約20日間にわたる、わたしにとって非常の知的興奮を味わった時間が終わろうとしています。好きなことについて没頭できる時間というのは、何にも替えがたく楽しいもので、しかも尊敬できる人との対話に費やせたのは、とても貴重な経験でした。
この数日間、時海さまを悩ませたであろうわたしの乱れた思考は、今読み返せば同じ場所をぐるぐると回っているだけに過ぎなかったようです。最後にもう一回りしてしまうことをお許しください。
時海さまと往復した書簡のなかでわたしが常に考えていたのは、「読者によってどう読まれているか」ということでした。そしてその読まれ方が作者にどう反映されるか。
言い換えるなら、作品やジャンルの「読まれ方と書かれ方」、両者を接続する「と」に内在する関係性について、わたしはずっと考察していたのでした。
作者と読者、どちらが先かといえば、多くの人は「作者」と思うでしょう。作品があるから、はじめて読書できるのだと。
わたしはそうは思っていません。作者は何もないところからすべてを思いついてきたわけではなく、先行する諸分野の知を、自らに綜合することによって、新たな作品をつむぎだすのです。
つまり、作者は、作者である以前になにかの読者であり、その読書経験の中で満足しなかった何かを、作品を作ることで昇華させる。
作者は、自分の読みたいものを書き、また、自分と同じようなものが好きな人たちの読みたいものを書くのです。
作品が、作者を含む誰かの読みたいものを前提として書かれるのであれば、つまり、作者とは読者の一形態であるわけです。
作者に何か特異な点があるとすれば、読みたいと思ったものを「文章」にする能力でしょう。またイラストレータは「絵」にする能力がある。その他の点においては、作者と読者との間に差異はありません。(これからそれを書こうとする作家も含めた)すべての読者は、書かれざる作品については均等な距離にあるからです。
書簡の中でわたしはたびたび「共有」という言葉を使いました。書くうちに、時海さまに読まれるうちに、わたしの中で「共有」という概念が変節し、強固になったように思います。これを整理してみます。
ライトノベルにおいて、なぜ絵が必要なのか。
この問いに対して、わたしは読者が作品を共有するための手段ではないかと思いました。
それについては、時海さまと書簡をやりとりする以前に、久美沙織さんの「創世記」感想スレッドにおいて、葛西伸哉さんの論に触発され次のように書き込みしました。
少し長くなりますが、引用させていただきます(書き込み日時は、2004年5月23日(日) 19時18分40秒。このコラムの0と1のあいだです)。
まずは、ライトノベルはこれでいいのか、という部分ですが、
葛西 伸哉さまがおっしゃってることに絡めて考えると、明らかに「小説」とは違うと思うんですね。
文字で、散文で、主体となる部分が書かれるから「小説」に見える。作家も編集者も読者もその認識の中にあるけど、それは違うぞ、と。葛西さんが言うのはこうです。まず「小説」という言葉を少し広げて、「文芸作品」つまり文章で作られる芸(または芸術。これは作家の主体性にかかわるのでどちらとは限定しません)と考えるとわかりやすくなるかな、と思います。
つまり、「文芸作品」の中に「小説」があり「ライトノベル」がある。
少しわかりにくいですね。別のメディアを例にすると、なんとなく形がつかめる気がします。「映像作品」の中に、「映画」と「テレビドラマ」と「セルビデオ」などがある。基本的に手法は同じはずなんです。台本があって、カメラで撮影して(記憶媒体は違うかもしれないけど)、それを受け取る側は「画面」を通してみる。そこに変わりはない。けど、なんか違う。形式だろうか、画面比率だろうか、ストーリーだろうか。そうじゃなくて、「作り手」と「受け手」のあいだにある一種の共犯関係(または信頼関係)に則った規則がそこにあるのではないか。
「純文学」も「詩」も、「児童文学」も「SF」も、「ライトノベル」も「少女小説」も、「前衛」でさえも、「作り手」「受け手」が共有する規則があった上で、書かれ、刷られ、読まれてるのではないか。
その規則は、作られるその作品を、規定します。
ハードカバーやペーパーバックがある理由も、読者が例えば「これはSFじゃない」と考えることがあるのも、すべてその規則が暗黙に形成されてるから。だから草創期や成長期にはその規則の可能性を示すためにいろいろな物が作られるが、円熟期に達するとその勢いは緩くなる(たいてい、その分野に大御所が出てくる頃です)。
こんな風に考えるのは、わたしが「受容理論(または読者反応批評)」を信条にしてるからです。「作者は言葉を、読者は意味を持ち寄る」(ノースロップ・フライ)のであれば、その規則は受け取る側が形作っていくものになるのではないか(じゃあ、作者の立場が無いじゃん! って言われるんですが、作者とは作品の1番目の読者でもあります)。
では、読者はライトノベルをどう作ってきたのか。
そこに挿絵の必要性の謎があると思われます。この規則。ものすごく単純な公理を呼び起こしそうです。しかしその公理は、そのジャンル内でのみ有効となる。逆にいうと、ジャンル外の作品でもその公理に当てはまるものを感じれば、読者はそれをジャンル内の作品とみなす可能性があります。
わたしはこれを、勘所 とよんでいます。三味線の演奏技法で出てくる言葉です、かんどころ。「らしさ」という人もいますが。
それぞれのジャンルにはそれぞれの勘所があり、それをもっとも強く宣言しているのはSFです。つまり、センス・オブ・ワンダー。SFほど、自分達がSFであるとはどういうことかを考えているジャンルはない。だからこそ、熱狂的なファンが増えていくんですが、その他のジャンルはこの勘所をうまく磨いていないのではないか。
引用が長くなりましたが、ライトノベルにもこの「勘所」が存在すると思われます。はずすと、読者は調子を狂わされる。それがうまく作用してあれば、作品はライトノベルになると思われます。
これはつまり、絵そのものが作品に必要であるということを示してはいません。
表紙にすら絵がまったくないのに、やはりライトノベルではないか、という作品(『空色勾玉』、文字だけ版「十二国記」など)が存在している以上、そう前提することは間違っていないはずです。
ここから推論されることは、(作家を含む)読者はライトノベル作品を構成する際に、文字または文章以外のものも援用しているということです。
それが「絵」ではないでしょうか。
(しつこいですが、作家を含む)すべての読者が作品に対して均等な距離にあり、これから読まれようとしている作品を構成する作業に着手したとき、その読者と作品のあいだにあるのは「読み方」に他なりません。
このことから、そして上に書いたように作者が読者の一形態であるのなら、ライトノベルの「読み方」と「書き方」さらには「描き方」は同義といって差し支えない。
これまで、文芸作品に付随する絵の効用とは、場面の印象を深めるだけの存在としてしか見なされていませんでした。それは草紙以前から見られる古い技術でもあります(もちろん今も有効な使われ方です)。
しかし、ライトノベルはそうではない。作品と読者の関係性において、絵は文章とは別個のものではなく、必要な伝達回路のひとつであり、作品の理解され方の提示/解決として存在するわけです。
つまるところ、絵とは新しい言語なのです(新しい論議ではないですね。マンガはとっくの昔に新しい言語として成立していました)。
以下、「絵」とは、ただイラストを指すだけではなく、新しい言語として作品を構成する記号という意味で用います。
ある作品を読者が意味構成していくとき(つまり書く/読むとき)、絵は事後に想像されるものではなく、事前に語彙として蓄えられているものとして機能すると考えられます。
豊かな語彙を蓄えている読者は、文章と同時に絵を 読む/書く/描く ことができるわけです。
その帰結として、自ら感想としてのイラストを書き、ストーリーを増殖させ、同人誌を作り、コスプレをする人もいます(そういえば、課題図書に似た機能をもつもので、最近は「読書感想画コンクール」なんてものがあります)。
われわれが言語を使うのは、認識を共有化するためです。共通の文法や語彙を用いて、相手と意見を交わす。
文法や語彙であるのなら、意味を抽出され抽象化されることで、分類されるものとして存在することが可能になります。これは、東浩紀さんのいう「データベース」に近いものではないかと思います。
つまり「辞書を作ることができる」ほど共有された言語としての絵を、われわれは新たに手に入れたわけです。
おもしろいのは、これら絵という言語が「作品ごと」に作り出され、それがまたすぐに読者によって変節されていくこと。
ある作品の言葉が一人歩きするように、ある作品の絵が一人歩きする。さらに敷衍すれば、キャラクターが(もしくはその抽象化された部分)が一人歩きする。
ライトノベルに隣接する分野、マンガもやはり独特の語彙を作ってきました。それは記号化され、抽象化され、技術として伝えることができるほどに整理されてきました。たくさんの作家がたくさんの作品を作ることで、言語(記号)として洗練されてきたということです。
キャラ立ちも、やはりマンガのもっていた語彙ですが、しかしライトノベルはそれを援用し、現在は自家薬籠中の物として取り込んでしまいました。
しかし、語彙はそれだけでは作用しません。作品と同じで、誰かに読まれる(解釈される)ことで、はじめて生命を得るわけです。
古代の読書においては、口演法(弁論術)に由来する音読による本の演劇的な読まれ方がテクストの解釈となったように、ライトノベルの読書においては絵であろうとすることがテクストの解釈になっていると思われます。
古代では、文字ではなく音が場における共有のありかた、コミュニケーションの手段だった。そこから数千年を経過した今、われわれがライトノベルのもとに集うとき、「音」ではなく「絵」をコミュニケーションの道具として使っている。
ここでようやく、わたしは、ライトノベルにおける絵は、コミュニケーションとしての文法と語彙の新しい形態であると、いちおうの結論をつけたい。
ライトノベルにおける勘所は「絵」である。
今の時点では、そう結論したいと思います。
最後の手紙は、ここまで読んでくださった皆様に差し出すべく書かれました。最後の最後までくどい長い文章でしたね。申し訳ありません。
長く親しんできた人、研究してきた人には、言わずもがなのことであったかもしれません。しかし、こうした考えに始めて触れる人もいるかもしれません。
また、わかっていることであっても、他人の言説を聞く(読む)ことによって、知は再編され補強されます。とくに文学の知は、読み替えによる再構成を必要とします。
消費的な側面を持ちつつ、しかし物語(ノベルとロマンのあわいにたつ現代的な物語)を有するライトノベルは、ゆえに、感動を与え人の記憶に残る権利を有します。それは他のあらゆるジャンルに劣る物ではありません(優るものでもありません。全てのジャンルは巨視的に見れば水平線上にあります)。
言葉と同等のコミュニケーションを可能とするテクストとしての絵を、自在にあやつる年若い人たちが、これから何を作っていくのか。そしてその年若い人たちに、わたしはどんな児童文学を手渡そうとしているのか。
最後のこの文章では、児童文学について少しも触れませんでした。これからしばらくのあいだ(もしかしたら死の淵までずっと)、児童文学における勘所を考えていくことになりそうです。
では、いつかまた。