くぼひでき92004/5/29(Sat) 14:28時海さま いきなり私事ですが、うちのアパートが放火されまして(笑)。笑い事じゃないか。空き室の郵便受けにたまっていたチラシに火のついたマッチを(いまどきマッチかよ)放り込まれたようで、なかなかスリリングな日々です。 「活字倶楽部」はわたしも毎号欠かさず購読しております。 「完全な悪意」について、少しばかり補填するところから論を起こします。 貴著において編集者から「完全な悪の美学」を求められていると聞き、悪意と悪の美学の相違について考えたのですが、悪の美学は、児童文学でも描かれてきたのではないかと思います。 美学とは、その言葉が表すとおり「美しさ」を備えているということは、一種の倫理性をともなっているのではないか。その美学を体現するもののなかに整合性とそれにたいする希求があるのではないかと思います。 物語における悪の美学とは、それを読むものにカタルシスを得させるにおよんでも、その実行を現実世界に引き起こさないものでないか。つまり、「かっこいいなあ!」と思っても、「俺もこういう悪者になろう!」という(すり替えによる精神的決意は別として)行動を起こさせない。 たとえば、『すてきな三人組』であるとか「ルパン(本家も三世も)」であるとかも、そうした美学によって支えられていると思われます。勧善懲悪、という言葉に沿って考えるなら、「懲悪」されない悪が存在するということになります。銭形警部が、ルパン三世にとる態度のように。 |
時海結以9へのお返事2004/5/29(Sat) 17:04くぼさま、噛んで含めるような丁寧で理解しやすいお話、ありがとうございます。 うう、私って勉強不足ですねー(滝汗)。 >「活字倶楽部」さまざまな本に対して、平等に目を向けてゆこう。 自分もデビュー以前、もしかして小説書く前の一読書好きだった頃からの、愛読者です。 あまりの恐れ多さにうろたえまくり……つまのない刺身の盛り合わせは、いくらゴージャスなネタでも美味そうに見えないのだろう、時海はつま、それも食べられることのある大葉や人参ではなく、食べられない菊の花だろう、と納得したものでした。 確かにあの雑誌は平等ですね。 >「悪意」と「悪の美学」の違い 目から鱗! 重ね重ねありがとうございました。お知り合いになれてうれしゅうございます。 |
くぼひでき10 こうして(上述部分が適例かどうかはさておき)、なにかを作者なりに、つまり主観的に考え尽くして、ある人物や物語が書かれるとき、程度はあっても「薄い味わい」にはならないと思われます。まあ、こんな程度でいいか、というつまりステロタイプの安易な採用(あくまでも安易です)がおこるとき、結局無難な物語がそこにうまれてしまう。 そういう作品がヒットする要素は、つまり大衆がそれを求めた結果であるとしたほうがいいでしょう。 児童文学に多く見られる民間企業の公募は、児童文学の隆盛を目的とはしていません。 ジャンルの停滞、膠着。こうした原因はこの「月並み」に追求されるようです。 |
時海結以10へのお返事2004/5/29(Sat) 17:40 ああ、そういうことでしたか。 自分は「出版社主催でなければ、プロデビューは難しい、記念に一冊出してもらっておしまい」という公募雑誌の記事を読んで、応募は出版社主催の賞に限りましたが。 「薄い味わい」を求める方もいらっしゃいます。それは確かです。嗜好は人それぞれで、責めることでも何でもありません。まして押しつけるものでもありません。 もちろん世の中の読者全員が「薄い味わい」を求めているわけでもないですし、なるべくいろいろな味わいの本が存在すべきですよね。 「下流に流れる」という表現を、ちょうどこのような話題を持ち出したインタビュアーに対して用いていた、著名な(と申してかまわないでしょう、お名前は控えさせていただきますが)映画監督がいらっしゃいました。 大衆に迎合するという意味だと解説されて。 その記事に私はこう思いました。 饅頭と煎餅以外にも一つくらい、特徴のあるお土産が名物になっている、自称観光地になりたいなと。 こんな私の考え(たまにはガイドブックや旅番組にもちょこっと載るような名物土産を作りたい)が一応個性とか、久美先生おっしゃるところの作品への愛とか、でしょうか。もしそうでしたら大変光栄です。 |
くぼひでき11 ライトノベルと児童文学に似たものがあるとすれば、それはこの一般イメージが「子どもっぽい」「成長してない」とされる点にあるのではないでしょうか。 現在児童文学者協会の会長である砂田弘さんに、学生時代の1年間、「児童文学論」を講義してもらったことがあります。 ここで「大人」について定義しておきましょう。 |
時海結以11へのお返事2004/5/29(Sat) 17:44>いつまでも「自分は子どもだなあ」「大人になろう」と自覚する人 それが「大人」だとしたら、自分はとってもとってもとっても「大人」です、きっと(苦笑)。 一言ですみません。 |
くぼひでき12 ここで時海さまが提示されました、ライトノベルの外的な定義(つまり世間ではこう定義されてるみたいですね、ってことです) この疑問は、かつて、ル=グウィンが書いた「アメリカ人はなぜ竜をおそれるか」という名エッセイでも出ていました。ここでいう「竜」はファンタジーですが、ライトノベルや児童文学、と置き換えてもかまわないでしょう。 正しく無視することだと思います。 |
時海結以12へのお返事2004/5/29(Sat) 17:52 排斥は大問題です。おっしゃるとおりです。 そうでなく、すり替えを、狡猾にもされたらどうしたらいいのでしょうか。 そんな状況がいつのまにやら忍び寄ってこないとも限らない、と考えられる目や心を、これからを生きる年若い人々に養ってもらうには、少し年齢を重ねた私たちはどうしたらよいのでしょうか。このごろよく考えます。 |
くぼひでき13 少し話がそれましたが、これらを前提として、「共感」について考えてみたいと思います。 >共感する場面の描き方として「読めば即座に画が浮かぶ」 読書好き(とくにライトノベル読者)は男女限らず、イラストを描くのが好きってのは、確かですね。わたしも下手なりに絵を描いてました(とっくに挫折しました)。 好きな作品の絵を描く。そしてそれを誰かと共有する。または自分では描けないけど、その作品にそって描かれた誰かの絵を好きになる。 誰かと共有する。 このとき、ライトノベル読者の中では「作家・イラストレータ=仲間うち=同好の士」だと思います。 こんな感じでしょうか。時海さまのいう、連帯感や一体感と同じものを細分化してみました。 ライトノベルにおけるこの「共有」は、とてもすばらしいものです。 この共感こそが、二次創作の原動力であり、ライトノベルを支えるものです。 |
時海結以13へのお返事2004/5/29(Sat) 18:09昨日ちょっと考えたのですが、(時間がなくてすぐには調査できないんですが)児童文学のプロの書き手、ライトノベルスのプロの書き手、それら作品に挿絵を描くイラストレータ、アマチュアの同じジャンルの書き手、それぞれのWEBサイトが、どのくらいの割合で<読者と作者が直に会話できる掲示板を設置しているのでしょうか。 例えば時海のサイトはファンサイトなので、当然掲示板がありまして、私はメッセージにはほぼ全てレスをしています。それがしたかったからです。 アマチュアの書き手の方には、かなりの高い割合で、作品へのご意見感想受付掲示板があるでしょう。たぶんそれがサイト設置の大事な目的ですから。 で、読者の方と交流とか共有とかがしたいプロの書き手、どのくらいの割合なのでしょうね、と思ったのです。 設置目的には、とにかく自分を表現したい、存在を表したい、著作だけじゃ足りない、という方もおいででしょう。それは「日記」だと思います。 共感と共有については、全くおっしゃるとおりだと思います。自分が上手く表現できなかったところを、ずばり示してくださいました。 |
くぼひでき14 さてそこで、共有された結果として、読者が描いたたくさんの絵を考えてみたいと思います。 それは「生活感のなさ」です。 全てが全て、とはいいませんが、たいていは「記念写真」や「肖像画」、「集合写真」「モデルグラビア」と構図が似ている。つまり実生活ではありえないシーンの構図。コスプレ写真に見るポーズもこれですね。 共有される方法としてのイラスト(読者投稿など)を見ると、そうした生活感を感じさせないよそいきの構図が多い。 どうしてそうなるのでしょうか。 読者は作品を読んでいるあいだは、作者によって提供されたストーリーによって、頭の中でスナップを再構成しています。戦闘シーン、ラブシーン、などなど。かっこいいシーンも、ほのぼのしたシーンも、殺伐としたところだって、すべて生活感に溢れています。リアリティと置き換えてもいいかもしれません。作品の文章が稚拙であっても、読者の補完能力が高ければ、それはいくらでも再構成されるものです。 しかし読み終わったとき読者は、全体を、一つのシーンではなく、統括するイメージとして、その作品を記憶するのではないか(または記憶から除外するのではないか)。 |
くぼひでき15 このキャラクターの前景化に特化した商法がキャラクター商品なわけですが、それは置いといて、では「前景化」を逆手に取ってみたらどうでしょう。 作中や、まれに投稿画にも、「スナップ写真」のような「生活感」を感じさせる絵があります。 スナップとは、背景をも描くことです。 作品そのものの中にはこうしたスナップが連続します。 |
時海結以14と15へのお返事2004/5/29(Sat) 18:29えーとですね、内輪を明かしてしまうと、ライトノベルの編集者からイラストレータさんへのイラストの指示は、どうも2種類あるようです。 「ストーリーの場面に即した画」「あとでグッズに転用できる画」。 「生活感のない」イラストは後者なんですね。 そしてたぶんですが、私の感じているところからでは、イラストの新人賞や持ちこみで採用されるのは、「生活感あふれるイラストをいかにドラマチックに描けるか」だと思います。 「生活感のない」方からは、お話が逆にいろいろ生まれると思うのです。ご覧になった読者さんによってそれぞれに。 例えば、先頃締め切られたとあるライトノベルの新人賞は、いくつかのキャライラスト(ポーズをつけて小道具を持っただけの背景無しワンカット)を提示し、そのキャラが登場する話を創作して応募してほしい、というものでした。 今私は、目の前に一枚の、美しい構図のイラストラフを置いてあります。 原作者が紡ぐ言葉や話より先に、きれいなポスター用イラストがすでに描かれているのです。 |
くぼひでき16児童文学に挿絵が添えられるのは、読解力の補助、ではありません。それであれば、文章よりもマンガを書いたほうがいい。実写のほうがいい。 追記:これは、時海さまの見解を非難しているのではなく、そう書いたか言ったかしたという評論家の見解の浅さを難じているのです。 ライトノベルも同様です。読解力の補助のために、絵があるのではありません。 時海さまが、絵が無くちゃ書けない、ぴったりの絵が描かれたとき(または思った以上の絵が描かれたとき)にはうれしくなる、というのは、共有する立場と同じ位置にあると思います。 しかし、ライトノベルの作り手はキャラクターを前景化することに奔走しすぎてはならないのではないでしょうか。 |
時海結以16へのお返事2004/5/29(Sat) 18:39>読解力の補助、ではない すみません、私の認識違いだったようです。 画がないと書けないのは、私が共有する立場、つまりは熱心な読者でファンの出身だからでしょうかね。 高い立場から与えよう、自分こそが創造主だとか、ま、こんなもんでしょ、てきとーでいいやとか考えるようになったら、それに気がついたら、私は物語をプロとして書くのをやめようと思っています。 |
くぼひでき17 そこで児童文学です。 たとえば、純粋に児童文学だけを好きな人! っていうのは、上にあげたようなライトノベル読者に多いような行動(同人誌・コスプレなど)は、少し違う方向性をとります。 ライトノベル読者は、キャラクターを前景化し「よそいきの構図」をとることによって、キャラクターと同一化する。 ここで、時海さまの提示された、 「文学」とは、思考の展開をだと思います。アイデアになることもあれば、風刺になることもあり、場合によっては思想になることもあります。 |
くぼひでき18 こう考えると、ライトノベルとそうでない小説の区別もついてきます。 久美先生が「わたしらに似てる」とコラムにあげておられた、荻原規子さんの『空色勾玉』が良い例です。これは出版形態は児童文学でした。イラストもありません。しかし、内容はライトノベルです(とくにその最後の1行の落とし方において)。 違いはどこでしょうか。 さて長くなりました。 そうじゃないものは、児童文学じゃないんですよ、もう。それは、推理小説と同じなんです。推理がなくなったら、推理小説じゃない。 それと同様に、ライトノベルもこれから先、このライトについて考えていくべきです。 繰り返しますが、だからといって最終的な答えが出てはならないと思います。ジャンルが終わります。ひとりひとりが、自分で考えながら書いていき、読んでいく(いきなりですが、社会・共産主義が破綻したのは、こういうものだという答えありきだったからです)。 長々書きました。 |
時海結以17と18へのお返事2004/5/29(Sat) 19:02ということは……私が両方のジャンルで書こうというのは、かなり無謀な試みを無自覚にもやろうとしているのでしょうか。 この無自覚っぷりがいかにも私らしい……(滝汗)。 ライトノベルではキャラの立ちっぷりが弱いと指摘され、児童文学ではもっと実際にいそうな生身の人間を書いてくれと指摘される、なるほど、もっと恣意的に分類しなくてはなりませんね。モチーフの差だけではいけないのですね。 では逆にうかがいたいのですが。 二十歳をかなり過ぎても大人になっていない自分を見つめて、大人を目指すために、ライトノベルと児童文学を書く。 結果両方から出版の機会を与えられたわけですが。 結論が出たらジャンルが終わっちゃう、そのとおりだと思います。 自分の書き込みも長くてすみません。しかも自分のことばっかりしゃべっているし。経験からしかものが言えない、勉強の足りないやつなので、寛容にお許し賜れば幸甚に存じます。 |