往復書簡

「ライトノベルと児童文学のあわい」

時海結以・くぼひでき

1

読者の皆様

 以降のページは、時海とくぼのふたりでの往復書簡という形をとっております。
 しかし、長い手紙を読み、次の手紙を読むとなると、書かれたことの相関性が保ちにくい面もあると思われますので、くぼの発話に対し時海が応答するといった形に書かれ、編集されました。

 1回の「発話・応答」でページを構成してあります。

 なので、緑だけを読み通すとくぼの発言が、青だけを読み通すと時海の発言が、まとめて読めます。交互に読むと、各論についてがわかるようになると思います。

くぼひでき

対話の再開。長いです。ごめんなさい

2004/5/27(Thu) 05:14

時海さま。しばらくお付き合いくださいませ。初手から長いです(^^;。

 このやりとりは、久美先生のスレッドでの対話に続いて、児童文学とライトノベルの相関について、送り手・受け手、の両方の視点を保持しつつ進められたらと思います。

 さて、先般、時海さまが教えてくださった、児童文学者協会の総会におけるアンケートに

 誰のために作品を書いていますか?
 1 自分自身のため
 2 特定の読者のため
 3 不特定多数の読者へ向けて

 (読みやすくするために、改行を恣意的に変えました。お許しください)
 というのがあったそうですね。

 時海さまは、これに
「訊かれるまでもないと、即座に3へ○をつけてから、これは象徴的な質問だなと思いました」。
 と考えられたとのこと。それについては、間違いも正解もないと思います。作家それぞれの考えがある発問だからです。

 わたしはこの発問について「これは児童文学の発生過程を意識している」と感じました。つまり、児童文学が児童文学であるために、作家の姿勢を問おうという発問です。

 そもそも、児童文学の歴史の一端として、大人文学の一部分を子ども達が喜び、それが児童文学として受けとられたということが通説になっています。『ロビンソン・クルーソー』や『宝島』がそれらに該当する作品です。
 書いた作家としては、それが子ども達に渡るとは思ってもいなかったでしょう。しかし、それが受容されて初めて「子どもに受ける」また「子どもに読ませる」という発想が、作り手の中に出てきたのだと思います。

 児童文学史は続いて、特定の天才が特定の人物のために書いた作品を列挙しています。『不思議の国のアリス』や『ピーター・ラビット』、『くまのプーさん』などがそれにあたります。多くは自分の子どもや、知人の子どもなどに、話して聞かせる(読んで聞かせる)ために作られた物語です。

 こうして児童文学が成熟していくわけですが、その成熟の一段階として、児童文学の「文学化」があると思われます。つまり、「子どもへの教育」とか「子ども用の娯楽」といったことを度外視して、作品としての完成度を目指した(しかし形としては子どもに手渡される)作品の出現です。『リリス』や「ナルニア国」シリーズ、『指輪物語』がこれに相当します。

 ここにあげた3要素は、すべて、協会のあげる3択に該当するものと思われます。

 論を進める前に、わたしだったらどれに答えるか、というのを挙げ、その理由を書きます。

時海結以

1(対話の再開)へのお返事

2004/5/27(Thu) 16:01

くぼさま、ご丁寧なご意見をありがとうございました。
 長いとは感じません。内容が理路整然としていれば、そして興味深ければ、ボリュームは気にはならないものですよね。

 せっかく題名に番号を付けていただいたので、見る方に対応が分かりやすいように、私もその番号で区切って書き込むことにします。
 ですので、番号はずっと続けていっていただけないでしょうか。
「対話の再開」を便宜上1とします。

 改行ありがとうございます。
 羅列は原文のままだったのですが(笑)。びっしり設問があったので。ちなみに複数回答可でした。

 児童文学の発生につきましては、おっしゃるとおりだと思います。

くぼひでき

 わたしは全てに丸をつけて提出するでしょう。若干、考慮するとすれば、2に三角をつけます。

 なぜそうするかというと、
 作家の作業を「仕事」として捉える立場から「1」を選択します。
 人はすべて仕事を通して成長していきます。就職したからといって(成人したからといって)、そこから大人の精神になれるわけではありません。技術もそうです。老練していくためには、時間と経験が必要です。天才であってもやはり経過がなければ結果を生み出せません。

 わたしが作品を書くのは、自分が文章で感動する性質だからです。ほかの表現も好きですが、文章で表現することがもっとも「快感」や「満足度」が大きい。絵が描ければ漫画家になっていたという話を良く聞きます。もしかしたら自分もそうだったかもしれません。しかし、文章でしか表しえない表現に出くわし、自らが天与されるとき、そのことに感動するわけです。
 しかし、自分の技術も思考もとても未熟で、思ったとおりに筆が進まないことがあります。どうしても書けないシチュエーションやシーンが出てくる。それを克服するには、自分自身のために研鑚するしかない(慣れていくってのも研鑚の一形態です)。

 また、自分の作品が誰かに感動を与え、その返事をもらう(ファンレターとか、良かったよという言葉とか)。これも自分の満足度、仕事への充足感につながると思います。

 これらはすべて「1」に含まれると考えます。
 児童文学業界では、こうしたタイプを「内なる子どもにむけて書く」というふうに考えているようです。それはそれで間違いではない。そういうタイプの作家もいていい。良い作品が生まれるのであれば、どんな手法であってもいいわけです。

「3」に丸をつけるのは、すべての「商業作家」が持つべき使命だと思います。
 なぜなら、自分の作品を世に送り出すために、販売ルートを使うのであれば、不特定多数が読むことを覚悟するべきだからです。この場合、万人に理解される必要はありません。理解してくれる人に届けばいい(むしろ、万人のため、というのはスローガンになりやすく、駄作を生んでしまいます)。
「最初から放棄する」というものではありません。理解してくれる人は少ないかもしれないが、ちゃんとそれを踏まえよう、という態度は必要です。わかってくれる必要は無い、自分だけがわかればいい、というのでは商業出版する意味がありません。自費出版またはWeb公開にとどまるべきです。
 少なくとも、第三者に渡して収入を得るのだから、読者を満足させる作品にするべきです(ただ、ここで気をつけたいのは、娯楽を求める読者ばかりではない、ということです)。

「2」は微妙です。今現在、特定のだれかを持たないからです。
 しかし、多くの作品に読者としてふれてきたわたしにしてみると、こういう作品が時折り良作を生み出すことも否定できない。こういう作品は「マーケティング」され、「リサーチ」され、それによって「ブラッシュアップ」されてる可能性が高い。だから、わたしも将来それをする可能性がある、と考え、三角をつけます(今現在でなくては!というのであれば、1と3だけになりますね)。

 以上が、わたしのスタンスですが、では、どうして協会はこの発問をするのでしょうか。

時海結以

2へのお返事

2004/5/27(Thu) 16:19

 くぼさまと私にはスタンスの違いがありそうですね。
 自分は「1」の自覚がありません。
しかし、拙著を読んでくださった編集者や同業者は、それをとても感じるそうです。なので時海は、むしろライトノベルより児童文学向きだろうと、おっしゃる方もおいでです。

 あ、前提条件の提示(?)が必要でしょうか?
 今現在世に出ております時海の作品は「ど」がつくシリアスです。「軽い」とは言い難いんじゃないかと著者本人が自分で言っちゃう(笑)ライトノベルです。
 だって漢字が多いし。漢字が好きなんです。という冗談はさておき。

 まあ、ラブシーンの多さで味わいをかなり甘めにごまかしておりますが(爆)。
 そこが売りだったりもしますが。
 担当編集者いわく「テーマ性のしっかりした主張が明確な骨太」の作品だそうです。あくまでも著者に自覚ないんだけど(笑)。

「文章でしかできない表現」を叙述トリック以外で書きたいとは思いませんし、「感動した」というファンレターが届くのは、「3」の努力が成功したからだと思っています。

 自分は十代の頃漫画家になりたかったのですが、作画が下手でした。それ以上に、漫画の投稿に必要な「15枚の紙でまとまる短い話を考える能力」に欠けていたんですね。
 コミックス何巻分にもなりそうな設定と展開しか考えつかないので、転向したのです。

「こういう台詞を書きたい」「こういうシチュエーションを書きたい」「こういう心理を書きたい」はあっても、「こういう文章を書きたい」はありません。
 そういう台詞や心理を「共感できた」と読者が表明してくださるのが、喜びであり、モチベーションです。

くぼひでき

 この発問を、他のすべてのジャンルに行ったらどうなるでしょうか。
 おそらく次のような分布になると想像します。

 1が多いジャンル:前衛劇、「詩」、「童話」、純文学、俳句、短歌、「歌謡曲」

 2が多いジャンル:童話、歌謡曲

 3が多いジャンル:詩、脚本・戯曲、SF、推理、ホラー、児童文学

「」つきのものは、「自家中毒的」な作品です。ちなみに、1にあげたジャンルは、基本的に「自家中毒」になりやすい。書いてる自分にうっとりするタイプもここに含まれたりします。しかしそれが全てではない。中には、万人に訴える作品があるからです。
 2も若干、その危険性がありますね。
 3は、ともすれば「商業主義」に陥りやすい。安かろう悪かろうは、だめなわけです。そのジャンルの中で最高になるべく、自らが刻苦して仕上げた一品を作ろうという意思が必要ではないでしょうか。
 そして、児童文学というジャンルには、「教育」つまり「子ども達には最良のものを」という観点があるため、この3を毛嫌いする傾向があります。
 一部分として認可するけれど、唾棄する存在。ひっくるめて言えば、3はエンタテインメントが相当します。

 芸術を至高とする人たちからいえば、1または2にみられる「自己をたかめる、哲学的である、特定の人への配慮」といったものが、たいへん賛美されているようです。
 その観点そのものは、芸術の一端がたしかにそういう部分で成り立っているわけですし、別に悪くも無ければ良くも無い。

 ただ、それらばかりじゃおもしろくないよね。ということです。

 じゃあ、3ばかりになったらどうか。これはこれでわたしはいやです。
 おもしろいのはいい。けどたまにはまじめに考えたい。まじめ一本で考えてる作品、中に娯楽の「ご」の字もない作品を読みたい、と思うときがあります。シモーヌ・ヴェイユなどの思索に触れるときはそんな感じです。

 人は誰も、基本的には自分の好きな味ばかりを追い求めます。
 それは誰に強制されてもならない。自分で決めていくもんです。肝要なのは、自分が理解できない味を、理解できないという理由だけで否定しないこと。
 でも否定する人が多いですね。
 娯楽作品が嫌いで、「3」を否定する人のように。
 課題図書が嫌いで、「1」を否定する人のように。

 そこで、疑問に思うのは、「1および2」それと「3」を両立してる作品はないのか、ってことです。
 楽しみ、かつ、考えることができる作品。
 良い作品は全てこれになると考えます。そのとき売れた作品、というよりは、長く残った作品にそちらが多い気がします。
 たとえば「ゲド戦記」(ル=グウィン)をあげましょう。4・5・外伝は評価が大きくわかれますが、1の『影との戦い』は、魔法と冒険のワクワクと、闘いのハラハラと、自我形成の悩みとが、解離せず渾然となって我々の前に提示されています。
 たとえば『予告された殺人の記録』(マルケス)をあげましょう。犯人がなぜ彼を殺してしまったのかという逆転した推理劇を利用して、殺人にいたる狂気や冷静さを、徹底した人間観察で描いています。
 たとえば『竜の卵』、たとえば『アルジャーノンに花束を』……。

時海結以

3へのお返事

2004/5/27(Thu) 16:40

 謝っちゃいます、ごめんなさい(苦笑)。

 自分は課題図書での感想文が、いつも夏休みの宿題の最後に残ってしまいました。
 先生が喜ぶような感想が書けなかったんです。「突っ込みどころ満載」という感想文しか書けなくて叱られる(笑)。
 純文学を読んだことがほとんどありません。高校の現代国語の教科書だけでも、さっぱり頭に入りませんでした。
 世界文学全集なんて、触ったこともありません。それでは物書きとしてまずかろうと、先日多くの「名作」のあらすじが紹介されている本を買いました(笑)。

 過去に読んだのは、小学生の時の児童文学、中高生の頃は漫画とアニメだけ、大学入って友人に勧められ、漫画と平行してほぼ国産限定で一般向けとYAのエンターテインメントを読み出したんです。
 と、物書きとしては自慢にならない経歴なのでしょうが、うそをついても仕方ないので(笑)。

 読むのが一番好きなのは、実は歴史と民俗学・文化人類学の専門書だったりします(笑)。

 商業主義のことなのですが、私見を述べさせていただきますと、この経済状況が厳しい世の中、刹那的でその瞬間だけの刺激があればいいという作品は、大きくはヒットしないと思うんです。
 広く世間に受け容れられるからには、何かしら学ぶべき真髄が隠されていると、考えています。その作品が後の世まで残れば、その真髄がより普遍的であったのだろうと。

 それをくぼさまは「両立」とよぶのかもしれません。
 自分も「両立」をものしたいと望み、努力研鑽しているつもりです。

 余談:「ゲド戦記」、私は2と4が好きなのですが。よくぞ女に生まれけり、アルハの視点は、男性には届かない深淵なのでしょうか(笑)。

くぼひでき

 そして、ライトノベルに話をふります。
 以上のことを踏まえたうえで、ライトノベルはどこに位置するかというと、客観的に言えば、商業主義です(それが悪いわけじゃない、ってのは上に述べたとおりです。悪いのは、売って後は知らん、とか、ダメな物でも売るって態度です)。

 児童文学は、太平洋戦争後、何度もピンチに陥って、陥り続けてジリ貧です。
 最初の打撃はマンガでした。
 同じ印刷物として、情報伝達の速度と、視覚的効果をともなった感情への訴えかけは、マンガには遠く及ばない。
 次にテレビです。
 違うメディアですが、奪いあう時間で負けました。さらに、テレビのすごいところは完全受動でも時間をつぶせることです(テレビが嫌いってわけじゃないですよ。わたしはテレビッ子でしたから)。
 次に、ゲームでした。
 これはテレビもマンガも打撃を受けたはずです。マンガも、意味を自分で読み取るという点では文章と変わることはないので、複雑化したマンガに慣れてないうちにゲームに触れると、そちらのほうがマンガよりも楽しくなる。テレビとゲームは同じ画面を奪い合うわけだから、ライバルですね。
 ゲームの利点は、文章・マンガ・テレビにはない「参加してる感覚」が味わえることです。自分が主人公になることができる。さらに時間もつぶせる(繰り返しますが、ゲームを非難してるわけではないです。わたしはファミコン世代だし、TRPGの初期ファンです)。
 
 こうしたなかで、最後のライバルとして現れたのがライトノベルです。
 同じ活字で、同じ読者層を取られてる。
 しかも、児童文学業界において「中高生にもっと本を」と叫ばれてる中、その本好きの中高生が選ぶのはライトノベルです。

 ライトノベル読者が児童文学に対して抱く大きな感想は、「辛気臭い(しんきくさい)」じゃないだろうか。
 けど、わたし個人としては辛気臭い話でも読むべきだと思う。辛気臭いことを全部パスしていったら、誰かに操られる人間になっちゃうぞ、と。

 現在、児童文学読者の半分は成人ですね(笑)。しかも良識派を気取る大人が多い。「自己憐憫」でうわっつらの「救済」を求めてる人もいます。しかし、本気で児童文学を好きな人もいます。
 そういう読者が、ライトノベルに対して抱く感想は、「商業主義」と「下品」だと思います。「下品」の中には、「無教養」とか「殺伐」とか「軽すぎる」とかそういうものも含まれています。
 でも、「下品」でいいじゃん。「下品」は、存在も場所を軽やかにする。重いままだと、誰にも振り向かれないで沈んじゃう人間になるぞ、と。

 この点について、時海さまは、
>わりと気にしているのは児童文学側の現場第一線の編集者ですね。
 とおっしゃっています。
 そうでしょう。ライトノベル側の編集者がもし児童文学側に目をつけるとすれば、目ぼしい作家の発掘でしょう。児童文学で不遇をかこっていても、ジャンルを変えれば売れるって人はいる。坂東さん、皆川さん、新庄さん(みなさん、自分で移っていきましたが)、江國さん、いろいろとそういう人がいますね。
 児童文学側は、いかに読者をこちらに「戻すか」と考えています。そもそも「戻す」というのが間違っているのですが。

 初手から長々と書きました。まだなんかあったんですが、忘れました(笑)。

時海結以

4へのお返事

2004/5/27(Thu) 17:11

 まず、弁護から(笑)。
 ライトノベルがそんなに楽勝なわけでも、制作態度が真摯でないわけでもありません。
 いい加減な気持ちの製品の作り手がいたら、消費者(ライトノベルの場合読者)に見限られるのは、どの製品でも同じではないでしょうか。

 漫画とゲームとケータイメールに、読者の年代の方々の時間は多く振り向けられているのです。

 次に。
「辛気くさい」と思わせずに読ませるのは、書き手の自覚と腕前だと思います。
 もし万が一、「辛気くささ」を高尚な文学だと主張して全面に押し出す書き手がいたとして、その人は、独りよがりに陥る危険があるとは思わないのでしょうか?

 書いた表現内容を読み手と共有して、文字文化というのは初めて成立するわけで、それを共有しやすいような形に努めるのが、書く側の原則だと思うのですが。
 社会生活と同じだと思います。相手にこびへつらう必要はありませんが、相手を思いやる気持ちを忘れないでいた方が、社会が円滑に動くのではありませんか?

 自分も「いつの間にか誰かに操られていて、それに気がつけないでいる状況はとってもやばい」とは思います。
「心が痛くなっても、自分の言葉を使って考えを進める方法を知ろうよ、その方法って学校じゃあんまりちゃんと教えてくれないし、とってもしんどいことだけどさ」という主張は、自作に外せません。

 といいますか、上記とか「思いやり」とか、そういう「譲れないテーマ」以外は、自分は読みやすい表現を目指し、第三者が拙作を読んで「読みにくい」と指摘した点はどんどん修正します。
 自分は職業作家になったのだし、読まれなかったら意味ないですから、いくらテーマを掲げても。

 文体でさえ、がらりと変えます。
 表現にもこだわりません。できるなら、より映像イメージが湧く表現を追求します。
 実際、児童文学から刊行予定で執筆中の作品の方が、ライトノベルで刊行している作品より、ずっとノリが軽いです。

「漫画以外に、文字ばっかりでもこんなに面白い物語があったんだ。もっと本を読んでみたくなった」という反応を読者からもらうのを至上の喜びとして、精力的に書き続けているライトノベル作家の先輩がいます。
 そういう方がいらっしゃるから、自分は安心してライトノベルで、一歩主張を踏み込んだシリアスな作品を書けるわけですし、逆に児童文学では、テーマを突き詰める手法で優れた書き手が大勢おいでですから、そういった「活字文化への入り口」になる作品を書きたいと、願っているのです。

 ただ、この「変えられる」ことが「珍しい」と、複数の児童文学関係者に指摘されました。良いとか悪いとかは別にして。
「つぶしがきく」ので、編集者的にはどうやら歓迎みたいです(笑)。

 読者を「戻す」ですか(笑)。
 せめて「来ていただく」と発想できないものでしょうかね。

<<<<< 前へ    次へ >>>>

『ライトノベルファンパーティー』にもどる