをしたんですね。全学生および全教職員の先生がたに同じアンケートを出し、その回答を、後援予定日の一日前でいいですからわたしのところにください、と。
 アンケートはこうです。

1・あなたの好きな色はなんですか? その色を好きだと思う理由を三つあげてください。
2・あなたの好きな動物はなんですか? その動物を好きだと思う理由を三つあげてください。
3・あなたの好きなスポーツはなんですか? そのスポーツを好きだと思う理由を三つあげてください。

 さあ、あなたもどうかまずここで先を読むのをやめて、やってみてください。
 三つずつ、スナオに回答しましょう。頭のなかで漠然と考えてるだけだと、あとで自分で正確に検証できないので、できればメモ帳を出して、メモってください。カンタンでいいですから。パッと思いついたもんでいいですから。

 これはいわゆるひとつの心理テストってやつで、わたしとしては、学生さんたちにウケたい一心でしこんでおきたかったネタだったのです。
 好きな色というのは理想的な自分、を示します。動物は理想の異性。スポーツは理想のセックスです。
 しかし、問題は、「何を」選んだかではなく、「どういう」理由をあげたかなのです。
 そこで、そのひとが、ものごとを「どんなふうに考えているか」「どのぐらい考えているか」がニョジツに現れてしまうのです。

 ちなみに、まじめで清純な校風で有名なその女子校の生徒さんたちからかえってきたアンケートを集計してみると、あんのじょうの結果が出ました。
 色でいうと、半数以上のひとが「青」を選んだのですが、その理由がまた実に均一で「きちんとしている」「清潔感がある」「誰にでも好かれる色だから」というのです。ようするに、「他人から見て」オッケイである自分で「なければならない」という強迫観念にも似た信念が、彼女たちの大半を支配していたのですね。知らず知らずのうちに。
 「空や海のイメージがあるから」「わすれなぐさが大好きだから」などといった、個人的な感情にむすびついた理由は「超少数派」でした。
 動物では「犬」が圧倒的で、「忠実」「裏切らない」「わたしがウチにかえると玄関まで飛んできてくれる」「残飯でも喜んで食べる」(←これにはウケました)……思い出してくださいね、みなさん、これ、理想の異性です。女子高校生が「ほしい彼」は犬なのよ。
 スポーツはいろいろ分かれましたが、バレーバスケなどの球技派の「チームワーク」重視型と、陸上、水泳、格闘技などの「自分の限界に挑戦できる」「勝つとうれしい」「キモチいい」などにきっぱり二分されましたです。
 ちなみに、わたしは全教職員に回答してくれといったのに、ズルいですねぇ、先生がたはなにかわたしがたくらんでいることを予想したのでしょうか、答えてくださらなくて、ただ校長先生だけが、「青」で「犬」で「相撲」とお答えになってくださったのでした(相撲……さすが人生経験豊富なかたのおっしることは違う……)。
 さらにちなみに、中には、個性的な生徒さんもちゃんといてくださって、「好きな色、黒、なにものにも染まらないから」とか、「好きな動物・ゾウアザラシ・とにかくでかい」とか、いろいろあったわけですけども。

 いやまーそーゆーのは、このハナシの中ではじつはどっちでもいいほうで、実はですね、「理由をかけ」といっているのに「すきだから」「かわいいから」「にあうから」みたいな答えが、実は、すっげー多かったんですよ。
 わかります? それって、理由になってないって。
 なぜ「好き」なのかなぜ「かわいい」と思うのかなぜどこが「似合う」のか、そこまで考えないとほんとうには考えたことにならない。「かわいい」と感じる自分の、その「かわいさ」に対する感覚はどこからきたものなのか? それについては思考停止してしまっている。それでいて、「青」を好きでいれば世間ウケがよく、親ウケがよく、学校でも危険な生徒として目をつけられたりしないで無事に卒業できる……(「黒」といいきった彼女はあれからいったいどうなったんでしょう)ということは、ほとんど本能的に? 知っている。そういう自分から逸脱しようとしない。逸脱する可能性があるということについても考えない。

 いちおー、わたしの自身のさっきのやつへの答えを(この心理テストのタネアカシを知る前にすなおに答えた答えを)ゆうておきますね。

 好きな色。金赤。理由。はでだから。パッと見にめだつから。炎の燃えるイメージがあるから。(ちなみにいまだったら、うっかり青と答えてしまうかもしれません。だってジャパンブルー。サッカー日本代表の色はあの青に決まっている! おまけにガンバ大阪のテーマカラーも青。坂田大輔さまが所属するマリノスのウエアときたら、代表ユニとクリソツ。国立競技場がブルーに染まる時、全身を貫くこの感動……あああ、わたし別に日本人であることがそんなに好きじゃないはずなのに、ナショナリストじゃないはずなのになぁ。サッカーばかりは事情が別だなぁ)
 好きな動物。オオカミ。理由。賢いから。家畜じゃないから。精悍だけど強暴ではないから。
 好きなスポーツ。ダイビング。理由。水に抱かれてると安心だから。無重力みたいな感覚が味わえるから。いろんなオサカナとか、海の底の模様とか、水中からみあげる太陽とか、きれいなものが見えるから。

 「かわいい」という答えを全否定するわけではないっすよ。
 わたしはオオカミかわいいと思いますし。
 たとえばね、ライオンの仔のニクキュウなんてのはまず第一にとにかくかわいいです。
 その理由を説明しろといわれたって困る。
 だってもう見たとたんに「きゃーーーー!」って思っちゃう。
 萌えちゃう。
 そーゆーこともたしかにある。
 でも、じゃあなぜ、ライオンの仔のニクキュウには萌えるのか?
 あえてそれで考えてみたりする。
 すると、
 たとえば、
1・そもそも生物は幼いものに愛情を覚えるようにプログラムされている
2・ライオンという猛獣は成長するとあんなにデッカクて剣呑なのにコドモのうちはまるでぬいぐるみみたいでその落差の激しさの意外性がおもしろい
3・だってあのアンヨったらフカフカっぽくてきっとさわったらキモチいいけどライオンの赤ちゃんのニクキュウなんてさらせてもらえるチャンスきっと一生に一回もないから、その希少性として、望ましく思われちゃうんだもん
 ぐらいはすぐに思いつきますよね。

 だからさ、そのぐらいはさ、考えようよ、みたいな?
 そういうことを、わたしは言いたかったりするわけで。
 それもいちいち「考えねば」と思って考えるのではなくて、つい「考えちゃう」タイプ同士だと、なかよくなれるんだけどなぁ、と思ってしまうわけで、そーすると、わたしの「居場所」っていうのは、まだこの世にはありえない、たぶん自分が生きている間にはジツゲンしない、重力駆動装置つき恒星間宇宙船内における精神生活の安定、なんて問題について、あくまで架空であると承知のうえで、真剣に熱心にコーカク泡を飛ばしながら討議できるひとたちの中にしかない。

 ハードSFにどんなに弱くても。
 物理で100点満点で4点をとったことがあっても。
 そうかわたしにむいているのはSF方面だったんだぁ! ……と、遅まきながら、わたし、確信するにいるわけです。
 でもって、コバルトでSFをやるのだけはゴメンだった。だってわたしよりずっとホンモノのSF作家のみなさんがあんなに苦労したんだもの(誰がひきこんだんだっけ? えっ?)。
 なにしろ「おかみき」ですらわたしが望むようなかたちでは理解してくれようとなさらない大半の読者のみなさんには、わたしがやりたようなSF、あるいは、ファンタジーとかホラーとかのようするにフツーじゃないものたちは、うけいれられるわけがないじゃないですか。だってわたしチーラを愛しちゃうやつなんだもの。チーラを、朱海くん以上に、熱烈に愛してくれる読者が、コバルトを読むかもしれないということに、わたしはほとんど期待をもてませんでした。(いまはどうだかしりませんが。すくなくともその当時は)。

 ゆえに……SFとかそのたぐいの(すでに誰かが発明した)ガジェット、超能力とかタイムスリップとか宇宙船とか吸血鬼とかナイルアルラトホテップとか機械人間とかナノとかバイオとか悪い科学者とかを、ちゃんと理解もせず、尊重もせずに、便利につごーよく使ってる作品を、わたしはすっげーきらいです。
 それはSFにたいする「搾取」であり、われら万国のSF労働者を踏みつけにするものであるー! とシュプレヒコールをあげたくなります。



「蒲生邸事件」
著 宮部みゆき
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 一例。
 誹謗中傷というより、売れないモノカキのヒガミに見えるに違いないことを承知しつつ。
 なにしろそのひとは、マジものすごーく小説がうまいひとで、ほんとそのひとのほかのほとんどの作品はわたしもそーとー好きで、感動してて、尊敬してて、しかも、その作品はそのトシの日本SF大賞に選ばれちゃったんですから。
 わたしがひっかかった一点は「だってコレはSFじゃないじゃん!」だったのです。(もちろんこの言い方には、問題があるのはわかっています。瀬名さんとドラえもんの話のあたりを思い出してください)
 ととてもとてもとてもとてもそう思ってしまったのは、ハイ、あの宮部みゆきさまの『蒲生邸事件』です。全体のあらすじは書きません。知ってるひとも多いと思うし。この際あんまり関係ないので。だいたいわたしも最初はずーっと感動して読んでたんですから。オーラスの最後のどんづまりにきて、いきなり「……うっそー! そらねーべ!」と思った部分についてだけかきます。未読で、これから読む予定で、あるいは、宮部さんファンで宮部さんの悪口みたいになるかもしれないことはミミにいれたくないとかなんとか、とにかく知りたくないひとは★から★まで飛ばすように。


(反転します)

 タイムスリップして過去にとんだ男のひとは、やがて現代にもどらなければならなくなり、過去の世界で好きになっちゃった女性と、ウン年後に浅草の雷門の下で会おうと約束しました。約束の日がきます。そこにあらわれたのは……なんと、過去の時代で見た彼女とそっくりの美少女! 彼女がいうには、ほんとうはおばあちゃんがくるはずだった。でも死んでしまったので、孫の彼女にかわりにいってくれと頼んだというのです。そうだったのか……もう死んじゃったのか。ちょっとがっかりする彼。でもなにしろみてくれは、タイムスリップ中に好きだった相手に「どそっくり」でしかも若い孫。かわいい。その後の展開についてはあくまでニオワセルだけで、ふたりがそれからどーなったとかはたしかかいてなかったと思うけども……ハッピーエンドの雰囲気を漂わせて、小説は終わります。

(反転おわり)


「そらねーべー!」わたしは怒りの涙に暮れましたですよ。
「なんでばーちゃんださねぇ。なんでばーちゃんと手と手をとって再会を喜ばしてやらねぇ。なんでばーちゃんと結ばれてシアワセにくらさねぇ? なんで、なんで、なんでなんだぁ!」

 SFもんとしてはですね、しわくちゃのヨレヨレのみっともないババアになっていようとなんだろうと、本人が本人であることのほうがだいじなんですよ。孫なんてあーた、見た目がどーだって「別人」じゃないですか。そりゃね、戦後の混乱期に若いむすめっこが結婚もせず、ずーっとひとりで生きていくのはたいへんかもしれませんよ。でも純愛だったら、貫けよー! でもって、愛した彼をそのまま待てよー! 彼のほうも、そんなにまで好きだったおんなだろ、どんなババアになっていたって、そのババアを愛せよ! カオじゃねーだろ。タマシイだろ。個人だろ。精神だろ!

「やぁ、ピーター」
 で、感涙に咽んだわたしには、これはものすごいショックでした。
 なんつーか……天動説がくつがえされたぐらいのショックでした。

 第一に、彼女が、彼を待たずに結婚したこと。
 第二に、彼が、ババアの彼女にあえなかったことにガッカリしているよりもむしろ若くて彼女にそっくりな孫がきてくれたことに喜んでいるようにしか見えなかったこと。
 第三に……この小説が出たあとに読んだ多数の書評を見るかぎり、わたしと同じところで「カッ!」と怒りにかられたという評論が、ただのひとつも見当たらなかったこと。みんな、すばらしい感動の傑作だとおっしゃり、SF作家クラブそのものまでが、「大賞」を捧げてしまったこと。

 クシャクシャのババアである本人よりも、ニセモノでも若くてかわいい孫のほうがいいの?
 みんなそれでいいの?
 そのほうが納得がいくの?
 そのほうが、ハッピーエンドだと思うの?
 それって……セクハラっつーか、年齢ハラスメントじゃない?
 人間の価値は若さなの? そのひとのタマシイそのものじゃないの?

 わたしにはどうしても納得がいかなかった。

 だってもしわたしがその彼女だったら……ババアになっちゃってもかわらず愛してもらえると信じたいよ。
 だってもしわたしがその彼だったら……それまでのイキサツとか、遠い過去であったこととかなんにもなにひとつ知らない孫なんかより、どんな死にそうなババアでも、本人そのひとにあいたいよ。



「安達が原」
著 手塚治虫
画像は作品が収録されている「ライオンブックス」第一巻のもの。現在は楽天ダウンロードでも読める。
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(反転部分の註)
些細な事ではありますが『安達ヶ原』でユーケイとアンジーの年齢がズレたのはウラシマ効果ではなくコールドスリープのためです。それとユーケイ自身は転向したという自覚はなく、彼が知らない間に革命政権が腐敗していたのです。
(引用:葛西伸哉様の書込)

すみません、おっしゃるとおりです(涙)
(文責:久美沙織)

 手塚治虫先生の『安達が原』って短編がまさにそれをやってます。


(反転します)

 むかし革命家だったのが逮捕されて検察側の裏切り者になって宇宙のハンターになった青年。遠い異星で旅人を食らう魔女を捕えよと命令をうける。でも、その魔女こそが、カレの彼女だった。宇宙をとびまわる警察官はウラシマ効果でとしとらないけど、彼女もうそれこそ「安達が原の鬼ババア」そのものになっているんです。その女が彼女であることに彼は気づかない。なぜなら、彼女の手料理に、毒消しを入れたから。彼女の味だと気づかなかったから。だから、任務として、当然、彼女を殺す。相手が瀕死の状態で告白したときはじめて、彼女が、彼を待って待ち続けて、そのために人を殺して食ってまでも生き延びていた彼女そのひとだったことを悟って彼女の名を叫ぶ。
 忘れがたい作品です。

(反転おわり)

 お能と、SFは、そうしてひとつになった。
 ちなみにモトネタのほうはこのへんとかこのへんで見れます。

 ……すみません宮部さん。そして宮部さんのファンのみなさん。わかってください。このへんの言辞を許してください。わたしたぶん嫉妬しているんです。だって宮部さんわたしの10000倍売れてるし。たぶんわたしの感覚のほうが特殊でヘンなんです。

 たぶんわたしはあまりにも血中SF濃度(別名・ヘンタイ度)が高すぎる。
 よって、そのままその自分をだしてしまうと、大衆ウケ能力が低いんだよなぁ。
 自覚はしてるんです。してるんですけど。
 そうである自分から逃れることって、なかなかできねーんだなぁこれが。

 でもって、……多くの読者さまにウケたい自分と、すなおな自分のままでありたい自分に、わたしはいつも、ひきさかれてたりするわけです。


原稿受取日 2004.4.4
公開日 2004.5.15

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