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推定少女
推定少女』illust: ぎをらむ(竜人館)

少女たちの通過儀礼 〜「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」と「推定少女」〜 (作:ぎをらむ)

1)はじめに

 桜庭一樹さん著の富士見ミステリー文庫「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」とファミ通文庫「推定少女」は大変興味深い作品です。その理由は読んだ方によってそれぞれでしょうが、私にとっては、この両作品がとても類型的な通過儀礼を含んでいた、言いかえれば主人公の少女たちが大人へと変わっていくことを暗示させるストーリーだったことです。このことについて、かなり無茶で主観的な解釈をしてみたいと思います。

 ちなみに思いっきりネタバレですのでご注意下さいませ。



2)「砂糖菓子〜」の構成に注目

 「砂糖菓子〜」も「推定少女」も、人間の少女と人間っぽくない少女の物語ですが、実は富士見ミステリー文庫「GOSICK」も、当初の構想では少女+少女のお話だったそうです。男の子の視点を入れるために少年+少女の話に変えたらしいのですが、富士見ミステリー文庫でミステリーテイストの少女+少女なシリーズとしては既に「しずるさんとよーちゃん」があったので避けたということもあったのかも知れません。
 そういえば、富士見ミステリー文庫でミステリーテイストのシリーズというと、「GOSICK」「レンテンローズ」「しずるさんとよーちゃん」とゴシック・ロリータな作品ばかりを連想しますが、富士見ミステリー文庫の編集部にはゴスロリ萌えの人がいるのではないかと私はにらんでいます。

ビクトリカ

 済みません、話がそれました。
 まず「砂糖菓子〜」の構成の変わっている点に注目してみましょう。
 「砂糖菓子〜」は作中では約1ヶ月間の話です。ところが、最後の日に山田なぎさとなぎさの兄の友彦が海野藻屑が殺されてしまったのどうかを確認するために蜷山(になやま)に登るシーンだけはメインストーリーから抜き出して細切れにされ、改めてメインストーリーの中に挿入されています。

図1
 図1 「砂糖菓子〜」の構成

 つまり読者はページ進行とともに、約1ヶ月間のメインストーリーと並行して山田兄妹が山に登る最後の日のシーンを読むことになります。
 (ちなみに、私は山田兄妹が山に登るシーンでスティーブン・キング原作の映画「スタンド・バイ・ミー」を連想しました。「スタンド・バイ・ミー」も少年達が森に死体を見に行く話です。そういえば、少年たちが死体を見に行く途中で歌う曲は「ロリポップ(砂糖菓子)」です。)



3)では「推定少女」の構成は

 さて、次に「推定少女」の構成を見てみましょう。こちらも「砂糖菓子〜」と同じように変わった構成があります。
 「推定少女」では序盤で巣籠カナが義父を弓矢で射てしまいます。しかし当初、巣籠カナは自分が義父に危害を加えたというはっきりした記憶がありません。やがてメインストーリーが進むとともに回想シーンが何度も挿入され、自分が義父に危害を加えた記憶がはっきりしてきます。ところが不思議なことにメインストーリー上では重傷を負った義父はどんどん傷が軽くなり、終盤では巣籠カナは義父に危害を加えたこと自体が無かったことになってしまいます。

 なんとも不条理ですが、この構成にも意味があると考えると面白そうです。

図2
 図2 「推定少女」の構成

 つまり、読者はメインストーリーと並行して「義父に危害を加える」シーンをページ進行と逆行して読まされることになるのではないかと考えます。



4)「行きて帰りし物語」と「親殺し」

 なぜ、「砂糖菓子〜」と「推定少女」はこのような変則的な構成で書かれているのでしょう。それは恐らく、「山田兄妹が海野藻屑の死体を確認しに山に登るシーン」と「巣籠カナが義父に危害を加え(そして取り消され)るシーン」が両作品にとってとても重要な意味を持つからです。
 ではその意味とは?

 と、その前に貴方は「行きて帰りし物語」と「親殺し」という言葉をご存知でしょうか。どちらもフィクションによくでてくる話のパターンです。簡単に説明しますね。



4a)「行きて帰りし物語」とは

 日常で暮らしていた子供が、非日常空間に行って非日常的な経験をして、日常に戻ってくる。こういうパターンをJ・R・R・トールキンの作品にちなんで 「行きて帰りし物語」と呼びます。子供がこの「行きて帰りし物語」を経験すると、日常では得がたい成長をする可能性があります。
 また、伝統的な社会では「行きて帰りし物語」を成人の儀式として計画的にやっていたと言われています。

 『伝統的な通過儀礼には(1)それまでの日常生活からの隔離、(2)隔離された空間でのこれまでの生の経験の否定、(3)新たな自己としての生まれ変わりと社会への再参入、というステップが存在することが、文化人類学や民俗学の研究によって知られている』
 鈴木謙介著、講談社現代新書「カーニヴァル化する社会」35ページより。

 そのため、話中で「行きて帰りし物語」が出てくると、それはキャラクターが成長するための一種の通過儀礼だと見なす考え方があります。



4b)「親殺し」とは

 例えば今ここで大ザルと小ザルが喧嘩をしているとします。貴方ならどちらが勝つと思いますか?正解はどちらでもありません。ザルは喧嘩なんかしないからです。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・済みません、真面目にやります。はい。
 物語の中で親と子供が争うと、どちらが勝つことが多いでしょうか?(客観的なデータを持っている訳ではありませんが)親が勝つことは少なく、意外にも子供が勝つことが多いのです。最初は親が勝っても、最終的には子供が勝つのが王道です。これは、「子供が親を倒す=子供が精神的に親を乗り越えることで大人になる」ことを連想させるからだと言われています。まぁ考えてみれば古い世代ばかりが勝つ物語では、夢がないですよね。

 『父を越える、母を越える、という成長の一段階を、象徴的に表わしたのが父親殺しとか母親殺しなどのテーマ性ですね』
 中村うさぎ著、メディアワークス「うきゃうきゃ対談 中村うさぎの好きだぜっ!!ファンタジー」25ページより。

 「親殺し」などと言うと物騒に聞こえますが、話中で「親殺し」が出てくると、それはキャラクターが成長するための一種の通過儀礼と見なせるのです。



4c)変則的な構成部分の解釈

 で、ここまで書けばお気付きでしょうが「砂糖菓子〜」において「山田兄妹が海野藻屑の死体を確認しに山に登るシーン」は典型的な「行きて帰りし物語」になっています。つまり山田兄妹は山という非日常空間(山田なぎさはメインストーリーの中で繰り返し蜷山に対して畏怖に近いものを感じています)に行って、海野藻屑の死体を見るという極めつけの非日常経験をし、さらにその経験を日常空間に戻ってからの糧にすることで、通過儀礼を成功させて成長していると見なせるのです。
 実際、山田友彦は山に登る前後で劇的に変わっています。

 一方、「推定少女」において「巣籠カナが義父に危害を加えるシーン」は「親殺し」なのですが、その後、危害を加えたこと自体が時間を巻戻すように無かったことになってしまい、「親殺し」の通過儀礼は未遂に終わっていると考えられます。



5)メインストーリーの解釈

 仮に巣籠カナが義父に危害を加えたことが現実になっていたらどうなっていたのでしょうか?その答こそが、実は「砂糖菓子〜」のメインストーリーにおける海野藻屑の運命ではないかと私は思っています。

 ちょっと、海野藻屑と巣籠カナの両親との関係を図にしてみましょう。

図3
 図3 海野藻屑と巣籠カナの両親との関係

 海野藻屑は母親を追い出し、父親の雅愛を慕いますが、その雅愛から虐待され、ついには殺害されてしまいます。一方、巣籠カナは義父に危害を加え、そのために母親から殺意を持たれますが、やがてこれらのことは幻のように消えてしまいます。
 2人の少女、海野藻屑と巣籠カナは両親との関係で見ると、父親と母親が入れ替わっているものの良く似ているのです。(2人とも自分のことを「ぼく」と呼んでいる中性・無性的キャラですしね。)

 となると、仮に巣籠カナが義父に危害を加えたことが現実になっていたとしても、恐らく巣籠カナは母親に殺害されて、結局「親殺し」の通過儀礼に失敗していたのではないかと思います。

 もしかすると巣籠カナは「親殺し」を幻想の中だけに留めることで海野藻屑になることを回避したのかも知れません。その意味では巣籠カナは通過儀礼に成功していたとも言えますが、ここではとりあえず巣籠カナの「親殺し」は未遂だとしておきます。

 そしてもうお分かりでしょうが、海野藻屑が父親の雅愛に殺されてしまう「砂糖菓子〜」のメインストーリーは、海野藻屑による「親殺し」の通過儀礼の失敗だと見なすことができるのです。

 一方、「推定少女」のメインストーリーは「巣籠カナが地方都市から家出して東京に行き、白雪や水前寺千晴と出会い、別れ、そして不思議な経験をして帰ってくる」話なので、巣籠カナが「行きて帰りし物語」の通過儀礼に成功していると言えます。



6)成長と挫折の物語

 以上のことを踏まえて、再度「砂糖菓子〜」と「推定少女」がどういう構成になっているか見てみます。

図4
 図4 「砂糖菓子〜」と「推定少女」の構成

 「砂糖菓子〜」も「推定少女」も、「行きて帰りし物語」の通過儀礼に成功する話が入っています。ところが同じページ進行上に「親殺し」の通過儀礼が失敗あるいは未遂に終わる話も入っています。つまり読者は「砂糖菓子〜」と「推定少女」を成長物語として読むのと同時進行で挫折の物語としても読むことになるのです。

 さらに言うと、これらの成長と挫折は表裏一体になっています。海野藻屑が殺されて「親殺し」の通過儀礼に失敗しなければ、山田兄妹は死体を見られず、「行きて帰りし物語」の通過儀礼に成功できなかったのですし、巣籠カナの家出の目的は「義父への危害の疑いから逃れること」だったので、義父に危害を加えたことが無効になり「親殺し」の通過儀礼が未遂に終わらなければ、巣籠カナは地方都市に帰ってこれず、彼女自身の「行きて帰りし物語」の通過儀礼に成功できなかったのです。

 「砂糖菓子〜」にしても「推定少女」にしても、この事件だけでは山田なぎさと巣籠カナは大人になれないでしょう。良くて「山あり谷ありの大人への道」の最初の一歩を踏み出しただけに過ぎないと思います。(山田友彦には劇的な変化がありましたが。)でもその最初の一歩が、単純な成長物語ではなく、表裏一体の成長と挫折の物語として書かれていることが、「砂糖菓子〜」と「推定少女」を印象深いものにしているのではないでしょうか。



7)おわりに

 これだけあーだこーだ言っておきながら、実のところ通過儀礼譚というものがキャラの成長を描けるのか、あるいは現実の人間の成長に役立つものなのか、私には断言できるだけの確信がなかったりします。
 ただ、説教臭かったり押しつけがましいものにならない限り、つまり作品自体のエンターテイメント性を損なわない限り、通過儀礼譚がライトノベルのようなエンターテイメントの中にあっても良いと思います。いや全く何の役にも立たない100%馬鹿話も好きですよ。でも「砂糖菓子〜」「推定少女」を見るとエンターテイメントと通過儀礼譚は十分に両立可能だと思いますし、こうした作品があることでライトノベルの多様性が保たれると良いんじゃないかな、と考えています。

 それから、桜庭一樹さんがデビューする時には中村うさぎさんの強力なプッシュがあったそうなのですが、中村うさぎさんも上の引用にあるように通過儀礼譚にこだわりを持っている方なんですよね。中村うさぎさん−桜庭一樹さんという繋がりの上には通過儀礼譚があるのかも知れません。もちろん他の可能性もありますけれども。

 それでは、読みにくいコラムにここまでお付き合い頂き、ありがとうございました。

 実はまだおまけがありまして、お暇がありましたらお読みくださいませ。



蛇足1

 今回のコラムは、主に山田なぎさ、巣籠カナ、海野藻屑の通過儀礼にスポットを当てて書いてみましたが、「砂糖菓子〜」と「推定少女」は他のキャラについても色々考えることができそうです。
 両作品の主要キャラの動きと特徴を見てみましょう。

表 「砂糖菓子〜」と「推定少女」の主要キャラの動きと特徴
砂糖菓子〜 推定少女
キャラ 動きと特徴 キャラ 動きと特徴
山田
なぎさ
地方都市(日常)→蜷山(非日常)→地方都市(日常)の「行きて帰りし物語」をする。
父親は既に死去。
「実弾」にこだわる。
巣籠
カナ
地方都市(日常)→東京(非日常)→地方都市(日常)の「行きて帰りし物語」をする。
1人称「ぼく」。中性的な外見。
父親は既に死去。
「戦場」「戦士」にこだわる。弓矢で義父に危害を加えた後、白雪の持ってきた銃と人形を持つが、最後は人形を選ぶ。
海野
藻屑
東京または海?(非日常)→地方都市(日常)→蜷山(非日常)の「行きて帰りし物語」と言えなくもない?
1人称「ぼく」。自称無性。
自称人魚。最後に死体となる。
「砂糖菓子の弾丸」を撃つ。鉈で父親に殺される。
白雪 宇宙?(非日常)→地方都市(日常)→東京(非日常)→宇宙?(非日常)の「行きて帰りし物語」と言えなくもない?
自称宇宙人。死体から生き返る。
銃と人形を持つが、最後は人形だけを持つ。
花名島 地方都市から他へはほとんど動かない。(日常から出ない。)
水前寺
千晴
東京から他へは動かない。(非日常から出ない。)
中性的な外見。
「火器戦士」。最後に白雪の持ってきた銃を手にする。
山田
友彦
(なぎさ
の兄)
地方都市(日常)→蜷山(非日常)→地方都市(日常)→自衛隊(非日常)の「行きて帰りし物語」だが旅立ってしまう。
中性的な外見。
「機関銃の貴公子」。最後に銃を手にする。
お兄
ちゃん
地方都市(日常)→宇宙?(非日常)で、旅立ってしまう。
「電脳戦士」。最後に斧を手にする。

 こうして見ると、両作品に共通する面白い特徴があるのが分かります。

・少女は動いて、最後は自分の居場所に戻る
 山田なぎさと巣籠カナは日常へ戻り、海野藻屑と白雪は非日常へと戻っていきます。この山田なぎさと海野藻屑、巣籠カナと白雪が織り成す出会いと別れ、日常と非日常の交錯が、両作品の切なさを引き出しているのではないかと思います。

・少年は動かないが、お兄ちゃんになると遠くへ旅立ってしまう
 少年は花名島や水前寺千晴のように自分の居場所から動きませんが、年長になると山田友彦やお兄ちゃんのようにどこか遠くへ旅立ってしまうようです。「青年は荒野をめざす」のであります。山田友彦の場合は立派な成長であり、おにいちゃんの場合はただの破滅じゃねーかという意見もあるかも知れませんが、灰と青春は隣り合わせ、その違いは紙一重のような気がします。
 また、最後に非日常にいる3人、水前寺千晴、山田友彦、お兄ちゃんがいずれも武器を持っているのも意味深です。

・海野藻屑=人魚姫、白雪=白雪姫?
 海野藻屑は最後に死んでしまいますが、白雪は最初に死んでいて生き返ります。ひょっとすると、これはアンデルセン童話の人魚姫(死んでしまいます)とグリム童話の白雪姫(死にますが生き返ります)に掛けているのかも知れません。
 少なくとも海野藻屑は「泡になる」とまで言っているので、アンデルセン童話の人魚姫を意識したキャラでしょう。



蛇足2

 桜庭一樹さんの作品では主人公の少女が「戦い」や「武器」を精神的な象徴として語ることが多く、武闘派作家とも呼ばれています。
 けれども、主人公の少女が最終的に現実の武器を手にしていることはあまりないようです。上の表でも、最後に武器を持っているのは非日常の少年たちばかりです。逆に言うと桜庭一樹さんの作品における「武器」は、日常では精神的な意味を示すのみで、非日常において初めて具体的な形を持つのかも知れません。

 巣籠カナは弓矢で義父の殺害を成し遂げられなかった後、白雪からもたらされた銃も手放してしまい、最後は人形を自分の精神的象徴として持っています。
 この「推定少女」のラストで白雪が残していった人形と銃について勝手な深読みをしてみたいと思います。

(1) フロイト的解釈
 フロイト心理学のように性的本能で解釈してみましょう。
 巣籠カナは中性的な外見の少女ですが、白雪が残していった人形を持っています。
 一方、水前寺千晴は中性的な外見の少年ですが、最後は白雪が残していった銃を手にします。
 「人形=少女の欲しがるもの」、そして「銃=少年の欲しがるもの」ですよね。ということは中性的だった巣籠カナは人形によって女性性を獲得し、一方、中性的だった水前寺千晴は銃によって男性性を獲得し、それぞれ性的に分化して成長したことを暗示していると解釈できそうです。
 ただし、その後も巣籠カナは1人称「ぼく」なので、この解釈はちょっと苦しいかも知れません。

(2) ユング的解釈
 ユング心理学的のように無意識と意識の関係で解釈をしてみましょう。
 銃=死、人形=生を連想させるものです。また巣籠カナが家出する直接の原因となった弓矢も死を連想させるものです。とすると、巣籠カナは弓矢による「死」によって日常(=意識的もの)から非日常(=無意識的なもの)へ移動し、非日常では白雪からもらった銃による「死」と人形による「生」を併せ持ちながら行動し、最後は人形による「生」だけを持って日常(=意識的なもの)へ戻ってくると見なせそうです。
 「死」とともに意識から無意識へ移動し、そして「生」とともに無意識から意識へ移動する。この精神的な「死と再生」はユング心理学では「これまでの意識の無意識への解体+無意識の新たな意識への統合=成長」だとされています。
 このあたりは「行きて帰りし物語」と絡めて考えると興味深いのですが、ちょっとはしょり過ぎてて分かりにくいですね。済みません。まぁ、そういうものだと思っておいてください。

(3) (1)(2)がほんまいかな?という方へ
 『本能と無意識は二大便利な言葉である。何であれそう言ってしまえばそれらしく聞こえる。どちらも自覚がないからこそ、本人の意志とは無縁のところで論じることができるからだ。理解不能な行動を取る人間を見たとき、このどちらかを使用すればまず問題なく解決する。解決しなくても論旨を押し通すことができる。』
 谷川流著、電撃文庫「絶望系 閉じられた世界」55〜56ページより。

 お粗末さまでした。
 というか、こんなことを書いている私は気は確かなのでしょうか。うかうかしていると黒ずくめの死神に左右非対称な表情で「どうやら、君は世界の敵になってしまったようだね」とか言われそうなので退散いたします。

一弥



■プロフィール

ぎをらむ
竜人館管理人。
URL : http://www.bekkoame.ne.jp/i/ureshino/giolum/index.html


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