往復書簡

「ライトノベルと児童文学のあわい」

時海結以・くぼひでき

4

くぼひでき

19

2004/5/30(Sun) 15:27

時海さま

 火の件は、大丈夫でした。お見舞いありがとうございます。
 書庫の近くだったので、もし延焼してたらと思うと、それだけで気絶しそうです。この1万冊の本が灰燼に帰すと思うともう(;;。
 同じだけの資料を集めようとしたら、何百万円とかかりそうですしねえ。

 さて、そろそろ論も煮詰まってきたように思います。ラスボス倒しに行きましょう(笑)。

 悪意と悪の美学の相違について、何かお役に立てたようで、嬉しかったです。わたしもこうやって論を重ねていくことで自分の中が整理できて、とてもよかった。わたしのほうこそ、お知り合いになれて、とってもとってもうれしかったです(^^。

 プライベートで、児童文学関係のアマチュア作家の人たちとよく合評会を開いているんですが、その人たちに時折り足りない、と思うところがあるんですね(もちろん、自分のことは棚上げです)。
 それは推敲。

 時海さまがおっしゃるように、数をたくさん書くよりは、これ、という一作をこれでもかこれでもか、と推敲したほうが良い作品になる。

 赤川次郎先生みたいに、すらすら矛盾無く、しかも適した言葉だけが出てくるなんて方じゃない限り(赤川先生は聞くところによると、いっとき、月産2500枚だったそうです。栗本先生もそうですが、鬼ですね……)、やはり推敲は必ず必要だと思うんですね。

 語句や「てにをは」レベルの推敲はもとより、構成やキャラ設定のレベル、最終的にはその作品であらわされそうになっているテーマについてまで(書いてみなきゃ自分でもわからんってテーマもありますね)、考えをめぐらせなくちゃいけません。
 それをある一定期間内に行わなくちゃいかんのですが、これがライトノベルと児童文学では大きな差がある。

 それは締め切りのシビアさ。
 ライトノベルのほうが格段に締め切りが厳しいですよね(いちばん大変なのは、週刊連載のマンガ家さんでしょうけども)。
 児童文学は、基本的に、出版計画が経ってない限りはいつまでも締め切りを延ばせますし、経ったとしても作家と編集者が納得または妥協しない限り、出版は延ばせます(なかにはそうじゃない作品もあります)。

 推敲はふつう、時間をおいてから行うと、客観的に自分の文章を読めます。これは真実ですね。書いてすぐだと、頭の中にその設定・裏設定・書いてたときの興奮が残ってるものですから、読者が気づくようなミスや書き損じ、書き忘れにも気がつかないことがある。
 かといって、ライトノベルの場合、何年も推敲するってわけにはいきません。
 要は、かける時間における推敲の密度が高ければいいわけです。

 アマチュアのそのグループの方たちと合評会をしてると、自分の古い作品の推敲はほとんどしないんですね。あまりにも古いのは問題ですが、たとえば未発表であれば未完成と同じなんだから、1年前2年前の作品を引っぱり出して、使えそうなら推敲してみる、とすればいい。
 なのに、常に、新作されるんです。
 新作そのものは悪くないです。読者は新しいものを読みたいしね。いつまでも過去の作品を推敲しているライトノベル作家がいたら、そっぽ向かれてしまいます。書いてるほうもあたらしい物を書くことで新たな知的興奮を呼べますし。
 けど、未発表であるのなら。しかも、それが部分的に未熟な部分を残しているのなら。まだ良い作品に昇華させる余地があるわけです。

時海結以

19へのお返事

2004/6/1(Tue) 13:11

 蔵書1万冊!!
 自分も3桁ではとうてい収まらない数の本を抱えてますが、数千冊といったところなので、尊敬と関心をいたしました。
 服とアクセサリーと化粧品にかけるお金が、どうしても削れないんですよね(笑)。

 児童文学のペースは確かにそんなかんじですね。私は児童文学でも文庫書き下ろしなので、もう少し刊行計画が具体的に決まっていますが。

 ライトノベルの刊行は作者一人当たり、年に3〜4冊です。多い方はもっと頻繁です。
 概ね次のような段階を経て出版されます。出版社によって多少の違いはあるようです。

・担当編集者との電話や口頭でする「次どうしましょうか」みたいな会話から、自作の方向性が見えてくる。

・だいたい見えたら、作者がそれを文章化して編集部へ提出する。
 これをプロットと呼び、キャラ設定世界観あらすじを含むが、長さや内容は作者により個性的。文章化するまでに考え練り上げる時間にも個人差がある。

・プロット提出を受け、編集者は作者と互いが満足ゆくプロットになるまで、書き直しを命じることもあるし、明確でない点には質問を多く出すこともある。

・完成したプロットを元に編集者は企画書を作り、編集会議に提出、会議を経て執筆にゴーサインが出る。 

・締め切りの目安が決められ、作者は草稿とか第一稿とか呼ばれる原稿を書く。
 ライトノベルの原稿は400字詰めで250〜350枚が標準的。これを10日から半月で書き上げ、さらに推敲も加えて半月から20日で提出。

・これを編集者が読み、加筆修正のアドバイスをする。これが最低一回、新人だと何度かくり返される。

・加筆修正が済んだ原稿(初稿)が編集部へ入稿されて、イラストレータに仕事の指示が出る。原稿も校閲担当部署、印刷所、イラストレータに届けられる。

・数週間で著者のもとへ校閲チェックの入ったゲラ(仕様を整えた印刷原稿)が届き、赤ペン握って校正作業をする。著者はたいていこの一回だけだが、編集者は3段階に渡ってくりかえし校正をするらしい。

・イラストレータはカバーイラスト、カラー口絵、モノクロ挿絵の順にラフ(下書き)を提出しては編集者のチェックを受け、イラストを順次完成させる。

・本文とあとがき以外のテキストの編集者による執筆と作者によるチェック、装丁作業をデザイナがして、イラストレータは色校正などの作業をし、出荷。

 それで、これはあくまでも周囲を見渡しての推定ですが、キーボードを叩いて原稿を入力するのに半年も一年もかかるライトノベル作家は、他に仕事をしていて時間が取れないのでない限り、あまり見かけられないようです。
 刊行予定が決まると、締め切りが厳しいという理由もありますが。

 もちろん、書きながら細かい部分を考える時間に個人差がありますし、途中で表現に詰まったり、プロットから外れた展開になってしまうとかなり苦しいです(苦笑)。
 それでも一作に一年かける事態は、その作品の入力に専念しているとしたら、考えにくい気がします。

 プロットを組むときにどのくらい考える時間が必要か、ここで「執筆スピードの個人差」が出るようです。

 推敲は、与えられた時間内でできる限り、何度でもしつこくやります、もちろん。
 一晩寝て起きたら、脳内リセットして新鮮かつ客観的な目で、昨日書いた自分の原稿を読み直して修正、そんな生活に慣れてきたこのごろです(笑)。

 児童文学ではいくらか違う手順や考え方もあるらしく、これから学ばなくてはなりません(笑)

くぼひでき

20

 ここが児童文学の「文学」っぽいところではないでしょうか。
 思想の結実としての文章。だから「推敲」という名の「思索」が重要になるわけです。
 雑誌連載から単行本になるとき、大幅な加筆訂正がされることがありますが、あれも推敲なんですね。

 もし、
>「月並み」がスタンダードひいてはオンリーな基準と思われてしまう
 ことがあるとすれば、わたしは受け手にも送り手にも原因があると思います。しかし、その多くは、受け手寄りの送り手に最大の原因があるように思われます。

 推敲という名の思索は「文学」であれば当然だし、それを深めないことにはその先の思索にも当然たどりつけないんですね。
 部屋の探索をおざなりにしてしまったため、宝物の存在に気づかずゲットできない。そのゆえに、あとあとのステージにすら進めない。つまりレベルがあがってないわけです。
 同じレベルでぐるぐるしてちゃいかん。これが文学です。
 でもライトノベルも同じか、というとそうではないと思うんですね。

「文学」に似た言葉に「文芸」ってのがあります。この場合、すこしニュアンスが変わってきますね。「文学」は思索の果ての産物ですが、「文芸」はその場の勝負ってところがあります。
 話芸の落語家さんを例にしていきましょう。
 落語家さんは、ひとつの話を何度も何度も練習します。そして、これ、と思ったあと、高座にかけるわけです。
 しかし、一度高座にあがれば、そこではもう渋滞なく、話を進め、サゲなくちゃいけない(サゲってぇのは、オチをつけるってぇ意味の符牒です。いかん口調が江戸っぽい)。
 お客の前で、
「今のところ失敗したからもう一度」
 ってのは基本的にご法度(それが芸風な方もいましたけど)。
 もちろん、話芸はしているあいだも成長します。一度発表しておしまい、ではないですから、その後も研鑚を詰まれて、よりよい語り方になっていくわけです。

 つまりいつでも新しい。
 芸とは新しさを意識しないといけないわけですね。

 そこで、ライトノベルです。
「ノベル」とはそもそも、新しいものってことで「小説」って意味ではありません。
 それまでの、型どおりの「ロマン」とは違う、新しいものがそこにある。
 その期待を込められていたのではないかと思います。
 ということは、ノベルは常に新しくなくちゃいかん。
 締め切りもくるしね。
 今目の前にいるお客さんに新鮮なものを渡していかなくちゃいかん。そうでない作家は消えてしまう。

補記:ノベルの言語はラテン語でNOVUS。手元の羅英辞書を見ると、
novus : new, young, fresh, recent
とありました。

 これを頭にいれつつ、ライトノベルという言葉を、もう一度ひねくりまわしてみましょう(前回も書いてますが、これが最終的な答えではありません)。

時海結以

20へのお返事

2004/6/1(Tue) 13:21

>つまりいつでも新しい。

 なるほどなるほど、自分は常に前の作品よりは、いい意味で読者の予想を裏切るアイディアを入れた新作を、でもつまらなくなったとは言われないレベルを保った新作を、と心がけてます。それが全ての指針であるといっても過言ではありません。
 その結果の評判が、思ったほどでなければ、深く反省します。てかどんより落ち込みます(笑)。

 時にはプレッシャーですが、「新しい」と考えれば、軽やかに気負わず取り組める気がしてきました。

くぼひでき

21

 ライトについては「軽やか」であると書きました。
>「これでいいよ」じゃなくて「これもいいね」という、軽やかな積極性。

 それと上の「ノベル」をからめれば、ライトノベルとは、軽やかな新しさを提供するものです。
 作家側からすれば、こういう風に書いてみたよ、どう? と気軽(文体、価格、装丁。しかし、作品の重さは作家次第)に新しさを提示する方法。
 読者側からすれば、しかめつらしい本ではなく、手軽に受けとれる新しい「芸」。
 ライトノベル創世のころには、このふたつの時流が高まっていたのではないでしょうか。
 もちろん、それまでの大衆小説にも似た面がある。しかし、ここまで装丁をあわせてきたというのはこれまでになかった。

 このふたつがあいまって(そうでないとジャンルの意味がない。片方だけじゃ成立しない)、ライトノベルという形態が現出したのではないでしょうか。

 これらの別面が、たとえば、読み捨てにされるとか、読み捨てありきで書かれるというものにつながっていくとは思いますが、それは作家と出版社次第です。
 読み捨てされてもいいという覚悟と、読み捨てされるんだからという妥協は違うものだからです。「迎合」は卑屈な妥協と同義です。

くぼひでき

22

 時海さまが覚悟なされた
>自分は中流の、観光客でそこそこにぎわう景勝地になりたい
 というのは、ライトノベルを書くものの表明として至極まっとうな考えではないかと思います。

 ただ、上流と下流について、そのあり方が違いますので、少しだけ指摘させてください。
 上流が高邁であるのなら、下流はにぎわいすぎ。では論が成り立たないです。けど、たぶん、時海さまはそのあたりわかってて回避されたんだと思う。
 だって、下流は俗悪だって言いにくい(笑)。わたしが言います。
 下流は、読者のことも考えない、一瞬売れればラッキーという、迎合する大衆すら馬鹿にしているところです。
 そういう作り手は、どのジャンルにも必ずいます。これはしかたない。そしてそれを楽しむ人もいる。これもしかたない。

 けど、送り手としては、自分の作品を長く喜んでほしい、という思いがどこかにあると思う(無い人を否定はしません。それはそれで需要があるわけですし)。

 上流は堅苦しい。という気持ちもわかります。

 課題図書や教科書、という、規範・模範の権化みたいなものに隣接しているおかげで、児童文学はその上流に位置するものと考えられることがあります。
 堅苦しいじゃん。まじめなだけじゃん。
 けど、そうじゃないものもあるんだよ、と知って欲しいですね。それは他のジャンルといっしょ。
 はたまた上流だとしても、行きにくい上流とそうでない上流があって、児童文学はたどり着きやすい上流、楽しみやすい上流なんだとわたしは思います。
 整備された国立公園とでもいいましょうか(笑)。

 ほんとうに高邁で、極北の文学は、ザイル持って出かけないといけない絶壁です。これはこれで大切です。
 そうした難解な文学(それこそ「文学」ですね)は、難解な手法を狭義の技術として成立させます。また、人間の思考・思想を極めて突き詰めていく(わたしはそういう作品も好きです。ページの途中で遭難するのもまた楽しからずや。いつか登りきってやると思う本もあります)。

 そうした技術や考えは、一般の人には使いにくいですね。
 アインシュタインの相対性理論を、日常の自分レベルで使わないのと同じです。
 でもそこで発見された数々の業績は必ず、山の麓に影響を及ぼします。しかもわかりやすい形で。
 いま、ライトノベルで当たり前になった一人称も、人物の誰かに固定された視点をもつ一人称も、小説が現れる前のロマンにはなかったもので、小説がそれを開発してきた。
 最初は難解だった手法(だって、新しすぎて理解できる人が少なかった)も、使われるうちになじんできて、次第に当たり前の手法になるわけです。

 たとえば、ルビ(当て字)をいっぱい振ること(「星界の紋章」や「マルドゥック・スクランブル」の手法)も、そこではじめて行われたわけではなくて、昔それを試してうまく行った人がいる。
 江戸の頃にもそういう当て字は流行しましたが、意識的にとりこんでいったのは、たとえば泉鏡花であるとか、日夏耿之介であるとか、北原白秋であるとか、文学史に名を残していて現在では敬遠されるきらいのある作家たちだったわけです。
 この技術、いまじゃエンタテインメントとして楽しめる。
 これが高邁な文学が必要になる理由です(もちろん、逆に、下流からあがってくる思想や技術もあります。これもたいへん重要です。なぜなら、21世紀は民衆の時代だからです)。

時海結以

21と22へのお返事

2004/6/1(Tue) 13:40

 これは誤解がないように、訂正させてください。
 私の書き方が不十分でした。どうもすみません。

 下流がにぎわっているというのは、上流がにぎわっていないという表現とペアになります。
 これは高邁と俗悪の対比ではなく、広く一般に受け容れられやすいかどうか、です。

 ミリオンセラーになるフィクションがある一方で、そのミリオンセラーを読んで楽しんだ誰もがたとえばニーチェやサルトルやカントやショーペンハウアーを読みこなせるわけではありませんよね。
 そういう意味の対比です。

 自分は、ひろく大勢の人に読まれて、げらげら笑われるギャグをつぎつぎ飛ばして、あるいははらはらどきどきさせて、という展開を書くのには向いていないタイプのようです。
 作品世界が好みにあった方はどっぷりはまりやすく、好みに合わない方も多い、ベストセラーが量産できるタイプではないと思うんです。

 それが中流域の観光地の特徴あるお土産、という例えになったわけです。

 ですから、広く大勢の方を気軽に楽しませられるタイプの書き手を、私はとても尊敬しますし、正直うらやんでいます。
 俗悪だと思ったわけではありません。

 上流や源流がなければ、流れはそもそも成立しません。
 その流れを作り出される方や挑もうとする方も尊敬します。

 ただ私個人は、訪れる人が少ない場所に行くのは寂しいなと。寂しがりですし、作品世界を他人と共有するのが何よりの楽しみなので。

 書き手読み手それぞれが、自分に最も合った居心地の良い場所を見つければ、それでいいのではないかとも思ってますが、こういう考え方は議論の放棄に当たるのでしょうか?

くぼひでき

23

 ここから排斥について少し考えてみたいと思います。
 狡猾な排斥は今でも行われています。
 たとえば最近の例でいえば、イラクの問題。
 人質になった最初の3人、次の2人、そしてとうとう殺害されたジャーナリスト2人。

 ここで、持ち出されたのは「自己責任論」というものでした。
 この論が狡猾な排斥の一例です。
 至極もっともらしいんですね。国民の税金を使って救出されたくせに、政府を批判するとは何事か。
 とか、
 装備も警備も甘かったから捕まったんだ(これは正しい)。それで救出してやったんだから、その経費は払え。
 とか。
 彼らは自己責任をとることができなかったと。

 違うんですよ。
 彼らは自己責任を取った。
 自己責任とは、自分のしたことで、何かを引き起こしてしまったときに、その場で果たす必要があるものです。
 彼らがいつ自己責任を取ったのか。こういわれる向きもあるでしょう。
 しかし、誘拐されその恐怖を味わったこと、殺されてしまったこと、この二点においてすでに彼らの責任を果たしている。

 そこでどう狡猾に排斥されたかといえば、お金の問題にすりかえられた。
 国民の税金を使った、とか、経費を出せ、とか。

 しかし、国民の税金というものは、国民のために使われるんですね、基本的に(ODAもありますけど)。
 だとしたら、彼らのために使われても問題ではない。
 税金とは国に対しておさめる半分掛け捨ての保険料のようなものです。
 自分に何も起きなければ、掛け捨てにされた保険料は還ってきません。しかし、何かが起きたら、その保険料以上の保証がある。だから、国民は国に対してその「手配をするよう」命じているんです。

 政府・省庁の人間を雇っているのは国民です。その国民が、自分達のためにこういう風に金を使えというのをあらかじめ指示してある。
 今回で言えば、彼らを救出するのは、その保険の契約条項が発動しただけのことであって、それに対してさらに経費を要求してはいけない。
 さらに、周囲も「救出費用」がかかったことに対して、バッシングを行ってはならない。なぜなら、保険とは複数の人がかけていることで多額の費用を捻出できるようにしようという相互扶助の考えに従っており、その面で言えば税金も同じだから。

 なのに、彼らが勝手にお金を使った、とされた。国民が危機に陥ったとき、どこにいようがそれを救出する、その手配をするというのが、国民のあいだの相互扶助です。
 政府はその命令を実行するだけの機関にすぎない(だから選挙や公務員の罷免が行われるんです)。

 しかし、今回これらの事件について、政府の長である総理大臣が先頭にたって、国民を非難した。
 これが大問題だったわけです。
 自己責任論をふりかざして、金の問題にすりかえて、国民の意識をつぶしていった。
 何がすりかえられたか。
 民主主義の根本である、国民主権が、政府・官僚に主権があるかのようにすりかえられたんです。

 このとき、

 >そんな状況がいつのまにやら忍び寄ってこないとも限らない、
>と考えられる目や心を、これからを生きる年若い人々に養ってもらうには、
>少し年齢を重ねた私たちはどうしたらよいのでしょうか。

 という時海さまの心配はとても貴重なものです。そう考えない「大人」が多い。
 年若い人たちにそうした目を心を養ってもらうには、少し年齢を重ねたわたしたちが何をすればいいのか(この言い方、好きです。これなら、成人未成年関係ない。高校生が中学生に、中学生が小学生に、50代が40代に、と範囲を広げられるから)。

 正しく考えることです。
 作家であれば、作家として。
 その職分において何が正しいかは、その職分が、そして個人が、死ぬまで考え続けるべきことです。その際、正しいとはどういうことかという、メタレベルな考えにまで広げることも大切です。
 その考えた結果は、必ず自分の仕事につながるでしょう。
 それを年若い人たちは自らの目で見て、また考えて、さらに年若い人たちがそれを見て考えて……。

くぼひでき

24

 説教臭くなってきたので、話を変えます(笑)。

 余談ですが、ここで(笑)とつけることができるのも、ライトノベル世代なんだと思います。
 よく、(笑)は責任回避だとか言いますけど、そうでないこともある。
 自分の考える正しさだけをずっと押し付けないで、相手は相手で考えるのが大切だから、ここで自分は「軽やか」に引き下がる。その意思表示にもなっています。まあ、気弱なだけの(笑)もありますけども。

 サイトの掲示板設置例およびそれがプライベートでどれくらい、または読者との交流がどれくらいの割合かという件ですが。
 わたしの見たところ、忙しい作家さんほど、掲示板を設置してないように思います。逆に、読者がほとんどいないアマチュア作家ほど多い。
 これは単純に仕事とそうした活動とのせめぎあいと考えてもよさそうです。
 久美先生が2000人の読者について暗記したっていうのは、この先例ですが、それに時間を費やして「作品が書けない」となれば本末転倒です。

 けど、返事しなかったら、ファンは作家に「最近冷たい」とか「いい気になってる」とか言い出しますね。これも先例のあることです。

 そこは仕事(執筆)の時間的余裕を見て判断するべき。
 若い読者は、前の論でも書いたように「作家・イラストレータ=仲間うち=同好の士」と思ってるから、基本的に傲慢なんです。これは責められる筋合いはない。傲慢は若い読者の特権だからです。

 けど、仕事量がないのなら、逆に「自分を見て」「作品を読んで」っていう誇示があるし、反応があるととっても嬉しいし、というので、掲示板は活用できますよね。

 ただ、掲示板でなくても作家の日記というのはあると嬉しいですね。
 わたしもそう。
 これは、単純に理解すれば、わかりやすい。つまり、作り手と親しんでいきたいってことです(共有の一形態)。

 ライトノベルにあとがきが必要なのも、
 作家のWebサイトでとくに日記部分・掲示板部分が人気なのも、
 ファンレターの返事が嬉しいのも、
 握手会やサイン会が嬉しいのも、

 作家と「作品と時間」を共有できるからですね。
 そして、作家もある時点まではそれを楽しめます。それも仕事との兼ね合いですが。

 この点に関して突き詰めたのは、ミステリ作家の森博嗣さんではないでしょうか。大学の先生でもありますが、講義の出欠を質問・回答にし、次回講義で配布するという手法も、共有の方法なんだと思います(参考『臨機応変・変問自在』集英社新書。大学に行きたい人、大学以外であっても勉強に悩む人は是非読むべき。勉強とは何かがすごくよくわかる)。

時海結以

23と24へのお返事

2004/6/1(Tue) 13:54

 税金は掛け捨ての保険ですか、納得しました(笑)。

 日記より掲示板へのレスを読む方が私は好きです。一方通行でない文を読むのが好きですね。それだけなんですけど(笑)。

 作品を書くのに時間的影響が出ない限り(ミリオンセラーにならない限り、そんな影響あり得ないな・笑)、自分は読者の方々と交流を続けてゆく覚悟です。
 本を買っていただいて生活しているわけですから、それに伴うサービスを求められたら、応えたいですね。

 ファンシーショップや生花店がラッピングサービスをするように(有料のこともありますが)、書店がお得意さんにはお取り置きをしておいてくれるように。

 読み手の方の反応を直にやりとりすると、得るものは必ずあると思うのですけれど。得たからにはちょっとしたお礼は要るんじゃないかと思うので、ファンレターにはお返事をしておまけグッズを同封しているのですけれど。

 常に読者の喜ぶ姿を想像しながら作品内容にもサービスを盛りこむ、私が思い描く小説家というのはサービス業に分類されますよね。

くぼひでき

25

 >一般文芸誌の抽象的なカバーデザインで、どんなお話が想像できますでしょうか

 全くそのとおりです。
 だからこそ逆に、一般文芸は絵がいらない。岩波文庫の表紙が基本的にシンプルなのは、そこにある。
 装丁や絵は、文章だけの作品に関して、読者の予断を許してしまいかねない。
 さらに逆にすると、ここにもライトノベルのライトノベルらしさ。勘所があらわれてきそうです。

 ライトノベルに絵が必要な理由。文庫または新書が多い理由。
 これはすべて「トータルデザイン」ではないでしょうか。
 パッケージは商品実物よりも商品について語ることがあるし(iMacなどいい例ですね)、実質本意であれば簡易包装でもいい(哲学書は、基本的に実質本意です)。
 これ以上は、先述した論の繰り返しになりますね。
 絵は共有するための手段である、それはトータルなデザインになっている。だからライトノベルである。
 こんな感じでしょうか。

くぼひでき

26

 >共通点ってなんでしょう。ライトノベルと児童文学の。
>一般文芸を私は書けないと思っているのですが、なぜなのかまでは自分でも説明できません。

 たぶん、時海さまとわたしは似たような悩みを抱えているんです。
 それは、他の「ライトノベルも児童文学もどっちも好き!」なうえで、「どっちも書きたい!」と思っている人に共通した悩みです。
 わたし自身は、ライトノベル的なキャラの立たせ方ができないので児童文学しか書きませんが(これはもう性質。努力でなんとかなっても、その努力はわたしをきっと満足させない)、しかし読む分にはライトノベルはとても楽しい。

 そしてそういう人たちの中には、一般文芸への食指も伸びている人もいると思います。作り手受け手どちらの立場でも。
 ここでは、作り手に限定していきます。

 ライトノベル作家、児童文学作家、どちらでもいいですが、ここ1990年以降、一般文芸(ただしジャンルは多様。乱暴に言えば若くない人向け)への転出が多いですね。
 少し例をあげます(90年以前も含みます)。
 ライトノベルからは、小野不由美さん、津原泰水さん、桐野夏生さん、藤本ひとみさん、岩井志麻子さん、などなど。
 児童文学からは、皆川博子さん、坂東真砂子さん、江國香織さん、佐藤多佳子さんなどなど。
 この人たちのことを考えると、ライトノベルと児童文学の共通点が見えそうです。

 この人たちが、一般文芸にいってもなぜ売れたかというのは、理由は簡単。この作家さんたちは、読んでもらうための技術をきちんと身につけたから。

 ライトノベル・児童文学に共通する読者層は、基本的まだ成長段階にある人たちです。第一に、身体的成長。
 身体的成長に対して、そして心が伴なってない気がするのに、どんどん大人に近づいていくその不安がある世代です。
 今は、社会的な爛熟もあって、法的には成人年齢が20歳とされていても、30歳くらいまではモラトリアム期間って感じですね(年齢的には何歳でもいいんですが。法的にフリーターとして認められるのは34歳までです。あとは無職)。

 つまり、身体的成長はしたし法的に成人したけど、心が大人になってないと自分を感じている人が基本的には読者層なわけです。
 ただし、気をつけるべきは、全ての読者がそうではないということです。
 前述した、きちんとした大人であれば、子ども心を残したもの、久美先生の言うコドモダマシイのあるものは、楽しく享受することができます。

 しかし、大部分はやはりそういう「成長段階」にある。
 ここがまず共通しているところです。がこれは前提。

 これら成長段階にある人たちは、まだ経験が浅かったり、知識が不足していたり、うまく知恵が回らないことがあります。
 読書に限って言えば、読み方の不明なものを読んでいくよりも、読んですぐわかるようなものを読んでいきたい年頃でもあります。
 詩が若い人たちに受ける理由もそこにある(歌詞も含みます。ひとつの歌は5分くらいで基本的にわかっていける)。
 同時に、これらの人たちは大人になりたい層です。大人になるにはなにをすればいいかというと、働くか、勉強するか、のどちらかしかありませんね。まれに遊んでいても大人になる人がいますが(「」のつかない大人です)、それは、遊びがそのまま勉強になりかつ働くことになり、それが仕事になった人です。

時海結以

25と26へのお返事

2004/6/1(Tue) 14:21

>ライトノベル的なキャラの立たせ方ができない

 これは児童文学関係の方々とお話しして、初めて自覚したのですが、キャラつまり児童文学では登場人物を、生身で考えてお話を考えられる方が、ずいぶんいらっしゃるんですね。

 自分はライトノベルでも児童文学でも、キャラは脳内漫画かアニメです。それをラジオで実況中継するイメージで文に置き換えています。
 キャラクターバランスつまり主役脇役の個性も、初めから属性を配分して、立ち位置を決めています。自然に話の流れに加わってくるのではないですね。

 判りやすい書き方、ですか。
 年齢が低い読者に対するほど、短い文字数で明確なイメージを伝えなくてはならないですから、その点は鍛えられますよね。
 簡単でいて、飽きさせずに読み通してもらえないと。

 これは児童文学の新人賞審査員を数多くされている、ベテラン作家の方がおっしゃっていたと記憶しています。
「童話や児童文学の公募新人賞への応募は、枚数が少なくなるほど、対象年齢が下がるほど比例して多くなる。難易度は枚数の少なさに比例して難しくなっているはずなのに」。

 児童文学に関わる者として、忘れてはいけない重みある言葉と思いました。

くぼひでき

27とそろそろ

 ここから少し別視点で見てみます。

 ずっと「ライトノベル」またはずっと「児童文学」を書ける人と、そうでない人がいます。
 なぜ、一般文芸が書けないのか、という時海さまの悩みもこれと含まれるかな、と思います。

 たしかに
>自分の心が大人になっていないからだと
 かもしれません。けど、それだけではないと思います。

 作家も、技術的に成長していきます。すると、難しいことも書けるようになります。が、そういうときはたいていテーマも複雑になりますね。
 そのとき書かれる作品は、ライトノベルや児童文学とは、器の形が違うんだと思います(レベルがどうのこうのではなく、提供され方や読者へのテーマの提示方法)。
 だとしたら、そういうテーマが生まれれば自然に書くものは一般文芸になる。

 考える方向性も変わっていきます。
 この方向性とは、向き合う読者です。
 作家はどんなに自分のために書こうと思っても、必ず何かしらの読者を意識します。
 向き合う読者が年若い、それが頭の中にあれば、とうぜん書くものも年若い人たちに向かう。
 時海さまは、いま、一般文芸を読む層に目が向いてないんだと思います。それはそれでいいんです。いつか向くかもしれない。向かなくたってそれはそれで、べつに悪いことではない。むしろ、その視点が保持されることはたいへんすばらしいことです。
 児童文学者からの転身がライトノベルに比べて少ないのは、このためでしょうね。
 どこかしら、「子ども達に」という視点がある(それが教育的とはいわないです)。

 逆に、どれだけ読者を意識しても、作家はかならずどこかに自分のために書こうとしています。もし、わたしは読者のためにしか書いてない、という人があれば、それは自分で自分の作品はおもしろくないって言ってるのと同義です。
 自分がおもしろいってことが、自分のため、なわけです。
 そういうとき、作家は作家で成長していくわけだし、なんらかの社会経験を積む中で、大人じゃなきゃわかってくれないネタってのも出てきますね。
 孫がかわいいとか、子どもが育つのがうれしい、とか、中間管理職の悲哀であるとか、そういったことは、類型的な概念として伝わっても、実感としては年若い人たちは理解できない。
 そしたら、それらがテーマになれば、当然その人たちに向けた作品になるはずです(技術は別です)。

 ライトノベルと児童文学の共通点は、作家がその内的必然性として、年若い読者を必要としているということではないでしょうか。

 中には、いや、こういうのが好きだから書いてる、それがたまたまライトノベルまたは児童文学と呼ばれるんだ、って人もいるでしょうけど、それも根は同じです。
 作家の内的必然性は、書こうとしているテーマや、モチーフ、またはエピソードやガジェットにまで及ぶわけで、それを使ったほうがいいというのは、つまりそれを理解できる人たちがいるという無意識のうえで選ばれているわけです。
 これが内的必然性です。
 自分の内なる、外なる読者が年若ければ、それは児童文学やライトノベルになっていく。

 でも、注意。
 たまにならないことがある。
 SF読者に向けて書いてたのにSFにならなかったとか、子どもに向けた書いたのに児童文学にならなかったとか。これは技術が未熟なためか、それとも、それを器に入れきれないほどの何かがあるかのどちらかです。大江健三郎氏の『治療塔惑星』とか『二百年の子供』は後者です。

 >経験からしかものが言えない、勉強の足りないやつなので、寛容にお許し賜れば幸甚に存じます。

 許すも何もないです。わたしのほうこそ、ひとりで突っ走って喋ってます。ひとりよがりではないかと、少し震えております(少しかよっ、笑)。
 世の中なんでも、経験から出たことはやはり尊いです。時海さまのお話は、経験したからこれしかありえない!ってわけじゃないですしね(ときどきいますね、そういう人。わたしの経験したこと以外で何があるの!って人)。

 わたしのほうも勉強不足がありますが、開き直ってます。たぶん、日本で自分は勉強不足じゃないと言ってもいい人は、100人くらいじゃないかなあ。しかし、そういう人ほど、やはり自分は勉強不足であると認識してると思いますが。

 さて、私見では、そろそろ対話も熟しているころではないかと思いますが、時海さま、いかが思われますか?

 つぎの19以降のやりとりでおそらく、ライトノベルと児童文学のジャンルとしての「差」については、現時点での論を尽くせるように思えます(そのほかの、執筆に対峙する温度差であるとか、受容され方の差であるとか、そういったものはまた長〜くなりそうですが……)。

 そこでご提案なのですが、

 まずひとつめは、何かこれについて語っておきたいこと、ってのがおありですか?(あくまで対話のテーマにからめんといかんとは思うのですけどね)

 勉強ってことではないですが、このコラムが第三者の目に触れるということであれば、きっと初めてその差に気づく人、ライトノベルをまたは児童文学をまたはその両方を書いてみたいという人、そういう背反に悩む、年若い方がおられるように思うんですね。
 今回えらいこと噛んで含めて話していたのは、時海さま相手というより、そういう人たちがあとあと読むのなら質問が出ないように、過去の例証やその範と思われる作品(しかも現在普通に手に入る)があったほうがいいかな、と思っていた故でございますです。
 時海さまは「勉強不足」じゃないですよ(^^。方法論の模索に向かっているのは、最初のご発言でぴ〜んときましたから。ほんとうに不足していたら「わしの思うように書けばいいんじゃ!」的な発言しかできないもんです(わたしの経験では)。

 ふたつめは、コラムの締めなんですが、対話がすんだあとに、まとめとして、それぞれが発話して終わるってのはどうでしょうか。
 このままのやりとりでおわると、ちょっとカタルシスがないというか(あくまで物語的ですね、笑)。
 前文を管理人さまにお願いしたので、締めはそれぞれで行うってことですね。

 いかがでしょう(^^

時海結以

27へのお返事とではもうひとつだけ

2004/6/1(Tue) 14:38

 27に関しましては、まさにその通りで、質問に対して、ご親切にお教えいただきありがとうございました、なのです(笑)。

 そろそろというお話は、私も賛成です。

 まだ何かありますか、というお言葉に甘えまして、あと一つだけ。

 辛気くさいというテーマの当たりで少し触れましたが、「死の記号化」、これは「恋愛の記号化」、「性の記号化」ということもあるような気がします。

 極端に記号化せずに、生々しくなくたとえ話のようにして、死と生や、性と恋愛のあり方、けっきょくは人間の生き方あり方を、読者の方と一緒に作中で考えたいと、自分は願っているのです。
 それが重さとか辛気くささと言うことに繋がるのでしょうが、自分はそういう書き方でないと、書いた気がしないのです。

 自分も楽しめて考えられる、自分のための書き方です。

 なので、児童文学の方が住みやすいのではと書き始めたころは思いましたが、ライトノベルの間口の広さと寛容さにも引かれました。表現手法が自分はライトノベルそのものでしたから。

 ライトノベルと児童文学の両方を書きたい、両立したいと思われる方が、もしごらんになってらっしゃいましたら、両立は不可能ではないと、申しあげたいですね(笑)。

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