このページは久美沙織『創世記』スレッドの書込みに補足追加を施したものです。
くぼひでき2004/05/16(Sun) 01:29 久美さま、はじめまして。 読んでいてすごく懐かしくて嬉しくなりました。 以来、ずっと文筆をこころざして、それでFT好きもこうじて、児童文学のほうに足をつっこんでおります。 んや。長くなりました。 |
くみにゃ2004/05/16(Sun) 11:11くぼひできさま。どもー。こんにちはー。児童文学とウチラの間にある「なんだかよくわかんない垣根」。越えられたのは、倉橋耀子さんぐらいではないかと……。このへんに関しては、未アップロードの章にもちょっと書いてたりするんですが……「ウチら」の現実に対して、児童文学ってどんなとこなのか、もしよかったら、コラムご投稿くださいませませ。 |
時海結以2004/05/16(Sun) 13:03 久美先生、皆さま、初めまして。おじゃまいたします。 恋愛メインのライトノベルスとほぼ恋愛抜きの児童文学エンターテインメント、両方書いてます。 児童文学ではキャラを立て過ぎず、等身大で、その分テーマやストーリーに比重を置くという認識が成されてきたように、個人的には思います。 今年になり創刊された児童向けノベルスでは、電撃文庫や富士見書房の作家の方が執筆されています。 |
くみにゃ2004/05/16(Sun) 13:41時海さま。貴重なお話をありがとうございました! なるほどお……恋愛メインなんですか、ライトノベルスは? そりゃわたしには本来まるでむいてないってことじゃないか……!(←あまりにもいまさら)そうか。垣根、あっても、越えられるかもしれないんですね。児童文学方面、特に翻訳モノでない国内のものは、わたくしめはこれまで「なんだかよくわかんないけど向こうがエライような気がする……劣等感」と「ネタミソネミ」から、ほとんど読まずに敬遠してきてしまったのですが、これからはスナオなキモチで読んでいきたいと思います。ご登場に感謝しつつ、ご活躍、お祈りもうしあげますです! |
くぼひでき2004/05/16(Sun) 16:10 久美さま、お返事ありがとうございました。 書いたら長くなりました(^^;。ごめんなさい。許して。 >>77 ずーっとさかのぼっていけば、おそらく小川未明と新美南吉にたどりくんですが、以来、果てしなく続いてるのが、「芸術」「娯楽」「教育」のはざまに関する論争なんですね。 まず「子ども」からいくと、現実の子どもを意識して書くのか、それとも「作家の中にある子ども」を意識するのか、っていう二律背反があるようです(わたしなどは作品に応じて変えればいいじゃないかと思いますが)。 「作家の中にある子ども」を意識すると「芸術」に近づいていきます(もちろん、すぐれた作品はエンタテインメントにもなります)。 こういうタイプの作家で現在、名が知られているといえば、江國香織さんであるとか、佐藤多佳子さんであるとか。このタイプの人に最近よくあるのが、大人小説への転身です。 「現実の子ども」を意識すると、たいてい「娯楽」か「教育」に近づいていきます。 教師や保育士の経験がある人は、やはり現場を見てきている関係もあってか、「教育」に関する話が多くなる傾向があるようです。つまり、学校での事件、教室での事件など。いじめや、勉強の悩み、友人関係、など、そういったことを扱うわけです。 「娯楽」タイプの作家。これが「ウチら」、つまりライトノベルに近い人ではないかと思います。越境されてる方も多くおられます。 で、比率的には「娯楽」タイプの作家のほうが読まれてる数が多いにもかかわらず、業界内で幅をきかせるのは「芸術」「教育」タイプの人です。 編集者も極端に「芸術」や「教育」から外れる派手な脱線は好まないようです。児童書の体裁をとってる限り、売れるチャンスが少ないからです。 とはいえ、子ども達も自分のおもしろそうなものはちゃんと見つけ出します。 そこで、ようやく最近ですが、講談社が自社で書いてる作家を使って、垣根をとっぱらおうとしているようです。 http://shop.kodansha.jp/bc/books/topics/mystery_land/ すげえ。 補足:以下に88という記述がある場合、ここから、「現状のようです。」までの一文です 「教育」や「芸術」の作品がいらないかというと、そうとは思えない。 うわあ。アラシみたいだ。ごめんなさい。しばらくROMしますです。。 |
時海結以2004/05/16(Sun) 17:04 再度おじゃまいたします。 >くぼさま
補足:やはり、90にある「内側から見た定義」(狭義・広義両方とも)の範疇に、「ミステリーランド」は入らないようです。 88のご意見はまことにその通りであると、賛同いたします。 |
時海結以2004/05/16(Sun) 20:05 連書きすみません。 児童文学の定義には、大まかに3段階あるようです。 ここでの内側は児童文学の関係者、外側は読者・一般からのとらえ方とします。 |
くぼひでき2004/05/16(Sun) 23:39激しくスレの主旨からずれていってる気がするのですが、みなさま、もう少しおつきあいください。 >時海さま 「垣根」が壊れる予感は、実はもう何十年も前からあったように思います。 けど、これらはすべて黙殺されました。なぜか。 たとえば1980年後半からの、主に理論社を中心とした「現代」児童文学の勃興は、きちんと団体内部での反応を起こしました。福武書店(現在は徳間に編集部が移行しました)の出す作品もやはり反応がありました。後に講談社が新人賞レベルでそれらの路線を引き継ぎます。(理論社:江國香織さん、佐藤多佳子さん。福武書店:ひこ・田中さん、荻原規子さん。講談社:森絵都さん、たつみや章さん、などなど) なぜ、それらは認知されたのに、他が認知されなかったのか(現在もされにくいのか)といえば、業界団体(児童文学者協会に限らず、児童文芸家協会(わたしはこっち筋です)、子どもの本研究会など)が、それらを「マンガ」と同一視したからなんですね。 そしてそれを批判できるだけの、人材も理論もなかった。 「楽しい」だけでもいいわけで、 ライトノベルまたは一般文芸書は、購買層=読者=支援者ですが、児童文学は、購買層=支援者ではあっても、読者=支援者にはなりにくい。 そして、その購買層=支援者がたまに作家や各協会員になったりして、上層部を作っていく。 「垣根」が段階的に崩れていくのではないか、そう時海さまが書かれたこと、わたしもそう思いますが、加速度的にではないと思うんです。もし崩れるとしても、あくまでも外部からであって内部からではない。 補足:児童文学評論の多くは、その作品が「芸術的・哲学的・思想的・良心的・社会的」であるかどうかを感覚的に読む印象批評と、「すばらしかったわ」の感想文が目立ちます。フォルマリスム・受容理論・構造主義など、現代的な文芸批評理論の試みはほとんどありません またしかし、外部にもそうした批評に比するものが存在しないんです。 それゆえに、児童文学を囲い込む「垣根」を壊すのは難しい、と実感しています。 ううう。また長い。饒舌なのに中身がない。。。 |
時海結以2004/05/17(Mon) 09:57 たびたび失礼いたします。 >くぼさま 自分は垣根のあちらで、初めて、「作品は自分の分身だから、外部に振り回されて変えたくない」という創作姿勢をかいま見て、驚きました。 ……あちら関係者、ロムってないよね、どきどき(笑)。 |
くみにゃ2004/05/17(Mon) 10:49 みなさま……すごいし……ありがとうございます。 |