創 世 記
第15回  「“ライトノベル”ってなんなのさ?」




 このラノに関わりだしてから、各方面の知人友人メーリングリストなどに「こんどこんなことはじめたんで、よかったら読んでね。でもって、何かやりたいなぁと思ってくださったら、投稿なさってね」などといろいろ言うてきた。


中村うさぎ
小説家でありエッセイスト。「ゴクドーくん漫遊記」で作家デビュー。痛快な語り口で紡がれるエッセイは多くのファンをひきつけている。
公式 : うさたまCOM



「このライトノベルが読みたい!」
ただしくは「このライトノベルがすごい!」です。

































小野不由美
『バースデイ・イブは眠れない』でデビュー後、『十二国記』『屍鬼』などもはや注釈の必要もない人気作を手がける。旦那様は綾辻行人氏。

 こないだ中村・女王・うさぎ先生にも、これこのよーなメールを送った。

[以下自己引用]

 ちなみに「このライトノベルが読みたい!」ってゆーサイトがあるの知ってます?
 最初に協力をもとめられたときに「うぜーなぁ、わしゃーライトノベルなんて呼び名もきらいじゃし、昨今の大半のそーゆーもんもろくに読んどらんが、たぶんきらいじゃ! 協力なんかできねぇ」といったら「なんできらいなんですか?」ときかれたので「だからなぁ……」と説明しているうちに、「ライトノベルにいたる少女小説の歴史の生き証人の証言」みたいなコラムを(ロハで)書きなぐるハメになってしまいました。
 ばか。
 でも、ババアのグチというか、「だって、わしら、こうだったんだよー」みたいなことを、しゃべくりまくれるのでけっこう快感です。書いてるうちになんで、「いわゆるライトノベル」がきらいなのか自分でもよーやくわかってきた。よーするに、あまりにもあっさり消費されるからイヤなんだ。
 世界の名作や一定水準の児童書は、いつでもホンヤさんにちゃんとあって、こっち(読む側)にたまたまそんな気がした時に手にとって読める。しかし、文庫書き下ろしのいわゆるライトノベルの大半は、生鮮食料品なみの速度でタナに並べられ、すぐに売れないとどんどん捨てられる。例外といえるのは……ほとんど小野不由美せんせの『十二国記』ぐらいじゃねーですか?
 それがイヤなんじゃ。そんなんツライし、バカらしい。もったいない。
 そんなん、もうやめたほーがええんちゃうか、とおもっとる。
 でも、なかなか脱出できない自分がいたりして……ぐっすん。

[自己引用おわり]

 すると、女王から、すばらしいお返事をたまわった。コラムに引用してもいいですかとお尋ねしたら、

 いいですよ、もちろん。
 ただ私は、こんなエラそーなこと言いつつ、続編出してないままに中断したシリーズ物が二本ほどあるので、読者さんから、そのあたり、ツッコミ来ると思いますが(笑)。
 ああ、あれは失敗作だったわ〜(汗)。

[よって転載]

 ライトノベルの消費のされ方に、私は特に問題意識はありません。
 消費のされ方なんて、読者の勝手ですから。
 ただ、「どうせすぐに消費されるものであるから、この程度でよかろう」と、作り手が考えてしまうことには問題があると思います。
 読者がどんな読み方をしようと、書く側は精一杯やるべきでしょう。
 それがプライドというものではありませんか。
 去年、私がカチンと来たのは、秋津さんの発言でした。
 「こういうのが売れるんだから、この程度でいいんだよ」という。
 「この程度」なんて思ってる作品に賞なんかやるな、ちゅうことですわ。
 読者がライトノベルをナメてるとしても、書き手がナメてどうするよ、と。
 そういうの、嫌いなんです。

[引用おわり]


 秋津(透)さん云々を説明するとですね、去年のえんため大賞の選考会のときに、ある作品をめぐって激論があったんですね。「これを認めろと言われるなら、わたし選考委員を降ります!」と女王がマジおっしゃったほどの。で、今年はどうなるのか心配しておったのですが(だってノリちゃん……女王の本名……いないと寂しいもん)急なことで人選もままならぬということで、少なくとももう一度はおひきうけになられたようです。今年も激論ありうるなぁ……。

 で、ですね。

 なるほど……! とわたしは感動したわけです。
 陛下はやはり鋭くておられる。
 わたし、このコラムで、再三再四、「読者」と「版元」に対する不平不満ばっかり言ってきちゃったような気がいたします。しかし、そうです、おおせのとおりです。もっとも肝心なのは書き手なのでした。
 わたし自身、各新人賞でシタヨミから最終選考委員まで何度もかかわってきましたが、なにがいちばんイヤだって、ナメた野郎(女郎も)の原稿でした。
「オタクらが欲しがってンのは、どーせ、このてーどのもんだろ?」みたいな。
「いま流行ってんのがこーだから、ちびっとだけお色なおしして、まあだいたいそっくりにつくっといた。これだしゃ売れるだろ?」みたいな。
 作品に対し、登場人物に対し、そもそも言葉のひとつひとつに、なんら、“愛”が感じられないもの。
 「新人」賞に応募してくるっつーのに、そのフテブテシイ態度はいったいなにさま?
 きさま世の中ナメてるだろ。
 審査員にこう思わせてしまったら、その作品はまず通りません。いや、編集部によっては引き上げられたりすることももしかするとあるかもしれないけれども……。





笹川吉晴
ホラー系評論家。数多くの評論、解説を手がける。ほか各誌の書評にも活躍の場を広げている。
公式:武蔵多摩 怪奇長屋

(追記)

 その後、評論家の笹川吉晴さまとメールしていたり、とあるところ(このラノではありません)のスレを読んでいてて、「ふと」思いついたんですけど、もしかしてひょっとしてそこまでの悪意なんてなかったのかもしれないと。
 むしろ……これは単純にいって、「教育」の弊害なのではないかと。

 つまりですね、いまの若いかたって、「差し出されるものを受け取る」ことにあまりにも順応しておられる。テストとかでは「四択」のうちに正解があって、そのうちの「どれか」を選びとることによって、正解か不正解か、ひょっとすると、合格か落第かが別れる。
 誰かが「ここテストに出るからね」「これが正解だからね」と、あらかじめ教えてくれること以外には、解答はない、あるいは、探してもムダ、みたいに思っておられるんではないかと。

 少子高齢化で、6ポケッツとかいわれて、なんでも前もって誰かがかわりに考えておいてくれて、危ないことしないように、いたい目にあわないように、「転ばぬ先の杖」やたら差し出されてこなかったか?
 ヒトゴロシからマンビキまで、少年犯罪やっちゃうヒトタチの親は、こどもを叱るどころか、被害者に詫びるどころか、ケーサツとかがコドモをどやすと、「うちの子になにすんの!」とくってかかるとか?

 わしもまた、(ずーっとあとのほうの章で出てくるけど)小説のカミサマから「差し出されるもの」を受け取ることに特化して生きている人間だから、ひとのことあんまり責められないけどさぁ、ものを『創る』っつーのはさ、なんかものごっつ特別なことなんだよ。四択のどっかにマークシートつけるのとは違う。流行のもんの順列組み合わせでは、なんにも「創った」ことにはならない。それは「独り」で背負ってたたなきゃいけないことで、ゼロから(あるいはものすごくゼロにちかいところから)はじめなきゃならないことなのだ。このことだけは、キモに銘じて欲しい。


 よく、なんらかの賞の審査員のおコトバで「テーマが見えない」なんてのがありますが、あれはなにも「至上の愛とはこれだ」「人類を救うにはこうするしかない!」などという壮大かつ独自な意見を堂々と開陳しろ、などという意味ではないのです。
 その作者が、その作品を書かずにいられなくなった理由、動機。そのへんがよめない。
 いったいなんで、なんのために書いたものなのかがサッパリわからない。ただ、おもしろおかしく(あるいはカッコつけにカッコつけて)テキトーにウケそうなものをキリバリしたようにしか見えない。
 そーゆー場合、ともすると「テーマが」みたいな言い方をしがちなんじゃないかと思うんですが、
「どこにも“愛”が感じられない」
 というほうが、よりはっきりと、わしらの実感を表していると思います。
「あんた本人のカオがまるで見えない」というのも。
 誰かの二番煎じのニセモノはいらないから。「新人」賞なんてのはましてや、他の誰でもない独自の個性を探しているわけだから。



To Be とTo Do
丸山真男の「『である』ことと『する』こと」の英訳。その後も調べましたが久美氏がどの本をお読みになられたのかは不明。

 あのね。
 To Be とTo Do は違うんだよ。
(この指摘あるいはこの言い回しは、大学時代に誰かの本で読んだオボエがあるのだがどなたの何という本だったか忘れた。ちょー有名な女性だったような気がするんだが……すみません、だからこれはいわば「マゴビキ」です。わしオリジナルの考えではありません。陳謝しつつ告白します)

 「小説家」になりたい、から、小説を書く、というのは、へんなの。本末転倒なの。
 「書きたくてたまらないものがある、書かずにいられない」から書いてみたら、それが小説で、ふと気がついたら小説家になっていた、これが正しい順序。

庵野丈
庵野丈は、『ここは魔法少年育成センター3 とびます。』の登場人物。ゆえに、漢字登録してあって、「あんのじょう、へんかん」と打つと「庵野丈」が出てしまうわたしのパソコン。
(文責:久美沙織)

 たまにアンケートとかで「小説家になりたいと思ったのはいつですか?」みたいなことを聞かれますが、わたしはいつもこう答えます。「なりたいと思ったことなんか一度もない。モノゴコロついたときからわたしはおはなしを作らずにいられないやつだった、文字がかけるようになったらもう手作りで本をつくっていた、つまり、わたしははじめから小説家だったのだ」と。
 もちろん、探偵と同様、日本では、小説家と自称するのになんらかの資格やら審査やらありませんから、勝手に言っても法にはふれませんけどね。
 プロの小説家として十分通用するやつになりたい、と思うならば、プロの小説家として十分に通用する小説を書いて、それなりの期間にそれなりの意味あるものをコンスタントにちゃんと書き続け、出版してもらい続け、読んでもらい続け、ただただこれを繰り返す、いつもどのようなときにも必ずあきらめずに次を、またその次を、書き続ける以外ないんです。
 書かずして「小説家」という「かたがき」だけが存在するということはありえない。
 お若いかたはたぶんご存知ないだろうはるかな昔、某ファッション系版元が、なんとかいうカオダチのきれいなお若い女性を何故かさかんに「注目!」とかなんとかとりあげていて、「×××子、小説家、処女作執筆中」と紹介していて、驚天動地だった。なんじゃそりゃー? と思っていたら庵野丈、じゃねぇ、案の定、いまやかげもカタチもなくなったがな。

 これは、「おかみき」読者世代の読者のみなさん(のうちのわずかなパーセンテージかもしれないけど、わたしにとって、無視できなほど目だってしまうほどのかたがた)に対して、わたしが抱いた違和感と同じ問題ね。
 カレシが欲しい、という言い方をなさるかたが多々あった。
 それ、へんでしょ。
 とても好きなひとができてしまった。そのひととうまくいった。したらカレシとカノジョになった。これがふつー。
 好きなひともいないのにカレシをほしがったってあーた。
 まず誰か好きになりなさいよ。
 片思いでも。
 そうして、好きになって、自分より好きになって、そういうふうに何かを誰かを好きになることの幸福と絶望をたんまり味わって、そうやって痛み傷つき磨かれたアンタのことを、もしかすると誰かがそのうち好きになってくれるかもしれない。それがすれ違いの、こっちとしてはまったく望ましくない相手だといろいろとたいへんだけども、まぁ世の中そんなものなので、何度かチャレンジしているうちには、ぴったりくる相手がみつかるさ。
 相思相愛の誰かが。
 もしかすると。
 ただの一度もこころから愛さずして、カレシという「関係性」をもった他人がいきなり生ずるわけがない。
 欲しいカレシとしてぼんやり思い描いているのが、お誕生日にディズニー・シーにつれてってくれたり、クリスマスイヴにロマンチックに一緒に過ごしてくれたり、愛しているといってくれたり、めくるめくエクスタシーをもたらしてくれる相手だったりする「のにすぎない」から、コトが難しくなるんですよ。なぜなら、いま具体的な例にあげたものはすべて女性からすると「受動的」にしか享受できないことがらだから。
 しかも、ハイヒールをはいた自分より10センチは背が高くて、ムキムキじゃないまでもそれなりに筋肉質で、ハンサムでないまでも見苦しくなく、ファッションセンスもまぁまぁで、ビンボーじゃ困るし、ヘンタイでもオタクでもなにかのフェチでも困る、あくまで優しくて、おとなで、自分を「世界じゅうの誰よりもきみがすき」だと思ってあたたかく包み込んでくれるひと……であって欲しかったりすると、もうそりゃー、見つけるのたいへんに決まってるじゃないの。
 これは男女逆転してもいっしょね。
 自分のほーからは何かしてあげる気はなくて、してもらうこと、要求すること、相手として必要不可欠な資格要件ばっか数えあげていると、そりゃー、ハードル高くなって、オレサマ体質になったり、アイドルとか二次元媒体のヒロインにしか「いれこめない」体質になってしまったりもするわけだ。

 To Be は、「だったらいいなぁ」と望んで神さまなりお星さまなりに祈ることぐらいしかできないもので、
 To Do は、単に自分からやりゃいいことでしょうが。
 To Be 小説家、と、ふと思っちゃうひとがいたとして、思うのは勝手ですけど、それにはまずは「はじめの一歩」が、単純な DO が、自分からの必死の働きかけが、ようするに「書くこと」がどーしたってないとアカン。
 「書きたいこと」もないのに、小説家になりたがったって、書くことなくて困るでしょうに。

 で、そもそも、……女王への手紙でも言ったけども……

 “ライトノベル”って、いったい何なの?
 誰がどこで言い出したの?
 それって自嘲? それとも、軽蔑? それとも、悪気はまったくないわけ?
 もしこれをいったのが「書き手」だったとするなら、そりゃひどいへりくだりか、さもなきゃ確信犯だ。
 もしこれをいったのが「編集者」だったとするなら、そいつはたぶん商売はうまくて数字は読めるだろうしカンもいいだろう、それでいて実は小説の魅力の本質なんかぜんぜんわかってないし、若い小説家やその作品だいじに丁寧に育てるつもりなんかまったくない(単なる商売道具として便利につかって使い終わったら捨てるだけだ)から、われわれ真摯な書き手にとっては「天敵」として憎むべき相手、まともに勝負して負けそうだったら、くやしいが注意深く避けて通らなければこの身が危ない相手だ。
 もしこれをいったのが「読者」だったとするなら、……うーん、若いな。“ライト”であることになんら否定感がないどころか、むしろ、だって軽いほうがいいじゃないか! と思えるひとなんだろうなぁ。確かにその昔、やたら重厚長大主義だったどこかの国は、なんでも軽く薄く短かく小さくするほうがむしろ得意なところになったからなぁ。ウォークマンとか。生理用ナプキンとか。タバコもどんどんライトでマイルドになっていくし。
 それだけ、世の中がゼイタクになり、消費スピードがはやまり、なんでもどこでもいつでもあって、欲しいモノが五分以内に手にはいらないとキレるような社会になってきたんだろうが……。

 宇宙飛行士映画のタイトルであるところの『ライトスタッフ』は原題 The Right Stuff で、「適格な資質」とかって直訳されたりすることもあるらしいが、本来は「一応まっとーな原材料」みたいな、へりくだったふりをして上品ぶった特殊な表現と受け取るべきだと思う。かわいいわが子を愚息とか豚児とかっていうように、選び抜かれた精鋭だからわざとそのよーにやや貶めてみせてるんやろ。ちゃうか?
 staff(支え→職員、担当者。いわゆるキャスト・スタッフのスタッフはこっち)とは、一文字違うからね。
 Stuff! と一語叫んだら「くっだらねー!」「バカいってら」になる。それに「Right」が無理やりついてるんだから、かの原題は(もしかしてそれがNASAで常用されているものそのものだったとしても)そーとーひねくれている。

 しかし、ライトノベルはおそらく「正しいノベル」ではあるまい。
 Light novel → 軽い読み物 なんざんしょ?
 そりゃ Right に右って意味もあるように(これは明らかに左利きサベツだ) light には光って意味もありますよ。とするとなんと Light novel はおっそろしいことに「啓蒙小説」と訳することだってできちゃうのだ。ひぇぇぇ。
 しかし「軽い」ほうだとスナオにとりゃ、「軽佻浮薄」「そこが浅い、さめやすいもの」であることを自ら容認しているように見えるじゃないか。
 ちなみに、英語には light literature 軽文学という、「和製ではない」表現がちゃんとあるのだ。薄ッぺたいコンサイスにすら載っている。そーゆーもんがあるのに、わざわざ新語を作ったわけですよね。誰かが。
 Literature と Fiction と Novel が厳密にどう違うかは、ネイティヴにでも聞かねばよーわからんが、novelty が『目新しさ、目先のかわったもの』であるところから想像するに、過去のどっかの時点で「いまふうの」読み物をノベルと読んだのであろう。ヌーベルバーグとかネオナチとかと同じ、「新」しさを示す N からはじまるラテン語源でもあるんじゃろう。となれば、上の三つはたぶん、“純”文学と「ノンフィクションじゃありません、見てきたようなウソついてます」読み物と、大衆小説……といったふうに、対応させとけばまぁほぼアタリだろう。
 “ライトノベル”が light novel だとするなら、それは「単なる大衆小説よりも、さらにもっと軽くて浮ついててバカにでも読めて、ハヤリスタリが早くて、雑誌なみに読み捨てでぜんぜんオッケイなもの」を標榜しているように見えてならない。だんだん腹がたってきたぞ。
 わたしはそんなものを書いたことは一度も無い(と信じたい)し、書こうと志したことはぜったいにない。そういうものを読みたがるひとがあってもしかたがないが、そういう読者とはなるべく係わり合いになりたくない。そんな読者の数が増大し、そのひとたちに「うけない」からといって淘汰されてしまうのでは、たまらん、かなわん! 
 さらに、そういうものをそういうものだと理解した上でなお「書きたがる」ひとがいるとはとても思えないのだが、もし仮にいたとしたら、恐怖だ。よほどへりくだっているのか、マゾヒストなのか知らんが、永久就職先を見つけにきた腰かけOLじゃあるまいし、シゴトの手は抜かないで欲しい。手もぬかずに、なんでそんなに喜んで安売りできるはずがあろう? まさか、どーせ、あまたの先達が必死に創ってきたものを適宜キリバリしただけのコピー商品だから、ではないだろうな? 読んで気持ちいいものがたりの定番・黄金パターンは共有財産だが、盗作・剽窃はりっぱな犯罪行為だぞ。
 ストーリー展開のおおすじにはそうそう新機軸はないかもしれない。だが、同じ楽譜の楽曲を演奏してもプレイヤーに芸があればCDは出る。ロミジュリだったら、カレシとカノジョは互いに相容れない立場にあって運命的に引き裂かれている。その「運命」とか「立場」の具体的な発見が、リアルなエピソードに、意外性や斬新さにつながる(たとえば農地改革!)。そしてそのエピソード、各々のシーンをどんな演出でどんな衣装でどん役者にどんなセリフまわしで語らせるか、その個々の表現のしかたこそが作者ごとの個性だ。神は細部に宿る。細部に神が宿っているもんを、使い捨てになんかしたらバチがあたるぞー!

 ちなみに、モノカキが自分の職業を何と言うか、は、ひとそれぞれである。
 作家、文筆業、小説家。売文家なんつーのもある。
 わたしは署名つき原稿にカタガキをつけろと言われた場合は「小説家」にしておきたいほうで、もし勝手に「作家」にされていたら、訂正を求める。単なるサイト上の登録なんかで職業が必要な場合は「自由業」、もっと詳しく書けといわれたら「文筆業」だ。
 ここまではまぁいい。
 問題は「どんなもの書いてるんですか?」と聞かれたとき。
「えっと……」わたしは言いよどむ。「あのー、前世は少女小説(これは吉屋信子先生からはじまり、氷室さんによって復活した美しいことばだからもちろん肯定する)を書いてて、そのあとゲームのノベライズとかをやってたんですけど、最近は、ファンタジーとか、ダークホラーとか、なんかまーそのへんを、ゴニョゴニョ……」

 頼む!
 誰か、久美沙織が書いているもの全体を示すような美しく可愛らしく胸を張っていえるような「呼び名」を作ってくれ!
 わたしがこころから「それよ、それなのよ!」と首肯できるような名前を。

(自分で作れよ! とツッコミがきそうだが、ラベルとは貼られるものであって、自分から貼るもんじゃないです)






堀井さん
堀井雄二氏。『ドラゴンクエスト』で知られるゲームデザイナー。

 わたしはミステリー作家ではない。日本推理作家協会に所属はしているが。
 SF作家でもない。日本SF作家クラブに所属はしているが。
 児童文学作家でもないし、そーなりたいとも思わない。児童向けを意識したことがなくはないが(だって堀井さんが小学生だって読むんだからって言うんだもの)、わたしの想定した児童は小学五年生以上だ。意味のわからない単語があったら辞典を引いて理解してくれ。わたしはコドモダマシイの持ち主であることを自覚し大切にしたいとおもっているから、コドモだからといってナメられるのは不愉快だ。コドモ向けにナメて舗装して牙を抜いて滅菌したものなんか大嫌いだ。そんなものはぜったいに書かない。
 恋愛小説家でもないし、官能小説家でもないし、なんとか賞作家でもないしなぁ。
 あえていえば、ファンタジー書きかなぁ……ファンタジー……幻想、というコトバは非常に大きな範囲のものを含みますからね。でも、これ言うと、まず百人のうち九十五人ぐらいは、『ロードオブザリング』(原語ではリングス、と複数なんですけど……なんでスを抜いたの? ひょっとして映画の観客のこと、ナメてない?)か、『ハリポタ』みたいなもののことだろう、と誤解するに違いない。そして、それにしちゃ聞いたことないな、と思うに違いない。
 まいったなぁ。

 もう一度、あらためてゆっとくが、わたしはぜったいに“ライトノベル”は書いていないぞ。


原稿受取日 2004.4.25
公開日 2004.5.28



《 追記 》


 旧友妹尾ゆふ子さまより、「ライトノベルという名称をつけたひとは特定できてしまうのですが、どうか責めないであげてください、なぜなら……」というメールを頂戴したのが、先週の土曜日、5月22日。運悪く三日ほど不在にする直前だったので、対応が遅れましたし、ずいぶん考えこみ、迷いました。特に、

>、問題は(この呼び名を・くみ註)「誰がつくったか」でなく、「それが受け入れられた」ということの方でしょう。このすみやかな需要を、わたしはこう考えています――読者は「ライトノベル」という言葉で端的にあらわせるものを求めていたのだ、と。 つまり、端倪すべからざる数の読者が、「かるい読み物」を求めている、ってことです。

 の部分。
(註・上の表記は、妹尾さんからちょうだいした最初のメール文面に準拠しています。公開をお願いしてから、それを前提に改稿していただいたため、発表されたものとは異なっている可能性があります)

 なるほど、それはまったくその通りだ! ……と強く思いました。

 はたまた「創世記」感想スレッドで、いろいろなお立場のかたから、いろいろなご意見・ご感想をいただいて、わたしの足場もグラグラしてきています。

 そもそも、この自分は果たしてじゅうぶんにモノを考えているのだろうか? 単に勝手に感じたままのことやウロオボエなことを口にしているだけなのではないだろうか? ……と、はなはだ自信もなくなってきました。

 いったいどうすればいいか、あれこれ考えました。迷いました。

 コラムの続きは全部見直し、徹底的に書き直したほうがいいのではないか、少なくともこの回以降の原稿は全ボツにしたほうがいいのではないか、なども考えました。
 しかし……結局、原則そのままで公開に踏み切ることにいたしました。

 この判断をした最大の理由は、スレッドで既に、予告といいますか、そのうち『“ライトノベル”ってなんなのさ?』という文章を発表します、などと申し上げてしまっていたから、です。
 やるよといったのにやらずに引っ込めるのは卑怯なのではないか、「書いてあるならみせろー!」といわれるのではないかと思ったからです。

 もうひとつ、シゴトのほうの原稿のシメキリがそろそろほんとうに近づいてきてもおり、なんの因果か持病の頚部椎間板ヘルニア(おもに右肩から右手にかけてが痛くなったり痺れて動かなくなったりします)の状態が急に悪くなってしまって、こうなるとキーボードを打てば打つほどツライので、できるだけ負担を軽くしたい、といういたってプライベートな理由もあります。せっかくにぎやかになってきたところからシッポまいて逃げるみたいなのはイヤなんですが……あんまり楽しくコッチにいれこんでると業務および日常生活に支障を来たしてしまいそう! なのです。

 改めて、ご理解いただきたいことが二点あります。

 一点は、なにしろこのコラム原稿は短期間(およそ一ヶ月間)にダーッとイッキに書いてしまったものだということ。最終回提出が5月5日です。
 よって、コラムのほとんどの部分が、実際に“ライトノベル”と呼ばれているものを主として書いておられる作家のかたがた、あるいは“ライトノベル”についていろいろな意見のあるかたと、スレッド上とはいえ、活発に会話をする「以前」に書かれたものです。そのかたがたの大半とはこうして(オンライン上とはいえ)交流をもつ「以前」には、ほぼまったく面識がありませんでした。
 ですから、コラム本文には、具体的な何かあるいはどなたかのご発言を「踏まえてから」の発言はほとんどありません。また特定のどなたかを傷つける意図は毛頭ありませんでした。その点は、どうか、誤解なさらないでください。

 もう一点。既にご承知のような数多の勘違い・早合点に、このところワタシはすっかりショゲております。なのに、この回などでは実にエラソーに、やたらに堂々と、なんらテライもなくモノを言っております(泣)。その口調は、いまのわたしの心境からは程遠いものになっています。
 同じことを申しあげるにも、ひとさまのお耳に優しい言い方はいくらでもあるものなのにあまりにも配慮がない、と反省しておりますが、もともと、わたしは草三井こと「さか○だいすけ」さんと白翁さん、ほぼこのおふたりのみを仮想読者として、彼らにウケたい一心でコラムを書いてしまっておりました。あまつさえ、回を重ねるにしたがって次第にエキサイトし、ワガママになり、どんどん増長しました。
 正直いって、まさかこんなにおおぜいのかたに真剣にかつ細心に読んでいただけるものになろうとは、想定もしておりませんでした。
 わたくしめは自家製サイトを約一年間公開しておりますが、そちらはBBSを作っていないためか、ほんわかのんびり、あくまでウチワで遊んでいるぬるま湯のような環境です。カウンターもつけておりませんから(そうでなくても部数とか預金残高とか数字に追われる生活なので、スキでやっているものぐらい、数字から解放されたかったのです)いったいどの程度のかたが読みにきてくださっているのかも存じませんが、しょっちゅう読んでくださるかたは、そんなには多くはないと思います。
 よって、サイト上で公開を前提とする、ということに対して、いまひとつ危機感がなかったというか、ピンと来ていなかったというか、覚悟が座っておりませんでした。なにしろロハの原稿でもあり、ほぼ、個人メールの延長のような気分で言いたい放題、書きなぐる快感に任せて書いてしまっておりました。
 その態度は間違っていた、あまりにも無防備だった、と、いまとなっては思います。
 しかし、それゆえにこそ、スルリと漏らしてしまったホンネもあり。
 もしこのコラムにも多少の「よさ」があるとするなら、……そのずーずーしいまでののびやかさと、それゆえにみなさまがたの自由な思考のタタキダイになったということではないでしょうか。
 ひどい言訳にしか見えないだろうなぁと思いつつ、この点についても、ご配慮をいただいた上で、お読みいただければと思います。

 言訳のついでに申しますが、この生まれながらのイノセンス(←自分で自分をこういってしまうあたりがゴウマンですが)もまた、スレに既に書いた恐ろしい血のなせるワザではないかと。

 わたくしめが盛岡で高校生をやっていたある日、祖父はNHKローカル局のニュースかなにかに呼ばれました。(売れない)画家であるのみならず、俳人で文筆家で農業史研究家で馬術家もあったんです、うちのジーチャン。そう自称しておりました。“ちゃぐちゃぐ馬コ”のお祭りの戦後の再開にも貢献したと自分では言っておりまして(ほんとかどうか知りませんが、お祭りの正史におもてだっては名前が出てきていないことは確かです。ただコネや影響力は少しはあったひとなので……陰働きはしたのかもしれません。マゴとしてはそう信じたいです)、たしかこの時もそれゆえに呼ばれたんじゃないかと思います。

 そこで、ジーチャン、口をあけるや
「いやぁ、ウマに乗るってえのは実に気持ちのいいもので、若い頃なんか、すぐにボッキしちゃって、まいりましたね!」
 とニッコニコ笑いながら言い放っちゃって、気の毒なアナウンサーさんを絶句させてました。
 翌日、クラスの男子が
「きのうは驚いたなぁ。まさかNHKであの単語を聞くとは」
「あンぐらいの年寄りになると、なに言っても許されるんだな」
 などとコソコソ語りあっているのをヨコミミで聞きながら、ううう、あれ、わたしの大好きなウチのジーチャンなんだよぉ! と自慢したいようなしたらものすごくマズイような、ドキドキもので、ウッカリ口を開かないようにクチビルかんで黙っていたわたしでした。いまだったら間違いなく大喜びで自慢しちゃいますが、なにしろ当時の女子高校生はボッキなどという単語はその意味を正確に理解しているというだけでも、あってはならない、恥ずかしい、イケナイことだったのです。

 こんなやつですが……コラム残りもあとわずかになってまいりましたが……すべての失敗とアサハカさを、どうか、優しくあたたかな目で見守ってやっていただけますよう、みなさまがたのご理解ご寛恕ご愛顧を深く願ってやみません。


原稿受取日 2004.5.25
公開日 2004.5.29


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