創 世 記
番外編  妹尾ゆふ子 「ライトノベル」という名称の誕生について



 ご無沙汰してます。妹尾です。お元気ですか?
 ……という書きだしでメールをお送りしたところ、公開しましょう! という話になりました。ビビりつつ、久美さん個人宛てであれば不要であろう説明を補填するなどして、手を入れたものが以下の文章です。ではスタート。↓


「創世記」拝見しました。とても読みごたえがありましたです。
 2000人のプロフィールを暗記したってところで、あまりの凄さに呆然としました。
 スゲー。凄すぎる! とPCの前で叫んだことです……。

 丘ミキの話もなつかしかったなぁ。姉(コラムに名前の出ている、めるへんめーかーです)が編集部に一巻のカバー・イラストを持って行ったとき、同行させられた記憶がありますが、通りがかられた当時の編集長さんが
「あまり漫画っぽい絵は困る」
 というような主旨のことをおっしゃられた記憶があります。いまの状況を考えますと、「ありえねー!」と叫ばれそうな逸話ですが、当時はそういう雰囲気でした。

 で、ですね。
 ライトノベルという名称を考えたのは誰か。
 これ、個人を特定できてしまうんです。

 ニフティサーブ(現在では「@nifty」)のFSF(=SF&ファンタジー・フォーラム)の、当時のシスオペです。今現在、シスオペをやってる人とは違います。
 わたしがニフティに入会する以前のことだったと思うので、くわしい事情については勘違い等あるかもしれません――今回は敢えて、本人や当時を知る周囲の人への確認もおこなっていません。それぞれが自分の記憶を語りはじめれば、論点が散漫になりかねないからです。それはそれで、貴重な証言であり歴史であるといえるでしょうが、久美さんのコラムという場を借りてやることではないと思います――あくまで、「伝聞によるわたしの記憶」という説明にとどめたいと思います。

 ライトノベルという言葉の発生前。本の感想を書きこむ会議室(要するにボードですね)上で、話題の住み分けをする必要が出て、会議室を分けることになったそうです。
 それまで、ハヤカワ文庫SFやFTなどを中心に読んでいる人と、スニーカー文庫などを読んでいる人が同じ場所を使っていたので、「新興の・若い人向けの」本への感想が増えてくるにつれ、「違う話題を語る人たちが同じ場所を共有する」ことから生じる齟齬が発生したわけですね。どちらも読むという人もいたにせよ、「分ける」ことに異存はなかったかと。
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 つまり、「分けるべきだ」=「これらは違うものだ」という認識は、この時点で多数の読者(といって悪ければ、会議室利用者)のなかに存在していたものと仮定できます。
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 読者個々の判断で分けるともめることは必至なので、レーベルで分けることになったそうです。既存の、たとえばハヤカワ創元あたりの本の感想は、今までに使われていた会議室に残り、スニーカーやコバルト等の感想は、別途新しく会議室をたて、そちらに移動するという流れになりました。
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 必然的に、新しい会議室のために、わかりやすい名称が必要になったわけです。会議室の名称には文字数制限があるので、キャッチコピーを考えるような仕事だったと思います。
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 そこで当時のシスオペが「ライトノベル」という造語を作成し、会議室の名称としたそうです。
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 その「ライトノベル」という造語が思いのほか受け入れられ、浸透し、徐々に市民権を得、現在に至る、と。

 わたしの知っている、事の経緯は以上です。この話は前にもしたことがあり、有里さんが調査結果をまとめていらっしゃいます。

http://alisato.parfait.ne.jp/diary/l200203-02.htm
 
 ただ、問題は「誰がつくったか」でなく、「それが受け入れられた」ということの方でしょう。このすみやかな受容を、わたしはこう考えています――読者は「ライトノベル」という言葉で端的にあらわせるものを求めていたのだ、と。
 つまり、端倪すべからざる数の読者が、「かるい読み物」を求めている、ってことです。

 はじめて知ったときはショックでしたが、それもアリかな、と最近では思っています。かるい娯楽がほしいのであって、人生観を揺り動かすような衝撃はむしろ困る、という人たちは、たしかにいるのですから。そして、かれらに向かって
「そんなの間違ってる!」
 と主張する気にも、なれないのです。ある読者にとっては、そうした「かろやかな物語」こそが、せつに、必要とされているのですよ。でなければ「ライトノベル」と冠されたものが「ライトノベル」として売れるはずがありません。
 もちろん、「ライトノベル」と呼ばれるもののなかには、けっして軽いばかりではない、読者に衝撃を、強い影響を与えるようなタイトルも含まれていることは知っていますが――そして、わたしはそういうのが好きですが――それらは変化球で通好みなのかもしれず、やはり商業的に考えても本流は「とっつきやすい、かるく読める、SFっぽかったりファンタジーっぽかったりするもの」、なのでしょう。

 久美さんはご自分の書いたものをライトノベルと呼ばれることを嫌っておいでのようですが、SFだのファンタジーだのと同じで、ライトノベルにもライトノベル・プロパーとしか呼び得ない作品があるのだと思います。久美さんの書かれたものは、プロパーのファンからは「ちがう」と分類される可能性もあるのではないでしょうか。それをいえば、わたし自身もそうですが。
 外側からみれば、若い人のための漫画の表紙がついた読み物=ライトノベルでしょうが、内側にはべつの価値観とか判断基準があって、「こんなもんライトノベルとは認めん!」みたいな雄叫びをあげつつ、読んだものを分類している人たちがいるのではないか。と、感じています。ただし、ファンの数だけ基準がありそうな予感もしていますが。

「ライトノベル」というジャンルはすでに、ファンが真剣に、ジャンル自体に愛着をもつところにまで成長しているのではないか。と、書けばいいのかなぁ。
 たとえば昔、SFやファンタジーが通ってきた道を辿っているのだと考えてみてください。まともに論評する価値もない鬼っ子と見下されながら、ひとつのジャンルとして成立するほどの量の書き手と読み手が存在する。
 だからこそ、「このラノ」みたいな企画も立ち上がったのでしょう。違うかな?

 たぶん――「ライトノベル」という言葉がひとり歩きをはじめる前から、ものを書いたり読んだりしてきた人と、既に「ライトノベル」という言葉がある状態からはじまっている人たちとの感覚の差、断絶というものは、かなり根深いんだろうな、と思います。
 なんだか他人事のような書きかたですが、自分自身はどうなのかと考えると、読者としては「ライトノベル」誕生以前から、書き手としては以後なんですよね。自分が書かせてもらっているレーベルが「ライトノベル」と呼ばれるものであることは、あらかじめ了承して書きはじめているわけだし、それまで読んできたものは「ライトノベル」ではなかったという。

 話がそれましたが(というか、自分でもなにを書いてるんだかわけがわからなくなってきました)、ライトノベルという言葉に関しては、考案者を責めないであげてください。お願いします。
 はっきりと個人を特定できるという成立事情があるために、犯人探しのようなことになってほしくないと思ってこの文章を書きましたが、今度はこれが原因で彼が矢面に立たされるということになれば、非常に後味が悪いですから。

2004.05.22-24
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妹尾ゆふ子(yufuko senowo)
http://usagiya.cside2.com/


原稿受取日 2004.5.25
公開日 2004.5.28

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