時海さま。
長文を受け入れてくださってありがとうございます。お返事ありがとうございました。
1から1への返事、というのは確かに読みやすいですね。今後、5・6とつなげていきたいと思います。
スタンスについては、それこそが作家の個性でありますから、お互いそれで良しですね。むしろ一つのスタンスしか許容しないジャンルは閉塞してしまいます。大政翼賛会的に。
編集者の発言として「テーマ性のしっかりした主張が明確な骨太」な作品であると、いう言葉が引かれていました。
この編集者がライトノベル側、児童文学側、どちらの編集者かは不明なのですが、しかしそこにある「テーマ性」というのを少しクローズアップしてみたいと思います。
児童文学には、「まじめなもの」と「ふまじめなもの」という区分けが、昔からあるらしいんですね。また、まじめななかでも「さらにまじめなもの」と「ゆかいなもの」があります。
なにで区分されてるかというと、そのテーマ性なわけです。
1 さらにまじめなもの
これに類する作品は、社会問題について踏み込んだものがおおいです。つまり「真剣に取り組んでるのだらか、ちゃかすな」というわけです。そういう作品は堅苦しいですが、真摯な分、読み込めればずしりとした手ごたえをもちます。
『俺の墓で踊れ』とか、『あのころはフリードリヒがいた』とかがこれに相当しますね。
また、社会問題ではないけども、生きるとはどういうことかについて考える本もここに多く含まれます。
前述の「ゲド戦記」もここに入ります。
2 「まじめ」にゆかいなもの
この論理は非常にねじれています。正しい「笑い」や「ゆかいさ」を提供するものです(何が正しいかってのは人それぞれのはずですが、ここはそれ年寄り連の意見ですから)。
作品内で扱われる事件や人物は、節度ある行為の中で少し逸脱したりするが、しかし社会性を大きく損なうような事件・事故はおきない。
サザエさんタイプとでもいっておきましょう。「ズッコケ」シリーズや、「ドリトル先生」シリーズ、「王様」シリーズ。
シリーズものが多いのにはわけがあります。楽しいから続編が要望されるからです。
3 ふまじめなもの
テーマ性は何も無く、ただおもしろいだけ。排泄ネタなど下品なネタや、意味のない駄洒落だけが続くとか。あえて例示はしません。また、そこまではないにしても、「その作品を読んだことによって、子ども読者の中になんの含蓄もうまないもの」。
これについては、赤木かん子さんとかは、「『おもしろいだけですよね』って、おもしろいってのが残るじゃん!」と気炎をあげておられます。
テーマ性が必要かというと、それは作品によりけり、ってことです。
と、こう言うと、さらに「テーマ性にも良し悪しがある」と反論がくる。
これもわからんでもない。
たとえば、今、ナチズムを喧伝するようなテーマ(あえて海外に逃げます)を書くのは、作家の良心としてどうだろう。ってことです。
ここで児童文学側のいう「テーマ性」の正体がおぼろげながら見えてきました。
「良い」児童文学のテーマとは、つまり「教育的または道徳的または善的な成長をうながす」ものである。これが、児童文学業界を支配する上層支援者たちの主たる考えのようです。
過去の児童文学者協会・児童文芸家協会などなどの各賞を見てみると、おしなべてこの傾向があらわれてると思います。それが悪いとは言わない。もしそこにアイデンティティを見出しているのであれば、それはそれで信条の自由。
しかし、それ以外のものはどうするのか。
許容しないまたは、必要悪として許容する、のどちらかではないかと思います。
さらにそうしたプロパー団体ではない、民間団体の公募賞を見てみると、まあたいていは、毒にも薬にもならないおはなしが選ばれています。
つまり、民間側が「児童文学」に対していだいてるイメージがそのまま出ている。
そうすると、児童文学側から反論がきます。「児童文学は、きちんと悪も描いてきた」と。
それはそうなんですが、しかし「悪意」を肯定的に描いてはいない。そういうものは児童文学とはみなさない。
三島由紀夫の「午後の曳航」であったり、『蝿の王』であったり、『悪童日記』であったり。『バトルロワイヤル』もそうですね。
たとえ悪意を抱く人間が出てきても、それは何かの段階で、作中必ず否定されます。作家レベルかもしれないし、主人公による批判かもしれない(しかし小さい悪意は認めています。カニグズバーグなど)。
少しおさらいします。
児童文学は、
業界内の「倫理規定」として、くだらないことを許容しきれない。
完全な悪意を肯定しない。
このふたつのうち、後者はまさしく児童文学の重要な存在意義と思われます。
くぼさま、いろいろと判りやすいお話をありがとうございます。
まず、「テーマ性」がどうこうと言ったのは、ライトノベルの担当者です。
言葉が足らなくてすみません。
8によりますと、拙著の第一巻をお求めいただいたとのこと、恐縮です。まことにどうもありがとうございます。
今読むと下手なので(現在も上手くなったとは思わないのですが、さらに)、すごーく恥ずかしいのですが(汗)。
編集部による解説がその本の巻末にありますが、いきなり「この作品の三つのテーマ」などと書かれています。ライトノベルなのに?(笑)
はい、いかにも善的なテーマです(笑)。
ライトノベル業界の用語ではこのタイプの作者は、「いい話」書き、と呼ばれるようですね。
いいとかなんとか自覚ないんですが、私(笑)。
「完全な悪意を肯定しない」の言葉を拝見して、やはり自分は児童文学に影響を強く受けているなと思いました。
拙著シリーズのラスボスを「完全な悪の美学」を持った人物に書けと編集部から求められ、書けずに悩んでいますから(現在進行形)。
自分のことはさておきまして、「毒にも薬にもならない」無難な佳作というのは、けっきょくヒット作にはならないのではないでしょうか。
毒でも薬でもどちらでも、心に強く残るから他人に勧めたり、くり返して読んだり、批判したりして、話題を読者が作り出していくのですから。
毒にも薬にもならない、ライトノベル業界用語で「薄い味わい」を「良作」として、賞の対象に選んでいる団体があるとしたら、それはどうなんでしょう。
児童文学の隆盛を目的にして賞を設置しているとしたら、逆方向なのではないかと。
その団体的に「薬として効き目がありそう」な作品が候補になく、「毒」は絶対選びたくないから、結果そうなってしまうのでしょうか。
それに対して過去の受賞作の傾向と対策を考え、新人賞応募者なり、既出版作品が対象の賞なら作者が、事前に自主規制して型を作り出し当てはめているとしたら、下降スパイラルにはまってしまう可能性を否めませんよね。
新人賞に応募されている方々の集う掲示板をこっそりとのぞきますと、そういった「傾向と対策」から自作は外れていたから落選した、あるいはするのではないかといった話題が見かけられます。
突出を喜ばない「日本社会」だからなのか、「受験競争の影響」だからなのか何なのか……どう思われます?
話題がずれていたらごめんなさい。
時海さまが、なぜ作家になったか(転向と書かれてますね)を披露してくださったので、わたしも開陳してみたいと思います(とはいっても、立場的にはまだアマチュア作家ですから、読んでる方の参考にはならないですけども)。
わたしは10歳になるまでに、4度ほど危篤状態を経験した病弱な人間です(いまはそれとは信じてもらえないガタイになってしまいましたが)。
そんななか、わたしを救ってくれたメディアがいくつかあります。
テレビ。アニメや特撮。今はなかなか見られない「子ども向けリアリズム」ドラマ。
マンガ。水木しげる、手塚治虫、小山田いくなどなど。
知識学問。雑学の本などが好きだった。社会やら理科やら国語も、わたしには雑学だった(このとき、算数がわたしの心に食い込んでれば、もっと数学の成績がよくなったはずです(笑))。
テレビではあまりなかったですが、マンガや知識・学問で、わたしはとにかく考えることが好きになった。なんせベッドの上から動けませんから。
9歳の秋。入院先に、学校の先生が見舞いとして持ってきてくれたのが、『二十四の瞳』だったんですね。おそらく先生の愛読書だったのかもしれません。もしかしたらそれを読んで、先生は教職を志したのかもしれない。
先生の真意は今となってはわからないんですが、これがとてもおもしろかった。
それまでも、国語の教科書や、図書館などで、いろいろな物語に接し、本を読んでるはずなのに、この本を読むまでは、文章で感動した、という記憶がないんですね。
「あれおもしろかった」というのは、マンガやアニメ、特撮であって、活字本ではなかった。
ところがその夜、世界がひっくり返ったんです。徹夜とはいいませんが、病棟の消灯時間をはじめて無視して本を読んだ。
で「小説を書こう」と決心したのです。
このときの気持ちをうまく思い出せないのがもどかしいです。文章の醍醐味にふれたのか、それとも物語のうねりにふれたのか、それともそれとも。
しかし、わからないまでも、今言えるのは、そのあと文章表現に関するさまざまなジャンルを貪欲に読んでいき、どれも否定することなく(個々の作品は否定することはあります。自分にはおもしろくない、とか、つまらない、とか)、さらに生来の考えることが好きというのが相まって、「文章(またはジャンル)をいかに構築するか」というところにまで目が向くようになりました。
わたしには、「こういう文章を書きたい」があるんですね。
文体や様式がもたらす感動というのは確実にある。
一人称で考えてもらうとわかりますが、いろんな性格の人間がある以上、一人称の書かれ方というのはさまざまになるはずです。
一人称は、語り手の話癖であるとか、考え方であるとかそういったものが如実に出る。
それがもしいつも同じだったら、一人称は味気ないものになるでしょう。
その如実に出る「語り手の語り癖」。これが一人称のもつ特徴です。
新井素子さんの出現が大きく取り上げられるのは、このことに拠るものが多いと思います。
現在のライトノベルは、素子さんの一人称からはるかにバリエーション豊かになりました。
素子さんの一人称は、いつも「素子さん」本人を感じさせるものです。
しかし現在のライトノベルの一人称は、作家がキャラを演じている、つまり、キャラクターの性格により近づいた語り癖を書くようになっている。
それと並列して、『こういう「セリフ」「シチュエーション」「心理」を書きたい」があるんだと思います(「心理」についていえば、一人称であれば書かれてしまう可能性が大です。たまに、ヘミングウェイみたいにまったく心理を書かない一人称なんてのもありますが)。
読者がもしそれに「共感」としてくれたなら、時海さまの言うように、喜びでありますし、次へのモチベーションとなるでしょう。
わたしも同感です。
一人称と三人称、どちらが書きやすいかと言えば、私自身は一人称です。
これまでに書いた作品は一人称の方が多いです。
作者本人がキャラを演じる一人称、まさにそれかもしれません。
しかし、ここでプロとして書く児童文学では、できる限り三人称でゆこうと考えています。
ライトノベルとの区別を自分の中でつけるために。
三人称には、固定視点と神の視点があります。固定視点にも移動するものとしないものがあります。
例を挙げますと、「ハリー・ポッター」はハリーの視点に固定されていますよね。冒頭部分をのぞいて。
多くの作品は章単位、段落単位で視点が登場人物の中を移動します。上橋先生の「守り人」シリーズなど。
神の視点、というのはつまりは作者の視点です。「ナルニア国」はそうだと感じました。
一人称の発生は「語り手」の採用から始まったと思います。「ホームズ」のワトソン博士や「ドリトル先生」のトミーですね。
この語り手に作者を感じたりは、あまりしません。読者がストーリーをより身近に感じられるように、と作者が考えて登場させたからだと思います。
三人称でも「私小説」という形態があります。
これは「作者を感じる一人称エンターテインメント」よりよっぽど、作者登場感が強いです。自分を表現しているのですから。
ということで、くぼさまのサイトを実はのぞいてきました(汗)。くぼさまのお作を拝読しまして、どの辺をどう書こうとされているのかなと感じましたので。
作者自身を感じさせたいのか、切り離して自分とは別の人物を描写したいのか。
私はたぶん、いえ、今後は意識してライトノベルでは前者、児童文学では後者を目指していますから。そこがはっきりしていた方が、執筆をやりやすいと感じましたから、個人的には。
正直前者の方が書くのは苦しいですね。身を削られて。
でも満足感はより大きい。
小説を書く人、文学を書く人は、実は(自身の認識に拘わらず)多く前者なのではないかと思っているのですが、いかがでしょう。
逆を言えば、商売で文章を製造している、もちろんその質は向上を目指している、と割り切れている方って少ないのではないかと思ったのです。
身を削る、それが「文学」なのでしょうか?
少しライトノベルに話を戻します。
上でわたしが開陳した自分の話とそれにつづく「文体」の話は、結局「文学」の手法であって、ライトノベルはその後継または同輩として、その手法を使うけれども、またなにか別の要素があるのではないかと思います。
久美先生の掲示板では、わたしは「絵」との共存ということを言っています。が、実は「絵」がなくても、ライトノベルになるんじゃないかとも考えています。
無作為に選んだある本のある1ページだけを見たときに、(これはライトノベルだな)と思うことがあります。
それは(これは時代小説だな)とか(これは純文学だな)と思うのと同じように、なにか感じるものがあります。
もちろんわからないものもあります。
掲示板では「文法」と乱暴に言ってしまいましたが、ここで「様式」という言葉に置き換えます。
なんらかの「様式」を文章そのものから感じます。いや、行間から感じることがあるのです。
それは何なのか。何に由来する物なのか。そのあたりどう思われますか。
課題図書については、まあ、しかたないですね(笑)。けど「先生」も読者だと考えてしまえば、なんとなく喜びそうなこともちらほら。わたしは人の作文までを書いてましたからねえ(バイトがわりです)。
わたしは本の虫ですから、いろんなジャンルを読んでます。小学五年生のときの愛読書が『漢文入門』(社会思想社教養文庫)といういや〜なやつなのです(笑)。
いまだってアマチュアなのに、書庫を別に借りてますし。
そんな中で読むのが一番好きなのは、時海さまと変わらないですよ。歴史、民俗学、文化人類学はほんとうにおもしろい。
そのほかでいえば、詩歌文芸と哲学、文芸評論などなど。
わたしの話が、テキスト中心、理屈っぽくなっていくのはこのあたりに原因があるようです。
「両立」については、まさしく時海さまが解されたとおりです。
人口が増え、好みが多様化した現代日本、売れなきゃ読まれない。または、読者をコアに選んでいかなくちゃいけない。
しかし「普遍的」な「真髄」が、どこかしら作家に意識され、また読者にも意識されなくてはいけないと、自戒を込めてそう思います。
余談に余談:「ゲド」は、わたしは4がいちばん好きなんです。次に2。それから1、3。
5は判断保留。ル=グウィンはまだ続きを書きそうな気がする。そして5はそれがないと解決に向かわない。
そうそう、「外伝」が出版されますね。一足先に原書(ペーパーバック)を読みましたが、翻訳家の清水真砂子さんがどういう文体をもってくるか、が楽しみなところです。
>いい加減な気持ちの製品の作り手がいたら、消費者に見限られるのは、どの製品でも同じではないでしょうか
そのとおりだと思います。
しかし、上にも書きましたように、児童文学業界の中には根深い偏見があるように思います。
わたし自身は、作り手がみな真摯であるはずだと楽観しています。
感想掲示板の方では、「テキスト主義」の話題で盛りあがってましたが、個人的なことを言わせていただけば、私はイラストがなくては話が書けません。
作品ごと特定されたイラストレータさんの手になるキャラのデザインが決まっていればその画で、まだ未定の新作なら自身の作品に抱くイメージに近いイラストレータさんのオリジナル画を拝借して、脳内でキャラを映画のように動かします。
その動きや背景を言葉でラジオの実況中継のように綴ってゆく、それが私の書き方です。
ですから私がイメージしたとおりの場面のイラストが、ずばっと描かれて添えられたときはすごくうれしいですし、それ以上の素晴らしい挿絵が描かれてきたら、もっともっとうれしいです。
マジで目頭が熱くなります。
もし自分の作品にイラストが添えられない本を今後書くにしましても、私自身の書き方は変わらないでしょう。
「画」のないライトノベルはあるか、と問われましたら、私もあると思います。
様式、モチーフ、文法、ライトノベルの定義はそこにあり、アニメイラストがついているというのは、絶対条件ではないでしょうね。
児童文学や一般小説の新人賞受賞作を読んでいて、「ああ、どうしてこの人、ライトノベルへこれを応募しなかったのかな」と感じることがありました。投稿時代に。
ライトノベルの読者が、おそらくその作品の内容やモチーフや文法やキャラの心理に、一番共感してくれるのではないかと。
書店や図書館で最適と思われるグレード(読者の対象年齢)とは別のコーナーにあるために、共感してくれそうな読者が気がつかない、手に取りにくくなっている。
もうひとつ。
ライトノベルは「大人」が読んでも共感ができない、これが世間での定義らしいですね。
児童文学は大人も共感できるものがよい本らしい。実際新人賞の応募要項に、その旨に近い言葉を明記してある賞を見かけました。
この共感する場面の描き方に、私は「読めば即座に画が浮かぶ」があるように思います。男性ははっきり判りませんが、十代女性はそうですね。イラストを描くのが好きです、読書好きならかなりの割合で。
「活字倶楽部」という、雑草社から発行されている季刊雑誌があります。若い読書好きな女性読者のために、面白い本をライターや読者自身が紹介する雑誌ですが、これが投稿イラストで埋まっているんですね。
挿絵のつかない一般文芸のハードカバー作品でも、登場人物=キャラのイラストを描いて送って来る読者多数。
と紹介した上で、次へ進みます。
なぜライトノベルには、イラストが外せないのでしょう。
児童文学に挿絵が添えられるのは、文章の読解力がまだ充分身に付いていない、年少の読者の理解を補助するからだそうです。
これをふまえますと、ライトノベルの読者も読解力が???
ということはないと思うのですが。
読者が文章で想像できるイメージを、実際に画でも表して与え、それが読者の中で一致した喜び、探し当てたジグソーパズルのピースをはめ込んだような、それが楽しいからではないかと、自分は感じています。
「イラストが文とぴったり合っている」というファンレターが多いし(ファンレターの半分には、ファンの証しとしてのキャラのイラストが、同封されています)、漫画やアニメと同様、読んだ人全員が同じ顔のキャラを思い描いて話題にできる、連帯感や一体感を醸し出す、読者の一体感から来る様々な活動(同人誌とか)に繋がるからだと思うのです。
キャラがかっこよかった、と読者が異口同音にいうとき、それは個々の読者によってばらばらなイメージではなく、おそらくかなり統一されている映像イメージなのですね、ライトノベルは文章表現にも拘わらず。
「アニメ化されたら声がイメージと合わなくていやだった」「一般小説を映画化したらあの俳優じゃイメージに合わなかった」という話題をよくあちこちで見聞きするのは、そういう統一感、一致感、ひいては安心感や安定感(自己イメージへの肯定)を求める人が多いのではないでしょうか。
それがいやだ、自由に想像してほしい、あらゆるイマジネーションを喚起したいと思う方が、そういう文章表現を模索するのは、それも当然と思います。そちらは「文学」という言葉で表されるのではないかと。
お答えになりましたかどうか。
「辛気くささ」ですが、それが必要なテーマもやはりあるのです。「辛気くさい」ことでしか乗り切っていけないテーマが。
たとえば、その作品のどこかに、「微笑ましい部分を入れる」とか、「ギャグを入れる」とかではかわしきれないテーマが。
たとえば『ヤンネ、ぼくの友だち』や「ゲド」の『帰還』は、やはり辛気くさいのではないか(辛気くさいというのがどこからどこまでを示すかというのは、これまた読者の受け取り方次第ですね)。
ライトノベルでいえば、「ブギーポップ」シリーズにはどこか辛気くささがあります。
>「辛気くさい」と思わせずに読ませる
実はどのレベルでも不可能ではないかと思います。なぜなら、上にも書いたようにそれは読者が決めてしまうことで、なにかしら辛気くさくなるようなテーマ(生死病苦老など)が入ってるのであれば、それを察知してしまう人がいる。
逆にそういうテーマがにおわされていて、辛気くさくないとしたら、それはそれで問題が残るのではないでしょうか。
この辺は、大塚英志さんが最近なんか強調している「死とは記号ではない」という感じの論にも似てるかな、と思います。
アニメに話をずらしてみます。
たとえば、サザエさん(ちびまる子ちゃんでもいい)。
この作品は決して辛気くさくない。なぜかというと、この世界には上にあげたそうなりそうなテーマを回避しているから。
しかしだからこそ、そのテーマをうまく描けない。たまにいれると、浮いた話になる(このへん、おじゃ魔女ドレミシリーズがうまく対処してました。児童文学性を感じさせるアニメでした)。
では、コナンはどうでしょう。ガッシュでもいいし、ワンピースでもいい。
どの作品もわたしは大好きですが、けど、なぜかこの3つは辛気くさくない。とくにコナン。
あれだけ毎週毎週(笑)殺人事件に出会ってたら、コナンはともかくまわりの子たちは、いいかげんトラウマになろうってもんだと思うんですが、そうはならない。
それは「死」が記号にしかなってないからです。もちろん、あのストーリーに記号でない「死」を入れたら、シリーズが破綻してしまいますから、入れてほしいとは思いません。
しかし、ライトノベルだけでなく、アニメも、文芸も、映画も、いや、リアルな生活の中でも、なにかしらそうした辛気くささが回避されすぎてる嫌いがあるのではないでしょうか。
だからこそ、必要な「辛気くささ」を読者に感じてもらう必要があるのではないかと思います。
>この「変えられる」ことが「珍しい」
ええ、めずらしいです(笑)。でも、すばらしい。
えー、実は「業多姫」の1冊目を買ってきてしまいました(^^。
たぶん、週明けに読むと思いますです。
後日:読みました。おもしろかった〜。
たっくさん、おもしろさの分析をしたいところだけど、ここはぐっと我慢(笑)。
今日もまた長くなりました。お返事は時間のあるときにゆっくりで。
対話とは、かけられた時間にも意味をもつものですから。
辛気くさいということ、言い換えれば「重い」「まじめ」というのを回避できる書き手の方を、私は尊敬します。自分ができないからです。
きのうの書き込みで「腕前と自覚」と書いたのはそういうニュアンスもあります。
異論のある方も多いかと思いますが、承知した上で述べますと、「軽く」書く方が難しいでしょう。
重いテーマは世の中にあふれ、素材に困らないし、のめり込めるし、表現することで書き手自身の身の内のそういう問題をはき出しして整理して昇華できる。すると気持ちいい。達成感がある。
6へのお返事と通ずるのですが。
「毒にも薬にもならない」とはちょっとずれてますね(笑)。
「回避した話」は、けして薄いわけではなく、別の意味での癒しになっていると思いますし、ときには警鐘にもなっていると思うのです。
思わせずに、というのは言葉足らずでした。すみません。
辛気くさいけれど、それを覆って余りある別の魅力で読ませられる、ということです。隠すのではなく、表裏一体を鮮やかに見せる。
「ブギーポップ」シリーズのヒットの要因は、そこにあると私個人は感じました。
読者はそれを「リアリティ」と感じたと思います。怪談やホラーの流行はその「リアリティ」ではないでしょうか。「命」を感じる瞬間があるといいますか。
回避の一方で、求めたい。若い読者にとって、他人事ではなく自分のこととして「命」「自分の存在」を感じたい。
その矛盾に答える作品が、ヒットする気がします。たとえ極端な形(例示するならセカイ系)をとってでも。
フィクションだからこそ極端な形で見せられる、それは安全に保護されてしまった現代日本の、通過儀礼・成人儀式の苦行ではないかなと思うのです。
身をちょっと危険にさらして、存在と価値を自分の中に見いだし、自分や他人を守る方法を学びたい、それは生物としての生存本能から来る欲求ではないかと私は思うわけで、安全なこの国でその欲求を満たすのは、現実の冒険ではなく、想像された物語・フィクションなのですよね。
まあ、フィクションが大好きな分、現実に命がけの冒険させられたら、ひ弱な私は思いっきりトラウマになりそうですけどね(笑)。
今、久美先生のコラム15回を拝読しました。
その通り拍手喝采という記述が多く、大変に読後感が良かったです。
それとは別に一つ補足がいるなと思いました。
時海はここでライトノベルという言葉を、自分が現在書いている作品のジャンル名に使っています。それはここが「このライトノベルがすごい」というサイトの、1コンテンツだからです。
ライトノベルという呼び方に異存はありません。いいとも悪いとも自嘲的だとも思っていません。
ただ、ジュニア小説とか、いくつか呼び方がある中で私が自称を選べるとしたら、ヤングアダルト小説になります。略称はYA小説。
YAは、大人でも子どもでもない、成長途上の人たちを指します。年齢的にはもちろん、心の持ち方によっても。
アメリカではそう呼ぶとか聞いてますが、日本で「アダルト」といえぱ「性的描写を多めに含む」ジャンルなわけで(笑)、先行流布した固定観念とか先入観から、なかなかYAの呼び方が普及しないのはちょっと残念ですね。
そして、文学ではなく、小説。これはエンターテインメントを積極的に書きたいと自覚しているからです。
私の記憶違いだったら申し訳ないのですが、自作を「小説」と謙遜自嘲したのは「雨月物語」の上田秋成だったと思います。(ほんとかどうかよろしければ教えてくださいえらいお方)
だから私も作家とは自称しません。作家は「文学」を書かれる方のみへの尊称だと思いますので。
小説家もしくはファンタジー小説書きですね(笑)。税務署に提出した書類には「文筆業」と書きました。
児童文学の肩書きを求められたら……児童文学者、かな。