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こちらは過去に掲示板に書き込まれたもののログとなります。
新たな書き込みは出来ません。ご了承下さい。


久美沙織『創世記』スレッド2

0 名前 : 草三井 投稿日 : 2004年05月22日(土) 11時14分50秒
久美沙織さんによる連載コラム『創世記』に関するスレッドです。
素朴な感想や、より発展したご意見や、「これはちょっと違うんじゃないか?」という反論などありましたらお書きください。
ネットならではの相互対話形式になると面白くなるのではないかと思います。
よろしくお願いします。
(運営上の都合で前スレを過去ログ化しました。
閲覧者のみなさまにはお手数かけますがよろしくお願いします)

過去ログ
http://maijar.org/sugoi/cgi-bin/bbs/bbslog/kumi.html

1 名前 : 非それ 投稿日 : 2004年05月22日(土) 20時33分20秒
毎回大変楽しく読ませていただいてます。

危機感溢れる話が続いていますが

日本経済がこのまま下降線をたどるなら
娯楽としての書籍需要はむしろ増すのでは、と思うのは
楽観的に過ぎるでしょうか。
そのうち貸し本屋の復活があったりして……

2 名前 : 非それ 投稿日 : 2004年05月22日(土) 20時39分32秒
書いてから思ったけど
これはこれでひどい話ですね。

クーンツの『ベストセラー小説の書き方』に
書いてあったのですが、
合衆国だとスーパーマーケットのレジ脇に
ペイパーバックの棚があるそうです。
それも1980年代になってから出版社側の企業努力の結果として。
それまではなかったそうです。
日本だと婦人雑誌か幼児向けの絵本ぐらいですかね置いてあるのは。
まだまだやれることはあるのではないかと思います。

乱文失礼。

3 名前 : 葛西 伸哉 投稿日 : 2004年05月23日(日) 00時02分30秒
小説とイラストの関係に関し、常々考えていた事がひとつあります。

「ライトノベル」というのは「小説」なのでしょうか?
もちろん「あんなものは小説じゃねえ」というような意味ではありません。
映画が演劇をただフィルムに記録したものではないように、
マンガが絵物語とは異なるように、小説から出でて小説とは異なる
「ライトノベル」という新しい表現スタイルがあり得るのではないでしょうか。
迂遠な言い方は止めましょう。
私は「ある」と思います。現に、その萌芽は存在します。
(まだ自分でも未整理なので、今回は詳しい言及は避けますが)

ライトノベルと言葉は、現状では
「アニメ・マンガ風のイラストを添えた(若者向けの)小説」を
指すものというのが一般的な認識かと思います。
しかし、ここには「内容」「ジャンル」に関する言及はありません。
同じライトノベルの名の下にファンタジー、SF、ホラー、恋愛モノ、
スポ根モノ、時代劇や戦記までもが含まれています。
手軽さ、読みやすさだけがメリットなのでもありません。
「このライトノベルがすごい」の結果や、毎月の売れ行きを見ても
軽さを押し出した作品ばかりが売れているわけではありませんしね。

現状では「小説の一種」でしかありませんし、
私自身も含めて「書く側」も「読む側」も、
そして「編集したり売ったりする側」の認識も
ほとんどはそこから出ていないでしょうけど、
私はもうしばらくこの「ライトノベル」の動きに
注目するつもりです。

4 名前 : 来無 投稿日 : 2004年05月23日(日) 05時38分18秒
はじめましてです

文章というものが「漢字で書かれた中国語の文語文」であった時代
仮名交じりの日本語で書かれた平易な書物は「文章」ですらなかったでしょうし
仮名が普通に使われるようになっても、書物は文語で書くものだった時代
口語を書き連ねたものは、最初何と思われたか。
そもそも文学だの小説だのがマトモな人間が触れるものではなかった時代だってあるわけで…
(小説という呼び方自体、ろくでもない話、くだらない説、という意味ですし)
それが小説、文学というのは立派なものだ、素晴らしいものだ、と思われる時代を経て
文学とかいうと、ちょっと重苦しい敷居の高いものに変わった現在
ライトノベルという形式の隆盛は必然のような気もします
(一旦マンガに流れての揺り戻しみたいな気もしますが…)
ただそれが知性の衰退かというとそうでもなく、別の知性の方が優位になっているだけなんだろうと思うのです
今の若い子の、絵を描くことの上手いこと…漢字は書けなくともPCや携帯が変換してくれるけど
ビジュアル的なデザインはまだ、なかなか自動化しないですから
小説に対する感性は次第に鈍くなり、ビジュアル的な感性がさらに幅を利かせるようになるのかも
(そのうちビジュアル的感性も一部のムービーエフェクトみたいに自動化され鈍くなってくんだろうとは思います
 そのとき頭角を現す感性はなんだろう?時が見えたり…)
活字離れ(というか「小説」離れ)は徐々にしかし確実に進み
いつか、遠い将来、一部の趣味人の遊び、研究対象と化してくのではないでしょうか
和歌とか俳句みたいに

「今度、書き貯めていた小説を出版しようと思うんだ。」
「小説?文章か、また古典的というか、風雅な趣味を持ってたんだな?」
「『本』にして出そうと思ってる」
「『本』?あの、シートをめくって『文字』を読む奴か?博物館に飾ってあるあれか?」
「うん、さすがに『紙』までは手が出ないけどねえ…」
「今時『文字』なんてなかなかみる機会無いからな、俺でもわかるかなぁ?」
「解析機をつけるから大丈夫さ。一冊進呈するからぜひ感想をきかせてくれよ」
なんて会話をしたり
今の学生が源氏物語や和歌、漢詩などを勉強するように
「中世には小説という文学スタイルがあり…平成の頃にはライトノベルと言うスタイルも生まれた」
「このライトノベルを読み、この絵の示す意味と絵がここに配置された理由とその効果を述べよ」
(絵師が人気で、販売部数を上げるために無理矢理描かせて編集者が適当に突っ込んだだけ
 等と、身もふたもない解答をした(いや、本当は適当に突っ込んでるなんてことは無いんでしょうけど?)
 学生はきっと叱られるんだろうなぁ)
などと勉強したり

しているような気がしたりしなかったり

5 名前 : 新木 伸 投稿日 : 2004年05月23日(日) 15時33分33秒
>久美さま

 正直、終結させていただいて、ほっとしているというか、なんというか。

 こちらには都合4回ほど書きこみさせていただいていますが。
 違う意見を置きにきた、という私の目的は1回目あたりで達しているのですね。
 久美さまがコラムや掲示板でお書きになり、それを読んで私が「いや違うんじゃないか」と思ったことを書きにきて、「でもやっぱり私はそう思う」と久美さまが書いたところで、とうに終結してるはずなのに。

 「ココロザシ」や「貴賎」あたりに「鬼門」があるというのは、たいへん同意です。
 私の言葉では「地雷」と言ったりしますけど……。それは踏んでしまうと論争がはじまる危険物なのです。人間、誰にでも、地雷が何個か埋まっているようでして。

 私の場合は、どうも一本のモノサシで計られることに、強い反抗意識があるようです。
 久美さまが「森と泥んこ」を「良し」とするモノサシを持ち出された(と感じた)ときに、突進してしまったりするのはそのためです。


 ――で、ご迷惑と、いらぬストレスとをお掛けしたお詫びというのもなんですけども。

 もし、そのうちお暇がありましたら、若手ライトノベル作家の集まる飲み会にお顔を出されたりはしませんか?
 若手というのがちょっと「?」な、私やら、はせがわみやびさんのような人間も混じっていますが、だいたい若いです。平均年齢はきっと30前ではないかと。(最近鷹見さんが入ったから、大きく上がりましたか)
 「このラノ」の一般投票リストの10位までのうち、3人ぐらいの作家がいたりします。
 だいたい月一で、東京の新宿あたりで、皆で集まって飲んでまして。つい数日前に飲んだときに、久美さまのコラムの話やら、このスレのログやらを持ちだして話を通しておきました。「ぜひ来ていただかねば」とか盛り上がっておりました。





>書きこみ文字数制限緩和

 やや。ありがたい。
 しかし1万字っていうのも、気をつけていないとすぐですね。
 長文がウザいという方は、私の書きこみは、かまいませんので飛ばされてください。
 制限があるからこそ美しくなるのであって、文字数制限という制限が取り払われた状態で書くものは、きっとダメダメな出来でしょうから、読んでくれとも申せません。





>葛西さん
>ライトノベルという表現スタイルの話

 まだ未整理ということですけど、その萌芽というあたり。具体的な作品名などは出せませんか?

 「視点=カメラワーク」抜きにして映画は語れず、映画が演劇をただフィルム化したものでないのと同じように、絵を抜きにライトノベルというものは存在しないと思う一人です。私も。
(映画を語れるほど映画に詳しくないので、なんか変なことを言っていましたら、撲殺バットを手に突っこんでください)

 私がそう思う根拠は、非常に幼稚なものなのですけど。いちおう書いておきます。

 だって……。いま現在、読者は本文の一行さえも読む前に、表紙で主人公と「こんにちは」していますものねぇ。この表紙のこの人に逢いたい!――てな気持ちで本を手にとって中を開くのであって、本文を読んで主人公を想像する「足し」として絵が存在しているわけではないのですし。

 とか書くと、最近は主人公でもなんでもない、メインヒロインでもない単なる脇役に過ぎない女の子が表紙を占有していたりする作品も少なくなかったりして、根拠としては弱々な気もするのですけど。

 自分の知らないところで、またパラダイム・シフトが起きてるんじゃないかと思ってみたり。
 表紙絵(パッケージ絵)ってのは、主役と脇役と、舞台とストーリー展開とが、すべて見渡せるようなものであると思っていたのですが。次のパラダイムは、もう違うのかなぁ?





>経済下降と娯楽の関係

 見せかけの不況ではなくて、本当に深刻なまでに不況となった場合を考えてみます。

 人はどんなときにでも娯楽を求めるものでしょうけど。
 娯楽が完全にストップする状況を想定すると、話がはじまりませんので……。
 娯楽にそうそうお金を掛けられない、でも少しだけなら掛けられないこともない、なんて状況になったと想定します。
 そうすると「コストパフォーマンス」が追究されるのではないでしょうか。
 小説というのは、つまるところ、「暇つぶし」の手段なですから。

 いかに安く、いかに長い時間、いかに充実した暇つぶしができるかということが、娯楽を選択する際の、重要な判断基準となるのではないかと思われます。

 いま小説は一冊600円です。
 普通の読書速度の読者が読んだ場合、読破におよそ4時間ほどかかると思われます。
 二度読むことは、原則としてないものとします。

 ゲームでRPG系だと、いま想定クリア時間ってどのぐらいなものなのでしょう。
 コンシューマーの大作で、まあ50時間ぐらいとしておきます。それで8000円ぐらいですね。
 これも二度解きは、やらないものとします。

 漫画本は、一冊400円で、1時間程度とします。これは単行本の場合。
 雑誌では220円で、2時間とします。

 映画は1800円で2時間とします。これは映画館で観賞した場合。
 ビデオレンタルでは300円で2時間とします。

 あともうひとつ、創作物以外から、代表的な暇つぶしの娯楽の手段として――「酒」。
 紙パック酒で2リットル1300円ぐらいでしょうか。1リットルもあれば、6時間は酔っていられるとします。
 焼酎ならもうすこし安くあがりそうですが、まあそんなものということで。

 では1時間あたりのコストを求めます。

・小説     ……150円/時間
・ゲーム    ……160円/時間
・漫画(単行本)……400円/時間
・漫画(雑誌) ……110円/時間
・映画(映画館)……900円/時間
・映画(ビデオ)……150円/時間
・酒      ……216円/時間


 こうしてみると、小説というものは、他のメディアと比べて、抜きんでているわけでもないですけど、そう悪い値でもないことがわかりますね。

 つまり本当の不況になったときには、小説は強い部類にあるといえるでしょう。すくなくとも、弱くはない。
 酒より小説のほうが良いという人なら、コストパフォーマンスにおいて小説を選択するはずです。
 このなかで弱いのは、映画館における映画鑑賞。次いで漫画の単行本ですね。

 ちなみに制作に必要なコストで考えると、小説って断然トップにあるんですよね。
 なにしろ、一人の人間が1週間から6ヶ月程度の仕事をするだけで書けてしまえるものですから。
 小説の次に制作コストが低いのは漫画ですけど、アシスタントなしに週間連載は不可能ですし、月刊連載もかなり無理に近いものですし。
 いちばんコストかかるのが、ゲームか映画か、どちらかですよね。何十人が何ヶ月もかけて、ようやく一本が完成します。

 この観点で考えると、やはり映画の映画館上映がいちばん厳しそうです。制作に金はかかるわ、娯楽としてのコストパフォーマンスも悪いわ。
 制作に金がかかることでは、ゲームも厳しそうですね。
 ただしユーザー人口のほうは、すぐにデータが出てこないので考慮していません。
 制作費というものは、ユーザー数で頭割りできてしまえるものなので、ユーザー数が充分に多ければ無視できる程度にまで落ちてゆくものです。

 製作に関わる手間としては、酒のほうが安いかもしれません。一人の作業員が、何万リットルというタンクを管理できそうですし。

 まあそれにしたって、1人の人間が1週間〜1年程度で完成に至る小説というメディアは、先行投資の少なさという観点でも、群を抜いています。そう考えると、やはり不況に強いということになるでしょう。
 仮に酒と対決ということになったとしても、「工場」も「原料」もなしに制作できますし。チラシの裏紙とボールペン一本あれば、小説を書いて読ませることができますし。

 実際には他のメディアにおいても、「現物」の完成から、商品の流通までには、多くの人の作業時間をかけているわけですけど。小説でいえば「脱稿」にあたるマスターアップ以降に掛かるマンパワーは、どこも同じだろうということで省いています。

 あともうひとつ。
 小説の場合ですが、「1人が〜」と書いたのは、ただ「小説」としているためです。本当に純粋に文字だけで書かれて成立している小説ジャンルもあるわけです。ただ単に小説といった場合には、一般的にはそちらを指すものとしておいたほうがよいでしょう。
 小説ではなく、ライトノベルの場合には、ここは「2人が〜」としておいてください。絵は必須であって、文字だけで成立するライトノベルはありませんので。
 イラストレーターの作業に必要な時間は、だいたい1週間から1ヶ月程度と思われます。ややもすると、文章パート担当の小説家よりも、長い時間をかけて作業されていたりします。

6 名前 : さかなや 投稿日 : 2004年05月23日(日) 17時20分05秒
 ごきげんよう。第13回と第14回楽しく読ませていただきました。

>ジャンルの違い
 作品個々に対する評価と、ジャンルに対する評価は全く関係ないと思います。
 ……というか、読む時にいちいちジャンルなんか気にしないと思うのですけど。

 少なくとも、私にとっては、一般小説も児童文学もライトノベルも、ついでにビジュアルノベルも全部同じ「お話」です。

>児童文学
 私が好きな作家さんは、角野栄子さん、いぬいとみこさん、佐藤さとるさんです。
 ちなみに、それぞれ、魔女の宅急便、北極のムーシカミーシカ、誰も知らない小さな国、の作者さんです。

 その他には。
 空色勾玉、精霊の守り人、ドーム郡ものがたり、ファンファンファーマシィ、冒険者たち、ってあたりがお気に入りです。

>ライトノベルとファーストフード
 どっちも数百年の歴史を誇る日本の伝統文化だと思うっす。
 スシ・テンプラ・ソバはみんなファーストフードですし、絵に文章をくっつけた草双紙はまんまライトノベルですし。

 なので、ライトノベルの挿絵描きさんのことを「絵師」と呼ぶ習慣は、個人的にとても気に入っています。
 ……ついでに、文章書きのことも「戯作者」って呼んでくれないかしらん?(笑)

>宮沢賢治さん
 私の中では「変人」のイメージがあります。……いや、大抵の天才は変人なんですけど(笑)
 どっちかというと、小説より詩の方が印象に残ってますね。原体剣舞連とか迫力があって好きです。 

 この人の作品に漂う宗教くささがどうも好きになれないのですが、純粋にお話として面白いと思います。
 そいや、この人、正式にキリスト教徒になったのでしょうか? 確か、ご実家は日蓮宗でしたよね?

7 名前 : さかなや 投稿日 : 2004年05月23日(日) 18時25分17秒
 連書き失礼。

>挿絵
 そいや、絵師にマンガ家さんを使ったのも、児童文学が最初だったように記憶してます。
 「ドーム郡ものがたり」(旧版)の挿絵が和田慎二さんだったのですよ。
 http://home.u01.itscom.net/shibata/sakuhin/domegun1.html

 この本、初版が1981年10月30日だから、久美沙織さまの『薔薇の冠 銀の庭』より先ではないかと。

8 名前 : 各務桜花 投稿日 : 2004年05月23日(日) 19時18分12秒
こんにちは、再びお邪魔いたします。

好きな作家・・・。と考えてかなり悩んでしまいました。好きな作品ならぽんぽん出てくるのに(笑)
うちのサイトはライトノベル中心なので、その作家さんを何人か挙げてはいるものの・・・。実は書
かれた作品をほぼ制覇している方だったりします。
作品がほぼベクトルが合う人・・・というような感覚です。

挿絵はあればこだわる。なければ勝手に自分で想像してます。そのへんを綺麗に割りきっている自分
に13回目を読んで初めて気付きました。良くも悪くも現代人だなー、と。

児童文学、私も久美さまと同じで、日本のものはほとんど読んでいませんね・・・。「クレヨン王国
シリーズ」だけは別。特に「月のたまご」シリーズは本当に面白くて泣けて今でも捨てられません。
推薦図書は、あらすじ読んだだけでつまらなそうだと思ってました(汗)もっとひどいかも・・・。
外国ものですと、「メリーポピンズ」「はてしない物語」「ナルニア国物語」「猫つり通りシリーズ」
(知ってる方いらっしゃるかしら・・・。)など。結構きりがないです(笑)

ライトノベルは、実は高校2年の後半くらいから本格的に読み始めました。中学のころは文学(夏目漱石)
とかにはまってましたから、ある意味年齢は逆転してると思います。
その時はその時で、ちゃんと面白かったですから。対象年齢の時に読まなかった反動か、こどもだましい
をもっているのかどうかは謎、ですが^^;

最後に。私もジャンルはあまり気にしてないです。目に付いて面白そうだと思えば何でも読みます。

9 名前 : くぼひでき 投稿日 : 2004年05月23日(日) 19時18分40秒
久美さま みなさま こんにちは
ものすごい長いんで、「えー」って人は飛ばしてください。
(一度投稿して失敗しました。文字数オーバー・・・。1万文字とは1万バイトでした。全角5千文字までです)。

第14回  「嗚呼憧れのハードカバー」
を読みました。
 児童文学のことに触れられてる部分でもあり、光栄にもわたしの名前までコラムに引っ張っていただいてる(ありがとうございます!)ので、ぜひ発言をさせてください。あいかわらず長いですが、1投稿の枠が広がったようなので、これ幸いと書き込みます(と弁明するから長くなる)。


 まずは、ライトノベルはこれでいいのか、という部分ですが、
 葛西 伸哉さまがおっしゃってることに絡めて考えると、明らかに「小説」とは違うと思うんですね。
 文字で、散文で、主体となる部分が書かれるから「小説」に見える。作家も編集者も読者もその認識の中にあるけど、それは違うぞ、と。葛西さんが言うのはこうです。

 まず「小説」という言葉を少し広げて、「文芸作品」つまり文章で作られる芸(または芸術。これは作家の主体性にかかわるのでどちらとは限定しません)と考えるとわかりやすくなるかな、と思います。
 つまり、「文芸作品」の中に「小説」があり「ライトノベル」がある。
 少しわかりにくいですね。別のメディアを例にすると、なんとなく形がつかめる気がします。

「映像作品」の中に、「映画」と「テレビドラマ」と「セルビデオ」などがある。基本的に手法は同じはずなんです。台本があって、カメラで撮影して(記憶媒体は違うかもしれないけど)、それを受け取る側は「画面」を通してみる。そこに変わりはない。けど、なんか違う。形式だろうか、画面比率だろうか、ストーリーだろうか。そうじゃなくて、「作り手」と「受け手」のあいだにある一種の共犯関係(または信頼関係)に則った規則がそこにあるのではないか。

 「純文学」も「詩」も、「児童文学」も「SF」も、「ライトノベル」も「少女小説」も、「前衛」でさえも、「作り手」「受け手」が共有する規則があった上で、書かれ、刷られ、読まれてるのではないか。
 その規則は、作られるその作品を、規定します。
 ハードカバーやペーパーバックがある理由も、読者が例えば「これはSFじゃない」と考えることがあるのも、すべてその規則が暗黙に形成されてるから。だから草創期や成長期にはその規則の可能性を示すためにいろいろな物が作られるが、円熟期に達するとその勢いは緩くなる(たいてい、その分野に大御所が出てくる頃です)。
 こんな風に考えるのは、わたしが「受容理論(または読者反応批評)」を信条にしてるからです。

「作者は言葉を、読者は意味を持ち寄る」(ノースロップ・フライ)のであれば、その規則は受け取る側が形作っていくものになるのではないか(じゃあ、作者の立場が無いじゃん! って言われるんですが、作者とは作品の1番目の読者でもあります)。

 では、読者はライトノベルをどう作ってきたのか。
 そこに挿絵の必要性の謎があると思われます。


>読者は、誰かが描いた絵をみて、主人公の顔を「知る」。
>自分から、ゼロから想像することはほとんどない。

 と書かれている久美さまの危惧は、つまるところ「文学」の危惧です。文章だけで、そこから立ち上る香気をすくいとる。これが、文学の要求する想像力。そして、文学読者が長年作ってきたもの。

>「挿絵なんかなくて、自分で好きに想像するほうがずっと楽しい」といえるひとは……テキストそのものを愛するひとは、いまどれぐらいいるんだろうか。

 これです。
 しかし、ライトノベルが要求する想像力の質はそれとは違う。つまり
>そうでなければ成立しない作品なのか。
 そうでなければ成立しないんです。

 たとえば、わたしは江戸川柳の研究などもしてますが、あれなどは、俳句とも違う、ましてやライトノベルとも違う。強いて言うなら落語を聞くのと似た想像力が必要になる。
 そしてそれも文芸作品なのです。

 久美さまの危惧は、さしあたって緩和されるはずです(緩和することが目的の文章ではないんですが)。
 だってそれは文学への危惧であって、ライトノベルのものではない。もひとつ言うなら、文学読者の共有する危惧であって、ライトノベルは全く違う位相で発達していくものです。もしライトノベル読者が危惧を抱くとすれば、「此の話にこの絵はあってないだろう」ではないでしょうか。
 アニメを見たときに、キャラから想像していたときの声と、あてられた声優の声が違う。そういうものに似ている気がします。

 しかし緩和は緩和。本来の危惧、文学的想像力の減衰ほうはまだちっとも解決してない。これは、文学読者で解決するべき問題です。どうすればいいのか。
 わたしはもっと文章の力を信じるべきではないかと思う。
 あえて強弁するなら、視覚などの直接的な感覚(五感)に頼らない、これが重要ではないか。もちろん、作者と表現が伝わるためには、そうした感覚も必要だけどそれは最低限であって、それ以上のものを喚起する文章の力が必要ではないか。そうして喚起されるものを形而上的と呼ぶのは筋違いかもしれませんが、あながち間違ってないと思います。
 その方向性が極端に走れば、純文学になる。例えば『死霊』であるとか。
 それがエンタテインメントへと昇華されたのが、ミステリーの分野、新本格ではないか、と。
 ひたすら目で見えるように、耳で聞こえるように書こう、というのがそうしたものを呼び起こす「文学読者」に必要な想像力をスポイルしてしまったのではないか。そう思うことがあります。



と、ここから児童文学の話。
掲示板でのお話前に書かれたってことを踏まえても、

>児童書と、ライトノベルはどこがどう違うのか?
>だって、重ならないでしょ。作家が。

重ならなくて当然だと思うんです。それはマンガ書く人とも重ならないよね、って言ってるのと同義だからです。
上の文章でわたしは
「作り手」「受け手」が共有する規則があった上で、書かれ、刷られ、読まれてるのではないか。
 その規則は、作られるその作品を、規定します。
と書きました。

 この規則。ものすごく単純な公理を呼び起こしそうです。しかしその公理は、そのジャンル内でのみ有効となる。逆にいうと、ジャンル外の作品でもその公理に当てはまるものを感じれば、読者はそれをジャンル内の作品とみなす可能性があります。

 わたしはこれを、勘所 とよんでいます。三味線の演奏技法で出てくる言葉です、かんどころ。「らしさ」という人もいますが。

 それぞれのジャンルにはそれぞれの勘所があり、それをもっとも強く宣言しているのはSFです。つまり、センス・オブ・ワンダー。SFほど、自分達がSFであるとはどういうことかを考えているジャンルはない。だからこそ、熱狂的なファンが増えていくんですが、その他のジャンルはこの勘所をうまく磨いていないのではないか。

 たとえば、新潮社の「ファンタジーノベル大賞」。第1回で『後宮小説』が賞を取ったとき、その選評にあたって、すべての委員が「ファンタジーとは何か」について言及しているんですね。つまり、乱暴に要約すれば、ファンタジーの勘所とはなんなのか、それについてまだ考えがまとまらない。しかし、『後宮小説』にはファンタジーを感じた、と。

 とすれば、児童文学とライトノベルの作家が重なりにくいのは当然なんですね。ということは、読者も重なりにくいです。多くの人は、ライトノベルに到達する前に、児童文学に必ずといっていいほど触れている(触れさせられている)ために、読者が重なっているように見えますが、どちらかを読めというとき、どっちも捨てがたい!っていう読者は少ないと思います(わたしはそういうタイプです。すべての文章表現は捨てがたいです)。

 久美さまが挙げてくれたリストの中では、西田俊也さんがその後、児童文学を一冊書いております。萩原規子さんの「勾玉」シリーズを手がけた編集者が話を持ちかけ、『少女A』という作品を上梓されました。

 その編集者は(現在、徳間書店におられる上村令さんです。現在の日本児童文学および翻訳児童文学の方向を力づくで変えてしまった名編集者です)、西田さんの書かれる作品に「読者」として「編集者」として、児童文学の勘所を見つけたのではないでしょうか。

上のふたつの話を総合すると、
>わたしって、ペイパーバックライターの器なんでしょうか。
>一生このままなんでしょうか。
は、その勘所をどうつかんでくるか、ってことになると思います。
かつて、河出書房新社が「ものがたりうむ」というシリーズを出しました。大人小説の作家が、子どものために本を書いたというシリーズです。半分が、児童文学の勘所をつかみそこねてる気がしました。

 児童文学の勘所を持っている作家さんはけっこういます。
 たとえば山田詠美さん。あれだけエロくて、すげえ話を書く人ですが、『晩年の子供』に収録された同題短篇はまさしく児童文学でした。

 ライトノベルに近い作家だと、矢崎存美さん。井上さんの異形コレクション7『チャイルド』のトップに載った『グリーンベルト』は、たったひとつの文章を除けば、児童文学の勘所です。逆にいうとその文章が勘所をはずしてしまった。ここに児童文学の突破口があると思います。その文章は
「そこでたまたま事故に遭ってしまったのは、幼児ゆえの油断なのか」
です。

 久美さまが、ハードカバーを出したい、といわれる時、それがどのジャンルに根ざすものかはわからないんですが、その勘所がもしかしたらずれてるのかもしれません。けど、修正できるずれかもしれません。わたしは久美さまの訳した『ヘイスタック』は大好きで、研究会でも取り上げました。

10 名前 : くぼひでき 投稿日 : 2004年05月23日(日) 19時19分22秒
連書き、ほんとすいません。後半です。

こっからはコラムに関して、児童文学の立場から反論。

>なんでこんなん読まなあかんねん?
>もっと読みたいもの他にあるのに。

 推薦図書、課題図書、これらですね。良い本もあるんですよ。だから本そのものが悪いわけじゃない。
 つまり、上で言う共犯関係をもってない人に対して、無理になんらかの本を与えるから、それが「つまらないものだ」ったとなるわけです。
 SF好きじゃない人にSF読ませたり、古典嫌いな人に古典勧めるのと同じ行為なんです。
 優秀な司書さんであれば、その人の好みから「こういうのはどう?」と勧めていける。その人の趣味を知っていれば、勧めるべき本がある。なのに、その年代にはこれが好ましい、と誰かが決めている。それが実際の読者に合うかどうかは別なんですよね。

 余談ながら、けど課題図書を責めないで、と言いたいです。児童文学作家および翻訳家は、そして出版社は、この課題図書に入るかどうかが、実は収入に大きく関わります。課題図書をやってる毎日新聞にはお金が入るわけじゃない。けど、これに選定されることで、印刷部数と販売部数が大きく変わるんです。初版3000部しか刷ってもらえなかった本が、たまたま課題図書に選ばれたことで、30万部の増刷がかかる。100倍収入が違うんです。しかも同じ作家が選ばれることは、人生に多くても2回か3回くらいしかない。選ばれない人のほうが多い。
 だから、作家に同情して、この記事を読んだ人だけでも、あの制度は許してやってください。


国内の児童文学作家について、
>あとは……すまん。好きだといま思い出せるような相手がいないんである。

 ですが、これも思うところがあります。作家になる人は、作家の名前も比較的覚えていってくれるほうだと思うんですが、けどそれも程度問題で、たとえば幼稚園のときに誰かが読み聞かせてくれた作品の作家の名前をすべて覚えていられるわけじゃない。
 話を聞いてるうちに、作家のことなんか頭から飛んでしまう人もいる。
『日本児童文学』という雑誌の編集長をしている、評論家の宮川健郎さんは、娘がまだ小さいときから(読み聞かせは0歳からでもOKです)本を読み聞かせするとき、タイトルも出版社名も、目次も奥付も、その本に書いてある文字はノンブル以外全部読みきかせている。
 つまり、その本を作った人全てに敬意をこめて読んでいる。あるシリーズを読んで聞かせている。そして同じ作家の別のシリーズも読み聞かせた。しかし、あるとき、娘がその両方のシリーズから1冊ずつ持ってきて、初めて発見したかのように
「この本とこの本って、同じ人が書いてるんだね!」
 って言ったそうです。

 児童文学の特殊性は、他のジャンルの特殊性と同じくらい複雑ですが、その一つに、主な読書対象である子どもたちの問題がある。
 例えば、ライトノベルの読者であれば、たいてい、時間や歴史の観念が身についているし、文章から受ける時代の雰囲気も察しがつく。
 つまり、違う年代に書かれた本を手にして読むと、文章が古いなーとか思ったりできる。これは、その年になるまでに、現代的な文章にたくさん触れていて、それと違うことで「古臭さ」を判断できる。
 ところが、子どもはこの判断ができない、または留保されることがある(ここでいう子どもとは、0歳からせいぜいプレティーンです)。

 子どもにとってはすべての作品は、同じ時間の水平線上にある。100年前に書かれた本だろうと、きのう発売された本だろうと、すべて「現在の体験」として内容に接することができる。
 だからこそ、すべてリアルになる。子どもたちの生活体験が「毎日がセンスオブワンダーでファンタジーである」というのは、大人の立場からそう見えるだけで(あとから実感してるだけで)、子ども達にとってみればいつだってファンタスティックなんですよ(このファンタスティックをきちんと受けとれない子どもたちが、ヤングアダルトであり、そしてアダルトチルドレンになっていくこともありますが)。

 それは作家についても同じことが言えます。先の宮川編集長の娘さんもそうですが、作家なんかどうでもいい。大切なのはそこにある物語。これが子どもです。
 だから、きっと久美さまも忘れてるだけって作品があるはずです。あれは昔話だったのか、自分の体験だったのか、それとも誰かの本に書かれてある話だったのか。作家を覚えるつもりでなかったころに知った話。

 わたしの例でいうと僭越ですが、国語の教科書に載っていた話をずっと覚えてました(わたしは世にも珍しい国語の教科書が大好きで、そこに載っている作品も好きだったというタイプです。教科書だから嫌い、というのは、上の課題図書と同じで、作品そのものに着せられる罪ではないです)。
 しかし作家名が思い出せなかった。その話を思い出すと夏みかんのにおいがよみがえるんです。書いている今もそう。鼻のおくに、つんとさわやかな夏みかんのにおいがする。
 あとあと友人が「それは、あまんきみこさんだよ」と教えてくれて、調べると、確かにその作品がありました。
 わたしが物覚えが悪いかというと、実際そうでもない、はずです。けど、この体たらくでした。


とはいえ、
>うんとうんと小さい時に、ささきたづさんの『白い帽子の丘』が好きだった。
とたったひとりでも、覚えていてくれてうれしかったです。
佐々木たづさんはわたしも大好きで、『こわっぱのかみさま』はすばらしいです。

なぜ、嬉しいのか。

そこが児童文学をしていてもっともエキサイティングだからです。
だって、その人の幼いある時期の記憶を(しかも好きだった、という幸福の印象を)、自分の名前で記憶してもらえるなんて。いや、名前はどうでもいい。作品そのもので記憶してもらえる。こんな素晴らしいことがあるだろうか。
 乱暴に言うならば、児童文学は読者に作品をたたきこむ効能を持ち、ライトノベルや大人文学などは作品以外の要素として「作家の名前」をたたきこむ効能を持っている。作家を追いかけたくなるのはそこに理由がある。しかし、それも「受け手」の規定がもたらしてるんですね。

 そこが、前に投稿した、児童文学の二重性につながるんではないかと思う。「受け手」の思惑がうまく作動しない(幼児の熱烈な批評とかはない)。


>児童書にはかなりの長さの「執行猶予」期間がある……ように見える。少なくとも傍目からは。

 そこが児童書のいいところなんですよ。
 古田足日さんの、『大きい一年生と小さな二年生』は、1970年初版で現在百何十刷りで、累計で150万部のロングセラーです。
 100年前の絵本だって、現役で読まれてる本がある。
 それだけ長生きする理由がいくつかある。

 ひとつは、子どもは循環するということ。あるひとりの子が小学1年生なのは一生に1年だけですが、その次の年もその次の年も必ず1年生はいるわけで、その世代の子が消滅しない限り需要が発生する。そして、上にもかいた「すべての作品は、同じ時間の水平線上にある」わけだから、よっぽどのことがないかぎり古びない。
 ひとつは、児童文学や絵本の文章は、時に単純すぎて、時代遅れにならないこと(語尾や語り口を少し変えれば現代風になる)。

 これもやはり児童文学の勘所につながる部分ではないかと思います。
 本当に長文でした。1万字の壁はどうか!
 失礼致しました。


11 名前 : 葛西 伸哉 投稿日 : 2004年05月23日(日) 23時30分44秒
「新たな表現形態としてのライトノベル」の話、思わぬ反響を呼んでちょっと驚いています。
 私が漠然と考えていたのと同じ事は9番の発言でくぼひできさんが見事に言語化してくださいましたし、あくまでもここは久美さんの「創世記」の感想スレッド。私が自説を披露したり、議論したりする場ではないかと。
 先の話題を振ったのも、久美さんのコラムへの私個人の感想であると同時に、「テキスト主義」とは逆の立場から一石を投じる事で他の方々の思考の一助になればと思っての事ですから。
 いずれ考えがまとまれば何らかの形で発表したり、あるいはその方法論を自作に取り入れる事もあるでしょうが。

 久美さんのコラムは「創世記」というタイトルの通り、現在に至る「ライトノベル」の誕生の現場に立ち会った方の、貴重な生の証言です。後塵を拝する身としてはいろいろと参考になる点が多く、楽しく読ませていただいています。
 ただ、それと同時に非テキスト主義者、半端なオタクの成れの果てとして今ここにいる身としては別の考え方もありますし、現状もまた変化し続ける歴史の一局面だという事も、また忘れてはいけない大切な事なのだと思います。
(思えば久美さんの「創世記」と、冲方さんの「まだ見ぬ地平へ」はタイトルからして対照的ですね)

12 名前 : 時海結以 投稿日 : 2004年05月24日(月) 09時38分40秒
久美先生、皆さま、おじゃまいたします。
14回を拝読いたしました。自分の名があって、おそれおおくなりました。ありがとうございます。

お礼だけで引っこむのもなんですが、感想や考えは既に他の方々のお言葉に代弁していただいたので、ひとつだけ。
先週末、私は日本児童文学者協会の総会に出席して参りました。
会場でアンケート用紙が配られました。次号の機関誌に、集計結果を記事として載せるためだそうで、三択が20項目ほど並んでいます。

「Q1.執筆手段は? 1手書き 2ワープロ専用機 3パソコン」
で始まる、執筆・創作に関する様々な問いがありました。

その中にこんな設問が。
「誰のために作品を書いていますか?
 1自分自身のため 2特定の読者のため 3不特定多数の読者へ向けて」

訊かれるまでもないと、即座に3へ○をつけてから、これは象徴的な質問だなと思いました。
集計結果に興味が出ました。

失礼申し上げました。

13 名前 : くみ 投稿日 : 2004年05月24日(月) 16時56分32秒
戻ってきました。二泊三日パソコンから離れた状態で、これまでのことをいろいろ考えこみ、自分はなんて粗忽でハヤトチリな人間なのだろうと、あきれ果てました。こんな大欠点にこのトシになるまで気づいてないってのがアンビリーバブルにタワケだ。
まちがいない、これはジーチャンの血だ。
母方の祖父(故人)がみごとな「ほらふき」で、しかも、わたしときたら、そのオジイチャンがほんとにほんとに大好きで、愛してて、尊敬しちゃってたんですよお(泣)。
どう「ほらふき」だったかというと……一例。彼は若い頃絵の勉強をするため留学する「はず」だったのに、ヨコハマの波止場についたとたん家から電報が来てオヤジが死んだと(このへんすでにもう脚色はいってるかも)言われ、しかたなくユーターンした(少なくとも自分ではそう設定していた)んですが、のちのち、誰かに「先生は、お若い頃パリにいらしたんですって?」なんて言われると、スワとばかりにパリの風物を語りはじめちゃう。何時間でもいくらでも語る。ぜんぶきっぱり大ウソなんですが……なにしろ行ってないんですから……次から次へと、実に雄弁にかつ楽しくかたる(騙る?)。
バアちゃんがさめざめ泣くんですよ。オジイチャンのウソにはまいると。横で聞いててハラハラして、いつバレるかウソツキと糾弾されるかと居てたってもいられんと。けど……でも、なにしろバツグンにおもしろいんだよねぇ。じいちゃんのしゃべくり。
その祖父はわたしが小説家というプロのウソツキになるわずか二年前に死んでしまったのですが、もしかすると……アタシにずっと憑いてるんじゃないか……???
わたしはわざとウソをつくつもりは微塵もないのですが、どうも、ものごとを正確に捉えるのが苦手なのではないか。なにかを観たり聞いたり感じたりすると、たちまち膨らし粉が入ってしまって(←しかも無自覚)畢竟、大げさにいってしまうのではないか。またウロオボエのものについても、なにかというと語りたがり、ともするとおもしろおかしく言おうとして細部を勝手に演出したり脚色してしまうクセがあるのではないか。
そんな自分と向き合えたのも、みなさんのおかげです。
いろんなかたとめぐりあえ、いろんな物の考えかたを知り、ほんとに勉強になってます。
とりいそぎ、戻ってきましたのご挨拶でした……ってノートン入ってるとダメなの?

14 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年05月24日(月) 16時58分46秒
ノートン入ってるけど、書けたよ。よかったよかった。

えーと、なにしろ不在中に届いたメールとか、こちらのカキコミもあまりにたくさんあり、あわてて対処しようとするとまたオッペケをやるに違いないので、すみません、ゆっくりお返事するので、ちょっと待ってくださいね。

15 名前 : 草三井 投稿日 : 2004年05月24日(月) 23時23分45秒
時海結以さま

こちらの掲示板で失礼致します。
メールはお届きしましたでしょうか?
ひとことご連絡をいただけると幸いです。

16 名前 : くぼひでき 投稿日 : 2004年05月24日(月) 23時44分21秒
久美さま、おかえりなさい。
 わたしのは長駄文なので、返事はうっちゃっておいてもOKです。

 けど、少し気になったので、蛇足ながら補足。
 >9>10で、ライトノベルについて力説してるわけですが、
 わたしは「テキスト主義」なんです。
 児童文学として書く、わたしの作品に絵はいらない。

 ライトノベルは「絵がないと成立しない」と言いつつ、けど、絵とうまくコラボレートしてる作品は少ないなあ、と思う。
 たぶん、テキストができて、それにともなった絵が書かれて、そして出版に向かうだけだからではないか。

 テキストがあって、絵が書かれて、その絵をもとにまたテキストが推敲されて、となるとほんとのコラボレートですよね。
 あ、そういうジャンルがあります。絵本ですね。

 そういう意味で、いままでで一番インパクトのあった挿絵は、新田一実さんの『龍王譚』シリーズで、新井理恵さんが描いたものでした。
 表紙も挿絵も後書きも、ぜんぶ龍王譚のキャラつかって遊んでるんです。ストーリーとのギャップが楽しかったです。
 まるで、『おもしろくても理科』などの、清水義範さんと西原理恵子さんみたいでした。

17 名前 : クロ 投稿日 : 2004年05月25日(火) 00時10分08秒
久美さま、お疲れさまです。
ライトノベルについてですが、
大塚英志さんが「キャラクター小説の作り方」で、
ライトノベルについて書いていますが、
どう思われますか?

18 名前 : 投稿日 : 2004年05月25日(火) 00時33分13秒
絵とコラボレートしている作品が少ない、これはとても感じます。
自分は、デッサンが狂ってる絵をつける作品は微妙と感じます。

イラストははっきり言って要らない。想像力だけで十分。
だけど、つけるなら画力のない人をあてがわれていると、ただそれだけで、
編集ダメだ!と決め付けるところがありまして、テキストの価値すら
下がるような気がする。そうとう偏ってますね。申し訳ない。

絵で購入する層もあるかもしれないけれど、絵があるせいで購入しない、
逆もまた存在すると思います。
皆さんはそういうことはないのかな。作者で追ってるのかな。
好きな作家が、ダサい挿絵だと心からがっかりします。

19 名前 : 来無 投稿日 : 2004年05月25日(火) 03時23分47秒
遙様へ
>好きな作家が、ダサい挿絵だと心からがっかりします。
あります、あります
田中芳○氏の銀河英雄伝○の後期、何の事情か、挿絵が変わった時は心底がっかりしました
とはいえ、それはそれで、その後、挿絵の無い文庫版も購入しましたし、
内容が嫌になったわけではないですけどもねえ
何かこう、料理の中に合わない食材が混じってるような感覚は覚えます
好きな作家なら、挿絵がどんなだろうが取り敢えず手に取っては見ますが
なじみの無い作家だったら、それまでかもしれません(私は)
デッサンは、ねえ…きちんと訓練した人間から見たら大抵は狂って見えるはずで…
逆に訓練してない人間には解りませんので、編集さんが美大でも出てない限り
無理なんじゃないでしょうかね
挿絵やイラストの場合デッサンより重要な(無視していいとは思いませんが)要素は多いとは思います
//
絵とコラボ、と言うなら、理想はシャーロックホームズの挿絵でしょうかね
鹿撃ち帽にパイプ、インバネスというあのスタイルは挿絵画家の創作だそうです
主人公のイメージを挿絵が決めてしまった代表的な例ですが
シャーロックホームズ、さらには「探偵」のイメージまでになってしまったわけで
文章家には面白くないかもしれませんが、挿絵画家からすれば冥利ではないか
と思う次第

20 名前 : 新木 伸 投稿日 : 2004年05月25日(火) 05時26分55秒
>久美さま

 おかえりなさいませ。

 留守のあいだに、いい気になって、たくさん書いちゃっていますけど、ほんと、私のはうっちゃっておいていいですので。
 2000人への返信の件を聞いていると、そうは言っても久美さまはレスをしなきゃと思われてしまうのだろうなぁ、と、思いつつ……。




>テキストと絵の協調作業

 ええと、コラボレートを協調作業と訳してみましたが。よろしいでしょうか。

 現状だと、ギャラの面で考えてみたときに、なかなか難しいものがあるのですね。
 なにせイラストさんのギャラってのは、相場30万ぐらいなものですから。あまり売れていなくて、時間に余裕のある人でも、せいぜい1ヶ月程度しか拘束できやしない。
 そのなかで出来ることというと、表紙を書き、カラー挿絵を数点ほど書き、一色(白黒)の挿絵を10点書き――と、実作業を行うのが精一杯なものでして。

 私の場合は幸いにも、ギャラの分を越えて仕事に踏み込んできてくれる方とばかりやれていますので、協調作業と呼べる領域で、満足のゆく仕事が行えていますけど。
 編集さんも、毎晩遅くまで残業やって休日出勤あたりまえ――と、どうみても給料に見合わない仕事をしていらっしゃるわけですし。
 そのなかでいちばんサボってるのは自分なのではないかと心配になったりしますが。

 ちなみに今日なんかも、次の新刊の打ち合わせの案件が飛び交っていまして。
 表紙案、カラー口絵案(7ページ分)を、どんなコンセプトでまとめていって、どんな構図でなにを描いてゆくべきか、編集、作者、イラストレーターの三者がすべて対等で、意見と叩き台とを出し合って、比較検討などをやっていたりします。
 たぶんこういうのは非常にめずらしいことだと思うのですが。
 普通は編集が全権を握って、イラストレーターの選定から、イラスト内容の指定から、すべてこなすのが実状かと。



>>たぶん、テキストができて、それにともなった絵が書かれて、そして出版に向かうだけだからではないか。

 だいたい、そんなものかと思います。
 テキストができてから絵が描かれるのは普通です。
 ――が、例外的には、そうでないケースもあったりします。
 最近、本文中に挿入される挿絵に関して、キャラの立ち姿などのイメージイラスト系を配置している作品が目立ちますけども。(ストーリーに絡んだ挿絵ではない、という意味で)
 あれはテキストができあがる前に絵を描き始めているので、ああなるわけですね。
 プロット段階、もしくはその巻の登場キャラの外見イメージだけを先に抽出して、そして本文執筆と平行してイラスト発注が行われていたりとか。

 作家への原稿依頼から、原稿納入締め切りまで1ヶ月を切っている(プロット期間含む)、なんて話もあったりしますので、そういうケースが出るのはやむを得ないこともあり……。
(こんな物凄いことになるのは、前任者が逃亡した場合に限りますが)

 しかし、まあ……、協調作業に向けて、現場は努力しているのだと思ってください。
 ライトノベル業界というのは、情熱もなしに続けていけるほどヌルくてオイシイ場所でもないので、現場の人間は限られた条件のなかで、可能な限り良いものを提供しようとしているのだと思ってください。


 う〜ん。
 このへんが、ようするに、「ファーストフードはいかん」という、そういうことなのでしょうか。
 しかし私など、そもそもの環境がはじめっから「こう」でしたから。





>協調作業、その2

 私のケースだけ書いていると偏ってしまいそうなので……。
 テキストを納入したら、装丁(イラスト含む)は他の誰かの仕事――と割り切って、どんな絵が付こうか付くまいが、合っていようがいまいが、まったく気にしないで超然とされている作家さんもけっこう多いです。
 「テキスト主義」というものが、私にはどうにもよくわからないもので、正しい例を出せているのか、いまひとつ計りかねるのですが。
 絵も装丁も気にしない、というのが「テキスト主義」で間違っていませんよね?

 また協調作業の可能性に惹かれてはいても、みずからスポイルしてしまっている方もいます。デビューしたてだったりすると、あれこれ言ってはイケナイのではないかと萎縮してしまっていたりとか。

 おおざっぱに言うなら、「テキスト主義」「協調作業に興味があって働きかけもできている」「興味はあるが働きかけはできないでいる。編集任せ」が、ちょうど同じ比率で3分の1ずつといったところでしょうか。





>協調作業、その3

 こんな小説賞があったりします。

「エニックス・スクウェア小説大賞」
http://www.square-enix.co.jp/magazine/prize_novel/

 まずキャラデザインのビジュアルが先にあり、そのキャラを生かした小説を書くというものですね。

 ノベライズとも違う。
 ノベライズは元のストーリーや世界観が「主」であって、小説が「従」の役割を担うものですけど。
(――ってノベライズ開祖の久美さまがいらっしゃるところで語るもんじゃないのですけど。たぶん久美さまには久美さまで、別解釈があると思うのですけど。すくなくとも私が認識している「ノベライズ」というものは、そういうものであるということで、ご了承ください)

 キャラクターデザインが「主」で、小説が「従」という、おもしろい形態ですよね。
 どんなことになるものやら、結果を見てみたいところです。





>主従の関係

 ふと思いましたが。
 主だの従だの言っているうちは、それは協調作業ではないですね。
 協調作業というからには、対等に近い関係でないと。両方向のフィードバックがあってこその協調作業でしょうから。
 もちろん、最終的な決定権はどこかが持ってないと話がこじれますけど。





>デッサンの狂い

 これは専門家でもなければ、案外と気にならないものではないでしょうか。
 また専門家のこだわるものと、読者のこだわるものとは違うわけですし。
 画力はあるに越したことはないでしょうが、最低水準をクリアしてさえいれば、あと要求されるのは画力とは別なもののはず。

 これは小説にもいえることでして。
 たとえば読者のほとんどは、視点の狂いなんて、たいして気にはしません。視点がおかしいとわかって、気にしてしまうのは専門家ぐらいなものです。

 たとえるなら、魚料理を食べて、その魚が養殖か天然かということが気になるかどうかというところでしょうか。牛肉を食べて、和牛かオージービーフか気にするかどうかとか。
 タイであれハマチであれ、養殖も天然も気にしないという層が、消費者のほとんどを占めているのと同じように、デッサンの狂いも、視点の揺れも、消費者は普通は気にしないものと考えています。

21 名前 : 海燕 投稿日 : 2004年05月25日(火) 05時44分37秒
>涼元悠一

僕はいまこのひとがシナリオを書いているゲームをプレイしていたりします。タイトルをいわなくてもわかるひとはわかるでしょう。わからないひとは、わからないままのほうがいいかも。

>ミステリ作品の中には、「形相」をサカテにとった驚天動地のトリックを使ったものすらある

泡坂妻夫さんのあれでしょうか? 違ったらすいませんですが、あれはほんとにすごいのでぜひ皆さんに読んでほしいですね。タイトルは書きませんけど。

>特に「月のたまご」シリーズは本当に面白くて泣けて今でも捨てられません。

「月のたまご」はおもしろかったですね。児童文学なのに長い長い。途中からはほとんど「大菩薩峠」的な群像小説になっていきます。巻数を経るごとにヒーローのサード王子はなさけなくなり、ヒロインのまゆみはどんどん美少女になるのがおかしい。ちなみに僕はダマーニナが好きです。清純派美少女アイドルのまゆみより影のある彼女のほうが魅力的だと思う。いま出ている「クレヨン王国幾山河を越えて」にはサードとまゆみの子ども(!)が登場するそうです。はやく読まねば。

>「銀英伝」

第1巻第1章の挿絵のなかに、あのファーレンハイトがまじっているのだと考えるとなかなか複雑な心境かも。ファーレンハイトは帝国軍の提督のなかでもラインハルトとキルヒアイスに次ぐくらい若いはずなのに。

>つまり、「文芸作品」の中に「小説」があり「ライトノベル」がある。

そう考えると、すべてのライトノベルの書き手は広い意味での作家ではあっても「小説家」ではなく、たんに「ライトノベル作家」である──ということになりますね。さらにいえば、ライトノベルはそれ自体完結したひとつのジャンルなのだから、「小説」に対して損害をあたえることはないとしても、逆になにかしらの貢献をすることも少ないと考えるべきなのでしょうか。ライトノベルは幾人もの優れた「小説家」を排出していますが、それ自体は漫画やアニメやポップミュージックがそうであるように、「小説」に対し特に益にも害にもならない存在である、と。

僕個人はこの説には多少異論があります。ライトノベルが従来の「小説」とは決定的に異質だといえるほど斬新だとは思えないからです。極端な改行を多用するものが比較的多いことを除けば、ほとんどのライトノベルの小説部分の文章や構成は従来の小説とさほど変わりありません。挿絵を除き文章部分だけを取り出せば魅力が半減するライトノベルは多々あるにせよ、それによって完全に意味が通らなくなってしまうようなものはさすがに稀でしょう(挿絵があっても意味が通らないものもあるような気もするけど……)。

挿絵と文章が渾然一体となってなにか未知の効果を生んでいるようなら、これは「小説」とはちがうあたらしいジャンルの娯楽作品だといえるでしょうが(ビジュアルノベルがそうかもしれない)、ただ文章部分と挿絵が並んで掲載されているだけのものなら、それは単なる「挿絵付き小説」にすぎないのではないでしょうか。時にはきわめて優れた挿絵付き小説ではあるにしても。たしかに絵と文章のコラボレーションにより絵単体、文章単体よりさらに優れたものを生み出すことはライトノベルのひとつの理想でしょうが、すくなくとも現時点では、そこまで革新的なことをしているとは考えがたい。

一般的な小説にくらべて多少挿絵の枚数が多いこと、そしてそれが漫画的/アニメ的な絵柄であることのほかは、大半のライトノベルは「小説」の限界からそれほど大きく逸脱していないと僕は考えます。実際に小野不由美さんの「十二国記」や乙一さんのいくつかの短編は、一度ライトノベルとして出版されたのち、挿絵を省かれた形で再出版されていますが、それによって不完全な形になったとは思えません。しかし、これはあくまで現段階での話。あるいは、ライトノベルはまだ未完成の形なのかもしれません。いずれ僕たちは「小説」とはまったくちがうなにかと出会えるのでしょうか──?

22 名前 : 葛西 伸哉 投稿日 : 2004年05月25日(火) 08時26分07秒
海燕さま

 あまり長々と書くとスレッド本来の目的から外れそうなので簡潔に。
 現状では「従来の小説とは異なるライトノベル」が確立しているわけでもなければ「現在ライトノベルと呼ばれているもの」すべてがそれを志向しているわけではありません。
「ライトノベル」として販売されているものの中に「一般文芸」的なものと「新しいライトノベルの萌芽を秘めた作品」が混在している事は矛盾でも問題でもないと思いますよ。

23 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年05月25日(火) 11時07分13秒
活発なカキコミありがとうございます。なかなかお返事できなくてごめんなさい。

非それさま。コンビニやキオスクにも書棚はありますが超激戦区ですね。マンガ誌のお客さんをコンビニに取られ、貸しビデオ屋さん併設の郊外型大型書店にベストセラーを取られて(トーハン・ニッパンは実力主義ですから、たくさん売れるところから配本します)さらにはアマゾンやBK1などのオンライン書店にもお客さんを取られて、町の小さな本屋さんはほんとうに大変です。わたしは欲しい本は近所の本屋さんから(うちの町にあるのはチェーン店の支店ですが、成績が悪すぎれば消えてしまう可能性もなくはないでしょう)取りおきや取り寄せをしてもらって、買うようにしています。

葛西さま。「今の若い子の、絵を描くことの上手いこと……ビジュアル的な感性がさらに幅を利かせるようになるのかも」まさに。海の色もチワワの愛らしさも「見せればイッパツ」、コトバで正確に伝えるのは無理。動画に効果音やBGMまでついたものを受け取ることに慣れた脳みそが多数派になればなるほど、微妙な言い回しや文字面をじっくり味わうのはマイナーな趣味になるかも。

その点からも、新木さんのコスト検証、面白かったです。小説とマンガと酒は受け手ひとりひとりが自分の好きな速さ(遅さ)で味わい、映画や音楽は発進側のスピード設定を受け入れるもの。ゲームはものによる。ヒマをつぶすべく娯楽する、娯楽したいためにヒマを作り出すのと、ほしがるものが違うような気も。飲み会へのお誘いありがとうございます。いい男いる(笑)? 婆は朝が早く、夜更かしは苦手なんですが、ご縁がありましたらぜひそのうち。

さかなやさま。賢治は間違いなく変人です。国柱会という「八紘一宇」な団体(http://www.ihatov.cc/monument/039.htm)に所属しつつ、エスペランティストでもあり。なにしろ「世界ぜんたいが」幸福にならないうちは幸福になれない、と感じてしまうひとですから、生きるのはさぞかし辛かっただろうと思います。『ドーム郡ものがたり』存じませんでした。バラギンは昭和59年6月なのでたしかにそちらが先です。妹尾ゆふ子ちゃん、よく読んでるなぁ。

各務さま。「挿絵はあればこだわる。なければ勝手に自分で想像」わたしもそれに近いです。ノース・ウエスト・スミスにホレたのはまちがいなく松本零士さまの絵ゆえだしなぁ。















24 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年05月25日(火) 11時44分10秒
へんなとこまでラインはいっちゃった。おまけに大量の空白がはいっちゃった。ごめんなさい。ヒトコトずつコメント返していくのもどうかと思いつつ、お答えしたくなったとこに短く。

くぼさま。「勘所」なるほど。よいコトバですね。芸域の広いかただと、声域の広いひとがいろんな歌を歌いこなせるように、あちこちのジャンルの勘所に自然と対応できるのかな。「課題図書を責めないで」ごめんなさい。自分の書いたものがが選ばれることは一生ないだろうなぁと思ってしまうので、これはイソップの酸っぱいブドウの負け犬ならぬ負けキツネの遠吠え?です。

葛西さま。――「創世記」と、冲方さんの「まだ見ぬ地平へ」はタイトルからして対照的――ほんとだ。冲方さんアンジョンファンそっくりだし(←マリノスでわたしの愛する坂田くんのライバルであり同時にツートップの相棒でもある)?

時海さま 「1自分自身のため 2特定の読者のため 3不特定多数の読者へ向けて」わたしは3か2か迷うところです。2、ただし時間的に未来に向けて無限に開けていたいゆえに結果として3、と思いたいかも。

クロさま。大塚英志さんの方法論はたいへん興味深かったですが、「小説」単体の完成度を高めることよりも複数メディアに展開していった場合の全体の成果を期待しているものであるように感じました。ビジュアル作品にして、しかも公開上映は赤字でも、放映権とセルDVDとサウンドトラックと各種関連グッズ販売となんとか戦隊ショウのあがりの全部でとりかえすから、みたいな。また、それだけにひとりの天才のセンスや個性にたよらず、市場分析と宣伝や販売の可能性にもウエイトを置いているものだとも感じます。大勢で責任を分担してシゴトするのが好きなひと向けなのでは。

遙さま。そのあとの新木さま。「絵とコラボレートしている作品が少ない」難しいですよね。たがいに尊敬できる仲良し同士がほぼ同等にその作品を愛し、互いに遠慮なくツッコメるような理想的(時間的精神的経済的ゆとりがある)なものばかりならよいのですが。

新木さま。エニックスのあれはすごい着眼点だなぁと思いつつ、そこまで来ちまったか、でもあり。月9ドラマがまずキャストから決まるようなものでしょうかしら。

遙さま。「デッサンは、ねえ…きちんと訓練した人間から見たら大抵は狂って見えるはずで…」アニメ風の絵はデフォルメ命ですからねぇ。なまじリアルすぎるディズニーアニメの人物のフォルムや動きを見るとわたしは「だったら実写で撮ればいいじゃん」と思ってしまいます。

海燕さま。「泡坂妻夫さんのあれ」ウフフ。それです。他にもあるかと思いますがあれが有名ですね。

とりいそぎ。












25 名前 : くぼひでき 投稿日 : 2004年05月25日(火) 15時55分24秒
今日は短くするぞと心に誓いつつ

久美さま
お返事ありがとうございました。

>芸域の広いかただと、あちこちのジャンルの勘所に自然と対応できるのかな。

だと考えます。音楽分野は、リズムとジャンルが一体化してるわけですが(ジャズのリズム、ボサノヴァのリズム、ロックのリズム)、そのリズムにうまく乗って演奏できるとか作曲できる、といったようなものではないでしょうか。


新木さま
>比較検討などをやっていたりします。

この方法論にはとても魅力を感じます。とくにノベルという分野においては刺激的なものになるのではないかと思いますが。

現場については、わたしも一時期、角川書店さんの下請けで雑誌作りにかかわっていましたから(電算写植。1993年ころのマル勝PCエンジンのゲーム記事とコミックネーム)、現場の方の意気込みはわたしなりにわかります。大変ですよね、ほんと……。

>絵も装丁も気にしない、というのが「テキスト主義」で間違っていませんよね?

この辺はそれぞれの主観になると思いますが、わたしは間違ってないと思います。わたしについていえば、視覚による見せ方は考慮しない。シンプルテキストだけで読んでもOKという感じです。



海燕さま
>ライトノベルはそれ自体完結したひとつのジャンルなのだから、「小説」に対して損害をあたえることはないとしても、逆になにかしらの貢献をすることも少ないと考えるべきなのでしょうか。

 そんなことはないと思います。
 その理由は、まず「完結したジャンル」ではないということです。ライトノベルに限らず、詩歌だって、小説だって、映画だって、音楽だって、完結してないから新しいものを作ろうとする人間が出てくる。完結していたらそれこそ再生産しかなくなってしまいます。

 完結してないジャンルを、常に発展する人間が進めていくのだから、必ずジャンルの混交がおこります。
 ライトノベルは確実に、小説に対して「益」になってると思います。現状がそうです。「小説」の世界では、作家の質について膠着が起こっていましたが、ここ数年、ほかジャンルからの参入によって、また質があがってきました。ライトノベル作家さんであれば、桐野夏生さん、津原泰水さん、小野不由実さん、岩井志麻子さん、など。児童文学作家であれば、江國香織さん、佐藤多佳子さん、など。戯曲作家では、柳美里さんがそうですね。
 そのほかのジャンルからもきっとよい参入があると思います。
 願わくはその逆もほしいところです。


 いずれにしてもわたしの趣旨は、表現されてしまったものを「読者がどう受け止め」「どう受容され」「ジャンルを形成していくか」です。
 書き手が単独でジャンルを作るのではなく、読者の要求(声になる要求とならない要求があります)が作家に意識的・無意識的に反映される。(繰り返しますが、作家も読者のひとりです)。
 これまでは無意識的な反映が多かった。それは「方法論(=勘所)」が意識化されてないってことです。だからどこかで行き詰るか、意識化しなくても天才的に(または惰性で)仕事をこなしていけるか、です。
 けれどやはり「なにがライトノベルをライトノベルたらしめているのか」ってのは、考えられてしかるべきと思います。SFが常にSFとはなにかと考えているように(ただ上にもあるようにジャンルの混交は起きますので、人によっては、SFのことも考え、ライトノベルのことも考え、となるはずです)。
 意識的な反映と、作り手としての矜持がうまくまざりあって、ジャンルならではの表現が高まっていけばいいのではないでしょうか。
 今現在、絵がなくっちゃだめ、文もなくっちゃだめ、と読者が感じる萌芽はすでにあると思います。いわゆる「萌え」も、雑誌「活字倶楽部」の存在もそこに根ざしているのだと感じます。
 そのなかで、やはり作家の資質として、さまざまな方向性の作品が書かれていくのではないかと思います。そこで、

>ライトノベルが従来の「小説」とは決定的に異質だといえるほど斬新だとは思えないからです

 にかかわってきます。現在はまだ、「小説」の呪縛から逃れ得てないのではないでしょうか。けど、「ライトノベル」にはあきらかにこれまでと異なるなにかを感じますよ。久美さまが書いてらした黄表紙に近いが、現在風に進化したもの。
「小説」と「ライトノベル」は、良い言い方が尾もつかないのですが、「文法」が違うように思われる(国文法という意味ではないです。同じ日本語を使ってる以上、そこは同じ)。

 似ていても違う「文法」を持つのは、先にあげた「映画」と「テレビドラマ」とか、「能」と「歌舞伎」と「狂言」とか、「俳句」と「川柳」とか、先例があります。
 それらの関係性に類似する意味で、「ライトノベル」と「小説」は何かが違う。その違いこそが、ライトノベルをライトノベルたらしめるものではないでしょうか。今ははっきり「意識化されてない」ために、わかりにくい。たとえ意識されても、外部には理解されにくい。
 俳句と川柳は、ともに5・7・5の語数で作る短句ですが、外部にはわかりにくいでしょうけど、違いがあります。よく言われるのが「季語があれば俳句」ですが、無季俳句なんてのもあるし、川柳に季語を使う例もあります。
 では、俳句と川柳の違いを、拙論「勘所」でいえばなんになるかといえば、俳句は「さび」。川柳は「諧謔」です。

 かつて、野田昌宏大元帥(という通称です)が、「SFは絵だねえ」といった名言は、なんかしら、ライトノベルに通ずるものがあるように感じます。

また長くなりました。すみません。

26 名前 : 新木 伸 投稿日 : 2004年05月25日(火) 17時45分14秒
SFは絵だねぇ
 ライトノベルは絵だねぇ。――と、切に思います。

 ところで「描写と説明」との違いって、ありますよね?

 よく「描写がない」とか言いますし、じゃあ描写ってなんなのよ、となると、これがなかなか説明できなかったりするわけですが。

 作家なら体で知っているこの違いですけど。
 自分でやるぶんには体で知っていても充分なのですが、人様に伝えようとすると、言語化しなきゃならなくなる。

 なかなか言語化できないこの概念を伝えようと悪戦苦闘していたときに、相手の方が、自分の至った理解をぽろりと口にしてくれまして。
 その言葉があまりにも穿ったものであったために、以来、「描写」を説明するときには使わせてもらうことになりました。
 その言葉というのは――。


「小説を読んでいったあと、あとから思いかえしてみたときに、「絵」が残るものが描写であって、「言葉」が残るものが説明である」


 ――というものです。
 この場合の「絵」というのは、視覚に限ったことではなくて、五感すべて含んだ体感イメージみたいなもの。読者の脳裏に浮かんでくる、見て、聴いて、触って、嗅いで、味わえるもののことです。
 これは小説の作法ではないのかもしれません。
 しかし私には、これを求めてゆく方向に進んでいるのがライトノベルではないかと思えます。

27 名前 : 来無 投稿日 : 2004年05月26日(水) 04時22分10秒
久美様
前発言にちょっとだけ補足
デッサンの狂いとデフォルメは違うです
デフォルメは画面作りに必要なことですが、デッサンの狂いは基本的に不要(無い方が良い)です
ものすごいデフォルメでもデッサン正しい人も居れば(例えばピカソとか…)
リアル系でもデッサン狂ってる人も居ます
(もちろん、絵柄等によっても最低限必要な正確性は変わって来ますが)
狂いは狂い、効果は効果、別物ではあります。
困ったことに?デッサン力はある筈の美大出身の絵師でも狂ってることがよくあったりするので
文芸の編集さんにそこまで見ろってのは、やっぱ酷だよなあ、と

28 名前 : 来無 投稿日 : 2004年05月26日(水) 05時05分07秒
連続で申し訳ありません
とはいえ、新木様のおっしゃるような
>デッサンの狂いも、視点の揺れも、消費者は普通は気にしないものと考えています。
で、気にしないであろう部分を仮に切り捨ててしまっていたとしたら(新木様がそうだと言うんじゃありません)
やっぱりプロの作家としてはどうなんやろう?と消費者側からは思ってしまいます。
確かに気にする消費者は少ないかもしれませんが解る人は解るわけですから。
編集は気づかなくとも、作家は気づかなきゃいかんよな、と
(編集は編集のプロなので、ここで文章切って絵を入れちゃいかんだろうとか
 誤植だ、乱丁だというのは作家が気づかなくても編集気づけと思いますが)
気づいてて放ったらかしなら、受け手をなめてるわけだし、
気づいてないなら能力に疑問が…というわけで
一般消費者が気づかないところをどこまでフォローするか、が
作家というかプロの良識の「偏差値」な気がします
(ボンドシリーズだったか、中学生くらいの理解力を対象にって話を聞いたことがありますが
 中学生に理解出来るように書く、ことと、中学生なら気づかないだろうことを省略するのは
 やっぱり全然違うよな、と思うわけです)

課題図書について
記憶ではその課題図書がまんま、学校の課題だったように思うんです
つまるところ、全国的なコンクールに出品する為の感想文を書くのが宿題と
地域や学校の方針のせいではあるんでしょうけども
宿題だから,買いたくなくても買わされた記憶があるわけで
作家先生の生活はともかく、素直に認めたくない心境ではあります
心狭くて申し訳ないですが…

29 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年05月26日(水) 11時07分21秒
コラムの続きのアップロードが遅れていてすみません。わたしのせいです。SFマガジン今月号、とっても面白いです。異色作家特集のため座談会でジャンルに関する話題が出ていました。アチラの大家でもジャンルわけしにくい作品は売り込みに苦労なさることもあるようで、驚きました。そんなのを読んでいてテキスト主義について、チラッとヒントになるかもしれないことを思いつきました。英語で考えるととっても顕著なんです。アルファベット26文字と、数字と記号しかないから。それだけなのに、物凄いものが書ける可能性がある。しかもそこでは音読テキストと活字テキストの間にほぼ差はない(段落わけの表現などに多少問題は残りますが)。
我らが日本語は漢字が膨大にあり、同音異義語が多いため、音読と活字で受け手の印象にどうしても違いが出てしまいがち。漢字を読む時には「よみがな」と同時に「意味」も読むため、書き手は意識的するしないに関わらずそれを利用しているはず。森岡さんの星界の紋章における巧みなルビ使いなどは、あきらかに意識的で、英語人種には残念ながら利用不可能なみごとなはなれわざですね。
ちなみに私めの知人に目のご不自由な詩人・歌人がおられます。彼女の作品は何冊か単行本になっており、そこでは漢字、カナ、かな、ローマ字などが自然に使い分けられているため、知らずに読めば作者の目のことはわかりません。いったいどうやって把握しているのか尋ねたところ、わたしたち同様、膨大な読書をして(点字で、あるいは音声訳で)少しずつ使用法を蓄えられたそうです。地名、人名などはじめて触れるもので特定の漢字をどう使っているかについても、部首などから理解できるそうです。「色」などは「リアルには」わからないのではないかと思うのですが、香りや手触り、場面の雰囲気などから感覚的に捕えておられるようで、彼女の作品は実にカラフルです。
たぶん、彼女が理解しているものが純粋なテキストにもっとも近いものだ、とわたしは考えますが、いかがでしょうか。

30 名前 : くぼひでき 投稿日 : 2004年05月26日(水) 12時28分29秒
テキスト主義の話ですが、久美さまの知人をあげた例示で思い出したのが、ボルヘスです。

 ボルヘスは後年やはり失明しましたが、それでも読書は止められなかった。
 彼は毎日数時間、読み聞かせをしてもらったわけですが、その状況においても作品の大意をつかみ、こまかい分析をかけ批評できるほどに「読み込み」、理解した。

 しかし、途中から失明された場合、見えていた時期の造形的・色彩的な記憶があるため、それを再構築することができます。
 ただ新しい視覚表現については、再構築しても目の前の物との整合性を取ることが難しいのではないか。それは最初からその状態にあっても同じだと思います。
 とすると、ボルヘスの読んでいる新しい本は、つねに「言葉」だけで構築されるものになる。

 テキスト主義を、文字に依拠するものなのか、それとも音素に依拠するものなのか、はたいへん大きな問題だと思いますが(それこそ学者による検討が必要なほど)、しかし「言葉」に依拠するという点では同視していいのではと思います。

 私の場合、作品を書く上で極端に漢字を開くのですが、それは漢字による恣意的な読み(意味の暗示)を拒んでいると自分では考えています。同時に、絵を拒みはしないけど、必要としない表現。かつ、「絵では表現できない表現」を目指してもいます。

 絵と言葉は、敵対するものではないしむしろ共存するものですが、しかし依存しあうものではない。
 寺山修司の宣言した「一行の屹立」が、テキスト(主義)の意義を表しているのではないかと思います。

 ではライトノベルは、共存の一形態か?
 絵がなくても成立するライトノベルがあるじゃないか、と思われるかもしれませんが、それは「ライトノベル」でありかつ「小説」でもある、形態の混交がなされているとも考えられます。
「小説」という言葉に収斂されていくとだけするのであれば、これは絵に失礼かなあ、と思います。だからこそライトノベルの可能性をそちらに探る方向も出現しているのではないでしょうか。

31 名前 : 葛西 伸哉 投稿日 : 2004年05月26日(水) 12時33分38秒
久美さま

「テキスト主義」の産物である小説および他の言語表現について、実は拙著新刊の後書きでも多少触れましたが(宣伝宣伝☆)「ことばという共通のコードをやり取りする」事で成立していると私は考えています。だから、内容の完全な保存・複製が可能である、と。もちろんこれは小説の特徴のひとつでしかないとも思いますが(特徴であって、決して限界ではないなずです)。
 ただし、久美さまが英語との比較で挙げている通り「共通のコード」さえも文化圏によって、また時代によって変化します。この掲示板でも若い世代の映像に対する感覚の鋭さが話題になりましたが、言語のみならず映像が新たな「共通コード」である事は言うまでもないでしょう。テレビの普及から五十余年、そしてマンガやアニメという「文化的共通コード」の広がりも目覚しいものがあります。
 現代マンガやアニメの絵柄は現実を模写し、ディフォルメするのではなく、過去のマンガ・アニメを規範に独自の変形を加えるのが主流になっているように見えます。既に「抽象化されたコード」と言えるでしょう。マンガ特有の記号(涙滴型の巨大な汗とか)が初めて読む人間に対して何の説明もなく使用され、ちゃんと通じているのですから。いまさらマンガのキャラに「こんな目の大きいのは現実の骨格からしたらあり得ないなんていうのは野暮でしょう。
 そのコードとは映像そのものだけではなく、アニメやマンガ、ゲームという共通イメージによって伝播される概念をも含まれます。
 早見様のコラムでちょうどテーマとして触れている「アニメノベライズの隆盛」と、現代の男児向けライトノベルの発生は切り離せないのではないでしょうか。
 富士見ファンタジア文庫創刊時のラインナップが既存の小説家よりアニメの脚本家が多く、ジャンルを見ても「いわゆる剣と魔法のファンタジー」は少数派だった事は「どういう需要に対して現代ライトノベルが生まれたか」を考える際には注目すべきポイントでしょう。もちろんアニメ脚本家の小説にアニメ畑のイラストレーターを組み合わせてヒットした『宇宙皇子』の影響が大きかったのは言うまでもないですが。
 そこから発生した流れのひとつの最先端が冲方さまがコラムで取り上げた、読者が持つ共通認識を武器に、内なる妄想を妄想自体の力によって揺さぶりかえした『撲殺天使ドクロちゃん』なのではないかと思います。

32 名前 : 新木 伸 投稿日 : 2004年05月26日(水) 22時44分49秒
>久美さま

 では次回の飲み会の折には、メールを送らせていただきます。
 だいたい月一開催です。

 しかし「いい男」ですか。う〜ん……。
 いい男の定義をしてもらわないことには。(笑)
 みなさん、定義如何ではいい男ですし。いい女ですし。





>テキスト主義の話

 ええと、すいません。
 話についてゆくために、どこまでが「装丁」であり、どこまでが「テキスト」であるのか、はっきりさせておきたいのですけど。

 たとえば段組(ページレイアウト)がありますよね。39〜42字詰め、16〜18行あたりが、ライトノベルで使われている標準的な段組ですが。
 この段組は変わっても、テキスト内容としては変化はありませんか?

 段組が変わると、文章の句切り位置が変わりますよね。
 たとえば「1行+数文字」とかで、2行に渡っていた文章が、ぴったり一行に収まってしまったりと、変化が現れることがあります。
 ぶっちゃけ――。
 20字詰めで書かれている小説と、40字詰めで書かれている小説とでは、見た目がまったく変わりますけど。これはテキスト内容としては変化なし?

 次に段落位置など。
 段落が落ちて2段落だったものが1段落として接続されたり、逆に増えたりした場合には、これはテキストに相違が起きたことになるのでしょうか?

 次に漢字の開きなど。
 漢字を開く開かない。またはカタカナにするか、ひらがなにするか。数字をアラビア数字にするか、ローマ数字にするか、漢数字にするのか。

 次に漢字の変化。
 漢字には新字体、旧字体、異字体などがあります。
 字体まで同一でなければ、テキスト内容としては変化してしまうことになるのでしょうか。仮に自分の作品が百年単位で残った場合、将来において字体の変化は当然予測されるわけですけど、その際にも、簡略化、もしくは変化した字体を「当てられた」場合には、作品が変化してしまったことになるのでしょうか。

 次に書体フォントの変化。
 一般的な小説に使われる書体は失念しましたが、たとえば明朝やゴシックなどで表示されていても、テキスト内容としては同一となるのでしょうか。



 なには変わっても、テキストとして同一性が保たれるのかという基準ですが。いちおうあたりをつけてみますと、以下のような感じになるのではないかと思います。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 段組は変わってもOK。
 書体(フォント)は変化してもOK。

 段落の数や位置は変わったらNG(ダメ)。
 漢字の開きや文字種は変化したらNG。
 漢字の字体は、執筆当時のものでなければNG。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 いちおう、こんな種別になるのであろうと予測して、話を進めてみます。

 思うのですが。
 段落、漢字の開きや文字種、字体。
 この三つに関しては、これは見栄えに属するものだと思うわけです。
 しかし上記で変化してもOKである「段落」と「書体」もまた、やはり見栄えに属するものであるわけです。

 どれも見栄えに関わるものであり、その点は同じであるのに、変化していいものと、変化してはならないものとがあることが、よくわからないのです。

 なにが基準となって、変わっていいものと変わってならないものとが決まるのか。
 テキスト主義というのは、どこまでの変化は許容して、どこからの変化は許容しないものなのか。

 小説というものが、書かれた文字を読むことで成り立っているコミュニケートである以上、結局は、すべて見栄えの話に行き着くと思うのですが。
 そしてイラストの位置やその内容――などというものも、やはり見栄えに関わってくるものですよね。

 なぜ小説とイラストとを切り離して考えなきゃならないのか、そこのところがわからないのですけど。


 極論すれば全部変わっちゃならないし、全部思い通りの状態で読者に見せなければならないのだけど、まあ現実問題として、著者のコントロール化におけるものと、そうでないものとがあるわけです。また共同作業の関係上、他人に任せなければならない部分もあります。たとえば絵の内容までは意見できても、実際に絵を描くのはイラストさんなわけですし。(たまに小説も絵もどちらも御自分で描かれている作家さんもいますけど)

 そうした現実問題から、このへんまではコントロールできるけど、ここからはどうにもならない。――という見切りの話ならわかるのですけど。




>テキスト主義について

 ええと、すみません。
 不勉強がたたっているようです。もしくはなにか強烈な刷り込みによって、テキスト主義が理解できない呪いが掛かっているのかもしれません。
 自分がはじめてギャラを貰った文章というのが、「17w×13L」とか、字詰め指定されていたものですから。そこで呪いにかかってしまったのかもしれません。
 ちなみに私は小説家ではなく、いまも昔も、ずっと売文屋です。
 小説以外でも、依頼があればなんでも書きます。文章であれば。ゲームのシナリオでもメッセージでも。エッセイなどの感性や個性の切り売りは苦手ですが、物語に関わる文章であれば、もう、どんなものでも。(と宣伝宣伝)

 どなたかテキスト主義に関して解説されている良いページをご存じないでしょうか?
 「ここ行って勉強してこい」てな対応で構いませんので、どうか、まだ見捨てないでやってください。




>葛西さん
>「撲殺天使ドクロちゃん」

 ドクロちゃんに関しては、最先端にあるのは確かですが。
 しかし書かれている作者が最先端をやっている自覚はないのではないかと。

 「降ってきた美少女との同棲生活が始まる」という展開がごく普通でノーマルというものであり、「ぴぴるぴ〜」と唱えると、死んでも元通り。――というのが、やはりごく普通であたりまえであったので、あたりまえに普通に書いたらああなった。
 ――みたいな。

 妄想は妄想でも、自覚されない妄想というか。
 深い森の奥には、エルフの暮らす帰らずの森があったり、山脈の果てには神々の住む世界があったり、現実と陸続きになった「あたりまえの妄想の世界」からファンタジーというジャンルが起きたように。
 著者にとっては至極身近な陸続きの「世界」からドクロちゃんはやってきたのだ、という考えかたもできますね。
 あれは計算ずくでなく、「素」で書かれているはずです。

 ――で、葛西さんの話に繋がるわけですが。
 アニメや漫画といったものから始まった共通世界の構築が一段落ついて、ここからが円熟期なんじゃないかと思うのですが。
 自分もついていけるかどうか、よくわからんので怯えていたりしますが。
 綾波はわかるけど、デジ子はわかんないんですよう。皆はどこに萌えているのやら。目からビームが出るとこ? 女優志望な宇宙人なとこ? ウサギでメイドなとこ?





>来無さん
>デッサンとか

 いまゲームだとコンシューマーではほとんどの分野で、アニメでも一部には、3Dのメカが登場してきてあたりまえになりつつありますが。

 3Dのポリゴンによるメカって、どの角度から写してみても、「デッサン」としてはパーフェクトな正しさがあるのですね。なにせ図面から起こしてますので、正しくならないはずがない。
 しかしデフォルメ要素はゼロ。
 よって見れたものになりません。正しくはあっても、魅力に欠ける。3Dメカしか出てこないアニメは退屈です。とくに戦闘シーンとか。もう3Dで動き回っていたらスゴイという時代ではないですし。

 デフォルメというものを「崩す/壊す」技術なのだとすると、壊す前には、まず正しく構築しなきゃならないわけです。つまり正しくデッサンしていなければならない。
 しかし正しいだけでは、「精確」というだけです。
 華がないし、面白くもならない。
 華と面白さというのは、「正しい基準物」や「平均」からの偏差――言い換えれば、壊れ具合によって発生するものですから。

 そのへんの仕組みはわかっているつもりです。
 それを踏まえた上での話なのですけど。

 でもやっぱり、一消費者というのは、そこまで気にしないものだと思うのです。
 そりゃ、たしかにわかる人にはわかるんですけど。
 しかし「わかってしまう人」は、逆にそこが落とし穴となってしまいます。
 たとえば絶対音感を持っている人は、「音を外す」ということが耳障りで仕方がないのだとか。
 でも音楽ってのは、譜面に正確であればいいというものでもないですよね。
 私たち一般音楽ファンは音楽を聴いていますが、その演奏やら歌唱やらの「正確さ」に聞き惚れているわけではありません。

 作品を不特定多数のために書く場合には、一般の読者に向けて書くわけです。
 一般の読者は絶対音感を持っていませんし、デッサンの狂いを見分ける精確無比な目もありませんし、視点の狂いを見抜く眼力もないわけです。
 ある特殊な感覚を持っている一部の人間の評価するものと、一般の読者の評価するものとは、ベクトルが異なっているわけです。
 「デッサンが正しい」を良しとする評価基準は、評価ベクトルの異なる一般読者には、害をなさないかもしれません。また害を与えてしまうかもしれません。
 そのあたりを考えずに、特殊な感覚を所有する人間の価値観によって、「デッサンが狂っているのはいけない」と一方的に決めつけてしまうのはどうでしょう。

 もちろん、デッサンの正しさなんて不要。――といっているのではありません。

 過ぎたるは及ばざるが如し、といいますし。
 ある程度のデッサンの正しさなり、ある程度の視点の正しさなりは、もちろん必要です。

 しかし来無さんのいわれている基準は、その「ある程度」を越えちゃっているように思うのです。

 デッサンの狂いがわかる目の肥えていて通の人――という特定少数に書かれたものであれば、もちろん、狂っていてはいけないでしょうが。
 一般読者に向けて書かれるものであれば、一般読者向けの「基準」をクリアしていればいいわけです。

 要約すると――。
 ほどほどのデッサン力は必要。でも来無さんの要求するデッサン力は行き過ぎ。
 と、いうところでしょうか。

33 名前 : 投稿日 : 2004年05月27日(木) 00時16分12秒
いやー、来無さんではなくて、もとはこのわたくしの発言からなので、
行き過ぎなのはわたくしですよ。

美大で訓練をうけた人にしか分からないようなデッサン力を求めているわけでは
なかったのですが、そのように受け取られたようで。
そんなこといったらこちらは訓練しているわけもありませんので、判断も狂ってるわけです。
素人目にもどう考えても変だな?と思うものが堂々と平積みになっていると
好きな作家でもない限りは手にとることはない、というだけのお話です。
(まぁ少数派でしょう)。

また、実写のような正確無比さを求めているわけでもありませんし。
崩し具合が華であり、面白さに繋がっているのはわかりますよ。
ただし、あまりにも、というくらいの欠点を、「個性」ということで隠蓑にしてるものが
多くありはしないかと危惧しているんです。難しいですね。

最低水準を満たしていれば、確かに求められるものは画力とは違うものです。
ただし、最低水準をどこに置くかは、人それぞれですよね。
「余り気にしない層」をターゲットにこれからも進めて行くのであれば、何の問題もない話です。
限られた条件下で最大限良いものを創ろうとすることはどんな業界でも同じですから、
「編集には酷だろう」「他人には酷だろう」と言われれば、もう受け入れるか拒否するかしかありません。
やっぱり「ライトノベル」は絵とは切っても切り離せないものだと思うだけです。

自分語りが長くなり申し訳ありません。

34 名前 : 削除しました 投稿日 : 削除しました
削除しました

35 名前 : 新木 伸 投稿日 : 2004年05月27日(木) 01時48分49秒
>来夢さま

 失礼しました。話題の元の方を探すときに、検索に失敗しました。
 どなたかへのレスという形にしないで、話題へのレスとしておけばよかったですね。




>遙さま

 デッサンの狂いについて。
 さきほどこの話題で、はせがわみやびさんと電話で話していたのですけど。
 いい例えが出てきました。

 たぶん、私やみやびさんが、どこかで聞くか読むかした話だと思うのですけど。オリジナルではないはず。


 ある旅人が水辺にやってきたとします。
 旅人はたいへん喉が渇いています。水を飲もうとするのですが、しかし器となるものをなにも持っていません。
 通りがかった近所の人が、たまたまボウルを持っていたので、「水を汲みたいのでその器を貸してもらえませんか」と頼みました。しかしその人は「これでは水は汲めませんよ」と言ってきます。ボウルには小さな穴が開いていました。
 旅人は「私にはそれで充分です」と、穴のあいたボウルで水を汲み、喉を潤しました。

 ここで「喉を渇かした旅人」というのは、「読者」に相当します。
 容器に開いた「穴」というのは、これはデッサンの狂いです。

 通りがかった近所の人は「これでは水は汲めませんよ」と言って断ろうとしましたけど。近所の人の立場からすると、水を汲むという行為は、容器に水を溜めて家まで持ち帰ることを指していたからですね。小さな穴が開いているだけでも、用を成さなくなってしまいますので、穴の開いたボウルじゃ役に立たないわけです。

 しかし旅人としては、水を汲んですぐに飲めればいいわけで……。
 小さな穴は、ぜんぜん問題にならなかったわけです。

 まあ……。
 その穴が「小さな穴」でなく、容器の底が抜けるくらいの大穴だったら、さすがに旅人も水を飲むことはできなかったでしょうけど。

 こんな例え話では、どうでしょうか?



 デッサンの狂いは確かに「穴」でしょうけど、必要としているものが違う人間の場合には、その穴はまったく問題にならないこともある――という話です。

 喉を渇かした旅人が、水を飲むための役にも立たないほど、大穴が開いているような絵というのは、さすがにないと思うのですけど……。

 また、物語に餓えている読者が、物語を貪る役に立たないほど、視点やら文章やらが壊れている市販小説もないと思うのですけど。

36 名前 : くぼひでき 投稿日 : 2004年05月27日(木) 02時53分19秒
>神のうわ言みたいな長文
とはわたしのことであろうか、などと悩みつつ。
テキスト主義についての長文は、わたしは以下で打ち止めにします。これ以上はほんとうにスレ違い。しばらくお付き合いください。


新木さま

>段組は変わってもOK。
>書体(フォント)は変化してもOK。
>段落の数や位置は変わったらNG(ダメ)。
>漢字の開きや文字種は変化したらNG。
>漢字の字体は、執筆当時のものでなければNG。

 ですが、これはタイポグラフィの問題ですね。

 段組は変わってもOK(『アルジャーノンに花束を』のテキストは、青本2段でもピンク本1段でも変わらない)。
 書体(フォント)は変化してもOK(全体が、ゴシックでも明朝体でも、意味は変わらない。しかし部分をわざわざゴシックにするのとかは、それそのものに意味をもたせる行為です。これについては以下に述べてます)。


 ここまでは同じ。

 段落(パラグラフ)は、テキストに重大な変化を及ぼします。(つまり端にきたから成り行きで改行されるのとは別に)そこでなぜ強制的に改行するか、というのは、意味をもつ機能です。拡大された機能に「章」というのがあります。つまり一定の意味群をつかさどる機能です。
 見栄えだけではありません。たとえば、「章」というのは詩でいう「連」の機能に類似していますし、詩における改行はまさしく散文における段落を意味します。
 新木さまの返信も、この段落(改行)が意図的に作られています。2行空きとか1行空きとかもそう。相手にきちんと伝わるには意味を固まりがあったほうがいい、に発していると思います。「読みやすい」は段落のもつ「最低限」の機能ですが、それ以上に「意味」をこめることもできます。
 同様に句読点や……なども、見た目以上の意味を持ちます。読むときはそこで間があくのが望ましいし、通常それを期待して打たれるはずです。


 漢字の開きおよび文字種、字体については、表意文字特有の問題を含むと思われます。
 表音文字であれば、この手の問題はあまり生起しない。するとすれば、「大文字」「小文字」「イタリック体」で起こるかもしれない。その文字を取ることに「意味を見出そうとする」からです。
 逆にいうと、見栄えとしてその感じでなくちゃいかん! というのは、「視覚によるインパクト」を与えようというものではないでしょうか。わたしの場合は、「耳で聞かされただけでわかる」が基本なので、漢字がひらいてようがルビがあろうが、正字だろうが、関係は無いです。ぜんぶ、かなでもOKです。ただし、目で読んでもらうには、句読点に似た効果をもつ「漢字」の効果はあなどれません。
そこではきものをぬいでください。とあるよりも
そこでは着物を脱いで下さい。としたほうが、断然読みやすいです。

 そのテキストが視覚に頼るものは、純然にテキスト主義といっていいかどうかというと、少々不安が残りますが、わたしはテキスト主義ではないと思う。
 この掲示板では久美さまが触れておられる「星界の紋章」のルビのありかたもそうですが、もっと遡れば、日夏耿之介や一時期の北原白秋の詩なども、テキストにテキスト以上の意味をもたせようとした試みではなかったかと思います。それは読者の中の「イメージの喚起」をより強く求めた結果だと思います。これは、テキスト主義の逸脱、ではなくて、ダダイズム以降の表現主義の応用と考えてもいいのではないでしょうか。

 テキストについては以上で、わたしは打ち止めです。
 テキスト形式のメールでのみ送られるものと考えてもらうのが一番いいですが、漢字水準や文字コードについては作家次第です。繰り返しますが、わたしは「音読でも伝わる」が基本です。



 それと横入りになりますが、デッサンの狂い・視点の狂い、そうしたものが読者にはそんなに関係ないよ。
というご意見について、わたしも一言二言述べさせてください。
 これは受容のされ方についての問題だと思うからです。

>しかし旅人としては、水を汲んですぐに飲めればいいわけで

 たとえばその近所の人たちが、この水辺に「いつも水を飲めるようにしておいてあげよう」という心配りから、容器をおくことにしたとします。
「あの旅人は『穴があいていてもよい』と言ってたよね」
「少しの穴だから、かまわないんだろう」
「じゃあ、穴のあいた容器をここに置いておこう」

 となったら、これは問題だと思います。

 穴があるかどうかをそれしかないのだからしかたないと判断するのは、あくまで受け取る側の問題であって、供給する側はそれを防ごうとしなくてはいけないのではないでしょうか。

 この例でいえば、水を渡すほうは「無料」ですから、まあ、穴があいていてもいいです。親切ですから。
 けど、お金を払って買ってもらう以上、そこに穴があることを知ったまま手渡すのは、製造物責任法とまではいかないまでも、供給側の製造倫理に反するのではないでしょうか。

 知らなきゃしかたないです。自分の差し出す器には、今現在、穴はないと確認して出し、あとで指摘されてしまう分には、それは製造側の未熟であって、不見識ではない。
 知っていて「これでいいや」ってのはやっぱだめだと思います。

 もし、受容する側が、穴があいていてもいい! としか言い出さないのなら、それはそのジャンルの荒廃とか衰退を招くはずです。


37 名前 : 葛西 伸哉 投稿日 : 2004年05月27日(木) 03時31分47秒
新木さま

『撲殺天使ドクロちゃん』に関して、作者のおかゆ氏に直接確認するか、極めて有力な傍証があるのでもない以上、できる限り「天然」ではなく「作者の意図」が作用していると考えておくべきだというのが私の立場です。フィクションというのは基本的に作者の意図によってコントロールされているものですから。

 で、イラストとデッサンの話。こちらはあまり踏み込むとこのスレッドの本題から外れるとは思いますが。
 例えば「芸術的価値を追求して、敢えて陶芸家が空けた穴」ならば構わないでしょう。躍動感やキャラの魅力を優先した結果、明らかにデッサンがおかしい絵というのはあります(例えば『JOJO』の初期とか)。
 ですが、単なる不備としての穴をそれと同列に扱うのは乱暴な話、いえ、詭弁ではありませんか?
 小説でいえば、面白くするために意図的に実行した言葉の誤用や文法的な破綻と、書き手の未熟や無能による誤字や誤謬を混同するようなものですよ。

38 名前 : 海燕 投稿日 : 2004年05月27日(木) 05時01分25秒
>「ライトノベル」として販売されているものの中に「一般文芸」的なものと「新しいライトノベルの萌芽を秘めた作品」が混在している事は矛盾でも問題でもないと思いますよ。

僕もそう思いますが、だからこそ「ライトノベルは「小説」ではない」と断言してしまうのはまずいのではないかと思うのです。なかには独自の文法をわきまえていないと楽しめないものもあるにせよ、ほとんど完全にただの「小説」でしかないものもあるわけですから。将来の話はとりあえず措くとして、いまのところ「ライトノベル」=「小説」+「漫画/アニメ的な絵」と考えてまちがいないのではないでしょうか。この「小説」と「絵」のバランスは個々の作品で異なっていて、ふつうは「小説」が大半を占めていますが、以前名前があがった「蟲忍」などはほぼ五分に近いようです。

僕が知らないもののなかには、「絵」の割合のほうが多いものもあるかもしれません。だから正確にはライトノベルはただのノベルではなくて、「ライトノベル&ライトイラストレーション」なのでしょう。そして「十二国記」みたいにこの「小説」部分のクオリティが高いと、それ単体で一般文芸として大ヒットするほどのものになるということなのだと思います。それはともかく、講談社は「十二国記」のイラスト入り版とイラストなし版を時間差で発売するのをやめてほしいです。両方買わせようという戦略なのかなあ。

>その理由は、まず「完結したジャンル」ではないということです。

すいません。書き方が悪かったですね。もちろんどんな文化もそれ単体で完結することはできません。かならずほかの文化に対しなにかしらの影響を受け、またあたえます。しかしそこには当然ながら影響力の大小というものがある。僕が言いたかったのは、ライトノベルが狭義の一般文芸の枠内にあてはまらないとするならば、その一般文芸に対する影響力はそれ自体が一般文芸に属するほかの小説より小さいものになるのではないか、ということです。ライトノベルが──久美沙織も含めて!──多数の優れた一般文芸作家を輩出していることは知っています。

しかし、その作品自体は一般文芸に対しどのていどの影響力を持っているのでしょうか? 久美さんの経験則によると、ライトノベルの読者はしばしばライトノベルだけを読み、一般文芸には手を出さない。もしそうだとするならば、読者レベルにおいては、一般文芸とライトノベルの「混交」はあまり盛んなものとはいえそうにない。久美さんが懸念しておられるのは、ライトノベルの読者がライトノベルだけで充足してしまうことにより、多くの若年読者が一般文芸の豊穣をしらずに終わるようになるということなのではないかと思います。

もちろんそうであっても困るのは一般文芸のほうだけで、ライトノベルとしては問題がないのかもしれませんが、僕などはライトノベルを経て一般文芸のファンになった人間なので、やっぱりそういう事態はちょっともったいないと思ってしまう。一般文芸とライトノベルのあいだには、現時点では、作家レベルでも読者レベルでも「壁」があるように思います。きわめて優れた資質をそなえた作家や、ほんとうに好奇心旺盛な読者は、この「壁」をなんなく超えていくでしょう。しかし、超えられない、あるいは超えようとも思わないひともまた多いはずです。

僕は一般文芸もライトノベルも含めた小説的表現全体をいまより活性化させるためには、ライトノベルと一般文芸のあいだに聳えるこの「壁」をいまより低くすることを考えるべきだと思います。そしてそのことをより真剣に考えるべきはライトノベルよりむしろ一般文芸のほうなのかもしれません。一般文芸はしばしばライトノベルを不当に下に見ますが、それはひょっとしたら自殺行為なのかもしれないですね。講談社ノベルスの新刊などは、最近どんどんライトノベル化していっているような気もするのですが、それもまたあたらしい時代の産声なのでしょうか。

>けど、「ライトノベル」にはあきらかにこれまでと異なるなにかを感じますよ。

たしかにそれは感じます。しかし、その可能性はいまのところそれほど「小説」から逸脱していないかな、と思うのです。僕は物心ついたときからライトノベルを読んでいた人間ですから、かえってライトノベルの特異性について自覚的でないのかもしれません。また僕がライトノベルの「文法」にさほどの斬新さを感じないのは、すでにコンピューターゲームの世界で「サウンドノベル」や「ビジュアルノベル」と呼ばれる小説的形式のゲームをプレイしているからということもあるでしょう。

ほとんどのライトノベルは、現時点では「小説」と「絵」を並列的に掲載しているだけですが、ビジュアルノベルはテキストと絵と音楽を完全にシンクロさせた形で表示することができます。たとえば幼い少女が泣いている絵のまんなかに「さよなら」というテキストがゆっくりあらわれてきて、そこに甘い女性ヴォーカルの歌がかかる、とか(架空の例です)。そういったものに比べるとあくまで紙媒体にすぎないライトノベルはそれほど「小説」から遠く離れていないように見えるのですね。

>綾波はわかるけど、デジ子はわかんないんですよう。

デジ子じゃなくて、でじこです。それから、うさ耳なのはうさだですね。気持ちはわかるけど。デ・ジ・キャラットについては、コゲどんぼ「でじこのチャンピオンカップ劇場」がなかなかおもしろかったので、まずはここらへんから入ったらよいかと。わからないひとはわからないままにしておいたほうが良いのではないかという気もするのですが。僕もあんまりよくわかっていないし。萌え戦線の最前線については、そろそろ僕もわからないものが増えてきていて、ちょっと悩むところ。しーぽんのどこがかいいんだろ。教えてえらいひと。

>テキストの視覚的効果

については、谷崎潤一郎の「文章読本」が詳しいです。僕が読んだものは旧字で旧仮名だったけれど、新仮名のものも出ているんじゃないかな? これはなかなかの名著なので、参考になるならない云々でなく多くのひとに読んでほしいですね。

39 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年05月27日(木) 10時15分45秒
まだアップロードされてない15回(泣)こんな活発な論議がかわされてから出ると思い切り話が戻ってる感じがしちゃうだろうなぁ。
みなさまの全発言にこまかく対応する余裕がないので、感じたところだけ。
旅人と水のたとえですが……自分の手でじかに汲んで、あるいは、顔を直接水にくっつけて、飲むことだってできるのでは? 完全なものであれ欠けたものであれ本来コップは不要なのだ、あってもかまわないけど、という思想と、テキスト主義(とわたしの言っているもの、ほぼくぼさんの考えと同じ)は、相通ずるものだと思います。
ちなみに雑誌『ファウスト』は、作品それぞれに「フォント」を選択し、オリジナル・フォントまで作成してたりします。
また、現在二号まで世に出たこの雑誌には東浩紀さんの批評「メタリアル・フィクションの誕生」も連載されています。「本論は、ライトノベルそのものを扱った論考ではない……関心を寄せるのは、ミステリとSFとギャルゲーの狭間に現れた少数の作品と、関連する評論だけ」……(ファウスト創刊号より引用)とおっしゃっておられますが、きのう、遅まきながら三月刊行の二号の評論を半分まで読んで「ひぇー!」とのけぞりました。「いわゆるこれまでの小説」と「(東さんが関心を持つ)ライトノベル」のどこにもっとも大きな違いがあるか、明確に指摘されていたからです。へたに要約しようとすると間違いそうなのでしません。興味関心のおありなかたはぜひ『ファウスト』一号二号をお読みくださいませ。

40 名前 : ヤン 投稿日 : 2004年05月27日(木) 13時24分43秒
これは20代後半のちょっと頭の古い読者の視点からの意見ですが……

例えば、ドクロちゃんのような作品は、誰も想像もしなかったから、
今まで書かれていなかったのでしょうか? 私は、そうは思いません。
なぜなら、大抵の「新人賞の取り方」のような本では、パロ同人的な
作品では受賞できないと教えているし、小説家を目指す人間ならば、
無意識のうちにその手の情報はインプットされているはずですから。
だから、ドクロちゃんのような話を思いついた人は、それを新人賞に
応募するという選択肢は最初っから捨てていて、同人誌やWeb上に
お遊びで発表していたのです。

それが、ドクロちゃんを「新人賞」に応募することを実行した作家がいた、
そして編集部がそれを認めて商業作品と出版した……
もし仮に、ドクロちゃんが10年前に、他の新人賞に応募されていたら、
「これは小説じゃない」と言われていた可能性も高かったのでは。

この点でいえば、例えば少年ジャンプが「絵がヘタ」という漫画として
致命的な欠点がある作家でも、内容に光るところがあれば堂々と連載して、
そして幾つもの大ヒットを飛ばしたように、漫画界の方が小説よりも
ずっと先を行っていました。
だからこそ、子供が楽しみ、同時に大人も楽しめるという名作を多々
生み出したのだと思います。

小説界は、ライトノベルというジャンルの発展によってようやく、
「幅広い作風への許容度」を手に入れたのではないでしょうか。
私はそのことが「ライトノベルが、小説に与えた最大の影響」だと思います。

41 名前 : トーシロートα 投稿日 : 2004年05月27日(木) 13時49分06秒
ここは何も知らぬ読み手が感想買いてもいいのかな?
だめなら管理人さん削除よろしくお願いします。

久美さんのコラム読み終えました。久美さんの言いたいことが全部伝わったかはさだかではないですが、
自分なりにかなり感心して読みました。というか気付いたら読み終えてました。面白かったです。
読み終わった後に、つまりどういうコラムだっけ?と思うこともまあしきりでしたがw
第15回、楽しみにしています。

ライトノベルばっかり読んでると、読解力って落ちるんですかね。業界は衰退するんでしょか。

別の業界ですがゲームだと今のゲームよりレトロゲームの方が難易度は圧倒的に上です。理不尽の域に
達してるものもあります。すごい忍耐力や、プレイヤーの腕を要求されました。でも、それでも遊んでました。
今レトロゲームばりの難易度のゲームを出しても売れません。自分も昔は遊んだけど今は最後まで耐えれません。
今のゲームはもっと入りやすくてもっと面白いからです。ここで、より簡単に、などの風潮がプレイヤーの腕や
忍耐力を下げてしまったといえるのでは?と問われるかもしれませんが、違う、と返せます。
昔のは単に下手な人やついてけない人を切り捨てて、その結果平均LVが上がってただけです。
昔のゲームが今出来ないのは単に淘汰されただけだと思います。当時名作と呼ばれたものは今やっても面白いですから。
そして名作といわれるものは、初心者でも入りやすく、上級者には尚楽しい、そんなものが多いです。
初心者しか遊べないものは、結局初心者も食いつかないです。それに格闘ゲーム等は昔よりさらに複雑化してますしね。
LVが下がった、というより単に多様化しただけだと思います。
そして、それは業界にとって+の影響…というか明らかに発展しましたが。

そこでライトノベルですが、小説界もラノベを得てやっと変化しはじめたんじゃないかなと。
受け皿を増やすことが結局、盛り上がることに通じる。個人的にはライトライトノベルみたいな
さらに軽いのが出てきてもいいと思います。打倒、漫画、奪え、シェアみたいな感じでw
…話がそれた。要するにライトな方向に特化するのも正しいことだろうと主張したいのです。

関係ないですが、久美さんを始めて知ったのはDQVノベルスです。あれは感動しました。礼を言いたいです。
ええ、おかげでゲームノベルスは最高に面白いという先入観を植え付けられました。
そのせいで中学の自分はその後深いトラウマを(以後省略  ぜひともお礼参りを(以下省略

42 名前 : さかなや 投稿日 : 2004年05月27日(木) 22時06分30秒
 ごきげんよう。

>推薦図書,課題図書
 私は好きでしたよ。けっこう面白かったし,なにより堂々と本を買ってもらえましたから。
 印象に残ってるのは,バカラッチとかジャングルの少年とかですね。

 そいや,ゲド戦記が選ばれたこともあって,その時は大喜びで感想文書きましたよ,ええ(笑)

>国語の教科書
 これも読むの好きだったっす。椋鳩十さんとか安房直子さんとかがお気に入りでした。

>銀英伝の挿絵
 思いっきり余談ですが。
 結局のところ,カリンの髪って長いんでしょうか短いんでしょうか。
 当時,論争になって,私は短い派だったんだけど,イラストなんかだと髪の毛長く描く人多かったんですよね。

 もし,オフィシャルのカリンの挿絵が一枚でもあれば,そもそも論争にすらならなかった訳で,やっぱりイラストの有る無しって大きいと思います。

>ライトノベルの挿絵
 最近の作品だと,ディバイデッド・フロント2巻の使い方がすごかったです。
 普通,偶数ページにはイラスト入れないそうなんですが,あのシーンのあのセリフの後,ページめくって芹沢曹長のイラストってのはかなりキます。

 それでは,話をとっちらかしてすいません。毎度ながらの乱文にて失礼しました。

43 名前 : 新木 伸 投稿日 : 2004年05月28日(金) 01時14分43秒

>テキスト主義

 くぼひできさま、解説ありがとうございます。

(神のうわごと〜に関しては、あれ、絶対確実に私のことですので、くぼさまは、気にされませんように)


 しかし……。
 わかったような、わからないような。

 なにせ私の仕事は売文屋なものですから、ライター仕事をしたり、ゲームのメッセージを書いたり、CDドラマの録音脚本を書いたりと、媒体によってやることが変わるわけでして。

 たとえばCDドラマやカセット文庫(ってもう死語ですけど)ならば、耳で聞くだけの媒体ですので、そこにあわせて「音」のみの世界ですべて伝えきれるようにやります。文字や文章では表現の難しい口調やらニュアンスなどもありますので、そうしたものも活用します。(録音台本に注釈や補足説明を書きこむなりして)

 ゲームのメッセージのときには、効果音やらBGMやら、画面上の演出やら、そんなものまで含めたものが、使用可能な表現形態となります。

 そして小説の場合には――というか、書籍の形で書き下ろし出版されるライトノベルという限定付きですけど。そうした場合には、そこで取れる表現形態をみんな使うわけですね。使えるものはみんな使うというスタンスなものでして。

 いちど、書き下ろしのつもりで書いていた長編小説が、雑誌のほうに一冊丸々先行掲載されたことがありました。
 すると段組からなにから、まるで違うのですね。A5変形の雑誌で、三段組みとなって、一行22文字でしたか。イラスト点数もかなり少なく、新キャラやサブキャラをカバーしきれないぐらいで。ただテキストがベターっと流しこまれる感じになりまして。
 段落の見栄えなんかも変わってきますし。なんともコントロール化におけないわけで。
 はじめから雑誌用に書いているならともかく、もともと単行本で書いていたものですから。ゲームのシナリオとして書いてあったメッセージを、そのまんま本にされて出版されてしまった気分でしょうか。
 もはやあきらめの境地で、「テキスト自体は変わりゃしないんだから」と自分を納得させて、まな板の上の鯉の気分で、掲載されるのを見守っていましたが。
 そのときの気分が、テキスト主義に近いのでしょうか。

 なにやら、ナックルも木刀も日本刀も拳銃もマシンガンもそこにあるのに、徒手空拳で虎と闘わされている気分でしたが。
 うーん。
 常に「徒手空拳であれ」と、腹をくくって闘っている人というのは、カッコいいのかもしれない。いまそう思いました。格闘技は、昔、空手を少々かじっていましたもので。

 しかし、もしそうしたものが誤解なくテキスト主義であるのでしたら、私は、怖いのでいやです。
 装丁やイラストも使える武器であるなら、使いたいです。
 だって相手は虎なんですよ。虎。





>ライトノベルと一般文芸との間の壁

 ライトノベル一般文芸の間だけでなく、ライトノベルとSFやミステリとの間にも「壁」は存在していますよね。
 児童書との間の壁の話題も出ていますけど。

 思うのですけど、この壁はいったい誰が作っているのでしょうか。
 壁なんていったって、物理的に壁があるわけではないのですし。人間の心理のなかにある実体のないモノにすぎないわけですよね。壁があると思えばあるわけですし、ないと思えばないのですし。

 ライトノベルには、SFもミステリもホラーも、現代小説もファンタジーも、恋愛小説もハードボイルドも、すべてあるわけです。
 ジャンルの壁というものがあるのだとします。それは人の心のなかにあるのだとします。ライトノベルを書く人、そして読む人は、心の中のジャンルの壁は持っていないのではないかと思いますけど。
 ライトノベルか、そうでないか――てなほうの「壁」はあるようですけど。

 自分たちでこしらえたわけでもない壁が存在しているらしくて、その向こうに行くと不当に低く見られるのであれば、まあ進んで越えていこうという人はいないかと。





>デジ子とか

 あうあう。「でじこ」でしたか。いえ、音でしか名前を覚えていなかったもので。

 そういえばゲームかなにかで、異世界に飛ばされたでじこが記憶喪失になって普通の女の子になってしまった! ――てな話がありましたが。あれは普通にわかりましたし萌えられましたけど。記憶を喪失していない平常時のでじこのほうは……。




>くみさま
>旅人と水のたとえ話

>>旅人と水のたとえですが……自分の手でじかに汲んで、あるいは、顔を直接水にくっつけて、飲むことだってできるのでは?

 えええ。
 この場合「川」はイラストやら物語やらの体験の源流を示し、「器」はそれを切り出して保存できる技術のことを示しています。(短期間であれ長期間であれ、保存するための技術)
 ここで顔を直接つけて飲めばいいじゃん、というのは、自分で直接体験してこよう、ということになってしまうのですが。

 それを言ってしまうと、絵描きも小説家も不要ってことになりませんか?

 地球には63億人の人間がいて、そのうちのけっこう多くの人がドラマチックな個人体験をしているわけですが。自分でない他人の体験をできるのが、絵であり小説であると思うのですけど。(絵は他人の視野に入るという意味で)




>くぼさま
>欠陥と製造責任について

 穴が開いていることを知りつつ手渡すことは、どうなのか。

 個人的な価値観の話なら、私もそういうのは嫌ですし、穴は可能な限り減らそうとしますし。――ですので、穴ができないようにコンセプトワークをしっかりやったり、プロットをしこしこ練っていたりするわけですけど。

 しかし個人を離れて考えるなら、穴があることを知って出荷するのもありと考えます。

 それが穴であると認識するのは、受け手側の価値観によるものです。
 というより、受け手が「欠陥」と感じていないことを「欠陥」と決めつけるのは、他人の傲慢だと考えます。

 マンガなんてダメ、くだらないからダメ、駄菓子もダメ、と決めつける親のようなものではないかと思います。

 受け手の立場になって考えたときに、それが「欠陥」とみなされないのであるなら、作り手の感性ではたとえ「欠陥」であっても、出荷してしまうのは有りではないでしょうか。

 よくありそうな例で、たとえを出してみますけど。
 小さな穴=欠陥の話。
 時間に追われいてるとき。作り手のこだわりとしては「まだ不満」な状態であっても、そんな読者も編集者さえも気づきもしないような部分を直しつづけているより、入稿してしまうということは、けっこう起きうる事態ではないでしょうか。
 水漏れする穴はあるけれど、およそ、受け手にとってはどうでもいいぐらいの小さな穴であるわけですね。

 また別の例。こんどは巨大な欠陥のほうです。
 たとえば、巨大ロボットの設計&製造者がいたとしまして。
 右手にドリルが付いていなかったり、自爆装置を備えていなかったりするロボは明らかに「欠陥」を抱えているわけですが。
 発注者の求めに応じて、あえて涙を飲んで欠陥を抱えたままロールアウトさせてしまうということは、やはり、よく起きうる事態であるかと思います。

44 名前 : 葛西 伸哉 投稿日 : 2004年05月28日(金) 01時53分22秒
新木さま

 簡単に。
 現実問題としてそれを「欠点」と感じている人がいるのに「欠点と思っていない人がいるのだから、それを欠点と思うのは傲慢だ」っていうのはもっと傲慢なのと違いますか(笑
 どうにも解せないのは、新木さまご自身が「無いに越した事は無い」と仰ってるはずの欠点が存在する現状をなぜそこまで擁護しなければならないのか、という事なのですが。
 受け手ひとりひとりが「自分はこれで充分だと思うよ」というのならともかく、ジャンルは違えど送り手の側にいる人間が「時間がないんだから許せ」「お前らそこまで気にしないだろうからデッサン狂いや視点の乱れがあってもいいだろ」と、たとえホンネでは思っていても、こういう形に残って読者の芽にも触れる場所で表明するのはマズいっすよ。新木さま、一貫して「送り手側の人間」として発言してる訳ですし。

45 名前 : 新木 伸 投稿日 : 2004年05月28日(金) 03時43分54秒
>葛西さま

 私の受けるデメリットに関して配慮していただいているのでしたら、お心遣い、感謝いたします。
 しかし「欠点などないと言い切って作品を世に出すべし」なんて建前は、じつはぜんぜんタテマエでしかないわけで――。本音を黙っているのがオトナというものであろう、というのなら、一生オトナにならなくてもいいかな、とか思ったりもします。

 私など、「誤字」などという簡単に修正可能な欠点にしたところで、1冊の長編で3個以内に抑えるのが関の山であるわけで。「自分の作品に誤字はない。欠点もない」なんて言っている方が、もしいらっしゃいましたら、即座に「ダウト!」と言わせていだくことになるかと。

 そういうことではなく――。
 いちおうはプロである私が、久美さまの場所で極論を語ることで、それが久美さま自身の意見であるとか、プロ作家全体の意見であるように誤解されてしまうことを心配していらっしゃるのでしたら……。
 たいへんもっともなご意見ですので、自粛したいと思います。

 ぶっちゃけ、どっちなのでしょう?



 あと――。
 前回の私の書きこみのあと、くぼさまが話を打ち切られるならそのままで、続けられるようなら、しなければならないと思っていた話があるのですけど。
 とりあえず、そちらのほうなど。

 くぼさまは「欠陥」といい、葛西さまは「欠点」といい、そして私は「穴」といっているものがあるわけです。

 この皆は、はたして同じことについて論じているのでしょうか?
 なにを問題としているのか、それを確認しないことには、話が進まないと思うのです。

 文脈から察するに、葛西さまは「修正が容易であるものを、そのまま出荷してしまうことは怠慢であろう」という話をされているように見受けます。軽微な欠点と、それを埋める努力の話ですよね。
 くぼさまのほうは、「致命的なまでに酷い欠陥があるのに、それを放置して出荷してしまうことは倫理にもとる」という話をされているように見受けます。食品であれば食中毒の危険だとか。自動車であれば部品の脱落で死亡事故に繋がるようなものであったりとか。

 そして私は、両者の中間あたりにある、中程度の欠点の話をしていたつもりです。
 もともとデッサンの狂いの話でしたし。そう深刻でもなく、そう軽微でもなく、修正もそう簡単ではない。そういった種類の欠点の話。
 デッサンとか。狂っているからといって、そう容易には修正できないものと思います。狂っていないものを描ける人は、いつでも狂っていないものを描くことができますし、狂ってしまう人は狂わせずに書くことができません。

 この修正の容易さも、引き起こす影響の深刻さも、ともに中程度の欠点を、小説に投影していった場合には、人称や視点の不統一といったものであるとしたわけです。
 実際、人称がおかしい小説はありますし。視点の統一が取れていない作品もありますし。


 しかしこれは欠点と言えるのか?
 欠点と言えるのだとしても、すべてをぶちこわしてしまうような、それほど深刻なものであるといえるのか? ――という話をしていたつもりです。

 この「技術」に属するものを、私は、水を汲む器にたとえました。
 穴の開いた器というのは、完璧ではない技術というたとえです。

 旅人は器を飲むわけではありません。飲むのは水です。中身のほうです。
 読者もまた、デッサンの正確さや、視点の正確さを愉しむわけではなく、そこに描かれている中身のほう――「物語」を愉しむものだと思います。
 器は、最低限、器としての用を成していればいいのであって、そこに非の打ち所のない完璧さを求めるのは、読者の利益に繋がるものではないだろうと、そう申しているのですが。

 ぶっちゃけ――。
 デッサン狂っているけど「可愛い女の子」のイラストと、デッサンは完璧で正確だけど「可愛くない女の子」のイラストが2点あったら、私は「可愛いほう」を選択しますし。
 正しい技術で書かれているつまらない小説よりも、技術に多少穴があっても面白い小説とのどっちを取るのかといえば、無論、面白いほうですし。




>ドクロちゃん

 ドクロちゃんに関しては、なにか、葛西さまの鬼門に触れてしまったか、地雷でも踏んでしまったのでしょうか。
 私は「素」と言ったのであって、「天然」と、揶揄するような響きを込めて言ったわけではないのですけど。
 普通にありのまま出したらああなった。そういう意味での「素」です。狙ってやるのではなく、平常時に自分が普通に思いつく話という意味で。
 ドクロちゃんはもともと友人との馬鹿話のなかで出てきた話であったそうですし。もっと世間的に言うところの「普通」の話も用意していたけど、自分の「素」で勝負すべきと思ってあれで応募したのだ。なんて話も聞きますし。

46 名前 : くぼひでき 投稿日 : 2004年05月28日(金) 04時26分58秒
>新木さま

なんかもう、スレの論旨とはずれてるので、わたしはこの件(欠点・欠陥・穴)についても手を引きます。
 それでも一言。
「読者はどうせ気づかない。気づかないならいいじゃない」という態度は解せません。
 作り手の誰も気づかなかったのならしかたないけど、大中小のどの穴でも、気づいたんなら直そうよ、ってことを言いたいだけです。
 わたしはそういうことに気がつくタイプの読者です。そういう読者にも配慮を。

>さかなやさま
>推薦図書,課題図書
>国語の教科書
> これも読むの好きだったっす。

わーい(^^。


47 名前 : YUMI 投稿日 : 2004年05月28日(金) 06時09分54秒
新木様

突然横から失礼致します。

ずっと読んできて、思ったのですが、
新木様の話がかみ合わないまま進んでいって、かなりせつない・・・。

44の葛西様のおっしゃっていた文は、新木様の書かれた二つの
どちらでもないように私には読めましたし。

この方は、そういう意味でいったんじゃないんじゃないかな、
でもずれたまま、新木様だけがなんだか先へ先へと走っていっちゃってるな、と思う
ことが多いです。

固定観念にとらわれない自由な発想を求めるあまり、
ときに普遍的な発想を極端に避けたり、
意見があちらこちらに飛んだり、という風に感じてしまいました。

せっかくのこの貴重な場ですし、
みんなで気持ちのよいコミュニケーションができるといいですよね。


久美様

久美様のコバルトの本を全部読んで、泣いたり笑ったりしてきた者です。
「創世記」を偶然知ってから、夢中になって読んでおります。
こんなふうに、久美様の生の声にリアルタイムで巡り会えたこと、とても嬉しかったです。

>こんな活発な論議がかわされてから出ると思い切り話が戻ってる感じがしちゃうだろうなぁ。

などとおっしゃらず、掲示板とは切り離して考えていただいて
今後もどんどんアップロードしてください。
久美様のお話をすぐ隣で聞かせていただいているような、とても贅沢な気分になります。
めったにうかがい知ることのできない世界などもかいま見えて、なんて楽しいんでしょう。
長く続いてほしいなぁ。

48 名前 : 葛西 伸哉 投稿日 : 2004年05月28日(金) 06時22分47秒
新木さま

 別に新木さまの立場を心配しているわけでも、自分が作家代表を気取って読者の誤解を防ごうというつもりもありませんよ。ただ、純粋に論旨や意図が理解しがたく、同意できかねるから尋ねたまでで。
 絵にしろ文章にしろ、敢えて崩す事で生じる魅力はあります。崩れている事とトレードオフ可能なだけの魅力を備えているものも存在します。ですが、その例をもってすべてのミス・不備・あるいは穴を許容するというのは違うんじゃないですか?

・間違っている「からこそ」面白い、魅力的である。
・間違っている「のとは無関係に」面白い、魅力的である。
・間違っている「事を差し引いても」面白い、魅力的である。
 そして
・「間違っている「から」魅力的でない。

 この四つを混同するべきではないし、細かなミスや不備をゼロにするのは原理的に不可能であっても、送り手の側が「受け手はそんな事は気にしない」という立場をとるのはおかしいのではないかと言ってるのです。新木さまの論法はむしろ「気にする読者」を例外として軽視、あるいは排除しているのではありませんか? そして上記の第四の可能性も。
 それは新木さま言うところの「気にしすぎる読者の事ばかりにこだわる」のと同様か、あるいはそれ以上にまずい事ではないかと思うのですけれどね。この点では、私はくぼひできさまの46番の発言に同意します。
 この件に関しては既に以前の発言の言い換え・繰り返しになっていますし、新木さまがあくまでも「ご自分の本音」を大切になさりたいというのなら、これ以上言うべき事はありません。申し訳ないですが、この話題からは撤退させてください。

 で、『ドクロちゃん』です。
 これに関してもお互いおかゆ氏本人ならぬ身。これ以上繰り返しても仮定に仮定を重ねた水掛け論になりかねませんし、「素」とは何か「天然」とは何か、ついでに「いい男」とは何かという言葉の定義論になったり、喩え話が勝手に転がって話題があらぬ方向に拡散するのも本意ではないので、この発言でひと区切りにしたく存じます。
『ドクロちゃん』のコンセプトをおかゆ氏が自分で素直に面白いと思った事を「素」というのなら、それは「素」でしょう。でも、それを言うならほとんどのフィクションが「素」で書かれているという話になりませんか?
 作者自身は人間不信の塊だけど人間賛歌を描くとか、アナーキストなんだけど愛国心をテーマにするとか、そういうのがないとはいいませんけど少数でしょう。それとも私が知らないだけなんでしょうか。
「魅力的で、自分の事だけを特別に気にしてる女の子が押し掛けてきて同居」「その女の子は不思議な力を持っている」という「美少女落ちモノ」「SF押し掛け女房」が当たり前のコンセンサスになっているからこそ「だけど同居してもあまり嬉しくなくてイヤ〜ンな出来事が連続」「不思議な力で僕は撲殺されるけど生き返る」というアレンジを加えたところにおかゆ氏の意図があり、独創があると私は思います。
 着想は新木さまがいうところの「素」なのかも知れません。しかし、それを「読者に提供できる素材」だと発見し、「面白いフィクション」としておかゆ氏が明確な意図を持って加工した。最適の表現にするために語り口を選び、文体を選択し、ディテールを積み重ねたからこその成果があの『撲殺天使ドクロちゃん』ではないですか?
(例えば、仮に同じネタを私が思いついていたとしても、桜くんの一人称という選択はできなかったでしょうね)
 現に40番でヤンさまが発言している通り、おかゆ氏以前には成功の実例はなかったのです!
 この事実から、私は『撲殺天使ドクロちゃん』の先進性を作者の意図によるものだと評価し、新木さまの挙げた「素」という言葉に異を唱えた次第です。
(なお、もうひとつ『ドクロちゃん』に関しては「小説から派生した新しいジャンルとしての【ライトノベル】としても注目すべき点がありますが、それはまたいずれ項を改めて。今、考えている事は【ライトノベル】の作者は、必ずしも小説家=テキストライターではないのではないか、という事です)

49 名前 : 新木 伸 投稿日 : 2004年05月28日(金) 07時07分50秒
 おそらく皆さんうんざりされている頃合いかと思いますので、この件についても、そろそろこのあたりで引こうと思います。
 荒らす気は毛頭なく、気分の良いコミュニケーションの場を維持したいという気持ちは皆さんと同じです。

 このところの一連の議論によって不愉快になった方がいらっしゃいましたら、もうしわけありません。

 葛西さんには言いっぱなしの形になってしまいました。申しわけないです。もう一度ぐらい、この件で返信はあるかもしれませんが、そうであっても、僕の番から返さずに止めておくことにします。返信してゆくとまた泥沼ですし。こんど飲んだときに思う存分やりあいましょう。>葛西さん

 言わんとしていることが伝えられないもどかしさ。すべて私自身の力不足からくるものです。思考の伝達くらいならともかく、思想の伝達を「表情/口調」などの情報抜きに、純粋に言葉のみでやろうとして、成功した試しがありません。いつかは――と、そう思っているのですけど。
 最後に簡潔にまとめようとしてみたのですが、やはり意見があちらこちらに飛んでしまうという、YUMIさまに指摘された欠点が出てきていましたので、書かずに終えることにします。




(あ、べつにスレからの撤退宣言とかではないのでご心配なく)

50 名前 : 新木 伸 投稿日 : 2004年05月28日(金) 07時15分05秒
 あ。上ですが。
 リロードせずに書きこみしてしまい、葛西さんの書きこみを見ないで書いてしまいました。
 やはり「ちがうんだよおお」という感じなのですけど。
 まあこの場は収めるとしましょう。>葛西さん

51 名前 : 来無 投稿日 : 2004年05月28日(金) 07時43分13秒
新木様
留守にしていて遅くなりましたが、元のずれを生じさせた張本人?として
私の言うところのデッサンの狂い=欠点は、治せようが治せまいが欠点は欠点である欠点です
治せないのは実力の不足です、治さないのは怠慢です

デッサンさえ正ければいい絵と言うわけでもなければ
デッサンが正しくなければ全て駄目な絵と言うわけでもない
だから、わずかでもデッサンが狂ってたらプロ失格か、と言うとそんなことは無い
のはもちろんなんですが、デッサンが狂っていると言うのは確実に減点でもあります
一方で、デフォルメは必要です、どんな場合でも、大なり小なり
だからデフォルメが0だったらそりゃ画面としておかしい

人間をそのまま型取りしてもデッサンの正しい彫刻にはなりません
製図から起こした立体図はデッサンが正しいというわけではないんです
3Dだからデッサンが正しいと言うもんではないです
人体なんか狂いまくりだし。メカものだって正しくはないですよ
パースは正確(描画プログラムにもよりますが)でも。(大抵は画面の他のオブジェクトとかとのパースも狂ってますけど)

だから、正しいデッサンというのは適切なデフォルメを施されているとも言えますし
どんなデフォルメにも正しいデッサンというのがあるわけです
デフォルメとデッサンは対立概念じゃないんです

 葛西様のおっしゃるところの
 「敢えて陶芸家が空けた穴」はデフォルメです(デッサン正確であると仮定しての話ですが)
 が
 「躍動感やキャラの魅力を優先した結果、明らかにデッサンがおかしい絵」
 は、もし本当にそうなら、躍動感やキャラに魅力はある良い絵かもしれないがデッサンが狂った分減点の作品、です
 素人目にはどんなに狂っているように見えても、きちんとデフォルメをされている絵はデッサン狂ってません
 荒木氏のジョジョが実際にどっちかは、私はあんまり好きでなく読み飛ばしてしまうので判断できませんが
 彼のデッサン力が確かなら躍動感やキャラの魅力の為に犠牲になっているのはデッサンの正確さではなく、常識的な構図や視認性あたりでしょう)
 デッサンが狂うのはデッサン力が無いからだけです


>「まだ不満」な状態であっても(中略)入稿してしまう
>あえて涙を飲んで欠陥を抱えたままロールアウトさせてしまう
つまりは作品の(作家の、良識の)偏差値が低くなるだけだと
赤点にはならないかもしれない
人間常に満点が取れるわけじゃないですし、
多少偏差値が低くても合格点が出る場合は多くあるでしょう
死にものぐるいで頑張っても50をたいして超えない人も居るかもしれませんが
私が言いたいのは自主的にテストを受けている以上、点数あげる努力は不断であるべきだ、と言う話であり
読者としては、確かに、自分には解らないかもしれないし、気にしないかもしれないけれど
作家がそういう努力をしている、筈であると言う信用は本を買う代金の内だと言うことです
(和牛と輸入肉の違いが解らなくたって、お店を信用してお肉を買いますな
 どうせ食っても解らないだろうと偽装されてはたまりません、消費者としては
 味の解らない客に欠陥品を混ぜて売るのは商売人としてはあかんやろ、と)

偏差値50(あくまで作品とか良識を偏差値とした例えです)以下の読者「しか」居なければ
偏差値70の作品を作り続けるモチベーションは下がるかもしれません
私はそこで利益は下がっても70の価値の解る読者が比較して多い場所に移る気持ちは大変共感出来ます
偏差値50の作品作りに移るよりは、はるかに
そういう熱ってのは、70と50の違いが解らない人にも伝わりますよ。
長いスパンで見れば必ず。

旅人と水のたとえ話
器に穴があいてるのをよしとするか否かの判断は旅人の専断事項です
作家が水売りであろうと器作りであろうと
売る方が飲めりゃ良いじゃないかと言う権利は無いはずです
私としては、作家は器を作る人、水は元々旅人のもの(オアシスか?)だろうと思うわけです
器によって入る水の形、量などが決定されますが、水そのものを売っているわけでは決して無い
器に水を入れるか、茶を入れるか、酒を入れるか、それも旅人が決める筈です
だから尚更器に意味の無い穴があいているのは欠点でしょう

>ぶっちゃけ――。(以下略)
私も「可愛い方」「面白い方」を選びますよ、その選択肢「しかないなら」
でも同じ可愛いいならデッサン正しい方が良いし、面白いなら技術の正しい方を選びます
で、実際を顧みて「可愛さ」「面白さ」に多少劣っても、多少と言う程度の差なら、技術の確かな方を選んでたりする自分
だってその方が見やすいし読みやすいし、身になるんだもの
荒削りだが面白いと言うのは確かにありますけどね、それは、技術が洗練される期待も込めてのことですし


>喉を渇かした旅人が、水を飲むための役にも立たないほど、大穴が開いているような絵というのは、さすがにないと思うのですけど……。
>また、物語に餓えている読者が、物語を貪る役に立たないほど、視点やら文章やらが壊れている市販小説もないと思うのですけど。
ありますよ。意外と…ライトノベルに限りませんけど。どちらかと言うと文章の欠点を売れ線の絵で補おうとする、向きが強いのか
状況としては絵の方がマシな気はしますが、金返せと叫んだことは一度や二度じゃありません

52 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年05月28日(金) 10時22分41秒
ああ、よかった。15回出たー。……えっ、けど、ゆふ子さまのメールと「一緒に出してね」って送ったはずのわたしの「それを読んでからのいいわけ文章」が出てないんですけど。(泣)業務連絡。さか○だいすけさま、あれもなるべく早めに出してー! こないだ二箇所、ミスタッチの訂正送ったのもそれだよー! 

ヤンさま、ほかのみなさま、わたし「ドクロちゃん」を一冊も読んでないので何も申せません。何を隠そう「主人公が何度も死んでは生き返る」という設定が、恐ろしいことにわたくしめがEXノベルスで書いている通称『鑑別所』シリーズとカブッているのです(撲殺ではありませんが)。うそー! 知らなかったよー! で、似た設定のものを読むのがコワイので(影響されない自信がないし、パクリ非難を恐れるあまり書きたいものの軸がブレるかもしれないし)すみませんが「ドクロちゃん」はとうぶん読めないと思います。

トーシロートαさま。ゲーム・ソフトに対するわたし個人の「衝撃度」で言えば、アップルIIe輸入版「ウィザードリー」のそれが一番大きかったです。画面はシロクロ、動くのは画面の隅のちっこい窓の中の線画(ダンジョンを表す)だけ、表示は英文。恐々進んで「a pit!」と言われた時のあの呆然自失。どんな本を読んでいる時より「完璧にそっちに入り込んで」「ゲーム内人物になりきって」遊べる世界の発見! それでも、東野司さんが半年くらい前のSFマガジンにだったかな? 書いておられた、太古のスタトレゲーム(ひたすら敵と自分の座標を計算して移動して攻撃し防御するもの。宇宙だから何か発射しても当たるまでにかなり時間がかかるらしい)と、それに夢中になっちゃったひとたちよりは、まだしも「一般性」が高かったのではないかと思いますが。
衝撃の正体は「自分の選択しだいでお話がどんどんかわっちゃう!」です。コンピュータゲームによって、われわれは、プレイヤー視点という新しい「自分」を手にいれたのです。そりゃ夢中になります。わたしの場合は、FFIIでミンウを去らせなければフラグが立たないのに気づくまででしたが。確かに「ゲーム内自分」の選択でお話がすすんでいるように見える。でも、その選択の幅がまだ十分ではない。自分ならぜったいにしない選択をしない限り先にすすめないのだとわかった時、わたしのゲーム熱はやや沈静化しました。その時点での最高傑作ゲームは、あくまで特定の誰かによって恣意的にデザインされたもので、迂回路は多くともいずれは何箇所かの有限個のゴールに向けて進んでいくものにすぎなかったので。ならば「もっとも面白い選択をする特定のキャラ」を視点人物に据え、そのキャラに感情移入してもらうことで、優れたゲームをプレイしたときの快感に近いものを小説で描くことが「まだギリギリ」可能でした。
いまはあやしい。アバターやオンラインゲームが出現し、サイト上をハンドルが飛び交い、多数のキャラが架空世界のメタ現実を自由自在に跳梁している。楽しみながら自分がゲームをしている(にすぎない)ことをも同時に知っている。そのような形で培われた脳は、この世の現実を生きる時にも、同じポジションに立ちがちです。たとえば、何か好ましくないことが生じたときにはメタ視点に戻る。ゲームを終了して立ち去る。あるいは「どうせネタじゃん、なにマジになってるんスか?」と笑い飛ばす。別の(無料で使い捨ての)アドレスを取り、別のキャラとして出現しなおす。
このひとたちは、とうぜん小説も(もし読むとしたら)そういうノリで読むことでしょう。古いタイプの小説読者が作者が描いた道筋を唯々諾々と辿るしかなかったのとは大違いです(このへんの考えには昨日のお返事に書いた東浩紀さんの評論からの影響がかなりあります)。
ライトノベルしか読まない読者がライトノベルではないものを面白く読めないのだとするなら、それは彼らの「読解力」不足のせいではなく(中にはそういう場合もあるかもしれませんが主として)「何を」おもしろがるかが違っているせいなのでは。 

53 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年05月28日(金) 10時32分00秒
新木さま。
>この場合「川」はイラストやら物語やらの体験の源流を示し、「器」はそれを切り出して保存できる技術のことを示しています。(短期間であれ長期間であれ、保存するための技術)

それは失礼しました。わたしは川は物語そのものであり、作者は秘境を探検しては誰も知らなさそうな川を発見し、「みなさーん、ここにこんなステキな川がありますよー!」とアナウンスしているやつかなと思ったのです。

YUMIさま。ありがとー(泣)。あと四回ぐらいなんですけど。楽しんでいただければ幸いです。

54 名前 : なゆた 投稿日 : 2004年05月28日(金) 11時05分55秒
毎回愉しく久美さまのコラム読ませていただいております。
なんだか読むたびにわくわくします。
『あけめやみ とじめやみ』で初めて久美さまの作品に触れた人間ですが、コバルト時代の話とかを読んで、へー、そうやってあそこに到るのか、と感心したりしています。

ところで、15回を読んで思ったのですが、ライトノベルの読者は「ライトノベル」という言葉を一つの単語としてしか認識してないのではないでしょうか。
最初に言われ始めた頃ならともかく、現時点においては「ライト」な「ノベル」と分割する事に意味はなくて、「ライトノベル」と称されているものを、総体として捉えているのではないかと思うのですけれど。
だから「軽い」ものを求めている、とかではなく読者は「ライトノベル」を求めているのではないかと。
その一単語で表される「ライトノベル」がいったいいかなるものを指してるかと言われると、私自身にも指摘できないのがもどかしいところです。
まあ、ヤングアダルトなんて言われ方が継続してなくてよかったなあ、とは思いますが……。

>新木さま
ずっと見てきて不思議なのですが、なぜたとえ話で話そうとなさるんでしょう?
そのおかげで無用に議論が散漫になり、混乱が生じている様にしか思えません。

55 名前 : さかなや 投稿日 : 2004年05月28日(金) 12時45分43秒
 ごきげんよう。第15回楽しく読ませていただきました。

>「小説家」になりたい、から、小説を書く、というのは、へんなの。本末転倒なの。
 この一文に非常に共感をおぼえました。
 そーなんですよ。だいたい,ライトノベルとかファンタジーとか馬鹿にしてるクセにそれを書きたがるってどーいうことなのさっ!?(←ちょっと私怨入ってます)

>ライトノベル
 私はこの呼び方好きです。「あ・かるい小説」って感じで(笑)

 軽蔑でも卑下でもなく,読み手にかかる負担はできるだけ少ない方がいいと思うのです。そのためなら,挿絵だろうが平仮名改行多目の文章だろうが使えるものは何だって使うべきかと。

>美しく可愛らしく胸を張っていえるような「呼び名」
 私は,古式ゆかしく「草双紙」と呼称しようと主張してるのですが,誰も呼んでくれないんですよね。
 ……というかネタだと思われてるみたいっす(笑) ホンキなのになあ。

>ドラクエ小説
 そーいえば,ルビス伝はハードカバーじゃありませんでしたっけ? 今,手元になくて確認できないから,私の勘違いかもしれませんけど。

56 名前 : 秋津透 投稿日 : 2004年05月28日(金) 13時25分17秒
どうも。
久美さんのコラムに出てきた中村さんのメールで名指し非難された、秋津透です。
そうか、中村さん、そんなに怒ってたのか。申し訳ない。
だけど、私の発言は、私自身の記憶と違う。
「こういうのが売れるんだから、この程度でいいんだよ」
こう言った覚えはない。
私は、こう言ったつもりだった。
「こういう作品が好きな読者もいて、売れてもいる。だから、こういうのもありでしょう」
私が擁護したのは、作品の「傾向」であって「程度」じゃない。

私が擁護した応募作は、中村さんには(そしておそらく久美さんにも)程度の低いものと感じられたのでしょう。
しかし私には、未熟ではあっても程度が低いとは感じられなかった。
どんなに中村さんには「低く」見えようと、この応募者は、こういう話が好きで、書きたくて、書いている。
私はそう感じたから、推した。

まあ、その後、授賞式のパーティで、その応募者から「秋津さんの話が好きなんです」といわれて。
彼の「情熱」は、いわば同類の私にしか感じられない、中村さんや久美さんには、
「こんなもん低いわ。なめとんのか、けっ!」と唾棄されるものなのかもしれないとは思いましたが。
しかし、それなら尚更、私が擁護しなかったら、こういう「傾向」の作品は問答無用で切られるし、
だったら私が選考やってる存在意義もあるだろう、と思ったんですがね。

しかし、中村さんが、もう選考辞めるというほど怒ってらしたとは。全然気がつかなかった。
議論は議論で、その場だけのものと思い込んでいた、自分の鈍さに呆れております。

さて、今年の選考はどうなるかな。
できれば中村さん、そして久美さんも怒らせたくないけど、それができるほど器用ではないし。







57 名前 : 八杉 将司 投稿日 : 2004年05月28日(金) 14時44分54秒
 久美さま、ご無沙汰しております。
 みなさま、はじめまして。
 八杉と申します。
 「創世記」、楽しく拝読させていただいております。
 実はぼくはいわゆる「ライトノベル」と呼ばれるジャンルの新人賞へ何年も応募していた人間なもので、ここ数年は離れていたものの、このコラムの存在を知って読み始めたらすっかりのめりこんでしまいました。
 あと四回ぐらいで終わるなんてもったいない。せめてあと一年ぐらいは。それも週刊で。(鬼か、おまいは。でも、半ば本気で願ってたり)

 今回、十五回のコラムを読んで、「ああ、そうですよね。それでいいんですよね。その気持ちを信じて書いていっていいんですよね、これからも」と深く感じたもので、書き込むことにしました。

 過去、新人賞では何度も一次落ちして疑心暗鬼に陥って、受賞するために小説を書く……つまり久美さまがおっしゃられた「小説家」になりたいから小説を書くという本末転倒なことをやっていた時期がありました。
 もともと「ライトノベル」というジャンルの新人賞を選んだのは「小説家」になりやすから、ではなくて、「ライトノベル」と呼ばれるジャンルの可能性に惚れこんだからでした。
 冲方さまの「黒い季節」、古橋秀之さまの「ブラックロッド」シリーズ、新木さまの「星くず英雄伝」シリーズなどを読んでライトノベルの何でもありの器の大きさに、ぼくが書きたいものを受け付けてくれるのはここしかない、ここなら自由にやれると思い込んでライトノベル系新人賞に絞って応募し続けていたんです。
 最初はそんな純情な意気込みで書いてたのにどこでどう汚れちまったのか。
 案の定、本末転倒な思想が頭をもたげてから小説を書くのが嫌いになりましたよ。執筆してて辛いんです。しんどいんです。もううんざり。いいよ、プロになれなくったって。プロになるのが目的じゃないんだよ。俺は俺の読みたい小説を書きたいんじゃ書き続けたいんじゃこんちくしょー……と、書いた作品が、おかげさまで第五回日本SF新人賞受賞という栄誉を頂けまして、ただいまプレッシャーを感じながら受賞作のゲラ原稿を赤ペン片手に競馬に全財産をかけて予想をする切羽詰ったおじさんみたくにらめっこしております。
 それにしても「ゆめねこ(仲間内ではあの受賞作をこう呼んでます。夢猫ではなくてゆめねこ)」はそれだけの熱意を持って書いたのに欠陥欠点穴が多すぎるんじゃこんちくしょー(涙)
 あ、いや、それはともかく、久美さま、改めて本当にありがとうございました。「正しい順序」でデビューできそうです。
 では、十六回以降のコラムも楽しみにお待ちしております。

 ちなみにドクロちゃんを最近読み始めたのですが、おもろすぎます。読み進めるうちにぼくも一度撲殺されてみたいと思ったり……してませんしてません絶対してません。ああ、そこの人、バットに手をかけない!!

58 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年05月28日(金) 18時31分53秒
なゆたさま。なるほどー! 「ライトノベル」で一語だと! なまじ語源なんかにこだわって分解してはいけないんだと! それは斬新な視点です。そうかもしれない。たとえば「大輔」という名前がハタチ前後のひとにとっても多いのは「偉大な力添えをくれるひと」という意味より、むしろ「荒木大輔のファンだったから、あんなひとになるように」みたいなのがけっこう多かったのではないかと……坂田氏、酒井氏がどうなのかは知りませんが。アンダー23メンバーには、松木大輔と那須ダイスケ(亮の字がついた。大輔ではない)と三人もダイスケがいるし。

秋津さま。うわっ、お出ましありがとうございます。ご発言の引用が不正確だったらごめんなさん。すみません。イヤわたしもノリさんがそこまで本気で怒っていたとは気づかなかったクチなのです。正直いってあの日の正確なセリフは記憶しておりませんし。
ただ、今回、ここの集計結果や、このスレでの種々のヤリトリを経て、果たしてわたしはえんため大賞の最終選考委員をしていて良い人間なのだろうか? という大疑問が生じてきてしまいました。わたしはライトノベル好きのひとに好かれるライトノベルを理解できる回路を持ち合わせていないのではないかと。そろそろ今年も御作品が届く頃ですね。虚心坦懐に読み、選考会に臨みます。

とか思っていたら八杉将司さんだし(註・八杉さんの受賞された賞の選考委員もやっていた)。すみません、わたし「ゆめねこ」も、八杉さんが伝えたかった部分、ちゃんと読めていたのかどうか自信が(泣)。ていうか、日本SF新人賞もライトノベルなんですかい?ううう、SFとつくと、あるいは、SF的ガジェットが出てくると、ついSFとして「どう見えるか」で読んでしまうかもしれない。

『ファウスト』2号の作品群を読んで、P・K・ディックは早死にしすぎたなぁとつくづく思いました。シュミラクルとか、記憶の嘘とか、多重自我とか、「ひきこもって」妄想することとか、とってもすごくディック的な気がしちゃったんですけど、そういう読み方って古い? ていうか、そういうテーマを仮定しないと読めないわたしにはそう見えて(そう読んでもちゃんと読めてゾクゾクするほど面白いのですが)、ライトノベル好きのかたにはまた別なフェイズで見えているんでしょうか。ちなみにディックの「難解」『ヴァリス』三部作、東京では何度読んでもちーともわからなかったのですが、タヒチに言ったらすごくスラスラ読めて楽しめるという不思議な経験をしました。うんとがんばらないと読めないからたった三冊持ってっても長持ちするだろうと思ったのに。南太平洋の海にぷかぷか浮かんではじめて読めるぐらい、わたしの脳みそはコウチャクしていたのかなぁ、なんて思ったのを思い出しました。

59 名前 : 各務桜花 投稿日 : 2004年05月28日(金) 19時41分02秒
こんにちは。

ライトノベル。思いっきり「造語」として認識している人です(笑)私は、10代をメインターゲット
にしている小説のレーベルで分けているくらいでしょうか。
ライトノベルの中に少年向けがあって少女向けがあって。
それ以上考えたことすらありませんでした。そういうジャンルなんだと思ってましたし。

15回読んで改めて考えてみると。
気軽にジャンルの壁を越えられる小説・・・。
SFチックなファンタジー、ミステリ風―、結構なんでもありなジャンルだと思うのです。

60 名前 : 富士見ファンタジアの 投稿日 : 2004年05月28日(金) 19時49分58秒
『みなごろしの学園』に「ライトノベルという呼び方は
作者と読者の両方を馬鹿にしている」という記述がありましたね。
あとがきじゃなくて本文に。

61 名前 : 真璃雫 投稿日 : 2004年05月28日(金) 20時30分51秒
こんにちは。

ロードオブザリングという名前についてですが、
映画の邦題ではなぜか、複数形の名詞を単数形にすることが多いそうです。
指輪物語と言わないとしっくりこない私は「ロードオブザリング」には疑問を覚えなかったんですが、
「ダンジョン&ドラゴン」という映画のタイトルに非常に違和感がありまして、その時聞いた話です。

62 名前 : 八杉 将司 投稿日 : 2004年05月28日(金) 21時11分17秒
>ていうか、日本SF新人賞もライトノベルなんですかい?

「文学賞メッタ斬り」という本では「日本SF新人賞」が「ライトノベル寄り?」となってますね。ぼくはそう思っていなかったので「えっ、そうやったん?」と驚きましたけど。(笑)

 怒られるかもしれませんが、「ゆめねこ」についてはSFを書こうとかライトノベルを書こうとかいったことは考えていませんでした。正直に言うと、もうこのとき、ぼくが書きたい作品はライトノベルと呼ばれるジャンルでは受け付けてくれないだろうとは思ってました。(そのくせライトノベルの明確な定義はいまだによくわかりません。でも、現在本屋で並べられている表紙のイラストに合う小説を書く自信はありませんでした)
 とにかく自分の書きたいもの、読みたいものを書こうと「ゆめねこ」を執筆していました。でも、これはSFになるんだろうなあとは思ってました。それで「日本SF新人賞」へ応募したわけです。

 それから、久美さまが選考会で「ディテール」について言及してくださったのは嬉しかったです。あそこはぼくが小説を書くときにこだわっている部分なんです。SFを書くのが好きなのもそんな「ディテール」が思う存分書けるからという理由もありますし。こんなことを言うと失礼ですが「ああ、ぼくが書きたかったことをきちんと読み取ってくださってる!」と選評を読んだときは雄叫んでました。だから、ぼくは自分の書きたい、読みたい小説を書いていっていいんだと自信がつきました。自分を信じて、これからどんどん書いていきます。久美さま、あとで後悔してもだめですよ。(笑)

63 名前 : ヤン 投稿日 : 2004年05月28日(金) 21時43分50秒
>久美様
膨大な書き込みの中、一人一人にレスしていただいて、
本当にありがとうございます。
そういえば言い遅れましたが、私は久美様の作品では
ドラゴンファームが一番好きです。
日本のファンタジーというと、どうしても剣と魔法に
偏りがちなんですが、ドラゴンファームには私の好きな
魔法の国ザンスシリーズのような、世界観の広がりで
楽しませる雰囲気があって、とても気に入っていました。

ライトノベルとは何か、というあたりのコラムを読んでると、
「読者を楽しませることが最も大切」なエンターテイメントの
提供者としてのプライドと、その一方で、「言葉」を生業とする
小説家として、文字文化の担い手として、ライトノベルの現状に
幾ばくかの危惧を抱かざるを得ない、という葛藤の相反する
感情がぶつかっているように思いましたが、どうなのでしょうか。

64 名前 : 削除しました 投稿日 : 削除しました
削除しました

65 名前 : 極楽トンボ@管理人 投稿日 : 2004年05月28日(金) 23時19分28秒
みなさんこんにちは。
このライトノベルがすごい!」管理人の極楽トンボです。
活発な議論が飛び交っていて、とても楽しく読ませてもらっています。
ただ、基本的にこちらは久美沙織さんの「創世記」感想スレでして、あまりに本題から離れる話題になりますと閲覧している方々も話題についてこられなくなるおそれがあります。

そこで運営側としましては、これまでの書き込みについてアンカー付きの過去ログ(ただし、主な話題だけに絞ってあります)を用意させて頂きました。
●書きたいものと書かされるもの
http://aijar.org/sugoi/cgi-bin/bbs/bbslog/bbs-a.html
●イラストとテキスト…ライトノベルというもの
http://maijar.org/sugoi/cgi-bin/bbs/bbslog/bbs-b.html
この過去ログの引用やリンク参照を活用して頂いて構いませんので、感想スレから明らかに逸脱するけれどももう少し突っ込んだ話がしてみたいと思われた方は、適宜新しいスレを立ててそちらに場所を移して議論を続行して頂けますと幸いです。今後の書き込みについても同様です。
多数の人が閲覧されているという事情から、このような提案をさせて頂きました。無粋とは思いますが、ご理解ください。

ただし議論が萎縮してしまうことは本意ではありません。活発な議論は望むところです!!
以上、運営側からのお願いです。

66 名前 : 火霊罠禍 投稿日 : 2004年05月28日(金) 23時28分03秒
はじめまして。火霊罠禍(かりょうびんか)といいます。

久美沙織さんの作品は今まで読んだ事なかったのですが、コラムを読んでいて読もうという気になりました。
と、思ったら。1作品だけ読んだ事がありました。7つの短編がまとめられた『SevensOut悪夢七夜』という本で。
そーかああいう作品を書く人か。きっとおかみきと言うのもそういう話しなんだろうな。今度探そう。

ライトノベル、という単語ですが、以前何処か(たぶんまいじゃー関連のチャットか掲示板か)でまったく別の意味だと言う意見を見たことがある気がします。
right novellでもight novelでもなく、wright novelだと言う意見です。和訳すると、小説を書け。命令文。
これには「菜種の油と小説書きは絞れば絞るほど取れるぞ」的な意味合いもあるように見えなくも無いですが、私には違うようにも思えます。
novelが本棚に並んでいるのを見かけて読むのに対し、wright novelは世に出る前から読みたいと読者に望まれている小説なのではないかな、と。


う〜ん、我ながらなにが言いたいのか良く分からない。

67 名前 : 有里 投稿日 : 2004年05月28日(金) 23時32分47秒
(#65のURLの一部が間違っているようなので……)

アンカー付きの過去ログ

●書きたいものと書かされるもの
http://maijar.org/sugoi/cgi-bin/bbs/bbslog/bbs-a.html
●イラストとテキスト…ライトノベルというもの
http://maijar.org/sugoi/cgi-bin/bbs/bbslog/bbs-b.html

68 名前 : 海燕 投稿日 : 2004年05月29日(土) 02時29分21秒
>オフィシャルのカリンの挿絵

オフィシャルと言い切って良いものかどうかは微妙ですが、「エンサイクロペディア銀河英雄伝説」のカーテローゼ・フォン・クロイツェルの項に道原かつみ画のカリンの顔イラストがあります。髪の長さはたしかセミロングでした。

>そのような形で培われた脳は、この世の現実を生きる時にも、同じポジションに立ちがちです。

ああ、いろいろと心当たりが。「クビキリサイクル」に始まる西尾維新の「戯言シリーズ」の主人公は、「戯言遣い」を名乗る少年で、なにかというと長広舌を駆使したあげく、「戯言だけどね」と自分自身の発言をメタレベルで否定してしまいます。これも時代の風潮なのでしょう。

>最初に言われ始めた頃ならともかく、現時点においては「ライト」な「ノベル」と分割する事に意味はなくて、「ライトノベル」と称されているものを、総体として捉えているのではないかと思うのですけれど。

しかし、その「最初に言われ始めた頃」、この言葉が抵抗感なく広まっていったということが重要なのだと思います。すくなくとも当時のライトノベルの読者は、この言葉に対し「ライトノベルだと! ふざけるな! 自分たちが読んでいるものはそんなものではない!」とは思わなかったということですから。なぜ久美さんは抵抗を感じ、多くのライトノベル読者は感じなかったのか、おそらくそこにひとつの問題の焦点があるのではないかと。

>ここなら自由にやれると思い込んでライトノベル系新人賞に絞って応募し続けていたんです。

こう考えるひとがいるから「変な作品」に対し寛容なジャンルは発展するのですね。一時期のSFがそうだった。おそらくは別の分野を選んでも天才として名を残したであろうディックやベスターやスタージョンやディレイニーやティプトリーやコードウェイナー・スミスがSFを選んだのは、ひとつにはSFがかれらの特異で奇妙な作品をあたたかく迎い入れたからではないでしょうか。それに対してジャンルが衰退期に入ると、作品の多様性に対する寛容の精神が薄れ、「これはSFではない」と頻繁に言われるようになる。

つまり異端の排斥がおこなわれる。それによってジャンルは純血を維持することができるかもしれないけれど、しかしそれを見た新進作家は「それならSFはやめよう。自分の作品は受け入れてもらえそうにないから」と考える。結果、ジャンルはさらに衰退していく──ということなのではないかと思う。いま本格推理小説の世界はほとんどおなじことを繰り返しています。一歩道を誤ると綾辻以後の「黄金時代」は終わりを告げることになるでしょう。SF衰退の折りの反省を活かせるかどうか、なかなかの見物です。

>第15回

読みました。ライトノベルということばには僕も微妙に反発を感じる側面はあるのですが、反面、そもそも小説にとって「重い」ことはそれほど絶対的な価値なのか、「軽い」ことはそんなにも悪いことなのか、まずここから考えてみるべきだと思うのです。たしかに「軽佻浮薄」という語句は良い意味ではありませんが、「軽妙洒脱」という形容だってあるわけで、「軽い」ことは一概に悪とはいえないのではないか。

昨今、ひとつ小説を超えてエンターテインメント全般がとにかく重厚長大を志向しているように見えます。文藝の世界では「魍魎の匣」、「模倣犯」、「屍鬼」、「ミステリ・オペラ」、「アラビアの夜の種族」などいわゆるブロックバスター的な超大作が次々と出版されて高い評価を得ているわけですが、その一方で漫画もちょっとヒットすれば20巻、30巻はあたりまえという状況になりつつあり、コンピューターゲームもまた大作化が進んでいるように思えます。

これはたぶん社会がより贅沢な娯楽を要求することに応えているのだと思いますが、しかしこの事態によって見失われたものもあるのではないか、とも思えるのです。どんな美食家でもいつもいつもフルコースばかり食べたいわけではない。だから「軽い」作品にもそれなりに重要な役割があるのではないか──と僕はぼんやりと思います。僕だって、できるだけすんなりと世界に入れて、すらすらと抵抗なく読めるような小説を読みたいですからね。

69 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年05月29日(土) 11時51分45秒
15回、再アップロードしなおしていただきました。コラム末尾に妹尾さまからのメールを「読んでから」の言訳をかいてあります。実はそのタイムスタンプが間違ってるんですが(現在のところ4月25日になってますが、正しくは5月25日です)とりいそぎ。15回を既にお読みいただいたかたで、そっちも読んでみたいゾなかたは、よろしかったら、リロードしなおして読んでみてやってくださいませ。さか○さま、お疲れ様です。何度もお手間をかけてしまってごめんなさいね。

各務さま。十代をメインターゲットうんぬん。胸に手をあてて振り返るに、わたしはデビューのその時からいままで主に「モノゴコロついた時にもう多数のストーリーマンガとアニメがあった世代以降」に向けて書いてきたのではないかという気がしてきました(ストーリーマンガとこだわるのは、「のらくろ」「フクちゃん」等はかなり古くからあったからです)。(地域や個人差にもよりますが)おおむね団塊の世代より上のかたには「いまいちピンときてもらえなくてもしかたない」とはじめからあきらめの意識があったかもしれない。
とあるかたのお書きになられたとある作品で最後に明かされた「Whydoneit」が「近親相姦がバレないように」というものだったので拍子抜けしたことがあります。たまさか『天使禁猟区』にハマッていた時期でもあり、「他人に迷惑かけなきゃ別にかまわないじゃん、それを隠したいばっかりに殺人を犯すほうがよっぽど迷惑」と感じてしまったのです。少女マンガ(の一部)はつねにタブー破りの最先端をいってましたからねぇ。そっち読みなれてると、たいがいのことには驚かなくなってしまっている(笑)。
そもそも日本文化は(たとえば佐保姫佐保彦の昔から)ソレをそんなに強烈にタブー視してこなかったはず。タネが同じでも母親が別なら「妹萌え」って普通だったというか。ところが「いま現在」というより「ちょっと前」には、明治維新時の尊皇攘夷派、具体的にはおもに薩長出身のかたがたが「西洋をお手本」に「こうしないと近代国家になれない!」と強権ふるって法制化しちゃったもののシバリが強い。たとえば、先日来話題の皇太子発言の根底に横たわる「男子限定の皇位継承権」なんてのもそうですよね。
日本史2000年からみれば、「ついこないだから」ジョウシキになっただけのことに、そんなにぐるぐる巻きにシバラレてなくてもいいじゃん、みたいな。

火霊罠禍さま。『悪夢七夜』? 何書いたっけ……これか(笑)これ、拙サイト「くみくり」収録の「実話」をほんのちょっとズラしただけのものですねん。『姉飼い』みたいだけど。おかみきもドラゴンファームも、まるで全然違いますです。wrightは盲点だったなぁ。命令形というのもおもしろいですが、ライトノベルの作者のかたがたは「ライター」系(つまり職人さん)であることを自覚しておられ、ノベリストとか、リテラトゥアーとは呼ばれたくねぇ! ん〜なナマハンカな自意識より、オレたちゃ読者の要求、市場の需要に確実に応えることを第一の役割と心得てるぜ! みたいな意味なのではないかな。

海燕さま。そーすね。『メフィスト』→『ファウスト』系のかたがたって流血とか解体とかみょーにお好きだけど、なんか恬淡としているというか、あんまり痛くない、怖くない。一見猟奇的で残酷な事件より、心の苦痛に注目するのが現代性なのかな。

昔、釣りに行った時、親父がカワムシとかミミズ(つまりエサ)に「痛そうで」釣針が刺せないので、あたしがいちいちツケてあげました。この親父は、ばーちゃんが夜中にタチバサミで大流血してしまった時、病院までついていって「しっかり押えていて!」とお医者にいわれて、辛抱して遣り通したけど座ったままほとんど気絶していたらしい。対してうちの亭主は鷹匠なので、活餌や狩りの獲物(ゲームの語源ですね)は、なまじグズグズ不器用なことして苦しめないよう、スッパリすみやかに殺すことに習熟している。どちらもそれぞれに「いのち」を愛している。食わないと= 殺さないと生きていけないのが人間である以上、パックの切り身も元が生命であることを忘れずなるべく残さず食べたいわたしですが、釣った魚は鮮度が落ちないようその場で殺しちゃうの平気だなぁ。

70 名前 : 来無 投稿日 : 2004年05月29日(土) 14時45分47秒
辞書で見るとlightは良い意味の方が多い気がします
光とか明るいとかもそうですが、軽快な, 快活な; 機敏な、屈託のない等
ライトノベルと言う言葉が生まれたとき、その読者が反感を持たなかったのも
ある意味誇りを持って名称を受け入れたんじゃないでしょうか
英国議会の政党の名称がお互いの悪口から来ているようなもので…
ライト(軽薄)?確かに自分たちはライト(軽快、明快)だ、みたいな感じで。

読みやすい、というのは本来、書き手の実力をものすごく要求することなはず
難解なことを小難しく書くより、難解なものを解りやすく面白く書くの方が
何倍もの実力と労力を伴うはずです
その意味で軽いのであれば、優れている証拠だと思うわけですが
実情はどうか知りませんが印象としては
簡単なことを安易にこなすようなケースも少なくないように思えます
簡単なことを難しく尊大に見せかけるようなのよりはマシな気もしますが
豊穣で玄妙な味わいを軽い口当たりでするっと飲ませるライトは歓迎ですが
(フルボディのガツンと重い味わいも好きですけども)
水で薄めたワインみたいなライトはあんまり欲しくないです
(まあ、なかには厳選された水とワインを抜群のバランスで合わせた奇跡のカクテル
 みたいなのも、あるのかも知れないですけどもね)



71 名前 : 八杉 将司 投稿日 : 2004年05月29日(土) 17時21分43秒
 混雑してきて久美さまも大変なのにさらにぼくなんぞが書き込みするのもどうかと思ったんですが、気になったことがあったので書いちゃいます。(すみません)

 個人的には「ライトノベル」という言葉に蔑称の意味合いが含まれていても構わないと思っています。
「純文学」というジャンルがあります。
 ぼく、この「純文学」という言葉にどうしても反発を覚えてしまうんですよね。「純」ってなんやねんと。(笑)なら他の文学は不純なんかいなと突っ込みたくなりますし、実際、そうだと断言なさる方までおられます。そういう方からすれば「ライトノベル」は蔑称の意味合いで捉えているのでしょう。
 だからこそ、「ライトノベル」という言葉にこだわるのもいいのではないかと思うんですよね。純文学と真っ向から対峙する格好になるので。もちろん、これはあまりに大雑把で単純な図式ではありますが、なんか燃えるんですよね。(笑)
 いえ、ぼくは「純文学」と呼ばれるジャンルの小説も好きですよ。ただ、純文学至上主義みたいな意見が嫌いなだけで。そういう人たちが軽蔑するジャンル……ライトノベルであっと言わせるような小説、むちゃくちゃ面白い小説、他のジャンルでは書けない小説を書いてやろうと思うんですよ。ぼくが「ライトノベル」を書いていたときは、前にここへ書き込んだこと以外にそんなつもりでも執筆していました。もっとも、思うだけでなかなか書けませんでしたが。(汗)
 まあ、こんな敵対心で書くというのも問題があるとは思いますし、アマチュア的発想の青臭い考えなんだろうなとは感じるんですけどね。
 ですが、蔑称の意味も含まれているがゆえに挑発的なジャンル名とも思います。だからこそ飛躍できるジャンル名とも言えるわけで、そう悪い名前でもないかなと感じてます。
 でも、この考えって書き手から見たものであって、読者からすると困りますってことなるのかもしれませんが……

72 名前 : ぱずるまにあ 投稿日 : 2004年05月29日(土) 23時32分34秒
追い討ちをかけるようで恐縮ですが…(^^A


SFやスペースオペラという名称も、蔑称として使われていた時代もあります。
そもそも「小説」という言葉自体が「小なる説=取るに足らない瑣末な話」
でありますゆえ、分類上の名称や呼び名にとらわれすぎると本末転倒なことに。

「小説家になりたい」から「小説を書く」のではないように
「ライトノベル」というくくりを前提にして書いたり読まれたりするものではないはず。

私にとっては久美沙織さんの書かれたものはすべて「久美沙織」というジャンルと認識しています。
正確さを期すならば、書き手の数だけ、あるいは読み手の数だけジャンルがあるべきでしょう。

しかしあまりに数が多すぎると、分類の意味がない、不便であるなどの理由から
「児童文学」でもない。
「大衆文学」でもない。
「中間小説」ですらない。
まんがやゲームのノベライズされたものから、教養小説的なものまで振り幅大きく
中高生から二十代三十代の大人まで(ヤングアダルトと言ったりしますが)対象にして
書かれた読み物を便宜上ひとくくりにする必要から生まれた名称のひとつが
たまたま「ライトノベル」であったのでしょう。

以前はほかにも微妙な名称があったように思いますが今ではほとんど聞かなくなりましたね。
またライトノベルと言う呼び名も、いつかは別の名称に変わっているかもしれません。

※本業に障るといけませんのでレス不要です。
 掲示板書き込みとそのレスの応酬がすごいことになってきていたので(汗)
 書き込むのをためらっていましたが、ちゃんと読んでいますよ〜的なニュアンスを込めつつ^^

73 名前 : 新木 伸 投稿日 : 2004年05月30日(日) 05時48分47秒
>久美さま

 第15回、読ませていただきました。

 ライトノベルというものが、「大衆小説よりももっと軽く、流行りすたりが早く、読み捨てで良しとされるもの」であると正しく理解した上で、なお書きたがっている人間のひとりです。
 恐怖するとまで書かれて、憤慨するより、哀しい気持ちにもなったりしましたが……。


>>ライトノベルの作者のかたがたは「ライター」系(つまり職人さん)であることを自覚しておられ、

 そう。まさにそうなんです。
 不特定多数に読まれる媒体のうえで、不特定多数の読者を愉しませることをシゴトとした職人です。文章によるエンターテイメントを提供する職人です。
 芸術家でもなければ、小説家でもない。すくなくとも「家」がついてしまうものだと、こそばゆく感じます。職人の敬称には「家」は付かないものですし。
 「先生」と呼ばれたりすると、私などはひどく面食らってしまいます。(自分のところの掲示板などでは先生禁止にしてますし)

(このへんの価値観は、親が職人であったという環境もあるのかもしれません)

 シゴトをナメてるわけでもありません。シゴトの手を抜いているわけでもありません。安く売ることこそが、シゴトなのです。気軽に読める軽さを極めた物語を、消費者のもとに提供することが。そして消費してもらうことが。
 そのために最大の努力を払ってシゴトしております。
 シゴトのベクトルは違うかもしれません。それは久美さまの評価されるベクトルではないかもしれません。

 ただ、「ライトノベル」と「ライトノベル作家」という呼称とを、誇りを持って受け入れている人間が、すくなくともここに一人いるということで、挙手だけは、させてください。
 できましたら、シゴトの程度の「高い低い」ではなくて、シゴトに向かうココロザシの「大小」で測っていただけると幸いなのですが。
 「熱い←→ヌルい」とか「大きい←→ちいさい」とか。

 コラムの連載開始時と現在とで、久美さま自身の考えも変わられたようで。
 こうして人様のスレッドにお邪魔して、やいのやいのと、騒がしく横槍を入れていたことが、単なる人様の迷惑で終わらなかったかもしれないと知りまして、すこし安心しています。



 いや、でも、ここまでのホンネが聞ける場というのは貴重だと思います。
 コラムのほうも、私信の延長線上的なものでなかったら、久美さまのホンネが聞ける機会はなかったのかもしれませんし。






>八杉さま

 自分の名前がありましたもので、いきなりなれなれしくなっていますが、ご容赦ください。

 ライトノベルというものは何でもありだと思います。
 ――が、何でもありということと、なにをやってもいいというのとは、若干、違うように思います。

 たとえば「エロ漫画」というジャンルがありますが。
 その土俵では「エロ」さえやっていれば、SFでもミステリーでもファンタジーでも歴史者でも伝記物でも、任侠物でも、もちろん恋愛物でも青春ものでも、不条理ギャグでも、なんでも許容されたりします。ライトノベルよりもエロ漫画のほうが、「何でもあり度」は高いように思います。
 何でもありなわけですが、ただし「エロ」だけは、押さえておかねばならない。そうでないと「エロ漫画」にはなり得ません。
 なんでもありだから、何をしてもいい――となってしまって、エロなしの漫画を書いてしまったりしては、これはまずいわけです。

(※注:「エロ漫画」は蔑称ではなく、ここでは尊称のつもりで使っています)


 ライトノベルに関しても、このような「押さえねばならない一点」というのはあるように感じます。
(この「押さえねばならない一点」は、以前、くぼひできさまが「勘所」という別の言葉で書かれています)

 私の「星くず英雄伝」なんかでも――。
 あの1996年の当時、ライトノベルでSF色の強いものをやるのって、実際、かなりの冒険だったんですね。SFの匂いがしただけで、えんがちょ切られてしまうような世相でして。スペースオペラなんて、見るからにSFSFしてますし。
 当時の編集さんに、「つぎのシリーズはスペオペ考えているんですけど」と言った瞬間、「やめとけ」とか返ってきたもので、原稿用紙100枚に及ぶ企画書を書いて押しつけて、「SFかどうかではなく、物語としてどうか、これを見て判断してくれ」とか、言ったりしまして。
 これはライトノベルの「押さえねばならない一点」と、SFのメインストリームとが、ずれていることが多いためではないかと思われます。(SFはSFで「押さえねばならない一点」が別に存在するのでしょうから、それは当然のことなのですけど。そしてなにが勘所なのか、私にはわかりません)
 そのSFえんがちょ的雰囲気は、「星くず英雄伝」の帯や煽りの宣伝文句に、SFともスペースオペラとも謳われていないあたりの事実で、端的に示していたりします。
 「スペースファンタジー」って書いてあったりしますので(笑)。

 いまなら普通に「SF」と書かれるところなのでしょう。
 しかしあの当時は、ええもう、「SFは禁書」だったんです。

 けっして「何でもあり」の土俵のうえで、自分の書きたいものを書きたいように書いた結果ではないことは、この場を借りて書かせていただきます。
 一見すると何でもありの土俵で好きなこと書いているように見える「星くず英雄伝」という作品が、「このシゴト、押さえなきゃならない一点はどこなのよ?」と、私なりに凄絶に思考しての結果であったと、ご理解ください。
 当時はまだ2冊しか単行本を出していなくて、経験の足りない新人であったこともありまして、自分の中から切り売りできて、世に通用しそうな話の器が、「宇宙を舞台とした恒星間世界」であったというだけでして。
 ひらたくいえば、自分の芸が狭かっただけです。

(これに似た話、電撃文庫でSFを書いている方にお会いすると、たいてい、言われるんですよね。「あれ見てSFやってもいいんだって思ったんですよー」とか。私としては、ライトノベルという土俵で「宇宙冒険活劇/少年の成長もの」を書いているつもりであって、SFを書いてるつもりはないのですけど)



 ――で、そのライトノベルとして「押さえておかねばならない一点」ですけど。

 言ってしまえば「わからない」ということになってしまうのですが。
 ここまで話を引っ張って、それではあまりにあまりなので、私の思考と試行錯誤の結果を書いておきます。
 ここからは、あくまでも分析の足りていない、思いつきに近い「私見」ということでお聞きください。

 まずカタルシスがあること。(これはエンターテイメント小説全般の縛り条件ですが)
 そして男の子向けのライトノベルの場合には、そのカタルシスが、「破壊/戦闘/闘争」系であること。
 なにかがハデに壊れるか、個人の戦いに打ち勝つかすること。制度や体制や運命の改革なんかでもいいかもしれません。
 なにかそういう種類のカタルシスを得られること。
 闘ったり壊したりしたあとに、なにかが獲得されるいうことも、また必須条件のうちかも。

 少年ジャンプ路線でいうところの「友情/努力/勝利」のうち、「勝利」の部分ですね。
 思春期の少年の心でも明確に理解できて、男の子の闘争心にビビっと伝わる「勝利」がないといけない。

 とりあえず、自分的には、それが少年向けライトノベルで押さえねばならない「肝」と感じています。そして、そのようなものを書くようにしています。

(あくまで「少年向け」の話であって、少女向けの「肝」はまた別だと思われます。ぬるい考察による私見では、少女ものの場合には「受け入れられること」になるかと思っていますけど。とりあえずリサーチした数十冊から共通項を抜き出すと、そうなりましたので)


 まあしかし、実際に見まわしてみますと、バトルや闘争や獲得要素がなくたって売れているものは売れてるわけですし。「戦って勝ち取る」がライトノベルの肝であるとか、決めつけてしまうのは、やはり極論だと思われます。
 くどいようですけど、あくまで私の「私見」ということで、お聞きください。

 八杉さまが今後、ライトノベルの土俵で、読者に合わせて小説を書かれる機会があったときに、なにかの参考になれば幸いです。

74 名前 : デニスウィック 投稿日 : 2004年05月30日(日) 08時48分00秒
昔から空想と物造りが好きで、上手い下手に関わらず色々造り、やって来たなぁ。
今でもあの頃はなんて幸福だったのだろうと思うデニスウィックです。
コンニチワコンニチワ。

絵が好きで、絵を描いてるうちに絵描きになり。
音楽が好きで、演奏してるうちに楽器吹きになり。
舞台が好きで、歌い踊り演じてるうちに舞台人になり。
小説が好きで、書いてるうちに小説家になる。

それはとても幸福なこと。
私事で申し訳ないんですが。
部活動に入れ込んだ中、高校時代は間違いなく幸福でした。
楽器が好きで、毎日のように触り、気が付いたらそこそこの評価を貰える様になっていた。
きっと面白いから、で始めた。
そしてまあ、多分これからも、それを職にしてはいなくても、きっと楽器吹きなままの私は楽器を手放せないでしょう。
意味解りませんね。

『ライト』ってコトバのアレさ加減に嫌気がしてるのなら
『それも良いさ』位で跳ね返しちゃってください。
小説家も、舞台人も、絵描きも、作曲家も、楽器吹きも基本は反体制なんだろうな。
『世の中の理不尽や強権の横行と戦っています。(中略)周囲の自称良識派との衝突でによってつくられるのです。
最前線で命の削り合いをしているからこそ輝いています。』とカネコさんが言ってました。(メディアビジョンのエラい人)
少なくとも、大好きな筒井康隆さんの小説で、全編に渡りそれを感じていました。

分類したければ、分類が好きなヒトに任せれば良い。
書きたいものを、書きたいように書いて欲しいと切つに思ってます。
どんな土俵でも、今日も戦う『久美沙織節』
はあ、最後まで意味解りませんでしたね。

まあ、これが下手の横好きなんだろうなあ。

75 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年05月30日(日) 09時40分37秒
スレッドに夢中になってないで真剣にシゴトしなさい、という趣旨のご忠告を別々のかたがたお三人から頂戴いたしました。
みなさま、ありがとうございます(泣)。
愛の深さに感激しております。

なのにまぁ、ほんまワシは懲りないやつで、誰からか何か言われるとつい応えなくっちゃ! と思ってしまうんですが……言いたいことが短いコトバで説明できるなら作品いらない。なにか考えるところ感ずるところがあるなら、作品に反映させて、そっちで応えていくのがモノカキですよね。

というわけで、いろいろ白熱した議論・ご意見をありがとうございました! とりあえず、『“ライトノベル”ってなんなのさ?』の元原稿を書いた時点と、現在では“ライトノベル”に関する認識がかなり変わったのは、まぎれもなく事実です。近々本屋さんに行って注文したおススメ“ライトノベル”を手にいれ、読んでみるのを楽しみにしております。みなさんが「これは好きだ!」「おもしろかった!」とおっしゃっておられるものを「現在の“ライトノベル”の基準のひとつ」として、えんため大賞選考会に臨みますね。瑣末な欠点を指差し確認するのではなく、良いところ、新しいところ、面白いところをひとつでも多く掬いあげられるよう、できるだけオープンハートを心がけたいです。

みなさん、ほんとうにどうもありがとうございます!

『創世記』つぎはMOTHER制作秘話です。楽しく読んでいただけるといいなぁと思います。




76 名前 : 八杉 将司 投稿日 : 2004年05月30日(日) 09時56分07秒
>新木さま

うわ。レス、ありがとうございますっ。

>(これに似た話、電撃文庫でSFを書いている方にお会いすると、たいてい、言われるんですよね。「あれ見てSFやってもいいんだって思ったんですよー」とか。私としては、ライトノベルという土俵で「宇宙冒険活劇/少年の成長もの」を書いているつもりであって、SFを書いてるつもりはないのですけど)

 すみますみません。「星くず英雄伝」を読んだとき、同じことを思って興奮してました。(汗)正確にはここまでSFのガジェットを使った物語を書いてもいいんだと感動し、もちろん宇宙冒険活劇、少年の成長ものとしてものめりこませていただきました。

 しかし、ライトノベルを書いているうちに「押さえねばならない一点」があるんだと気づいたんですが、それをどう書こうか非常に悩んだんですよね。結局それがわからなくてライトノベルから離れてしまったわけですが……
 新木さま。
 壮絶な思考の結果である貴重な分析を披露くださり、本当にありがとうございます。ぼくなんぞにオファーがくるのかどうかわかりませんけど、書く機会があればありがたく参考にさせていただきます。

77 名前 : 素人α 投稿日 : 2004年05月30日(日) 13時27分30秒
>久美さま
電撃文庫だとブギ―ポップ、キノの旅がぶっちぎりで売れていて、
他、MISSING、天国に涙はいらない、灼眼のシャナ、しにがみのパラッド、終わりのクロニクル、
ドクロちゃん他もろもろもろもろと続いてるようです。
個人的にはバッカーノという小説が好きなんですがまだブレイクはしないようで……気長に応援します。
しかし、共通点なんざほとんどないですねえ(笑
でも、そこがライトノベルの強みかなと思います。妙にカテゴライズせず、ジャンルとして
どうこうではなくて、面白さだけを語れるところが。

あまり長文になってもしょうがないので切り上げます。レスは不要で。
コラム真剣に読んでます。お仕事も、頑張ってください。

78 名前 : すかちゃん 投稿日 : 2004年05月31日(月) 10時27分42秒
久美さま、皆さま、きっかけの爆弾を投下してしまった者として一言。
ライトノベルというものの受け取り方として、スクラップドプリンセス、ストレイトジャケット、まじしゃんずあかでみぃ等の作者である榊一郎さんがほとんどの本のあとがきの書き出しで書かれている、「軽小説屋の榊です。」という一文にひとつの解釈があると思います。
私はこの表現がとても大好きです。榊さんは決して自嘲で使っているのではなく、誇りと覚悟を感じます。
現在、いわゆるライトノベルといわれるものを好んで読んでいる人たちにとって、ジャンルはさほど気にならないものだと思います。
ただ、おもしろいものを読みたい、ただそれだけだと思うのです。少なくとも、私はただそれだけです。

79 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年05月31日(月) 11時28分17秒
素人αさま。そ、そ、そんなにいきなりたくさん読めません(泣)。まとめて読んだりしたら、ぜったいに影響されちゃうし。ちなみに本屋さんに注文したのは、このラノのみなさまの投票で上位だったもののうち、アラスジなどから「これは読んでみたいな」と思ったもの数冊です。とりあえずそこからはじめさせてくださいー!
すかちゃんさま。ううむ。それは卓見というか、覚悟が座っておられますね。「軽」でしかも「屋」……ここまでくると諧謔味すら漂いますなぁ。へんな自意識のあるヤツより、そこまで颯爽と割り切っておられるかたのほうが作品に力があり、読者のかたがたから愛されるのかもしれませんですねぇ。
ところで、第12回の『蒲生亭事件』事件……ほとんど馬上の寅さんなアレについて、ちょうだいしたメールを「ご紹介したいと連絡中だ」と遙か昔に申しました。ようやくご許可がいただけましたので、拙サイトにページを新設し、お返事ふくめてアップロードさせていただきました。それと共に、すごくすごくすごく嬉しくて泣いちゃうほどだったのですが、あまりにヨイショしていただいてしまってちょっと恥ずかしいメールも貼らせていただきました。お読みくださいますかたは、http://kumikura.jpの「ぼくら」の扉からお入りくださいませ。

80 名前 : ぱずるまにあ 投稿日 : 2004年05月31日(月) 13時57分58秒
>>78
くみにゃさま
> http://kumikura.jp
URLは改行を入れたほうがいいみたいですね^^;
掲示板の「仕様」で……

そういえば、私、前スレの >>16 で
>自動的に途中省略表示になる掲示板の「仕様」かと…
と言うコメントをしていますが、これは違っていたようです。
類似の掲示板で省略表示のところがあったので
そう思ってしまったのですが、どうもすみません。

81 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月01日(火) 10時13分20秒
すんません。改行。コピペして使ったってください(泣)。

みなさん、今日は、草三井ことさか○だいすけさまの20歳のお誕生日です! おめでとう、酒井さん! まさか十代最後の日々を「こんなこと」にやたら費やさせられることになろうとは、思ってもいなかっただろうに、気の毒になぁと思いつつ。楽しんでくれてるといいなぁと思いつつ。

82 名前 : 新木 伸 投稿日 : 2004年06月02日(水) 08時12分17秒
 遅ればせながら。
 お誕生日おめでとうございます。草三井さま。
 企画の本筋のほうではぜんぜんお役に立てませんで、もうしわけありません。なにしろ今年度に読んだライトノベル自体が、規定冊数にも足りていない始末で。買ってきている本は山ほどあるのですけど。
 スレッド騒がしていることなどが、お役に立っているといいのですけど……。(足引っ張っているだけかもしれず)

 しかし、二十歳……。うわぁ。若い。いいなぁ。
 二十歳の頃って、なにしていたかな。ジブン。ああ。小説書いてましたっけ。プロ目指したのが、たしかその頃。

83 名前 : 草三井 投稿日 : 2004年06月02日(水) 09時31分53秒
ありがとうございます、久美さま新木さま。
謙遜でも何でもなく、企画がここまでくることができたのは皆さんのおかげだと思っています。
これからは適度にアルコールを飲みつつ頑張ろうと思います(^^

84 名前 : 新木 伸 投稿日 : 2004年06月02日(水) 10時16分35秒
>久美さま

 第16回、読みました。
 感想はムズカシイので、後のほうに回して、まずは重箱の隅つつきなどを。

 国会図書館は本を買っていません。法律で決まっていて、すべての出版社には納本義務があります。印税支払いのときに50部ぐらい減ってくるうちの1冊が収められているもようです。
 あと「舞い降りた翼」は「舞いおりた翼」で、一箇所ある「1000年」は「1000万年」かなと。

 しかし出版点数が1日200点で、年間7万点なのだとすると、年に2冊あたりが作家の生きていける最低ラインだとして、最大でも35000人ぐらいしか、プロ作家は存在できないってことになるのですね。
 実際には年間10点ぐらい出している方も多いですし、平均すると年間3〜4点ぐらいなのでしょうか。そうだとすると17500人くらいですね。
 日本人口と比べると、作家っていうのは、7000人に1人ということですね。
 案外多いものだなぁ、と、ふと思ったりしました。

 ちなみにライトノベル業界で――といっても、角川系列の少年向けのところしか知りませんが。作家保護率が高いのは電撃文庫です。作家見限りがないという意味で。
 新人賞は10回以上を数えていますが、賞を取ってデビューされた方のうち、ほとんどの方が現役で活躍されています。正確に数えてはいませんが、95〜98%ぐらいはあるかと。

 「うちは本人がリタイヤしない限り見捨てたことはありません」との編集部公式コメントもあり。(なにかの雑誌で見かけました。必要があれば探し出してこれますが)

 まあシリーズ打ち切りは商売なのでたしかにありますけど。1冊目と3冊目と5冊目が山です。背帯のタイトルを見るとわかるのですけど、シリーズの初刊に、基本的に「(1)」が付かないというのが、非常に怖いところでもあります。いくらシリーズ構成を立てて臨んでいても、一冊目が売れなきゃ、二巻目はないと。

 私は、これは出版社としての親心なのだと理解しています。売れないシリーズにかかずらっているよりも、強制的にでも見限らせて、次のシリーズをはじめたほうが作家の生活安定のためにはよいだろう、という。
 ここなども、作家の書きたいものと、実際に書けるものと、読者に受け入れられる=売れるものとの、調整作業の一貫かと。痛いけども必要な摺り合わせの話ですね。

85 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月02日(水) 10時42分01秒
新木さま。うううう……すみません。なかでも自分の本のタイトル間違うとは。いい加減だなぁ。愛があるのかほんとにおまえ……。

電撃文庫さまいいですねぇ。


86 名前 : さかなや 投稿日 : 2004年06月02日(水) 21時16分45秒
 ごきげんよう。第16回,楽しく読ませていただきました。
 あー,もう,どっかで聞いたような話で,モニタの前で「あはは〜」と乾いた笑い声をあげてしまいました(笑)

 ところで,ちょっとだけ気になったことがあります。
 出版社ってのは会社で,会社ってのは利益をあげるために存在しています。
 なので,何よりの目的は「お金を儲けること」であって,「良い作品を世に出す」とか「作家を育てる」なんてことはそのための手段にすぎないのではないかと。

 決して「売れれば何をやってもいい」などと言っている訳ではなくて,まずはそういう前提に立った上で,やりたい事できる事を考えるべきなんじゃないかと思うのです。

 以上,あくまで私の個人的な意見です。毎度ながらの乱文にて失礼しました。

87 名前 : 草三井 投稿日 : 2004年06月03日(木) 00時50分02秒
新木さま。
国会図書館の件等について、註に引用させていただければと思います。
ミスは私の責任でもあります。すいません。

88 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月03日(木) 11時37分33秒
>出版社ってのは会社で,会社ってのは利益をあげるために存在しています。
>なので,何よりの目的は「お金を儲けること」であって,「良い作品を世に出す」とか「作家を育てる」なんてことはそのための手段にすぎないのではないかと。

おっしゃるとおりなんですが……
日本で一番大きな(社員数とか。“ライトノベル”的にはカドカワ系のほうがウエイト大きいかもしれないですが、それでも、メフィスト→ファウストはこっちですからね)講談社は、そのはじめ「大日本雄弁会講談社」でした。
儲けるためももちろんなくはなかったでしょうが、自分たちが主張したいことを主張するための場を作りたかったというほうも少なからずあったんではないかと思います。

そもそも出版事業というのは労多くして儲けの少ないシゴト(本の定価のうち、経費がどれだけ多いか!)で、そりゃーベストセラーが出れば話題になりますがバクチ的な側面が常にあるし、トーハン・ニッパンという二大流通の顔色もうかがわなきゃならないし、電波系マスコミ(そっちの意味ではなく、ここでは主として地上波のテレビのこと)や世界じゅうで日本にしかありえないほどの巨大新聞社などには「くだらねーはんぱもの」扱いされるし(こないだの田中マキコさんの娘さんの記事で週刊文春がウンヌン問題とか)、英語圏のように、マーケットそのものがでかいわけでもない。

単にモノを売って儲けることを考えるのなら、食品や日用品など、どんな時代でもかならず生活必需品であるもののメーカーになるほうがよっぽど「確か」です。

それでも、出版をやろうというからには、やはりはじめに儲けとは別の「やりがい」を持っておられるからなんではないかと婆は考えますが……まぁすべての版元がそうかというたら、そりゃそんなことはないです。手軽に儲けたれと思ってちょっとやってみたら、あんまり儲からないからキレた、なんてことも多々ありますし。

89 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月03日(木) 11時41分34秒
国会図書館のこと、すみません。

ていうか酒井くん(泣)きみはそんなに若いのに、こんな婆の弾除けになろうとしてくれるのか? ありがとう。ありがたすぎる。ああ、こんなひとこそ……
編集者になれ。
(↑ほとんどチョビをさしだすウルシバラ教授だな)

90 名前 : さかなや 投稿日 : 2004年06月03日(木) 12時44分31秒
 ごきげんよう。

>>88
>久美沙織さま
>儲けとは別の「やりがい」を持っておられる
 ええと,うまく言えないのですが。
 会社が金儲けしか考えてない,という意味ではなく,会社というものの本質というか建前というかが利益追求ってことで。
 まず利益という前提があって,それではじめて理念とかやりがいとかが出てくるんじゃないかと思うのです。

 で,そういう建前がある以上,とにかく利益は追求しなきゃならないから,あっちこっち妥協してやっと一つか二つだけ「やりたいこと」ができる,ってのが編集者さんを含む「サラリーマン」ってものなのではないかと。

 いや,もちろん,我が道を行く人とか何にも考えていない人とかいるのかも知れませんが,あくまで私の個人的な意見ってことで。

91 名前 : 八杉 将司 投稿日 : 2004年06月03日(木) 14時58分52秒
 横槍みたいな書き込みで申し訳ないです。
 ちょっと思い出したことがあったもので本棚をあさりました。
 北村薫さんの小説で「朝霧」というのがあるんですけど、主人公がある出版社に入社してそこで編集さんが話す言葉でこんなのがありました。

「損すると分かっていても、出さなきゃいけない本て多いでしょう。本屋ってたまたま損するわけじゃあないのよ。本屋が稼ぐっていうのは、売れない本のため。ね、社員のためじゃないの。一億入ったら、『ああ、これだけ損ができる』と思うのが本屋さんなの」

 実際はどうか知りませんけど、結構印象深く残っていたので、まあ、参考までに。

92 名前 : 来無 投稿日 : 2004年06月03日(木) 19時19分08秒
再販制度の見直し反対の主な理由の一つが確か
売れる本しか出版出来なくなる(売れなくても、必要な本、良書が出版出来なくなる)
だったですよね

93 名前 : ヤン 投稿日 : 2004年06月03日(木) 23時21分16秒
 このスレッドにふさわしい話題かどうか自信がないのですが、出版社の話題に便乗して書くと、
絶版になった本を、電子書籍の形式で復活させることはできないんですかね。

 いえ、私も以前は「ディスプレイで小説なんか読めるか!」と思っていました。
 平井和正氏のボヘミアンガラスストリートという小説も、当時まだ珍しかった
 ダウンロード販売で買っていたけど、やはり最終的には単行本を買い直しました。

 ところが、こないだふと思い立って電子書店を覗いてみたところ、どうやら最近は
テキストファイルではなくアドビリーダーで読む「e-book」というタイプのものが
増えているんですよ。
 で、これを試してみると、意外にも読みやすくて、小説1本分を普通に読めました。
 パソコンの画面だから、仕事の合間にちょっと息抜きに読むこともできるし……って、
これは大きな声ではいえませんが。

 この方法なら、在庫を抱える必要もないので出版社側の負担も少ないし、売り切れることも無いので
欲しい人が、欲しい時に、欲しいだけ買えますし。
 事実、新刊を書店と同時に、電子書籍で売り出しているものも幾つかありますし、そうでなくても、
絶版になったものが二度と手に入らない状況は防げるだけでも、意味はあるのでは。
 各出版社は、絶版になった書籍の電子化を本気で検討してくれないですかね。

94 名前 : 新木 伸 投稿日 : 2004年06月04日(金) 00時23分31秒
 えええ。
 草三井さまは弾避けなのですか。
 するとやはり、私の重箱の隅つつきは機銃掃射だったのでしょうか。

 うーむ。お知らせするべきか、黙っているべきか、迷ったのですが。お知らせするにしても、こっそりメールのがいいかなぁ、とか。

 メールのほうがよいようでしたら、コラムの下のところに「ミス・間違い、メール受付口」などがあったりするとよいかと思うのですけど、どうでしょう?

 しかし編集者になるのだとすると、どういう経歴を取るべきなのでしょう。
 小説家になるなら、商業レベルの作品を書いて賞に送ればいいだけのことですが。
 あまり編集者の方にお聞きしたことがないですね。ついつい、こっちの話を一方的に聞かせてしまうばかりで。

 ざっと見てみると、大卒で就職されている方と、現場叩き上げの中途入社の方とがいらっしゃるようです。
 ただ出版社に就職しても、希望が叶えられて書籍部門に配属されるとは限らず、このへんが勤め人の哀しいところかと。編集部門といっても、雑誌から漫画本から色々とあるわけですし。大卒でいきなり書籍の編集部門という方は、非常にまれでしょうか。いないこともないですけど。
 うちの姉などは、ハガキ投稿常連から、面白い文章を書くから、なんてことで弱小ファミコン雑誌の編集者になったりしていましたが。

 小さい出版社のほうが、本人の希望と適性とで融通が利き、大きなところは人事異動によって経理から営業まで一通りやらされる傾向が強いような。





>八杉さま

 売れないけど価値あるもののために、売れるもので稼ぐ。
 これは素敵なことに思いました。

 経済っていうのは、お金を世の中で回転させることだと思っています。
 売れるものがあって、お金を回転させれば、その循環する大車輪の余波が、他のなにかを支えてゆくのだと。

 小説を書くぐらいしか能がない私のようなものが、こうして好きなことだけ暮らしていけるのも、こうして生かしてもらっているのも、経済がきちんと回転してくれているからでして。
 不景気だなんだといっても、娯楽に費やすだけの余裕が社会にあるからですね。
(ここで「私たち」とか、大勢の方を括っちゃうといけないので、とりあえず「私」ということにしておきますが)

 お年寄りが姥捨て山に捨てられないでいるのも、未成年の方が(あるいは青年に達してさえ)、生活を気にせず学業や遊びに専念していられるのも、すべて社会の持つ「余裕」のおかげだと思っています。

 私の個人的な感覚としては、食品や日用必需品を作っている方のほうが、よほど「偉い」と感じています。特に農家の方。食べ物を作っている方には、天地がひっくり返ってもかないません。

 で、まあ小説を書くにあたっても、どうせなら経済の車輪をぶん回して、他を支えるようなものを書きたいなぁと思ったりするわけでして。肩身の狭さからくる代償行為なのかもしれませんけど。
 他を支えるモノ=つまり売れるモノ、ということですね。
 実際にはそんなに売れていませんけど。まあ採算を越える程度には売れているので、すこしは経済の車輪を回すことに貢献していると感じています。




>ヤンさま

 すでに10年ほど前から、「パピレス」というところで絶版本の電子書籍販売が扱われていますよ。
 たとえば久美さまのコラムの第16回の中で出てくる「ソーントーンサイクル」の三部作などは、そちらで販売されています。(コラムのなかにリンクがあります)

 私も市場に流通していなくて、絶版に近い扱いの本が2冊あるのですが。あくまで重版未定であって絶版ではないもので、持って行くに行けずにいるという。

 ちなみに出版社が自分のところで電子書籍化するのであれば、絶版にしてはまずいかと。絶版というのは、「もううちでは出しません」てなことですので。あと契約内容の変更が必要なので、再契約しなければならないでしょう。
 普通は電子出版を見越した契約内容になっていませんし。新刊と電子版とが同時販売されるような出版社では、そういう内容で契約しているのでしょうけど。ここでいう絶版本というのは、まあ10年は昔の作品のことでしょうから、紙出版しか視野に入っていない契約なのは間違いないでしょうし。(そもそも契約自体取り交わされていないことも多い)
 しかし版権を持っている作品の電子化は、やはり敬遠されるのではないかと思います。コピーフリーにするようなものですから。完璧な複製品が簡単に出回ってしまいます。営利目的の場合には、不正コピー対策がなければ及び腰になってしまうのは仕方のないことかと。

 個人的には、単価を充分に安くして、「違法コピーを探して手に入れるより、正規で買ったほうが楽だぁ」と消費者が感じるくらいになれば、逆に違法コピーは減ると思うのですけど。
 たとえば1冊100円くらい。缶ジュース一本より安い値段なら、ズルして手に入れるより、買っちゃったほうが早いと判断する人が多数派になるのではないかと。
 1冊100円だったとしても、印税が50%になるのなら、書き手に入ってくる取り分は紙出版と変わりありませんし。

 ちなみに営利目的ということなら、我々書き手の側もそうなんですよね。
 自分の絶版本をただ「読んでもらいたい」と思うだけなら、自分のhp(ホームページ)に全文上げてしまえば事足りるわけです。
 特にテキスト主義の方などは、イラストがないことで価値が減るわけでもないのですし。私などは、イラストがないと価値は半減と思うほうですが。

 しかし、「やっぱり買って貰わなきゃ」と思うから、絶版本の原稿を公開したりはしないわけです。

 誰かが自分の生活の面倒をすべて見てくれるなら、書いたものをすべてバンバン無料で公開しちゃっても構わないのですけど。「それ」しかできない物書きとしては、やはり書いた物だけが、自分の生活を守ってくれる財産ですので。




>書いた物が二度と手に入らなくなる

 ちなみに、そんなこともないですよ。
 著作権というのは著者の死後50年で切れるものですので。
 それ以降であれば、売ろうがHPに無料掲載しようが、自由です。
 その作品は個人のものから離れて、人類共通の財産となりますので。

 出版されたすべての本は国会図書館に保存されていますので、一度でも市場に出回った本であれば、どなたか有志の方がいれば、サルベージしてテキストファイル化して、ふたたび自由に見られるようになれます。
 明治や昭和初期のころの作品が、そろそろ出回ってきていますよね。青空文庫として。
 知り合いのライトノベル志望の作家志望者のひとりが、金がないという理由から、青空文庫の作品ばかりを読んでいます。太宰治やら夏目漱石やら宮沢賢治だとか。「新しいものも読みなさい」とか言っていますけど。(笑)

 いま出回っている作品なども、あと100年ぐらいしたら、青空文庫2104年度版として、結晶データキューブに収録されて出回っているはずです。

 ヤンさまの言われている「手に入らなくなる」という意味は、こういうものではないとわかりつつ、いちおう……。

95 名前 : 大喜戸千文 投稿日 : 2004年06月04日(金) 01時41分19秒
Re84:新木先生

 国会図書館は酷い時で、週に数日程度通っておつきあいがありましたので、差し出がましいようですが述べさせて下さい。
 国会図書館への納本ですが、版元に納本義務はありますが対価を支払うことに法律できまっております。
 年間予算の多くは書籍購入費が占めており、雑誌を含む刊行点数の増大で、本が買い切れないと伺ったこともございます。

 また、いくつかの版元(主に協力会に加盟している版元だと思います)は、献本という形で国会図書館に直接送付して寄付している所もございます。
 寄付納本を行うと、図書館からお礼状が送られてきますので、基本は購入ということなのです。

 地方流通系の書籍など、版元がこの法律を知らない例もありますから、取次から直で入れているのではないか? と思われます。

 取り急ぎ、失礼致しました。

96 名前 : 大喜戸千文 投稿日 : 2004年06月04日(金) 01時46分58秒
おまけですが、国会図書館には全ての本が収集されているわけではありません。
思った以上に、納入されていない本や雑誌があり、中には盗難された物、カッター等で重要なページを切り取られた物があります。
実際に探しに行きますと、資料的価値が高い本ほど上記の傾向が高いようです。

雑誌類は、増刊号とか創刊号から初期の号が入っていないのはざらだったりします。

97 名前 : 匿子 投稿日 : 2004年06月04日(金) 10時57分25秒
横からすみません。

私も 大喜戸千文 さんと、同じような感想を持っています。

>>書いた物が二度と手に入らなくなる
> ちなみに、そんなこともないですよ。

そんなことは、ないことはないと感じます。

なにかちょっと調べようとしただけで、あれがない、これがない、
あっても破損していたり、データベース上ではあることになって
いるのに現物がなかったり、データベースのデータが間違ってい
たり。

戦後の質の悪い紙だけでなく酸性紙問題もあります。

著作権が切れたとき、その作品を誰がデジタル化するのでしょう?
作家死後50年を経過しても、そのオリジナルが残り、それをデ
ジタル化する手間と金がかけられる作品は、どれだけあるのでし
ょうか?

98 名前 : 匿子 投稿日 : 2004年06月04日(金) 10時58分36秒
補足です。

上は、国会図書館を含めた話です。

99 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月04日(金) 11時41分50秒
>やはり、私の重箱の隅つつきは機銃掃射

いや特定のどなただということではなく(笑)
なんつーか、水溜りを前にして困って立ち止まったわたしに、マントぬいでサッと差し出してもらえたみたいで、すっごーく嬉しかったんだもーん! 

>編集者になるのだとすると、どういう経歴を取るべき

いや、もうこのサイトはは十分プロの……そして個々の編集者さまや編プロの社長さまがたの……目にもとまってるでしょう? 彼が就職活動をはじめたという情報が流れたら、酒井くんが欲しい、花いちもんめ、がきっと起こるに違いないと……楽観? 

大喜戸千文さま。うわー。知らなかったー。いったことないもん、国会図書館。ひどいもんなんですねぇ。
ていうか、どうしてあれは国会図書館というのですか? 国民図書館(←この名称もやだけど)とかではなくて? もともとは国会議員さんがたが使いたい時に使えるようにしておくためのもので、それを、せっかくあるんだから国民にも「まぁ使ってもいいけどね」といっているだけなんでしょうか?

>自分の絶版本をただ「読んでもらいたい」と思うだけなら、自分のhp(ホームページ)に全文上げてしまえば事足りる

あ、やってるそれ(笑)。短編とヨタ書き飛ばし文章ですけど。

>著作権が切れたとき、その作品を誰がデジタル化するのでしょう?

ほんとだ。
そういうことこそ、できれば文部科学省とかが予算とってやるべきですねぇ。でも、ほんとの必要に対応するのってお役所はニガテですからねぇ。
たぶんスキモノを集めて、ちまちま写経みたいな作業をさせて、NPO法人かなんかが管轄して実費で配布する、みたいなことになるんでは。










100 名前 : 小役人 投稿日 : 2004年06月04日(金) 12時55分18秒
はじめまして、
…精霊ルビス伝説を小遣い使って買ったなぁとか思いだしながら
コラムを楽しく読んでます。

国会図書館ですが、名前は国会の付属機関だからああいう名前です。
法律的には久美さまの解釈で大体正しいかと思います。
国会議員、次が各種官庁のための図書館であって、その要請に
影響が出ない範囲で、国民が使えると言う建前です。

書籍のデジタル化、何処でやるのがいいんでしょうね。
長い間残せるデータとして保持しておくのがいいとは思いますが
現在の書籍はパソコン上で版組してるので、簡単にPDFに落とせますが
昔の本ってどうなんでしょうか。
本の核心はテキストだと思いますが、タイポグラフィの問題も大事だと思うので
スキモノがやったほうがいいかもしれませんね

101 名前 : ハヤ 投稿日 : 2004年06月04日(金) 23時50分05秒
いつも楽しく拝見しています。スレッドは字数多すぎてナナメ読みですが。
16回読んでいまして、手塚治虫も打ち切りには痛い目にあっていて、
火の鳥を連載する際には自分で雑誌を作ったとかいう話を思い出しました。
(確認は取ってないので本当かはわかりません
極端な例ですいません。

ご不満はよくわかりますが、もし本当に書き上げたいのであれば
商売抜きにして同人誌で出してくれないかなあというのが
ファンのわがままでございます…。
(ただでばらまくことにはなりませんし、小部数なら後から
出版社に売ることもできたと思うのですが…?)

書籍のデジタル化とかはわくわくしますが、現実すべてとは
いかないと思うのですが。どこかの時点で選別はされませんか?
基本的に本と言うのは誰かの手に渡った時点で仕事を終える
ものだと思いますので、「いつまでも残る」ことに
それほどこだわる必要もないと思うのです。
どんな形で残りますし、逆にどんな形でも失われますので。

102 名前 : 投稿日 : 2004年06月05日(土) 01時11分47秒
初めて書きこみさせていただきます。
(識者、有名人が多く素人には敷居が高いです。)

(明治期刊行図書ですが)書籍のデジタル化及び公開を、国会図書館は
始めてます。
近代デジタルライブラリーでWeb上で公開しています。
http://kindai.ndl.go.jp/img/

私は、大森望さんのWeb日記で、この事を知りました。
http://www.ltokyo.com/ohmori/021010.html。

103 名前 : 投稿日 : 2004年06月05日(土) 01時16分24秒
ごめんなさい。アドレスに「。」が入っちまいました。
大森さんのWeb日記の過去ログアドレスを訂正させて下さい。
http://www.ltokyo.com/ohmori/021010.html

104 名前 : くぼひでき 投稿日 : 2004年06月09日(水) 22時01分24秒
そろそろお帰りになるころですかね。
おかえりなさい。

出版社の件ですが、
売れ線を出し続けなくちゃいけない、っていう出版社でなければ、
採算が取れるラインぎりぎりを狙って出す、というところも多くあります。
または、その本では取れないけど、別の本でなんとかする。

いつも我田引水みたいで申し訳ないのですが、
児童書出版社だと、たとえば「学習本」を出す。
これは売れるんですね。毎年毎年似たような本が出るんですが、需要は減らない。
(むしろ、早期教育、情操教育、個性教育のおかげで、
 売れる本がある。そんななかでも良心的な本を作りたいとは願っている)。
それで「文芸書」も出せる。
そういうところもあります。

ライトノベルでも、富士見なんかはそうですよねえ。俳句の本が母体ですし。
早川は「悲劇喜劇」(今でも出てるのかな)とか。
新書版ですが、中公もそういう面がありますね。

部署単位では攻防の激しい「売れ線」ですが、
出版社の、出版にかける魂、ってのは信じたいと思います。

105 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月10日(木) 10時42分42秒
ただいまですー。無事帰ってきました。取り急ぎご報告まで。

106 名前 : D 投稿日 : 2004年06月11日(金) 18時32分37秒
初めて書き込みさせて頂きます。
第17回の創世記、大変楽しく読ませていただきました。
MOTHER、DQ面白かったなあ、と当時を思い出しながら読んでおりましたが、
『「ゲームバランスの悪い」ゲーム』に関する文章に個人的に違和感を感じております。

端的に言いますと、RPGにおいてシナリオと戦闘は不可分なのか、ということなのです。
ゲームの中では何度となくパーティは全滅しますし、安全のためには一旦村まで帰ったりします。
けれど、シナリオの中ではそれらのことは無かったこととして扱われます。
どんなに危機的状況でもキャラクターのルーチンは変わらないし、どんなに敵に囲まれていても遭遇率は急激に上がるわけではない。
ゲームとしてのバランスとシナリオとしての状況は隔絶している。
そうすることでゲームの部分とシナリオの部分を「分けても」楽しめるようにしているのではないでしょうか。
それこそ「ゲームはゲーム。小説は小説です。」とおっしゃっているのと同じように。

ライトノベルとは直接関係ない話の上に長文で失礼致しました。

107 名前 : Surreal 投稿日 : 2004年06月11日(金) 21時30分26秒
 脇から失礼いたします。

> そうすることでゲームの部分とシナリオの部分を「分けても」楽しめるようにしているのではないでしょうか。
> それこそ「ゲームはゲーム。小説は小説です。」とおっしゃっているのと同じように。

 コラムの方で言っていることは、その同じ側面について“「分けても」楽しめる”ではなく“合わせると、いびつに感じる”と取っているのであって、極論、個人の感じ方の部分も含まれるのではと思います。
 ただ、システムとシナリオ、グラフィック、さらにはサウンド、ムービーという数々の構成要素がきちんと整合してこそ、きちんと一つのパッケージとして整ったゲームであろう、という意見は確かに頷ける部分はあるかと。
 対して、「ゲームはゲーム。小説は小説です」というのは、同じ題材であってもゲームと小説は別々のパッケージである以上、それぞれの最適解を模索出来るし、した方がよいのではないかという考え方であろうと思います。
 もちろん、小説は小説で、書くべきシーンの配分が悪かったりとか、イラストがガッタンコだったりすれば、構成要素がきちんと整合していない、1つのパッケージとしてはどうよ?と言われるケースもあるでしょう、と。
 つまりはそういうことでないかなって思います。

 ……なんか、しゃしゃり出た割にはいい加減なこと言ってかき回しただけっぽいですが。


 ところで、私だけかもしれませんけど“ゲームバランスが悪い”と言うと、楽しめる限度を超えて簡単過ぎたり難し過ぎたり、あるいは急に有り得ないほど難易度が変動したり、あるいは対戦ゲームで特定のキャラだけが突出して強かったり……といった数値面でのバランスの悪さという印象があるわけで、コンポーネントのバランスが悪いことにゲームバランスが悪いって言葉を使われた点に、あれっと感じたりはしましたけど。

 なんて言いつつ、私はドラゴンクエストもファイナルファンタジーもプレステにプラットフォームが移ってから手を付けてませんけども(爆)。 

108 名前 : 海燕 投稿日 : 2004年06月12日(土) 01時50分29秒
精密な議論はあいまいな感覚ではなく正確な統計に則って行われねばならないもの──ということで、図書館へ行って出版業界の現状について調べてまいりました。だれか健気な僕を誉めて。しかし、なにしろ閉鎖間際の市立図書館に駆け込んで貸し出し禁止図書の内容をこの手でメモしてきたものをさらにキーボードで打ち込んだデータですので、どこかに間違いがあるかもしれません。はっきりいって全然自信ありません。また、参考にしたもとの数字自体、あくまでも推定のものですから、絶対的な正確さはありません。下の文章はそれをご理解されたうえでお読みください。

以下、2003年のデータです(「出版指標年報2004年版」より)。まず書籍と雑誌を合計した売り上げが2兆2278億円で、7年連続マイナス。その内訳は書籍が9065億円で前年比マイナス4,6%、雑誌が一兆3222億円で前年比マイナス2,9%。販売部数のほうは書籍が7億1585冊で、前年比マイナス3,1%。雑誌は30億7612万冊で前年比マイナス4,4%。それから書籍の書籍新刊点数は、以前久美さんが「創世記」に書かれていたように、7万2608点で、前年比プラス0,8%。つまり「新刊の点数は増えているけれど、販売部数や売り上げは下がっている」わけです。

ほぼすべてのライトノベルが属する文庫に話を限ると販売部数は2億1711万部で、前年比マイナス1,3%。これはなんと11年連続マイナス! 90年代後半と21世紀初頭を通して、文庫の販売部数はひたすら下降を続けていたことになります。この怒涛のマイナス成長が始まる前のピークは92年で、この年は3億400万部出ていたらしい。単純計算するなら、この10年ちょっとで出版される文庫本の量は約8000万冊減っていることになりますね。ちょっと信じられない数字ですが、僕のメモにはそう書いてある。ほんとうに正確かどうかそのうち確認してこよう。

これは余談ですが、2003年に店を閉じた書店がおよそ1600軒あるとか。もちろんそのあいだに開店した店もまた多くあるだろうけれど、危機的な状況の一端はそこからもわかると思います。で、肝心のライトノベルなのですが──文庫全体の売り上げを「一般」「歴史」「官能小説」などいくつかのカテゴリに分けた表がありました。それによると「ティーンズ・ファンタジー」は全体の10,9%、「ティーンズ・少女」は全体の7,9%を占めているとのことでした。

はっきりした記述は見つけられませんでしたが、この「ティーンズ・ファンタジー」は富士見ファンタジア文庫や角川スニーカー文庫のことを、「ティーンズ・少女」はコバルト文庫などを指しているものと見てまちがいないでしょう。つまり、最も狭い意味でのライトノベルが、現在、日本の文庫の売り上げの20%弱を占めていることになるわけです。ライトノベルの市場はいつのまにかこれほどまでに巨大化していたのですね。さらにライトノベルの売り上げがアップしていることもたしからしく、「ティーンズ・ファンタジー」は前年比20%アップしているという記述がありました。

まあ、正確なところはわからないものの、出版点数も増えているという実感があるので、それが一冊一冊の売り上げがアップした結果なのかはかならずしも断定できません。しかしともかく出版業界全体が上記の数字からわかるように恐ろしいほどの大不況の真っ只中にあるなかで、ライトノベルは売り上げを伸ばしている。この事実は無視できないものでしょう。個人的に、出版不況の想像以上に深刻な現状に驚きました。まさかここまでひどかったとは……。以上のデータが、今後の議論の一助にでもなれば幸いです。

109 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月13日(日) 10時18分20秒
Dさまこんにちははじめまして。
いやーいろんな楽しみかたがあるんですね。わたしは戦闘も謎解きもダンジョンの試練なども全部あくまで「シナリオの一部」と捉えてしまうほうです。頼りに思ってしまったキャラと離されるのがつらくて必要もないし効率も悪いのに実時間で一週間も「別れを惜しんだ」のは書いたとおり。
こんなわたしはイシバシを何度も叩いてひきかえしてみるタイプでおまけにケチなので、回復アイテムも魔法もなるべく温存し、場合によってはしょっちゅう宿までひきかえして慎重にすすみますが、そうやってジワジワ進むヤツにとってもそれなりに苦痛なく楽しく、かつ、いけいけドンドンなひとが当たって砕けろ式に遊ぶ場合にも破滅的なことにならないようになっているといいなぁ、と思います。
ようするに、いろんなタイプのプレイヤーがそれぞれの好きなやりかたで遊んでもちゃんと楽しめるようにできているべきだと。RPGのRPGたるゆえんは、プレイヤーキャラクターに「なりきったつもりになれる」ところでしょう? たんに三択四択のどれかでシナリオが別れていくだけなら、アドベンチャーゲームの複雑なものにすぎなくなってしまう。ということは、ゲーム設計側は、個々に好みの違うプレイヤーが「どんなことをしたがるか、どんなことはイヤがるか」をある程度ハバをもって想定しておいてくれないと困る。あるいは、ゲーム制作側がやらせたいと思うなにかをプレイヤーが「自然としたくなるように」あるいは「しないわけにはいかないように」伏線はってシカケていかないといけない。シカケがさりげなく効いてまんまと誘導されると美しいですが、ムリやりなシカケがはさまっているとプレイヤーはひっかかり、たちまちメタ視線に戻ったり、ひどい場合にはそこイヤになってゲームをやめてしまったりする。そういう「不都合」や「違和感」を感じさせないために細心の注意を払って整えるべきものごとの総体を「ゲームバランス」と表現したつもりなのですが


Surrealさま
>“ゲームバランスが悪い”と言うと、楽しめる限度を超えて簡単過ぎたり難し過ぎたり、あるいは急に有り得ないほど難易度が変動したり、あるいは対戦ゲームで特定のキャラだけが突出して強かったり……といった数値面でのバランスの悪さ
なるほど、そういう使い方もするかもしれないです! もちろん部分的なスペックの突出も「ひっかかる」要因のひとつです。でも、わたしは……「じゅうぶん強くなったのにまだ見れてないムービーがあるから最終ボス戦にいけなかった」ほうがより大きくひっかかりました。

海燕さま 精密な調査報告をありがとうございます! いやー驚きましたねぇ。とんでもないですねぇ。ウチの町のホンヤさんの場合、文庫の棚全体におけるライノベの割合は15分の1ぐらいでしょうか。しかも二段ぐらい『十二国記』(笑)。客層にもよるのか、店員さんのおもいいれなのか?

唐突ですが、ふと思いつきました。漢字のことを英語では「キャラクター」という。キャラクター小説って……おもいきり誤解すると、漢字ばっかな小説って意味にもとれるのではないかと。全部が漢字でしかもちゃんと現代日本語な(漢文でも、万葉仮名でもない)小説って書けるかなぁ? ……ムリだろうなぁ。やたら漢字の多い小説ならできるかもしれない。それを「これぞキャラクター小説だ!」といって売る……版元がないだろうなぁ。

110 名前 : くぼひでき 投稿日 : 2004年06月13日(日) 12時42分55秒
いま、「あっ」とおもったので、脊椎反射的にカキコします。

久美さま
>漢字のことを英語では「キャラクター」という

これって、つまり「表意文字=キャラクター」ってことではないでしょうか。
アルファベットや(ひらかなカタカナ)などの表音ではなく、1字で意味を持つ表意。

とするなら、キャラクター小説というときの「キャラクター」は、
それそのもので何かを表意するものであるって置き換えてもいいかもしれません。

表意文字1文字では意味が限定されますが、2文字、3文字とからんでくると、
意味が深まってくる。
キャラクター小説もそうなのかな。

なんていうふうに「あっ」と思った次第です。

111 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月14日(月) 09時17分41秒
憑依文字……ちょっと待て。表意文字。
うーん、キャラクター小説におけるキャラクター(登場人物)は個々の意味というよりはむしろ「記号」なのではないでしょうか。とすると実は「表音文字」のほうに近いかもしれない。
昔から脚本などでは「下っ端 A」とか「通行人 イロハ」などとしか書かれないものがありました。まぁ、一瞬だけ出てきて消えちゃうひとたちですね。
昨今のいわゆるライトノベルの特徴の大きなひとが、キャラクターの類型化で、きちんと固有名詞のつく脇役、ひょっとすると主人公までも、記号的になっている。具体的にいうと、どっかでいつか見たことのあるような「他のキャラ」に近似で、その性格や物語中の役割、ルックス、アニメになったとしたら声優さんの誰が担当するか、などなどが登場したとたんに容易に類推することができてしまうようになっている。

まだ読み始めたとこなんですけど、(いろんな本や雑誌やゲラなどを家のあちこちにおいておいて、そこにいったらそれを読む、をやっているので、平行読書状態なんですが)ちくま新書の橋本治先生の『人はなぜ「美しい」がわかるのか』に、これまでわたしたちがスレのあちこちで語ってきたことの重要なヒントになりそうなことを発見しました。要約しますと、「理解力があって、類推能力がないひとは、わかることはわかるがわからないことはわからない。わからないことは排除し、自分にとって存在しないことにする。

「分かることは分かるんだから、“なに”が美しいか教えろ――そしたら、理解して覚える(この七文字傍点つき)」
(同書 p46)

ひょっとすると、典型的なキャラクター小説を「おもしろい」と思い、キャラクター小説的でないものは「読みづらい、わかりにくい、シキイが高すぎる、だから読みたくない」と思われるかたがたというのは、こういう感性をお持ちのタイプであることが多いのではないでしょうか。
それまで知らなかったなにかに出会った時、好もしいとか、美しいとか、おもしろいとか、興味深いとか、なんかコワイとか、ヤダとか、ムカツクとか、自分のナマの感覚で感じることがとっさにできず、「これは知らない」という事実確認がまず来る。
「習っていないからどう感じていいか分からない。誰もこれまでこのものについて自分に教えたり、説明したりしてくれなかった。まず、よく教えてもらいたい。もし、誰も教えてくれないなら、説明してもらえないなら、そんなのうっとおしいからいらない」なのではないか。
そして、アニメとか、ゲームとか、映画とか、あるいは表紙イラストとか口絵とかキャラクター表とか、何か「あらかじめ前もって」教えてくれるものを求めるのではないか。

なにしろ橋本先生のご本をまだ50ページぐらいまでしか読んでないので、この読み方でアタリなのかどうかわからないのですが……

ちなみに橋本先生は「(異性の)美しさ」というのは「やりたさ」ではない、むしろ思考停止である、ともおっしっゃておられます。ほんとーに美しいものを見ると、評価するとか、所有欲を覚えるとか、自分にとってどう利用できそうかとかを考えることなどできずに、ただ「あ……」「お……」といったきり、ただボーゼンと見つめて魅入られてしまうものだろう、と。


112 名前 : くぼひでき 投稿日 : 2004年06月14日(月) 11時29分18秒
 記号的であることと、意味を持つことは、実は同義です。
 無意味な記号というのは基本的に存在しないんですね。なぜかというと、記号そのものが「意味の要約」として作られたものだから。表音文字ですら、音を意味しています。
 ゆえに、やはりキャラクターは表意文字だと思いますね。
 そこで昨今どころではなく、文学全体から考えてみると、必ず類型化した人物というのが現れる。
 これはそれそのもので意味をもつものだから、やっぱり表意かなと思います。

 あまりこれを続けると論がずれますね。
 久美さまが、「昨今のライトノベルの特徴」として、キャラクターの類型化によって、全キャラそのものが記号的になっていることに危惧を提示されていることについてですが、その危惧は、敷衍すれば「ライトノベルそのもの」を記号として認識していることから起こっているのではないかと思うんです。

 小さな差異をどう見つけだすか、というのが久美さまのスレで話題になりましたが(おこさまランチの旗です)、記号のかたまりのなかにあってもそこに「意味を見出さざるを得ない」のが人間であって、だからこそライトノベルに読者がつくし、実は純文学にだってつくわけです(純文学も基本的には記号的なんですね。ただ意図的に破壊を試みようとするから純文学なんであって、逆を考えれば、意図的な破壊を試みないから大衆文芸なのではないでしょうか)。

 と、ここで「記号的」であることが悪者になってる感がありますね。
 構造主義以降、記号的であることは悪いことではない、むしろ世界を把握するのに必要な方法である、とされています。
 それは、それまで支配的だった現象学における重要なことがら、「判断停止」の止揚だったと思います。
 ある大きな事柄を理解していくために、細かいことは「おいといて(判断停止して)」考えようというのが、それだったんです。その方法のひとつとして、事柄を「記号」にしようというのがある。
 記号的であることがすなわちまずいことになるかというと、それは違うはずです。
「どう使うか」ということに関係してくるからです。

 記号の意味を、過去の遺産にすがって構成するだけであれば、それはやはり「似たキャラ・似た作品」になると思います。
 しかし、記号の意味を新たに作り出そう(本来は純文学的行為)とするならば、それは新たな作品になるはずです。
 それを身をもって示したのが、記号学の権威(構造主義の権威でもありますね)、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』だったのではないでしょうか。あれは立派なエンタテインメントです(難解だという人もいますが、それは文章が多いってことに過敏なだけのことが多いですね)。
 ミステリーという枠組み(記号ですね)、歴史という枠組み(これも記号)、キリスト教(ベネディクト会)という枠組み、ラテン語などなど、さまざまな記号を「有機的かつ効果的」にからめれば、すんげぇ作品になる。

 これが、すなわち、美の理解になるんじゃないかと思うんです(書くことは読むこと、という持論の上ですが)。

 橋本治さんの本はまだ読んでないので(手は伸びたんですが金欠で^^;)、直接触れることはできませんが、教えてもらったものではないと理解できない、または不可解な事態に遭遇したとき教えてくれ、であれば対処できる、とするのは、人間の持ってる基本的なものだと思うんです。

 逆に、美を「自分の感覚だけで」理解し租借し判断できるという能力そのものが特殊なんですよ。
 柄谷行人さんが評論集『近代日本文学の起源』で、「風景の発見」「児童の発見」など、それまで意識化されてないが故に存在すらしてなかった観念が、いかに誕生し一般に固着していったかについて書いています。

 風景が美しい、とか、印象派の絵が美しいとか、ロックがかっこいいとか、すべてある程度の蓄積があった上でしか、感動できない(現に新しいものは、すぐに一般に理解されない。「印象派」という言葉はそもそも悪口ですが、それが普及しました)。
 まれに、何の予備知識もなくても、感動にぶち当たることがある、ということがあるのも、しかしそれを受け取るだけの素養(または美的経験)が蓄積されてないと難しい。
「愛」という概念ですら、明治以降の文学に反復された結果、ようやく定着したものです(それ以前の愛とは、様式がまったく違う)。
 そう考えるなら、ある「わからない事柄」にあたったとき、「それについて習いたい」「知りたい」「教えて欲しい」と思うのは、当然の帰着なわけです。

 問題は、そこから先に行かないことです。
「だから読みたくない」につながるのもまずいわけです。
 わからないものであっても、難しいものであっても、そこに「美(またはそれに相当する感動)」が待っているのであれば飛び込もう。
 これが少なくなってるのが、私の危惧するところです。

 小林秀雄が「美しい花がある。花の美しさというようなものはない」ということを言ったとき、「教えることができる」のは「美しさ」だけであって、美しい花そのものについては結局何一つ伝達することができない。だから、それについては自らが触れよということになるのではないかと思います。

 もし、キャラクター小説的でないものを、「だから読みたくない」と思っている人が多いのであれば、それはそれで本来的なのだからしかたないにしても、もったいないと思う。
「理解して覚える」ことだけでは、絶対に到達し得ないおもしろさが、けど、手を伸ばせばすぐそこにあると思うと。

113 名前 : 投稿日 : 2004年06月14日(月) 19時14分40秒
 はじめまして、空と申します。よろしくお願いいたします。

 久美さま、とても興味深くコラムを拝見させていただいております。
 皆様、掲示板でのやりとりでは皆様の知識の深さにただただ驚くばかりです。
 
 今回、ただの一読者であり一ゲームファンでしかない私が、このような場所で皆様の御眼を乱文にて汚してしまい、ただただ恐縮するばかりです。
 ただ、絶対にこの機会に聞いておかねばと思い、キーを叩かせていただいております。

 本題に入るまえに、先に謝らせていただきます。
 私、まだインターネットというメディアについて慣れておりません。
 また、敬語・丁寧語といったものについても勉強不足でございます。
 失礼なことを書き込むこともあろうかと思いますが、どうぞ御理解ください。

 本題に入ります。
 私、今回のコラムを読ませていただきまして、おやっと思うことがございました。
 ドラゴンクエスト擦離ーファ王子についての久美さまのご発言についてです。
 その件についてなのですが、私はドラゴンクエスト擦鬚發舛蹐鵐廛譟爾気擦討い燭世ました。
 プレーしての感想なのですが、過去の世界で別れ離れになった友(キーファ)、その子孫(アイラ)と現代の世界で再開する、というストーリーにまったく何も違和感をおぼえることなく、むしろ良いとさえ思いました。
 ですが、久美さまのコラムを見ますと、これだけでは満足されてないご様子です。
 そこでお尋ねいたしますが、久美さまはキーファ王子については、どのようにされるのがよかったとお思いなのでしょうか?
 物語をお書きになる方が、あのことをどのように料理するのか、とても気になりました。
 
 今回の質問は、ライトノベルについてのことではないですし、この掲示板にてまったく関係のないエニックスの作品について論じるのは不適切ではないかと心配しております。
 マナーや法律などの上で不適切である場合には、どうぞ気にせずに流していただきたいと思います。
 
 最後に、長文・乱文にて皆様の有意義な場を汚してしまい、申し訳ございません。

114 名前 : 来無 投稿日 : 2004年06月15日(火) 01時35分25秒
くぼ様
>ゆえに、やはりキャラクターは表意文字だと思いますね。

何故、ゆえに、なんだか解りません、そういうのを表意文字とは言わないでしょう、キャラクターと言う言葉自体にもそんな意味は無い筈ですし
表意文字は表音文字と対応区別して使う言葉であって
表意文字の場合、文字=意味、であり、表音文字は、文字=音素あるいは音節です
表音文字が音を「意味」(意味a)すると言う場合の「意味」は、等号の部分にあたり、音素や音節には特定の意味はありません
表意文字はその文字が「意味」(意味a)する「モノ」に 「意味」(意味b)がある場合の文字です
表意文字は表(意味b)文字であり、(意味a)と(意味b)は明らかに違います。

#キャラクターには表意文字が含まれる、のであれば
#「キャラクター小説というときの「キャラクター」は、それそのもので何かを表意するものであるべきだ」
#「単なる記号キャラクターではなく、表意キャラクターであることが望まれる」
#というような理想の主張なら大いにうなずける所なんですが

>キャラクター小説というときの「キャラクター」は、
>それそのもので何かを表意するものであるって置き換えてもいいかもしれません。
表意文字はキャラクターですがキャラクターは表意文字とは限りませんから置き換えるわけにはいかないでしょう。
また現状をかんがみても、キャラクター小説のキャラクターが(意味b)を常に持っているかというと
持ってない(そのキャラでなきゃいけない必然性が無い)場合は少なくないだろうと思われます。となれば
>キャラクター小説におけるキャラクター(登場人物)は個々の意味というよりはむしろ「記号」なのではないでしょうか。とすると実は「表音文字」のほうに近いかもしれない。
と言う久美様の言の方が適っていると思います。将来的にはわかりませんが




115 名前 : 海燕 投稿日 : 2004年06月15日(火) 03時09分05秒
>ピサロさま

PS版ではクリア後に仲間になってしまわれるそうで、なかなか複雑な気分です。オルテガ父ちゃんも生き返ってみたら案外ふつうのひとでしたし(笑)。ちなみに僕、FC版のDQ4(「D」「Q」「4」というCMが当時流れていたっけ)は全員レベル99まで上げました。ほかのメンバーが99になってもミネアだけは90くらいだった記憶が。それにしても小説版のモデルはエルリックだったんですか。僕はタニス・リーの「惑乱の公子」だと思っていました。妖魔と聖女の恋──ということで。いまとなっては「惑乱の公子」はおろか「エルリック・サーガ」も書店の棚から消えて久しい現状です。

「そんな本、読むどころか店頭で見たことすらない」というひとも多いんでしょうね。早川書房にはこの本だけはなんとか出版しつづけてほしいものです。無理なんだろうけど。帯の惹句は「この世には「ベルセルク」より暗いファンタジーがある」というのはどうでしょうか。無邪気な中学生だった10年前はエルリックの悲劇に核爆裂級の衝撃を受けたものですが、大人になったいま考えてみると、「結局、こいつはこうやってうじうじ悩んでいるのがけっこう好きなんだな」ということもわかってきます。ほんとうに可哀想なのはかれに巻き込まれたサイモリルとかラッキールとかムーングラムのほうかも。

>問題は、そこから先に行かないことです。

うん、まあ、そういうことなんですよね。ライトノベルしか読まなくてもなにも悪くない。記号的な人物にしか魅力を感じなくてもなにも悪くない。面倒で頭を使うことを避けてもなにも悪くない。映画にも音楽にも文学にも美術にも興味を示さずただあたえられたものを消費しつづける人間であってもちっとも悪くなんかない。そもそも人間の文化というものは、より苦労を減らして楽をするために進化してきたものなのですから。ただそれはなんともいえず「もったいない」。思えば僕たちはなんと贅沢な世界に生きていることでしょう。

そうしたいと望めば、一生をその楽器の習得のために費やした楽団員から成るオーケストラによるモーツァルトを聞き流しながら、ホメロスを読み、ニーチェを笑い、李賀の絶唱に心躍らせることもむずかしくはない。かつての王侯でさえ僕たちを羨むに違いありません。あるいはもしかれが今日の世界に生まれていたならば、ファウスト博士もメフィストフェレスの申し出を一笑して退けたかもしれない。僕たちの図書館にはすでにひとの一生などでは到底消化しえない叡智と快楽が眠っているのですから。しかし多くのひとが黄金の山に腰まで浸りながら、それにすこしも興味を抱かずより容易な娯楽を選びます。僕自身もたいていはそうする。

なにしろ僕たちには「生活」というものがある。いかな黄金時代といえど、いな、黄金時代であらばこそ、生存に要する労力は少しも減ってはいない。テレビとクーラーと冷蔵庫とDVDとプレステ2がある日常を守るためには我々はいまなお額に汗して働く必要がある。ならば、余暇の趣味においては「より軽いものを」「より明快なものを」と望むことはまったく無理がないことです。いまや21世紀、人類未踏の娯楽氾濫時代、安価で軽いエンターテインメントはいくらでも転がっていますし、それを片端から消費しているだけでもたかだか数十年くらいは充分に楽しく暮らせるでしょう。

それでもなおひとがそれほど軽くもなく容易でもないものを手にとるとするなら、そこでかれを駆り立てているのは、「好奇心」以外にありません。知らないものを知りたいという気持ち。未踏の世界を探検したいという想い。それが人間にあたらしい本を手に取らせる。しかし、そんなものがなくてもひとは充分幸福に生きていけます。そして、だれもそれを持たないものに無理に本を読ませることはできません。それでは、僕たちにできることは、なにがあるでしょうか? 「良い本」「良い作品」とはどんなものでしょうか? だれかその答えを知っているひとがいるのでしょうか……?

>キーファ王子とか

7はゲームバランス的にもかなり苦しかったような。ていうか石版のかけら見つからねえ!みたいな。個人的な思い入れを脇にどけて評価するなら、ドラクエはやはり3、4あたりがひとつの頂点かもしれません。この二作があの低性能のファミコンで出されたということは奇跡のような気がしますが、あの大騒動を経て発売された3が、「案外たいしたことないじゃん」という冷めた評価ではなく、それ自体が伝説的な高評価で迎えられたことはもっと巨大な奇跡かも。ほんと、3は「正義の勇者が悪い魔王をやっつける」というシンプルなお話としてはほとんどパーフェクトだと思います。

しかしどの業界でもそうだけれど、頂点にたどり着いてしまったあとこそが苦しい。凡人はそこに到達することすらできないんだけれど、頂きに登りつめてしまった者にもそれなりの苦しみがあるはずです。15歳で金メダル獲っちゃったらその後の人生がめちゃ大変、みたいな。ドラクエの場合はいろいろと試行錯誤しつつ一定の成果をあげていますが、これから8、9、10と続いたとしても、「ゲームが熱かったあのころ」の作品を超えることはむずかしいかもしれませんね。SFC版の3よりおもしろいRPGなんてゲーム業界全体でもほとんどありませんし。

まあ、消えたキーファ王子をオチに使うことそのものは、悪くないと僕は思う。思うけれど──いかんせん、そこに至るまでの過程が長い。別れてから50時間くらい経っているんだもんなあ。それまでの旅で世界中を経巡り、ありとあらゆる冒険を繰り広げ、そのあげくに魔王を何匹か倒したうえに世界をひとつ救ってしまっているわけで、「いまさらきみに出てこられても」感が拭えないものは、正直、ちょっとある。僕はね。7は3や4のような選ばれし者の聖なる戦いというよりは、平凡な田舎村に生まれた少年が広大な世界を見てまわる遍歴と冒険の物語という色彩が強いような気がしますから、同じ評価軸で評価することが間違えているかもしれません。

しかしやっぱりあまりにも巨大化したボリュームが足をひっぱってしまっている一面は否めない。ロールプレイングゲームとしてほとんど限界に近いほど膨大なテキストと数字から成る世界を、ぎりぎりのところでゲームバランスを崩さず提示してのけたその事実は、「ドラゴンクエスト」というゲーム業界最大のブランドネームに恥じないものではあるけれど、でも単体として見るとたしかにちょっと厳しいかなあ……と思いますね。日本におけるRPGそのものとすらいえる栄光と賞賛の歴史のうちに築き上げられてきた伝統のシステムは、「ドラゴンクエスト」の比類ない財産であると同時に、それを一定の限界に縛り付ける足枷でもあるのかもしれません。王道ゆえの過酷さ、かな。

116 名前 : くぼひでき 投稿日 : 2004年06月15日(火) 07時27分25秒
>来無さま

なるほど。わたしの弁が浅いようです、たいへん勉強になりました。
とくに、#の部分、そのとおりです。
どうも、わたしは論が短絡してたり狭かったり、お門違いばかりでいかんですねえ。

>表意キャラクター
って言葉は、とてもいいな、と思いました。見事、言い表せてもらえてとてもよかったです。

それ一個に、意味をもたせていく作業が、
たとえば「設定」ってことになり、
ともすれば、設定先行や設定とストーリーの乖離なんてものにつながるのかも、と考えました。

117 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月15日(火) 09時51分41秒
婆が寝てる間にどんどこ話がすすんで一巡してしまったようじゃのう。えっと、「なな」のことなんですけど、なにしろ酸っぱいブドウのキツネさんだったので一応最後までクリアはしましたが一回こっきりで、しかも「なな」のことをあまり記憶にとどめておきたくなかったのでバクゼンとしか印象に残ってないのです。が、そうですね、「王子と今度いつあえるんだろう? いつなんだろう?」と思ってたら、ああだった、「えええ?」というのがわたしにとっては実感でございました。

しかしです。きのう、ようやっと『動物化するポストモダン』(東浩紀さん)を読みまして……くらーい気持ちになりました。
嗚呼、そうだったのか、と。
「傾向」あるいは「流行」としてなんとなく「こうなっているみたいだな」と思っていたことがらが「なぜそうなったのか」について、快刀乱麻な説明をされてしまって。それじゃそれは必然だったんだ、もう二度と歴史が過去に戻ることはないんだし……とかなんとか思えてしまって。
もし、ほんとうにこうだとするなら……わたしのような古いタイプの脳みそのモノカキで、しかもオトナにはまるでウケないやつには、もうどこにも居場所なんかないんじゃないか……! そりゃもうゲヨーンと落ち込みましたです。

しかし……まぁ時の流れがそうだとしても、「古いタイプの脳みそ」のモノカキが、しかもよせばいいのにどちらかというと若年層向けに書きたがるものを「読んでくださる」かただって、いきなり皆無にはなるまい。書いていればそのうちわたしだって変わるかもしれないし。

と、いっしょうけんめい勇気を出して、クイックジャパン54号ですか、ライトノベル特集を読んで、ちょびっとだけ元気出ました。冲方さんのインタビューと、乙一さんとの対談のおかげかも。……ったく何か読むたびにいちいち「じゃあ自分はどうしたらいいんだと考えて」落ち込んだり浮き上がったりすることそのものが脳みそ旧人の(断片を単なる断片要素として把握することが出来ない、断片ひとつにどうしてもその奥にあるはずのひろがりを……話者が想定などまったくしていないかもしれない部分まで……想定してしまう)特徴なんじゃないかと思いつつ。

ピーくん仲間になっちゃんですかー! それは……嬉しいようなゼッタイいやなような……うーむ。

>逆に、美を「自分の感覚だけで」理解し租借し判断できるという能力そのものが特殊なんですよ。

そうなのかなぁ。いやうんとゲンミツにいえばそんなことは誰にもできないのかもしれない。それまでの蓄積、読んだもの聴いた話見てきたもの等々をぜんぶひっさげた「そのときの自分」として判断しているのかもしれず、瞬間的な「そのものそれ自体」を見ているわけではないかもしれない。
けど……あくまで相対的な程度問題かもしれないですが、わたしはキレイなものとかスゴイものとかステキなものとかカッコいいものとかメチャこわいものとかセツナイもの(このへん全部、というふうにわたしには感じられるもの、というのがゲンミツか?)とかを前にすると、いきなり「ゼロ」というか「エンプティ」になる自分を感じますです。呆然自失して、ウワゴトのように「ひぇー」とか「きゃー」とかいって、腰ぬかしちゃう。
最近は(これでも主婦なので、しばしばいったきりだと生活がまわらないですから)わりとすぐに切り替えてこっちに戻ってこれますけど、こどものころはカラッポになったきりなかなかかえってこれなかったらしいです。たとえば上野動物園の大蛇ボアコンストリクターの檻の前でポカンと口あけたまま。
でもって……これはハハに感謝しているんですけど、うちのかーちゃんはかなりテキパキでセッカチでマジメなひとなのに、ムスメがそーゆーふーに何かに夢中になっているときには自分の思惑や予定があってもじっとガマンしてほっといて見守ってorつきあってくれるひとだったんですね。「うわっ、ヘビなんてコワい気持ち悪い!」って、ありがちの判断をおしつけずに。
もしあそこで「ヘビなんてそんなにうっとり見てるんじゃありません!」ってグイグイ手をひっぱられてどっかよそに……もっとコドモが好きになったらよさそうなゾウさんとかおサルさんとかキリンさんのほうにつれてかれて「ほらほら、ゾウさん、かわいいでしょう」ってオシツケされてたら、わたしはわたしになっていなかったと思う(逆にいえばそれを幼心に叩き込まれなかったから、世間体とか、ジョウシキとか、みんなと協調するとかのほうめんを、いまひとつマジメに気にかけることのできないヤツになってしまって、それにはそれで集団生活ではいろいろと摩擦もあったわけですが)。さかのぼるとこれはカーチャンが例のぶっちゃけたジイチャンの末っ子だったってこととも関係あるんじゃないかと思う。自分のオヤジが「何かに夢中になると寝食も忘れて没頭するし、実生活に役立つことより自分のロマンを追い求めてしまう、世間的価値観に拘泥しない……ようするにだめんず」タイプだったので、コドモがそっちなのを見ても意外にすら思わなかったというか。

「印象派」がはじめ蔑称だったとかまさにおっしゃるとおりなんですけど、でも、印象派と呼ばれるような種類の絵を「描いた」ひとたちも現にいた。個人ではなく複数グループを形成していたわけで、「あっそれってナイスだね!」ってあとからマネッコしたひともいたわけですが。特定の作家も、なにかの気の迷いでたった一枚だけヘンなのを書いたわけじゃなくて、当時の評論スジにどんなにバカにされても、懲りずにやりつづけた。狙ってやってた。自分としてはそうせざるをえなかったからだろうし、描いててきっと楽しかったんでしょう。
わたしはできればそっち側でいたいなぁ。印象派の巨匠と自分を「いっしょ」にククルなんていうのはオゴリ高ぶりもいいとこかもしれないけど。創りだすもんが売れないと生活できないから困るけど。

ちなみにくだんの変人のジーチャンが実際には自分ではいけなかったバルビゾンの村に行ったことがあります。みやげもの屋(ミレーとかの複製画や絵葉書も売ってた)の婆ちゃんがド田舎のフランス人にしては珍しく英語の通じる(通じることを認めて使ってくれる)ひとだったのでジーチャンのことをおもしろおかしく語ろうとしたらボロボロ涙が出てきて、ギュッと抱きしめてもらった。婆ちゃん言いました。「おじいさんはいまここにいるじゃないの、あんたといっしょに。わたしには見える」。


118 名前 : 小役人 投稿日 : 2004年06月15日(火) 13時01分36秒
横から話しに入って申し訳ないですが
>「美しい花がある。花の美しさというようなものはない」
という小林秀雄の言葉を引用しておられるのを見て。

「美しい花」と言うのがむしろ「キャラクター」ではないかと思います。
美しい花は見る事が出来る、想像することも出来る。
しかし、花の美しさはなんら具体的ではないです。
花の「美しさ」はそれぞれの人がそれぞれの基準で見出すもので
同じ「美しい花」でも何処に美しさを感じるかは異なるのだと思います

で、純文学と言うのは、「美しさ」を語る事が主眼に置かれていると考えています。
共通して持つことの難しい美しさを共有したいと言うのが
純文学とか、美学のテーマではないかと思っています
(…美しさでなくても、なんか共有しがたい感覚を
 共有したいと言うのが、純文学で美学かもしれません
 美学、aestheticsは感覚の学問なんです。)

で、うまく表現は出来ないですがライトノベルはそういうところを
語る事が主題ではないんじゃないかと思います。
そのため、齟齬を生む「感覚」については語らずに
具体的に想像できる対象を持って、物語を記述するものではないかと思っています。

119 名前 : 来無 投稿日 : 2004年06月16日(水) 06時17分04秒
久美様
>しかしです。きのう、ようやっと『動物化するポストモダン』(東浩紀さん)を読みまして……くらーい気持ちになりました。
>クイックジャパン54号ですか、ライトノベル特集を読んで、ちょびっとだけ元気出ました。
トンデモ本の世界SおよびT(二冊同時発行)を合わせてお読みいただくとよろしいかと。『動物化するポストモダン』載ってます


DQ7
キーファ王子のあれは確かに「そー言えば忘れてました!」って感じは多少なりありました
落とし方としては悪くないし最後のメッセージも友情味あふれていて好きなんですが
王子の頑張った跡が感じられなかったのが何とも残念では有りましたとも
王子がパーティを抜けた跡、遠い未来の世界を救う友達の為に頑張るエピソード
代々の子孫が王子の意思を継いで頑張るエピソードが欲しかった。
王子とアイラの繋がりがいまいち希薄でそこに感情入るほどじゃなかったのが
「いまさら感」をもたらしていたような
王子に関しては、骨子はともかく、肉付きが足りなかったよな、と
旅をしてる感が大変あってゲーム自体は大好きな一作です

120 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月16日(水) 10時34分22秒
ええっ東さんトンデモだと言われてるんですか(笑)いやぁやっぱなにか一冊読むとすぐにウノミにして感化されてしまうのってイカンですね。とかいいつつ橋本先生の続き、おもしろいですー。枕草子は楽しい、徒然草はつまんない、なんでか? この分析がもう抱腹絶倒。まだ途中までしか読んでないんですけど、この本はゼッタイのオススメです。

121 名前 : 海法 投稿日 : 2004年06月16日(水) 22時26分40秒
作家の海法 紀光です。ゲームのノベライズをメインにしております。皆さん、はじめまして。

さて類型的なキャラについてですが、別に時代も流行も関係なく、ほとんどの人は、類型的、記号的な、わかりやすいキャラを好むものだと思います。

他のジャンルを見ても、記号的なキャラの活躍するベタベタなメロドラマやらハリウッドアクションのたぐいは昔っから人気があるわけで、きちんと人間が書けているかにこだわる人のほうが、むしろ少数派でしょう。

ライトノベルに類型的なキャラが目立つとすると、それは、本を読む人の読解力が低下したわけではなく、普段、本を読まない人が、ライトノベルを読むようになったからでしょう。

で、これというのは、すごいことだと思っています。これまでだったら本を読まなかった人が、なにはともあれライトノベルを手にとって読むわけですから。本の魅力も、理解の楽しさも、何はともあれ本を取って字に触れないことには始まりませんから。

それはそうと、私も作家として、別に、記号キャラ万歳と思ってるわけではないです。読書の喜びの深奥は、描写を読み解く喜びであり、キャラクターであればキャラクターの、小説でしか描けない部分を感じ取って欲しい、と思います。

それは、いわば、「考えること」の喜びですよね。それを、どう、伝えるかが問題なんだと思います。

小学生に、いきなり高等数学の問題を出しても、数学の楽しさは伝わらないように、はじめて本を読む人間に、いきなり密度の高すぎる文体を押しつけてもしょうがない。

小説的な描写を読み解くのは、やはり技術と経験がいるわけで、「考えることの喜び」を伝えたいのなら、人それぞれに合った密度があると思います。

その理屈でいくと、記号的なキャラ描写に考える余地がない、というのも早計で、たとえば生まれて初めて長編小説を読む人にとっては、読んで、筋を理解すること自体が、十分に考えることなわけです。

いうまでもなく、ライトノベルの読者は描写の勉強をしに来てるのではなく、楽しい時間を過ごしに来てるわけです。そこにおいて、考えることの楽しさを伝える、というのは、むしろ作者のエゴですらある。だからこそ、記号的なキャラクター描写も含め、あらゆる手段でわかりやすく、面白くしながら、その芯となる部分に、小説ならではの意匠を込める、というのが、私の目指すところです。

「私の目指すところ」とか書きましたが、久美さまも含め、たいていの作家は、そういうもんじゃないかと考えますが、どうでしょう?。わかりやすくするための記号化を全く使わない作家もおらず、小説ならではの描写を心がけない作家もいないでしょう。そして、どこで、折り合いをつけるかは、様々な作家が読者の顔を想像しながら悩みに悩んで結論を出すものじゃないでしょうか?

最近のライトノベルにおいて、記号化が進んでるとして、その理由が「作者と読者が、小説的な描写に愛想をつかしている」ということは、絶対にないと思います。

122 名前 : くぼひでき 投稿日 : 2004年06月17日(木) 15時28分32秒
>久美さま

創世記18回、
アキナスは嫁に食わすな
で、思い切り笑ってしまったわたしは、どうでしょう。

 けど、カトリック思想を極める妻ってのはそれはそれでいいなあ。いっそのこと、偽ディオニシスまで行ってくれるといいかも、とか妄想が膨らみました。

さて、
>わたしはあくまで『小説として読んだ時に一番面白いおはなし』を書くのが好きっす

 これについては同意です。読むわたしにしても、それが小説であるのなら、それが一番の方法だと思う。

 けど、小説じゃないのなら。
>1・メディアが違えば、有効なカッコ良さも違う。
 なわけで、
 わたしはライトノベルは、その意味線上で、両方をたゆたっている存在ではないかと考えてみたんです。
 もしかしたら、小説ではないライトノベルもあるのではないか、と(ここでは、ノベルという意味を、小説という狭義にはめこまないでいます)。


>小役人さま

レス、ありがとうございます。

小林秀雄の言葉についてですが、
わたしはこれを「作品の享受」という意味で、書き込みしました。
つまり、難しいとかわからないといって敬遠せず(美しさという明示化されたかような観念に振り回されず)、その本に飛び込もう(美しい花そのものを楽しもう)。

 これを、キャラクターのありかたに推移するのであれば、「美しい花」=キャラクターを楽しもうということです。それは受け取る側によってどこに美しさを感じるか違ってくるという小役人さまの意見につながるように思います。

123 名前 : 海燕 投稿日 : 2004年06月17日(木) 17時02分18秒
>しかもあの凶悪なまでに細かな活字!

これ、古い版を持っているひとじゃないとわからないでしょうね。映画化されてあたらしい版が出版される前の「指輪物語」は、ハードカバーの本を同じ字組みで文庫化するという暴挙(!)の結果、異様に字が細かい代物になっていたのです。たしか1行が48文字か49文字くらいあったと思う。ふつうの文庫では、どんなに字が詰まっていても1行43文字、現在の新刊はほとんどが1行39文字から41文字程度ですから、いかにこれが常識はずれの数字であるかわかるでしょう。まあ、とにかく読みづらかった。なに考えていたんだろう、ほんと。

>えっ東さんトンデモだと言われてるんですか(笑)

ここらへん、いろいろな人間関係の錯綜を含むいろいろな事情がいろいろな形で絡み合っているので、留意が必要かもしれません。僕にはそもそも「トンデモ」という方法論そのものがなんともいえずクラシックで、悪くいえば前時代的なものに思えます。

>小説のかっこよさ

いま、ロード・ダンセイニの幻想小説掌編集「世界の涯の物語」を読んでいるのですが、これがめちゃくちゃかっこいい。たとえば巻頭の一作「ケンタウロスの花嫁」冒頭の一文はこんな感じ。

 二百と五十回の誕生日を迎えた朝、ケンタウロスのシュバラルクは重代の宝をしまった金の小箱に歩み寄り、秘蔵の魔除けを取り出した。父のジャイシャクが若かりしころ山の金を打ち延ばし、物物交換でノームから手に入れたオパールをちりばめてつくった品だ。それを手首にはめると、シェパラルクはなにもいわずに母の岩屋をあとにした。いっしょに持って出たのはケンタウロスのクラリオン、かつて人の築いた十七の都に降伏を迫り、神々の砦トールデンブラルナ大攻囲のおりには星々をちりばめた城壁で二十年の長きにわたって嚠喨と響きわたった、名にし負うあの銀の角笛だ。あのときケンタウロスたちは、だいそれたあの戦に打って出ていかなる武器の前にも敗れることがなかったが、神々が苦しまぎれに究極の武器庫から持ち出した最後の奇跡の前に、ゆっくりと塵の雲のなかに退却することになったのだ。その角笛をたずさえて、シェパラルクは駆けだした。母は、溜息をひとつついて見送った。

どうです。素晴らしくはないでしょうか? なぜこれが格好良いかといえば、ひとつにはいくつもの固有名詞を読者は知っているものとして提示しているからなんですよね。ほら、これがあの有名な「神々の砦トールデンブラルナ大攻囲」のときに使われた「あの銀の角笛」ですよ、という書きかたをしている。

当然知っているでしょ?みたいな。もちろん読者はそんなもの知っているはずないんですが、その説明を省略して、読者を一気に仮想世界へとひきずりこむ、この巧みさ。ただこういうテクはやっぱり「上級者向け」で、ライトノベルではなかなか使えない技法ではあるかもしれません。

一から細かく説明してあるほうが、多少ダサくはあっても、わかりやすいですから。しかし基本的に小説ではわかりやすく説明すればするほど、ダサくなる傾向がある。サイバーパンク・ムーヴメントの嚆矢となったウィリアム・ギブスン「ニューロマンサー」の伝説的な冒頭を思い出してみましょう。

 港の空の色は、空きチャンネルに合わせたTVの色だった。
 「別に用(や)ってるわけじゃないんだけれど──」
 と誰かが言うのを聞きながら、ケイスは人込みを押し分けて《スプロール》調の声、《スプロール》調の冗談だ。《茶壷(チャツボ)》は、筋金入り(プロ)国外居住者用のバーで、だからここで一週間飲みつづけても、日本語はふた言と耳にしない。

これもかっこいいけれど、わかりにくい。「空きチャンネルに合わせたTVの色」が、ようするに曇り空の灰色だということに気付くのにちょっと頭を使うし、このわずか数行の文章から、「スプロール」ってなに? そもそもここはどの国なの? という疑問が雲霞のごとく湧いてくる。翻訳の問題もありますが、全編この調子なんだから「ギブスンは難解だ」といわれるのもまあ無理はない。でもかっこいいんですよね。

徹底的に無駄な説明を省かれた、ただスタイルに奉仕するためだけにつくられた文体。最近のギブスンの小説はもっとはるかに読みやすくわかりやすい文体にシフトしていますが、この時代の火花が散るような鋭さはもうないかもしれない。日本の現役作家のなかでスタイリッシュな小説を書くひとといえば、石田衣良でしょうか。「波のうえの魔術師」の文体はこんな感じです。

 灰色のデジタルの波が、水平線の彼方から無限に押し寄せてくる浜辺。夜明けの青い光りのなか、馬鹿みたいに砂遊びをしているおれが目をあげると、遥か沖合いにダークスーツの小柄な老人が見える。つま先を波頭に洗われながら、魔術師は灰色の波のうえに立っている。足元で砕け散る波は、細かな数字の飛沫を巻きあげ、老人の全身に浴びせかける。だが、魔術師は濡れもせず、波のうねりに揺れもしないで、視界を圧して広がる海原のただなかにまっすぐ立っている。
 波のうえの魔術師だ。

実にスマートですが、凡人がこういう文体を真似しようとすると火傷しかねません。やっぱり小説の基本は、丁寧に、わかりすく、これでしょう。しかしそれでも憧れますよね、ありふれた言葉にスタイルの手綱を付け名馬を御すがごとく巧みに乗りこなす文学の騎手たち。引用に終始する文章になってしまいましたが、最後に、いまからおよそ20年前の1985年、若き小説家栗本薫が物した昂然たる宣言を引用させてもらって終わりたいと思います。

 だが──と私は思う。小説家と生まれたからには、いちばん恐ろしい、勇気のいる夢を見たってよいではないか。すなわちペン一本でまったく架空の、この世ならぬ空間を創造し、現実にはありうべからざる美男、美女やら、途方もない悲劇、目をおおう惨劇、異常、異様、異形、狂気、狂恋、妄執、豪奢、美、とにかく「まったく普通でない」もの、反現実の空間を、たしかにわが手で現前させてやろう、という。少なくともかれらは勇者である。なぜなら道化に仮装すれば、人がかれらの失敗をわらっても、道化は傷つかぬであろう。しんじつ失敗であってさえ、「それを狙ってこう失敗してみせた」と云いこしらえることもできる。
 しかしかれらは──勇気ある作家たちは、もし万一、少しでも、かれらのペンが自らの予期したよりも力なければ、かれらのみたすばらしい白昼夢が、読者のもとへ、意あまって力足りず、届かなければ、その場で夢はさめはてる。馬車はカボチャ、馬はネズミにすぎなかったことが、容赦ないカメラ・ライトにてらし出されて明らかになり、魔法は破れる。未熟な魔法つかいは、傷心をかかえ、嘲笑と面罵をあびつつ、面目を失ってすごすごと家に逃げかえるしかない。
 だが──だからこそ、いま、これほど、魔法の失われつつある楽屋落ちと道化の時代なればこそ、私は、あえてリスクをおかしても(こういう云い方がゆるされるなら)二枚目を立てとおすことをえらびたい。「ふつうの人間ですよ」と云ってしまうのが、ラクだし、賢明であることはよくわかっている。しかし誰が、女子高生の妊娠中絶だのどこの店やファッションがナウいの、永遠の日常だのということを書いてベストセラーになりたいものか。小説で現実をなぞって何になろう。現実にはすでに満ちあふれている現実だというのに。小説は反社会、反道徳、反文学、反現実の反宇宙であるべきだ。それを読んだがさいご二度と、完全にはもとの正気の自分には、戻れなくなってしまう、そんな妖しの黒魔術、悪夢を見るための阿片が私はほしいのだ。これがそうかとあざ笑われる危険をおかしてでも、やってみる価値はあるではないか。いやしくも人と生まれ、小説家として、ペンと紙とを与えられたのだから──異次元の夢を、異形の悪夢を。そして美しすぎる「もう一つの国」への扉、ありうべき真世界への魔法の呪文を。

124 名前 : 非それ 投稿日 : 2004年06月17日(木) 18時41分48秒
指輪の文庫は他社に権利を獲られそうになった評論社が
慌てて四六版のをそのまま使って出したそうです。

125 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月17日(木) 21時56分49秒
海燕さま。
>小説家と生まれたからには、いちばん恐ろしい、勇気のいる夢を見たってよいではないか。

ほんとーに!

126 名前 : 来無 投稿日 : 2004年06月18日(金) 02時02分24秒
海燕 様
>ここらへん、いろいろな人間関係の錯綜を含むいろいろな事情がいろいろな形で絡み合っているので、留意が必要かもしれません。
ネット等での東氏への批判と言う括りではその通りでしょうね
>僕にはそもそも「トンデモ」という方法論そのものがなんともいえずクラシックで、悪くいえば前時代的なものに思えます。
と学会なんてのが出来てからもう結構立つので目新しいとは言えないでしょうが
「作者の意図とは別の方向で楽しめる」と言うのは前時代的なんですか?前時代にそういうのがありふれていたとも思えないですが
「あくまで作者の意図しない楽しみ方が出来る」のが「トンデモ」です。
高尚な意図に反してロクでもないもの、も、低俗な、あるいは、平凡な意図に反して端倪すべからざる内容を含んでしまったものというのもトンデモです
当然作者の意図に沿った表現に対しての批判になる場合
自分の主張を通したいが為の強引な論理や論証が物笑いになる場合は多いです
実際「トンデモ本の世界」での『動物化するポストモダン』の項では
「自分の主張を通したいが為の強引な論理や論証」というか、基礎条件や知識の誤りに焦点が当たっています
こういうのは、時代性云々は関係ないでしょう。本来の意味でクラシカルな正当な批評ではあるかもしれませんが
むろん「トンデモ本の世界」や、と学会が必ず正しいとは限りませんので聖典扱いしちゃまずいですが
批判側懐疑側を見る為には良いスタンスだと思います
ま、東氏には批判も多いと言う事実、『動物化するポストモダン』の記述に対する批判をふまえた上で、彼の論に納得して暗くなるなり希望を持つなりすべきだろうということです

127 名前 : 来無 投稿日 : 2004年06月18日(金) 11時18分17秒
久美様
かいつまんであるだけの話の枕にツッコンでどうするか、ってのはあるんですが
>なんでも、まったく恋愛感情ぬきでとある女性と「人間と人間として」ふつーに交際しているつもりだったのに、その女性の夫のかたが誤解して嫉妬されてしまって、たいへん困惑しておられるとかで
この場合、本人が「行動に気をつけ」ていれば何の問題もなかったのではなかろうか…注意と配慮が足りなかっただけな気がものすごくします
人とプライオリティが異なることでの軋轢は理解出来るけれども。
思うに久美様の「違和感というか、不都合感」は「相対性理論の格好良さ」が一般人に伝わらない悲しみじゃありますまいか。
しかるにこの方のはスピード出し過ぎて違反切符や減点食らっただけな気がするのです
ウラシマ効果が如何に格好よくてもスピード違反の言い訳には通用しません。ウラシマ効果の実験をしたければ相応の準備と根回しが必要であり、それを怠ったら怒られる
それは相対性理論の格好よさが伝わらなかったのとは違うだろう、と思ったり

>あまりにわかりやすくカッコ良いのなんかぜんぜんカッコ良くなくて(中略)突然光り輝くほどカッコ良くなっちゃう場合だってあるぞお〜〜! ということなのです。
>でもって、その真実に、「カリソメ」じゃないほんものに、到達できたら、いや届かないまでも必死に手を伸ばしつづけてるのって、カッコ良くないでしょうか?
そうだ、そうだ。んが、しかし…限界まで追求しないとただカッコ悪いだけだったり、何に手を伸ばしてるか解るくらいまでは手が伸びてないとやっぱりカッコ悪いんで、なかなか大変な選択ですね
ちょっと手を伸ばせば簡単に届くのをわざわざ一回転して手にしてみたりする人も居るですが…(やっぱ後で冷静に見るとカッコ悪いもんだもんな…)

>ほんとうに正しく良質なメディアミックスは、上等な翻訳のようなものになるはずだ。
全くその通り、そうでなくては何のメディアミックスか、と思うのに…
>元ネタを単になぞって「準拠」することよりも、むしろ換骨奪胎し、翻案して、その味わいや感動を別のかたちで再現し(中略)どっちも「そのまんま」では、ぜったいにうまくいきっこないですから。
ここいら辺を誤解しているクリエーターって多くないですか?自分に都合良く解釈している人というか、別物で良いと思っているというか
「上等な翻訳」にならなきゃいけないことを、無視していると言うか。どことは言わないけど某TVのドラマは軒並みそんな感じが…
「上等な翻訳」であれば受け手は違和感を持たない筈、原作を知っていても「別もの」とは思わない筈だと思うのです
だから
>映画は映画が専門のひとに委ねて任せて預けちゃったほうがいいのよ
技術的にはその筈なんですが、現実はちっともそうじゃない例がものすごく多い。
作家と翻訳家が微妙にその才能を異にするように、「専門の翻訳家」になら任せて預けても良いんでしょう。居れば。
もっとも、某字幕翻訳家や、原作の雰囲気を伝えるには直訳が一番だ、と、本当に直訳してしまうような翻訳者も居るので(多分金返せと叫んだ最初の一冊…)、預けっ放しはやっぱり危険な気が…

>『指輪物語』(しかもあの凶悪なまでに細かな活字!)が、ほんの2時間ちょいの映画「たった三本」に、あの水準で再構築された
LOR…TV放映されたものでも、CM全部抜いて2時間50分あるんですが…2時間ちょい?(^^;

>あるいはいま話題の『負け犬の遠吠え』ってやつかしら?
だとすると日本の作家はあの三番煎じと言うか孫パクリみたいな(みたいな、じゃないみたいだけど)題名の本の作者に全員負けということに…?
んなアホな〜

128 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月19日(土) 09時35分46秒

おわったー!

『創世記』とりあえず終わりました。お騒がせしました!

スクウェア・エニックスにて三巻まででている『魔法少年育成センター』シリーズの番外編『仮題・わたしたちは天使じゃない』(アホアホ魔女っコスポ根ですー!)を、これから書くので、もしよかったら読んでやってください。今後の執筆に関して、このサイトで聞かせていただいたみなさまのおことばに啓発していただいた影響が、たぶん、なくはないのではないかと思います。まだちゃんと消化できてないので、いきなり大変身はできないだろうと思いますが、かわっていくはずのわたしを見ていて(←70年代っぽいなぁ)。ちなみに8月に光文社さまから『偽悪天使』(井之上雅比古の冒険・既存の短編ふたつにいまどき珍しい熱帯密林冒険篇を足したもの)も出ますです。こちらは約一年前にはできていたものなのですが、強い希望を発しまして、高橋葉介先生のイラスト(もともと、井之上雅比古は、夢幻紳士のまみやくんLOVEから生まれてきたもの)、井上雅彦さま本人(?)の解説などなどをつけていただくことがかないました。畢竟、いまどきのライトノベル風というよりは、すこぶるレトロでかつメタなつくりになってしまっているかと存じますが、てだれの読者のみなさまにはきっとさまざまな部分でニヤリとしていただけるのではないかと。どうかよろしくおねがいします。


129 名前 : 八杉 将司 投稿日 : 2004年06月19日(土) 17時40分17秒
 どもども、ご無沙汰しております。
 掲示板の議論があまりに活発で、ぼくなんぞが入る隙がほとんどなく、ほへ〜と高度でなおかつわかりやすい意見に首肯しっぱなしです。そらまあ、首を傾げる意見もあるんですが、それに対する反対意見をそれなりのクオリティを保ちつつ発言するのってすんごく難しいんですよね。ぼくにとっては。
 そんなわけで、すっかり発言できなくなっていましたが。(汗)

 えっと前置きはこれぐらいにして、久美さま、お疲れ様でしたと言っていいのかわからないのですが、お疲れ様でした。
 「創世記」を読むのが日課のようになって、それが数少ない楽しみになっていたので、非常に残念ではあるんですけど、新作、がんばってください。是非とも読みますんで。

 そういえば、かみさま。
 イラストのかみさまというのもいるようですね。ぼくの友達でイラストレーターを目指しているのがいるんですが、よく望んでいたイメージが浮かぶと、神キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!! って言ってます。しかも、年齢に関係なくかみさまは降りてくださるらしく。その友達、高校生ですし。
 サッカーで司令塔をやる選手も、プレーをやっている間にゲームの全体の雰囲気を体で感じ取ってその場面がきたときにふっと素晴らしい、しかし実行可能な作戦がリアルに思いついてゲームを組み立てるのかもしれない。いえ、サッカーにそれほど詳しいわけではないのですが、ゲームを見ていると、たまにチームが唐突にまるで神がかったかのように動き出すことがあるので、なんとなくそうかなと。その場合はサッカーのかみさまが降臨してきたってことになるのかな。
 こういった場合の「かみさま」という現象、脳生理学か認知心理学で説明をつけようと思えばつくんでしょうが、つけるのは野暮でしょうね。ぼくもかみさまがいないと執筆がまったく進まなくなるので、かみさまを理屈で考えるなんて恐れ多い。なんていうとやっぱりアブないヒトだと思われるかもしれないけど。はう。
 でも、かみさまを待つというスタンスで小説を書くと、降臨されたとき、まさしく物語が「創世」され、そして出来上がった小説はそれこそ「創世記」と呼べるものとも言えるんじゃないかなと思えるので、ぼくはそのほうが好きですね。
 んー。それって自己満足やろと突っ込まれたらそれまでか。(笑)

 最後に激しくスレ違いなんですが、意見というほどのものじゃないので、ちこっとだけ。「殺人」について。
 まだ読んでなくて買っただけなんですが、「戦争における『人殺し』の心理学」デーヴ・グロスマン著 ちくま学芸文庫、というのがありまして、参考になるかもしれません。日常の「殺人」ではなく、どちらかというと非日常での「殺人」に関してだとは思うのですが、興味ある方はどうぞ。

130 名前 : YUMI 投稿日 : 2004年06月19日(土) 18時31分47秒
久美様

いつも、今か今かと楽しみに読ませていただいてきたこのコラム、
今日で最終回なんですね。

私は読み終わるのがいやで・・・。
少しでも先延ばしにしようと、ゆっくりと一字一字を追っていきました。
今、すごくさびしいです。

今回は特に考えさせられたり、学生時代を思い返したりしました。
いつか、かならず『永遠の二年生』を読ませてください。
「バカバカしいとわかっていてもどうしても譲れない何か」を、
久美様の言葉で紡ぎ出される日を今から待ちきれない思いです。

コラム執筆お疲れさまでした。
ほんとうにありがとうございました。
そして草三井様、最終回まで運営お疲れさまでした。
今回だけは終始しんみりとしてしまいましたけど、
毎回必ず笑わせてもらって、とてもとても楽しかったです。

131 名前 : 夏樹 投稿日 : 2004年06月19日(土) 22時15分01秒
久美沙織さま

本日、初めてこちらのコラムを拝見いたしました。
久美さまがコバルトでご活躍されていた頃、
ほぼリアルタイムで読ませていただいておりました。
当時を懐かしく思い起こしながら読みすすめ、
第9回で、涙が止まらなくなってしまいました。
短大生だった私は、短大の近くに住む友人のアパートで、バイファムを観ながら、
(まだビデオがなかったし、帰宅するには間に合わなかったので、毎週寄っていた)
ぽつりと「かがみさん、亡くなったんだってね」といった友人に、
「うん」と答えたっきり言葉が継ぐことができなくて、3人いたんですが、
みなで、ただただ無言で過ごしてしまった時のことが、今でも鮮明に思い返されます。
改めて、表紙絵のお話を知り、胸が一杯になってしまいました。
ありがとう、というのは可笑しいかもしれません。けれども、やっぱり、いいたい。
久美さま、どうもありがとうございます。珠玉の一冊でした。
どこかに、しまいなくしているあの本を、今度、引っ張り出してこようと思います。
(数回引越ししているけれど、多分、まだある・・・はず・・・うう、自信なくなってきた)

もちろん、コバルトを離れて後も、ぼちぼちと、読者しております。
今後のご活躍に、期待しております。

では、久々に、頭がんがんするくらいに、泣きが入ってしまったので、
また改めて来訪し、続きを読ませていただきますね。
久美さまやかの人に、そして、このコラムにめぐり合えた僥倖に感謝しつつ、
ただいまの感慨まで。     失礼致しました。

132 名前 : 秋月流奈 投稿日 : 2004年06月19日(土) 23時45分24秒
皆様はじめまして。
久美様お疲れ様でした。
正直、僕は馬鹿です。19回もあったので、全部は覚えられませんでした。久美様の高尚なお言葉も、考えも理解できていないと思います。ここに書き込みをされている方々に正直ついていけませんでした。
しかしながら、19回(僕の中では最終回ではない数字という意味で)を見届けて、僕が書き込むのは義だと思いました。もう、本当に他の方々の書き込みを読んだ後に書くと、何これな文章ですみません。
僕なりに、思ったことを精一杯書かせてもらいます。読む価値なしと感じられた方は、アルルカンの戯言と思ってどうぞ次へとばして下さい。
>英雄の演出について
僕は、ファンタジー系の小説を書くことを好みます。そしてある時、英雄について書こうと思いました。その時、僕はまず英雄の定義について考えました。何をもってして、人は英雄となるのか。世界を救えば、文句なく英雄と言えるでしょう。しかし、戦争で多くの者を殺した者もまた英雄と呼ばれる。あの戦争で何百人殺した。この戦争で何千人殺した。そんなことを自慢するのも、称えるのも、僕の中では納得いかないことだったからです。
そう考えているうちに、僕は英雄のラストシーンを思い出していました。表記が同じなので補足すると、映画のヒーローのことです。見てない方もとばして下さい。そして主人公が死んだシーンを思い出した時に、ぞくっときました。文章化すると伝わらない演出だと思うんですが、主人公一人殺すのに何千人エキストラ雇ってんだとか、CGかなと思うほどの兵士の数。いくら何でも多過ぎる。向こうは賃金安いのかなとか、本当、余計な馬鹿なことばかり考えたり、心配したりしてました。
だから、最初は気付かなかったんです。主人公が死ぬ話も珍しいなとか、秦の皇帝が中国を統一したから、そういった意味では英雄だなとか。他の暗殺者は一人除いて死にましたからね。でも、主人公の遺体が運ばれてるシーンを見てて違和感あるんですよ。その場に最初からそれだけの数の人間がいたから、殺して遺体片付けてる程度にしか思ってなかった。でも、これは、このシーンだけ見たら、多くの人間に見送られる英雄の葬儀じゃないか。皇帝は主人公が暗殺者だから、皇帝として殺さなければならなかった。だけど、平和を願うその心は主人公も同じであると。後に英雄と呼ばれる者が、名も無い者を英雄として死なせた。そう思った時に、この作品は僕の中でアクションシーンが凄い映画から、深い味のある作品へと変わりました。
ただ、これを文章化すると主人公の遺体は千を越える多くの兵士達によって葬られた。とか、皇帝は主人公の志を受け継いだという言葉が入ると今一になってしまう。何の説明も無く、最後主人公が死んでそれで終わりです。映画を見た後にタイトルを見て、うまいと言いたい演出でした。

>サッカーのかっこよさについて
少し架空の物語を展開させます。くだらないのはご愛嬌で。
主人公をサッカー選手サカタ(仮名)とします。どうせなので、サカタは天才FW。舞台は2006年ドイツワールドカップにします。

ドイツW杯アジア地区最終予選。ジーコ監督率いる日本代表は、全勝で予選を突破した。その原動力となったのは、最終予選で得点王とMVPに輝いたサカタを始めとする若手選手の成長が大きかった。
予選を全勝で突破した。国民の期待は、本戦に向けて日増しに高まっていく。しかし、日本の入ったグループAには前回王者ブラジルが名を連ねていた。いや、しかし今の日本代表は最強だ。ブラジルに勝てるかもしれない。
しかし、本戦予選の緒戦、ブラジルに対して3−0で惨敗を喫してしまう。高い攻撃力を誇る日本。無得点の責任は、容赦なくサカタに突きつけられた。投げつけられるペットボトル。サカタは、避けることも言い訳もせずにスタジアムを後にした。
ブラジル戦の結果を受けて、新聞、テレビ等の各種メディアは、掌を返したように日本の予選敗退を示唆し始めた。しかし、残り二試合を僅差ながら競り勝った日本代表は、2勝1敗の2位で予選突破を果たし、決勝トーナメント進出を決めた。
そしてトーナメントを勝ち進み、いよいよ今日、地元ドイツとの決勝戦を迎える。

前後半90分が、間もなく過ぎようとしていた。スコアは0−0。辛くて、苦しい。足が重くて動かない。サカタは思わず目を閉じた。この時間帯は、誰だってそうだ。言い訳はしない。ただ、ゴールを決める。そのためだけに、選手達はピッチの上にいる。
「サカタ!」
幻聴か? いや、はっきりと聞こえた。ナカムラの声だ。ドイツDFの裏のスペースを突く絶妙のスルーパス。サカタは全力でこのボールを追った。とうに限界を超えたサカタの足は、つって痙攣を起こしかけていた。
届け。
サカタは精一杯足を伸ばす。爪先があたった。頼む。入ってくれ。
祈る気持ちで空を見上げた。

ありがとうございました。こんな馬鹿に付き合って頂いて。三流もいいとこです。
この寓話で、サッカーのかっこよさはどこにあるか検証してみたいと思います。
天才。FW。日本代表。得点王。MVP。W杯。
違う。
坂田。
それでいい人もいますが、違います。
言い訳しないところです。どんなにぼろくそに言われても、言い訳しない。するのは、ゴール決めて勝つことだけ。
ついでに、映像的演出も加えます。限界で目を閉じた時、僕は三つの小物を使います。使い込まれたボール。病院のベッド。少年サッカーチーム時代の写真。

>喜劇のかっこよさについて
私はマラドーナです。
いきなりではわけがわかりませんよね。AとBを知っていて成り立つ話です。マラドーナと言えば五人抜きが有名ですが、ハンドでゴールしたことがあります。喜劇のかっこよさは、久美様一言も言っていません。つまり、捏造です。捏造と言えば、あの考古学者です。名前忘れましたが、ゴットハンドです。以上。
すみません。関係ない話です。と言うか、前の寓話の副産物です。今しばらく、お付き合いください。
今回は、サカタにペットボトルを投げつけたサポーターを検証してみます。このサポーターを、リストラされそうになっていたが、ちょうどW杯があったので自分から辞めた中年サラリーマン、オカダ(仮名)とします。
オカダはW杯のために仕事を辞めました。
借金して、ドイツに行きました。
宿はもちろん野宿です。
チケットもダフ屋に騙され、借金ばかり重なりました。
これは、喜劇です。
しかし、日本代表の全試合を応援しました。
そして、日本がW杯で優勝した。
果たして、これは喜劇か?
負けたら喜劇でした。ひょっとしたら、悲劇です。借金だけが残って。
でも、日本は優勝した。オカダは日本代表を応援するために会社を辞めた。真似できません。
確かに、馬鹿だ。でも、日本代表のために会社辞められる。かっこいい。
まぁ、喜劇だからつっ込まないように。
更に、ここでさきほどの小物を一つ公開。かつて少年サッカーチームの監督をしていたのがオカダです。
最後までは言いませんよ。書き込まなければよかったかなとか。場違いかなとも。
ただ、最後に謝っておきます。ごめんなさい。
他の人の書き込みと比べた時、僕はいつかそちら側に行けたらなと、祈る気持ちで空を見上げた。

133 名前 : 伽海 凪 投稿日 : 2004年06月20日(日) 05時01分54秒
 はじめまして、とぎみなぎ、です。

 久美先生コラム終了、お疲れ様&おめでとうございます。

 このサイトに来てから人生で初めてライトノベルの如何について真剣に考え始めました。
 それで、コラムも色々と読んだ上で拙の意見を言いたくなってしまったのでよければ聞いてください。
 何分人生経験の少ない若輩ものの言うことですので、おかしなところがあれば指摘してください。

ええと。まず、“ライトノベル”とはどういうものか、純文学との違いは、という点で、私はこれは『読者における「自分」の介在』の余地の有り無しだと思いました。

 理由を語る前に拙のことを語らせていただきますと、読書暦は「モモちゃん」「アカネちゃん」シリーズやクレヨン王国、とんでる学園シリーズといった児童書から始まりライトノベルへ以降していった、という普通の成り行きでございました。父上がジャンプを買っていたので平行して漫画もよく読んでました。
 ジャンル、レーベルに関係なく、私は『物語』を読むのが好きです。興味があるものは割となんでも読みます。私にとって、「本を読む」ことは長らく「物語を読む」ことただそれにイコールでしたので、漫画も小説も関係なかったのです。
 で、それが原因かどうかしらん、私に起こった事は、「ジャンルの違いが明確にわからん」ということでした。
 いえ、「違う」ということはなんとなうわかるんですが、「違い」が説明できない。
 ライトノベル好きですし、割と主にそればっか読んでいますが、普通に「文学」のものも読んでいます。だからどうしてかライトノベルが軽視される方向に漠然とした不満感、不愉快を感じざるをえませんでした。
 私からすれば、『スレイヤーズ』も『こころ』も『封神演義』たいして変わらないのに何故ライトノベルだけ軽視されるのか。
 ライトノベル、面白いのに。ねぇ。

 コラムやくぼさん時海さんのお話し合いを読んで考えてみたところ、ライトノベルに普遍的にあるけれど、あまり純文学に見られないものというのが、その『読者における「自分」の介在』の余地かと。
 もうちょっというと、妄想する余地というか。萌えとかも。
 ライトノベルって、結構続く話が多いですよね? 一巻でもシリーズでも終了したらしたで続編が求められる。それはストーリーが面白さもさることながら、キャラクタの魅力のせい。そのキャラクタ達で繰り広げられる新しいストーリーが読みたい、と読者が思う。

 キャラクタが好き、萌える、燃える、という表現はあんまり純文学と呼ばれるものでは見られないかと思うんですが。
 んで、読者は妄想するんです。紙のこっち側から向こう側で起こる冒険や事件や旅に一緒についていく自分を。考えたことありませんか? ここに「じぶん」が存在していたらこうして動くのに、とか(笑)。
 感情移入でこのキャラが自分だったら、じゃないんです。こっち側にいるんだけど、確かに本の中にはいないんだけど、でも、いるの。『自分』が。一緒に。キャラクタは知り合い、友達もしくは親友、子供だったり親みたいに感じたりする。好きになるし、可愛いなぁと思うし、また好きになったキャラが活躍してるとドキドキする(笑)。まるでスポーツ大会で好きな子が活躍してるの見ているみたいに、リアルに。
 だからシリーズが終わっちゃって逢えなくなるとすごくさびしい。また会いたい。イラストが変わるのは現実に友だちの顔が変わるのと同じだから嫌だし、アニメ化して『今まで自分が聴いていた声』と変わると嫌。

 絵本とか、児童書とか、漫画というのもこういう風に読まれるのではじゃないかなーと思います。特に漫画は全部視覚化されているからもっと想像しやすい。ゲームもそう。『物語』に『自分』が参加している気分になる。

 でも真面目な文学には『自分』はいないんじゃないかしら。自分がしたかったり、できることってないんじゃないかしら。キャラが本から出てきてくれない。自分も入れない。
 少なくとも私はそうなんですけど。『アルジャーノンに花束を』や『パラサイト・イヴ』の中に自分がいることなんて考えたことないですし。何が違ってそうなるのかよくわからないですが。

 真面目文学は一線隔たって遠い、けどライトノベル的なものは身近に感じるから読みやすい親しみ。だから若い子は簡単な子供向けの絵本や児童書を卒業したらライトノベルなんじゃないですかね。
 同人誌に人気があるのも、やっぱりライトノベルですよね。ああいうのは『キャラ』が好きだからこそそういうのを買う人がいる。ライトノベルはキャラクター小説とも呼ばれますしね。
 というわけで、やはり、キャラ。今ライトノベルと呼ばれている作品にあるのはキャラへの親しさ、身近さなんだと思います。
 挿絵が漫画イラストでなくてはならないのは、より違う世界のキャラを親しむためではないでしょうか。絵本のような絵は、想像の中でリアルな動きをさせづらいから。実写は、世界に一人のそのキャラのための顔じゃなくて、現実には本物の誰々さんがいるから所詮(言い方悪いですけど)嘘っこ、演技してるだけですし。
 ずーっと真面目文学を読んできた人は、その身近さ、親しさが居心地悪く、時に下品だと感じるのではないでしょうかね。

 昨今ライトノベルは多様化しています。色々でてます。種類もたくさんあります。
 久美先生が仰っているように、すべてひとッくくりにするのは問題なんじゃないかなー、やっぱり。うーん。
 “ライトノベル”が“ライトノベル”と呼ばれるようになったゆえんが「軽い読み口のもの」「漫画風のイラストがついている」とすると、また。
 本当に軽いからライトノベルならまあそのままだから仕方ないです。
 でも全然読み口軽くないライトノベルあるし。漫画絵がついているから純粋に文章だけじゃないということではライトノベルなのかもしれませんが……でもそれでライトって変ですよね。

 私は久美センセのコラムを読んで、先生のレーベルは『アナザー・アウトルック』が合うんじゃないかな、と思って当先生にもメールで送り、もったいなくも賛同の意を得られたのでこちらでも提案なんですが。

 もっというと、私が今上記でライトノベルがこうだ、というのは『ウィズキャラクター』で……。
 便宜上ちょっとこういう定義で話を続けさせてもらいますが、私の主観的には小説というのはジャンルわけというのはほぼないに等しくて、ざっくばらんに、字が書いてあって地の文とセリフ部分があって、文章で想像ができるジャンルは小説。
 久美先生はちょっといやかもしれませんが、『イリヤの空』や『ブギーポップ』と同じように『鑑別所』や『ドラゴンファーム』は私にとってウィズキャラの範疇なんです(『孕む』とかの作品はそもそもライトノベルとは呼べないと思うから除外です)。
 しかし、先生のお書きになる、現時点でファンタジーと呼ばれるようなもの(『幻想』としたくないなら)は『別の世界(観)』だし、主人公が自分とは違う考え方にと触れていくような話は『違う見解』というわけで、先生のレーベルは『ウィズキャラ』の中のまた『アナザーアウトルック』になるのではないでしょうか。
 最近の「萌え」に特化した小説とかはやっぱりウィズキャラモノですが、それはまた先生のレーベルとは別のもんではないかと。
 というか、漫画絵イラストだからといってそれだけで仕分けもない同じレーベルに放り込むのはいささかそろそろ乱暴なんじゃないかと思うんですが。
 そろそろ仕分けして方が良いのでは。作家さんにも「一緒くたにしてほしくない」という気持ちもあるでしょうし。名前がライトなノベルってアバウトすぎるし。それどこまでさすんだよ、と。どこまでがライトなのよ、と。

 ああ、話が長くなっちゃった。すみません。
 以上が私の考えでした。
 まとめると、真面目文学との対比として「ウィズキャラ(仮)」というレーベルを作り、 そこからまた分けていけばいいんじゃないのかなということなんですが。
 同じ官能小説でも楽しみ方の違いで、真面目文学系とウィズキャラ(仮)系の二通りあっていいんじゃないのとかそういう感じで。時には真面目文学にしかない種類のものも、ウィズキャラ(仮)にしかない種類のものもあったり。

 ああ、ひどい時間。鳥が鳴き終わってしまった(笑)。
 では失礼します。

134 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月20日(日) 09時18分40秒
秋月さま。それはほとんど鈴木隆行の対ベルギー戦ではないか(笑)いやあれは記憶に残るゴールのベスト10にぜったい入りますね。
リーマンオカダの話も、想像するだに泣けて笑えますー。

んー、サッカーはなぜカッコいいか? バレーボールとか陸上とか世界二輪選手権とかも好きで熱中してみてることもあるんですが、サッカーは特別だなぁ。たまたま回したチャンネルで発見したローカル局の小学生の県大会決勝とかでも、ついついすわりなおして、最後まで見ちゃう。それがまた、いまどきの小学生は、ガタイは小さいけど、戦術・戦略やボールあしらいはけっこうスゴいレベルだったりするんですよね。ユーロだろうと、南米だろうと、サッカーなら見ちゃう。見ながら寝ちゃうこともあるけど(幸福)。
1・ルールがそーとー単純だから
2・スピーディだから
(野球だと攻守交替するし、バレーボールなどはサーブの前にしょっちゅう空白がある、バスケやアメフトはしょっちゅう時計をとめる……サッカーは怪我人でも出ないかぎりのべつ連続していて、いま攻撃していた側があっという間に守備にまわらなけれぱならなくなったりする)
3・チームプレイでありつつ、個人技も重要だから
作戦をたててどうにかしようとする部分と、個人個人の判断や能力で切り抜けたり守ったりする部分がゴチャゴチャに混じりながら拮抗している。
……このへんかなぁ。
キャラ萌えの要素も加わりますね。ベッカムもバッジョも、いちどドツボに嵌ってからそこを脱け出してまた戦いの場に戻ってきた。ジーコにしろHIDEにしろ、なぜか「超一流」の選手にかぎって、大事な場面でPKはずしたりしちゃう。そういう「これまでのお話」とか「過去の名場面」がそーまとーのように脳みそをよぎる状態でみたりすると、余計にきゅんきゅん来るとこもあると。

もともとサッカーは、部族戦争の代償だったんじゃないかと思いますが、日本のサッカーファンはこないだのW杯で世界じゅうのお客さんを驚かせ、感激させた。サベツ意識のなさとか、潔癖なまでのフェアさ、敵のナイスプレーにも本気で拍手することとか……カメルーンのひとたちをちっちゃな村のばあちゃんとかがマジ応援してるとか。あれで「サムライ」とか「ヤマトダマシイ」とかに代表される「ニホンジンのニホンジンらしさ」って何なのか、いきなりわかってくれたガイコクのひとがいっぱいいると思う。口で説明するよりずっと確実に。
そういう意味でも、サッカーってすごいなぁと思うです。

ちなみにFマリノスの実在の坂田大輔さまはきのう後半10分すこし前ぐらいから対レイソル戦に途中出場し、左サイドを切り裂いて走りあがってシュート、ディフェンスにはじかれたのをもういちどたたきこんだけどまたはじきかえされたのを、冲方丁さんの親戚みたいなアンジョンファンにきっちりゴールしてもらって「アシスト」一点つきました。喜びのひとっぱしりをするアンジョに後ろから軽くHUGしてたけど、できれば自分できめたかったろーなー。タナカハユマもJ初ゴールしてたし。試合後インタビューに答えてアンジョ(インタビュアーがちょっと誘導尋問ぎみだったけど)「あれは坂田くんの点だといってもいい」うんまぁ。驚き。いつからそんなにいいひとになったのアンジョ? W杯の頃とはだいぶちがくない?

135 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月20日(日) 09時22分13秒
サッカ萌えしてサッカ話ばかりしてしまってすみません。オンビキ抜くとこのスレにぴったりなのに?

えーと、寂しがっていただいてしまってごめんなさい。感謝。別にあの世にいくわけじゃないんで、またあえるよ。いつでも。みんなで盛り上がってくれたらまたシャシャリ出てきちゃうよ。LOVE。

136 名前 : くぼひでき 投稿日 : 2004年06月20日(日) 10時48分57秒
>伽海 凪さん

>『読者における「自分」の介在』の余地
という言い方、とてもよくわかります。コラムが少しでも参考になったようで、うれしいです。ありがとうございます。

まじめ文学においても、何度かチャレンジされてるのに、なかなか成功しないのは、たぶん方法論が違うからなんですよね。
二人称(君、とか、あなた)で進む話がいくつかあるんですけど、
たとえば、そういうものを採用するなんていうのは、読者を巻き込みたいことのあらわれなんだと思います。
(ただ、あまり成功しない。
 そもそも、二人称では、その示唆する内容が、こちらの解釈や感情とずれてくると、とたんに齟齬をきたしてしまう。
 作品例:カルヴィーノ『冬の夜 ひとりの旅人が』とか、高行健『霊山』とか)。
でも、もしかしたら、ライトノベル読者や、ノベル的なゲームに親しんでる人のほうが、こうした作品を読めるかもしれない。
だって、これらが失敗した(と思われている)原因が、読者が作品に採用された視点になじめなかった、というものであれば、
それはむしろ、従来の読み方しかできず、そうしたものを「新しい視点」としか思えない、旧来の読者に原因があるんじゃないか。
なんてことを今、考えました。

む。また推断的ですね。

137 名前 : くぼひでき 投稿日 : 2004年06月20日(日) 16時51分17秒
自己補足。

上の文だと
>作品例:カルヴィーノ『冬の夜 ひとりの旅人が』とか、高行健『霊山』
が、失敗作に読まれてしまう。

このふたつは、二人称文学としては至高の一品です。

138 名前 : 秋月流奈 投稿日 : 2004年06月20日(日) 21時11分25秒
>くみにゃ様
ありがとうございました。
変なスイッチ入れてしまってすみません。狙っていなくもなかったですが。サッカーでサカタ。ただ一人をピンポイントですよね。
ベルギー戦。一点を争う試合は、PKでもオウンゴールでも何でもいいから一点入れろ。と思って見てます。よく足出しましたよ。
ベッカム、バッジョ。僕も反応してしまいました。でも、あまり熱く返すと主旨をはずれますので簡潔に。
ベッカム。アルゼンチン戦。
バッジョ。W杯二大会連続PK戦。日韓W杯の時は、バッジョは決めたけど別の選手がはずしたんですよね。その選手に真っ先に歩み寄るバッジョとか。
このまま帰ると、ただのアルルカンになってしまうので少し書いて行きます。

>なぜ僕はライトノベルが好きなのか
まず、表紙です。最初に買う際には表紙の絵で判断します。最初はその小説が面白いかなんて判りませんから。タイトルで手に取って見る。絵柄が好みかどうかは重要な問題です。
では、買って読んでみるとします。僕が最近読んだライトノベルは、『マリア様がみてる』、………のシリーズと後は、………未読の山はあるんですが………判断材料として少な過ぎます。
判断材料は少な過ぎですが、ライトノベル以外で僕が読んだ物と比較してみます。有栖川有栖様の『火村、アリスの国名シリーズ』。城平京様の『名探偵に薔薇を』。他は、やはり未読の山と、読み終わった本は別の場所に移さないと机の上がやばいという危機的状況から、割愛させてください。
判る人には判ると思いますが、後者二つはミステリーです。これだけ見ると、ライトノベル以外はミステリーしか読まないようにも思えますが、これらで検証を始めます。
ここで注目すべきは、表紙が大事で絵が重要と言っていたにも関わらず、国名シリーズと名探偵に薔薇をを僕が評価しているということです。国名はその国の何かの絵。名探偵に至っては、薔薇そのものでした。なら、なぜ手に取ったのか。
国名に関しては、読者系の雑誌にイラストつきのお薦めが載っていたのがきっかけでした。
薔薇は、城平様が原作を書かれている推理漫画が面白かったので、何店も巡って一冊だけ入手できたと言う一品でした。
だから、何なのか。マリみてとの関係性は皆無ではないか。いいえ、この三冊には、僕の中で一つだけ共通点が存在しています。
それは、登場人物が好きだということです。
マリみては、個性的で魅力的な女性がたくさん出てきます。イラストは、そのイメージを補って有り余ると思います。
国名は、火村とアリスがかっこいいです。ライトノベルではないので、挿絵はなく想像するしかありませんが。
薔薇は、名探偵がかっこいいのです。少々古風な文体でしたが、名探偵ゆえの苦悩とか。ただの推理物ではありませんでした。なぜ、これ一冊だけなのか。4年経ってやっと増刷がかかったのかと不思議でした。
結果をまとめてみると、僕はキャラクターに魅力を感じ、彼等彼女等を追っかけているわけです。
本当、馬鹿ですね。ミーハー野郎かという感じです。
しかしながら、キャラが立っていて、質の高い文章のライトノベル。追っかけたいものです。

>最後にくだらない小噺
小説は一人で書ける(できる)
作家は一人ではなれない(できない)
なぜなら
サッカ(ー)はチームプレイ(作家がいて、編集者がいて、本屋さんがいて、読者がいる)だから

139 名前 : 与那里 嘉久 投稿日 : 2004年06月21日(月) 01時47分59秒
ずっとこのスレッドを眺めさせて頂いていたのですが、ライトノベルが軽視されるのはなぜかという議論に於いて、わたしが捉えていることをまとめてみました。
文章は読むのが専門で、何かを書くという行為が苦手なため、大層何を言っているのか分からないものとなっているかもしれませんが、ご笑納ください。

 ライトノベルはなぜ軽んじられるのか、それは、そもそもライトノベルが子供向けであるという社会認識から生じていると考えられる。
 子供向けだとどうして軽んじられるのか?
 それは即ち、一般的な社会において、子供とは大人になるための通過点であり、子供と大人は明確に別れているもので、いずれ子供は卒業して大人にならなければならないという社会認識に従っているからに他ならない。
 大人と子供を明確に区分する社会認識は、このような言い方は好まないが、所謂、秘境に住む先住民から、我々のすむ日本まで幅広く共通している。
 そう言った点から鑑みると、人類普遍の価値観といえる。
 たとえば、蔦を足に巻き付けて、高い櫓から飛び降りたり、ある高さの岩を飛び越えたりといったことをする、成人の儀式などのイニシエーションにそれは顕著であって、明確に子供と大人を区分し、対立関係を形成する事を要求する。
 これらの儀式は、それを通過する事によって社会に受け入れられる資格がある者が、大人と見なし、通過できない者、あるいはその資格がない者が子供として分ける。
 つまり、その区分は社会の秩序を構成するものとして行われるのである。
 となれば、ずっと子供でいるという者−ここでは子供向けのものを含む−は軽蔑の対象となり、半端物として扱われることになる。
 故にライトノベルは子供のものであるから、大人になりきれず、社会に受け入れられない半端物として侮蔑の対象とされるのである。
 もっとも、近代の日本では子供向けのものに拘泥していても蔑視の対象とならないし、それらは社会的地位もあるとの反論もあろう。
 だが、近年の日本に置いてこの区別が曖昧となったのは、団塊の世代の子供達以降で、子供が経済の主体となるといった、今まで考えられなかった時代環境においてのみ成立しえた、いわば例外といえるものであることを忘れてはならない。
 例えば、キリスト教圏、イスラム教圏は、社会的な区分がハッキリしている。一例を挙げれば、西洋における漫画がそうである。これは私が語るまでもないほどに有名だろう。向こうの人は漫画はあくまでも子供のものであり、大人が読むなど先ず考えられない。
 斯様に子供向けのものは基本的に卒業するべきもので、端から大人向けのものと同じ土俵に立たせてもらえないのだ。テレビ局では、アニメやら特撮やらに関係している本社の人ははジャリムケとして大層肩身が狭いそうだし、出版社に置いても、漫画の担当者は小説や雑誌に比べ、軽んじられるという。
 畢竟、この社会認識自体を完全に変革させる以外にライトノベルへの嘲弄を打破することは出来ないのである。

追記:もし、この書き込みがスレッドの趣旨に合わない、あるいは見当違いなことをいっていると思われたなら、削除して下さいませ。

140 名前 : 海燕 投稿日 : 2004年06月21日(月) 07時16分01秒
>ジーコにしろHIDEにしろ、なぜか「超一流」の選手にかぎって、大事な場面でPKはずしたりしちゃう。

それはふつうの選手が外しても特にどうとも思わないけれど、ベッカムが外したら「ベッカムなのに!」と強く印象に残るということなのでは。

>日本のサッカーファンはこないだのW杯で世界じゅうのお客さんを驚かせ、感激させた。

だからいまいち強くなれないということもあると思うんですけどね。韓国のファンとか、熱かったもんなあ。選手は(あんまりフェアじゃなかったけど)とにかくもベスト4だし。ただ、まあ、それが「日本人らしさ」ですから。日本人の特性のひとつとして、なんでもすぐに水に流して忘れてしまう淡淡しい国民性があると思うんですけど、ワールドカップのときはそれが良い方向に出たのかもしれません。試合結果はともかく。なんか知らないけれど、日本人は「お客様」に対しては非常に親切にふるまう国民かもしれない。

>まじめ文学においても、何度かチャレンジされてるのに、なかなか成功しないのは、たぶん方法論が違うからなんですよね。

成功したら文学とは呼ばれないだけなのでは(笑)。スタンダールなんて現代でも一流のエンターティナーとして通用すると思うんですけど、あまりそういう読まれ方はされませんよね。「赤と黒」あたりは、いまの読者はジュリアン・ソレル萌えのキャラクター小説として読めるのとちがうかな。二人称小説だと、北村薫の「ターン」が印象に残っています。この小説、ときどき地の文と主人公が会話しながら物語が進んでいくんです。つまりこんなふうに。

 きみは花を見た。むかし、これに似た花を見たことがあったね。
 「そうね。いつのことだったかしら」

文章自体は僕の稚拙な創作ですが、だいたいこんな感じ。念のために言っておくと、地の文に人格があるわけではありません。だから主人公がいったいだれと会話しているのかという疑問は沸くんだけれど、それは最後のほうで一応解決する。まさに北村薫の超絶文章技巧があって初めてなしえる小説といえましょう。

>ライトノベルはなぜ軽んじられるのか

僕はやっぱり軽んじられてもしかたないようなものも多いと思うんですけどね。下品だったり低俗だったり幼稚だったり。僕はどんなにヒットしていてもくだらないものはやっぱりくだらないんじゃないかと思う。部数だけを問題にするなら、日本には「脳内革命」以上に売れた文芸作品は存在しないのです。

141 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月21日(月) 10時49分16秒
与那里さん、こんにちはー。ようこそですー。

>近年の日本に置いてこの区別が曖昧となったのは、団塊の世代の子供達以降で、子供が経済の主体となるといった、今まで考えられなかった時代環境においてのみ成立しえた、いわば例外といえるものであること

そうですね。
どこを「分岐点」と考えるかに関してはさまざまな考えかたがあるかと思うのですが(明治維新とか、第二次大戦後のパラダイムシフトとか)ご指摘そのものには納得がいきます。

あくまで「印象論」なんですけど、ムカシの親はそーとー厳格で怖かったらしい。コドモにはコドモの考えや好みがあり、あまつさえ「親の知らないつきあい」などまである、なんてことを、大勢の親がなんとなく認めざるをえなくなってるいまの日本社会というのは、世界的に見ても珍しいかもしれない。

コドモがオトナになる、ならざるを得なくなる、には、ふたつのエポックがある、と誰かの著作で読んだことがあります。
ひとつは、性的に成熟すること。
もうひとつは、経済的活動をはじめること。
この考えにあてはめると……いまどきの「コドモ」さんが「真にコドモのまま」でいられる期間は実は、かつてよりは短そうです。自らの性的価値をなんらかのかたちで使ってでもブランドのお洋服やケータイ使用料金を「稼がなきゃならない」と感じる少女たちなんていうのは、もうきっぱり「コドモではない」はずですから。
かといって彼女たちが「オトナ」かというと、それもどうなんでしょう、アヤシイ。それぞれのご家庭の雰囲気にもよるかもしれませんが、親たちと「対等」にオトナをやっているとは、まだ言えないような状態……ふるいことばでいえばモトラリアム……にけっこう長い期間安住しているような気もする。パラサイトとか、そういうかたちで。

なかば「コドモ」のままでいながら、場面によっては「コドモではなくなる」、二面性二重性の高い自分を無意識のうちに巧みに使い分けるのが多くのワカモノにとってごく自然であたりまえなので、「大人になりきれず、社会に受け入れられない半端物」は少なくない。それは親の世代から見れば「侮蔑の対象と」いうか、まぁ、考えてみれば、いいかげん迷惑なはずですよね。オトナならちゃんとオトナになってしまってくれればいいのに、いつまでもムスコ・ムスメ面をして、なにかと心配かけたり、スネかじってたりして。

でも……ほんと改めて考えると不気味だし申し訳ないんですけど、何を隠そうわたしコドモです。45なんですけど。まだ両親は「たよれる親」「甘えられる親」で、自分は「目にいれても痛くない自慢の娘」なんだなぁと感じますから。

そういう日本は居心地がいいし、そういうウチは居心地がいいんだけど……わたしがいわゆる「おとなウケする小説」が書けない、どうもそのカンドコロがわからない、のはこのせいかなぁ。






142 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月21日(月) 11時10分08秒
秋月さま。アホアホLOVEサッカー談義のスレたてましょうか♪……いや、うそうそ。

キャラクターうんぬん。
うーんと、秋月さまが言及しておられる小説をすみませんまるで読んでないので、残念ながら、そのかたがたのどこがどういうふうに「カッコいい」のか「魅力があるのか」ちょっとわからないです。機会があったらぜひ読んでみますです。ごめんなさい。

あのねー、別のスレで、純文学系の小説が読みにくいのはキャラに感情移入がしにくいからじゃないか、自分が投影しにくいからじゃないか、みたいな話があったときにも「あれー?」と思ったんですけどー。

わたしにとってはキャラにはいりこめるかどうかって、ライトノベルもジュンブンもあんまり関係なくて。なんかそのやってることとかが「うへー」だったり「トホホ」だったりすると、来るかな、みたいな。
たとえば、井伏鱒二「山椒魚」の悪党サンショウウオは、かなり他人ごとじゃなかったりします。自分がアホでなんかハマッちゃったとこから出られなくなったからって、グレてたまさか紛れ込んできたカエルさんとかにまで、やらんでもいいイジワルしたりするざましょ。「ああああ、やだなぁ。みにくいなぁ。あたしにそっくり」と思っちゃう。
好きかといわれればクビをひねりますが、自分に自分をつきつけかえされる衝撃はあります。なんつーか……人間ドックとかで、アヤシイ腫瘍がみつかっちゃった、みたいな? もちろんけっして嬉しいわけじゃないけど、指摘してもらわかったら手遅れになるとこだったよありがとう、みたいな。

コレに対して、極端な性格や行動パターンやキメゼリフを付与されて、なんらかの役割分担をになわされているだけの典型的キャラのほうが、正直、感情移入はしにくい。そういう登場人物ばかりが出てくるものでも、うまく作ってあれば、もちろん楽しんで読むことはできますよ。いわば、ドリフのコントとか、大衆演劇を見るように。「アホー」って笑ったり、「きゃーカッコいー!」って感じたりして、愉快痛快爽快になれる。そういう場合には、むしろ、お約束はきっちり守ってもらって、「こうなるだろうな」と思うとおりにあくまであるようになっていて、ハズさないでもらうほうが安心して楽しめる。

キャラを「カッコいい」とか「魅力がある」とかって感じるのはこのふたつでいうとアトのほうかなぁ。そういうのも好きなんですけど、どっちかというと、あくまでどっちかというと、「ああ、こいつは(この部分は)自分だ」ってキャラをみつけてしまうのも、かなり好きだな、わたしは。秋月さんは?








143 名前 : 与那里 嘉久 投稿日 : 2004年06月22日(火) 00時43分52秒
 くみにゃ様へ。
 まさか、くみにゃ様からご返答が来ようとは思っていなかったので、大変恐縮しています。
 当方、ぼくらの七日間戦争からライトノベルへと進んだものですが、その転機が小説ドラゴンクエスト犬世辰燭發里如ΑΑ
 『魔法少年育成センター』シリーズも買ってます。
 有り体に言えばファンです。まあ、ここを覗いている時点で分かり切ったことですけれど。
 ですから、反駁するのは口が憚られるのですが、私なりの意見を書かせて頂きます。

 さて、
>コドモがオトナになる、ならざるを得なくなる、には、ふたつのエポックがある、と誰かの著作で読んだことがあります。
>ひとつは、性的に成熟すること。
>もうひとつは、経済的活動をはじめること。

とのことですが、私は現在の「オトナ」と「コドモ」の区別は、そのひとを形成する構成材料が、社会的に「オトナ」と「コドモ」のどちらにより多く属しているかによって判別されているのではないか、と思っています。
 近代社会では、こどもは自我が目覚めるくらいには働いています(場合によっては親に働かされているのが現状だったかもしれません)し、口減らしに売られたこどもは幾つであっても売られた時点で経済的活動を始めます(ハッキリ言えば自分の買い戻しです)から、「経済的活動をはじめること」を「オトナ」になることとすると、近代までの社会では「コドモ」が存在しないことになってしまうので、私はその論に同意しかねるのです。
 そしてそのどちらに属しているかを大体で推量し、「レッテル」を貼るのは共通の社会認識である「世間」です。
 昔の私は、ライトノベルは総じて程度が低く、持っていて恥ずかしいもので、大人のきちんとした人間の読むものではないなどと思っていたものですから、軽蔑する人間の気持ちも分からないでもないのです。
 むろん、今はそんな気は毛頭ありませんが。
 そんな私が転向したときこう思ったものです。
 「世間はレッテルで判断する」と。
 「レッテル」とは、それを形成するものが社会的に何処に属しているかを判別するためのものです。 
 「世間」は、物事を単純化し、それが社会にとってプラスであるかマイナスであるかの二元的に考えるものであり、その二元的に考える一因となっているのが「レッテル」であると私は思っています。
 そこから考えますと、先に述べたように、経済的に自立することが「オトナ」になる条件ではなく、その人間を構成しているものが、「世間」から「オトナ」と「コドモ」のうち「オトナ」に属しているものを多く所持していると認められること、すなわち、「世間」から大人であるとの「レッテル」を貼られることが「オトナ」となることであると考えられます。
 また、先述の子供と大人は明確に別れているもので、いずれ子供は卒業して大人にならなければならないという社会認識自体が「レッテル」なのではないかとも思っています。

 この「レッテル」貼りの好例が、−たしか『魔法少年育成センター』でも書かれていたように記憶していますが−犯罪だと考えます。
 ある出来事を犯し、犯したと類推されたものは、メディアやら、「世間」の評価によって、犯罪を犯した人間そのものであると社会的に認知され、犯罪者の「レッテル」を貼られます。
 そして、その家には無言電話や、自称正義の味方の嫌がらせ電話がかかったり、近所の噂となったりします。
 かれらは、その罪を償おうとも、他人からはけして昔と同じようには扱われません。
 既に貼られた「レッテル」が、その人を社会と異質なものであると証明しているからです。
 「レッテル」が一度貼られると、もはやそれはずっとついて回るのです。
 これは、社会的に「レッテル」が貼られ、その「レッテル」が悪い方向に行った例です。
 メディアが執拗に犯罪者のプロフィールを洗いだし、「世間」の一般人と違うものを見つけ出そうとするのも、この「一般人と違う」という「レッテル」が貼りたいためでしょう。
 「一般人と違う」という「レッテル」を貼ることによって、犯罪が自分たちの「世間」と隔絶した、異質なものであるという社会的通念を植え付けることができ、彼らは自分たちとは違う特異なものであると相対化でき。
 それによって、自分は犯罪者にはけしてなりえないとの安堵感をつくりだせるのですから。

 そう、「世間」の評価とは「レッテル」にほかならないのです。
 そして、「世間」はその「レッテル」が何を示し、プラスマイナスのどちらで付いているかであらゆるものを決めるのであると考えます。

 例えば、どんなに内容が低俗かつ幼稚であり、明らかに科学的におかしく、その上下品で、特定の人間に対して悪意を持った本であっても、それが素晴らしいものであるとの「レッテル」が貼られれば、それはベストセラーとなる。
 逆に幾ら素晴らしい本であっても、それはダメなものだという「レッテル」が貼られれば売れないし、けしてベストセラーとまではいかない。
 そう考えています。
 また、先にも述べましたように、その「レッテル」が一度貼られると、もはやそれはずっとついて回ると私は考えていますので、「コドモ」向けと「レッテル」が貼られた作品はいつまで経っても「コドモ」向けであり、「オトナ」向けにはならない。
 だから、大人向けとライトノベルとのペンネームを使い分けている人が多いのではないでしょうか。
 
 
 以上が私の見解です。くみにゃ様の見解の反駁となっているかどうかは定かではありませんが無礼を働いていないことを祈りつつ、ここで終わらせて頂きます。

追記:もし、この書き込みが、やっぱりスレッドの趣旨に合わない、あるいは見当違いなことをいっていると思われたなら、削除して下さいませ。
追記の追記:これって、範囲的には社会学ですよねぇ?私は門外漢なので、おかしければ突っ込んで下さい。

144 名前 : 秋月流奈 投稿日 : 2004年06月22日(火) 01時04分09秒
小説でもなく、文章でもなく、たった一言で心に響く言葉もある。
くみにゃさま。すみません。僕は逃げようとしてました。いや、正確には自分はこの掲示板の主旨に合ってなくて、サッカーの話しかしてなくて、本当は他の皆さまの迷惑になってしまってるんではないかとか思っていたのです。ただ、くみにゃさまに返事を返して頂いたから、削除になってないだけかもとか。
後は、仕事がお忙しいのでコラムを終了されたのではないかと思っていたので、こう頻繁に返事を返して頂いてしまって、本当にいいのかと思ったのです。前回の書き込み(久美さまのコラム19回に対してたった2回ですが)を最後にしばらく離れる心積もりで、くみにゃさまのお返事を読ませて頂きました所、最後に秋月さんは?
逃げようとしたら、回り込まれてしまった。
多分、この最後の言葉がなかったらこの書き込みはなかったなぁ。予知能力者ですか? くみにゃさま。それとも、本能的な勘ですかね。最後にこの一言入れたの。くみにゃさまは、単純に僕がどう思ってるんだろうと気になっただけなんでしょうが、もしかしたら、この一言がなかったら二度と書き込むこともなかったのかもしれません。
ご質問にお答えする前に、最後の言葉になぜ、一行目のような反応を示したのかを説明しておきます。
僕は、昔いじめられっ子だったんです。いじめられたことのない人は、いじめられる方にも問題があるように言います。それは、ある種事実です。でも、その理由は喧嘩が弱いから。これ一つだけですよ。本質は。強い奴はいじめられないでしょ。強くなれっていい加減なことをおっしゃられないように。
まず、最初にいじめられたのが幼稚園生の時でした。この時、僕は性格が暗くなりました。いつも一人になりました。暗いからいじめられる。何も知らない馬鹿は言っていればいい。いじめられたから暗いんだよ。好きで暗くなったとでも思ってんのかね。世の中は。
小学校でも、僕の弱者たる立場は変わりませんでした。初めて、死にたいと思ったのも人を殺したいと思ったのもこの頃だと思う。
小学校、中学校あたりかな。一番自分が危険だったのは。それは、それなりの教養を身につけてから。僕は、人間に絶望したし、社会に絶望したし、この世界に絶望した。
そして、神を呪った。
神に対して殺してやると言ったこともあるし、今すぐ僕を殺してみせろと言ったこともある。
この頃にこういう思想をしてたから、前に中学生で殺人事件があって大人が驚いてた時、僕は少しも驚かなかった。むしろ、僕の犯人像の中には小学生も入っていた。
こんなこと書くと僕は危ない奴みたいに思われるんだろうか。しかし、問題の本質はここからですよ。この時の僕がいつも思っていたことは、自分は必要とされない人間。居場所がないってことだったんです。
逆に言えば、誰かに必要として欲しかった。いてもいい場所が欲しかった。ただ、それだけなんです。周りの人が何言ってるのか判らない。英語みたいに聞こえる。自分には向けられてない。そのことだけが判るんですよ。
ならば、せめて誰の邪魔にもならないようにと。それでも、いじめられる。暗い人生でしたよ。
だから、秋月さんは? と言う言葉をみた時、嬉しくなってしまったんですよ。本当、ありがとうございます。

質問の内容と少し変わるかもしれないんですけど、こいつは自分だって思えるキャラがいたら、もうそれはその時点で感情移入と同等じゃないですか。ただ、僕は暗い人間ですからね。自分に似たキャラなんて出てきた時は、最後まで生き残れんのかって感じではありますよ。確かに、でもどうだろう好きかというと。自分があまり好きではないものですからね。
でも、もし誰かが暗い過去があるサッカー好き。特にバッジョファンとかを書いてくれたら笑えます。始めから登場してたけど、一言も台詞なくて最後の最後に喋ったと思ったら、TOTOこれでいいと思う? そんなこと考えてて黙ってたのかよ。主人公がとりあえずマリノスは勝ちでとか言う。
何か結局、無理矢理サッカーの話になりましたね。いっそ合言葉にしますか。サッカーについて一言書いてから、自分の意見を書く。発言前の挙手の代わりにでも。

サッカーに限った話ではないけれど、何かのスポーツを小説にするってのはどうなんでしょうね。僕は結構スポ根好きなので、ライトノベルでもいけるんじゃないかと思うんですけど。ああ、そう言えば、読んでないけど銀盤カレイドスコープは評価の高いフィギアスケートものでしたね。
僕が今書いてみたいなぁと思っているのは、スノーボードを題材としたものです(ちょっと百合っぽい)。
余談ではありますが、アニメではカレイドスターが大好きです。どれくらい好きかと言うと、テレビで1回見たにも関わらず、DVDをBOXで全巻購入したくらいにです。約12万かかりました。馬鹿だ。
だけど、それだけの感動はあったのですよ。僕の中では、くみにゃさまにとってのDQと同じくらいです。僕が作家だったら、頭下げてでも小説版書かせて下さいって言いたいです。
時間があれば、借りてみて下さい。お薦めは、第1シリーズの後半からですね。前半は少々少女アニメの定番の印象を受けましたが、物語が佳境に進むにつれ無性に熱くなりました。

145 名前 : 伽海 凪 投稿日 : 2004年06月22日(火) 03時13分21秒
 こんにちは、再びお目見えいたします。
 今宵は台風の残り風が強く、逆に強風に吹かれるのが好きな私の夜のお散歩には気持ちが良かったのですが、皆様のお住まいの地域やご友人の身の周りは大丈夫だったでしょうか?

 この二、三日の間ずっとライトノベルのことについて頭がいっぱいで、他のことが往々手につかなくなり困ります(笑)。
 
>くぼひできさん
 はい、時海さんとのコラム、とても参考になりました。
 方法論の違いとは一体どこから生じてくるのでしょう? その辺りが、ライトノベル=軽文学? と純文学を明確に分けるなにかであるのでしょうか。
 やはり私にはどこが違って差異が生じるのかよくわからないです。
 二人称はライトノベルではあまり見られないですよね。二人称のあなた、君は読者ではないのですから、『読者を巻き込む方法』としては(文学的な価値とは関係なく)少々見当違いのような気もいたします。


 子供・大人の関係や品についてのお話がでましたが、それぞれのご意見を読んで考えますと、ライトノベル軽視の風潮は漫画軽視と深いつながりがありますね。覚えがあります。ライトノベルを読んでいると、私もよく母に「またそんな漫画みたいなもの読んで!」としかられました。
 しかし、そもそも漫画は何故軽視されるのでしょう? 子供のものだから? じゃあどうして全国の何百の『大人』が必死で漫画を描くのでしょう。出版するために奔走するのでしょう。
 それに日本の漫画やアニメは、世界的にそれなりの評価を受けていると聞き及んでいるのですが……表面でだけですか? それとも日本の認識が他と違うのでしょうか。

 時代のせいですか。今でさえ世界的トップレベルの女優は王様とも結婚できるようですが、100年ちょっと前までは、少なくても日本では、女性がモノを演じるということは蔑みの対象でしたよね。小説家もずっと昔はそうだったらしいですし。歌舞伎役者も成立したてのころは籠を頭からかぶらないと外を歩かせてもらえなかったこともあったとか。

 品やスタンダードというのは時代によって移り変わってゆく。大抵、比較的新しいものは軽視される。でも長く続くと、軽視する世代が絶え(という表現しか思い浮かばなくて……)主流がそれを重んじる世代になると大々的に認められる。
 漫画やライトノベルもその一つだとしたら私が婆になるころには漫画もライトノベルも立派な文学のうちに数えられているかしら?
 私が死ぬ前でも後でも、結局はそうなるような気もしないではありません。だって、漫画って、ライトノベルって人気ありますもの。今喜んで漫画を読んでいる子供達が、大きくなって、よっぽど漫画で嫌な思いをしない限りは漫画をいきなり蔑視しだすとは思えない……。
 好みが変わって読まなくなったとしても。否定してしまったら幼い自分を否定してるのと同じになってしまう。
 ドラゴンボール好きだった人が「漫画なんてくだらない」と言っているのみたことありません(いや、確かに私の見識は狭いですが)。

 確かに、下品で幼稚なライトノベルもありますけど、そうでないのもいっぱいありますぅっ。
 だからやっぱりここは命名改革をー(笑)。
 漫画絵挿絵=ライトノベル=くだらない、はあんまりだ。アバウトすぎる。
 くだらなくて(くだらないから)面白いのも、下品で(下品だから)面白いのも、常に需要がありますし、それの価値は否定できるものではありませんが、それと『そうでないモノ』が一緒になってるのは、変だ。絶対変だ。それがすべてではないのに、あたかもすべてかのように言われるのは変ですよぅ。

 ……よく考えてみると、子供の読むもの=くだらないというのも子供に感性を認めない差別的発想ですよね。


>久美先生
 すいません。どうも私、先生の言う「ライトノベル」の定義を誤釈していたようです。
 先に私の言った「ウィズキャラ(仮)」には、キャラの立ちが典型的、といった意味は含まれません。

 そして秋月さんへのレスに横レスしてしまいますが、感情移入=視点保持者との一体感は、私も純文学のほうが高いと思います。主人公に自分を見つけて、『身につまされる』感覚が強いです。
 でも「いやーん、ステキー! カッコいー!」「キャーーっ!!」といいたくなるのは後者。むしろこれは完全に感情移入しない=本人にならない、からそういえるともいえるのかもしれません。カッコイイというのは客観的ですよね。

 感情移入することと自己投影することは微妙に違うと思います。自分をキャラに見出すのも違う……のだと思います。
 自己投影は少なからずナルシシズムが入っているような。
 感情移入型が純文学で自己投影型がライトノベル……。

146 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月22日(火) 12時27分46秒
与那里さま。

>近代までの社会では「コドモ」が存在しないことになってしまう

あいにく、そうなんですよ。与那里さまは納得しがたいとおっしゃいますが。
いまふつうに通用しているところの概念「コドモ」は、社会がそれなりにゆたかに安全になってはじめてできたものなんです。

ムカシは、あるいは文化圏によっては、もしくは、ひとによっては、コドモはケダモノ同様、「まだ人間じゃない」ものだと考えられていたし、います。いまでも無意識的にそう思ってしまっているひとは、少なくないかも。
コドモ、と オトナ、を、べつべつなもの、等価に対立しているものなどと考えるのではなく、あくまで、コドモはオトナに(人間に)なれないでいるもの、やがてオトナになるはずだ、というふうに捕える。ほとんど昆虫ですね(笑)。たまご→幼虫→サナギ→成虫、とかね。
これは最近のライトノベルでは幸いにも(?)どっちかというと少数派になっているというマチズムに通じる考えですね。
世界は野蛮で危険で、オトナの男の頑健な肉体を持ったものだけがそこを生き抜いているのだし、支配しているのだ、みたいな。
女性に対して、MANではない、よって人間ではない、みたいな考えをもっている文化などは「先進国」の圧力が強くてだいぶヘコンできたみたいですが。

人間じゃないものには権利、人権なんか「ない」と。『こどもの権利条約』なんつーものが成立したのは、そういう経緯があってのことですね。赤ん坊にオッパイをやるのは英語では「feed」ですが、これなど、ペットにエサやるのと同じ単語です。

逆に、だから、性か経済活動かのどちらかがともかくギコチナクでもはじまったら「一人前」にはすぐなれないまでもとりあえず「半人前」にはなったものと判断し、権利を与えるかわりに、それなりの最近はやりの「自己責任」のほうもビシバシ問うようになる。半人前でも、いちおー、個人なので、そういう扱いをするようになる。

いったん「個人」になったと判断すると、おもに一神教の文化圏では、親とか家族とかとの結びつきもさることながら、もう「神と個人」の関係のほうが大事ですから。そっちの個人契約で生きていけ、みたいなフウチョウが高いですからね。米国など、高校生が授業料を自分でバイトして払ったりしてる様子がアチラの小説などによく出てきます。
「はやく一人前に稼ぐようになる」ことを十代などではまるで期待されないコドモというのは、そういう社会では、貴族王族や、一部の特権エリートだけなんですね。英国階級社会ではいまだにその差が顕著ですし、アメリカでも『死せる詩人の会』の映画版(邦題なんだっけ? ぜんぜんピンとこないタイトルにされちゃってたからなぁ。ロビン・ウィリアムズがおハイソな全寮制の男子校で詩のセンセイの役をやるやつ)とかに「そういう文化」が出てきますですが……昭和の最後の頃バブル前の高度成長期の日本などは「一国ほとんどまるごと」そっち指向だった、いわゆる国民の9割が自分を「中流」を意識していたという、とっても珍しく、グロテスクなぐらいに均一性の高い社会でした。不況の世の中になってきてだいぶ変わってきたと思いますけど。

フランス革命の頃の「しょみん」が見たら、いまの日本っていうのは「プチ貴族ばっかり」いるみたいに見えるでしょうねぇ。
そのくせ、大陸由来の「儒教」的倫理観やら、年功序列的な感覚やら、男尊女卑やらも、まだまだ強い。だから教育熱心だし、試験とかダイスキなんだけど、かといって、アメリカンドリーム的イッパツ逆転のチャンスはあまり与えない。世界レベルのすごい個人にも、個人の特権をみとめたがらず、組織でその果実を分配しようといいたがるので、青色LEDのひとが裁判おこしたりしました。金メダル級のスポーツ選手なんかも、社会的地位もその経済的な恩恵も「イッパツ逆転」社会からくらべると、そーとー低い。

いまのニッポンは、おーざっぱにいえば「アメリカ的」である部分と「アジア的」である部分のめったやたらなごっちゃごちゃであると。その場その場でうまく使い分けができているうちは便利でいいんですが、……あるいは、ある立場のひとにとってはとっても都合がいいけれど、その周囲の「個人」にとっては冗談じゃないよ! だったりすることも多々あり……何か問題が起こってキチンと考え抜こうとすると、この両方から自由になれないおけがで、余計にわけわかんなくなっちゃうんですねぇ。

レッテルの問題に関してはおっしゃるように『魔法少年育成センターこと鑑別所3』でちょっと考えこんでみましたです……結論なんかそーかんたんに出ないですが……ムリにはがすと痛いけど、ヤダなってものがはられちゃったら、上にどんどん別なもんはってもらえるようなことしちゃうのもひとつの手かと。

秋月さま。どうしましょう。わたしごときのなにげないひとことでそんなに? ああ不用意な発言はつつしまないと。
実は2002年に、ワールドカップにブツけて『聖戦』というタイトルのサッカーものを出したかったの。基本はアホで、ブラジルとかイタリアとかサッカー強い国ってやたらカソリック多くないか?と気がついた、というあたりで。パパさまローマ法王(仮名?)が「新世紀最初の世界大戦に主の栄光をたたえよ」とかなんとかいったもんだから「バチカン市国」がサッカーチームを作ってW杯に参加してくることになって、カソリック強国の若い選手とかはどんどんヒキヌキにあい、キック前に十字を切るようなタイプの有名選手はみんなバチカンに国籍うつしてしまい(W杯はFIFAの規則でどっかの国の代表に1度なったらで出場したら別の国の代表にはなれないことになっているけど、東ヨーロッパでちっちゃな国がいろいろできたりとかした時は例外扱いだったから、バチカンもとうぜんそれをゴリおしする)、世界最強の誰がみてもそこが勝つだろってチームができちゃう。これに果敢に対抗せんとするひとりが仏教徒であるバッジョあるのはいうまでもない(笑)。どっかの開催国は、もちろん、サムライ・シントーイズムを前面に押し出し、ヤタガラス旗のもと、勝利をめざすのだー!
……って、ひとりではとてもタイヘンそうなので、サッカー好きな東野司さんに「いっしょにかこうよ」とかっていったりしてたんだけど……有名選手が「そのひと」らしく出てこないことにはおもしろくないじゃん? それって、肖像権とかどうなるのかアヤシイなぁと思ったし、そもそも、イスラムとかをめったな書き方をして暗殺者おくりこまれたくなかったので……ボヤボヤしているうちに間に合わなくなってあきらめてしまったのでした。
カレイドスターって、ごめん、知らない……探してみます。
ああ、世の中には知らないものがたくさんたくさんありすぎる!

とぎみさま。たぶん回答はこれ。知らないから。
団塊の世代以前のひとたちはあまりマンガが読めない。読んだことがないから抵抗値も高いらしく、そもそもどうやって読むのか(どのコマの次がどのコマなのかとか)知らないから、ものすごく読みにくく感じてしまうらしい。あっもちろんここでいっているのはストーリーまんがで、サザエさんとか、のらくろとかはずっと前からあったんですけどね。

でもって……何かを「知らない」とか「わからない」とかっていうのを認めるのに、すんごく抵抗するひとっているよね。負けず嫌いというか、クワズギライというか、それを理解しないということで自分の価値が低くなっちゃうみたいな気でもするんだろうか。見くびられたりバカにされたりするのはどんな場面でもゼッタイにイヤなのだろうか。よくわからないもんは「いらない!」「くだらない!」って言い切っちゃったりとか。
かと思えば、何をみても「へぇ」っていうだけで、「だからなんなの?」とばかりに、話半分聞き流すひともいるし(笑)

話がぐるぐる回るけど、その点コドモはすごいと思うなぁ。なんでも聞きたがり、知りたがり、見たがり、わかりたがって。わかんないってことがぜんぜんはずかしくなくて。
トトロのメイちゃんの(なにをみたとこだっけ?)注目する「目」のドアップのとこを見たときに「うわぁ」と思った。最近こんな目でモノをみたことがあるだろうかワシ? と自分ツッコミをしてしまった。

わかんないもんを「くだらん!」「わしゃいらん!」って拒むオトナになるぐらいなら、一生、コドモで、あんな目をするメイちゃんのほうでいたいです、わたしは。














147 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月22日(火) 12時32分16秒


………………  いかんーーーー!  ………………

きょうもシゴトもせんと昼になってしまったではないか!
きのうは台風で、なんだか血がザワザワしちゃってシゴトどころじゃなかったってーのにっ!

みなさまわたしはレスをひかえます。みちゃうといいたくなっちゃうからROMももしかしたらひかえます。ゆるして。

148 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月22日(火) 12時39分24秒
っていってるそばから。
こどもの発見とかです。

http://www.tabiken.com/history/doc/S/S294C100.HTM

149 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月22日(火) 12時43分35秒
さらにいってるそばから。ルソーってえらそーなこといいながらメイドさんに産ませたこども何人もほっぽらかしまくったひとだよね。理屈は言えるけど実践はむつかしいってこと?

150 名前 : くぼひでき 投稿日 : 2004年06月22日(火) 14時57分27秒
久美さま
言動と実践が一致しない思想家・作家はいっぱいおりますので、ご安心を。
マルクスなど、
「わたしの人間としてのいい部分はすべて文章に出ていて、それ以外はくずだ」とかそんな感じの発言をしていると、シモーヌ・ヴェイユが言っているそうです(ひ孫引き^^;)。

で、こどもの発見ですが、
引いていただいたリンクにもありますように、
アリエスという人の『児童の世紀』にくわしいです。
けど、これは「社会学的な児童」で、
「文学的な児童の観念」は、柄谷行人の『近代日本文学の起源』に「児童の発見」というのがあります。
ちなみに、両者は違うものです(たまに両者を混同したり、柄谷氏がアリエスをぱくったとかいう人もいるので。いちおう念のため)。

柄谷氏の言い分を乱暴に要約すると、
日本近代文学における「児童」は、
「風景」と同じように、心象から発見されたもので、実際に発見されたものではない。
観念としての児童にとらわれず、子供の心を描けたのは樋口一葉だけである。
とそんな感じでした。
けっこうおもしろい論考です。講談社文芸文庫で入ってますが、もうすぐ岩波書店から、増補がでます。

わたしもあまりログ・カキコしてる場合じゃないんですが、今、気になったのでそれだけ。
お目汚しでした。

151 名前 : 秋月流奈 投稿日 : 2004年06月22日(火) 22時42分00秒
くみにゃさま。
毎回書かなくてもいいと思います。
仕事第一で頑張って下さい。
『聖戦』。内容読んで笑ってしまいました。何かもったいないですね。でも、宗教が絡むと難しいところがあります。神に対する侮辱だとか言われたら怖いですからね。
あとこんなのはどうですか。邪神を崇拝する国が、魔界の扉を開いて魔獣や魔神を自分達の足に憑依させて、最強の軍団をつくった。シュート打ったら魔獣がDFを吹っ飛ばす。
ブラジルもイタリアも敵わない。
で、困ったFIFAが日本に来て驚いた。シュート打ったら、大仏が飛び出した選手がいる。仏教徒のバッジョ。
他にミカエル打てる奴とかオーディーン打てる奴とか東京タワー打てる奴とか日本テレビを消せる奴とかを集めてチーム結成。
ここにサッカーの神対悪魔の戦いが始まる。ちなみに新生日本代表の監督はペレ。なぜかは言わなくても判る。

『リーマン岡田のサッカー観戦奮闘記』を執筆しようか迷っています。リストラ間際の中年サラリーマンが、自分から辞表出してドイツにW杯を見に行く。
これは、果たしてライトノベルなのか?
完成後は一体どこに送ればいいのか?

伽海様。僕宛ではないようですが、名前があったので。
感情移入は、自分もそう思うことの共感。
自己投影は、自分もその場で体験する体感。
それともう一つ。
自己陶酔は、自分を見出す快感。
この分類でいかがですか?
で、感情移入型が純文学。これは共感することが多いから。つまり、現実がリアルに描写されているから。登場人物が実在の人物として身近に感じられる。
で、自己投影型がライトノベル。これは憧れることが多い。つまり、幻想がリアルに描写されているから。世界や登場人物が身近に感じられない。だから、不思議な世界や魅力的な登場人物に近付きたいという思いが、自分を作品の中に置く自己投影という形になる。これは、アイドルのファンクラブに入ったり、好きなバンドのライブに行ったり、サッカーの試合を観戦するのとも同じ。自分がアイドルやサッカー選手になる(自己陶酔)わけでもないし、同じことを感じる(感情移入)わけでもないのに、見るという体験に満足を得るわけでしょう。
で、自己陶酔型がくみにゃさまが前に言っていたラノベもジュンブンも関係ない。つまり、自分に似た部分が描写されているから。それを感じるのは作品ではなくキャラ(登場人物あるいは物の場合もあるので)。自分に似たキャラを見つけるのは、純文学だけ読めばいいというものでも、ライトノベルだけ読めばいいというものではない。だから、見つけた時にある種の快感を得られる。
でも、僕は純文学だからライトノベルだからと言うより、これは人それぞれの読み方の分類だと思う。つまり、一番自分がどの部分に文学的快楽を得られるのか。
だから、感情移入型の多い純文学(全部がそうとは言えないと思うので)を好きな人が、自己投影型の多いライトノベル(これも全部とは言えないと思う)を軽視するというのは、快楽を感じられないからで、その逆もまたしかり。
例外の自己陶酔型は、作品の中に自分がいると脳内麻薬が分泌されて、アルコールの回った状態になるから純文学かライトノベルかはどうでもいいわけです。
くみにゃさまのいない間にまともなことを書いていたりして。やっとこのスレに相応しいのが書けたんじゃないですかね。

152 名前 : NoName 投稿日 : 2004年06月23日(水) 03時19分19秒
 くみにゃ様、当方、大人と子供を明確に区分する社会認識は、遥けき古代よりずっと存在しつづけていると考えていますし、つい最近まで『いまふつうに通用しているところの概念「コドモ」』ではない「子供」の概念の方がふつうであったと考えています。
 それは、
>コドモはオトナに(人間に)なれないでいるもの
と言う概念に他ならなかったのではないかと愚考します。
 即ち、未成熟対成熟という対立構造が存在したと考えられるのです。
 これはけして等価対立ではないものですが、対立構造には違いなく、明確な社会区分であるといえるでしょう。
 未成熟でオトナとなるには不要のもの、持っていては問題があるものを「子供」とし、「世間」に認められたものを「オトナ」として分けていたと考えています。
 つまり、私は、『いまふつうに通用しているところの概念「コドモ」』を使ってはいないのです。
 この点、言葉が足りませんでした。申し訳ありません。
 
 そしてこれを分かつものが、儀式であるとかんがえています。 
 古代における「オトナ」と「子供」を分かつ儀式とは、その人間が一定のレベルまで達したという証明を行うものであって、貼られた「レッテル」でどちらであるかを分けることに他なりませんから、経済は「オトナ」と「子供」を分かつ要因ではなく、分かつものは、儀式であり、「世間」によって貼られる「レッテル」であると私は思うわけです。
 故に、
>経済的に自立することが「オトナ」になる条件ではなく、その人間を構成しているものが、「世間」から「オトナ」と「コドモ」のうち「オトナ」に属しているものを多く所持していると認められること、すなわち、「世間」から大人であるとの「レッテル」を貼られることが「オトナ」となることであると考えられます。
と書いたのです。
 くみにゃ様は
>だから、性か経済活動かのどちらかがともかくギコチナクでもはじまったら「一人前」にはすぐなれないまでもとりあえず「半人前」にはなったものと判断し、権利を与えるかわりに、それなりの最近はやりの「自己責任」のほうもビシバシ問うようになる。半人前でも、いちおー、個人なので、そういう扱いをするようになる。
とされ、性か経済活動かのどちらかの始まりを「オトナ」と「コドモ」を分かつ要因としておられる。
 この点で、 くみにゃ様とわたくしめとの意見が違っているわけです。

 しかし、私は
>子供と大人の区別が曖昧となったのは、団塊の世代の子供達以降で、子供が経済の主体となるといった、今まで考えられなかった時代環境においてのみ成立しえた、いわば例外といえるものである
と申しました。
 確かにこれでは経済が対立構造を分かつ要因であると言っているように取られてしまってもしかたありません。
 これは、本来分かたれるべき「オトナ」対「子供」の社会構造が、経済というものによって、「子供」の中から、経済対象となる「コドモ」が今までとは別に幻想として作り出されりことで、「オトナ」と「コドモ」の両方の「レッテル」を持つ者が現れだした結果、自然発生的に区別が曖昧模糊となってしまい、子供向けのものに拘泥していても蔑視の対象とならなくなったのではないかと考えたからです。
 なぜ、「コドモ」を経済の対象としたかと言えば、団塊の世代以降の子供達は所謂、ポケットが6つある世代(父親と母親とその祖父母で合計六人から金が貰える世代をこう呼ぶ)であり、この市場が「オトナ」を対象としていた市場より、シェアが大きくなったからと考えられます。
 経済は対象を明白化し、具象化せねば経済の対象にできません(どういった層にどういうものを提供するかを見極めて作らないと売れる商品にならない)から、「子供」を「コドモ」のまま固定し、経済の主体とする(コドモはこういった物を喜ぶと宣伝する)ことで、結果的に、一個人に於いて「オトナ」と「コドモ」が同時に存在することとなった(オトナが漫画というコドモ向けのものを読み出す)と考えます。
 となれば、完全な「オトナ」でありつつ「コドモ」でもあるという、成熟かつ未成熟といった矛盾を持った存在が生じることとなる。
 そうすると、社会の秩序が崩壊してしまうから、「コドモ」のものの社会的地位をあげ、「オトナ」のものとすることで、社会の秩序を再構成し直すようになる。
 これが、近年における「コドモ」文化の社会的地位の向上ではないでしょうか?

 ですから、私は、ライトノベルが軽んじられるのは、未成熟の証左である「コドモ」の「レッテル」が貼られ、それがまだ「オトナ」のものであると「世間」に認識されるに至っていないからだと結論付けます。

 どうも、レスが与えられたので舞い上がってしまい、しっかりまとめ切れていなかったようで、申し訳ありません。
 わかりにくい文章にレスをありがとうございます。
 お仕事に差し障るといけませんので、明らかにくみにゃ様向けの文章はこれきりにしますね。

追記:私は社会学者ではありませんので、偏見や、誤解が存在していると思っています。もし、これは違う、おかしいと言う指摘があれば、どなたでもどうぞ気楽になさって下さい。




>言動と実践が一致しない思想家・作家
で、当方、ショーペンハゥアーを思い出しました。
たしか、あの方は、自制こそ重要だと言いながら美食家であったとか。
でも、言動と実践が一致しないのが人間ですよねぇ?

153 名前 : 与那里 嘉久 投稿日 : 2004年06月23日(水) 03時20分13秒
あ、失敗した・・・
うえの文は私の物です。
ご迷惑をおかけしました。

154 名前 : 海燕 投稿日 : 2004年06月23日(水) 06時45分44秒
>「レッテル」が一度貼られると、もはやそれはずっとついて回るのです。

ラベリング理論ってやつですかね。最近直木賞作家になった石田衣良の「うつくしい子ども」は、若干13歳にして殺人者の弟を持った少年の物語ですが、そのなかにこんな言葉が出てきます。「この世界に生きているすべての人には、いいたいことや理屈がある。それがわかった。だってみんな自分が苦しんでいることを誰かに伝えたくてたまらないんだから。なにもいいかえせないぼくの家はいい標的なんだ。丸めた泥を思いきり投げつけるための」。

結局、ある事件に対する世間の反応というものは、その事件が起きたその瞬間に発生するわけではないということなのではないでしょうか。だれもがいつもなにかしらの主張を抱えていて、なにか象徴的な事件が起きると、それがそういった主張をぶつけるための焦点になる。だからこそ、殺人事件に対する発言が、ともすると幼児教育についての発言になったり、現代社会についての発言になったりする。うえの文章に倣うなら、ひとびとでは事件が起こって初めて泥をまるめはじめるのではなく、あらかじめ丸めた泥を抱えていて、それを思い切りぶつけるための対象を探している──そういうことなのではないかと思うのです。

>サッカーに限った話ではないけれど、何かのスポーツを小説にするってのはどうなんでしょうね。

ライトノベルではなく児童文学の括りになりますが、飛込みでオリンピックを目指す少年たちを描いた森絵都「DIVE!!」という小説があります。それはもうさわやかですがすがしく熱気と感動に充ちた素晴らしい作品でした。詳しくは自分のサイトに書いたので、もし気になるようでしたらお読みください。

http://d.hatena.ne.jp/kaien/00000102

で、昨今ではこういう「まっすぐに夢を追いかける少年」の物語を描くのは、大体女性なんですね。男性作家が正面から男性を描くと、「しあわせは子猫のかたち」とか「NHKにようこそ!」とか、ひきこもりとサバイバルの話になってしまう。男性作家が正面から夢を追う物語を描くためには、主人公を女性にする必要がある。名前が挙がった「銀盤カレイドスコープ」がそうですし、(小説ではなくアニメだけど)「カレイドスター」もそうですね。

僕はビデオで追いかけているので最後まで見ていないのですが、「カレイドスター」の男性陣は、チャレンジスピリットに満ちた女性陣に比べて、総じていまひとつ役に立たない。もちろん「ONE PIECE」みたいな稀有な例もあるので、なにもかもそうだとはいえないんだけれど、そういう傾向がある気はする。そしてここでも男性の役割はサポーターである場合が多いような。推理小説でいえば、名探偵が女性でワトスン役が男性という感じ。

>確かに、下品で幼稚なライトノベルもありますけど、そうでないのもいっぱいありますぅっ。

いっぱいかどうかはともかく、たしかにあります。「マリみて」なんか、現代ではほとんどありえないほど上品だし。で、仮にライトノベルが世間で見下されているとして、それがまったくの事実無根の言い掛かりなのかといえば……そうでもないかなあ、と僕は思う。やっぱりひどいのも多い。へたくそなのも多い。イラストだけ綺麗で、小説がそれにともなっていない例のなんと多いことか。

仮にスタージョンの法則(すべてのものは90%がクズである)に従って9割がクズだとして、残りの1割があるのもたしかなんだけれど、外部から見ればそれは全然目立たない。だから「クズばかりだなあ」ということになるのではないかと。したがって、「このライトノベルがすごい!」みたいな企画は意義があると思う。ひとつには埋もれた宝石を掘り出す意義、そしてもうひとつには、宝石が存在することをたしかめ、またなにが宝石であるのかをはっきりさせる意義が。

155 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月23日(水) 12時21分22秒

みなさんすみません。読ませていただきました。
わたしなりの答えはいま書いてる原稿に反映できる部分は反映したいと思います! ああっまにあうか。

156 名前 : 秋月流奈 投稿日 : 2004年06月24日(木) 01時58分39秒
>海燕様
1.4秒に全てを懸ける少年達の物語でしょうか。
今、時計の秒針見てみましたが、あっと言う間に過ぎ去りました。
熱くなれそうな予感がしてます。表紙もクールでかっこいいですね。
今度探してみます。参考のために。

>男性作家が正面から夢を追う物語を描くためには、主人公を女性にする必要がある。
これは何でそうなのかは判らないんですが、僕の例で書かせて頂きます。
まず、僕が書いた作品のうち過半数が女性を主人公としています。
男性を主人公として書いていたのは、小説を書き始めていた当初だけでした。
なぜ、僕が男性を主人公に据えられなくなったかと言うと、僕は心で小説を書くタイプの人間なので、自分の思っていることとか言いたいことが思いっきり出てしまう。それが恥ずかしかった。
女性を主人公で書くことで、自分の思っていることとか言いたいことを書くのだけれど、女性だから自分とは違うと言うことで客観的に書くことができるから。

>カレイドスター
余談ですが、声優さんでカレイドスターのヒロインはケンですとおっしゃってる方がいましたよ。

>闘う女。そんな私のこんな生きかた
ライトノベルではありません。でも、僕は間違いました。表紙見て。漫画絵でした。
徳間文庫なので、ライトノベルではないことは疑う余地はありません。
手には取ったが買わないつもりでした。でも、内容がダイエットで始めたキックボクシングでプロになってしまった。しかも実話。
たまにはライトノベル以外のも読んでおいた方がいいだろうと思い直して購入。
今日購入したばかりなのでなんとも言えませんが、雑と文章を眺めた限り文学性は感じられない。
いや、変な意味ではなく。ライトノベルじゃないんだけど、この表紙にしたのが判ると言うか、正解な感じ。
読み終わってからちゃんと書きます。別にいいよと言われそうですけど。

157 名前 : 来無 投稿日 : 2004年06月24日(木) 02時45分18秒
海燕様
>男性作家が正面から夢を追う物語を描くためには、主人公を女性にする必要がある
どこからどこまでをまっすぐと言い、どういうのがサバイバルの話の範疇から外れるのか解りませんが、そうかなぁ?どっちかいうたら、少数派だと思うんですが、だから目立つ。
>それはふつうの選手が外しても特にどうとも思わないけれど、ベッカムが外したら「ベッカムなのに!」と強く印象に残るということなのでは。
とあまり変わらないのでは?同性の少年少女が描けるのは普通だし、よく出来ていて当たり前だけれど、女性が少年の、男性が少女の成長を見事に描けたら、異性なのに「すごい」と
士郎正宗が外国でなんで「女性が主人公で戦う話ばかりなのか」と問われて「自分は男だから、男より女性の絵を描いている方が楽しいから」みたいなことを答えたことがどこかのあとがきだかにあった気がしますが、そういう対象にかける愛情みたいなものはあるかも知れませんし、同性ゆえにわかってしまう汚い部分から目をそらせないようなこともあるかも知れませんが
カレイドスターは女の子向け比率が大きいからああなっただけなのでは?少女漫画等ではよくある構成です>男性がサポーター
アニメの場合、作者が男性なのは単に人口比率で女性が少ないだけなのではないか、と(特に現在、企画、原案や監督をまかされるクラスの)思うんですけどね

>やっぱりひどいのも多い。へたくそなのも多い。イラストだけ綺麗で、小説がそれにともなっていない例のなんと多いことか。
ライトノベルに限ったことではないですけどもねえ(嘆息)、ライトノベルの場合作者の名声と内容レベルは一致することが多いような気がするので、一般小説より、まだマシかもなあ、と思わなくもありませんが
>仮にスタージョンの法則(すべてのものは90%がクズである)に従って9割がクズだとして、残りの1割があるのもたしかなんだけれど、外部から見ればそれは全然目立たない。
その通りではあるのでしょうが、外部の方では何故かクズも(の方が?)もてはやされてる例も多いので、これ(クズ)がOKならなんでこっちはNGやねん、とそういう気持ちは多少あります

158 名前 : 片理 誠 投稿日 : 2004年06月27日(日) 12時31分55秒
久美沙織様

ご無沙汰しております。片理誠です。日本SF新人賞ではお世話になりました(あ、八杉さんもいますね:笑)。

昨日、初めて『創世記』を読ませて頂きました。こういうサイトがあること自体、最近知りまして、己の不勉強を恥じている次第であります。もの凄く濃い内容で、分量も凄く、大変良い勉強をさせて頂きました。ありがとうございました。それから、久美先生が浜田省吾氏のファンというのは大変嬉しい発見でした。私もハマショー、大好きなんですよ! アルバムは全部持ってますし、コンサートにも何度か行ってます。一度、在学中に我が母校(駒沢大学)でチャリティーコンサートが開かれたこともあって、それを見れたことは私の密かな自慢なのです。立ち見席でしたけど(笑)。「路地裏の少年」は真の名作であります(力説)!

ところでライトノベルについてですが、八杉さん同様、私もかつて応募していた側の人間なんです。なのでほんの少しだけ私見を述べさせて下さいませ。

私はライトノベルのライトは「軽薄」ではなく、「軽快」「軽妙」の意味だと思っておりました。きっとファンの人たちもそういうニュアンスで使っているのではないかと思います。だってファンが自分の好きな作品を卑下するとは思えないですもん。愛してますよ、彼らは。自分の好きな作品を、心から。出版社のBBSとかを覗くと分かるんです。皆さん熱いですよ。下手にくちばしを突っ込んだら、こっちが袋叩きにされそうなくらいに。彼らはライトという言葉に「俺たちの好きな物語はけっして愚鈍なんかじゃない。それは風の中で軽やかに舞うんだ」という誇りを込めているのではないでしょうか。

ライトノベルという呼称を嫌がる人は、久美先生の他にも、いらっしゃるようです。確かに軽薄小説という解釈だって可能なわけですから。だとしたら「やめてくれ〜、俺の愛している小説をそんな風に呼ぶのは止してくれ!」と叫びたくなるのは理の当然であります。

で、胸を張ってライトノベルという呼び名を口にする人も、そんな名前は絶対に認めないと叫ぶ人も、その根底にあるのは同じだと思うんです。それは「愛」であり、「誇り」ッス。愛すべきホーカの台詞を借りるなら「十八カラットの大きな金のハートがちゃんとしまってある(「地球人のお荷物」より引用)」ということなのでしょう。だから私は全然心配していないのです。ライトという言葉が肯定的にも否定的にも受け取れてしまうのは確かにちょっと問題かもしれませんけど、それが今後どのように変化していこうとも、または全く変化しなかったとしても、それを愛する人たちは必ずいると信じています。

いつかハマショーが雑誌のインタビューで言ってたんです。「今まではビートルズのような、ずっと永遠に歌い継がれてゆくような曲を作ろうとあがいてきた。でも最近は流行歌でいいと思えるようになった。ポップ・ミュージックって“旬”のものでしょう。その時その時の旬の歌を作ってゆきたい。俺たちはクラッシックを作ってるわけじゃないですからね」って。かなり昔の記事なので、ちょっとうろ覚えなんですけど、たしかこういう内容でした。エンターテイメントというのは全て、時代と切り離して考えることはできないんじゃないかと私は思うんです。そして今は未曾有の大不況のまっただ中。今の学生さんというのは、本当に暗黒の時代を生きていると思います。希望がなかなか見えない。そんな彼らには彼らの“旬”があって、その中には確かに今までの小説作法からはみ出している作品もあるようです。でも時代がそれらを、いや、それらを超越した「何か」を求めているのではないか、と私は考えています。

戦前と戦後では価値観が大きく異なったように、バブル崩壊の前と後でもやはり同様の現象が起きているのではないでしょうか。だとしたらこの新しい時代の風をとらえた書き手が次々に登場するのも、別に驚くほどのことではないのかな、という気もいたします。

自分の中にある旬の物語を、こういう時代でなければ書けなかったストーリーを、私は書いてゆきたいと思っています。どこかに受け止めてくれる人がいることを信じて。彼らの胸の中にある大きな金のハートを目指して。


以上、ほんの少しと言いながら、長々と失礼致しました。お許し下さい。

ライトノベルを含む小説全般に明るい未来があることを祈りつつ。

159 名前 : Yukiharu 投稿日 : 2004年06月27日(日) 21時16分23秒
どうもはじめまして。俺もライトノベルファン。一言書かせてくれ。

ライトノベルのライトが「軽快」「軽妙」だという意見はいいね。俺も大賛成。
でも俺は「軽薄」でもいいと思うんだよね。
社会的な価値観から逃避するって人間には必要じゃない。
駄菓子には駄菓子の魅力があるんで、バカにする奴にはバカにさせておけばいいと思う。
みんな美食家気取りのエセ評論家なんだよ。たいして文学なんて知らないくせに。
それでミステリだのSFだの大騒ぎしても、そんなもんしょせん大衆小説でしかないじゃないかと。
大衆小説なんて大人の読物じゃない、そんなものは恥ずかしくて公言するような趣味じゃない、
そんな大人の価値観すら崩壊してしまった。
同じ駄菓子食いのくせに美食家を気取るエセ読書家からバカにされるのは結構なことだよ。

その昔、中島梓が、
SFはSFというだけで、少女マンガは少女マンガというだけで価値があるのだ、と言ったことがあった。
そのうちの99パーセントがクズであったとしても、そのすべてに価値があるのだと。
その伝で言えば、ライトノベルはライトノベルというだけで価値があるのだ、ということだと思うんだ。

俺が腹が立つのは、ライトノベルをなかったことにしようとする一部の人間。
すぐれた小説とそうではない小説があるだけで、ジャンル分けなど無意味だと。
だったら最初からジャンル論なんてやんなよって思うよ。
作品論とジャンル論という違う次元の話をゴチャ混ぜにして考えるからおかしくなるんでさ。

ライトノベルのジャンルとしての特性を考えると、逃避主義ってのがあると思う。
もちろんそれはすべての駄菓子、すべての大衆小説の特性であったはずだけど、
前述の勘違いしたエセ文学者やエセ読書家のおかげで、
大衆小説までがなにやらエラソーな読物になってしまった。
それに対する反動として登場したのが、どう誤読したって価値のないクズとしてのライトノベルだった。
80年代といえば、SF小説がエセ文学者によって文学的価値観に組み込まれた時代。
その時代に、SF小説と入れ替わるように登場したのがライトノベルなわけだな。
だからこそ、ライトノベルをエセ文学論で権威化したり地位向上を図ったりする一部の人間には、
俺は嫌悪感をいだかずにはいられない。

ライトノベルはクズでいて続けてほしいね。ロックンロールがそうであるように。

ハマショーが好きってちょっと恥ずかしいじゃない、人に言うには。
でもその恥じらいが大事だと思うんだよね。そういうもんなんだよ、大衆芸能なんて。
マイケル・ムーアが好きなんて鼻の穴ふくらませて言っている場合じゃないって。

最近ヤバイと思うのは「ハリポタ」以来のハードカバーの翻訳ファンタジー。
あれなんか、昔ならライトノベルのお客さんじゃないのって思うんだよ。
90年代以後、ライトノベルが成熟したのか、妙にナイーブな作品が増えた気がするんだ。
ほとんど男性作家の作品で、海燕さんのいう、
「男性性の失墜」「肉体性の失墜」「現実性の失墜」って傾向があるわけ。
でもこれっていまにはじまったことじゃなくて、70年代末あたりからある傾向でさ。
『〈美少女〉の現代史』が参考になると思うけど、ようは、男オタクの傾向ってだけ。
失墜っていうのは誤魔化しで、ほんとは男オタクってのが男のリアルから逃げているだけなんだ。

異世界ファンタジー全盛の頃のライトノベルって女性も多かったと思うんだよね。
作家にしろ読者にしろ。
ブギーポップよりゴクドーくんの方が売れたって話でさ、その頃に較べると今はどうなのって。

あきらかにいまのライトノベルは男オタク化してんだと思うよ。
間口が狭まっている。エロゲーライターなんてデビューさせている場合じゃないって。
エセ思想家に評論なんて書かせている場合なのかよってマジ思う。

ある人が最近の翻訳ファンタジーはクズだ、あれ読んでいる奴は精神年齢はガキと一緒だ、
とか言っていたらしいけど、上等だぜ、高級なエンタメがあるとか思っているエセ読書家に言われたかないって。
このテのエセ美食家のおかげで、大衆小説のなかにすら、高級で売れないものがあるという勘違いが生まれる。
まったくロックンロールじゃねーよ。

ライトノベルはいまけっこうヤバイって俺は思っている。
男オタク化によってフツーのお客さんが別の分野に流れていってるって感じがするんだ。
男オタクの失われた男らしさを高級ぶることで補償してやるために、高級ぶって冬を迎えるのか、
それともエセ読書家にバカにされながらも、駄菓子屋の本分を貫くのか、その岐路に立っているんじゃないか。
80年代にエセ文学者によってSF小説がエセ文学論にとりこまれて、売れなくてもいい作品があるんだとか言い出して、
結局SF冬の時代を迎えたのと同じことが、いまライトノベルでおきようとしているって感じるんだよ。

エセ読書家にバカにされることが大事だ。クズだと言われることが大事だ。
やつらのエセ批評なんて知ったことかよ。

ライトってのはそういうことじゃなかったのか。
苔にまみれた小石ならば俺はそいつをライトノベルとは呼ばないよ。

160 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月28日(月) 12時28分47秒
Yukiharuさん。
痛快なご投稿ありがとうございます。
気持ちよくひっぱたかれてしまいました。

>男オタクってのが男のリアルから逃げているだけ

なるほどー! ああ、それは確かにイヤだ。男には男でいて欲しい。男であるために戦っていて欲しい。オタクでもいいけど……あくまでも戦いを忘れないで欲しい。

コクリツ(競技場)の芝は少年を男にする、って言われてます(またまたサッカー話ですみません)。
少年もナイーブで危なっかしくて美しいですが、そんな少年が少年であることをやめてあるいは脱皮して男になる瞬間を目撃することができると「獲得と喪失」原理そのもので、ドラマそのもので、ほんとうにドキドキします。男が男として恥ずかしくない行いをしているのを見るとうっとりします。単なるマッチョや男尊女卑はきらいだけど、筋肉ミュージーアムにはそりゃ感動しちゃうもんな。

中島さんは、かつてやおいについてもおっしゃいました。ある種の少女にとっては、どんなにヒドイやおいでもなきゃこまる、必要なんだと。

ただし、駄菓子うんぬんについては正直意見の相違があります。
工業製品のように企画され安価に便利に大量生産されるものがあるのはこの消費社会しかたないけど、市場をそういうものが埋め尽くし、世のお菓子やさんたちやおかあさんがたがこどものオヤツを自分の手でつくろうとしなくなる傾向をさらに助長するとしたら、恐ろしいと思う。
もちろん、素朴な材料でも、真心をこめてあるいは季節の旬をちゃんと捉えて、一つ一つ大事に作られるものならば尊重するべきだと思います。お菓子ではあっても「駄」と呼ばれるべきものではないはずだと。

はたまた、社会的価値観から逃避することと軽薄になることは同じではない。むしろ、現代は社会的(市場原理的)価値観そのものが軽薄をおおいに是認してるようにわたしには見えますが?

161 名前 : 海燕 投稿日 : 2004年06月28日(月) 17時29分56秒
>ライトノベルはクズでいて続けてほしいね。ロックンロールがそうであるように。

でもいまの日本は反抗すべき時代は反抗すべき権威そのものがかぎりなく失墜してしまい、文壇権威のさいごの牙城のごとき芥川賞を二十歳そこそこの女の子が獲ってしまう世の中であるわけで、「権威なんかぶっとばせ!」というパンクスピリットはあまり説得力がないかなあ、と。夜の校舎に忍び込んでガラス窓をたたき割ろうにも、もうとっくにみんな割れちゃっているじゃん、みたいな。たぶん文学が揺るぎない権威であった時代には、それに反抗してみせることにはそれなりの意義があったと思うんですよね。

芥川賞なんてクソだぜ、文学なんかよりSFのほうが凄いぜ、ミステリのほうがおもしろいぜ、とシャウトすることはそれなりに勇気がいることだっただろうし、だからこそ価値があることでもあった。その行為は逆説的に権威の意味を認める行為でもあっただろうし、お偉い文学賞に選ばれたうえでそれをけっぽってこんなものありがたがっているやつの気がしれないね、と吐き捨てることは最高にかっこいいことだった。紅白出場を拒んでひと晩中ライヴを繰り広げることがかっこよかったように。

でもいまはその権威そのものがかなりガタガタで、三島由紀夫みたいな天才と話題性をかねそなえたスーパースターはお空の向こうにしかいないわけで、いわゆる純文学にはあえて反抗してみせる価値すらありそうにない。そもそもだれも読んでいないんだからね。実体が存在しないものがいつまでも権威でありつづけられるわけがない。こういう時代ではカウンターカルチャーも同様に輝きを失います。神亡き時代にあっては涜神(うわっ、略字じゃないほう出ねえ)もまたむなしいのです。

上記のスタージョンの法則に従えば、あらゆるものは90%のクズと10%の上質なものが混ざっているわけですが、僕はたぶんこの状態こそが健全な状態なのであって、クズを追放しようとしても、逆に全体をクズばかりで埋め尽くそうとしてもうまくいかないのではないかとも思う。SFは「こんなのSFじゃない」ものをも含めてはじめてSFであれる。大原まり子と神林長平だけじゃやっぱり駄目で、サイファイのひととかも凄く必要。玉石混交、ビー玉とダイヤモンドが混ざっていることこそが望ましい。そういうことなんじゃないかと。

>男には男でいて欲しい。

いやあ、でも「戦うのって疲れるし、たるいし、痛いし、ちょっとやだなあ」という気分がいまのオタクたちにはわりと充満しているような気が。アスカが不死鳥のごとくよみがえって量産型エヴァンゲリオンをばったばったと切り捨てたあげく「戦って死んだ」のに対して、碇シンジは結局エヴァで戦わずに終わってしまったわけですし。「男はえらい」という根拠レスな迷信が高度経済成長の終焉とともにつうこんのいちげきでとどめを刺されたいまの時代、男が男であることは、たぶん女が女であることと同じくらい、場合によってはそれ以上に辛い。

だからこそ男性読者のあいだで「マリア様がみてる」が熱狂的な支持を受けたりしているのではないでしょうか。「そんなことじゃ駄目だ」といわれると、たしかにそうだという気もするけれど、「CLANNAD」で号泣してしまうほどナイーヴないまのオタクにそれを言ってもかなりむなしい気が。ゴクドー君のたくましさは羨ましいし、中村うさぎ女王さまの生きざまには感動するんだけれど、でもとてもああは生きられない、だって僕は野に咲く雑草じゃなくて温室に咲いたすみれなんだもん。

SMAPだって歌っているじゃないか、「ナンバー1にならなくていい。もともと特別なオンリー1」って。いやそりゃもちろんあの歌はキムタクが歌うからこそいいんだけどさ。というのがいまのオタクの実感じゃないかなあ。だって頑張って男やったってあんまりいいことなさそうですし。「週刊少年ジャンプ」が「努力 友情 勝利」の錦旗を掲げていたころはまだ日本もすこしは元気で、みんなで協力しあい努力して勝利すればなにか凄くいいことがあるんじゃないかと信じられたのかもしれない。

でもさいごには太陽系を崩壊させるほど強くなってしまった孫悟空の末路が示すように、勝利と栄光の涯に待つものがまたあらたなる戦いでしかないとすれば、僕はそんなのいやだ、ああ女の子っていいよな、男なんて貧乏くじをひいてばっかりなんだ、と考える人間が増えてもそんなにおかしくない。じっさいにはその女の子は「少年」という幻想を追いかけていたりするわけだから、どこまでいっても隣りの芝生はブルーってことなのかもしれませんが。

もちろんいまでも「プロジェクトX」でうるうるできちゃうひとは大勢いるんだけれど、「でも、それって結局会社にうまく使われたってだけのことでもあるよね」と皮肉っぽくつぶやいてしまう人間にとっては、なにが正しくなにが間違えているのかいよいよわかりづらくなってきている。それにどう考えても栄光のチャンピオンベルトを腰に巻くために必死に汗を流すより、そんなベルトは紙でできているんだ、なにマジになってんだバカじゃねえと笑い飛ばすほうが楽だし安全ですからね。冷笑家と皮肉屋のための時代。やれやれ。

162 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月28日(月) 20時19分59秒
>つうこんのいちげき

ごめんー。
ベホイミ!
そーれ、ハッスルハッスル!


163 名前 : 津原泰水 投稿日 : 2004年06月29日(火) 04時53分11秒
 神なんて昔からいなかったですよ。失せたものを神聖視する人々がいただけ。
 久美さんから「なにか書かない?」とお誘いをうけながら、結局、なにも書けなかった小説家の津原と申します。覗いてみましたこちらのBBSの、重さ=議論の活発さに感嘆するばかりで、寄与できるような知恵も記憶も無さそうですので、素朴な所感(放言?)のみにて失礼させていただきます。

 若い作家や読者の皆さんが、ライトノベルや児童文学の「括り」や「勘どころ」に大変敏感でいらっしゃることに、かえって違和感をおぼえております。良くも悪くも洗練されており、また戦略的。権威を求めるベクトルにであれ、その逆にであれ、「ライトノベルかくあるべし」との議論に私は否定的です。つか、興味がない。「○○小説かくあるべし」に対しては総じてそういう態度なんですが、市場での実体を喪い、人々の信心によって残存しているようなジャンルもありますから、そこに対してあまりむごいことも云えない。「もっとこうしたほうが面白かったんじゃないか」といった個々の作品への所感は、また話が別ですが。

 イラスト・カバー付き、一頁大の挿絵入り、文庫や新書の書き下ろし中心という、現ライトノベルのフォーマットは、制作上の制約や閃きから生まれ、模倣によって広まり、たかが四半世紀、かろうじて読者に受容されてきた、出版の一形態に過ぎません。繁殖力が検証されていない新種植物みたいなもんです。
 そうした販売上の形態に特化し進化していく作家は面白いし、他ジャンルの美学を平然と持ち込む作家も頼もしい。俺の作品にイラストなんか付けるなと云いだす作家がいてもいいでしょう。エロゲーライターの下品ライトノベル、ナイーヴすぎる男性たちのために書かれたもの、四半世紀の「正統」を背負っているかのようなベテランによる作品、読者を小莫迦にしているかのような作品……今後もいろんなライトノベルが生まれては消え、あるいは残っていくんでしょう。
 私のように市場からはじき出されてしまう作家も無数に生まれる。ま、それぞれに生き延びるなり筆を折るなりすればいいわけですが、そんな木っ端の一つでも、少なくとも現役で書いているあいだ、ライトノベル(当時ジュニア小説)の価値は自分を許容していることにある、と無条件に信じていました。市場は脆弱でも、作家と読者には図太くあってほしいものだと、明日をも知れなかった時代を思い返しつつ、願う次第です。

164 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月29日(火) 11時32分43秒
きゃーーーーーーっ、津原さぁん、ご無沙汰してますーお元気ー? うわぁ見守っててくださったんだぁ。ありがとう。ありがとー。

男の戦い、つづき。

あのね。確かにね。そのむかしお父さんが偉かった時(というのも神話かもしれないけど)に比べるといまは男のひとは生きていきぬくい度が高い部分もあるのかもしれない。
でも、ジェンダーにしろ、生物学的性差にしろ、違いはまだあり、歴然と違うとこもたまにある。
たとえばこのサイトにカキコミをしてくれるひとの割合、ハンドルだからほんとうのところはよくわからないかたもありますが、どうも男性のほうが圧倒的に多いように見えるんだけど、違うんでしょうか。
あるいは発言そのものが「男っぽく」見えるものが多いというべきか。
それが、そもそもいまどきのライトノベルを読んでいるひとに男性が多いからなのか、あるいは、サイト上で他人と意見交換をしたがるひとに男性が多いからなのか、わたしがオンナだから「異性的」な雰囲気に必要以上に敏感で、あるいは誤解をしがちで、実際はそうではないのに「男性性」を強く感じるのかはわかりませんが……

コラム本文のほうで書きましたが、わたしを含め、女性の書き手には「いわゆる学生時代のオンナのコ同士のお友達関係」は苦手だったひとが多いのにビックリしたことがある。サンプル数が十分ではなく、単にたまたまその時そうだっただけかもしれないし、わたしとつきあってくれるようなタイプの女性がたまたまそうである割合が多いだけなのかもしれないんですが。
コバルトの初期の代表(と言っていいでしょう)五人組は(わたしの知る限り)全員生殖しておらず、わたしの住む軽井沢ご町内には町民数のわりにやたらモノカキ(しかも著名な)が多いんですが、そこに暮らすカップルのほぼ全員がこれまた、ほとんど生殖していない(例……内田康夫・早坂真紀ご夫妻、藤田宜永・小池真理子ご夫妻、唯川恵さんとこ)。藤臣柊子も、小室みつ子も、中村うさぎも、生殖していない。
ようするにわたしにとって身近なほぼ「同業」の女性たち「かなりの割合」が、何故かのきなみ、おかあさん業をやっていない。オンナではあっても、ハハでない。

他のひとは知りませんがわたしは拒絶したわけではありません。おかあさんになりたかったです。女性とうまれてきたからにゃそれが一番の幸福だと(神話かもしれないけど)ちっちゃなころから思わされてたし、亭主を愛してるし、尊敬しているので、彼の遺伝子を未来に伝えたかった。ちくしょう。過去形でなんか言いたくないんですが、マルコーになって十年もたつといい加減、もうこれはカミサマが「おまえにはムリだ。やめとけ」とおっしゃっておられるのに違いないという気もしてくる。あるいは「おまえには別のシゴトがあるだろ?」とおっしゃっているような気も。

で……そういう母性の欠如が単なる欠如では虚しいので、なにか、名前は知りませんが、別なもので埋められている……あるいは、別なものが先にそのブロックを埋めてしまったから母性が発現「できなかった」のではないか、と考えてしまったりもするんですね。これはあくまで「人間として大事なものが欠けている、ダメなやつである」と考えると自分がミジメだからですけども。

もしかすると、そのなんだかわからない名前のつけられないものがあるから、たとえば、ここでカキコミをしてくださるかたのうち明らかに男性であるかたがたといちおーでも対話が連続的に成立し、かくして、このスレがかくもにぎにぎしく続いている……のではないかと思ったりしちゃったんですけど、これはウヌボレというものでしょうか?

で……婆の話をよく聴いてくださったり、真剣にレスをかえしてくださるかたがたも、ひょっとすると「同じもの」が強くて、その結果なにかが欠落しているかもしれない。欠落しているからこそ、埋めている「何か」がキラキラしているのかもしれない。

というところをいちおう押えておいて、ではわたしが男性に求める「男らしさ」とは何か。

ずーっと昔ね、女ともだちF子ちゃんにパソコンを譲ることになって、その子の妹さんTちゃんのカレシにクルマを出してもらったことがあるんですよ。
そのカレシっつーのが、某有名大学のつよーいラグビー部でキャプテンだったという立派なマッチョマンでしたが、ほんとに失礼で最悪なやつでした。
なにしろ、古いアパートの三階から、当時のことですからクソ重たくて運びにくいパソコンをおろさなきゃならなかったのに(エレベータとかなし。階段)そいつ、まったく手伝おうともしてくれないんです。マッチョなのに。
しょうがないから、わたしとF子でおとさないよう、ゆっくりゆっくり、必死に運びましたが、その間じゅう、クルマの中でT子ちゃんと音楽かなんかかけてふてくされてるんですよ。やっともっていくと「おせーなー」って感じ。とにかくのべつすっげぇ不機嫌でした。
せっかくの休日に、デートしようと思ってたら、ねーちゃんのためにひと働きしてくれって頼まれたのを「冗談じゃねぇ」と思ってたんでしょうね。
いってはなんですがF子は美人とは言いがたいタイプで、T子ちゃんのほうは姉に似ずきれいでかわいくて、しかも「典型的女の子」ってタイプ。成績もよく、大学も「おじょうさま」系。はじめから腰掛予定で入った大企業でも、いわゆる「職場の花」的にふるまって、同僚およびおじさま上司のウケは最高によくモテモテ。
そんな子をゲットできたカレとしては鼻たーかだかだったんですね。
ところがF子は司法浪人中でした。それなりにおじょうさまな大学を出てたんですけど、ふつーに就職しようと思えばできただろうに、それをしないで、自分の可能性に挑戦してたんですね。
T子ちゃんみたいなコを好きだっていう男性にとっては、「おんなだてらに」弁護士になりたがってわざわざ浪人までしているなんて「アホちゃうか」「んーな夢おいかけて」「なにさまのつもりや」だったりもしたらしいです。
ようするにカレはF子の存在のぜんたい鼻持ち鳴らなかったんでしょう。いずれ結婚する予定で、「おねえさん」になるのに、その彼女に好かれたいとか、彼女ともうまくやっていこうとか、彼女を理解しようとか、まったく思ってなかった。
さて、少しあと、そのカレと結婚したT子ちゃん。ご家庭はすこぶる円満で、お子様も次々にできて、いまも充足したママライフをやっているみたいです。離婚とか気配もありません。相性ってあるんですねぇ。ちなみにF子は結局司法方面を一年であきらめ、就職し、職場でであったひとと結婚して退職しママになり、やっぱり幸福に暮らしているんですけど。二家族がどういう関係なのかは知りませんが。

男だったらね、しかも健康体でマッチョで力自慢だったら、こういうときには、身軽に動いて欲しい。相手が「コマしたい」タイプじゃなくても婆でもあるいはヘロヘロの同性でも「ぼくでよければ力を貸そう!」と言ってくれたらカッコいいやんか、とわたしは言いたい。そのひとにとってはさほどの手間でも大変なことでもないんだし、そもそもそのひとがやってくれるほうが早く解決するので、そのひとの時間のムダだってなくすわけで。
まして、好きな相手の家族に対してなんかは、ちょっとムリしても「いいとこみせよう」ぐらいの可愛げがあってもいいのなぁ。そのほうが好きな相手の心象もよくなるんじゃないかと思うんだけど……世の中には、カレシとかカノジョとかが「自分以外」の誰かに(家族にでも。へたすると自分のコドモとかにでも)こころをかけたり親切にしたりすると、まるで自分がその分損をしたかのように考えるひとも、いなくはありませんけどねぇ。

ようするに……男には……ヒーローでいて欲しい!
なまじ肉体が強いのにその強さが使える場面を選んだり出し惜しみしたりするとか使う相手を選ぶとかは、ほんまのヒーローとちゃう。
頭脳派でも同じっす。ヒーローたるもの「ジコチュー」ではあかん。地球の平和を守るため、困ってるひとを助けるために、いつでも出動する、できることをする準備がある、これがヒーローでっしゃろ。
なにも生命まで賭けろとはいいません。それはほんとに専業のヒーローのやることなんで。そこそこ自分に見合った範囲でいいから、ちゃんと主人公やってくれよ。シンジくん的に、悩むこと、苦しみあがくことがその「自分らしさ」なのなら、それでもいいよ。でもせめて何かを愛して欲しい(そうすればジコチューではなくなる)そしてその愛したものだけでいいから「全力をかけて一生お守り」して欲しい。愛する対象をコロコロかえるなよ。それは責任回避だ。

昔、自動車教習所の教官に言われました。おばさんは教習に時間がかかる。なぜかというと、ハンドルを握りながら、ちょっとヒマができると、今晩の献立をどうしよう、かえりにあのスーパーでコレを買って、アレを買って……と、余計なことを考えているからだ。習うことに集中できないからだ、と。
たしかにそれは多くの女性の特質かもしれん。マルチタスクというか、並行処理というか。家事なんつーのはいっこいっこやってたんでは間にあわん。よって茶碗を洗いながら、洗濯機をまわしながら、おくさま番組でおいしそうなレシピが出てきたらメモをとりながら、宅急便屋さんに反応しながら、かびとりハイターストロングもする。つねにちょっと先に必要となることまで予測し、手順を作って、こなしていかないといけない。うんと先ではないんです。あくまでちょっと先。せいぜい今日いっぱい。
コレに対して、男のひとっつーのは一般的にいってイッコのことにずっぽり集中したがる。没入してて離れたくないから、自分のビールも取りにたたず「オーイ、ないよー」とカラの缶を振ってみせたり、すぐそこにある電話にも「オーイ、誰かでてー」といったりする。
脳みそがそういうふうにできている部分もあるだろうし、文化としてそういう行動が是認されて訓練された部分もあるでしょう。
しかしですね。
男性のみなさま。
こんなひとをナメた態度が過去多くの場合許されてきたのは、没入するに「たる」なにかに没入してると信じられていたからで、その結果が地球の平和に、あるいは少なくともあなたが責任をもっている家族のみんなに役に立つからですよ。あくまで遠い結果としてでもいい。新聞を隅から隅まで読むなんつーことはすぐにどーこーなることではない。
それができない、あるいは、やりたくない、あるいはろくなもんに没入してなくてジコチューで甘えてるだけなのなら、シジュホス的にエンドレスでがんばってやってもめったに感謝もしてもらえない「瑣末な現状回復作業」つまり日常の家事をすくなくとも自分のせいで増える分ぐらいは担当してください。たまに手伝う、なんつーのはダメです。担当することになった部分はあくまで「最終責任」をとるつもりでやっていただかないと。お茶碗洗うのを交代でひきうける約束になってても、いつまでもナガシが占拠されていると次の手順つまり次の食事の支度ができないから、結局「食事の支度」をやる人間が片付けてしまったりすることになるんで。

ちなみにいま出てるSFマガジンがヒーロー特集です。昔のヒーローといまどきのヒーローがいろいろ出てきて楽しいです。まだ全部は読んでないんだけど。スパイダーマンの話が泣けました。







母性は欠けてます。でも女ではあります。非論理的だし、感情的だし、ズルいかもしれない。

男のひとたちの場合はどうなんでしょう? 欠けているのは男性性なんでしょうか? それとも、父性? あるいは

165 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月29日(火) 11時38分18秒
いかーん。かきかけのとこまででちゃった。空白のあとのほうはムシしてください。

166 名前 : 片理 誠 投稿日 : 2004年06月29日(火) 14時55分23秒
>津原泰水様
ご無沙汰致しております。授賞式の三次会ではありがとうございました。


>みなさま
男らしさについてのお話、耳が痛いです。男らしく生きるのは確かに辛くて苦しい、でもだからってそこから逃げるな! というのは同感であります。っていうか、私も頑張らないといけないです、ハイ。

ただ、ライトノベルに関しては違う解釈もできるのかな、という気がしてます。

いつの時代もヒーローは求められます。男らしい男の子も、男らしくなれてない男の子も、理想としては男らしいヒーローを求めていたのです。でもそれが今、変わってきているのではなでしょうか。

正直、昨今のライトノベルの中には、私の理解を超えているものがあって、具体的に言うとそれは「ブギーポップは笑わない」「キノの旅」「撲殺天使ドクロちゃん」などだったりするんですけど、とにかく、どう読んでもどこが良いのかが見えにくくて困ってたんです。でもある日、ふと気づきました。自分は読み方を間違えているのではないか、と。私は自分の学生時代の価値観でしかライトノベルを見ていなかったのかもしれない。そう反省すると、見えてくるんです、今まで見えなかった面白さが。

今の学生さんというのは、本当に暗黒の時代を生きていると思うんです。私の学生時代は偏差値至上主義&受験戦争のまっただ中で(だからこそ尾崎豊という強烈な同時代性を持つカリスマが誕生したわけですが)本当にひどい時代でしたけど、「とにかく良い会社に入れば、後はどうにかなる」という、一筋の光明だけはあった。でも今の学生さんたちには、それすらもないのです。彼らは今、真っ暗闇の中にいます。

「ブギー」「キノ」「ドクロちゃん」の3人には共通する要素があるんです。それは3人とも『トリックスター』である、ということ。すなわち『停滞している状況を引っかき回して、活性化させる役目』を負っているのです。


・ブギーポップは、設定だけ読むと変身ヒーローもののように見えますが、実際にはヒーローとしての働きは最後の最後にちょびっとするだけです。事件の主役はむしろブギーの周囲にいる高校生たちだったと言えるのではないでしょうか。「ブギーポップは笑わない」は、端的に言ってしまうと「息苦しくて退屈なだけだった学園に、一瞬だけ非日常が訪れる」という物語です。その「一瞬だけの非日常」を実現しているのがブギーポップ(と敵役)なのです。

・「キノの旅」はもっと分かり易いです。「閉じた世界、停滞している世界、完全に行き詰まってしまった世界、にある日旅人が訪れ、そこに一石を投じ、波紋を広げながら去ってゆく」というストーリー形態。キノは完全なトリックスターです。

・「撲殺天使ドクロちゃん」になるともっとパワフルで、棘の生えたバットで主役である木訥な男の子の平凡な日常を破壊しまくってます。


10代というのは最も感受性の豊かな時期だと思います。そんな今の若者たちがヒーローに期待しているのは、悪い奴らをバッタバッタとなぎ倒す「勧善懲悪型」としてのソレではなく、時代のどこかに穴をあけて新しい風を招き入れてくれる「現状打破型」なのかもしれません。要するに彼らの願いは『正義』ではなく、『ブレイクスルー』なのではないかってことなのです。「誰でもいいし、どこでもいいから、とにかくどっかに風穴を空けてくれー! じゃないと俺たち、窒息しちまうんだよ!」という彼らの悲鳴が私には聞こえるような気がするんです。

もちろん今まで通りのヒーローだって支持を受けているわけですし、トリックスター型のヒーロー一色になってしまったわけでもありませんが、ヒーローが多様化し始めているってことだけは言えるのではないでしょうか。


で、これらの作品とは別に、本当に単に希薄で薄っぺらいだけの作品も、ぶっちゃけて言っちゃうと、あると思います。「なんじゃこりゃあ! 金返せ!」って奴です。恐れながら申し上げれば、この人全然言葉を選んでないんじゃないの? イラストの力に頼りすぎなんじゃないの? これってパクリなんじゃないの? と思うこともありますです(汗)。でもそういう作品は割と速攻で淘汰されているように私には見えます。そういう意味ではライトノベルの市場は健全なのかもしれませんね。とにかく凄い激戦区ですから。「つまんない」の烙印を押された作品は洟も引っかけてもらえない。お、恐ろしい世界ッス(泣)。

私が唯一心配なのは、市場が激戦すぎて、声の小さなライトノベルが生き残れなくなってしまっていないだろうか? ってことです。声の大きな、ヒキの強い、目立っているライトノベルしか売れなくなってはいませんでしょうか。消えていってしまった作品の中にも、地味だけど隠れた良作があったかもしれない。そう考えると残念であります。

とにかく毎月毎月凄い数の新刊が発行されています。あれらを全部読むなんて普通の人間にはとても無理です。だからこそ、優れた評論家が必要なのではないでしょうか。Yukiharu氏同様、私も権威主義には反対です。しかし、行き過ぎた競争に歯止めを掛けるためにも、そのカウンターパワーとしての評論は必要不可欠でありましょう。そういう意味ではSFマガジンさんでもライトノベルの評論はされていますし、本サイトさんのような場所もポツポツとでき始めているわけですので、全体としては良い方向に向かいつつあるのかなという気は致しております。一つでも多くの良作を拾って頂けたら、と願ってやみません。

167 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月30日(水) 09時11分31秒
片理さまこんにちはー。

自分であんなことかいといてなんですが、そーいえば野村美月さまの『BAD! Daddy』が実はダイスキです。ファミ通文庫です。現在3巻まで出てます。
これはですね、主人公の美夢ちゃんが五人組戦隊ヒーロー(ただし全員女子)のひとりで(ちなみにピンク。ちゃんとキメゼリフとかキメワザとかもありますぜ)、まだ若くて美形のおとうさん優介さんが、悪の秘密結社のその地域の大幹部「戦慄のアルマンドさま」でもあり、でもパパは美夢ちゃんめっちゃLOVE! パパの部下のひとたちも、かなりそれに巻き込まれていて……という、それはそれは抱腹絶倒なハッピーコメディです。
で。これは新しいなぁと思ったのが、2巻から、ユズくんという男の子が出てきて、このコを美夢ちゃんが好きになっちゃうんですが……このコが実にたよりない!
まるで、キングコングに狙われる美女のように、しょっちゅう「目をつけられて、狙われて、ひどい目にあう」ほうだという設定なのです。
なにしろ、舞台になっている町が「ここを押えると地球を支配できる」特別な地域なので、悪の秘密結社はここでせっせと幼稚園のバスをバスジャックしたりとかする。ノルマのようにやる。
おとうさんに「はやくよそに転職してほしい」と強く思いながら、でもおとうさんの愛情もよくわかっており、しかもパパに内緒で、いまいち恥ずかしいけど正義の味方をやっている(なぜそうなったかの事情は読んでくださいませ)美夢ちゃんとしては「おとうさんとその部下のみなさんが、迷惑かけちゃってごめんなさい!」な気分も多々あったりします。
しかもこのユズくんは、なぜか他のひとにはバレない「変身」姿をみても「あっ美夢ちゃんだ」とわかってしまうという(服装がかわってるだけなのでムリもないんですが)。
ちょー傑作で、明るく楽しいので、みなさまゼヒゼヒお読みください。戦隊モノ好きなひとにも、甘いもの好きなひとにも、『パパとムスメもの』が好きなひとにもオススメです。
これでハマったら、ド級傑作卓球魔人シリーズも読んでねー。

セーラームーンの「マモちゃん」以降、正義の味方をやる女の子にらとっての理想のダーリンは「いつも優しく見守ってくれていて、ほんとうに危なくなった時には助けてくれる、頼れる」タイプだったりする傾向もあったような気がしますが(特に女子の好み?)、
ここにきて、女子ヒーロー(ヒロインという言い方は、旧ヒーローに助けられる役目をさすことがあるので)の恋愛対象に
「あー、もう、かわいくって、優しくって、ほんとになんてイイコなんでしょう! あなたのことは必ず守ってあげる!」
なカレが出てきたと。
(いや、ある意味ではラムちゃんにとってのアタルもそうだったのかしれないし、もっと前にもあったかもしれませんが、……ここまで極端なのはわたしははじめてみたので)

美夢ちゃんには戦慄のアルマンドさまという「立派な大人のヒーロー」が既にひとりキープできているからかもしれないですが。ただしパパはいちおー、悪いひとのほうなんですが(笑)

168 名前 : 秋月流奈 投稿日 : 2004年07月05日(月) 02時38分51秒
話に入れなかったので書き込まないでいたのですが、終わったと判断して書き込みさせて頂きます。
こんなことを敢えて言うのもなんなのですが、僕は師匠の小説を今まで読んだことがなかったのです。
申し訳ないような、自分自身が無知で情けないような話なのですが、師匠をここで初めて知ったわけです。
しかし、本日本棚を整理していた所、かなり昔の本達に出合う事ができました。僕は男ですが、やけにコバルト文庫が多く、こんな時代もあったなぁと懐かしく思い出に浸っていました。そのうちの何人かの人は、もう書店で名前を見ることもありません。なにせ今から十年以上前の本ですから。
その中で、二冊珍しい本と再会しました。その本のタイトルは、『東京少年十字軍(上・下)』です。上巻は1993年1月10日第1刷。第2刷が1993年12月20日でした。下巻は1993年2月10日でこれは初版で持っています。
今から約11年前………それは僕が、12歳。小学6年生の時に読んでいた本ですよ。師匠。師匠はこれを執筆なさっていた時、僕のような読者がいると思っていましたか? ファンレター出しとけば良かったかもですね。
かなり破天荒なラストでしたが、子供だったのであまり気にならなかったです。と言うか、今僕がこんな感じの平気で書いてます。終わりで新人賞では絶対やるなって書いてありますけど、喜劇で書くならありではないかと思うのです。現状、一次も通りませんが、まぁ、書くのが好きだからしょうがないわけで、気長にいきます。
それとこれは、表紙二冊を合わせると五人組になって、戦隊物っぽくなります。
………。本棚にそっと戻しておきました。

小説をジャケ買いしました。『空の境界上・下』というやつです。まだ読んでないですけど、2004年6月5日第1刷で、6月24日で第3刷になっていて、やけに早いなぁと思いました。

津原やすみ様。妹に知っているかと尋ねた所、知っていると言うので、男の人だって知っているかと聞いた所、ショックと言う一言だけが返ってきました。
言わない方が良かったのでしょうか。それとも、男性であることを気付かせなかった文章力に素直に賞賛すべきでしょうか。 

169 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年07月05日(月) 10時55分38秒
秋月さま。師匠って誰のことだろう、としばらく読んでジブンのことらしいと気づき、赤面。お気遣いはありがたいのですが、どうかこんなバカにそんな優雅なオコトバをたまわりませんように。ほんまはずかしいです。おねがいですからやめてください。
とーきょーしょーねんじゅーじぐんは、雑誌のコバルトに連載ワクをいただいたものの、『創世記』にチラッと書いたようにその頃はもう姥桜感というかお茶ヒイてます感がヒシヒシしていて、いったい何をかいたらいいものなのかすっかり迷って困ってしまい、いまどき(そのとき)の読者のひとたちがどんなのならイヤがらないで読んでくれるのだろうか? と柄にもなくアサハカに計算高くなろうとし、「よーし、ジャニーズジュニア(当時の)でやる連ドラで、ちょっとヤオイの入った戦隊モノみたいなのにしよう!」と、まぁよけばいいのに、本来持っているジブンの資質や抜けないクセなどとは(たぶん)違うものを無理やり演じようとしてみたらああなった、みたいなものです。読者のかたにはまったく申し訳なかったです。あれがコバルトの(平成晩おかみきをのぞいて)わたしのラスト本なんじゃないでしょうか。
ようするに「あれで」空の境界ならぬカラッポの限界をつくづく感じてしまって……それっきりいまだにどこにも根をはれぬまま放浪しているかも。でも、テニスの出てくる話だけは例外的に好きです。アホっぽく突き抜けていて、「この手はあるかもしれない」とひとつの希望は抱きました。ただし、当時も、現在も、まったくなんらほとんど話題にも評判にもならなかったです。むりもないです。

170 名前 : 伽海 凪 投稿日 : 2004年07月06日(火) 02時24分51秒
レスが遅れてしまったせいで話を戻すようになってしまうので先に謝ります。すみません。

>久美先生
>たぶん回答はこれ。知らないから。

盲点でした。
大人になると「知らない」ことが恥ずかしいことだと認識される。
この辺りは日本の詰め込み式教育が関わっているのではないかとふと思ったりもします。

歴史的に日本は古代は唐の国、近代では西欧の異文化をレベル高いものとして進んで受け入れてきた。ということはレベルが高いと認識されたものは受け入れるのに抵抗がない。
同じように、「知らない」モノでも、外国から入ってきたものに対してはあまり馬鹿にしない。それは「外国のものだから」ということで知らないのももっともである言い訳ができるせいでもありましょうが、おそらく西欧かぶれ時代の名残なんでしょうね。

古今東西、次世代型の文化や考え方は前世代に排除されそうになりますが、民族的に新しいものを受け入れることそのものはそれほど難しくないのだから、自文化からでてきた新しいものも、自分の下地でわからなくても真っ先に否定しないで、スキかキライかくらいは判断できるまで少し努力ができるようになったらいいのにな。


>秋月さま
>感情移入は、自分もそう思うことの共感。
>自己投影は、自分もその場で体験する体感。
>それともう一つ。
>自己陶酔は、自分を見出す快感。

ありがとうございます。私がいいたかったのはまさにそれです。
口をはさむ隙もございません。
楽しみ方の違いをそれぞれの人々が理解していれば、きっと住み分け(?)や読み分けができて一方を好むひとがもう一方を白い目でみるようなことはおきないかもしれませんね。


鶴田欣也「『向こう側』の文学」という文章を読みました。
これを見てみるとライトノベルは結構スゴイものではないかと思いました。
私の解釈にもよってしまっているかもしれませんが……

西洋の小説は主人公がなにかの意味で主人公が成長する過程を描いたもので初めから終わりまでには時間の経過があり、その点では主人公の旅であって、旅の終わりには始めと較べて主人公の内部になんらかの変化がなくてはならない。自己の環境と戦い、次第に成長して個我を確立させていく。読者はその過程に参加する(!)喜びを味わう。
比べて、「大人が子供になるような感じのする旅」、「退行の旅」「母胎回帰の旅」が日本の芸術的香りのたかい作品におおいと。日本の地味に含まれた抒情性のせいらしいです。

こうしてみると、漫画とかライトノベルは前者のほうの傾向があります。
ライトノベルは回って回って出発の辺り(小説文学は輸入品だから)に戻ってきた形態に見える。
だがライトノベルに日本の抒情性がないかといったらそうではないと思う。パッと見は西欧(何かと闘って生きぬき成長する)風のものが多いけれど、日本の昔から続いてきたロマンティズムやセンチメンタリズムを併せ持ったものも混在している。
これは文学の発展の一種とはいえないでしょうか。

ライトノベルのレーベルができた当初はそのままライトノベル=軽い読み物しかなかったと思います。で、逆に「軽い」ということから、純文学の制限枠ようなものがとっぱらわれたと。だからぼたもち的にこういう純文学ではできなかった方向に枝が伸びていけたのでは。
そういうわけで、現在のライトノベルの方向事体は文学の退化ではないと思います。個人的には発展だといいたい。表現のしかたが増えたのだから。
前にもでたように、あんまりよろしくないものがあるのは純文も同じですしね。

いかん。結局かたくるしくなってしまった。気をつけるつもりだったのに。


今日自転車を扱いでいたら急に思い出し感動をしました。ドラゴンファームでロシオさんが言った言葉、
「あなたの神さまにもお礼をいわせてください」
言い知れぬものを覚えました。他人を尊重した、宗教戦争の遠い言葉です。
ドラゴンファームシリーズは読んだことない人には是非読んで欲しい。価値観が広がります。


171 名前 : 秋月流奈 投稿日 : 2004年07月06日(火) 02時55分59秒
では、師父とお呼びしましょうか?
やめてくれと言う声が聞こえてきそうですね。
テニスの出てくる話? 記憶は忘却の彼方に。読み返してみますかね。十年振りに。
テニスと言うと、僕は真っ先に思い浮かぶのが『テニスの王子様』です。くみにゃ様はエースをねらえかもしれませんが。
と言うわけで(どう言うわけだ)、ジャンプを読みました。
だからと言って、漫画の話をするわけではありません。
ジャンプ小説大賞の選考が載っていたので、それについてです。
応募作の8〜9割近くが一人称の文体だったそうです。
自分も一人称で書いている立場上、選考委員の評価が気になりましたが、選考委員の方々は一人称は思っているより難しいんだということを強調されていました。
一人よがりな文章になり、説明ができていない。キャラクターが作れていない。と言うことでした。
少し考えさせられるコメントでした。確かに一人称は主点で書きます。だからこそ、全体を把握して書かなければできない。そう考えると、書き方を考え直さなければいけないかもしれません。
他には、凄みのある作品がなかったと言うコメントが気になりました。何十年もプロでやっているような凄み。一ヵ所でもそれが見られれば印象が変わるだろうと言うものでした。くみにゃ様の十八番ではないですか。
それは、本気でプロとして書いていく覚悟が足りないからだと言うことで、確かに本気で書いた作品であるとは言えるけれど、落ちたら死ぬ覚悟があるかと聞かれれば、それだけの覚悟を作品に込めてはいなかった。
それと、主人公の年齢が小学生、中学生でした。ああ、この辺りが読者層なんだ。正直、苦手です。と言うより、僕の書きたいものを表現するのには、高校生以上でないとできないのです。
それでいくと、リーマンオカダのサッカー観戦奮闘記は、設定の時点でやばいです。リストラ間際の中年サラリーマンが主役なんて………。年内には完成させたいですね。最高の喜劇として、仏教徒のバッジョをどう使おうかな。

172 名前 : とぎみさま 投稿日 : 2004年07月06日(火) 08時50分27秒
とぎみさま。おひさー。

うん。知らないのってしょうがないよねー(笑)

わたしなんかほんとアレも知らないこれも知らない、あんまり知らない知らないって平気で言いまくって開き直っちゃってるように見えるのもどうかと思うけども、自分のギョーカイ内部および近隣の話題作ですら山のように「読んでない」「観てない」「知らない」へたすると「聞いたこともない」。でもこれはもう……すまんが、しょうがない! だって全部ちゃんと味わおうと思ったらとてもじゃないけど時間が足りないし、「いいよー」っていわれるものに全部手を出そうとすれば、予算もかかるし。

四半世紀も「プロ」をやっていると、つい「勉強になるもの」「参考になるもの」をまず優先して視聴読しようとしちゃうし、そーでもなくても「読まなきゃならないもの」(解説を書けといわれた、あるいは、知り合いが自著をくれたなど)が倒れそうなぐらいたまってく。でも、

これは、むかし税務署から追徴課税しにきたおじちゃんに、マジ、リキ説したんだけど、

楽しみのために読んだり観たり聞いたりするものだって、滋養になり、骨になり筋肉になり、まわりにまわって役に立つ!!!

んだよね。

(ちなみに某税務署の職員さんは、本とかビデオとかを買った代金は領収証を出しゃいいってもんじゃない、タイトルや内容を明記して、どの本のどの部分にどのように具体的に役立ったかリストアップしないかぎり、必要経費としてなどけっして認めない! とおっしゃった。
そんなバカな、そんなことに時間とテマなんかさけません、第一、モノカキは一年365日24時間のべつうす〜く営業中なのであって、たとえば美容院でヒマつぶしにたまさか手にとった雑誌の記事からだってネタを拾ってくることがありうる、どこで何を見つけるかわからないから、こっちもジバラを切ってでもできるだけアンテナたてて何でも積極的に見たり聞いたり食べたり旅行いったり、どんどんせないかんねん! そうやって常にストックを心掛けておかないとアッという間にネタギレになりまんねん! それを経費として認めてもらえないなんて信じられない! とかなんとか、さんざん主張しましたです。全面的に受け入れてはもらえませんでしたが)

そんなこんなで。
まー。
「一刻もはやく読んで理解せんといかん!」と気負って読むものに疲れたら、いいか悪いかもわかんないけどなんだかちょっと目にとまってしまって買ってしまった別にいま読まなくてもいいもの、のうち、「なんとなくいまな気分なもの」を読むわけですが、それはやっぱ基本だっつーか、ほんとうに心の底から嬉しいっつーか楽しいっつーか、そういうときこそ、こころのストレッチみたいなのができるような気がするます。

バブリーな頃はすべてがイケイケどんどんでなんかやたらセッカチになっていたし、不景気気分が蔓延してからは、だったら少しノンビリすりゃいいだろうに、これまた、結果がすぐ出ないことにはなかなか予算とか時間とかあたたかな気持ちとかをかける余裕ってもんがなくなってきちゃったりしてません?
よーするに「視野狭窄」型なんだよね。
すぐわかるとか、すぐ役立つとか、いま必要とかいうものばっかりがモテはやされちゃってねぇ。

そーゆーことを感じたとき、わたしは、アウラさんのカレーを思い出しますです。
とあるインド料理教室の「文化祭」?みたいなやつにたまさか行って、そこのカレーをいただいたら、とてもとても美味しかったんで、作り方の本、わかりやすそうなの、買ってかえったんです。
すると「まずタマネギを弱火でいためます」ってかいてあった。
何せ弱火。そーとー長いこといためても、写真のようにならない。
しょうがないから(うまいものを食いたい一心で)だ〜らだ〜ら延々と、根性すえていためつづけてみて。結局、タマネギさんが「見本」のとおりになるまでには、軽く30分以上かかった。

ああ、インドの悠久の民にとっては、30分もただただ鍋の前にたちんぼでタマネギをのべつかきまわしている(ちょっとでもほっとくとコゲるんですこれが)ことは、なんでもないことなのだ……!
毎日やっているごくふつうのことなんだ! と実感しましたです。

そーいや、昔はお米を焚くんだって、薪割って、井戸水くんで、はかって研いで(へたするとその前に、ビンにいれて棒でつっついて精米して)、オカマしかけて、はじめちょろちょろなかぱっぱ、しっかり様子というかタイミングというかうかがっておかなきゃならなかったわけだし、センタクだってソウジだって、電化製品なしでやろうと思ったらそらーテマで、やたら時間くうですよ。
けど、昨今のおくさま雑誌には、ともすると「10分でできる献立」とか「四人分500円以下なのに見た目ゴージャス」とかってレシピがのってる。もちろんわたくしめもいつもなにかっつーとそういうのを参考にさせていただくわけですが。

そーゆー感覚が、読むものを含めた娯楽一般にも繋がっているよねー。しかも娯楽があふれてるから、どーせ二時間使うんだったら、こっちのほうが楽しめる度も高いし、話題にできる度も高いし、ダンゼン効率がいいぞ! みたいな選択をついやっちゃうよねー。
で、
知らないものに手を出すっつーと、慣れないからわかりにくいし、つまんないハズレかもしれないし、そりゃ腰も重くなると。

おとなが知らないものに冷たいのは、おとなになるほど一日がそして一年が、アッという間にすぎてしまうからかもしれない。ただでさえ乏しい時間をムダにしたくない。慣れてなじんでるものとだけかかわっているほうがラクだ。それに……若いコに「これ、わたしはあいにくとまったく知りません。すみませんが、ちょっと軽く初心者入門篇みたいな感じに解説してくれませんか?」「はじめてだったらどのへんからとっくんだらいいですかね?」なんて聞いたり頼んだりするみたいなのは、イヤだ、ってひともいるからね。

ほんとは「詳しいひと」に聞くのって面白いのにねぇ。

秋月さま。

あー。一人称は難しいです。でも三人称だってもちろん難しいし、二人称なんてのは手を出してはいけないぐらい難しいです。一人称「しか」書けないから一人称で応募します、というのは、平泳ぎしかできないのに自由形の試合に出ちゃうようなもんだと思います。たまたま一緒のプールに入ったほかのひとのクロールの腕にもよりますが、キタジマコースケ級の平泳ぎでないかぎり、そりゃ普通クロールのほうが勝つだろ、みたいなこと。あっ比喩はいけないんだったごめーん!

秋月さまご自身がおいくつで、リストラ間際のリーマンものをお書きになろうとなさっておられるのかわかりませんが、それってもしかするとライトノベルじゃないほうがいいかも。貫井徳朗さんはまだお若いうちにあの『慟哭』をお書きになり、若いからって年配のひとの気持ちが分からないなんてことはないんだ! っていうのをみごとに証明なさいましたですが……そーゆー、ちょっと社会派系の(『慟哭』はジャンルわけするとたぶん本格に入るものだと思いますが、なにしろヒトククリにできないすごい作品です)分野とかのほうがいいかも。
生活年齢は精神年齢とはべつなものですが、ふつーは実際に経験したことのほうがリアルに書ける。ちょっとしたエピソードとか、コトバの言い回しとかね。ただし「なまじ自分の体験だけを書こうとすると」限界もはやいことやってくる。するってーと……

聞き上手・あるいは盗み上手

これがすごい武器になると思いますねぇ。

ちなみにわたしはいま『陋巷に在り』をメインに、その他あちこちからもらったのとか買ったのとかを適宜おりまぜながら読んでおりますが、すると「いやー小説ってほんとなんでもありなんだなぁ」とつくづく思いますです。レーベルやジャンルに拘束されずに、手法とか技術も「安全牌」を握り締めずに、なんでもやってみるのがやっぱいいのかなぁ、なんて思ってましたです。


















173 名前 : 投稿日 : 2004年07月06日(火) 15時49分53秒
172は投稿者名が間違えているような気が。
くみにゃさん……ですよね。

174 名前 : 来無 投稿日 : 2004年07月06日(火) 16時06分01秒
久美様(ですよね?)
>全面的に受け入れてはもらえませんでしたが
それは、さすがに自己投資を必要経費として認めろというのは無茶ではないか、と。
心の栄養やネタのストックが必要なのはモノ書きに限らず、サラリーマンだって必要ですが、それを全部認めたら、支出=必要経費になってしまいますし。
心がけとしての「必要」と、小説を書くのに鉛筆が何本、紙が何枚、パソコンが何台必要という経費上の「必要」はやっぱり違うでしょう。
やはり、参考資料など仕事に実際使われている物以外は経費にならない。どれがどこに使われているか証明が必要という、税務署職員の言い分に分があるか、と。(リストアップで説明しろってのも無茶でしょうけどもねえ…)
本の最後に、参考文献としてきちんと掲げておく、と良いのではないかと。逆にどこを参考にしてるねん、と突っ込まれるような物は、掲げ難いわけで、そういう物は必要経費にはならない。とそういうことではないでしょうか。
時代小説しか書いてない人がハワイに取材旅行っても、普通は通りませんでしょう、常識的に。どこでどうハワイが絡むのか説明しないと。
クリエーターは控除の対象にならない自己投資の必要性が他より高い、その分、当たればでっかい。ハイリスクハイリターンということではないでしょうか。

>すぐわかるとか、すぐ役立つとか、いま必要とかいうものばっかりがモテはやされちゃってねぇ。
私の場合、実用的、という言葉でイメージするのはこれ、です。なので、それはちゃうぞ、と言い張っているわけです。

>なんて聞いたり頼んだりするみたいなのは、イヤだ、ってひともいるからね。
例外は多々在りますが、大抵の「オッサン」は、そんな感じだと思います。
散々、下げたくもない頭を下げて、ようやく頭を下げてもらう方が多くなったのに、いまさら若造に頭を下げたくはない、という部分がかなりあるでしょう。
また、新しい価値観を認めることは、それまで積み重ねた価値が崩壊する可能性があり、それを本能的に忌避する、という部分もあるか、と思います。

175 名前 : 秋月流奈 投稿日 : 2004年07月07日(水) 00時22分47秒
>伽海様
なんとなく言いたいことが判ったのですよ。
だから、八割がたは伽海様の言葉です。口を挟む隙がないなどと、とんでもないです。
過大評価しすぎです。
くみにゃ様ではないですが、なぜここまで僕は否定してるんだろう。僕も褒められるは苦手です。
しかし、この時は珍しくいいこと書いたなぁ。

>くみにゃ様
笑わせないで下さい。わざと………ではないですね。くみにゃ様も僕と同じで不器用な人間でしょうから。
水泳。中学時代のエピソードですが、クラス内でリレーをしました。僕はアンカーでした(両チームとも一番泳げない人がアンカーにされていた)。
レースはほぼ互角で、若干僕のチームがリードしていました。
そして、最後に僕が………平泳ぎで締めました。
何で平泳ぎなんだよ。最後、笑って終わりました。勝敗は、なんかどうでもいい雰囲気になっていました。
でも、しょうがないんです。当時、僕が唯一25メートル泳げる泳法が平泳ぎだったんですから。僕には、他の選択肢はなかった。
キタジマコースケ級の平泳ぎ。いいじゃないですか。かっこいいですよ。でも、キタジマ選手はちゃんとクロールできる。その上で平泳ぎやってるんだ。と、そう言いたいわけですよね。
でも、どうせならイアン・ソープを目指したい。変換ミスしたらやばい言葉になりそうでした。

………馬鹿な。168の書き込みでちゃんと年齢書いてあるのに。

その中で、二冊珍しい本と再会しました。その本のタイトルは、『東京少年十字軍(上・下)』です。上巻は1993年1月10日第1刷。第2刷が1993年12月20日でした。下巻は1993年2月10日でこれは初版で持っています。
今から約11年前………それは僕が、12歳。小学6年生の時に読んでいた本ですよ。師匠。

僕は今22歳です(年取ったなぁ)。今月の29日で23になります。
リストラ間際のリーマンものというかですね、主人公のオカダは昔サッカー選手だったわけです。20年くらい前の、プロのない時代ですよ。
で、事故によりサッカーができなくなってしまって、オカダは悲しみと絶望にくれます。
それを救ってくれたのが、チームメイトで親友のカマタでした。カマタは、俺はお前の代わりにプレーできないが、お前の分までプレーして必ず日本を、お前をW杯に連れて行くと約束しました。
アウェーでの試合が終わり、帰る直前にカマタの奥さんが産気づいたので、カマタだけ別の便で帰ることになったんですが、その飛行機が墜落してしまう。
そして、オカダはサッカーそのものから一度離れるんですが、専務の息子がサッカーやってて、少年サッカーチームの監督をすることになるわけです。
このチームでオカダはサカタに出会い、決勝戦でバッジョと戦います。
オカダは本当にサッカーが好きな男だったので、上手い選手と頑張っている選手を試合に出しました。それで、専務の息子をレギュラーからはずしたので、監督を解任されてしまうのです。
こうして、またサッカーから離れてしまうんですが、その時の教え子達がプロになってW杯出場を決めたのをきっかけに、オカダは20年前においてきた忘れ物を取りにW杯が行われるドイツに行くことを決意する。
で、これでもかとだめっぷりを書いて、くみにゃ様にこれは笑える喜劇ですよ。と、いつか薦めてみたい作品なのです。
最後は、仏教徒のバッジョがゴールに大仏蹴りこむわけですよ。
で、ここでは書きませんが、本当のラストではオカダは最後に男になります。
家事押し付けられてる夫じゃない。先に風呂入って怒られてる親父じゃない。
ラストサムライとして、人類最強の霊長類GKのカーンと一騎打ちするのです。
ありえねぇ。普通の内容だったらこのラストは絶対無い。
ライトノベルはやめた方がいいと言われても、純文学はもっと無理だと思う。
角川NEXTとかメフィスト賞に送った方がいいのかな。ここはエンターテインメントだから。

176 名前 : くみばか 投稿日 : 2004年07月07日(水) 10時03分14秒
すみません172はわたしです。いつもくみにゃのくみばかです。

>自己投資を必要経費として認めろというのは無茶

日常のゴハンの材料とか、生活用品とか、ちょっと近所の温泉にはいりにいくとかは、経費にしろっていいはらないですけど(←これで遠慮しているつもり)
会社だと、福利厚生費っつーのがあるんだから、温泉は認めてもらってもいいような気もしたり……

冗談はさておき、たとえばいわゆる銀座の文壇バーとかの「接待交際費」がたいがい認められるんだったら(ぜんぶいちいち、その接待が誰のなんという作品のどのシーンに具体的に役にたったと証明なんかできないでしょう)、カリソメにもプロが本を買って「いずれ何かの役にたつこともあろうかと」読んでたら、そりゃ「参考資料」だよ、と思うんですけど……なにしろ題名とか控えるのはウンザリだったので、「割合」で許してもらうことにして、以来、領収証の金額×ウンパーセントで計算してますが、その後は一度も叱られたことがありません。そもそもミイリがあまりにも少なくなったので、ハナもひっかけられなければ目もつけられなくなったということじゃないかと思いますが。

>散々、下げたくもない頭を下げて、ようやく頭を下げてもらう方が多くなったのに、いまさら

なるほどなぁ。
それはわかるなぁ。
ちょっと違うかもしれないけど……ちょっと前の世代だと、おシュートさんやおシュートメさんに「嫁として仕える」みたいなのがアタリマエだと思われてて、さんざんそれやって耐えてきたのに、やっとこんどは自分がムスコの嫁もらうほうになったら、なんだかいつの間にか嫁のほうが偉くてふんぞりかえってて、スミッコで遠慮してないといけなくなっちゃった……みたいなひとがけっこういるんじゃないかしら。そういうのはほんとに気の毒だと思う。

とはいえ、アタマさげるとかさげられるとかって、あんまり好きじゃないなー。ふつーにお互いそれぞれだねって尊重できて、得意な分野は得意なひとが不得意なひとの分もちょっとだけがんばって、そのかし別な分野では別なひとに助けてもらって、助けてくれてほんとうにありがとう、わたしもどっかで誰かを助けられたら助けるね、でいいじゃん、って思うわたしはイデアリスト?

>唯一25メートル泳げる泳法が平泳ぎ

わはははははは。それはしょうがない。でも、平泳ぎでもちゃんと25メートル泳げてよかったじゃんっ! 
そういえばわたしが最初にマスターしたのは犬掻き、次がバタ足潜水だった。どちらも25メートルいけました。平泳ぎよりクロールより先に。ようするに、ちゃんとしたフォーム、ことに、イキツギがニガテだったんやね。
犬掻きなら、ずっと顔が出てて息ができてるし(なかなか前にすすまないけど)潜水は息をしないでとにかく速くいきゃーいいんで。

>オカダ

まんま書いたらたぶん新人賞はむずかしい。肖像権侵害とかなんとかでひっかかるから。「たぶんこれはオカダだな」「カマモトだな」「バッジョだな」とわかるように、うまいこと別なひとのフリして書けたらいいですね。


































177 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年07月07日(水) 10時05分29秒
なんでこんなに空欄がはいっちゃうの?
ちゃんと最後の行からアトになんにもないの確認してからカキコミしているはずなのにー。こんどはどうだ。

178 名前 : 風狐 投稿日 : 2004年07月07日(水) 11時40分10秒
>くみにゃさま

たぶんですが…

>最後の行からアトになんにもないの確認してから
>カキコミしているはずなのにー。

この作業をなさっている時に、改行キーをいれちゃってるのでは
ないでしょうか?
改行キーも反映されちゃいますので。
バックスペースキーで消せますよ〜。>改行キー入れたあと

179 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年07月07日(水) 12時39分57秒
風狐さま。ありがとう。たぶんそれ。
いっぱい書いて、消して空白にしても……ダメなのね。改行がはいってると。こんどから気をつけます。みなさんすみません。

180 名前 : 秋月流奈 投稿日 : 2004年07月08日(木) 02時10分45秒
>くみにゃ様
水泳後日談として、僕はクロール5メートルしか泳げなかったのです。
そして、ある時先生にけのびしてみろと言われました。壁蹴って後何もしないあれです。
………10メートルでした。15メートルは泳げるはずだと言われました。
結果として、何度かの補習の後25メートルを泳げるようになりました。
その後、これが役に立ったことはありません。25メートルじゃ岸まで泳ぎきるのは不可能だし。

>オカダ
大丈夫です。名前変えてます。
後、カマモトじゃなくてカマタですから。その辺は架空人物、架空設定で構成しております。
事故ったり、死んだりとか、いくら何でもそこまで危ない橋は渡りませんよ。
でも、これでいくと試合結果とかをいじくってもいいな。むしろその方がフィクションとして楽しめるかも。
バッジョに関しても、日本帰化させて炉部留斗バッジョなら別人なのでOKなのでは。後はそれらしく見せる。
後はゴリラー・カーンとか。
それとも、内容が新人賞に足るものではなく、練り直せということでしょうか。

>肖像権
昔読んでたマガジンのビバカルチョというセリエAを舞台にした漫画は、チームも選手も実名でした。架空の主人公と試合結果が確か違うだけだったと思います。
似てるとかではなく、絵もまんま本人でした。
許可をとっていたんですかね。大人の世界を垣間見たような気分です。
くみにゃ様が以前断念したのもこの辺の事情があったからでしょうか。


181 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年07月08日(木) 07時45分52秒
そうだよねぇ。クロールって疲れるもんねぇ。海水浴ではあんまり使わないし……ダイビングとかでも使わないし。生命守る役には平泳ぎができるほうがいいな。お遊びで、ちょっと転覆しそうなボートに乗るときはみなさま、かならず、救命胴衣を着ましょうね! 着衣のまま泳ぐのは「古式泳法」(ノシとか)がマダシモですが、すんごい疲れるので。……って話がどんどんズレてるぞ。

>マガジンのビバカルチョというセリエAを舞台にした漫画

少年マンガはなんか特別なルートあるいはルールがあるのかも……その昔から『巨人の☆』とか『侍ジャイアンツ』とか『赤き血のイレブン』とかあって、「まんま」出てくるひともいたし……反対に、ミズシマ先生が描いてから「明訓」ができたり、「ドカベン」って呼ばれるひとが出たりした……んだよね、たしか? 

断念したのには、「いちいち選手の許可を取らなきゃならないとしたらめんどくさい」というのがあったことも重要でしたが、「有名選手の正確な思想信仰」を調べられるのかどうか自身がなくて。ブラジルの選手とか、よくキックの前に十字を切ってるから「たぶんキリスト教のどれか」だろうとは思うんだけど、分派? がいろいろあるじゃないですか。アメリカ合衆国内の宗教や教会の雰囲気なんかはミステリーとかを読むとけっこう出てくるんだけど(これがまた、いっこいっこ実にとんでもなく違う。うっかり混同したらものすごく怒られそう)、その上、中南米のとかっていったら、皆目わからなくて。

182 名前 : 伽海 凪 投稿日 : 2004年07月08日(木) 20時33分40秒
私は井戸が好きです。見かけるとちょっとときめきます。井戸は残っているのに塞がれていると悲しいです。現代のスピードは早い。早すぎる。もっとゆっくりかっこんかっこん出来たらいくらでも時間掛けてものをやるのになあ、わたし。
寿命がとてもとても延びたのに、どうしてこんなに世界から時間がなくなってしまったのだろう。
なんでこんなにひとはいつでもいっぱいいっぱいなんだろう。
うーん。

>知らないものに手を出すっつーと、慣れないからわかりにくいし、つまんないハズレかもしれないし、そりゃ腰も重くなると。
び、微妙に心当たりが。
わたしも全然知らない本は誰かが進めてくれたり読んでいたり話題になっていたりと前情報がないと自分から読もうって思わない……(金銭的な理由もあるんですけど)。
これの拡大型なのかしら。
だとしたらやばいよわたし。
人からモノを聞くのは大好きなんだけどなあ。知らないから教えて、っていうとうちの父のようになぜか教えてくれているうちに不機嫌になってしまう人は別として、大体の人が丁寧に聞きたいこと教えてくれるし。自ら「書いてあげるよ」といってくれるひとはとてもありがたいし。

チャレンジ精神がなくなったら、人生がどのくらいでもやった内容かわらないだろうに。


ところで、出版禁止用語って、なんなんですかね。わたしはこれあまり好きでないです。
前に冲方先生がご自身の日記で、宗教用語を変えなくてはならないとぼやいてらっしゃいましたが。

183 名前 : 秋月流奈 投稿日 : 2004年07月08日(木) 20時42分52秒
プロット作り始めたら、何だか難しいもののような気がしてきました。
今まで、ライトノベル系のファンタジーしか書いてこなかったつけがここにきてきたような感じです。
ファンタジーは架空世界なので、自分に都合のいいように設定してましたけど、今回はある程度リアルに書かなければならない。
ドイツのこととか、ある程度の選手の情報。
一人称でいくか三人称でいくかも悩んでます。
観戦記だと、一人称の方が自然な気もするし………でも、難しいんですよね。だからと言って、三人称も簡単なわけではないが。
もう少し練って、どちらが合うか考えてみます。

184 名前 : 来無 投稿日 : 2004年07月08日(木) 20時50分55秒
文豪が長逗留しるので有名な宿を取るというのはどうでしょう。
人目に解りやすいように原稿用紙の束をもっていって、原稿執筆の環境整備と言い張ってみるとか。
スポーツ選手やレッスンプロなんかは日々の食事がそれこそ仕事の内だと思うんですが割合で控除になるんでしょうか?なったらいいなぁ…
営業のサラリーマンだと現代やポスト場合によったらヌード写真集だって見とかないと仕事にならないんですけど…基礎控除で認められてるとは言い難いってかスーツ代なんか2着分らしいです、算定基準(絶対そんなもんで済まない筈ですが)
早めにタックスフリーの外国に移住するのが良いかもしれませんねえ…年金だって破綻するのが目に見えてるし…

>イデアリスト
そういう所で謙虚で居られる人はオッサンとかオヤジとかは呼ばれないんでしょう。頑迷であっても得意な部分がずば抜けてれば親しみも込めてオヤジ、オッサンと言われる事もあるでしょうけれど。

>クロールって疲れるもんねぇ。
泳ぎ方や技術にもよるのでしょうが、一定の距離を泳がなきゃ行けないときは、速度の速いクロールの方が疲れませんよ。ドーバー渡りなんかでも平泳ぎはあんまり使われなかったはずです。水泳はちゃんと浮きさえすれば体力が続く限り泳げます。遭難時に泳ぐのはタブーですので、まず浮く、と。生命守る泳法としては背泳ぎ(浮きやすい&内蔵を多少なり冷やしにくい)、次にクロール(泳げる距離であれば短時間で泳ぎきれる;もたもたしてると状況が悪くなる場合がある)がお勧めです。
>少年マンガはなんか特別なルートあるいはルールがあるのかも
昔は著作権も肖像権も認識が緩かった&宣伝&所詮漫画&子供が読む=将来のファン確保、あたりで厳しくなかったのでは?
明訓はもともと新潟明訓が先(80年の歴史)、新潟出身の氏がそれをモデルにしたと言われてます。浪商(南海)の香川がドカベンと呼ばれたのは山田太郎に酷似してたからでしょうが(ドカベンが始まった頃は香川氏も小学生だった筈)、ドカベンには実在の人物をモデルにしたキャラが一杯出て来ます。山田にもモデルは居るんじゃないかと思いますが、解りません。

185 名前 : 秋月流奈 投稿日 : 2004年07月08日(木) 23時36分22秒
>生命守る泳法としては背泳ぎ
来無様頭いい。僕もこれに一票。疲れても浮いていればいいわけですから。
でも、船が沈んだとかのパニック状態に陥ると、泳ぎに自信が無い人はこういう冷静な判断できないかも。
足がつくとこで溺れるのと同じように。

186 名前 : 来無 投稿日 : 2004年07月09日(金) 03時30分28秒
伽海さま
>出版禁止用語
全く、何の益にもならない下らない決めごとだと思います
人道主義の皮をかぶった事なかれ主義の産物。といったら怒られるんでしょうかね。確かに、無闇に使っちゃいけない言葉ってのはあるでしょうが禁止にしなきゃいけない言葉なんか無いと思うんですけどね。クレーマー対策なんでしょう、主には。何故か、「片手落ち」が肢体欠損者に対する差別語だ、って言う人間が居るんだから世の中解らないもんです。
放送禁止用語の方でですが、八百屋だとか床屋だとかは差別語で禁止なんだそうです。馬鹿げてると思うのですが、床屋が駄目で理容師、理髪店等と言い換えてみて最終的にバーバーになった事例を知っています。元はアドリブのツッコミだったんですが、台詞が締まらないだけでなく何言ってんだか良く分からない結果になってしまいました。
気を回し過ぎて結果ものを考えてない自主規制も困りものですが、問題意識発揚のためといって無闇にクレームをつける側にも困りものです。
以前、TVで解放同盟の人が「言葉狩りをしたいんじゃない。意識改革の為の議論をしたいんだ、なのに、勝手に自主規制されてしまう」みたいなことを言ってたんですが、商売でやってる方はいちいち議論してる暇も金もないのが実情で、結果予防策として過剰な規制が発生、百害あって一理も無いような始末になると。クレームを吹っかけて議論に持ち込もうなんてのはテロリストの発想だと思ったり。
昔の時代劇なんかがLDやDVDになると音声ぶつ切りです。差別や身分制度があって当たり前だった時代を差別語なしで描くなんて無理だろうとおもうんですけどもね。中世風ファンタジーなんかどうせい、と。最近よく見かける巻末や巻頭の「時代性を考慮し云々作者に差別助長の意思は全くありません」みたいなのも、邪魔臭くってしょうがないです。人の事を言えた義理ではないのですが文脈を理解出来ない人というのは予想以上に多いようです。

187 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年07月09日(金) 06時00分24秒
自主規制用語は放送のほうが圧倒的に多いですね。ところが本を読むひとよりはテレビを見るひとのほうがこれまた圧倒的に多いので、テレビで極力使わないようにしているコトバは「つかっちゃいけないもの」みたいに思われがちでもあり。「政治的に正しい言い方」という言い方もあったなぁ。
いわゆるマズいコトバなんかゼロでも、サベツ的視野狭窄的短絡的な発言っていうのはいくらでも言えるし書けちゃう。言い回しというやつからは、ともすると本人がひごろ無防備に何を考えているかが透けてみえちゃいますからねぇ。
『狂った果実』だったかなぁ、石原裕次郎が、弟役の気弱でナイーヴな津原雅彦にニヤニヤ笑いながら「この……ピー……」っていっていたりすると、「ほんとうは何て言ってたんだああ!?」ってかえって好奇心そそっちゃうよね。ちなみに確か「小児マヒみたいな顔しやがって」かなんかです。肺病かクル病だったかも。逆に言えば、その頃には小児マヒとか肺結核とかクル病とかのかたが「どんなふうなみため」になるか、湘南の不良ぼっちゃん(の役柄です)にも、ちゃんとわかっていたんだね。正直わたしは、そういう病気になるとひとがどんなふうにみえるようになるのかぜんぜん知らないです。もしかしたら実際にあるいは画面上で目にしたことがあるのかもしれないけど、わからないもの。

井戸。水道の便利より、たぶん、そこらに住むひとたち全員に必要な量が確保できなくて、どっかんちで汲むとよそで出なくなったりするで……場所によっては、農薬とか、なにがしみこんでるかわかんない怖さがあったりするせいで……なくなっていったんでわ。なにしろ井戸なら水道代タダだもん。

秋月さま。その「限界」の発見はきっと大きい! それまでじゅうぶんに広いと思っていたグラウンドが「せまい」と感じられるようになったとしたら、秋月さまの「ポテンシャル」がそれを越えたということだと思います。







188 名前 : 枝折 投稿日 : 2004年07月09日(金) 15時08分35秒
はじめまして。遅ればせながら『創世記』(及び過去ログ等)読ませていただきました。
あとひと月早く来ていればリアルタイムで参加できたのかと思うと残念ですが、
その場にいたら熱い議論に暑気当たり起こしそうだと「酸っぱいブドウ」。
いまさらだとは思いますが「素朴な感想」をいくつか。

>第10回
>若手SF小説家
背表紙画像のタイトル本、全部うちの書棚にあったりします。でもって。

「久美さま、ありがとうございます!」

あのなかの「銀河の夢」には久美さまご紹介の御三方の作品も入っています。
はじめて新井素子さん以外(以降?)の若手SF作家さんを知ったのがこの本で、
そこからさらに他の作品は?と早川文庫JAの存在を知る(意識する)ようになり、
個人的なSFの裾野がすご〜く広がりました。
これもひとえに久美さまが御三方をコバルトに誘ってくださったおかげなんですね。
コバルト読者へのSF布教は失敗に終わったかもしれませんが、
コバルト読者よりもSF度を深めた信者(?)が少なくとも一人ここにおりますです。

>早川文庫は買取
だとわたしも思っているのですが、以前ある書店で当時毎月出ていたシリーズ(「ペ」ではないです)が発売日に並んでなかったので探してもらったところ、
手違いで返本の方に入っていたといわれたことが・・・あれはどういうことだったんだろう?

>第11回
>コバルト四人(五人?)娘
覚えてます。それどころか久美さんの似顔絵Tシャツ当ててます。でもって。

「久美さま、ごめんなさい!」

当時あの中で作品を読んだ事があったの新井さんだけでした。
しかしモノはTシャツ。一番びじ・・・デザイン的によく思えた久美さまのを選んでしまったのです。
コバルトのプレゼントにはマメに応募していたのですが後にも先にも当選したのはこの時だけ。
モノが届いた時には有頂天。すでに賞品はもうひとつあることをすっかり忘れていました。
そして秋になりコバルトより届いた一通の封筒には久美さまの直筆メッセージが!
その時は「ファン」でもないのにうわ〜ん、ごめんなさい状態だったんですが、
(2000人云々のお話を伺った後では尚更申し訳ないです。)
逆にそれで「久美沙織」という名前はしっかりインプットされて、新刊を見かけるたび手に取るようになり、やがてめでたく「ファン」になっていきました。
(ここでわたしのいう「ファン」は「金銭的な応援(売上に貢献)もする人」と定義しています。)
でも「ありがちのラブソング」をフツーに読んで面白がったり、
イラストが可愛過ぎたせいで「丘の上のミッキー」は読む前に退いてしまった自分など
「ハグレくー民」だったのかもしれませんが。

一言お礼とお詫びをのつもりが長くなってしまいました。
場の雰囲気にそぐわないようでしたら遠慮なくスルーなり削除なりして頂きます様、宜しくお願いします。

189 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年07月10日(土) 08時33分38秒
枝折さま。どもー。いやそーですか。そういうこともありますよ(でおくれティアヌスの話)。でも、百年ズレたらスレもなかったに違いない! と思えば、こうしてめぐりあえてよかったと思いたいです。

ハヤカワ書房の件。きのう会ったひとにも言われました。どうもカイトリではないらしい。わたしの誤解だったようです。過去のどっかの時点で「そうだった」とはあるんじゃないかなぁ。どこかのホンヤさんに「なんでおたくにはハヤカワの新刊がちっともないんだ」ともんくをいったら、取り寄せると返品できないからなんですー、といわれたことがあったような。もしかしてあれは嘘だったのか???

>くー民

これ、妙にかわいいです。

190 名前 : 秋月流奈 投稿日 : 2004年07月10日(土) 11時49分24秒
昨晩、会社の先輩に飲みに連れて行かれ、ここに来ることができなかった。
ちなみに、僕は酒が飲めません。嫌いなのです。
でも、こういう経験が後々の小説で活かせるかもしれないと自分に言い聞かせています。

>限界
限界を感じたことは、過去何回かありました。
場合によっては、一時期筆を置いたことも。
でも、その度に僕は話を考えるのが好きで、小説を書くのが好きなんだなぁと本当にそう思いました。
小説を書いていた時期で一番嫌だったことは、いつの間にか小説家になるために小説を書くようになっていたこと。
確かにそれは目標ではあるんだけど、それだけの気持ちは何か嫌だった。だから、書いてて辛いって思うことがその当時はよくあって。
今は、僕は書く度に成長してる。100作で駄目なら、101作目で。1000作で駄目なら、1001作目でって本当にそう思えるようになりました。
だから、今は物語を考えるのも小説を書くのも楽しい。確かに、今の僕では難しいことも沢山あるけれど、逆に言えばやりがいがある。
僕が小説を書く時に毎回思っていることは、今書いているものが一番面白いということ。
過去の作品を越えることが、自分の中の最低のボーダーライン。だから、僕の100作目は今の100倍面白くなるわけですよ。そしたら、どっかにひっかかるくらいはするんじゃないかな。
今まで書いたことのないものを書く。それは、全く未知の領域。正直、怖い部分もある。だけど、このグラウンドでの自分のプレーは自分にも判らない。
相変わらずの平凡プレイヤーかもしれない、でもファンタジスタになれる可能性もないとは言えない。

>ポテンシャル
ポテンシャルが上がったのかどうかは判りませんが、久し振りに小説書いてみたら自分の文章に納得がいかなくなってました。
その時は、最近書いてなかったから腕が落ちたのかなとも思ったんですが、書きながら自分の文章が下手なことが判ってしまう。
で、一行一行、一段落で立ち止まって、これでいいのか、合ってるのかって考えて確認することが凄く多くなったんです。

あと、最近ライトノベル以外も読むようにしました。児童文学とか、一般のも。
もしかしたら、凄い化学変化が起こるかもしれないと思って。それしか書けないのと、それしか知らないのって何だか同じ気がして。
逆に自分に限界を作ってしまってるんではと思ったのです。
その分野では考えもつかなかった技術が、別の分野では当たり前のことだったり、関係ないと思っていたものが別のものとの組み合わせで画期的なものになったり。

>ダ・ヴィンチ
私にも小説が書けますかの特集で思わず購入。
そして、私がはじめて小説を書いたときという作家インタビューで滝本竜彦様が、
「オリジナルの小説は初めてだったので、無駄な修行時間を減らすためにハウツー本を相当読みました。久美沙織先生の『新人賞の獲り方おしえます』とか。あれはいい本です。基本を手とり足取り教えてくれます」
と、おっしゃられておりました。
改めて、師、もといくみにゃ様の偉大さに敬服です。

僕も本屋に行く度、………その、探してはいるんですが………作家くの欄で………お見かけすることが、残念ながら………。
もはや、注文する以外に手はないのだろうか。
くみにゃ様の性格からすると、注文しなくていいから図書館で借りた方が早いよとか言われるかもしれませんが。

191 名前 : 来無 投稿日 : 2004年07月10日(土) 17時02分28秒
秋月流奈さま
>僕の100作目は今の100倍面白くなるわけですよ
ちょっとイジワル(?)を言ってみる
1%ずつ面白さを増やしていくと100作目では(1.01^99)約2.68倍にしかなりません。
大体4.8%コンスタントにアップ出来て100倍という事になります。最低のボーダーラインは前作越えではなく104.8%越えにして下さい(10%だと約1万2500倍まで可能なのですが…複利って怖…)
麻の苗を飛び越す忍者のようで結構きつそうですが頑張って下さい。
#一日一回腕立て伏せを増やしていけば一年後には365回出来るようになります。喧嘩に弱くて虐められていたという子供のころにやってたら2年後くらいには番長クラスの腕力だったかと。(実際、私も(指立て伏せで)試したら半年後には指の第一関節だけで懸垂が可能になりました(^^))

>もはや、注文する以外に手はないのだろうか。
最初の奴は文庫版アマゾンで買えまっせ。書店に注文するよか全然速いですよ。もう一度…の文庫は在庫切れ、他はユーズドでしたけども。

192 名前 : 秋月流奈 投稿日 : 2004年07月10日(土) 23時23分38秒
>来無様
ありがとうございます。
僕の名前が出ているので何かと思ったら、笑ってしまいました。
2.68倍にしかならないんですね。
僕の小説より面白い漫談ですよ。
アルルカンか僕は。
4.8%コンスタントにアップ。リアルかつ微妙な数字ですね。
10%だと約1万2500倍まで可能。
さすがに………ここまでは、小学生の作文と比べても、その1万2500倍面白い小説ってかなりのものではないかと。
来無様は理数系の方なんでしょうか? 過去の書き込みを見ても、博識な方に見受けられますが。

今日の結論、努力は自分を裏切らない。
好きなことは、努力したとか頑張ったって言うなと言う人もいるので、口には出しませんが。

インターネットで買い物したことはないんですが、教えて頂いてありがとうございました。

>黒い殺し屋
この時期活発になる黒き疾風のごとき、目にも留まらぬ電光石火の暗殺者。
いやらしいほどに黒光りする光沢と、汚らわしい茶色の翼。
黒く、細く、長い。ともすれば自らの抜け毛と勘違いしてしまいそうな六本の四肢は、なぜこの足、この体躯で、この世に存在する全ての昆虫の素早さの法則を無視しているのか。
神の意志に反し、宇宙の真理を曲げる唯一の歪曲した存在。
台所という我が国土、聖域を貶める天空の支配者。
一度地上に降り立てば、誰も彼の者を捕らえることあたわず。
その者、黒い殺し屋なり。
と、嫌いなのにニックネームで奴を呼んでいます。ここんとこ毎晩、早いか飛ぶだけかどっちかにしろ!

193 名前 : 秋月流奈 投稿日 : 2004年07月10日(土) 23時33分01秒
>黒く、細く、長い。ともすれば自らの抜け毛と勘違いしてしまいそうな
ごめんなさい。ここ間違いです。触角だ。これ。
あと早いも速いかな。この場合。素早いならあってるんですけどね。
少し寝ぼけてます。もう寝ます。

194 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年07月11日(日) 09時51分17秒
>最近ライトノベル以外も読むようにしました。

奥田英朗さんの『イン・ザ・プール』と『空中ブランコ』読んでください。ハードカバーなのでちょっとお高いですが、何度読み返しても笑える、ちょっとココロが疲れたときに読むとホッと救われるから、まちがいなく「お買い得」だとわたしは思う。
精神科医伊良部一郎さんのところにやってきたさまざまな症状を持つ患者さんたちが、なんだかんだあるうちに、それぞれの悩みの原因を理解し、自分で解決しいく、みたいな、ステキであったかいお話の連作短編集。ちなみに今月の「本の雑誌」の嫌キャラ王選手権の読者アンケートに伊良部さんの名前があり「悪<ワル>ともバカともアホとも違う、生理的にいや〜なキャラ」といわれていてビックリしたんですけども、「早く続編が読みたくなるのがしゃくだよ!」ともおっしゃっているんだからこれはホメてるんだなと(笑)。わたしにとってはまったくぜんぜんイヤじゃないです。むしろ「できるなら、こんなひとにわたしもなりたい」キャラです。
二冊目の最後の章にやってくる患者さんがよりによって「女流作家」で、これがまた、ゲラゲラ笑えて、ウルッとくるんですよ〜!

あと、今月のハヤカワのミステリ文庫の新刊、『蜘蛛の微笑』。帯とか表4にはそーとーエロティックなコトが書いてありますが……いやいや。なにも言わないほうがええ。これは先入観ナシで読んで欲しい。解説とか、最後のほうのページをぜったいに先にみないように。ネタは途中でバレてきますが……そのバレかたがどきどきやので。おフランスの小説ですから(おフランス映画がハリウッドのとかと違うように)またビミョーに「ポテンシャル」を広げる役にたつと思う。読み終わったら、たぶん、読みはじめの部分を読んでいた時とは、まったく種類の違う気持ちにいつの間にかなっているのに気づいてビックリすると思う。うまいです。

>滝本竜彦様
まー。ありがたい。いつかお目にかかれたらお礼を言わねば。
ダ・ヴィンチ、まだ「松田雄作」の号を読んでる……。あれは毎月毎月「こんなすごい本が出ましたよ!」「こんな面白い本がありますよ!」と次々に教えてくれますからねぇ。すべてのページに「……で? おまえはなにをやっているのさ?」って、いわれてるような気がしちゃって(←間違いなく妄想で禁断症状で強迫観念。ああ、伊良部さんのクリニックが実在するならほんとにいきたい……)。いまいち覇気のない時には危険すぎて読めないので、どうしても遅れちゃうんです。

195 名前 : 枝折 投稿日 : 2004年07月12日(月) 13時30分58秒
従弟の結婚式は遠方なのに新幹線は止まるは翌日選挙だわでへろへろな週末でしたが
くみにゃさまにお返事をいただけて少しは元気が出てきました。ありがとうございました。

これからも草場の陰・・・じゃなかったどこかの物陰からこっそり応援しています。

196 名前 : 秋月流奈 投稿日 : 2004年07月13日(火) 00時05分27秒
ハードカバーに敷居の高さを感じる臆病者です。まぁ、いずれはということで、先に『蜘蛛の微笑』を購入。
でも、今月の新刊のコーナーには置いていなかったです。なぜでしょうか?
帯を見たら、一瞬手が止まりましたよ。エロティックと言うより、変態じゃないですか。くみにゃ様。
薦められなかったら、絶対棚に戻してましたね。期待していいんですよね?

イン・ザ・プールの代わりに、『龍時01−02』と『蹴球戦争 馳星周的W杯観戦記』を購入。
龍時もサッカー小説です。仕方ない。買うしかなかった。必要経費です。
で、蹴球戦争の方はタイトルみた瞬間に、あれはもう捨てるしかないのかなと一瞬思ったり。
何でこの時期にこういうこと書くかなぁと、まぁ、日韓W杯の話だから、あれはセーフだ。と思い直し、参考のために購入。
でも、これらのサッカー小説が出版されていることから、僕の考え方は間違ってなかったことを確信。

考え方が間違っていなかったと言えば、僕は、萌え100%の小説があってもいいのではと、奥さまは○○という作品構想を練っていた。
しかし、僕自身あまりにも馬鹿な話しだよなぁと思っていたら、似た作品がゲームでありました。
ちなみに、○○に入るのは巫女さんとかメイドです。
すでに人がやっているものを書く気はないので、この案については捨てましたが。

メフィスト賞について調べていたら、ファウスト賞の存在を知りました。
一番のポイントは、年齢制限がある。80年代以降に生まれた者。
かなり若い賞だなと思いました。まぁ、賞金とかはないんですがね。
リーマンオカダを書く前に、今の本気を一本ここに送ろうと思います。

197 名前 : 秋月流奈 投稿日 : 2004年07月13日(火) 00時27分25秒
>「松田雄作」
くみにゃ様。つかぬことをお尋ねしますが、これで合っていますか?
僕は優だと記憶しているんですが。

198 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年07月13日(火) 07時26分25秒
すみません「優」でした。あと『蜘蛛』はすでにその「次」の今月の新刊が出てしまったのかもしれないです。

ついでにいうと『空中ブランコ』ハードカバーじゃなかった。ソフトです。ただし四六版というサイズ。ちなみに1238円+税です。わたしはいまウチにあるはずの『イン・ザ・プール』を探しています。どこいったんだぁーーー! 読み返したいのに。

199 名前 : 秋月流奈 投稿日 : 2004年07月15日(木) 01時26分20秒
『蜘蛛の微笑』読了。
読み終わった時、僕はふっと溜息を一つ吐いた。
深い。この小説は深い。
別にエロくはなかった。変態だったけれど、でも、それも全て蜘蛛の糸が如く複線だったように思う。
おかしいのだけれど、それは不自然なおかしさには感じなかった。
変態がおかしくないなんて。きっと、僕も読みながら狂っていったに違いない。
思えば、読み始めた時から蜘蛛の巣に引っかかっていたのだろう。
当初、くみにゃさまはこんな小説薦めて僕に性描写でも書けるようにしろとでも言いたいのかと思ったが、謎が明らかになるにつれ、その辺はむしろどうでも良くなった。
読み終わった時、最後の台詞がやけに格好良く感じられた。もちろん、そんなはずはない。そんなはずはないのだが………。

そこまで師匠が仰るならば、弟子が断る理由はありません。
次は、『イン・ザ・プール』を読みましょう。
ただし、給料日の後になってから。

200 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年07月15日(木) 06時20分34秒
ねーっ、ねーっ、蜘蛛すごいでしょー? わたしも、ははこれはあのへんがあーなのねと気づいた瞬間は「ふーんなるほど」とおもんたんだけど、そう思ってから最初のほうの意味を考えなおしてみると「……う……うわー!」でした。
てっきり「あっち」のほうの話だろうと完璧に思わせておいて……おっとあぶねぇあぶねぇ。

あれは、ほんとにいまどきの「愛」のものがたりだよね。いろんな意味で。




201 名前 : 秋月流奈 投稿日 : 2004年07月15日(木) 20時54分51秒
何か凄く人間臭い話ですよね。
最初普通のミステリーのつもりで読んでいたので、いつ事件が起こるんだと思っていましたがなかなか起きない。
あれ?
で、途中にわけのわからない挿入があって、? と思っていたら、結局アリバイも密室も名探偵もない。
出てくる登場人物は、かっこ悪い奴ばかり。
それでここまでもってこれるのは、緻密な計算ですよ。ストーリーに無駄がないですよね。
予備知識なしで読んだので、読み終った時にこの外国人やるじゃんと思ったら、フランスでは賞を獲ってる人だったんですね。
でも、それを知っていたらきっと構えて読んでしまったに違いない。だから、この人やるじゃんでいい。
この小説にトリックがあるとしたら、それはこの小説そのものなんではないかと僕は思うのですよ。
つまり、作者が蜘蛛でこの小説にひっかかった読者を微笑している。
そう考えると、タイトル含めてすごいです。

『イン・ザ・プール』は、果たして何を与えてくれるでしょうかね?

202 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年07月16日(金) 08時15分48秒
『空中ブランコ』直木賞ゲットです。

203 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年07月17日(土) 07時08分52秒
坂田大輔さま、サッカー・アテネ五輪バックアップメンバーになりました。登録ナンバーは19になったみたいです。最近のスレの趣旨と違っててすみません。

204 名前 : 秋月流奈 投稿日 : 2004年07月17日(土) 21時37分18秒
おめでとうございます。
さすがにスタメンというわけにはいきませんでしたか。
でも、何が起こるかわかりませんから。
オリンピック等の国際大会は、普通の試合とは違いますから、小説でスポーツを書く際には参考になります。
世界レベルのプレー、好カードの連続、筋書きの無いドラマチックな展開。できれば、金をとってもらいたい。それで、サッカー小説書いたと思われてもいいから。

あと、最近自分が何を書きたいのかわかりました。僕が書きたいのは、ピュア&パッション。
純粋で熱くなれる話。前々からスポ根が好きな気はしてましたが、再確認です。

205 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年08月05日(木) 08時38分06秒
日経BPさまの「ライトノベル完全読本」ウチにもきました。大急ぎでとりあえず読み。三十年史、おもしろかったです。シマコさまナツコさまウサギさまの鼎談、おもしろかったです。平井和正先生……その後ファンレターにお返事をおかきにならなくなったんだぁ! しらなっかた。わたしの、犬神明(『紋章』の少年版)LOVEのお手紙をだしたら「13歳の女の子はこんなもの読んじゃいけません」と叱っていただいた経験というのは、たまさかのあのタイミングだったからありえた、すばらしく貴重なものだったんですね。ひー、あのお手紙どこにやっただろう……? でもって「ライトノベル」の話になるとまず、この名称にはどうも違和感を感じるというあたりからはじまるなど、わたしは知らず知らずのうちに「平井チルドレン」の道をあゆんでるのかもしれないなぁ、と思いました。認知もしていただいてないと思いますが(笑)一生に一度ぐらいはお目にかかって積年の感謝を申し上げたいものです。

206 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年08月07日(土) 07時40分02秒
昨日シブヤで催されましたエンターブレインさまのえんため大賞授賞式がまるでこのサイトの「ちょこっとオフ会」状態になり、お顔を存じあげなかったかたがたとお目にかかれましたです。酒井くん、就職活動の順調にいくことを祈ります(笑)。

207 名前 : 秋月流奈 投稿日 : 2004年08月09日(月) 01時02分18秒
師匠いらっしゃいましたか。
少し謝罪。バックアップ、ベンチ入りと勘違いしてました………。
馬鹿ですよ。もう………駄目だ。アルルカンと言うことで勘弁して下さい。

今、『新人賞の獲り方おしえます』を読んでいます。もう、何回もやめろと言われました。
向いていないことも判りました。でも、小説は人生との一騎討ちではないでしょうか。
勝てない相手と知りつつも、運命に抗わずにはいられない。ソンな性分。
途中まで読んで学んだことは、スタイリッシュな文章を書くこと。

『イン・ザ・プール』と『空中ブランコ』は執筆直前に読む予定なので、まだ読んではいないです。

………自分が情けないです。今までよくこの程度のものを書き、投稿してきたものだとつくづく思いました。
これでは、くみにゃさまのことを師匠と呼ぶ資格もないです。今は何だか悔しくて、自分に腹が立っている状態です。

208 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年08月09日(月) 07時04分46秒
師(あるいは親)のやることではなくいうことを学べ、と言うものですが、ともするとコドモは親のいうことではなくやっていることをマネしてしまうもので(笑)
口ではいえるけど、わかっちゃいるけど、自分でもできない。でも、そんなわたしでも四半世紀モノカキやっているので。こればっかりは、なんつーか、「なるようになる」もんです。ハイ。
そういえば、先般おなくなりになった野沢尚さまもサッカーものをかいておられたようですねぇ。新刊、アテネに出場する日本選手団のはなしらしいです。よみたいような、よみたくないような。

209 名前 : 秋月流奈 投稿日 : 2004年08月09日(月) 23時32分39秒
くみにゃさまの話を聞いて、もしやと思った。
野沢尚さま。サッカー。一つ一つでは気付かなかったが、二つ出た時に思い当たるものがある。
それは196の書き込みで、ハードカバーと言う言葉に怖れ『イン・ザ・プール』の代わりに買った龍時の新刊ではないですか。
脚本家の方が亡くなったということは記憶していたんですが、ミステリーだけではなくこの作品も………。
すると、シリーズ三作目が最期になってしまったのですね。自分が買ったことのある作家さんが亡くなると、ちょっとくるものがあります。
正確には、お亡くなりになられた後に買ってるわけですが。これも運命なら少し切ないですね。

210 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年10月02日(土) 08時19分43秒
おひさしぶりです。
宣伝になっちゃうんですけど、ご報告しておくべきかなと。
「創世記」書籍版『コバルト風雲録』今月刊行になりました。

http://www.webdokusho.com/

サイト上では好きなだけはりまくっていた画像やハイパーリンク、酒井さんやトンボさんのいれてくださった注釈などなどは、なくなってしまいましたが、かわりに、整理整頓され、あまりに個人的なボヤキなどが一掃され、話の流れがわかりやすくなったかと思います。
ずっと読んでくださったかたにとってはイマサラですが、記念に一冊(笑)いやわたしにカンパしてくださると思って。

211 名前 : 秋月流奈 投稿日 : 2004年10月08日(金) 00時11分39秒
し、師匠。ご無沙汰しております。
久し振りに書き込みがあったので、拝見いたしましたと言うことで書き込みしておきます。
師匠のサイトの方も覗いてはいるのですが、結果出すまではメール送るわけにはいかないと心に誓いを立てたので。

漫画を読んで不覚を取りました。『G戦場ヘヴンズドア』の3巻のラスト直前の編集長の台詞で。
夜中に三回読んで三回泣きました。少なくとも僕の魂は震えました。

弟子としては、師匠の本は買わなければならないでしょうね。

212 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年10月08日(金) 04時15分21秒
あきづきさまありがとうございます。G線上ってしらない。おもしろいの? BK-1で予約してくださると、もれなく? わたしのサインがついてくるらしいです。

213 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年10月09日(土) 09時23分04秒
まちがいました。「ほんのざっし」さまのサイトの「ほんやたうん」さんで予約すると、でした。

214 名前 : 秋月流奈 投稿日 : 2004年10月24日(日) 22時26分54秒
大分間開きました。諸般の事情がありまして、予約はし損ねました。
店頭で買いたいと思います。25日でしたよね。
G線上……アリア? はともかくとして、『G戦場ヘヴンズドア』が面白いかどうかと言うのは、これは言い切れるものではありません。
これは漫画家を目指す少年達の物語なんですが、正直一般受けはどうかなぁと思いました。
ただ、僕はこの漫画家の部分を小説家に置き換えて読んでましたので感情移入と言うか、まぁ熱い話でした。個人的に熱い話が好きなんですよ。
熱い話と言えば、ガンガンに近刊紹介で師匠のなんとかのファンタジスタ(うろ覚えで済みません)みたいなタイトルが載ってましたが、思わずサッカーのスポ根かと思ってしまいました。
ファンタジスタと聞くとサッカーしか浮かばないです。タイトルは女の子が主役みたいな感じのでしたっけ?

最後に、三回読んで三回泣いたシーンの編集長の台詞です。
「この世界は読者が花(主役)。オレらはそれをひきたてる草(ワキ役)だ。どうせなら、名ワキ役になろうぜ?」

泣くほどかどうかは別として、共感しました。こう言う編集者の人と仕事したいと思いました。
それにしても最近の書き込みをざっと見た所、7月13日以降師匠と僕の書き込みしかないですね。
ここではなく、師匠のホームページのメールアドレスにメールした方が良いのかなと思いました。
このラノも新名称で二回目を迎えるようですから、もしかしたらここもリニューアルがあるかもしれませんしね。
と言うか、最近僕はライトノベルの事書いてませんね。主旨が違っちゃってます。申し訳ないです。

追伸
最後にの後が長くて済みません。僕はファウストに投稿しました。どうなるかは判りませんが、新人賞の獲り方教えますを読んでからの初作品です。
いつも出した後にしまったと思う事があります。今回もあそこであの描写するの忘れてた、と言うか、後になってから気付いた事があります。
でも、書いている時には気付けなかったのだから、書き上げたことで成長したのだと捉えました。
ちなみに内容は、小説家を目指す少女の夢と青春ど真ん中ノベコメです。
バカだねぇと言われそうですけど。この弟子は出来が悪いですから。

215 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年10月25日(月) 08時12分59秒
『放課後のファンタジスタ』はもちろんサッカー・スポ根です! 主要なキャラだけでどうしたって十一人は必要になるわけで、ちょっと後悔しましたが……第一稿はすでに入稿さています。たぶん今年じゅうに出るんじゃないかと思いますが。

拙サイトにメールしてくださってももちろんけっこうなのですが、毎回ちゃんとお返事できるかどうかはちょっとわかんないあたりを、ゆるしてください。

ファウストは80年うまれより若いひとしか受け付けないよん、のほうでしたっけ? (メフィストとどっちがどっちだかすぐにこんがらかるのが婆)この設定にはすごい疎外感というか、ハラスメントってこういうことなんだ、を味わいました(笑)どうせ婆だよ。ちぇっ。

216 名前 : 秋月流奈 投稿日 : 2004年10月26日(火) 00時56分53秒
今日行った書店は、小さいとこだったので置いてなかったです。
見つからなかっただけかもしれませんが、別の本屋探します。

主要キャラ十一人。控え選手とライバル。相手の主力選手。ここまで考えただけで何人出るんだと思ってしまいます。
放課後なわけですから部活ですよね? 外国人の監督とか、留学生とか、女子マネージャーがいたりしますか?
僕の高校のサッカー部は、女子マネージャーは募集してなかったのですよ。
出られない選手がフィールドの外で一緒に戦ってたわけです。それもいいなと思ってました。
怪我してサッカーができないけど、マネージャーとして。ライバルに負けそうで皆が諦めかけてる時、「オレはサッカーしたくてもできないんだよ。でも、お前等はまだ戦えるだろ」とか。
キーパーは一人しかでられないけど、控えはいなくちゃならないわけで。でも、負けるか怪我でもしてくれないと出られない葛藤とか。
三年間誰よりも頑張った先輩が最後までレギュラーになれなくて、相手チームの研究したデータを後輩に渡すとか。
まぁ、そんな話も考えられるわけで。あと、リーマンオカダで使おうと思ってたけどちょっと今の僕では書けそうにないので、ゴールキーパーがゴリラなのです。
人類最強の霊長類ゴールキーパー、ゴリラー・カーン(元ネタはカーン選手です。師匠なら判ると思うけど。)。ゴリラの精霊が憑依してキングコングみたいになる。
オカダは世界中のサッカーファンの愛で、LOVEで同じく巨大化。カーンはキーパーなのでパンチあり。オカダは殴られて眼鏡が飛ぶ。
審判は金貰ってるのでファウル取らない。それでも、オカダは立ち上がる。
サッカーが好きだから。
ラフプレーにも負けず、正々堂々と真正面からシュート。でも、そもそもが怪我で引退したリストラされたサラリーマン。
弱いシュートはあっさり止められるが、その姿にスタジアムの観客は敵も味方もオカダを応援。かつての日本代表時代を思い出し、一本だけ幻の左が甦る。
シュートの勢いで、オカダとカーンは大気圏突入。途中、カーンに憑いていた霊が成仏。オカダはカーンを助けるが、自分は間に合わず閃光に散る。最後、日本優勝を確信。
オカダが元プロだったことを死んでから知った息子はサッカーを始める。
実は、オカダは決勝戦が始まる前に心臓発作で病院に運ばれていた。だから、息子はオカダがさぞかし残念だろうと思っていたのだが、ドイツから帰ってきたオカダの死に顔は笑っているように見えたので、天国で見たんだろうなと思う。
本当はもっと泣けるエピソードが配置されているノベコメなのですが、執筆を諦めた一番の要因はドイツのことW杯のことを知らな過ぎたから。
ドイツの街並みとか、そこに住む人々とか、文化、実際の舞台になるスタジアムをきちんと描写したいという色気が出てしまったのです。
この目で見て書くのと、今の何も知らないまま、あるいはちょっとした資料で書くのとでは全く別の作品になってしまうのではないかと思ってしまったのです。
光や風の感じ方一つとっても、きっと違う気がするのです。

あと、僕には妹がいるのですが、妹が最近泣いた。漫画でと言うのです。どんなシーンかと思ったら、負けたチームが勝ったチームのことを応援しているシーンでした。
ファイトー何々、頑張れ頑張れ何々、負けるな負けるな何々。みたいなやつです。
部活思い出したと言ってました。

ファウストは、若い編集長とメフィストの受賞者の若い人達が何人か書いています。ライトノベル系だという話ですが、言い切らないで系になってるあたりが判断難しいですね。

217 名前 : 青色 投稿日 : 2004年10月30日(土) 09時46分14秒
はじめまして。
連載コラム、読みました。本も買ってきました。
これで権利ありますよね。カキコしてもいいですよね。

というのも、小説ほとんど読まないんです(注:たとえば、漱石や龍之介、太宰の作品でさえ読んだことがない。○○賞作家といわれても知らない人ばかり。ただし、鴎外は唯一の例外で、関係者のエッセイや独善的な感じの評論を含め、少し読んだ)。
国語教科書以外で読んむのは、せいぜい年平均で一〜二編(冊)、それも小説家本人か、映像化された作品かに関心を持ったときくらいに限られます。

なので、いちおうカキコを逡巡しました。
でも、でも、カキコせずには、いられなかった。サッカー・ファンだし、何より連載コラムがおもしろかったから。刊行本の「口上」も。

“そうか、最後じゃなく、最初の書く人になるのか!” 恐れ入りました。


来週、また来ます。
あと、ここの専用スレ、長すぎませんかねぇ。下まで行くのが大変です。

218 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年11月03日(水) 10時00分40秒
青色さま。どもー。いや権利もなにも……誰でも好きにかいていい(アラシじゃなければ)というのがスレのいいところだと思うので。
そんなに本にたいしてハードルが高いかたにまで、おもしろがっていただいてよかったというか、いやー、ホッとしました。光栄です。ありがとうございます。
スレ長すぎる? はじめてみたらそうかもなぁ。

219 名前 : はせがわみやび 投稿日 : 2004年11月05日(金) 10時18分04秒
 こんにちは。このスレッドでははじめまして、でしょうか。
 みやびです。

>>スレッドが長い

 むしろ長すぎてタイヘンなのは、二度目以降かなぁ。
 何がタイヘンかというと、新規書き込みまで辿りつくのがタイヘン。
 手先が不器用なひと(つまりみやびのような(汗))は、スクロールバーをマウスでつまむのを時々失敗したりしますし(^^;


 そーいう場合には、ショートカットキーを使うとベンリですー。

 キーボードのCTRLキーを押したまま、ENDキーを押すと、いちばん下に★ぽんっ★って感じで辿りつけますです。
(注:ウィンドウズの場合。マックでは定かではないです)
 これを覚えると、あとは増えたレスポンスの書き込み分だけ、さかのぼればよいので、とっても楽だったりしますー。


 ショートカットを覚えたのがつい最近で、それまではマウスで何度も失敗しながらスクロールバーを摘むか、わざわざページダウンキーをずーーーっと押して対応していたってのはナイショです。
 ……えっ。そんなショートカットなんてみんな知っているよ、ですって? あう。そうかも。


はせがわみやび

220 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年11月06日(土) 10時14分12秒
へー! へー! そうなんだぁ! (←知らなかった)

くみは腱鞘炎と頸部の椎間板ヘルニアをおこしてから、マウスは左手(もともとは利き手ではないほう)で使ってるので、「マウス操作」はリハビリというか運動の一環だから、「ちょっとぐらい負荷がかかる」のはオッケイなんですけど
ふつうはそりゃ、短く鋭くいきたいとこにピシッといけるほうがいいよね。

221 名前 : うだ 投稿日 : 2004年11月13日(土) 17時27分52秒
くみ様。(おかみき時代からのファンですので本当は先生と呼ばせていただきたいのですがこの場の経緯から、くみ様の呼称を使わせていただきます)
カキコ常連の先輩方。
はじめまして。
コラム、スレともに楽しく読ましていただきました。

私もライトノベルには抵抗を感じていた一人として感じたことが多くありました。、
ど素人の読みにくい文でのうえ、長くなりますがご容赦ください。

まずはくみ様のファンとしてコメントさせていただきますね。

私はもともとソノラマ・ハヤカワをメインに読んでいたのですが、火浦功先生、
岬兄悟先生の作品を辿ってコバルト文庫に手をだし、くみ様の「おかみき」「鏡の中のれもん」に
打ちのめされた経緯がありますので当時の裏話も大変興味深く読ませていただきました。
ただ残念なのは「鏡の中のれもん」についての話題が少なかった点ですね。
私は、この作品で「少女小説ってここまで表現していいのか!!」とカルチャーショックを受けました。

ファンの勝手な要望ですが、機会があれば「れもん」執筆当時のエピソードなどもお教えください。
とくに出版に抵抗がなかったかとか、執筆中のお気持ちなどを教えていただけたらうれしいのですが。

あと、10章を読ませていただき、自分がある意味くみ様の「コバルト読者SF布教」の2次被災者だったのか!と愕然といたしました。
なにせ「鏡の中のれもん」に惚れ込んでしまったときに、
「もうヲタな道しか生きられなくなってしまった」
などと思い込んでしまいましたので(苦)
SFだけなら世間にまだ公言できますが、コバルト文庫の作品の熱烈ファンです、
とは最近までとても公言できませんでしたので・・・

「あけめやみとじめやみ」や「ソーントン・サイクル」「ドラゴンファーム」も大変楽しく読ませていただきました。
RPGのノベライズ作品には抵抗があったのでまだ未読なのですが、今度読ませていただきますね。

いちファンとしてはひたすら声援を送らせて頂きます。これからもがんばってください。

読者勝手な要望ですが、出版社に縛られず「同人」分野を利用してでも作品を発表していただけないのもか・・・などと考えてしまいます。
同人小説は同人マンガより難しいのかな・・・
同人は執筆以外の作業も大変だろうとも思うのですが、ファンとしては作品を読ませていただけるならどのような形態でも!と考えてしまいます。

つづく・・・

222 名前 : うだ 投稿日 : 2004年11月13日(土) 17時30分09秒
コラムの主題となっているライトノベルについて、感じたことを・・・

これだけ作家の方々が書き込みされているところに、いまさらど素人の私などが意見を述べるのも僭越なのですが、
いつくか意見を述べさせてください。
無学なもので用語や分析が的外れでしたら、ご指摘をお願いいたします。

まず、「軽薄」なイメージの作品の乱立は小説だけではない、という点が重要だと思います。
マンガ・アニメともにここ数年間「軽薄」なイメージの作品が乱立している感がありました。

これはオタク文化で流行した「パロディ」「2次創作」作品の文化が一般の商業ベースに乗るほどの成長を見せ始めたものだと考えています。

これまでのパロディ作品は「原作のファンが仲間内で楽しむためのお遊び」程度のイメージでしたが、
オタク界ではこれが異常な成長をみせ、パロディの域を越えて「強いオリジナリティを持つパロディ」(アレンジ小説?)とでも言うべき
創作物が生み出されています。

この新しい文化と新しい技術を、プロの方々も取り入れだした結果が、今の「軽薄」なイメージの作品の乱立ではないでしょうか。

ただし、あくまで『「軽薄」なイメージ』というだけで実際に「軽薄」なのではないと思います。
『「軽薄」なイメージ』に見えるのは、パロディにもともと「軽薄なイメージ」があったことによる先入観と、
このパロディ技術自体がまだ未成熟な段階にあるため、作家の皆さんも試行錯誤をされている段階にあるためと考えています。

また、ライトノベルの需要がここまで膨れた要員には、「少年・少女」「オタク顧客」以外に
「昔小説を読んでいたけど、最近は忙しいし読むひまなくて・・・」と考えて、読者を引退していた人々の現役復帰があるのではないでしょうか。
特にSFファンは、読むために多くのパワーを必要とする作品が多いので、この傾向も強いのではないでしょうか。
私もそうなりかかっていた一人ですが、彼らがライトノベルの読みやすさに助けられて、現役復帰して来ているように思います。
(どこかに20代後半から30代、40代の読書量などの統計とライトノベル読者の関連について研究されたかたいないかな〜)

この、潜在的な顧客の掘り起こしという点について「ライトノベル」は大きく貢献しているように思えます。
※あくまで私の個人的な、裏づけのない見解ですが・・・

その影響と思われるものに、古典SF作品などの復刊ブームが上げられると思います。
書店でハヤカワ文庫の棚に行くと新刊より復刊のほうが大きく平積みされていたりして驚きます。
これが今後も続けば、またSF界も活気を取り戻してくるのでは・・・と期待しています。

この新しい技術の普及は、小説・マンガ・アニメに限らず、実写映画やテレビ番組(バラエティ、ドラマなど)などにも波及しているように感じます。
これが今後も進展し、この手法が社会常識となると、旧来の作品は「古臭い」文体とみなされるようになるのでは・・・と心配しています。
現在、古典・純文学がそう思われているように・・・
私の考えすぎでしょうか・・・


次に、「軽薄なイメージ」の定義について見解を述べさせてください。
「軽薄」とみなされているのは、「仲間内で楽しむためのお遊び」のことではないかと思います。

オタク文化の「パロディ」「2次創作」の顧客には、好きなキャラ・好きな作品世界が見れればストーリー性などなくても喜ぶ
というようなファンもいます。
適切ではないだろうと思いますが、ここでは彼らをミーハーと呼ばしていただきます。

現在は彼らもこの新分野(なにかアニメ・マンガを含めたこの分野のいい呼称はありませんか?)の顧客と重なっているので、
また彼らが悪目立ちするため、彼らが顧客の主流のように見えているのではないかと思います。
※あくまで第三者から見た場合です。
アンケートに答えてくる人だけ見ると特定のタイプの人の割合が高く見えるのと同じ理屈だと思います。

実際には、くみ様にもお読みになって感じていただけたと思いますが、ミーハーのみを読者としたような作品はほとんどありません。
まだ一部ですが、旧来の小説の視点から見てもすばらしい作品が生まれています。


最後にマイナー作品について、インターネットの普及は大きな救済となっていると思います。
ここをお読みのかたがたにはいまさら改めていう必要もないと思いますが、
多くの小説好き、SFマニアのかたが、自分の思いをネットに発信されていて、私自身大いに刺激を受けております。
また、さまざまな要因によって埋もれてしまった名作をなんとか見直そう、普及させようという試みが多く広く行われ始めています。

これまで、書店に並んでいる短い期間に触れることができなかった作品は、潜在的読者を失って消えていくしかなかったはずです。
しかし、ネットを利用すれば、現在絶版となっているものでも、読者が自分の好みの作品を探し出すことが可能となりました。
特にブログの流行により、一般の読者が気軽に、自分のお気に入りの作品を紹介できるようになっています。
私自身、とある読書好きの方のサイトからたどり着きました。

私も、自分がほれ込んだ作品が忘れ去られることのないように、自分の読書録をブログとして公開することを計画しています。

また、ネットに関連しているかはわかりませんが、文庫サイズの復刻マンガが流行していますし、
復刊.comに代表されるように、読者が出版社に交渉するルートまででき始めています。
既出ですが、電子書店パピレスなど、電子出版による作品発表の多様化もあります。
まだまだ版権問題など大きな問題があることも認識していますが、
この動きはこれからまだまだ発展し、今はまだマイナーな作品が見直される機会を増やしてくれると信じています。



ここに書き込みをされ、熱い議論を展開されている諸先生方の更なる発展をお祈りして閉めさせていただきます。
これからもすばらしい作品を期待しております。
長々と失礼いたしました。

223 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年11月15日(月) 07時40分03秒
うださま。熱いメッセージをありがとうございます。
「鏡の中のれもん」については、とある雑誌でたいへん分析的なロングインタビューをうけたことがあるので、もういいやと思ってしまったのでした。その雑誌なんですが『文芸時評』だったかな……なんかそういう「とってもカタイ」方面のご本でした。

>「同人」分野を利用してでも作品を発表
ちいさなものに関しては、拙サイトで無料公開しておりますし、e-NOVELSさんやパピレスさんなどにもいくつか作品を寄せさせていただいております。宙に浮いている作品に関しては、なんとか世の中にだしたくて、せっせと営業しているんですけど、なかなかねぇ。コミケに出品する根性は、すみません、ありません(笑)。

>書店でハヤカワ文庫の棚に行くと新刊より復刊のほうが大きく平積みされていたりして

それは良い書店ですねぇ! 
どのジャンルでも、エバーグリーンとかオールタイムベストなものは常に読まれて欲しい。つねに「若い読者」っていうのは生まれてくるものだから。ジュブナイル系(いわゆるライトノベル)でも、その時々の「オールタイムベスト100」作品ぐらいはせめて、ちゃんとコンスタントに読める状態になっていくといいと思いますねぇ。



224 名前 : うだ 投稿日 : 2004年11月17日(水) 15時31分10秒
久美様
コラムの掲載から時間がたっているのに
お返事ありがとうございました。

>文芸時評』だったかな……なんかそういう「とってもカタイ」方面のご本でした。
ぜひ読んでみたいんですが、ググってもでてこないみたいで・・・
詳しくご存じの方、おられましたら教えてください。

サイトの小説も丘ミキの雰囲気を思い出して懐かしく読ませていただきました。
ありがとうございます。

自分で書き込んだ後、自分の分析の未熟さに今更ながら恥じています。

あらたてめ様々な書評などをさがして読んでみましたが、
確かにヲタの流れもあるとは思いますが、それだけてはとても不十分な、
新しい流れが生まれている感触をひしひしと感じました。
小説というものの認識が変化してきているように感じます。

・・・また長くなってしまいそうなので、ここで中止させていただきますが、
いち小説ファンとして、これから「ライトノベル」がますます発展することを期待しています。

225 名前 : 秋月流奈 投稿日 : 2004年11月21日(日) 17時49分51秒
高尚な話題についていけない莫迦者です。
介在の余地がありませんので、適当に書き込みます(いい加減という意味ではありません。念の為)。

パロディについて
前から少し気になっていた本がありまして、それは『どすこい』です。この度文庫化されたので、購入しました。
まだ読んでいませんが、今手元にあります。四十七人の力士。パラサイト・デブ。タイトルからして潔いパロディです。
しかしながら、京極先生の文章。一読にして軽薄とは思い難し。

小説・アニメ・漫画・ゲーム等を含めた商業的展開は、確かメディアミックスと言われていたような気がします。
例を挙げますとウブカタ先生(にすいのやつがでなかったので片仮名)が脚本で参加されている『蒼穹のファフナー』は、現在アニメが放映されていますが、漫画も連載されていますし、確か来年くらいにゲームも出る予定だったと思います。
放送時間が遅いので録画して見ていますが、ロボットの戦いより登場人物の人間関係とか葛藤の方が面白いなぁと思って見ています。
また、いつ誰が死んでもおかしくないストーリーが切ないです。

師匠のBLの認識について
そんな話がいつあったのか、僭越ながら師匠のサイトを拝見してです。
師匠は征服欲や性欲が強いキャラは書くの嫌いだと仰っておりますが、友情、尊敬、チームの仲間としての信頼感。
それでいいはずですよ。師匠がBLだと思っていないものにも、十分な要素があるはずです。
師匠なら書けますよ。特に信頼関係で結ばれたFWとMFの話かけばいいんですよ。多分。
「オレがお前を得点王にしてやる。だから、お前はいつもオレだけを見ていろ。最高のパスをくれてやる」
「なら、俺は八十九分間お前から目を離さない。そして最後の一分間は、前を向き必ずゴールを決めることを誓う」

あと、師匠が恋愛の対象は一人でいいじゃないかと言っていたことについて
何かの恋愛シミュレーションの話なのかもしれませんが、BLで仰っているなら、僕は師匠は何も間違っていないと思います。
ただ、勘違いをしているんですよ。読者はカップリングとして楽しんでいるんです。多分。
そりゃ、もてるハーレム状態がお好きな人もいるでしょうが。
でも実際問題、生の声を聞いてみないと分かりませんよね。誰か思わず反応して書き込みしてくれる人はいないものでしょうか。
僕では推測の域を出られないので。

226 名前 : 秋月流奈 投稿日 : 2004年11月22日(月) 00時19分20秒
連続で失礼します。
師匠、もしかして企画が途中で止まったのって津原先生が監修のレーベルではありませんか?
今はホームページも見当たりませんけど。
ここから出るはずだった師匠の本。発売日未定のままですよね?
違ってたら済みません。

227 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年11月22日(月) 09時42分11秒
支障じゃない師匠はやめてください……はずかしいので。

>津原先生が監修のレーベル
 
それそれ(笑)。愛欲がわからないので、「犬と少年」でやろうと思ってました。犬→少年の愛と、少年→犬の愛ならかきたいもん。で、犬が「魔法とかノロイとかで、ちょっと人間の少年になっちゃった」ことにすりゃー、あたしにもBLが書けるかもしれないと思ったんですが。

>征服欲や性欲が強いキャラは書くの嫌いだ

きらいっていうより、「そういう気持ちがよくわかんないから、読者にとって説得力のある書き方や、読んでおもしろい書き方があんまりできないだろうと思う」が正確なところだと思います。

228 名前 : 大橋 投稿日 : 2004年11月22日(月) 19時50分04秒
久美先生

はじめまして。
すみませんが、宣伝の書き込みをちょっとだけさせて下さい。

徳間書店の「SFJapan」(11月19日に発売!)で、
「日本ジュヴナイルSF戦後出版史〜少年SFの系譜〜」
と題した連載を始めました。
第一回目のテーマは「秋元文庫とソノラマ文庫」。
ライトノベルの源流ともいえる両文庫の誕生を書いています。
ご興味のある方は読んでやって下さい。

229 名前 : 秋月流奈 投稿日 : 2004年11月22日(月) 20時49分06秒
>くみにゃ様

犬と少年ですか。犬が少年になるということは、ご主人様が少年に首輪をつけてるわけで、なるほどそれもありかもしれませんね。
そして、この時この話が書けなかったので『盗ってこい』が生まれたのではないですか?
犬の話が書きたくて。くみにゃ様は犬がお好きなんですよね。動物全般がお好きなのでしょうか?
犬の話と言えば、盲導犬かなんかの犬が年取って働けなくなった時にそれでも働こうとするんですよね。
でも、体が弱って能力が衰えてるから役には立たない。だから、別の犬に交代しなくちゃならないんだけど、飼い主さんは別れられない。
そこには絆があるんでしょうね。黙って尽くして引き際見事ですから。そういう犬の話に熱くなったことがあります。
本ではなくテレビだったので、ドキュメンタリーか実話が元の話だったと思います。
最後その犬は死んでしまうんですが、飼い主さんは働けなくなってもその犬を最後まで大事にしていました。
そこがまたぐっときました。

230 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年11月23日(火) 10時26分17秒
大橋さま! カキコミありがとうございました。おお、それはすでに拝見しました、しました! 資料画像がとっても豊富で「うわー」「きゃー」と思ってました! ご登場ありがとうございます。みなさま、SFじゃぱんを読みましょう、買いましょう!

秋月さま。盲導犬や介助犬の話は……ウッウッ。わたしがホリエさんぐらいお金持ちだったら、働くわんこたちのご苦労さんセンターをつくりたいです。わんこ飼いたいひとのトレーニングセンターをかねてるようなやつ。『盗ってこい!』はコレとはまた別っすね。



231 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年12月24日(金) 09時50分57秒
めりくり〜!

みなさま、今年は、思いがけず楽しくお世話になりました。
おかげさまでいろいろな出会いを体験し、本までださせていただいたりすることができました。
それもこれもライノベファンおよび書き手のみなさまがたの愛と熱意のおかげでございます。
ほんとうにどうもありがとうございました。

みなみなさまに、メリーなくりすますと、ハッピーな新年がおとずれますように。
来年が、地球ぜんたいにとってステキな年になりますように。
この場をおかりして祈りつつ。

232 名前 : 秋月流奈 投稿日 : 2005年01月11日(火) 22時10分34秒
今更ですが、あけましておめでとうございます。
結果が出せなかったので書き込みを自粛しておりましたが、弟子が挨拶しないのは失礼だと思い書き込み致しました。
そんなの気にしなくていいよと言われそうですが。
今年こそ、一次は通って師匠の教えが本物である事を証明できればと思います。

『わたし達は天使なのよ』途中まで読みました。サッカー小説と聞いていたのですが、現段階ではまだ始まっていません。
本気か冗談か。微妙な名前に戸惑いました。笑うところなのか? と。
いずれにせよ、読み始めたばかりです。今のところ普通に少女小説なのかなと思ってます。

関係のない話を一つ。もうファウストは落ちたものと考えて、新作にとりかかりました。
今度の目標は、スクウェア・エニックスです。はじめにイラストがあるやつです。
もう、迷うことなく直球でファンタジー書いてます。書いてて本当に好きなんだなぁ。と、自分に呆れるほどです。
でも、内容は少女漫画です。二人の年上の女性が出てきて、主人公は本当に好きなのはどちらなのか分からない。
二人に赤くなっちゃう。で、そのうちの一人ももう片方に片想いと言う三角関係。直接のストーリーとは関係ないので雰囲気だけなんですが。
Black Goat BBS3 Ver2.01