時海さま
服とアクセと化粧品ですかぁ。むう。わたしには縁がないなあ(笑)。
本と本と本、こよなく紙媒体を愛しておる日々です。本の重さで、床の下の梁が折れてしまい、敷居と畳の高低差が5cmになっていることは、大家さんには内緒です(^^;。
ライトノベルの製作過程(まさしく製作、ですね)に驚きました。わたしは絶対にそこに住めない、と自信を持って断言できるほどです。
他の文芸でも、編集者との事前打ち合わせはあっても、基本的にできあがるまでは作家の領分なわけですね。もちろん、懇意にしている編集者であれば執筆の相談にのり、書いてる途中のものを読み、作家に進言することはあります。が、通常は、作品がいちおうの完成をみて、そのあと編集者との折衝がはじまる感じです。
場合によっては(おおくは大家)、書かれたテキストの意味内容についてはノーチェックです(文字の間違いや、数値・年号など、簡単なミスのチェックはあります)。こういうときは、プロット以前の段階で発注がかかります。ネームバリューだけで原稿が書ける場合ですね。
つまり、作品として作家が満足いく(あるいは妥協する)まで彫琢された作品が、はじめて出版企画として検討されるということになります。とくに中堅未満の作家であれば、この傾向は顕著です。
極端な話、一応の完成作が出版に値するかどうか吟味され、だめなら出されない。
ライトノベルに近いといえば、翻訳出版がそれに近いかもしれません。
翻訳の場合は、すでに原著として「完成作」があるわけですが、それが日本語化されるかどうかというのは出版前の検討事項になるわけです。
荒訳および梗概(つまり、上でいうプロットに近いもの)が編集会議かけられ、そこでゴーサインが出れば、正式に訳にはいる。
すべてのライトノベルがこの手法によるとはしないまでも、そこに「ハウツー」があって実績があがっているのであれば、少なくとも、製作工程からみたライトノベルは、従来の文学とは違うものではないかと思えてしまいます。
誤解をおそれずにいえば、文学のそうした書かれ方を芸術的と規定するなら、ライトノベルのそれは工芸的ではないか。
それが手工業か、大量生産か、はさておいて、製作におけるハウツーが成り立つ程度に手法化されているのは、注目に値すると思います。
これは「書かれ方」にとうぜん影響を及ぼします。
谷崎純一郎、川端康成、三島由紀夫ら、その他多くの文芸作家が残した「いかに小説を書くか」という文章読本の存在は、現在も多く有効です。それらに記載されている方法は、「含意のある文章とはどういうものか。それをいかにしてものするのか」というものです。つまり表現とはどういうものか、という「芸術」に根ざしている。
なかには、きちんと定式化しているものもあります。中島梓さん「小説道場」シリーズや、久美先生の「新人賞の獲り方」シリーズ、井上ひさしさんの『文章読本』と『作文教室』、大江健三郎さんの『新しい小説のために』などは、表現を理論的にそれをつきつめてきたものだと思います。
ここに、大塚英志さんの『キャラクター小説の作り方』を対峙してみます。同じ講談社現代新書、平田オリザさんの『演劇入門』という名の戯曲の書き方を対峙していてもいいかもしれません(大塚さんは『〜作り方』より先に『物語の体操』というのもあります)。
前者と後者では、あきらかに方法論が異なっているようです。
大塚さんが「作り方」「体操」と標題してることも注目に値します。それは「表現」以前の手法があり、図式化されるということをあらわしているのではないか。
同じハウツーでありながら、これらは工芸的な方向性を示唆しているようです。
わかりやすく、前者を「表現本」、後者を「技術本」としておきます(もちろん、恣意があります)。
大塚さんの技術本では、ウラジミール・プロップの構造論や、TRPGの遊ばれ方、ハリウッド映画のシナリオ術をあげて、「物語」はいくつかの部品に分解されるとされています。それに気づいてしまえば、物語を織り上げるのはそう難しいことではない、という主張を貫いています。
これそのものは、間違いでもなんでもありません。19世紀以降の文芸理論を少しかじれば、その結論に到達するのはあたりまえだからです。
技術本においては、表現についてキャラクターの姿形、ガジェットなど、細かい部分をストーリー本体にからませることで、物語が有機的になる(キャラが浮かない)ということを言うのみで、表現本で必ず言及される「描写」と「説明」の克明な違い、作家のもつ文芸思想的な態度についてはほとんど言及されません(ただし、大塚さんの提示する有機的な方法は、メタレベルでの描写行為です。キャラの存在感を出す方法と、文章が説明に堕さない方法は、構造的に同じです)。
なぜそうしてあるかといえば、表現は、主に作家の内なる行為に属し、かつ、わたしが考えるには読者による読書(読解、理解、再構成)に依存するからではないでしょうか。
それは作家または読者が考えるべきことで、一冊の本を製作することとは別の次元のことだからです(完全に分離はできません。製作するのも人だからで、その中に作家が含まれるからです)。
時海さまに教えていただいたライトノベルの出版段階は、ハウツーのもっとも大枠が示されていると思います。
この工程に乗ってしまえば、原初的な生産者=作家が逃亡しない限り、必ず本が出ます。なぜなら、それが工芸のありかただからです。
もちろん異論がある方もおられるでしょうが、ここは極論しています。
人間は、無意味の中に意味を見出す技をもっています。「(^^」という記号が人の顔に見えるのも、無作為に抽出された文字群に共通性を見出すことがあるのも、機械に名前をつけてしまうのも、それがあるからこそです。意味は、受け取る側(受容する側)がつけるものだからです。
工芸の代表として、家具を持ち出してみましょう。
本来は「道具」にすぎない家具は、しかし、生活に使われることで愛着され、場合によっては人の思い出の中で特化されることもある。
つまり、無機物的である材料を組み合わせただけの道具が、使われる人によって「意味」をもたされる。
それが大量生産であるか、ハンドメイドであるかは関わりなく、人は自分が使っている道具に魂を感じるわけです(このあたりをつきつめた小説は、近来では神林長平さんのものではないでしょうか)。
しかし、工芸としての家具は、芸術としての作品ではないから、製作側はひとつひとつの製品に過剰な意味をもたせることができません。それでは商売にならん。
また、製作にはスピードも要求されるでしょう。
しかし、できあがった製品は受容する側によって、時に使い捨てられ、時に愛着される。
ライトノベルに似てませんか? ライトノベルがもし工芸的であるとするならば、製品は必ず「読者による補完」を期待するものになっているはずです。
前論をくりかえすなら、作品が「共有」行為によって補完される(愛着される)が故に、そのライトノベルは成功するわけです。
はじめから「共有」を考えて製作される作品があれば、もしかしたら多くの顧客をつかむかもしれません。
使いやすい道具が売れるかもしれない、という理由と同じです(まれに時流にあわず、とか、販売方法が悪いため、とかの理由で売れない場合がある)。
どちらが、正しい、というものではありません。
作家がどちらの方法を選択するかは、作家次第でしょう。両方を選んでもいい、片方に偏ってもいい、使い分けてもいい。
書き手としてのわたしは、愛着されないかもしれないけど、あくまで「芸術」なものを求めているように思います。もちろん、読者がつけばうれしい。それが次作への原動力になるのは確か。しかし、それが無くても書きたいものがあります。書かないと成長できない、執筆という仕事を通して人として大きくなりたい(これも前論の繰り返しですね)。そう考える節が、どこかにあるからです。
「芸術」としての文学は、作家の成長の証しでもあるのではないでしょうか。
青臭いことを、といわれる向きもあるかもしれませんが、古来より、書くこと(考えること)は成長するための方法の一つだったのです。
そろそろまとめが近づいてきたようですね。
ここで私が長々書いてしまいますと、論が茫洋としてしまいかねませんので、手短にするのをお許し下さいませ。
私が新刊を刊行の度に献本いたしますと、さしあげた児童文学の関係者の方からは、「おめでとうございます」とお祝いの言葉を頂戴します。
しかし、年に4冊も5冊も続きを献本となりますと、さすがに驚かれます。
ライトノベルの作者同士がお互いの本を交換しても、新人賞獲得のデビュー作を贈って下さった方以外に「おめでとう」とお祝いを伝えたとは、寡聞にして耳にしません。
自分は自分以外読者のいない小説はもうおそらく書きません。
読者に喜ばれる喜びを知ったのですから。
主婦が毎日料理を作るのは、家族に喜ばれたいから、家族がおいしそうに食べるから、それに近いでしょうか。義務感だけで一生料理は作れないでしょうね、私は主婦ではありませんが、そう思います。
ちょっとつっこみますと、作家が逃亡しなくても、イラストレータが過労で倒れたら、ライトノベルは発売延期ですよ(笑)。
これは時海さまが、児童文学関係の人と話していて自覚されたとおっしゃる
>児童文学では登場人物を、生身で考えてお話を考えられる方が、ずいぶんいらっしゃる
につながるように思います。
また、多くの人を支配している「文学」観もそこに根ざしていると思われます。
登場人物を生身で考える、というのは、書かない人またはキャラクターに慣れてしまっている人にはわかりにくいかもしれませんが、簡単に言えば「そこらにいる人を使う」ということです。
児童文学であれば、幼い時の自分であるとか、友人であるとか、先生や両親であるとか、身近な人が素材になる。
言いかえれば、そういった「周囲の人たちをモデリング」していき、そのモデリングされた人物達がエピソードを構成していく。
作品をおもしろくするために、こういうキャラを配置しよう、という原理とは別の原理が働いているわけです(もちろん、どの作家にも虚構性があるから、こんな人物を出してみようということはある)。
わたしは、比較的早くTRPG(テーブルトーク・ロール・プレイング・ゲーム)をはじめたひとりであると思います。友人に誘われて1984年からはじめました。当時は、「ロードス島戦記」もまだ無い頃です。「ドラゴン・クエスト」が出る3年前ですね。
まだD&Dの翻訳が出る前で、友だちと輸入してプレイしました(中2の英語力じゃまともなゲームにはならんかったですが)。
そのあとさまざまなTRPGをしましたが、プレイヤーよりはゲームマスターをした数のほうが多いです(高2のときは年間200日以上してましたからね、笑。放課後、毎日)。
なぜ、いきなりこんな昔話をするかというと、TRPGをするとき、シナリオ(プロット)を作りキャラを作りマスタリングしていくとき、わたしは「芸術」的ではないんですね。
目の前にいるプレイヤーを楽しませるため、かつ、自分が考えたプロットで楽しませるため、かつ、自分自身が楽しむために、ひたすらどうすれば「楽しんでもらえるか」を考えるんです。
もちろん、モチーフであるとか、ガジェットであるとか、そういったことには気を配るんですが、「芸術」のもつ教化善導(あるいはその逆。または中庸)的な面はすべて忘れているわけです。
時海さまがご存知かどうかはわかりませんが、TRPGをプレイされた方またはリプレイを読まれた方は、その雰囲気を知っていらっしゃると思います。
とにかく、にぎやかにゲームがすすむ(例外があるかもしれませんが、わたしの知る限り、たいていにぎやかです)。
ゲームマスターというのは、作家みたいなもんです。プレイヤーがキャラクターを担当します(マスターもノンプレイヤーキャラクターというのを担当します)。
マスターの作ったプロットにしたがって、プレイヤーはキャラクターを演じていきます。
そのとき、セリフの台本などはありません。
キャラクターのしそうなこと(プレイヤーのしそうなことではありません)を考えつつ、その行動を宣言したりセリフを言ったりする。
そうすることで、ストーリーが進んでいく。これをセッションといいますが、TRPGはそういうゲームなんですね。
キャラクターの行動次第で、次の展開が変わり、結末も、マスターの用意した大団円におさまらないことがあります(全滅とか、任務の失敗とか)。
マスターは、プレイヤーの発言や、キャラクターの行動を見ながら、妥当な判断結果を知らせます(その行動は成功した・失敗したなど)。
そうしたプレイングスタイルは、昔どおりですが、最近新しい傾向のゲームもあります。
マスターが途中で変わるんです。
小説に類するなら、リレー小説みたいなものでしょうか。
同じキャラクターを引き継ぎつつ、プレイヤーが演出を変わります。マスターはそこで引っ込む。
もちろん、基本的なプロットはマスターが作ったものですが、それはプレイヤーには知らされていません(知らせません)。
しかし、その場の演出であれば、プレイヤーにまかせることができる。
ちょっとわかりにくいですね。
戦闘シーンに差し掛かったとしましょう。
敵は決まってる、味方も決まってる。そういう状況で、ここはもう戦闘しかありえない、ってときに、マスターよりも戦闘シーンの演出(マスタリング)が上手なプレイヤーがいれば、交替するんです。
エンディングとかでも交替することがあります。
要は、そのセッションが楽しく進行すればいいんであって、マスターのこだわりが無い限りは(マスターも遊びたいわけですから、どうしても演出したいところは譲らない)、誰がマスタリングしてもいいわけです。
ゲーム終了時に、「今日のストーリーはおもしろかった」「いやー、あそこのシーンは泣けたね」「迫力ある戦闘だったなあ」などという感想を抱いてもらい、「早いうちに次のセッションしようね」と言ってもらえるのが無常の喜びなわけです。
そういうゲームのとき、わたしは「芸術」のことなど考えてないんです。もちろん演出したいシーンはあるから譲れませんが、おもしろくなればいいと思っている。
どシリアスな話を考えていたのに、どこでどう間違ったか、ギャグになっていく。しかしそれもまた楽しい。
何がいいって、TRPGはプレイヤーが違えば(いや同じでもいいんですが)、同じシナリオ(プロット)を何度でも反復できる。
(わたしの好きなリプレイは、 山本弘さんの「ソード・ワールドリプレイ 1〜3」&付随する企画短編集。それから、菊池たけしさんのリプレイは全て爆笑の渦です)。
これらの考え方は「工芸的」ではないでしょうか。
大塚さんが自著でTRPGとキャラクター小説が似ている、と言うときそれは、そのストーリー(プロットの立て方)のありかたであるという感じで書いてるんですが、わたしはそれよりも、ストーリーおよびキャラクターの共有のされ方が似ているんだと思います。
翻って、児童文学(だけでなく一般文芸)の多くのあり方は、そういうものではない。それはなぜかといえば、キャラクターやシーンの演出はすべて作家のみであって、読者が共有するタイミングは作品の成立後しかなく、かつ、共有するレベルが「感想」レベルでしかない。
これはこれで悪いことではありません。
つまり、使う道具が同じ散文であっても、指向する方向が全く違うだけということです。
芸術的散文(あえて芸術的といいます)の指向する方向性は、いくつかの階梯に分別できます。
ひとつは、大きく言えば読者の感覚を変えること。読む前と読んだあとで、世界の捉え方を変えさせてしまう。ロシア・フォルマリスムでいう「異化作用」が、読者の思想レベルに到達したと考えることができます。
ひとつは、もう少し小さく言えば、心理的にたくみな人物造形をするということ。それまでになかった人物を造形し、その存在の思考や行動を通して、読者に何かを考えさせる。ステロタイプでない新たな類型を作り出す行為です。
ひとつは、さらに範囲を狭くして、文章レベルで「含意のある文章」を記述すること。上にあげた「異化作用」が文章単位で生起する。印象的な一行であるとか、一言であるとか。詩的かどうかは別として、見慣れないしかし確かに「この言葉しかない」といった文章を作り出すこと。それが断続すること。
これらを読んで、「ライトノベルだって同じだよ」と思う人がいるでしょう。時海さまはどうでしょうか。
ライトノベルだって、読む前と読んだあとで世界の捉え方が大きく変わる、ってのがあるよ!といわれる人もいるかもしれない(わたしには、氷室冴子さんの『多恵子ガール』『なぎさボーイ』がそうでした。最近では、茅田砂胡さんの書くシリーズにそういうものを感じます)。
ライトノベルだって、新たな類型を造形してるんじゃないか!? とか(十二国記の麒麟のあり方にそうしたものを感じます)。
ライトノベルだって、「この言葉しかない!」っていうのがあるよ! とか。
そう。ライトノベルは、散文だから、そうした「芸術」面は必ず含有します。それは当然。けど、そこが目標か、というとそうではないですね。その先に「読者を楽しませよう」という大衆文芸的な考えがあります。
作者の思惑とは別に、ここはこれだよね、という部分があるように思います。
しかし、多くの児童文学作家はそうではなく、上にあげた「芸術」面を優先し、かつそれが子ども達に届く文章レベルでないといけないとしているんです。
時海さまが聞かれたベテラン作家さんの言葉。
>難易度は枚数の少なさに比例して難しくなっている
というのは、ここにあてはまるように思います。
わかりやすい例でいえば、小学1年生が読む、と想定されて書かれた作品に、400文字以上続く「1文」は使えない。もっと短いスパンで句点「。」が打たれないといけない。
時間の概念があやふやな園児または乳児相手にするときは、時間を単線的に処理したほうがいい。
熟語は総ルビふればいいけど、もっとほかに「いい言葉があるんじゃないか」っていうものがあれば、そっちにする(小学3年生に、ジェイムス・ジョイスは読みきれないでしょう)。
など、さまざまな「読まれ方に配慮した」操作がそこでほどこされる。
そのうえで(つまり上のものは最低限)、子ども達の実感に添う表現を見つけ出す。
たとえば、大人であればどうってことない素材がとりあげられることがあるのはこのためです。
例でいえば、転校生ネタってのもそうですね。
大人にとって、引越しは物理的な大事件であっても、心理的な大事件にはそうそうならない。しばらくしたらその土地、新しい人間関係、になじんでいける。
しかし、子どもにとっては大事件だったりする。クラス替えでも席替えでも、身近な変化が大きく子どもの心を左右することがあります。
そのとき、「キャラが立つ」という考えはないんですね。もちろん、キャラを立たせようとする児童文学はあります。一分野に固執してる方が難しいですから。
けど、ライトノベルのように強烈に立たせようというのは、少ない。人よりもエピソードが重要視される(これも前論にあり)のはこのためです。
TRPGはプレイを見学したことはありますが、やったことはないですね。
これは完全に自分の個人的な性格によるもので、おままごとが嫌いだったし、学芸会で私はステージに立ったことがありません。
では何をしていたかというと、台本を書き、小道具をデザインし、衣装や大道具を探して借り、演出を指示する。小学校低学年から中学の文化祭までずっとそうでした。
さておき、リプレイは少しだけ読んでます。
ライトノベルには「この一文」を効果的に見せる方法がいくつかあります。
活字を大きくする。
両隣を1行ずつ空ける。
これらはすぐ判ります。
指摘されなければ、多くの読者が気がつかないだろう方法もあります。描き手の職人魂が発揮されるその方法とは。
直前の文を1行半、当の大切な文の大切な言葉を行の後半・ページの下の方へ配置し、直後の文は極端に短くする。
これで大切な言葉の周囲に余白ができます。
漫画で大事な言葉を独立のコマや吹き出しに入れるのと、同じ効果を狙うわけです。
これには、意識して前後の文章を不自然にならないよう加工調整しないと、しかも本に印刷されたときと同じ字組で書いていないと、できません。
あと、イラストページの配置が関係してきてしまいますが、劇的な場面転換の1行はページをめくったところにある、という調整もします。
児童文学がエピソードに合わせて登場人物が揺れるように設定されている、それは判ります。
ライトノベルでキャラが立つとは、ありとあらゆるどんな場面でも、その際このキャラはこういう言動パターンを取る、と作者と読者の間でキャラごとにルールが決まっている状態だと、自分は理解しています。
なので、キャラとキャラの個性がぶつかって、エピソードを作り出してゆくのです。切り開いてゆくというのか。
イベントはいくつかプロットに設定していても、細かなエピソードはどうなるか、書いてみなければ判らない、それが書き手の正直なところですし、創作の醍醐味でもあると思われる方もおいでと思います。
ここに違いが見いだせそうですね。
上流・下流の件につきましては、わたしのほうが読み損じをしているようでした。ごめんなさい。
下流が「広く一般に」というものであるなら、それはとても大切な所になります。
そうするならば、上流でも中流でも下流でも、どこにでも「高邁」があり「俗悪」がある可能性があります(俗悪な上流ってのがあるんです)。
わたしは、どちらかというと「高邁」なほう。ここまでの対話でもおわかりかとおもいますが、理論ぶっていてかつ説教くさい(笑)。
じゃあ、わたしの書く話は誰にもおもしろくないか、といえば、そうではない、とわたしは信じています(現に読んでおもしろいと言ってくれる人がいるわけですし)。
ではそのおもしろさとはなにか。
これはもうたくさん議論された話ですね。筒井康隆さんもエッセイでよく書いてますが、おもしろさにはさまざまなものがある。それはそれを受けとる人次第なんですね。
よく見かけるのが、古典への言及。
つまらない。古くさい。
けど、好きな人は好きです。古典のおもしろさってのがある。それは、スポーツとかわらない。種目または競技ごとにおもしろさが違うんです。
文芸に限らず、他のジャンルに文句を言う人は、マラソン見ながら「決着が早く着かない」と言ってみたり、相撲見ながら「なぜ武器を使わないんだ」って言ってるのと同じなんですね。
おもしろさのレベル、ルール、そうしたものが違うわけです。
これは、時海さまのことじゃないですよ。
哲学書なんていらないよね、って最近言われたんです(笑。哲学書のところに、純文学といれてもいいし、古典といれてもいい)。
つまり、難しくて理解できない。こんなの誰も読んでない。ひとつもおもしろくない。笑うところがない。
まあ、その人にはそうなんです。でもわたしにはおもしろい。「笑う」イコール「おもしろい」ではなくて、「なるほどこういう考え方もあるか」イコール「おもしろい」なんですよね。
>全ての人が、ニーチェやサルトル……を読みこなせるわけではありません。
そう、そのとおりなんです。
しかし、逆はまた真なり。
全ての人がライトノベルを読みこなせるわけではない。
ライトノベル読者の中でときどき、上のように他ジャンルの作品を「難しい」だから「いらない」といわれる人がいるとき、それは逆もありうるということは知っておいてもらってもいいと思うんです。
それら難しいものは、それはそれで誰かのおもしろさになっている。
哲学書も、古典も、課題図書も、教科書も、誰かがおもしろいと感じている。それは音楽でいえば、ポップミュージック以外に、演歌やクラシック、民謡、民族音楽などがあり、それぞれにファンがいるってのと同義なんです。
自分のジャンルを正当化したいとき、他のジャンルを不当に扱うと、両刃の剣になってしまうこともあるわけです。
まさにおっしゃるとおりです。
でもこの文を読まれる方々は、相当に多くの割合で、ライトノベルが読み解ける方なのではないかと思いまして、心情的に近い例を引こうとし、ちょっと勇み足だったようです。失礼申しあげました。
さて、ようやく、「恋愛の記号化」「性の記号化」というところに話をすすめていきます。
時海さまは、読者との作品共有の抱負として、そうした
>死と生や、性と恋愛のあり方、けっきょくは人間の生き方あり方
を読者と一緒に考えたいと願っておられると書かれました。
しかし、ライトノベル読者の中には、そういう要素はいらない、重い・苦しいと考える人もいるのではないかと思います(わたしはそうは思わないですが)。だからこその、発話だったのだろうと思われます。
至極まっとうと思います。
それが児童文学とライトノベルとどちらに住みやすいかといえば、前者でしょうけど、当然ライトノベルだってそれができる。
むしろ、ライトノベルでなければできないそういう作品というのがあるはずです。
たとえば、今の若い人たち(広く30歳代まで考えます)を例にすると、そういう重いことのひとつに「政治」がありますね。
選挙の投票率が年々低くなっているところに「その表れ」があるわけです。
しかし、いま、大衆文学ではライトノベルであっても「ポリティカル」であることは売れる要素のひとつになっています。
「十二国記」は、行政のあり方や政府のあり方にも触れていますし、そのほかそうした「政治的」な作品が見られるようになりました。
ほかには疾病や障害。
いまだガジェット単位の書かれ方がよく見られるとはいえ、ライトノベルにも不可避的な大病や障害が描かれることがあります。
このバリエーションは、ロボットやサイボーグ、アンドロイドや動物、魔物という形に変形されているように思われます。
ここには心の問題も付随してくるでしょう。
そうしたことの代償行為として、読書というのは機能してきました。
伝統的な読まれ方のひとつですが、読書することによって疑似体験を積み人格の向上を図ろうってやつですね。
それはそれでそういう読み方をしたい人、されたい人がいるわけで、否定されるべきものではない(だからといって、強く肯定される必要もない。そうした人格の向上の最大の弊害は受験勉強です。人格破壊の可能性をもつ向上ってのは矛盾でしかない)。
中にはそうしたことを知りたい、考えたいという読者がいる可能性がある。作家の提示する作品の中に、ヒントや答えを見出したいと願う読者がいるかもしれない。または、まったく自分では気がついてなかったけど、読むことによってそれに気がついたって人も出てくるかもしれない。
そのとき、それを「重い」「辛気くさい」ということで、忌避する人があれば、それは縁がなかったってことです。
作品の提示と共有において、作家の最大の特権は、自分の好きなように書くことができるということです。入れたいのなら入れる。
たとえばライトノベル読者に届けたい、というのであっても、それは届くはずです。
「恋愛の記号化」「性の記号化」はひとくくりにして、「生の記号化」としましょう。「死の記号化」と比較するためです。
生きていくことは、死ぬことと同じ程度に、誰にとっても悩みの種になるものです。仕事したくない、って若者が増えました(わたしは、それは「仕事」じゃなくて、「労働」じゃないかと思ってますけどね。アーティストにはなりたいっていう人もいますね。アーティストは仕事ですよね)。学校に行きたくない、って人も増えました。
そうした中で、現代は、死と同時に「恋愛」や「性」が強く記号化してきたのでしょう。
それが現実の人間を軽視するほどに記号化されてしまった、といっても過言ではないほどに、恋愛のモチーフが叫ばれ、性が商品化され、現実に悲劇的な事件が多発している(昔からこういう事件はあった。氷山の一角が現れてきたのだ。という人がいますが、わたしは氷山がでかくなっただけと思います。沈んでいる部分の割合も増えてきてるように思います)。
では、まじめにそうしたことを考えると作家が決めたとき、どう書くか。つまり、死と同じように生を記号化しなくてすむ方法はないか。
どう読まれるか、共有されるかは、読者の問題ですからここでは捨象したいのですが、有体に言えば、不可能なんですね。結局どう共有されるかにかかってるわけだから。どんなに書いても「記号化」してるようにしか見えない読者もいると思う。
課題図書を「硬い」と規定してしまうように。
けれど、作家としては、書いてる人間には少なくとも、記号化してないものを提示したいとしたとき、どうしたらいいのかって考えてみましょう。
(もちろん、これは先にも言ったとおり、答えの出るものではありません。作家は、作家をやめるまではいつまでも考え続けるべきものです。読者も読者をやめるまでは考えてほしい問題です)。
こうした問題は、ライトノベルと同じ読者年齢層(先述してあります)で考えるとき、「ジュヴナイル」とはどういうものか、とかつて考えられたのと同じだと思うんですね。
若い時間を生きている人に切実ないくつかの問題を、文芸という形で考えてみようというのが、ジュヴナイルの役目のひとつです。
ジャンルを少しずらして、ヤングアダルト文学とか、プロブレムノベルとか、もここにあてはまると思います。
現代ではこうしたものも広く「児童文学」として捉えています。児童文学と一般文芸の境が甘くなってきたように思えるのはこのためです。
読者層(そうした問題を抱える層)が重なってきたわけです。
文芸作品に限らず、何かしらの問題をフィクションで考えるときは、類型またはステロタイプを使って、人物や出来事を抽象化していきます。
もちろん、いま私たちが考えているこの「生/死の記号化」に対応する問題も、抽象化した設定を別の形で肉付けしていく(時海さまは、たとえ話のようにしていく、と書かれてますね)ことで、問題を提起し、場合によっては解決または解決へのヒントが提示できるかもしれません(成功するかどうかは作家の執筆の腕と、読者の共有の腕にかかっています)。
だいじょうぶ。読者はいます。なぜなら、そうしたことが、時海さまが「過去のさまざまな遺産」としての「児童文学」と「ライトノベル」との共有のうえで出てきた考えだからです。
作者は、読者としての自分の感覚をもってして、ジャンルを共有していくからです。自分が考えたことは誰かに伝わる。
ただ難しいのは、あらかじめ共有することを約束してくれている層以上に、それを広げていくことです。これは答えが出せません。
さて、今日も長くなりました。
いよいよ、コラムの締めに入るころかな、と思います。
「恋愛」と「性」を「生」と、初めは一言で「死」と対比させようかと思ったのですが、どうせ注釈をつけるならと、あえて「恋愛」「性」と書きました。
その部分を汲んで下さって、幸いに存じます。
息抜き気晴らしにエンターテインメント読んでまで、そんなプライベートに属することへとやかく言われたくない、という方は多いでしょう。
それは承知しています。
しかし、自分自身の十代を振り返って、教えてほしいと思ったとき、周囲の生身の大人は逃げるだけ、感情的になるだけで、きちんと向かい合って話をしてくれなかったように感じています。
だから、もし、自分より年若い方で、そんな話を少し先輩から聞きたいと思っておられたら、お節介でしょうが、自分にもできることはしたいなぁと。
できたらストレートな「思春期の悩み相談室」みたいな本ではなく、もっと持って歩きやすくて友人にも照れずにお勧めしやすい本がいい、そんなかんじですね。
拙著が比較的女子向きなのは、それが理由です。少年系レーベルに、ご縁があってお世話になってはおりますが。
ですから、できたら漫画が描ければもっとよかった、でも生憎画力がかなり不足していました(笑)。
少女漫画が教科書でした、人生への航路を踏み出す海図といいますか。
ですから、航海に慣れた参考書の要らない中堅・ベテラン層と共有する必要性は、特別ないと思うんですけれど(笑)。
児童文学でグレード(対象年齢)を下げた作品を頼まれた(28でくぼさまが書かれた出版形態はハードカバーの児童文学でして、文庫書き下ろしは「作者企画書提出・編集部検討・締め切りつきで本文執筆発注」です。ライトノベルより少々スパンが長いだけで、編集方針へ沿うようにとのアドバイスやだめ出しも、書き手が求めれば編集側からあります)ら、これはこれで、文字だらけの本でもゲームみたいに面白いのもたまにはあるよと、お引き受けします。
次世代のライトノベルの読者層へと導く呼び水として(笑)。
一部関係者が、この本音の1行を目にしないことを祈りつつ(笑)、まとめに入りましょう。
いえ、志としては、小学生が文字文化に一生親しめる人に成長してゆく下地を作る、そのお手伝いですよ?