時海さま
いきなり私事ですが、うちのアパートが放火されまして(笑)。笑い事じゃないか。空き室の郵便受けにたまっていたチラシに火のついたマッチを(いまどきマッチかよ)放り込まれたようで、なかなかスリリングな日々です。
さて。
「活字倶楽部」はわたしも毎号欠かさず購読しております。
あれほど、若い人(ここで「若い」というのは学生中心というくらいの年代です)たちの読書賛美を表明している媒体はありませんね。さらにさまざまな本に対して、平等に目を向けていこうとする編集方針もたいへんわたしの気に入るところとなっています。
「完全な悪意」について、少しばかり補填するところから論を起こします。
貴著において編集者から「完全な悪の美学」を求められていると聞き、悪意と悪の美学の相違について考えたのですが、悪の美学は、児童文学でも描かれてきたのではないかと思います。
美学とは、その言葉が表すとおり「美しさ」を備えているということは、一種の倫理性をともなっているのではないか。その美学を体現するもののなかに整合性とそれにたいする希求があるのではないかと思います。
もちろん、はきちがえれば、ナチス、ヒトラーの思想であっても、戦前(現在もそれを危惧しますが)の日本におけるある種の思想も、倫理性・整合性・その希求の産物であるかもしれません。
しかし、現実におけるナチスなどを筆頭とするああした数々の蛮行は、実行を現実世界に引き起こさせてしまったことで、倫理性や整合性が果てしなく無限解釈されるなかで、そもそもがもっていた狂気と引き換えに、ただの「悪意」にしかなっていかない。
物語における悪の美学とは、それを読むものにカタルシスを得させるにおよんでも、その実行を現実世界に引き起こさないものでないか。つまり、「かっこいいなあ!」と思っても、「俺もこういう悪者になろう!」という(すり替えによる精神的決意は別として)行動を起こさせない。
たとえば、『すてきな三人組』であるとか「ルパン(本家も三世も)」であるとかも、そうした美学によって支えられていると思われます。勧善懲悪、という言葉に沿って考えるなら、「懲悪」されない悪が存在するということになります。銭形警部が、ルパン三世にとる態度のように。
悪意とは、つまるところ、人間のもっともどろどろした部分であり、いかに繕っても、それを美しく描くことは不可能なものである。作品のなかの例でいえば、ゲド戦記4巻『帰還』に出てきた卑劣な連中がこれに相当するのではないか。
悪の美学はこれに対するものではないかと考えました。
くぼさま、噛んで含めるような丁寧で理解しやすいお話、ありがとうございます。
近火お見舞い申しあげます……って、だっだいじょうぶですかー??
うう、私って勉強不足ですねー(滝汗)。
全編拝読し、何も考えずに書いているのが痛感できました。
>「活字倶楽部」さまざまな本に対して、平等に目を向けてゆこう。
自分もデビュー以前、もしかして小説書く前の一読書好きだった頃からの、愛読者です。
拙著のレビューが名だたる一般ミステリー作家の方のハードカバーに前後左右を挟まれて、「活字倶楽部」に載っていたときは、一読ひっくり返りました。
あまりの恐れ多さにうろたえまくり……つまのない刺身の盛り合わせは、いくらゴージャスなネタでも美味そうに見えないのだろう、時海はつま、それも食べられることのある大葉や人参ではなく、食べられない菊の花だろう、と納得したものでした。
嵐が過ぎて冷静になれば、載せていただくのが夢だったから、素直にすごくうれしかったです。
確かにあの雑誌は平等ですね。
>「悪意」と「悪の美学」の違い
目から鱗!
ありがとうございますこれで続きが書けますイラストレータさんが待ってるんですぅぅぅ(感涙)。
すっごい美しいんですよ、イラストレータさんが描いてくれたラスボス(男です)のラフが。
何でだろー、最悪の極悪人なのに、とお間抜けにも思う作者を尻目に、担当さんとイラストレータさんがその美しさで盛り上がっていて……やっと理解できました(自分愚かです)。
重ね重ねありがとうございました。お知り合いになれてうれしゅうございます。
こうして(上述部分が適例かどうかはさておき)、なにかを作者なりに、つまり主観的に考え尽くして、ある人物や物語が書かれるとき、程度はあっても「薄い味わい」にはならないと思われます。まあ、こんな程度でいいか、というつまりステロタイプの安易な採用(あくまでも安易です)がおこるとき、結局無難な物語がそこにうまれてしまう。
こうしたものがヒットしないかというと、わたしはそうでもないと思います。
特定の作品を持ち出すことは簡単ですが、それを好きな読者もいると思いますから、ここではあえて言及しませんが、しかし誰しもが「なんで、あれが売れるのか?」という作品(本に限らず)はあると思います。それは、書き手の「これよりも自作のほうが良い」という考えを加味せずとも、純粋に受けとるだけの人たちであってもそう思うことがある。そういうのがときどき売れてしまう。
売れてしまう、ということは、それに需要が発生したということですから、なにかしらの感動を引き起こしたのだと思いますが、問題はそうした作品はそうした感動さえも一時の「消費」で終わらせてしまうということです。
そういう作品がヒットする要素は、つまり大衆がそれを求めた結果であるとしたほうがいいでしょう。
もし「薄い味わい」といわれるところの作品が、広く流通してしまったり、なんらかの賞をとるということは、
>突出を喜ばない「日本社会」だからなのか
>「受験競争の影響」だからなのか
ということとの前者に関係すると思います。突出を喜ばない、は「平均化」と言い換えてもいいですね。
児童文学に多く見られる民間企業の公募は、児童文学の隆盛を目的とはしていません。
多くは自社のイメージ向上のために行われるのが現状です。金融会社とか石油会社とかの賞がそれですね。そのこと自体は責められるいわれはないですが、そこで選ばれる作品が、その他のまっとうな公募にまで影響を与えていることに危惧するわけです。
そこで見られる作品はまさしく平均化した作品で、それが、ジャンル創作における高次の考えであるかのように思う人を出してしまう。そこでジャンルのイメージを作ってしまう。
たとえば「童話公募」であれば、「ですます調」で「語りかけ」で「弱者の機転」があって「ほのぼの」していれば、たいていの賞はいいところまでいきます。しかしそれをして、ジャンルがそういうものだと思われるのは、その業界に根ざす多くの人(と望みます)にとっては心外でしょう。そんな「お稽古事」で書かれたものを持ち上げないでくれ、と。俳句ではこうした作品を「月並み」といいます。
ジャンルの停滞、膠着。こうした原因はこの「月並み」に追求されるようです。
ライトノベルにもこうした傾向はあるように思います。既刊作品には言及しませんが、1次選考すら通らなかった作品の中には、かならず月並みな作品があります。
その作品を書いた作家の、ジャンルへの思考および執筆の技量が足りないから、そういう月並みになるわけですが、しかしそれは「読者」がジャンルへもっているイメージを鏡に映し出したものでもあるといえると思います。
そうした月並みがある以上、それがジャンルのもっている一般イメージである、とわたしは思うわけです。
ああ、そういうことでしたか。
よく地方自治体の児童文学や童話の公募賞だと、児童文化の発展だのそれに類する単語が、応募要項に書いてあるのを見かけますので。それで。
あれは企業同様、自治体のイメージ作りなのでしょうか。
自分は「出版社主催でなければ、プロデビューは難しい、記念に一冊出してもらっておしまい」という公募雑誌の記事を読んで、応募は出版社主催の賞に限りましたが。
数をたくさん書くより、一作に全力注いで何度も推敲した方が、自分向きの修行になる気がしたので。
「薄い味わい」を求める方もいらっしゃいます。それは確かです。嗜好は人それぞれで、責めることでも何でもありません。まして押しつけるものでもありません。
もちろん世の中の読者全員が「薄い味わい」を求めているわけでもないですし、なるべくいろいろな味わいの本が存在すべきですよね。
しかし「月並み」がスタンダードひいてはオンリーな基準と思われてしまうのには、これは受け手か送り手か、あるいは両方か、何か原因がありますよね。
「下流に流れる」という表現を、ちょうどこのような話題を持ち出したインタビュアーに対して用いていた、著名な(と申してかまわないでしょう、お名前は控えさせていただきますが)映画監督がいらっしゃいました。
大衆に迎合するという意味だと解説されて。
安直にその場だけの刺激ですぐ消費される、そんな作品作りの姿勢という意味だったと記憶してます。
その記事に私はこう思いました。
かといって高邁な理想をふりかざし、上流の澄みきった源流にいても、山奥過ぎて誰もわざわざやっては来ないし、水清ければ栄養が乏しくて魚棲まず。自分は中流の、観光客でそこそこにぎわう景勝地になりたいものだなぁ、と。
饅頭と煎餅以外にも一つくらい、特徴のあるお土産が名物になっている、自称観光地になりたいなと。
たまにはガイドブックのライターや旅番組のロケがやってきて、ちょこっと一言だけ登場することもあるような観光地。話題といえばその特徴あるお土産くらい。
でも好きな人には居心地が良くて、リピーターになってくれるお客さんもいくらかおいでで。
下流はきっとにぎわいすぎていて、私は埋もれたり気後れしたり息が継げなくなったりしそうだし、下流にある都会暮らしは向いてないかなあ。
こんな私の考え(たまにはガイドブックや旅番組にもちょこっと載るような名物土産を作りたい)が一応個性とか、久美先生おっしゃるところの作品への愛とか、でしょうか。もしそうでしたら大変光栄です。
ライトノベルと児童文学に似たものがあるとすれば、それはこの一般イメージが「子どもっぽい」「成長してない」とされる点にあるのではないでしょうか。
それゆえに「大人」には玩味されない愚かな物であると。
時海さまが書かれている、「大人が読んでも共感できない世間の定義」であると。それは児童文学でもそうだと思います。だからあえて「大人が読んでも共感できる」と応募要項に謳わねばならない。
現在児童文学者協会の会長である砂田弘さんに、学生時代の1年間、「児童文学論」を講義してもらったことがあります。
そこで会長が強調していたのは、「子どもだけが楽しい」でもいいじゃないか、むしろそれを作り出すことが難しく、それこそが求められるべきではないか、ということです。
ここで「大人」について定義しておきましょう。
よくあるのが、時間年齢を例にした言い方ですね。
時間的に年を取ったところで、ほんとうに大人とはいえないはずです。「子どもっぽい」中年はいっぱいいますね。逆に、時間的に年を取ってなくても、老成した心をもつ若人もいます。
つまり精神年齢がどうあるのか、が大人の定義だと思うのです。
そして、わたしが思うのは、いつまでも「自分は子どもだなあ」「大人になろう」と自覚する人こそが「大人」ではないでしょうか。
その人は、自分の「子どもっぽい」ところは無くそうとするでしょう。しかし「子ども心」は否定しない。ほんとうの「大人」は子ども心をきちんと持っているのではないでしょうか(久美先生のいう、コドモダマシイという言葉、わたしはすばらしいと思う。「イ」をつけるだけで、これだけ止揚された観念もめずらしい)。
>いつまでも「自分は子どもだなあ」「大人になろう」と自覚する人
それが「大人」だとしたら、自分はとってもとってもとっても「大人」です、きっと(苦笑)。
一言ですみません。
ここで時海さまが提示されました、ライトノベルの外的な定義(つまり世間ではこう定義されてるみたいですね、ってことです)
>ライトノベルは「大人」が読んでも共感ができない
「」つきで書いてらっしゃるということは、これは上述した「精神年齢の低い大人」だと私は解しました。
これは、児童文学にもあてはまります。応募要綱にうたわねばならないほどに。
かつて自分が子どもっぽかったことを忘れた(ということは、今も子どもっぽいということです。反省が記憶されてないのだから)人間にとっては、ライトノベルや児童文学は役に立たないものの代表なのでしょう。人によっては、すべての芸術も役に立たないものであると判断するようです。
この疑問は、かつて、ル=グウィンが書いた「アメリカ人はなぜ竜をおそれるか」という名エッセイでも出ていました。ここでいう「竜」はファンタジーですが、ライトノベルや児童文学、と置き換えてもかまわないでしょう。
そういう「大人」たちは、「役に立たない」という指標をかかげてこれらを非難します。排斥しようとします。または、イメージの向上などに利用しようとします。
つまりそれらが、読者において正しく消費される(つまり享受される)ことを念頭としない。
わたしたちは、こういう人たちに対してどうするべきでしょうか。
正しく無視することだと思います。
さまざまな考えがあることを現代社会は保証しています。だから、「非難する」人たちは放っておいていい。しかし、問題が一つあります。
これまでの例でいえば、そういう人たちは必ず、自分達が非難するものを排斥しようとします。
児ポ法における「創作物」の扱いや、ホラー作品の犯罪への影響という詭弁など、枚挙に暇がありません。
ジャンルに生息する人たちは、こうした弾圧を感じたならば、声をあげるべきです。
それ以外は、無視する。大きく布教する必要はありません。人の心を強制的に変えることは、彼ら「大人」を他山の石とすれば、自分達がやってしまってはならないことだからです。
排斥は大問題です。おっしゃるとおりです。
ストレートな排斥はまだ、される側に反発心が芽生え、疑問が生じ、排斥されているという自覚ができますよね。
そうでなく、すり替えを、狡猾にもされたらどうしたらいいのでしょうか。
享受者の目に触れない場所で、「こっちの方がよい、これはだめ」と排斥者によって選別され、「よい」とされたものだけを笑顔でその人たちから与えられる。
そんな状況がいつのまにやら忍び寄ってこないとも限らない、と考えられる目や心を、これからを生きる年若い人々に養ってもらうには、少し年齢を重ねた私たちはどうしたらよいのでしょうか。このごろよく考えます。
少し話がそれましたが、これらを前提として、「共感」について考えてみたいと思います。
ライトノベルにおけるイラストの必要性の問題もここで関連してきます。
>共感する場面の描き方として「読めば即座に画が浮かぶ」
読書好き(とくにライトノベル読者)は男女限らず、イラストを描くのが好きってのは、確かですね。わたしも下手なりに絵を描いてました(とっくに挫折しました)。
好きな作品の絵を描く。そしてそれを誰かと共有する。または自分では描けないけど、その作品にそって描かれた誰かの絵を好きになる。
これは、ライトノベルの受容のされかたの一形態ではないかと思います。
誰かと共有する。
・ファンレターを書くことで作家と作品を共有する。
・同人誌やサイトを作ることで、仲間うちで作品を共有する。
・同人誌やサイトを披露することで、同好の士と作品を共有する。
・雑誌などにその作品に関する絵を送って、同好の士と作品を共有する。
・資力と技術がある人は、映画や音楽まで作ってしまって、同好の士と作品を共有する。
・コスプレすることで、同好の士と作品を共有する。
・原典や同人誌や雑誌・サイトに載った絵を好きになることで、そのイラストレータさんと作品を共有する。
このとき、ライトノベル読者の中では「作家・イラストレータ=仲間うち=同好の士」だと思います。
だからこそ、誰かが離反することに嫌悪感を抱いてしまうことがある(作家が自分の嗜好通りに作品を書かなかったことを、逆恨みするのはこの例です。絵が合わないこと、イラストレータが変わることで怒るのもこれに根があります)。
こんな感じでしょうか。時海さまのいう、連帯感や一体感と同じものを細分化してみました。
ライトノベルにおけるこの「共有」は、とてもすばらしいものです。
ふつうの芸術は感動するだけなんですね。「ああ、よかった」と感動して、次のものにうつろっていくわけです。
しかし、ライトノベル読者(マンガファンやアニメファン)はそんなことしない。
感動したものを、ふたたび感動しなおすために、作品を共有しようとする。その行為として、ファンレターを書き、同人誌やサイトを作り、それを披露する。
その行為を通じて、他の人たちもそこに集まる。
この共感こそが、二次創作の原動力であり、ライトノベルを支えるものです。
昨日ちょっと考えたのですが、(時間がなくてすぐには調査できないんですが)児童文学のプロの書き手、ライトノベルスのプロの書き手、それら作品に挿絵を描くイラストレータ、アマチュアの同じジャンルの書き手、それぞれのWEBサイトが、どのくらいの割合で<読者と作者が直に会話できる掲示板を設置しているのでしょうか。
例えば時海のサイトはファンサイトなので、当然掲示板がありまして、私はメッセージにはほぼ全てレスをしています。それがしたかったからです。
自分には、ファンレターにお返事が書きたいからプロを目指したというのを否定できない、本末転倒なところがあります(汗)。
たまたまファンの方からありがたい申し出がありまして、サイトができましたが、自分でも設置の準備をしていました。
アマチュアの書き手の方には、かなりの高い割合で、作品へのご意見感想受付掲示板があるでしょう。たぶんそれがサイト設置の大事な目的ですから。
で、読者の方と交流とか共有とかがしたいプロの書き手、どのくらいの割合なのでしょうね、と思ったのです。
一方的に情報を提供する宣伝目的の他に(売れなきゃ困るんですから、プロの設置目的はたいていこれです。自作の宣伝コーナーを持つ)。
設置目的には、とにかく自分を表現したい、存在を表したい、著作だけじゃ足りない、という方もおいででしょう。それは「日記」だと思います。
毎日プライベートの様子を書かれる方の割合も、知りたいような気がします。
共感と共有については、全くおっしゃるとおりだと思います。自分が上手く表現できなかったところを、ずばり示してくださいました。
さてそこで、共有された結果として、読者が描いたたくさんの絵を考えてみたいと思います。
「活字倶楽部」に投稿された絵や、原典の挿絵・表紙・ときおりつくポスターみたいなものに、共通するものを感じることがあります。
それは「生活感のなさ」です。
全てが全て、とはいいませんが、たいていは「記念写真」や「肖像画」、「集合写真」「モデルグラビア」と構図が似ている。つまり実生活ではありえないシーンの構図。コスプレ写真に見るポーズもこれですね。
「よくある構図」ってやつです。戦士が正面向いて立ってるだけ、とか、天使が胸の前で手を合わせて目を閉じて祈ってる、とか、顔など部分だけのアップとか。これを「よそいきの構図」としておきます。
共有される方法としてのイラスト(読者投稿など)を見ると、そうした生活感を感じさせないよそいきの構図が多い。
なぜ、そういうものが多くなるかといえば、作品の全般に渡った「イメージ」をそこに描こうとしているからです。言いかえるなら、つまり「表紙」を描こうとしてるわけですね。
そのとき「作品のイメージ」として使われるのは、作品の風景ではなくて、たいていキャラクターです。だから、「よそいきの構図」になる。
難しい言葉を使うなら、この絵を描く人の中で「キャラクターが前景化」されるわけです。
どうしてそうなるのでしょうか。
それは、作品とキャラが渾然となっているからです。作品を享受し、共有するときに、キャラが前面に押し出される。「前景化されたキャラクター」が作品そのものを体現するのです。
読者は作品を読んでいるあいだは、作者によって提供されたストーリーによって、頭の中でスナップを再構成しています。戦闘シーン、ラブシーン、などなど。かっこいいシーンも、ほのぼのしたシーンも、殺伐としたところだって、すべて生活感に溢れています。リアリティと置き換えてもいいかもしれません。作品の文章が稚拙であっても、読者の補完能力が高ければ、それはいくらでも再構成されるものです。
しかし読み終わったとき読者は、全体を、一つのシーンではなく、統括するイメージとして、その作品を記憶するのではないか(または記憶から除外するのではないか)。
そのときに、「キャラクターの前景化」が起こるようです。
このキャラクターの前景化に特化した商法がキャラクター商品なわけですが、それは置いといて、では「前景化」を逆手に取ってみたらどうでしょう。
受容のされ方を逆手に取る。つまり、作品の作り方です。
作中や、まれに投稿画にも、「スナップ写真」のような「生活感」を感じさせる絵があります。
文庫としては、角川書店初期と富士見書房初期のノベルにそういうものが多かった印象があります(それ以降にも当然あります)。「フォーチュン・クエスト」や「スレイヤーズ」はそうしたものだと思います。言い換えれば、「スナップ」とは、マンガのコマをひとつだけ持ってきたものといえると思います。
もし、記念写真や肖像画、集合写真だけがずらずら並ぶマンガがあったら、これは売れにくいですね。そこには「生きたキャラクター」を感じさせないから。
スナップとは、背景をも描くことです。
とここで、誤解しないでいただきたいのは、キャラのうしろに背景画が描いてあることではありません。
たとえば主人公がアーマーを修理しているところがあったとします。
あぐらをかいて、うつむきつつ、普段使い慣れない針と糸をつかって、金属と金属をつなぐ布や皮の部分を縫っている。しかし、剣と勝手が違うので、とても難しい。で、汗マークが飛び散っている。これを後ろから見てるように描く。これは背景画がなくてもいいですね。
ふつう、そういう修理しているところは、肖像画にもグラビアにもなりません。まさしくスナップというべきものです。
作品そのものの中にはこうしたスナップが連続します。
上にも書いたようにシーンの連続があるからです。生き生きしたシーンが間断なく提供されるとき、躍動感を感じるはずです。
もし、このシーンのことだけが印象に残るのなら、これは二次創作を引き起こさない。普通の感動で終わるでしょう。
しかし、キャラクターが前景化されるような作品であれば、読者は感動を誰かと共有するために動き始めます。
えーとですね、内輪を明かしてしまうと、ライトノベルの編集者からイラストレータさんへのイラストの指示は、どうも2種類あるようです。
「ストーリーの場面に即した画」「あとでグッズに転用できる画」。
「生活感のない」イラストは後者なんですね。
カバーイラスト、カラー口絵の半分くらい(編集者の方針によるがだいたい)、ライトノベル雑誌のカラー特集のイラスト、この辺が「生活感のない」方になります。
そしてたぶんですが、私の感じているところからでは、イラストの新人賞や持ちこみで採用されるのは、「生活感あふれるイラストをいかにドラマチックに描けるか」だと思います。
多くのイラストレータさんの本業が漫画家なのは、その辺が理由だと思いますし。
「生活感のない」方からは、お話が逆にいろいろ生まれると思うのです。ご覧になった読者さんによってそれぞれに。
「生活感がある」方はお話が先にあるか、あるいは極めて限られたシチュエーションのお話だけが生まれます。
例えば、先頃締め切られたとあるライトノベルの新人賞は、いくつかのキャライラスト(ポーズをつけて小道具を持っただけの背景無しワンカット)を提示し、そのキャラが登場する話を創作して応募してほしい、というものでした。
今私は、目の前に一枚の、美しい構図のイラストラフを置いてあります。
自作の主人公カップルで、ラブラブなイラストです。この書き込みが終わったら、私はこのイラスト内の二人に、簡単なしかしムードあふれる会話を与えなくてはなりません。
原作者が紡ぐ言葉や話より先に、きれいなポスター用イラストがすでに描かれているのです。
既にひとつの物語世界が、イラストレータと編集者と著者の間で確立されているわけで、ライトノベルではこの三者をまとめて「原作者」と呼ぶのが、実際のところふさわしいのではないでしょうか。
生活感のないきれいなキャライラストが持つ、ある年齢層の読者への率直な訴求力、その年代特有の心が持つデリケートな想像力の喚起、これによってライトノベルは広まってきたのかもしれません。
一般文芸誌の抽象的なカバーデザインで、どんなお話が想像できますでしょうか。
児童文学に挿絵が添えられるのは、読解力の補助、ではありません。それであれば、文章よりもマンガを書いたほうがいい。実写のほうがいい。
追記:これは、時海さまの見解を非難しているのではなく、そう書いたか言ったかしたという評論家の見解の浅さを難じているのです。
ライトノベルも同様です。読解力の補助のために、絵があるのではありません。
作品の構築(作家の執筆、読者の読書。ともに作品の構築です)としての必然性として、絵を要求するのです。補助という言葉を使うのであれば、補助されるのは文章です。文章も絵を補助します。そのふたつの関連は、読者に同時読解を求めるはずです。
時海さまが、絵が無くちゃ書けない、ぴったりの絵が描かれたとき(または思った以上の絵が描かれたとき)にはうれしくなる、というのは、共有する立場と同じ位置にあると思います。
しかし、ライトノベルの作り手はキャラクターを前景化することに奔走しすぎてはならないのではないでしょうか。
まず、作家はもちろんです。もし前景化したシーンばかり書いたら、ストーリーになりません。これは心配いらない。そういう作品はおそらく本にならない。
しかし、絵のほうはその危惧があります。イラストレータ(およびそれを指示する編集者)が「よそいきの構図」ばかり書いてたら、共有する人たちは入り込む隙間がありませんね。または、絵があってないと言われかねません。
読者に対して共有する隙間をつくる。「よそいきの構図」は読者にまかせてしまう。
ここにライトノベルの方向性があるように思います。
>読解力の補助、ではない
すみません、私の認識違いだったようです。
評論書の記述からそう記憶したのですが、どうも文脈を読み間違えたらしいので、勉強し直してきます。
画がないと書けないのは、私が共有する立場、つまりは熱心な読者でファンの出身だからでしょうかね。
しかし、その隙間をいっぱい作りたい、前景化を読者の方々にたくさんしてもらいたい、という思いは強いですし、まずは自分が被験者になってもみているわけです。
高い立場から与えよう、自分こそが創造主だとか、ま、こんなもんでしょ、てきとーでいいやとか考えるようになったら、それに気がついたら、私は物語をプロとして書くのをやめようと思っています。
自分の作品は自分自身が最初の読者かつファンでいたいし、そう思えない作品は人様にもさしだせません、久美先生おっしゃるところの愛がないですから。
そこで児童文学です。
多くの児童文学は、このキャラクターの前景化を、念頭に置いてない。シーンであるとか、エピソードであるとか、そうしたことが印象に残るように作る。もちろん、児童文学であっても、人物を描くわけですから、そうして残った印象には人物がからんできます。
こうした部分を先にならって「背景の前景化」とします。
児童文学ファンには、こうした「背景の前景化」されるのを好む人が多いですね。
ライトノベルファンに、「キャラクターの前景化」されるのを好む人が多いように。
たとえば、純粋に児童文学だけを好きな人! っていうのは、上にあげたようなライトノベル読者に多いような行動(同人誌・コスプレなど)は、少し違う方向性をとります。
たとえば『赤毛のアン』が好きな人が、インテリアをアーリー・アメリカンにしていったりする(これも広い意味ではコスプレなんですけどね)。
ライトノベル読者は、キャラクターを前景化し「よそいきの構図」をとることによって、キャラクターと同一化する。
では、児童文学読者は、背景を前景化することによって、何と同一化しようとしてるのでしょうか。
おそらく、作家の思考だと思います。
ここで、時海さまの提示された、
>身を削る、それが「文学」なのでしょうか?
に近づきます。
「文学」とは、思考の展開をだと思います。アイデアになることもあれば、風刺になることもあり、場合によっては思想になることもあります。
作品を通して前景化されるのは、作者が「あることについてどう考えたか」です。つまり作品が提供するシーンの背景。キャラクターではない。
ここで気をつけたいのは、それが重いものばかりではない、ということです。
身を削ることには違いないですが、「悲しいこと」「つらいこと」「苦しいこと」が背景になってる作品もあれば、「楽しいこと」「嬉しいこと」が背景になってる作品もあるということです。
こう考えると、ライトノベルとそうでない小説の区別もついてきます。
いくつかの作品を例にあげて考えてみましょう。
小野不由美さんの「十二国記」。
これは出版形態がライトノベルです。しかし、挿絵が外されて文庫化しましたね。けどやはりライトノベルであることは、読むとわかりますね。
では『屍鬼』はどうでしょうか。これははっきりとライトノベルではない、と思います。
久美先生が「わたしらに似てる」とコラムにあげておられた、荻原規子さんの『空色勾玉』が良い例です。これは出版形態は児童文学でした。イラストもありません。しかし、内容はライトノベルです(とくにその最後の1行の落とし方において)。
違いはどこでしょうか。
前景化されるキャラクターがあるかどうかです。
さて長くなりました。
最後に、ライトノベルという言われ方についてですが、もう定着してしまったら、語源は関係ないように思われますね。SFが、「サイエンス」「フィクション」だけではないように。
ライトとノベルが不可分であるように、SとFが不可分であるように、児童文学も児童と文学が不可分なジャンルであることを知るべきです。児童文学業界ではときおり、「なぜ児童とつけるか」という議論をしています。
「だって児童文学だから」、が答えではないでしょうか。
そうじゃないものではないからです。
児童とついた後ろ向きの理由ではなく、児童とつける前向きの理由を考えたほうが建設的ですね。
そうじゃないものは、児童文学じゃないんですよ、もう。それは、推理小説と同じなんです。推理がなくなったら、推理小説じゃない。
ただ、「児童」が何をさすのかは、考えてもいいかもしれません。それが児童文学の「勘所」になります。
さまざまな人がいろいろ言ってますね。「子ども心」とか「幸福に驚く力」とか。わたしはそれを、単純に年少者といった意味だけではない、と思っています。
しかし最終的な答えが出てはいけません。
なぜなら、それはジャンルについて考え、作品が書かれることで、常に回答され、新たな問いとなり、後世に継続されるべきだからです。
それと同様に、ライトノベルもこれから先、このライトについて考えていくべきです。
わたしは、「軽やか」だと思っています。「軽佻」なのではなく、「軽快」なのです。「これでいいよ」じゃなくて「これもいいね」という、軽やかな積極性。これが「LIGHT」だと思います。
繰り返しますが、だからといって最終的な答えが出てはならないと思います。ジャンルが終わります。ひとりひとりが、自分で考えながら書いていき、読んでいく(いきなりですが、社会・共産主義が破綻したのは、こういうものだという答えありきだったからです)。
その意味で、ライトノベルの作者も、身を削ることになると思いますよ。それは全ての表現が背負う宿命だからです。
長々書きました。
拙作お読みくださったとのこと、ありがとうございました。いや〜ん(笑)。
わたしは、児童文学において、作者自身を感じさせたい(背景の前景化)を目指しているようです。
ということは……私が両方のジャンルで書こうというのは、かなり無謀な試みを無自覚にもやろうとしているのでしょうか。
この無自覚っぷりがいかにも私らしい……(滝汗)。
ライトノベルではキャラの立ちっぷりが弱いと指摘され、児童文学ではもっと実際にいそうな生身の人間を書いてくれと指摘される、なるほど、もっと恣意的に分類しなくてはなりませんね。モチーフの差だけではいけないのですね。
では逆にうかがいたいのですが。
共通点ってなんでしょう。ライトノベルと児童文学の。
一般文芸を私は書けないと思っているのですが、なぜなのかまでは自分でも説明できません。
自分の心が大人になっていないからだと思っていたのですが、もっと客観的な理由が存在するように思えてきました。
二十歳をかなり過ぎても大人になっていない自分を見つめて、大人を目指すために、ライトノベルと児童文学を書く。
両方書いているのは、児童文学へ応募しても何度か最終選考で落ち、「ジュニア小説みたい」と評されたからです。
なのでライトノベルにも応募してみたし、児童文学への応募作品は、もう少しモチーフや舞台を工夫してみました。
結果両方から出版の機会を与えられたわけですが。
結論が出たらジャンルが終わっちゃう、そのとおりだと思います。
自分の書き込みも長くてすみません。しかも自分のことばっかりしゃべっているし。経験からしかものが言えない、勉強の足りないやつなので、寛容にお許し賜れば幸甚に存じます。