くぼひでき52004/5/28(Fri) 03:47時海さま。 スタンスについては、それこそが作家の個性でありますから、お互いそれで良しですね。むしろ一つのスタンスしか許容しないジャンルは閉塞してしまいます。大政翼賛会的に。 編集者の発言として「テーマ性のしっかりした主張が明確な骨太」な作品であると、いう言葉が引かれていました。 児童文学には、「まじめなもの」と「ふまじめなもの」という区分けが、昔からあるらしいんですね。また、まじめななかでも「さらにまじめなもの」と「ゆかいなもの」があります。 1 さらにまじめなもの 2 「まじめ」にゆかいなもの 3 ふまじめなもの テーマ性が必要かというと、それは作品によりけり、ってことです。 ここで児童文学側のいう「テーマ性」の正体がおぼろげながら見えてきました。 過去の児童文学者協会・児童文芸家協会などなどの各賞を見てみると、おしなべてこの傾向があらわれてると思います。それが悪いとは言わない。もしそこにアイデンティティを見出しているのであれば、それはそれで信条の自由。 さらにそうしたプロパー団体ではない、民間団体の公募賞を見てみると、まあたいていは、毒にも薬にもならないおはなしが選ばれています。 そうすると、児童文学側から反論がきます。「児童文学は、きちんと悪も描いてきた」と。 少しおさらいします。 このふたつのうち、後者はまさしく児童文学の重要な存在意義と思われます。 |
時海結以5へのお返事2004/5/28(Fri) 10:02くぼさま、いろいろと判りやすいお話をありがとうございます。 まず、「テーマ性」がどうこうと言ったのは、ライトノベルの担当者です。 編集部による解説がその本の巻末にありますが、いきなり「この作品の三つのテーマ」などと書かれています。ライトノベルなのに?(笑) ライトノベル業界の用語ではこのタイプの作者は、「いい話」書き、と呼ばれるようですね。 「完全な悪意を肯定しない」の言葉を拝見して、やはり自分は児童文学に影響を強く受けているなと思いました。 自分のことはさておきまして、「毒にも薬にもならない」無難な佳作というのは、けっきょくヒット作にはならないのではないでしょうか。 毒にも薬にもならない、ライトノベル業界用語で「薄い味わい」を「良作」として、賞の対象に選んでいる団体があるとしたら、それはどうなんでしょう。 その団体的に「薬として効き目がありそう」な作品が候補になく、「毒」は絶対選びたくないから、結果そうなってしまうのでしょうか。 新人賞に応募されている方々の集う掲示板をこっそりとのぞきますと、そういった「傾向と対策」から自作は外れていたから落選した、あるいはするのではないかといった話題が見かけられます。 突出を喜ばない「日本社会」だからなのか、「受験競争の影響」だからなのか何なのか……どう思われます? |
くぼひでき6時海さまが、なぜ作家になったか(転向と書かれてますね)を披露してくださったので、わたしも開陳してみたいと思います(とはいっても、立場的にはまだアマチュア作家ですから、読んでる方の参考にはならないですけども)。 わたしは10歳になるまでに、4度ほど危篤状態を経験した病弱な人間です(いまはそれとは信じてもらえないガタイになってしまいましたが)。 テレビ。アニメや特撮。今はなかなか見られない「子ども向けリアリズム」ドラマ。 テレビではあまりなかったですが、マンガや知識・学問で、わたしはとにかく考えることが好きになった。なんせベッドの上から動けませんから。 それまでも、国語の教科書や、図書館などで、いろいろな物語に接し、本を読んでるはずなのに、この本を読むまでは、文章で感動した、という記憶がないんですね。 このときの気持ちをうまく思い出せないのがもどかしいです。文章の醍醐味にふれたのか、それとも物語のうねりにふれたのか、それともそれとも。 わたしには、「こういう文章を書きたい」があるんですね。 一人称で考えてもらうとわかりますが、いろんな性格の人間がある以上、一人称の書かれ方というのはさまざまになるはずです。 現在のライトノベルは、素子さんの一人称からはるかにバリエーション豊かになりました。 それと並列して、『こういう「セリフ」「シチュエーション」「心理」を書きたい」があるんだと思います(「心理」についていえば、一人称であれば書かれてしまう可能性が大です。たまに、ヘミングウェイみたいにまったく心理を書かない一人称なんてのもありますが)。 読者がもしそれに「共感」としてくれたなら、時海さまの言うように、喜びでありますし、次へのモチベーションとなるでしょう。 |
時海結以6へのお返事2004/5/28(Fri) 10:31 一人称と三人称、どちらが書きやすいかと言えば、私自身は一人称です。 しかし、ここでプロとして書く児童文学では、できる限り三人称でゆこうと考えています。 三人称には、固定視点と神の視点があります。固定視点にも移動するものとしないものがあります。 一人称の発生は「語り手」の採用から始まったと思います。「ホームズ」のワトソン博士や「ドリトル先生」のトミーですね。 三人称でも「私小説」という形態があります。 ということで、くぼさまのサイトを実はのぞいてきました(汗)。くぼさまのお作を拝読しまして、どの辺をどう書こうとされているのかなと感じましたので。 私はたぶん、いえ、今後は意識してライトノベルでは前者、児童文学では後者を目指していますから。そこがはっきりしていた方が、執筆をやりやすいと感じましたから、個人的には。 正直前者の方が書くのは苦しいですね。身を削られて。 身を削る、それが「文学」なのでしょうか? |
くぼひでき7 少しライトノベルに話を戻します。 久美先生の掲示板では、わたしは「絵」との共存ということを言っています。が、実は「絵」がなくても、ライトノベルになるんじゃないかとも考えています。 掲示板では「文法」と乱暴に言ってしまいましたが、ここで「様式」という言葉に置き換えます。 課題図書については、まあ、しかたないですね(笑)。けど「先生」も読者だと考えてしまえば、なんとなく喜びそうなこともちらほら。わたしは人の作文までを書いてましたからねえ(バイトがわりです)。 わたしは本の虫ですから、いろんなジャンルを読んでます。小学五年生のときの愛読書が『漢文入門』(社会思想社教養文庫)といういや〜なやつなのです(笑)。 「両立」については、まさしく時海さまが解されたとおりです。 余談に余談:「ゲド」は、わたしは4がいちばん好きなんです。次に2。それから1、3。 >いい加減な気持ちの製品の作り手がいたら、消費者に見限られるのは、どの製品でも同じではないでしょうか |
時海結以7へのお返事2004/5/28(Fri) 11:16 感想掲示板の方では、「テキスト主義」の話題で盛りあがってましたが、個人的なことを言わせていただけば、私はイラストがなくては話が書けません。 ですから私がイメージしたとおりの場面のイラストが、ずばっと描かれて添えられたときはすごくうれしいですし、それ以上の素晴らしい挿絵が描かれてきたら、もっともっとうれしいです。 もし自分の作品にイラストが添えられない本を今後書くにしましても、私自身の書き方は変わらないでしょう。 「画」のないライトノベルはあるか、と問われましたら、私もあると思います。 児童文学や一般小説の新人賞受賞作を読んでいて、「ああ、どうしてこの人、ライトノベルへこれを応募しなかったのかな」と感じることがありました。投稿時代に。 書店や図書館で最適と思われるグレード(読者の対象年齢)とは別のコーナーにあるために、共感してくれそうな読者が気がつかない、手に取りにくくなっている。 もうひとつ。 この共感する場面の描き方に、私は「読めば即座に画が浮かぶ」があるように思います。男性ははっきり判りませんが、十代女性はそうですね。イラストを描くのが好きです、読書好きならかなりの割合で。 「活字倶楽部」という、雑草社から発行されている季刊雑誌があります。若い読書好きな女性読者のために、面白い本をライターや読者自身が紹介する雑誌ですが、これが投稿イラストで埋まっているんですね。 と紹介した上で、次へ進みます。 読者が文章で想像できるイメージを、実際に画でも表して与え、それが読者の中で一致した喜び、探し当てたジグソーパズルのピースをはめ込んだような、それが楽しいからではないかと、自分は感じています。 「イラストが文とぴったり合っている」というファンレターが多いし(ファンレターの半分には、ファンの証しとしてのキャラのイラストが、同封されています)、漫画やアニメと同様、読んだ人全員が同じ顔のキャラを思い描いて話題にできる、連帯感や一体感を醸し出す、読者の一体感から来る様々な活動(同人誌とか)に繋がるからだと思うのです。 キャラがかっこよかった、と読者が異口同音にいうとき、それは個々の読者によってばらばらなイメージではなく、おそらくかなり統一されている映像イメージなのですね、ライトノベルは文章表現にも拘わらず。 「アニメ化されたら声がイメージと合わなくていやだった」「一般小説を映画化したらあの俳優じゃイメージに合わなかった」という話題をよくあちこちで見聞きするのは、そういう統一感、一致感、ひいては安心感や安定感(自己イメージへの肯定)を求める人が多いのではないでしょうか。 それがいやだ、自由に想像してほしい、あらゆるイマジネーションを喚起したいと思う方が、そういう文章表現を模索するのは、それも当然と思います。そちらは「文学」という言葉で表されるのではないかと。 |
くぼひでき8「辛気くささ」ですが、それが必要なテーマもやはりあるのです。「辛気くさい」ことでしか乗り切っていけないテーマが。 ライトノベルでいえば、「ブギーポップ」シリーズにはどこか辛気くささがあります。 >「辛気くさい」と思わせずに読ませる この辺は、大塚英志さんが最近なんか強調している「死とは記号ではない」という感じの論にも似てるかな、と思います。 この作品は決して辛気くさくない。なぜかというと、この世界には上にあげたそうなりそうなテーマを回避しているから。 では、コナンはどうでしょう。ガッシュでもいいし、ワンピースでもいい。 それは「死」が記号にしかなってないからです。もちろん、あのストーリーに記号でない「死」を入れたら、シリーズが破綻してしまいますから、入れてほしいとは思いません。 しかし、ライトノベルだけでなく、アニメも、文芸も、映画も、いや、リアルな生活の中でも、なにかしらそうした辛気くささが回避されすぎてる嫌いがあるのではないでしょうか。 >この「変えられる」ことが「珍しい」 えー、実は「業多姫」の1冊目を買ってきてしまいました(^^。 後日:読みました。おもしろかった〜。 今日もまた長くなりました。お返事は時間のあるときにゆっくりで。 |
時海結以8へのお返事2004/5/28(Fri) 11:45 辛気くさいということ、言い換えれば「重い」「まじめ」というのを回避できる書き手の方を、私は尊敬します。自分ができないからです。 異論のある方も多いかと思いますが、承知した上で述べますと、「軽く」書く方が難しいでしょう。 6へのお返事と通ずるのですが。 思わせずに、というのは言葉足らずでした。すみません。 「ブギーポップ」シリーズのヒットの要因は、そこにあると私個人は感じました。 回避の一方で、求めたい。若い読者にとって、他人事ではなく自分のこととして「命」「自分の存在」を感じたい。 身をちょっと危険にさらして、存在と価値を自分の中に見いだし、自分や他人を守る方法を学びたい、それは生物としての生存本能から来る欲求ではないかと私は思うわけで、安全なこの国でその欲求を満たすのは、現実の冒険ではなく、想像された物語・フィクションなのですよね。 まあ、フィクションが大好きな分、現実に命がけの冒険させられたら、ひ弱な私は思いっきりトラウマになりそうですけどね(笑)。 |
時海結以補足2004/5/28(Fri) 12:18 今、久美先生のコラム15回を拝読しました。 それとは別に一つ補足がいるなと思いました。 ライトノベルという呼び方に異存はありません。いいとも悪いとも自嘲的だとも思っていません。 アメリカではそう呼ぶとか聞いてますが、日本で「アダルト」といえぱ「性的描写を多めに含む」ジャンルなわけで(笑)、先行流布した固定観念とか先入観から、なかなかYAの呼び方が普及しないのはちょっと残念ですね。 そして、文学ではなく、小説。これはエンターテインメントを積極的に書きたいと自覚しているからです。 だから私も作家とは自称しません。作家は「文学」を書かれる方のみへの尊称だと思いますので。 児童文学の肩書きを求められたら……児童文学者、かな。 |