くぼひでき282004/6/3(Thu) 06:25時海さま 服とアクセと化粧品ですかぁ。むう。わたしには縁がないなあ(笑)。 ライトノベルの製作過程(まさしく製作、ですね)に驚きました。わたしは絶対にそこに住めない、と自信を持って断言できるほどです。 つまり、作品として作家が満足いく(あるいは妥協する)まで彫琢された作品が、はじめて出版企画として検討されるということになります。とくに中堅未満の作家であれば、この傾向は顕著です。 ライトノベルに近いといえば、翻訳出版がそれに近いかもしれません。 すべてのライトノベルがこの手法によるとはしないまでも、そこに「ハウツー」があって実績があがっているのであれば、少なくとも、製作工程からみたライトノベルは、従来の文学とは違うものではないかと思えてしまいます。 これは「書かれ方」にとうぜん影響を及ぼします。 ここに、大塚英志さんの『キャラクター小説の作り方』を対峙してみます。同じ講談社現代新書、平田オリザさんの『演劇入門』という名の戯曲の書き方を対峙していてもいいかもしれません(大塚さんは『〜作り方』より先に『物語の体操』というのもあります)。 前者と後者では、あきらかに方法論が異なっているようです。 大塚さんが「作り方」「体操」と標題してることも注目に値します。それは「表現」以前の手法があり、図式化されるということをあらわしているのではないか。 |
くぼひでき29わかりやすく、前者を「表現本」、後者を「技術本」としておきます(もちろん、恣意があります)。 大塚さんの技術本では、ウラジミール・プロップの構造論や、TRPGの遊ばれ方、ハリウッド映画のシナリオ術をあげて、「物語」はいくつかの部品に分解されるとされています。それに気づいてしまえば、物語を織り上げるのはそう難しいことではない、という主張を貫いています。 技術本においては、表現についてキャラクターの姿形、ガジェットなど、細かい部分をストーリー本体にからませることで、物語が有機的になる(キャラが浮かない)ということを言うのみで、表現本で必ず言及される「描写」と「説明」の克明な違い、作家のもつ文芸思想的な態度についてはほとんど言及されません(ただし、大塚さんの提示する有機的な方法は、メタレベルでの描写行為です。キャラの存在感を出す方法と、文章が説明に堕さない方法は、構造的に同じです)。 なぜそうしてあるかといえば、表現は、主に作家の内なる行為に属し、かつ、わたしが考えるには読者による読書(読解、理解、再構成)に依存するからではないでしょうか。 時海さまに教えていただいたライトノベルの出版段階は、ハウツーのもっとも大枠が示されていると思います。 工芸の代表として、家具を持ち出してみましょう。 しかし、工芸としての家具は、芸術としての作品ではないから、製作側はひとつひとつの製品に過剰な意味をもたせることができません。それでは商売にならん。 ライトノベルに似てませんか? ライトノベルがもし工芸的であるとするならば、製品は必ず「読者による補完」を期待するものになっているはずです。 はじめから「共有」を考えて製作される作品があれば、もしかしたら多くの顧客をつかむかもしれません。 どちらが、正しい、というものではありません。 書き手としてのわたしは、愛着されないかもしれないけど、あくまで「芸術」なものを求めているように思います。もちろん、読者がつけばうれしい。それが次作への原動力になるのは確か。しかし、それが無くても書きたいものがあります。書かないと成長できない、執筆という仕事を通して人として大きくなりたい(これも前論の繰り返しですね)。そう考える節が、どこかにあるからです。 |
時海結以28と29へのお返事2004/6/3(Thu) 22:49 そろそろまとめが近づいてきたようですね。 私が新刊を刊行の度に献本いたしますと、さしあげた児童文学の関係者の方からは、「おめでとうございます」とお祝いの言葉を頂戴します。 ライトノベルの作者同士がお互いの本を交換しても、新人賞獲得のデビュー作を贈って下さった方以外に「おめでとう」とお祝いを伝えたとは、寡聞にして耳にしません。 自分は自分以外読者のいない小説はもうおそらく書きません。 ちょっとつっこみますと、作家が逃亡しなくても、イラストレータが過労で倒れたら、ライトノベルは発売延期ですよ(笑)。 |
くぼひでき30 これは時海さまが、児童文学関係の人と話していて自覚されたとおっしゃる 登場人物を生身で考える、というのは、書かない人またはキャラクターに慣れてしまっている人にはわかりにくいかもしれませんが、簡単に言えば「そこらにいる人を使う」ということです。 作品をおもしろくするために、こういうキャラを配置しよう、という原理とは別の原理が働いているわけです(もちろん、どの作家にも虚構性があるから、こんな人物を出してみようということはある)。 わたしは、比較的早くTRPG(テーブルトーク・ロール・プレイング・ゲーム)をはじめたひとりであると思います。友人に誘われて1984年からはじめました。当時は、「ロードス島戦記」もまだ無い頃です。「ドラゴン・クエスト」が出る3年前ですね。 なぜ、いきなりこんな昔話をするかというと、TRPGをするとき、シナリオ(プロット)を作りキャラを作りマスタリングしていくとき、わたしは「芸術」的ではないんですね。 時海さまがご存知かどうかはわかりませんが、TRPGをプレイされた方またはリプレイを読まれた方は、その雰囲気を知っていらっしゃると思います。 |
くぼひでき31 ゲームマスターというのは、作家みたいなもんです。プレイヤーがキャラクターを担当します(マスターもノンプレイヤーキャラクターというのを担当します)。 キャラクターの行動次第で、次の展開が変わり、結末も、マスターの用意した大団円におさまらないことがあります(全滅とか、任務の失敗とか)。 そうしたプレイングスタイルは、昔どおりですが、最近新しい傾向のゲームもあります。 戦闘シーンに差し掛かったとしましょう。 そういうゲームのとき、わたしは「芸術」のことなど考えてないんです。もちろん演出したいシーンはあるから譲れませんが、おもしろくなればいいと思っている。 これらの考え方は「工芸的」ではないでしょうか。 大塚さんが自著でTRPGとキャラクター小説が似ている、と言うときそれは、そのストーリー(プロットの立て方)のありかたであるという感じで書いてるんですが、わたしはそれよりも、ストーリーおよびキャラクターの共有のされ方が似ているんだと思います。 翻って、児童文学(だけでなく一般文芸)の多くのあり方は、そういうものではない。それはなぜかといえば、キャラクターやシーンの演出はすべて作家のみであって、読者が共有するタイミングは作品の成立後しかなく、かつ、共有するレベルが「感想」レベルでしかない。 |
くぼひでき32芸術的散文(あえて芸術的といいます)の指向する方向性は、いくつかの階梯に分別できます。 ひとつは、大きく言えば読者の感覚を変えること。読む前と読んだあとで、世界の捉え方を変えさせてしまう。ロシア・フォルマリスムでいう「異化作用」が、読者の思想レベルに到達したと考えることができます。 ひとつは、もう少し小さく言えば、心理的にたくみな人物造形をするということ。それまでになかった人物を造形し、その存在の思考や行動を通して、読者に何かを考えさせる。ステロタイプでない新たな類型を作り出す行為です。 ひとつは、さらに範囲を狭くして、文章レベルで「含意のある文章」を記述すること。上にあげた「異化作用」が文章単位で生起する。印象的な一行であるとか、一言であるとか。詩的かどうかは別として、見慣れないしかし確かに「この言葉しかない」といった文章を作り出すこと。それが断続すること。 これらを読んで、「ライトノベルだって同じだよ」と思う人がいるでしょう。時海さまはどうでしょうか。 ライトノベルだって、読む前と読んだあとで世界の捉え方が大きく変わる、ってのがあるよ!といわれる人もいるかもしれない(わたしには、氷室冴子さんの『多恵子ガール』『なぎさボーイ』がそうでした。最近では、茅田砂胡さんの書くシリーズにそういうものを感じます)。 ライトノベルだって、新たな類型を造形してるんじゃないか!? とか(十二国記の麒麟のあり方にそうしたものを感じます)。 ライトノベルだって、「この言葉しかない!」っていうのがあるよ! とか。 そう。ライトノベルは、散文だから、そうした「芸術」面は必ず含有します。それは当然。けど、そこが目標か、というとそうではないですね。その先に「読者を楽しませよう」という大衆文芸的な考えがあります。 しかし、多くの児童文学作家はそうではなく、上にあげた「芸術」面を優先し、かつそれが子ども達に届く文章レベルでないといけないとしているんです。 時海さまが聞かれたベテラン作家さんの言葉。 >難易度は枚数の少なさに比例して難しくなっている というのは、ここにあてはまるように思います。 そのうえで(つまり上のものは最低限)、子ども達の実感に添う表現を見つけ出す。 そのとき、「キャラが立つ」という考えはないんですね。もちろん、キャラを立たせようとする児童文学はあります。一分野に固執してる方が難しいですから。 |
時海結以30と31と32へのお返事2004/6/3(Thu) 23:17 TRPGはプレイを見学したことはありますが、やったことはないですね。 では何をしていたかというと、台本を書き、小道具をデザインし、衣装や大道具を探して借り、演出を指示する。小学校低学年から中学の文化祭までずっとそうでした。 ライトノベルには「この一文」を効果的に見せる方法がいくつかあります。 活字を大きくする。 これらはすぐ判ります。 直前の文を1行半、当の大切な文の大切な言葉を行の後半・ページの下の方へ配置し、直後の文は極端に短くする。 漫画で大事な言葉を独立のコマや吹き出しに入れるのと、同じ効果を狙うわけです。 あと、イラストページの配置が関係してきてしまいますが、劇的な場面転換の1行はページをめくったところにある、という調整もします。 児童文学がエピソードに合わせて登場人物が揺れるように設定されている、それは判ります。 ライトノベルでキャラが立つとは、ありとあらゆるどんな場面でも、その際このキャラはこういう言動パターンを取る、と作者と読者の間でキャラごとにルールが決まっている状態だと、自分は理解しています。 イベントはいくつかプロットに設定していても、細かなエピソードはどうなるか、書いてみなければ判らない、それが書き手の正直なところですし、創作の醍醐味でもあると思われる方もおいでと思います。 ここに違いが見いだせそうですね。 |
くぼひでき33 上流・下流の件につきましては、わたしのほうが読み損じをしているようでした。ごめんなさい。 わたしは、どちらかというと「高邁」なほう。ここまでの対話でもおわかりかとおもいますが、理論ぶっていてかつ説教くさい(笑)。 ではそのおもしろさとはなにか。 よく見かけるのが、古典への言及。 文芸に限らず、他のジャンルに文句を言う人は、マラソン見ながら「決着が早く着かない」と言ってみたり、相撲見ながら「なぜ武器を使わないんだ」って言ってるのと同じなんですね。 これは、時海さまのことじゃないですよ。 >全ての人が、ニーチェやサルトル……を読みこなせるわけではありません。 ライトノベル読者の中でときどき、上のように他ジャンルの作品を「難しい」だから「いらない」といわれる人がいるとき、それは逆もありうるということは知っておいてもらってもいいと思うんです。 哲学書も、古典も、課題図書も、教科書も、誰かがおもしろいと感じている。それは音楽でいえば、ポップミュージック以外に、演歌やクラシック、民謡、民族音楽などがあり、それぞれにファンがいるってのと同義なんです。 |
時海結以33へのお返事2004/6/3(Thu) 23:21まさにおっしゃるとおりです。 でもこの文を読まれる方々は、相当に多くの割合で、ライトノベルが読み解ける方なのではないかと思いまして、心情的に近い例を引こうとし、ちょっと勇み足だったようです。失礼申しあげました。 |
くぼひでき34 さて、ようやく、「恋愛の記号化」「性の記号化」というところに話をすすめていきます。 しかし、ライトノベル読者の中には、そういう要素はいらない、重い・苦しいと考える人もいるのではないかと思います(わたしはそうは思わないですが)。だからこその、発話だったのだろうと思われます。 至極まっとうと思います。 たとえば、今の若い人たち(広く30歳代まで考えます)を例にすると、そういう重いことのひとつに「政治」がありますね。 ほかには疾病や障害。 ここには心の問題も付随してくるでしょう。 そうしたことの代償行為として、読書というのは機能してきました。 中にはそうしたことを知りたい、考えたいという読者がいる可能性がある。作家の提示する作品の中に、ヒントや答えを見出したいと願う読者がいるかもしれない。または、まったく自分では気がついてなかったけど、読むことによってそれに気がついたって人も出てくるかもしれない。 |
くぼひでき35「恋愛の記号化」「性の記号化」はひとくくりにして、「生の記号化」としましょう。「死の記号化」と比較するためです。 生きていくことは、死ぬことと同じ程度に、誰にとっても悩みの種になるものです。仕事したくない、って若者が増えました(わたしは、それは「仕事」じゃなくて、「労働」じゃないかと思ってますけどね。アーティストにはなりたいっていう人もいますね。アーティストは仕事ですよね)。学校に行きたくない、って人も増えました。 そうした中で、現代は、死と同時に「恋愛」や「性」が強く記号化してきたのでしょう。 では、まじめにそうしたことを考えると作家が決めたとき、どう書くか。つまり、死と同じように生を記号化しなくてすむ方法はないか。 けれど、作家としては、書いてる人間には少なくとも、記号化してないものを提示したいとしたとき、どうしたらいいのかって考えてみましょう。 こうした問題は、ライトノベルと同じ読者年齢層(先述してあります)で考えるとき、「ジュヴナイル」とはどういうものか、とかつて考えられたのと同じだと思うんですね。 文芸作品に限らず、何かしらの問題をフィクションで考えるときは、類型またはステロタイプを使って、人物や出来事を抽象化していきます。 だいじょうぶ。読者はいます。なぜなら、そうしたことが、時海さまが「過去のさまざまな遺産」としての「児童文学」と「ライトノベル」との共有のうえで出てきた考えだからです。 ただ難しいのは、あらかじめ共有することを約束してくれている層以上に、それを広げていくことです。これは答えが出せません。 さて、今日も長くなりました。 |
時海結以34と35へのお返事2004/6/3(Thu) 23:52「恋愛」と「性」を「生」と、初めは一言で「死」と対比させようかと思ったのですが、どうせ注釈をつけるならと、あえて「恋愛」「性」と書きました。 息抜き気晴らしにエンターテインメント読んでまで、そんなプライベートに属することへとやかく言われたくない、という方は多いでしょう。 しかし、自分自身の十代を振り返って、教えてほしいと思ったとき、周囲の生身の大人は逃げるだけ、感情的になるだけで、きちんと向かい合って話をしてくれなかったように感じています。 できたらストレートな「思春期の悩み相談室」みたいな本ではなく、もっと持って歩きやすくて友人にも照れずにお勧めしやすい本がいい、そんなかんじですね。 ですから、できたら漫画が描ければもっとよかった、でも生憎画力がかなり不足していました(笑)。 ですから、航海に慣れた参考書の要らない中堅・ベテラン層と共有する必要性は、特別ないと思うんですけれど(笑)。 児童文学でグレード(対象年齢)を下げた作品を頼まれた(28でくぼさまが書かれた出版形態はハードカバーの児童文学でして、文庫書き下ろしは「作者企画書提出・編集部検討・締め切りつきで本文執筆発注」です。ライトノベルより少々スパンが長いだけで、編集方針へ沿うようにとのアドバイスやだめ出しも、書き手が求めれば編集側からあります)ら、これはこれで、文字だらけの本でもゲームみたいに面白いのもたまにはあるよと、お引き受けします。 次世代のライトノベルの読者層へと導く呼び水として(笑)。 |