くぼひでき192004/5/30(Sun) 15:27時海さま 火の件は、大丈夫でした。お見舞いありがとうございます。 さて、そろそろ論も煮詰まってきたように思います。ラスボス倒しに行きましょう(笑)。 悪意と悪の美学の相違について、何かお役に立てたようで、嬉しかったです。わたしもこうやって論を重ねていくことで自分の中が整理できて、とてもよかった。わたしのほうこそ、お知り合いになれて、とってもとってもうれしかったです(^^。 プライベートで、児童文学関係のアマチュア作家の人たちとよく合評会を開いているんですが、その人たちに時折り足りない、と思うところがあるんですね(もちろん、自分のことは棚上げです)。 時海さまがおっしゃるように、数をたくさん書くよりは、これ、という一作をこれでもかこれでもか、と推敲したほうが良い作品になる。 赤川次郎先生みたいに、すらすら矛盾無く、しかも適した言葉だけが出てくるなんて方じゃない限り(赤川先生は聞くところによると、いっとき、月産2500枚だったそうです。栗本先生もそうですが、鬼ですね……)、やはり推敲は必ず必要だと思うんですね。 語句や「てにをは」レベルの推敲はもとより、構成やキャラ設定のレベル、最終的にはその作品であらわされそうになっているテーマについてまで(書いてみなきゃ自分でもわからんってテーマもありますね)、考えをめぐらせなくちゃいけません。 それは締め切りのシビアさ。 推敲はふつう、時間をおいてから行うと、客観的に自分の文章を読めます。これは真実ですね。書いてすぐだと、頭の中にその設定・裏設定・書いてたときの興奮が残ってるものですから、読者が気づくようなミスや書き損じ、書き忘れにも気がつかないことがある。 アマチュアのそのグループの方たちと合評会をしてると、自分の古い作品の推敲はほとんどしないんですね。あまりにも古いのは問題ですが、たとえば未発表であれば未完成と同じなんだから、1年前2年前の作品を引っぱり出して、使えそうなら推敲してみる、とすればいい。 |
時海結以19へのお返事2004/6/1(Tue) 13:11 蔵書1万冊!! 児童文学のペースは確かにそんなかんじですね。私は児童文学でも文庫書き下ろしなので、もう少し刊行計画が具体的に決まっていますが。 ライトノベルの刊行は作者一人当たり、年に3〜4冊です。多い方はもっと頻繁です。 ・担当編集者との電話や口頭でする「次どうしましょうか」みたいな会話から、自作の方向性が見えてくる。 ・だいたい見えたら、作者がそれを文章化して編集部へ提出する。 ・プロット提出を受け、編集者は作者と互いが満足ゆくプロットになるまで、書き直しを命じることもあるし、明確でない点には質問を多く出すこともある。 ・完成したプロットを元に編集者は企画書を作り、編集会議に提出、会議を経て執筆にゴーサインが出る。 ・締め切りの目安が決められ、作者は草稿とか第一稿とか呼ばれる原稿を書く。 ・これを編集者が読み、加筆修正のアドバイスをする。これが最低一回、新人だと何度かくり返される。 ・加筆修正が済んだ原稿(初稿)が編集部へ入稿されて、イラストレータに仕事の指示が出る。原稿も校閲担当部署、印刷所、イラストレータに届けられる。 ・数週間で著者のもとへ校閲チェックの入ったゲラ(仕様を整えた印刷原稿)が届き、赤ペン握って校正作業をする。著者はたいていこの一回だけだが、編集者は3段階に渡ってくりかえし校正をするらしい。 ・イラストレータはカバーイラスト、カラー口絵、モノクロ挿絵の順にラフ(下書き)を提出しては編集者のチェックを受け、イラストを順次完成させる。 ・本文とあとがき以外のテキストの編集者による執筆と作者によるチェック、装丁作業をデザイナがして、イラストレータは色校正などの作業をし、出荷。 それで、これはあくまでも周囲を見渡しての推定ですが、キーボードを叩いて原稿を入力するのに半年も一年もかかるライトノベル作家は、他に仕事をしていて時間が取れないのでない限り、あまり見かけられないようです。 もちろん、書きながら細かい部分を考える時間に個人差がありますし、途中で表現に詰まったり、プロットから外れた展開になってしまうとかなり苦しいです(苦笑)。 プロットを組むときにどのくらい考える時間が必要か、ここで「執筆スピードの個人差」が出るようです。 推敲は、与えられた時間内でできる限り、何度でもしつこくやります、もちろん。 児童文学ではいくらか違う手順や考え方もあるらしく、これから学ばなくてはなりません(笑) |
くぼひでき20 ここが児童文学の「文学」っぽいところではないでしょうか。 もし、 推敲という名の思索は「文学」であれば当然だし、それを深めないことにはその先の思索にも当然たどりつけないんですね。 「文学」に似た言葉に「文芸」ってのがあります。この場合、すこしニュアンスが変わってきますね。「文学」は思索の果ての産物ですが、「文芸」はその場の勝負ってところがあります。 つまりいつでも新しい。 そこで、ライトノベルです。 補記:ノベルの言語はラテン語でNOVUS。手元の羅英辞書を見ると、 これを頭にいれつつ、ライトノベルという言葉を、もう一度ひねくりまわしてみましょう(前回も書いてますが、これが最終的な答えではありません)。 |
時海結以20へのお返事2004/6/1(Tue) 13:21>つまりいつでも新しい。 なるほどなるほど、自分は常に前の作品よりは、いい意味で読者の予想を裏切るアイディアを入れた新作を、でもつまらなくなったとは言われないレベルを保った新作を、と心がけてます。それが全ての指針であるといっても過言ではありません。 時にはプレッシャーですが、「新しい」と考えれば、軽やかに気負わず取り組める気がしてきました。 |
くぼひでき21 ライトについては「軽やか」であると書きました。 それと上の「ノベル」をからめれば、ライトノベルとは、軽やかな新しさを提供するものです。 このふたつがあいまって(そうでないとジャンルの意味がない。片方だけじゃ成立しない)、ライトノベルという形態が現出したのではないでしょうか。 これらの別面が、たとえば、読み捨てにされるとか、読み捨てありきで書かれるというものにつながっていくとは思いますが、それは作家と出版社次第です。 |
くぼひでき22 時海さまが覚悟なされた ただ、上流と下流について、そのあり方が違いますので、少しだけ指摘させてください。 けど、送り手としては、自分の作品を長く喜んでほしい、という思いがどこかにあると思う(無い人を否定はしません。それはそれで需要があるわけですし)。 上流は堅苦しい。という気持ちもわかります。 課題図書や教科書、という、規範・模範の権化みたいなものに隣接しているおかげで、児童文学はその上流に位置するものと考えられることがあります。 ほんとうに高邁で、極北の文学は、ザイル持って出かけないといけない絶壁です。これはこれで大切です。 そうした技術や考えは、一般の人には使いにくいですね。 たとえば、ルビ(当て字)をいっぱい振ること(「星界の紋章」や「マルドゥック・スクランブル」の手法)も、そこではじめて行われたわけではなくて、昔それを試してうまく行った人がいる。 |
時海結以21と22へのお返事2004/6/1(Tue) 13:40 これは誤解がないように、訂正させてください。 下流がにぎわっているというのは、上流がにぎわっていないという表現とペアになります。 ミリオンセラーになるフィクションがある一方で、そのミリオンセラーを読んで楽しんだ誰もがたとえばニーチェやサルトルやカントやショーペンハウアーを読みこなせるわけではありませんよね。 自分は、ひろく大勢の人に読まれて、げらげら笑われるギャグをつぎつぎ飛ばして、あるいははらはらどきどきさせて、という展開を書くのには向いていないタイプのようです。 それが中流域の観光地の特徴あるお土産、という例えになったわけです。 ですから、広く大勢の方を気軽に楽しませられるタイプの書き手を、私はとても尊敬しますし、正直うらやんでいます。 上流や源流がなければ、流れはそもそも成立しません。 ただ私個人は、訪れる人が少ない場所に行くのは寂しいなと。寂しがりですし、作品世界を他人と共有するのが何よりの楽しみなので。 書き手読み手それぞれが、自分に最も合った居心地の良い場所を見つければ、それでいいのではないかとも思ってますが、こういう考え方は議論の放棄に当たるのでしょうか? |
くぼひでき23 ここから排斥について少し考えてみたいと思います。 ここで、持ち出されたのは「自己責任論」というものでした。 違うんですよ。 そこでどう狡猾に排斥されたかといえば、お金の問題にすりかえられた。 しかし、国民の税金というものは、国民のために使われるんですね、基本的に(ODAもありますけど)。 政府・省庁の人間を雇っているのは国民です。その国民が、自分達のためにこういう風に金を使えというのをあらかじめ指示してある。 なのに、彼らが勝手にお金を使った、とされた。国民が危機に陥ったとき、どこにいようがそれを救出する、その手配をするというのが、国民のあいだの相互扶助です。 しかし、今回これらの事件について、政府の長である総理大臣が先頭にたって、国民を非難した。 このとき、 >そんな状況がいつのまにやら忍び寄ってこないとも限らない、 という時海さまの心配はとても貴重なものです。そう考えない「大人」が多い。 正しく考えることです。 |
くぼひでき24説教臭くなってきたので、話を変えます(笑)。 余談ですが、ここで(笑)とつけることができるのも、ライトノベル世代なんだと思います。 サイトの掲示板設置例およびそれがプライベートでどれくらい、または読者との交流がどれくらいの割合かという件ですが。 けど、返事しなかったら、ファンは作家に「最近冷たい」とか「いい気になってる」とか言い出しますね。これも先例のあることです。 そこは仕事(執筆)の時間的余裕を見て判断するべき。 けど、仕事量がないのなら、逆に「自分を見て」「作品を読んで」っていう誇示があるし、反応があるととっても嬉しいし、というので、掲示板は活用できますよね。 ただ、掲示板でなくても作家の日記というのはあると嬉しいですね。 ライトノベルにあとがきが必要なのも、 作家と「作品と時間」を共有できるからですね。 この点に関して突き詰めたのは、ミステリ作家の森博嗣さんではないでしょうか。大学の先生でもありますが、講義の出欠を質問・回答にし、次回講義で配布するという手法も、共有の方法なんだと思います(参考『臨機応変・変問自在』集英社新書。大学に行きたい人、大学以外であっても勉強に悩む人は是非読むべき。勉強とは何かがすごくよくわかる)。 |
時海結以23と24へのお返事2004/6/1(Tue) 13:54税金は掛け捨ての保険ですか、納得しました(笑)。 日記より掲示板へのレスを読む方が私は好きです。一方通行でない文を読むのが好きですね。それだけなんですけど(笑)。 作品を書くのに時間的影響が出ない限り(ミリオンセラーにならない限り、そんな影響あり得ないな・笑)、自分は読者の方々と交流を続けてゆく覚悟です。 ファンシーショップや生花店がラッピングサービスをするように(有料のこともありますが)、書店がお得意さんにはお取り置きをしておいてくれるように。 読み手の方の反応を直にやりとりすると、得るものは必ずあると思うのですけれど。得たからにはちょっとしたお礼は要るんじゃないかと思うので、ファンレターにはお返事をしておまけグッズを同封しているのですけれど。 常に読者の喜ぶ姿を想像しながら作品内容にもサービスを盛りこむ、私が思い描く小説家というのはサービス業に分類されますよね。 |
くぼひでき25>一般文芸誌の抽象的なカバーデザインで、どんなお話が想像できますでしょうか 全くそのとおりです。 ライトノベルに絵が必要な理由。文庫または新書が多い理由。 |
くぼひでき26 >共通点ってなんでしょう。ライトノベルと児童文学の。 たぶん、時海さまとわたしは似たような悩みを抱えているんです。 そしてそういう人たちの中には、一般文芸への食指も伸びている人もいると思います。作り手受け手どちらの立場でも。 ライトノベル作家、児童文学作家、どちらでもいいですが、ここ1990年以降、一般文芸(ただしジャンルは多様。乱暴に言えば若くない人向け)への転出が多いですね。 この人たちが、一般文芸にいってもなぜ売れたかというのは、理由は簡単。この作家さんたちは、読んでもらうための技術をきちんと身につけたから。 ライトノベル・児童文学に共通する読者層は、基本的まだ成長段階にある人たちです。第一に、身体的成長。 つまり、身体的成長はしたし法的に成人したけど、心が大人になってないと自分を感じている人が基本的には読者層なわけです。 しかし、大部分はやはりそういう「成長段階」にある。 これら成長段階にある人たちは、まだ経験が浅かったり、知識が不足していたり、うまく知恵が回らないことがあります。 |
時海結以25と26へのお返事2004/6/1(Tue) 14:21>ライトノベル的なキャラの立たせ方ができない これは児童文学関係の方々とお話しして、初めて自覚したのですが、キャラつまり児童文学では登場人物を、生身で考えてお話を考えられる方が、ずいぶんいらっしゃるんですね。 自分はライトノベルでも児童文学でも、キャラは脳内漫画かアニメです。それをラジオで実況中継するイメージで文に置き換えています。 判りやすい書き方、ですか。 これは児童文学の新人賞審査員を数多くされている、ベテラン作家の方がおっしゃっていたと記憶しています。 児童文学に関わる者として、忘れてはいけない重みある言葉と思いました。 |
くぼひでき27とそろそろここから少し別視点で見てみます。 ずっと「ライトノベル」またはずっと「児童文学」を書ける人と、そうでない人がいます。 たしかに 作家も、技術的に成長していきます。すると、難しいことも書けるようになります。が、そういうときはたいていテーマも複雑になりますね。 考える方向性も変わっていきます。 逆に、どれだけ読者を意識しても、作家はかならずどこかに自分のために書こうとしています。もし、わたしは読者のためにしか書いてない、という人があれば、それは自分で自分の作品はおもしろくないって言ってるのと同義です。 ライトノベルと児童文学の共通点は、作家がその内的必然性として、年若い読者を必要としているということではないでしょうか。 中には、いや、こういうのが好きだから書いてる、それがたまたまライトノベルまたは児童文学と呼ばれるんだ、って人もいるでしょうけど、それも根は同じです。 でも、注意。 >経験からしかものが言えない、勉強の足りないやつなので、寛容にお許し賜れば幸甚に存じます。 許すも何もないです。わたしのほうこそ、ひとりで突っ走って喋ってます。ひとりよがりではないかと、少し震えております(少しかよっ、笑)。 わたしのほうも勉強不足がありますが、開き直ってます。たぶん、日本で自分は勉強不足じゃないと言ってもいい人は、100人くらいじゃないかなあ。しかし、そういう人ほど、やはり自分は勉強不足であると認識してると思いますが。 さて、私見では、そろそろ対話も熟しているころではないかと思いますが、時海さま、いかが思われますか? つぎの19以降のやりとりでおそらく、ライトノベルと児童文学のジャンルとしての「差」については、現時点での論を尽くせるように思えます(そのほかの、執筆に対峙する温度差であるとか、受容され方の差であるとか、そういったものはまた長〜くなりそうですが……)。 そこでご提案なのですが、 まずひとつめは、何かこれについて語っておきたいこと、ってのがおありですか?(あくまで対話のテーマにからめんといかんとは思うのですけどね) 勉強ってことではないですが、このコラムが第三者の目に触れるということであれば、きっと初めてその差に気づく人、ライトノベルをまたは児童文学をまたはその両方を書いてみたいという人、そういう背反に悩む、年若い方がおられるように思うんですね。 ふたつめは、コラムの締めなんですが、対話がすんだあとに、まとめとして、それぞれが発話して終わるってのはどうでしょうか。 いかがでしょう(^^ |
時海結以27へのお返事とではもうひとつだけ2004/6/1(Tue) 14:3827に関しましては、まさにその通りで、質問に対して、ご親切にお教えいただきありがとうございました、なのです(笑)。 そろそろというお話は、私も賛成です。 まだ何かありますか、というお言葉に甘えまして、あと一つだけ。 辛気くさいというテーマの当たりで少し触れましたが、「死の記号化」、これは「恋愛の記号化」、「性の記号化」ということもあるような気がします。 極端に記号化せずに、生々しくなくたとえ話のようにして、死と生や、性と恋愛のあり方、けっきょくは人間の生き方あり方を、読者の方と一緒に作中で考えたいと、自分は願っているのです。 自分も楽しめて考えられる、自分のための書き方です。 なので、児童文学の方が住みやすいのではと書き始めたころは思いましたが、ライトノベルの間口の広さと寛容さにも引かれました。表現手法が自分はライトノベルそのものでしたから。 ライトノベルと児童文学の両方を書きたい、両立したいと思われる方が、もしごらんになってらっしゃいましたら、両立は不可能ではないと、申しあげたいですね(笑)。 |