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新たな書き込みは出来ません。ご了承下さい。


時海結以・くぼひでき往復書簡「ライトノベルと児童文学のあわい

0 名前 : 草三井 投稿日 : 2004年06月11日(金) 16時35分26秒
時海結以さん・くぼひできさんによる往復書簡「ライトノベルと児童文学のあわい」(公開2004.6.12)の感想スレッドです。
感想や情報や意見などありましたら、なんでもお気軽にどうぞ。
よろしくお願いします。

1 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月13日(日) 10時44分27秒
いんやーすんごいものができましたね。時海さん、くぼさん、どうもありがとうございました! おふたりとも楽しそうにしてくださったのが一番です。
すごくたくさんの重要な指摘や発見が含まれているこの往復書簡を、ライトノベルを好きにしろそうでないにしろ、あるいは、作者も読者も編集にたずさわるかたがたも、なるべく大勢真摯に読んで、また活発な意見交換の土台にてしくださるよう願います。とかいってわたしも「2」まででとりあえず中断してしまいました。いっぺんにあれもこれも考えようとすると散漫になってしまうし。
ちなみに、うちのネスケ(バージョンは7.0かな)では読めませんでした(ふだんはウィルス除けにネスケばかりつかってます)。IEなら問題なく読めました。ピンクの背景の向こうにこんなに広い世界がひろがっていたとは!

2 名前 : くぼひでき 投稿日 : 2004年06月13日(日) 11時40分06秒
久美さま、ありがとうございます。
ご高覧ありがとうございます。恐縮の極みです。
時海さまが的確にすぱすぱっと言われるのに対し、わたしがだらだらした長文で恥ずかしい限りです。。
しかも、次に読まれる「3」からその長さに拍車がかかっています(笑)。

ネスケに関しては、ただいま、草三井さまに対応策のスクリプトをお渡ししました。
ので、すごく無粋な白黒ページでは読めるようになるはずですです。
(もちっと改良します。いまから)

3 名前 : 時海結以 投稿日 : 2004年06月13日(日) 12時20分53秒
久美先生、ご高覧賜りまして、ありがとうございます。
このような機会を与えてくださり、感謝いたしております。

くぼさまは大変な博識でいらっしゃいまして、比べ私は、確実なのは自分の経験ばっかり、というお恥ずかしい限りです。
最大の発見は、ライトノベルとハードカバーの児童文学は出版の過程・手順が全く違うということでしょうか(笑)。
児童文学でも、自分が執筆中の文庫書き下ろしエンターテインメントは、余り違わないのですが。
ライトノベルと児童文学のハードカバーは考え方のみならず、やり方も土台から違うと(笑)。

すると、その児童文学でもハードカバーと文庫書き下ろしの違いは、となりますよね。
そんなで長くなってしまいました。

お読みになられた方からのご指摘アドバイスが頂戴できれば、大変ありがたく、勉強させていただきたいと願っております。

4 名前 : うたたねこ 投稿日 : 2004年06月13日(日) 23時24分26秒
 どうも、うたたねこと申します。おふたりの意見交換、興味深く読ませていただきました。いろいろ細かいところでも面白いお話が聞けたと思います(「読書感想画コンクール」というのもたぶん初耳です)。くぼさん、時海さん、どうもありがとうございました。

 他のコラムとはちょっと違って、単純に量だけで見てもかなりのものがある内容が、しかも一度にまとめてアップされたので、読んでいくのがなかなか大変かな……とも思って、勝手ながら書簡ごとに見出しのようなものをつけたりカテゴリ分けしたりしたページを試しに作らせていただきました。……おふたりから見れば本来の意図とずれていたり勘違いしていたりするところもあるかとは思いますがご容赦ください。
http://ippo.itbdns.com/cgi/sugoi/lily/utata/20040613.html

 わたし個人はライトノベルにしても児童文学にしても業界内部についてはまったく知らない一読者(しかもそれほど読んでるってわけでもない)にすぎないのですけど、くぼさんが書かれている児童文学が「おもしろさ」みたいなものを受け入れることに頑なだったということは一読者から見たイメージのレベルですがあったりしますね。

 後発のアニメ・漫画、それからライトノベルなどに対して「高尚」だとか「重い」だとかいった何らか長所を理由でそれらの表現メディアを下に見ようとする傾向があるのは一般小説でも児童小説の場合でも似たようなところはあるのでしょうけど、一般小説の場合は作り手だけでなくて対象読者もそれを同じように認識しているだろうし世間一般的にも権威みたいなものがあったりするのに対して児童小説の場合は対象読者そのものを漫画やライトノベルに圧倒的に奪われている上に世間一般的な権威があるわけでもないわけで(そもそも一般小説と較べたらライトノベルとひっくるめて下に見られたりもするでしょうし)、そうしてすでにかなり弱い立場になっているあたりで余計に「おもしろさ」というか非文学要素に硬くなっているのかな、といったことを素人考えに思ったりしていますが。

 書簡のラストのほうなどで重いテーマについての話がありますが、そうした"児童文学みたいに"取っ付きにくいテーマの"ライトノベルみたいに"読みやすい文章の作品――をどこなら受け入れてくれるのか、どこなら読ませてくれるのか、ということですね。それを児童文学に期待するのかライトノベルに期待するのか、それ以外の何かに期待するのか……。

5 名前 : Surreal 投稿日 : 2004年06月14日(月) 00時02分26秒
 まずは、読みました。
 が、咀嚼は出来てません(爆)。

 よって、少なくとも現時点での感想は一言だけ――
 なんでこんな面白そうな話、こっそり進めてるんですかぁ!(超爆)
 なんて、ね。


6 名前 : Rana 投稿日 : 2004年06月14日(月) 03時11分21秒
時海結以 さま
くぼひでき さま

はじめて書き込みをさせて頂きます。Ranaと申します。
往復書簡、大変興味深く拝読させて頂きました。私も一応出版業界に属している者なので
すが、児童文学系・ライトノベル系に関わっている人間ではないので、このサイトの記事
には大いに啓発されております。

ところで、往復書簡の中で一箇所気になった部分があったので言及させて下さい。
くぼひできさまの結語に出てくる「読書感想画コンクール」のくだりです。

私は1960年代半ばの生まれなのですが、小学生の頃(1970年代)にはすでに、学校授業の
一環で、よくこの「読書感想画」を描かされておりました。私が通っていたのは関西の
公立小学校でしたので、他の地域では違っていたのかもしれませんが、とにかく私の母校
では、小学生時代の6年間ずっとこれがありました。

このやり方には二通りあって、ひとつは先生が本を朗読し、生徒は耳で聴いて覚えた情報
(ストーリー)だけを頼りに「感想画」を描く方法。
もうひとつは、実際に本を読んで「感想画」を描く方法です。
多分、想像力を高める(?)ことを目的にした授業だったのだろうと思いますが、正直、
この授業がものすごく苦痛でした。私は、本を読むのはむちゃくちゃ好きな子供だった
(それが高じて、今、この業界にいるわけですが)のですが、想像しているものを絵に
することができない人間だったので、毎回しんどくてしんどくて、何でこんなことをしな
ければならないのかと泣けてきたものでした。

本を読めば、頭の中には、まるで自分がその場に立ち合っているかのように、生々しく
イメージが湧きあがってくる。
それを「文章で」再現しなおせ(表現しろ)と言われればできる。
でも「絵で」描けと言われると、全くといってよいほどできませんでした。
体質というか、性質みたいなものなのかなとも思います。
現在でも、小説にイラストが付いている必要性を全く感じないタイプなので(むしろ、
あると邪魔に感じます。こちらの想像力を限定されてしまうような気がして)

ちなみに、この授業で描いた絵は、校内の講堂で全作品の展示を行っていました。
よく描けているものは、先生方の判断で外部の絵画コンクールに出したりもしていたよう
です。

くぼひできさまの仰る「最近」というのが、具体的にいつ頃のことを指すのか不明で、
学校で体験されていない方もいらっしゃるようなので、とりあえず生の体験談など……と
思って書いてみました。私の体験談は1970年代のものですが、この授業の初めての実施が、
この年代より遡れるのかどうか? ちょっと興味があります。


長文、失礼致しました。
これからも、楽しく読ませて頂きます。

7 名前 : 極楽トンボ@管理人 投稿日 : 2004年06月14日(月) 03時13分33秒
Ranaさん
投稿ミスの件、承りました。こちらでミスされた投稿を削除の上
正しいスレッドに再投稿しておきましたので、問題があればまたおっしゃってください。

8 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月14日(月) 08時50分32秒
Surrealさま

しーましぇん、こっそり(?)やらせたのは婆です。いや、おふたりの対話間に他のひととか他の話がまぎれちゃうと追いかけにくいなと。この際、とにかくまずおふたりでトコトン語りあっていただいて、それをあとから読ませていただくほうがいいかなと。

うたたねこさま、すごいーー! ちゃんと分析してるー!

Ranaさま。その気持ちはちょっとわかります。わたしも絵かくより文章かくほうが得意だし、自分のイメージをきちんと再現しやすいから。

9 名前 : 時海結以 投稿日 : 2004年06月14日(月) 09時45分33秒
わーい、スレッドが伸びているv(笑)。

失礼いたしました。長い上にあちこち話題が飛ぶ内容でしたので、お読みになられた方は大変だったのではないかと、恐縮至極でございます。

>うたたねこさま
すばらしいです、ありがとうございます!
読まれます方々のガイドになれば、とてもありがたいです。お手数をおかけしました。感謝しております。
「かなり弱い立場になっている」ために登場する「錦の御旗」(?)が「教育的な」という形容詞なのです、たぶん。
少なからぬ児童文学業界の方々自身が、ライトノベルとの区別として口にする言葉が、実際にライトノベルを読んでから発言しているのかは別として、「教育的」だと、私は感じています。

>Ranaさま
自分は児童文学を書くようになった数年前に初めて「読書感想画」を知ったのですが、正直「感想文より無茶だな」と思いました。
文より絵で表したくなる子はそれでいいでしょうが、それが全員とは限らない。せめて文か画か自由選択にして、同じ課題図書で「文の部門」「画の部門」にしたらいいのにと感じたわけです。
なお子どもの頃の私自身はそれ以前に、みんなで同じ「課題図書」を一斉に読むとか、個人的に読書で胸の内に湧いた思いを、充分熟成させないままに他人に公表しなくてはならないというのが、いやでした(笑)。
照れ隠しと反抗心が「突っ込みどころ満載」の感想文になるんですね。ちなみに長野県民です。

>Surrealさま
すみません、こっそりやってしまいました(^^;)
遠慮なくたっぷり語ってしまいましたです。

おじゃましました。

10 名前 : くぼひでき 投稿日 : 2004年06月14日(月) 10時40分57秒
あ、時海さまが先に(笑)。


ネスケの件。管理人さま、対応ありがとうございました。ふだん、NNつかわないから、まさか「ぜんぜん見えない」とは思いませんでした(^^;。
新しく勉強できました(わたしはWebデザインもしてるのです)。ありがとうございました。

それでは、新たな対話ですね(^^。


>うたたねこさま

 書き込み、ありがとうございました。
内容を整理してくださってありがとうございます。
 これも「読み」のひとつの形ですね。聖書では、コンコルダンスといって聖句の一覧表を作るんですが、これも聖書解釈には重要な要素だそうです。
 聖書と引き比べるのは尊大ですな(笑)。
 ともあれ、わたしもさがしやすくなりました。ありがとうございました。

さて、
>すでにかなり弱い立場になっているあたりで余計に「おもしろさ」というか非文学要素に硬くなっているのかな

 ですが、弱い立場なのはほんとうなんですよね。たとえば、何か児童文学の賞をとったとします(一般公募でも企業公募でも)。
 そういうとき、周囲の人がお祝いの言葉をくれますよね、おめでとうって。そのとき続けて言われる言葉に多いのが「次は芥川賞だね」って。
なんで、と(笑)。
 一般的な考えとして、「こども向けの作品」というのは「簡単」に作られると思っている節があるんでしょう(ほんとうは難しいってことについては書簡の中にも言及されてます)。
 そしていつかそこを卒業して、次のステップである大人文学に向かうと思われている。
そういうイメージがあるらしいんですね。

 こどもの本の作家さんは、こういうことを非常に毛嫌いしておられる方が多くて、それで頑なになるんですね(これはこれで大切なことです。自分の分野に誇り、別スレの木村航さんの言葉でいえば、矜持がある)。
 ただ、そのプライドが逆に作用すると、高尚なことについて作品をものしていくこと「だけ」が必要なのだとなってしまうんです。これが問題なんですね。

 けれどもそれよりも問題なのは、文体ではないかと思いますね。
 本を読みなれてないこどもたちですら、文章を読んだとたんに「ふるくさい」と思われてしまうような作品がまだ多い。
 さすがに世代交代しはじめていますけど、まだそれらが生き延びている(これは児童文学業界の特性で、古い本でも現役であるってことに由来します)。

「取っ付きにくいテーマ」かつ「読みやすい文章の作品」は、どのジャンルが受け付けてくれるか、といえば、本来は、純文学の仕事だと思うんですね。
 純文学は「文章が難しい」のが特徴ではなくて、簡単であってもいい(ただ、難しく言わなくちゃ伝わらないこともありますけども)。
『ライ麦畑でつかまえて』であるとか、庄司薫さんのシリーズであるとか、村上龍・村上春樹の作品であるとか、先ごろ亡くなられた鷺沢萌さんの作品であるとか(えとせとらえとせとら)は純文学。けど、作品が出されたときには読みやすい文章であって、しかもとっつきにくいテーマがあつかわれている。
 評価は分かれますが、『Deep Love』も純文学なんです。

 純文学は本来「実験場」なんですね。だから先鋭的になって、わからない人が多いから「難しい」と考えられている。
 けど、そこでうまくいったことは必ず普及する(いまの一人称だって、そうですね。あ、書簡に書いてるな)。
 そこで書かれた作品がおもしろければ、それは必ず読者がかぎつけて、自分のジャンル内に取り込もうとします。

 もちろん逆もあります(最近逆が多い)。
 サブカルチャーから、メインカルチャーへの滲出はすさまじいものがありますね(最近のヒットであれば、『黄泉がえり』でしょうか)。


>Ranaさま

お返事ありがとうございます。
読書感想画コンクールですが、Ranaさまは実はその先進校にいらっしゃったんだと思います。
http://www.mainichi.co.jp/info/kansouga/
が公式ページですが、要約すると

1983年に近畿地域において「読書感想画コンクール」を創設(近畿学校図書館連絡協議・毎日新聞社共催)
1986年に実施地区を関東地区に拡大
1989年度、全国展開。
2004年度で第15回。

 Ranaさまが関西の小学校で経験されたのは1983年以前で、つまり、先覚的な先生方によって「読書感想画」の試みがなされており、それが近畿に、やがて全国に普及していったというわけです(もちろん、他の地域の学校でもやってらっしゃった先生はおられると思います)。

 書簡の中でわたしが「最近」といったのは、すごくあやふやなくくりですが、まだ全国の小学校には普及しきってない(現在37都道府県。10県が参加してない)ことを考えると、この10年くらいは「最近」でいいかなと思います(もうわたしも年なんで、10年前はついこのあいだです、笑・・・泣)。

 わたしも「絵で描け」と言われたら泣いて逃げます。

>小説にイラストが付いている必要性を全く感じないタイプ
 については、個人的なものなのでどうこうありませんが、わたしとしては、作品そのものが絵を要求するのであれば、あってもかまわないという感じです。
 映画に画面が必要、っていうのと同じで、「イラストの必要な作品」にはイラストが必要、不要な作品であればつけないで、って感じですね。

>Surrealさま
 わたしも遠慮なく語ってしまいました。あれだけ長いのが毎日のように届いたんだから、時海さまには恐怖だったのではないかと(^^;。

>時海さま
横から入りますが
 児童文学業界の方々のほとんどは、ライトノベルを読んでないですね。食わず嫌い以上に、触るのも嫌って人がいるんじゃないかなあ。
 特にイラストで敬遠している向きがあると思う。扇情的なイラストが表紙だったりすると、どんなに手向けても「拒否」されますねえ。
 ただ「教育」という御旗は、生き延びるために必要な武器なんでしょうね(わたしはそれがなくても生きていけるはずだと思ってますけども)。

ではでは


11 名前 : Rana 投稿日 : 2004年06月14日(月) 12時58分08秒
管理人さま、修正ありがとうございました。お手数おかけ致しました。

「読書感想画」の件、いろいろとコメントありがとうございます。
しんどく感じるのは自分だけではなかったのだなとわかって、ちょっと安心したり。

久美さま。あちらのスレッドには書き込んでおりませんが、久美さまの連載も毎回楽しく
読ませて頂いております。私は年齢的にはくみさまに近い(少し下になります)のですが、
若い頃ティーンズ系の小説を通ってこなかったので、毎回、目から鱗が落ちるような思い
で創世記の記事を読んでいます。今まで断片的にしか知らなかったことが、全部繋がって
ゆく快感に興奮しております。

時海さま。まさしく仰られる通りです。「文の部門」と「画の部門」で好きなほうを選べ
たらどんなによかったか。本を読むこと自体は好きだったので、幸い、この授業で読書を
嫌いになることはありませんでしたが、もし、普段あまり本を読まない子供だったら、
しんどい思い出だけが残っていたかもしれません。

くぼさま。早速、詳しい情報をありがとうございました。なるほど、私の母校は、随分と
新しい試みに挑戦していたのですね。くぼさまのおかげで、初めて事実関係がわかりまし
た。本当にありがとうございました。

12 名前 : 風狐 投稿日 : 2004年06月14日(月) 14時30分38秒
どうも、はじめまして。
現役で、わりと長く児童文学作家をやっております。

興味深く拝読させていただきました。
が、もうしわけないのですが、くぼさまのご発言の中に、
いくつか、「その話のソースは?」と、うかがいたくなる
ものがありました。
やや、思いこみで語られているような印象を受けました。
(例を挙げますと、たとえば、過去ログの中の、往復書簡4
「児童書の読者の半分は成人です」といいきっている部分。
これは、どこかに実際の数字がでている資料があるのでしょう
か?
またこのスレッドの中ですと、「業界のかたがたのほとんどは、
ライトノベルスを読んでいない」といいきっているあたりも、
微妙に辛い物があると思います。
というのは、私自身の知っている範囲では、作家も編集者も、
ライトノベルスを偏見なく読んでいる人が多いからです)。

業界、作家、と一言でくくられてしまいましても、
団体に所属しているかいないか、またどこに所属しているかに
よっても、世界の見え方は違ってくるでしょう。
(たとえば、くぼさまが所属していらっしゃる児文芸は、
保守的な空気の強い、親睦団体です)。
また作家として、どのレベルで売れているかによっても、
どの出版社と仕事しているかによっても、視点はぜんぜん
かわってきます。
ましてや、くぼさまの場合、失礼ながら、まだ実際には、
業界の中に入ってはいらっしゃらない。
伝聞推定や、うわさをソースにして、語っているところもある
のでは、と、正直な話、若干の危惧を感じました。

勝手ながら、私の方に、きちんとした議論をするための時間が
ありませんので、ひとつひとつの事柄について、
細かく反論するのは差し控えさせていただきますが、
一応、このような見方で、ログを拝見した作家もいる、という
ことを、おぼえていていただけますと幸いに思います。

おじゃまいたしました。
みなさまの、実りある議論を、期待しております。

13 名前 : 木村 航 投稿日 : 2004年06月14日(月) 17時24分06秒
 どもども。このスレでは初登場のスチャラカ作家・木村航でございます。
 まだコラム本編を全ッ然読んでないのに、こーゆー書き込みしちゃうのはどーかと自分でも思うのですが、「児童文学の作家はライトノベルを読まない」というのは、「そーゆー人もいるだろー」ぐらいの話ではないのかなー、と。
 どんなジャンルであれ、少なくとも「それを商売にしている人」ならば、自分のフィールド以外にも興味を向けるものだと思います。それをしないでも食っていける人は、一握りのラッキーな人であって、枯渇せずに死ぬまで食っていけることをお祈りいたしますよ、と。
 でも「楽しみのために読んでる人」なら、それは「そのジャンルが居心地いい」わけだから、あえて浮気をする必要はないと考える人だっているでしょーね。作品の出版点数は、ジャンルごとに多数あって、それだけ追いかけていても追いかけきれないくらいあるわけですから。

 それと、これは余談だし、このスレ読んでる方には常識でしょうし、既出かも知れませんけど……。
 秋山瑞人の筆名は、小説の師匠だった金原瑞人先生から授かったものです。金原先生は児童文学の翻訳紹介に積極的な方で、同時に古橋秀之、秋山瑞人を送り出したラノベ界のオビ・ワン・ケノービでもあります。そして、芥川賞作家の父親でもあったりするわけです。
 ねえ、ジャンル分けなんて、アホらしいでしょ?
 要は本気かどーか。それだけです。

14 名前 : 時海結以 投稿日 : 2004年06月14日(月) 18時44分03秒
ご意見をまことにありがとうございます。

風狐さまのご意見、これはまさに、商業出版のご経験のない、商業出版でご飯を食べているわけではないくぼさまに、見たことがない世界について論じろと申しあげるのはいささかどうかと、私が控えましたことです。
しかし、最初にこちらへ書き込んだときに申しました。
0にある「垣根に昇ってみたら案外あっさり越えられた」という主旨です。

それは手にも取らないほどライトノベルが毛嫌いされていたわけではない証明ですよね。自分はそう感じて安堵しました。自分はライトノベルからのスタートがほんの少し先でしたから、そう正直に自己紹介しましたので。
それは風狐さまのおっしゃるとおりです。
読者対象である子どもたちやティーンに人気があるフィクションの探求を、怠らないプロがどのジャンルでも多く、それは他のジャンルを探求して吸収する姿勢でもあります。

くぼさまのいらっしゃる範囲には、そういう方がさほど多くはおいででないかもしれないとは、想像がつきます。私にもかいま見た経験がありますから。
しかし、プロになったら大海が見えるよう井戸から自ら出た方が、がんばれるのではないかと思いまして、自分自身にそう私は言い聞かせています。
「書いてご飯を食べる」と覚悟したら、いろいろ勉強とか吸収とか食わず嫌いは直すとか、必要になるのではないでしょうか。編集者の方もそうだと思います、会社をもり立てないとなりませんから。

そうではなく、ご飯を食べるのための手段とか職業と、自己表現のために書くのを切り離して考えてらっしゃる方でしたら、それはまた別だと思います。

その辺、明確な設定といいますか定義しなかったのは、私もいけなかったかと存じます。
できるかぎり論をかみ合わせたくていました。
ここでまた垣根を作っても詮無いことでしょうと。

自分の拙い経験から今言えますのは、そのくらいなのです。
浅学で申し訳ございませんが、一つこのひよっこに世間を教えてやろうという寛大なお心でご意見を授けていただけましたら、大変幸甚です。
どうぞ、勉学の機会を広くお与え下さい。与えられて幸せと存じます。
よろしくお願い申し上げます。




15 名前 : くぼひでき 投稿日 : 2004年06月14日(月) 22時28分02秒
>Ranaさま

情報が役にたったようでよかったです(^^。
こちらこそ、ありがとうございました。


>風狐さま
書き込みありがとうございました。
 たしかにわたしは世間が狭くて(^^;、伝聞推定とはいかないまでも、思い込みで語ってるって部分が多いかもしれません。
 そのあたりについては、肝に銘じておきます。勧告いただきありがとうございました。

>業界、作家、と一言でくくられてしまいましても
の部分につきましても、そうだとは思います。
 ただ、さまざまなところに出入りさせてもらっているところで管見するに、やはりそのような人が多いように思う感はぬぐいきれません。
 たまたま自分の関与した人が、そういう人が多かったのか(児文芸、のほかに関与してるところもやはり保守的ですね、そういえば)。こればかりは、もう一度実証を取るというわけにもいきませんが、以後注意していきたいところではあります。

 いずれにしても、わたしの蒙を啓いていただいたことは感謝のきわみです。ありがとうございました。重ねて御礼申し上げます。
 また、ぜひ書きこんでください。



>木村航さま
書き込みありがとうございました。『さよなら、ぺとぺとさん』楽しみです。

>「そーゆー人もいるだろー」ぐらいの話ではないのかなー

 たぶん、そうでしょうねえ。
 わたしは問題を大きくするのが好きなので(汗)それがまた問題なのですが、少なくともやっぱりどっちも好きな人がまわりにいてほしいなあ、と思うわけです。
 コラムはそんな勢いで突っ走っておりました。

 金原先生の周辺のことは、金原先生ご自身のメールマガジン(あとがき大全)でも言うておられましたね(娘さんのことは言ってなかった気もする)。
 ジャンル分けがアホらしいのは、もっともです。読むほうはおもしろければいい。おもしろさの質だって、読む人間が測ればそれでいい。わたしはそう思います。
 でもそれをどこかで線引きする人間がいないと、出版もされない。その線引きに、とても不本意なものを感じることがままあるんです。
 


>時海さま

 いろいろとご足労をおかけしております。見捨てないでね。
 さて、
>ご飯を食べるのための手段とか職業と
>自己表現のために書くのを切り離して
とが背反するかどうかは、作家しだいだと思いますので、わたしもこうでなくちゃいかん!とは思わなかったし、逆に、そう自己規定してしまっても、おもしろい作品はどっから出てくるかわからんところもあるでしょうから、あえて定義しなかったほうがよかったかと思います。

 むしろ、ライトノベル作家さんの場合は、前者になるほうが当然だと思います(出版の回転数が違います)。後者は、こういうとあれですが余暇を充ててる人のほうが多いようにも思います(ん。これも思い込みか)。
 でも、どちらの立場でも、ほんとーーーーに自己表現にかすらない人ってめずらしいんじゃないだろうか。久美先生がコラムで書かれてた、花井愛子さんの「自分の書きたいことなんて別にないわ」っていうのは、ほんとうにわたしには実感できない(想像はできます)。
 そうしたときに、それをどこまで寛容していくかってことになると、むしろ、ライトノベル作家さんのほうが身を削ってるのではないか、って気がします。


16 名前 : 風狐 投稿日 : 2004年06月15日(火) 19時19分09秒
こんばんは、みなさま。
くぼさまと時海さまには、私の失礼ともいえます投稿を、
優しく受け入れてくださいましたこと、感謝いたします。

どうも、児童文学だの書物だのに関することになりますと、
それが大切なものであるだけ、言葉がきつくなってしまう性分
を持ち合わせておりまして…反省いたします。
久美先生はじめ、こちらの関係者の方々にも、おわび申し上げ
ます。

ちなみに私自身は、児童文学とライトノベルスの違いは、やはり
ハードカバーとペーパーバックの違い、ではないかと思って
おります。

一方で、木村さまがご発言なさった、

>要は本気かどーか。それだけです。

にも、強く共感いたします。

17 名前 : うたたねこ 投稿日 : 2004年06月15日(火) 22時31分48秒
 とりとめもないですが、また書き込みさせていただきます。

 前に書き込みした「ガイド」については自分が読むのにわかりやすくなればと思ってつくったので、久美さんが書かれてるような分析というまでのことはしてないわけですが。他の方が参照するとむしろわかりにくくなったりするかもしれませんので、参考程度にでも使ってくださればと思います。時海さんとくぼさんにも喜んでいただけたようなのでほっとしてます。どうもありがとうございます。

>「取っ付きにくいテーマ」かつ「読みやすい文章の作品」は、どのジャンルが受け付けてくれるか、といえば、本来は、純文学の仕事だと思うんですね。
 くぼさんがこう書いてらっしゃるあたりはその通りなのだろうと思います。
 ただ今回の話だと、時海さんあたりの場合にしても(違ってたらすみません)実験的な作品を書きたいとかいう目的はなくて、やりたいのは児童文学やライトノベルが想定する読者へ書いて読んでもらうことなわけで、そうした目標から考えると純文学というジャンルは実際のところやっぱり遠さがありますね。

 木村さんの発言(最後の2行)は実作者の発言としては頼もしいしかっこいいです(どきどき)。本当に面白ければジャンルとか関係なくどんな形で出版されていても読まれる、、、と思いたい(^〜^;)
 でも現実には世の中では小説だけでもたくさんの本が出版されているわけで、まともにそのすべてを対象にして本を選ぶようなことは無理ですよね。それで読者はその全部ではなくて限られたものにアンテナを張ってその中から読みたい本を見つけ、売る側はそのアンテナに引っかかるように作品を作る――といったことがジャンルになっているわけで、誰かの意図でジャンルが出来たりしているのではないし、それがないとやっぱり圧倒的に不便というのは確かなんじゃないでしょうか。ライトノベルだって、物語ジャンルとしてはSFでもファンタジーでも何でもありという感じですが、そうした作品でも外から見れば「ライトノベル」というジャンルとして選ばれたり選ばれなかったりしてるわけで、ジャンルについては実際のところは作る側としても読む側としても無視出来ないように思います。

 若い作家、これから作家になろうとしている人のような世代ではライトノベルをまったく読まずに来たという人はもちろん少ないだろうと思います。そうした人がそれより上の世代で出来ている世界で作品を読んでほしい読者に向かって書けるのかどうかというあたりがこの書簡の話題なのだと思ってるのですが。
 まあ、そう考えてみると児童文学であれいつか世代は交代するはずだし、少なくとも一読者の身分としては無責任に「そのうち何とかなるだろ〜」と思ってればいいとも言えるかもしれません(^〜^;) 書簡の結論もそういう方向ですしね。

18 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月17日(木) 08時35分23秒
ネスケでも読めるようにしていただいてありがとうございます。ようやく全部読みました。いちおう。ちゃんと理解しているのかどうかとてもアヤシイのですが……いくつかの点について、勝手なコメントをつけさせていただきます。

「(魅力的な)悪役」
なぜ、「悪い」ひとがこの世からいなくならないのか? というのはわたしの(いかにも子供っぽい)長年の疑問でした。かりそめの回答を与えてくれたのは「と学会」からはトンデモ扱いされている竹内久美子さんの一連の生物学系読み物です。「悪」は実は環境適応性が高い。禁忌を犯してでも、個体の生存や快楽を追及する。他人を踏みにじってでも勝ちに行くことにタメライがない。「善」はそこまで自己肯定的ではないんですね。もちょっと遠慮がある。だから、「悪」は強く、完全に淘汰されてしまうことはありえない。これがとりあえずの答えです。
「善」が他者を思いやることで消極的にでも結果としてその時そこにあるシステム(完全なシステムはありえないから、必ずなんらかの不備を孕んでいるのに)を肯定し維持する方向に働いてしまうのに対し、「悪」は常に現状を揺さぶる。いわゆる「法を抜け穴」をみつけるとか、ひとの弱みにつけこむとかして。この「破壊」が実は「善」側からみても爽快なのではないかと。
「善」なのに、善であろうとし続けているのにもかかわらず「いまのここ」のうちのなにかにはひそかにバクゼンと居心地の悪さや不都合さを感じてしまっている多くのひとにとって(正直ものは損をする、などというのが典型)、「悪」は(悪自身は、単に自分がより心地よく生き延びることだけを考えているのに)その居心地の悪さを打破してくれる可能性の芽として共感されうる余地があるのではないかと思います。悪はある意味ではふがいない自分にはできないことをかわりにやってくれる爽快な「ヒーロー」なんですね。

[タナトス]
上の点にもたぶん関連するかと思いますが。このラノに関わってからいわゆる人気のある“ライトノベル”を多少まとめて読んで、ほとんど全部にやたらに「死」が登場するのに驚きました。あらためてふりかえってみるに、なにもラノベに限らず、昨今人気の本は全部そうなのかもしれない。長崎の事件で再度話題になっている『バトル・ロワイヤル』もそうですし、日本史上最大の販売部数を誇る小説となった『世界の中心で愛を叫ぶ』もそうですもの。『死亡遊戯』なんてもう何世代も前にあったのですから、いまさらかもしれませんが……ゲームではそれこそしょっちゅう死んだり殺したりするわけですが。
なんだか「死」がやけに在庫一斉大安売りされてるなぁ、と思いながらて、重松清さんの『世紀末の隣人』を読むと『愛と誠』における「岩清水弘」を典型とする「よい子の生きかた」に関する知見が出てきまして「ああ、そうか」と思いましたです(ひとの言うことにすぐ影響されるのはあいかわらず)。詳しくはそのご本をお読みいただきたいですが……わたしなりにザッパクにまとめると、70年代後半ごろまで、十代の性は男女ともにまだまだ強烈に抑圧されていた。優等生からフツーのコまでは、おおっぴらには性になんかかかわらないものだった。少女マンガの主人公は性的生活に踏み込めないオクテな自分を肯定してもらえた(アコガレのカレに「そんなきみが好きなんだ」といってオデコにちゅーしてもらうぐらいとか)。で、少年マンガには「君のためなら死ねる」岩清水くんがいて、早乙女「愛」のために、名門校ややれば勝ちぬけるに決まってる受験戦場を捨てて不良さんだらけの学校に転校しちゃったりすることだってできた。昨今のワカモノはこの「君」を失ってしまったんではないだろうか、と重松さんはおっしゃいます。
逆にいえば、強く抑圧されていたから、それが「解放」されると嬉しかった。できなかった経験ができれば、自分が成長したような気もした。最初からまるで放任で抑圧されてなきゃ、いとも安易に消費してたちまち飽食してしまうリクツです。
いまや勉強をがんばって「良い」学校にいくとか「良い」会社に入るなんてのはスコブル虚しい、異性や性的耽溺に熱中するのも虚しい、そして「死」すらも、かなり軽くなってしまって虚しいまでもう一歩ってところなのでしょうか。

リストカットや自殺がぜんぜん特別な(特権的な)ことでもカッコいいことでもなくなってしまったいま、スゴイと認めてもらえることというのは「殺人」ぐらいしかないのではないか(世界的大発明とか、大金持ちになる、とか、他にもいくらでも目標はありそうなものなんですが、実現可能性が最初から薄すぎる。とりあえず、勇気?を出してやってみさえすればジブンにでもなんとかできそうなことのうちに、「殺人」という選択肢がハイってしまっているのではないか)。
ヒトゴロシをするという経験は、作業としてはそう難しいことではなさそうですが、さすがに心理的には壁がある。そう簡単にできることではないし、まだまだ軽く見逃してもらえることでもない。だから、自分を「凡庸な俗物・愚民ども」のワンノブゼムではなく、あくまで特権的で突出的で世間の注目を集めるヤツにしたいなら……他人の思惑に踊らされるヤツではなく、ジリツしたジブンであろうとすると……なんと、いっそ優れた「殺人者」にでもなる他ない! という考えが(わたしは短絡だと思いますが)芽生えてしまう場合があるのではないか。
少なくとも、いま、ラノベの中では、殺すものあるいは戦闘するものの立場はけっして憎むべき「悪」ではない。むしろ「そうありたいヒーロー」になってしまってるみたいに見えます。
殺す覚悟の決まったもの、殺す技術を習得したもの、カッコよくみごとに殺せるもの → 強いもの、を、ラノベは肯定してしまっているみたいに見えます。
正直、それはヤバイんじゃないの、とわたしは思います。たまにそういう作品があるだけならいいけど、全部がぜんぶそっちの方向にいっちゃっているみたいなのってサスガにマズイでしょう? と。いくら小説で妄想で幻想だからって。
(という点で、オトナが安心してこどもに読ませたがる児童文学の方面はどうなっているのか気になります)
予約して買った『空の境界』を読み始めましたが、「ひとの死を目の前にしても、とりたてて騒ぎもしない」登場人物たちに、すでにかなり衝撃をうけているわたしです。
思えばかくいうわたしも死んでも死なない主人公を書いてしまっているんですけど……でもウチのエイラン(主人公)は少なくとも死ぬのは(どうせ生き返るのに)そーとーイヤだと思っているし、出来ればもうあまり死にたくないし、もちろんヒトゴロシなんてまるでしたいとも思ってないんですけど……そういう感覚ってもう、ダサいわけ?



19 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月17日(木) 08時48分29秒
連続ですみません。長崎の11歳の女の子に関して。わたしは彼女をこころからスゴイと思い、同時に気の毒だと思います。戦国時代や、未来の宇宙開拓時代とかに生まれていたら歴史に名を残すヒーロー(ヒロインというコトバはヒーローの女性版ではないゆえ)になれただろうに。彼女を異物扱い異常扱いしてふつうの「よい子」に矯正するより、その心理的特性を高く認めて、軍人さん……は日本にはいらないはずなので……えーと、自衛隊とか、警察関係とか、医療関係(人体をキッタハッタする外科系とか)などなど、なにか「肝っ玉が座っていて冷静なこころの持ち主にしかけっしてできない」任務にむけての英才教育をしてあげるべきだと思います。彼女を「怪物」扱いするに違いない人間関係の中に戻すための表面をとりつくろって感情を抑圧させるかたちの矯正は、ぜったいにしちゃいけないんではないかと。

20 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月17日(木) 09時09分56秒
なんどもすみません。でもって、おかあさんおばあさん世代のひとを中心に大ヒットしているという『冬のソナタ』(すみませんわたしは実は一話たりともみてないんですが)は、なんでも70年代少女マンガそっくりなんですって? てことはです。ようするに、「いま」はやりの本邦の小説なり映画なりテレビドラマなりに、そのかたがたはもともとかすかに「違和感」を感じていて、「昔のほうが良かった」「あの頃のもののほうが楽しかった」と思っておられたということでは。そういう層が少なからずある、ということは、大衆娯楽はなにも「時代の先端をいく」ばかりが能じゃないだろう、ということに他ならないんじゃないかと思うんですけども。

過去の作品はホンヤさんや図書館にたまってるし、ビジュアル作品は何度も再放送されるし、レンタルビデオ屋さんなどで選択的に見ることだってできるわけですが、「まったく同じもの」では飽きてしまうので、「同じ雰囲気」「同じニオイ」を持ちながら、いちおー新しいもの、新鮮なもの、が欲しいんですね。
バブル期にJJ女子大生だったひとたちが、オクサマになってもVERYでシロガネーゼだったりする、というぐらいで、人間、自分の「青春」の頃にすきだったものは一生忘れられないです。その頃の価値観からそうかんたんに脱け出せないです。
で、
もしおかあさんが「ヨンさまLOVE♪」で、お子さまがラノベだったりすると……その隔絶たるや恐ろしいものがあるよなぁ。

親子で同じものを読んだり視聴したりして互いに感想を言い合ったりすることができないとすると、この隔絶はますます広がるわけで。あまつさえ、小学生の7割が日常的にパソコンを使ってて親世代はコドモがパソコンで何をやっているか知らない、とか? 

小学校高学年ではもう遅い。モノゴコロついた頃から幼稚園を経て小学校低学年ぐらいまでの間に、「ママは、パパは、こんなものが好きだよ」っていうのをコドモさんと共有しておいてほしい、それがコドモさんの人格の基礎工事のコンクリになるだろうし、いったんそれをやってさえおけば、コドモさんがおおきくなって互いのジョウシキがかけ離れても、いったんその土台まで戻ってからつみあげなおしていけば、お互いを理解することが不可能じゃないはずなんじゃないか……と思ったりなんかするんですけど、これは子育てをしていない、ゆえに、45歳にしていまだに「親のコドモ」であるほうのアイデンティティが強いわたしの勝手な妄想でしょうか? フルタイムで外出してシゴトをなさるおかあさんがたが増え、おとうさんも不況で家庭のことどころじゃなく、各家庭でおじーちゃんおばーちゃんとはお盆やお正月にしかあわないもんだったりする今日このごろ、こんな「昭和高度成長期」なら可能だったようなことはとーてーやってられる時代じゃない、のでしょうか?

21 名前 : 時海結以 投稿日 : 2004年06月17日(木) 10時28分13秒
久美先生、ご丁寧かつ説得力あるご意見、どうもありがとうございます。

>タナトス
やおいは次の世代を作る行為と切り離された行動なので、人間という種が滅びるから、少女の反乱でありタナトスだという論を著されたのは、中島梓先生だと私は記憶しているのですが、違いましたら、どなたかご教示頂けますと幸いに存じます。

ともかく、謝ります、すみません。
拙著は殺人シーン満載でございます(大汗)。誰も殺さないつもりだった主人公も、とうとう相手を殺さなければ自分が死ぬ、それはいやだ、と追いつめられてます。
戦国時代という殺人が日常行為だった時代が舞台だからですが、現在でも殺人日常茶飯事状態な国家も、地球上にはありますよね。

しかしながら、自分としましてはある意図がありました。
歴史の教科書とか大河ドラマへの反発です。
出てくるのは、大量に戦で人を殺して(それも偉くなってからは家来に命令して殺させ、自分は無事な場所で手を汚していない)、天下を取った人物がヒーロー扱いされている、そういう勝者の視点からしか書かれていない。それって戦争の正当化と勘違いされても仕方ないかもしれない、こうして歴史は作られたけれど犠牲がここにあったという、反省点を教える部分が足らないのではないかと思いました。
なのでそれとは全く違う戦国時代を書こうと思ったんですね。
かといって、一番最近のこの国で起きた戦争を描くような、どこか被害者意識の滲む作品も書きたくない。

どっちかじゃないですか、一般文学や児童文学の戦争の描き方って、多くの作品が、と私は思ったわけです。
しかし多くの、実際に戦争に巻きこまれた庶民はもう少し違う感覚で、生き抜こう、自分の命を守ろうとした気がしました。
生きるのはきれい事ではない、と。
意図だけは立派で、筆力がついて行っていない自分が哀しいです、もっと勉強します。

アニメやコミックやライトノベルのメカアクション戦争系ストーリーは、多かれ少なかれそういう意図を持って描かれているのでは、と個人的に考え、自分もそれに共感し、ならったわけですが。

すみません、あまりに見当違いだったら、「あんた、バカぁ?」と突っこんでやってくださいませ。

児童文学ではこのごろ援助交際本番シーンが描かれる作品がありますが、殺人本番シーンはまだ、自分が読んだ範囲にありません。
人物表現が記号化されず生身を描く範囲から出ていないのだとしたら、まだそういう命のやりとり地点へは到達というか、認知・許容が追いつかないのではないかと、個人的感触ですが。
どなたかのご教示を求めたいと存じます。

22 名前 : 三田誠 投稿日 : 2004年06月17日(木) 10時50分13秒
はじめまして。業界の端で作家業を営んでいる三田誠(さんだ まこと)といいます。

少し気になりましたことがありまして投稿させていただきました。
>少なくとも、いま、ラノベの中では、殺すものあるいは戦闘するものの立場はけっして憎むべき「悪」ではない。むしろ「そうありたいヒーロー」になってしまってるみたいに見えます。

正直、困惑したのがこの文章です。
過去のライトノベルに比べて、殺すものの比率が増えたようにまったく思えないからです。
例にあげられました『空の境界』に対して、『キマイラ・吼』の殺人が縮小していたり、希薄だったりするでしょうか?
単なる被害者数なら、『ダーティ・ペア』に勝りはしませんし、『女神転生』にも勝てないでしょう。

むしろ、昔がおおらかに人殺しできた(すっと流せた)時代なのに対して、現代が繊細な時代であることが要因かと思えます。
人を「殺せる」キャラクターであるという事実が、読者にとって重要なのです。

そして、もうひとつ重要なことですが、それを肯定的に描いた話というのはほとんどありません。
例にあがった『空の境界』もそうですが、こういう題材ではよくあげられる『オーフェン』『ブギーポップ』『ダブルブリッド』『BLOODLINK』……いずれも殺せる人間を肯定的に書いてはいません。
殺せる技術や能力、覚悟には焦点があたっているでしょう。
ですが、ほとんどの作品のキャラクターは、そのことに悩み、苦しむキャラクターばかりです。
いかにして、自らの殺人能力と向き合うかというお話です。
少なくとも、そういう話が「殺人するキャラクターを肯定的に描いている」ことにはならないと思います。

23 名前 : 投稿日 : 2004年06月17日(木) 11時44分59秒
>くみにゃさん

NO19は、何だか言っていることが、偏っている気がするのですが。
「11歳」「女の子」という点に過度の反応をしていませんか?
「50歳の男性」でも同じような意見を持ちますか?

>彼女を「怪物」扱いするに違いない人間関係の中に戻すための
>表面をとりつくろって感情を抑圧させるかたちの矯正は、

>「怪物」扱いするに違いない
>表面をとりつくろって
>感情を抑圧させる
>矯正

これらの言葉を使うから、マイナスイメージになるのではないですか?
別の言葉にするなら、
「社会復帰のために、周囲に迷惑が及ばぬよう、感情をコントロール出来るようにする」
ということです。
これは他の人は普通にやっていることです。
これをやることが「自分を律する」ということでしょう。
内容的にはマイナスの意味はないと思います。

一方で、女の子の方は、
>歴史に名を残すヒーロー
>その心理的特性を高く認めて
>英才教育
などの言葉で、プラスイメージにしているように見えます。

イメージのプラスマイナスを排除して考えると、
>ぜったいにしちゃいけないんではないかと。
という結論にはならないと思います。

くみにゃさんがどのような意見を持とうと自由ですが、
今回のような、一個人だけで済まない事柄を語るのには、
出来るだけ、イメージが偏らないように書くべきではないかと思います。

24 名前 : ヤン 投稿日 : 2004年06月17日(木) 13時57分51秒
 単純に考えて、物語がこれだけ増えて、読者も子供の頃から様々な刺激に慣れているので、
 自然とより強い刺激を求めて、方法論が過激になっているということもあるかと。

25 名前 : 草三井 投稿日 : 2004年06月17日(木) 13時58分31秒
封さん

草三井です。
「少女」というものにイメージが偏っている、とのことですが。
久美さまの書込みの趣旨は、心理的特性をもったその少女は
まだ幼く、今後の育て方次第ではその特性をもっと社会的に
有益な方向に向けることができる、またそうすべきである、と
いうことだと思います。
まだ若いからこそその特性をうまく使うべきであると。
その特性をあえて削り取ってしまう必要はないのではないかと。

まだ今後どのような成長を遂げるのか未知数である、という
ことで、「少年少女」という存在にある一定の期待をかける
ことはそれほどはばかられることではないと思います。

26 名前 : くぼひでき 投稿日 : 2004年06月17日(木) 14時32分20秒
いっぱいの書き込みありがとうございます(^^。


>風狐さま
また書き込んでくださってありがとうございました。
わたしも、書物、児童文学、とてもとても大切なものですので、「きつくなる」というのはよくわかりますです。


>うたたねこさま
>やりたいのは児童文学やライトノベルが想定する読者へ書いて読んでもらうこと

 こちらが主でしょうね。もし、取っ付きにくいテーマであっても、読みやすいというのが、このジャンルでできるのであれば、それにこしたことはないと思います。ただ、読みやすかった、という判断は、読者によって変わるだろうから、その兼ね合いをどうするかというのも必要になろうかと思います。


>久美さま
たくさん、書いてくれてありがとうございます〜。
 わたしの書き方も、心足らずという面が多々あるのでうまく伝わらないとしたら、こちらのせいでございます。

 さて、「悪」についてですが、それによっていわゆる善的な立場に立つ人間が、カタルシスを得るというのは(それによって悪がヒーローになる)、そのとおりだと思います。
 ただ、喝采を贈られる悪と、そうではない悪(シャイロック的? 書簡中では悪意と書きました)なものとが、やはりあるのではないでしょうか。
 わたしはライトノベルでは、そうした悪意のみで成り立っているものはまだ読んだことがありません。

 そこで「タナトス」。
 いまのライトノベルにもし「死」があふれているとすれば、それは、それこそが、年若い人のための文学ではないからかと思います。
 生きることが難しい(と、「生きる」を乱暴にまとめてしまいます)この世界の中で、自分を確認する作業のひとつに、「死」と「恋」があるのではないかな、と。そしてそこからのみ語られうる「正義」や「信じうるもの(人でも何でも)」があるのではないかと。
「死」や「恋」はとても身近なんだと思いますね。気が付いたのは、このふたつがからんだモチーフとして、そのバリエーションが多いのが、「無償の愛(または、否定しない愛)をくれる人物」の存在があるように思います。

 すべてのライトノベルを読んだわけではないので、統計があるわけではありませんが、「死」や「恋」や「無償の愛」、それにつらなる「正義」などは、主たる読者が渇望しているものが表されているのではないでしょうか。
 生きることそのものを考えるために、その対極にある「死」を考える。まさしく、mement moriによるものではないかと。

 旧来の大きな抑圧を、世間の枠組みの中で正しく作用していたものであるとするなら、現在は、正しく作用していない、別の抑圧があるのではないでしょうか。
 抑圧が薄まったように見える(または巧妙に抑圧が隠された)世の中で、大声で「生の喜び」を謳いあげることがうまくできなくて、けど本来的にそちらを希求する人間であるからこそ、そうした状況の中ではむしろ「死」のほうが、非日常的である分(しかし、ニュースを通じて身近に具現しているように思える分)、直感的にそちらを選択してしまうのではないでしょうか。

 そこで、悪意ではなく、それしか選択することができない状況の中で、人を殺すしかないと追い詰められる登場人物たちのことですが、しかし、その追い詰められ方や、そうした状況の描きかたは、書き方の差・考え方の差に収斂していくように思います。
 そしてそれが読者にうまく届かないとすれば(たとえば、殺人を肯定しているようにしか思えないと読まれてしまえば)、それこそが課題になるものではないでしょうか。少なくとも「こう書いたら、こう読まれた」というふうになる、といった形で積み上げていくのではないかと(けど、ひとつのテクストをある人はそう読まないかもしれないことは留意する必要があると思います)。

 それが、ダサいかどうかは、まったく別のものです。ダサかろうが、信念をもって「この書き方は」「この読まれ方は」まずい! と声をあげる存在も大事ではないかと思います。
 ある表明に対して、どちらかがどちらかを封殺してしまうことこそが、もっとも恐れるべきことですよね、きっと。
 だから、久美さまが、そういう危惧をもたれた、ということは、ダサいことでもなんでもないと思います。

 長崎の事件については、わたしはまだ触れるに足る十分な考察ができていませんが、先日、いじめを苦にした自殺がまた起こってしまいましたね。まだ、ニュースからの伝聞の域でしかありませんが(そして、それは最後まで伝えられてくるものではないですが)、いじめていたグループが指定した男子に対して、「好き」と告白しろと強要し、それを苦にして飛び降りてしまった。
 このふたつの事件が表裏一体であるように、わたしには思えます。
 傷つける対象が、自己に向かうか、他者に向かうか。

 これに大きく結論をつけることはできないと思います。
 そういう事件を前にしてこそ、自分の仕事で何ができるか(作家でなくてもです)考える必要性がある。問題は、そうあるべきなのに、それがうまく機能しないことではないでしょうか。
 考えること、そして意見交換をしたり自分の考えを表明したりすることそのものが、できない空間が、あるように思う。最近、とみにふくらみつつあるように感じる。
 ある事柄について(戦争でもなんでもいいです)真剣に話そうとするとき、「難しいことはわからない」「自分に関係ないから知らない」「悪いことはやっちゃいけない、ってことでしょ。それでいいよね」という感覚が多いように思います。


 投稿20の、ある世代における「過去の作品」または「同じ風味を感じる作品」のヒットについてですが、それについて久美さまは

>大衆娯楽はなにも「時代の先端をいく」ばかりが能じゃないだろう、ということに他ならないんじゃないか

と書かれています。
 これについて思うのは、けどそれは、その人たちが現役の若者だったときの最先端に近かったものではないのか、ということです。
 わたしも『冬のソナタ』は見てないからわかりませんが、それが70年代の少女マンガに類似してるとして、それをたとえば、40代の人たちが見ているとするなら、彼女たちが10代だったときの感覚で見られる、ってことではないでしょうか。
 当時の「大人たち」にはわからないとか誹謗されていたものが、彼女たちが大人になったときには「当たり前」むしろ「古い感触」といったものになっている。
 で、その感覚を呼び起こしてくれるから受けている、とそう考えるのです。

 わたしが楽観するのは、そうした作品にも、今の若い人たちがつくことではないかと思う。
 古い手法とされるものだって、今、現役で使うことができるよ、という提示は必要だと思います。
 とするなら、旧作がリメイクされて出てくるってのは、もっとあってもいいんではないか。
 それが、昨今のリバイバルブームであるのなら、これに越したことはないです。できれば、同じレベルで文芸ジャンルにも起こってくれるといいのですが。

 児童文学でよく行われているのがリライトだと思うんですね。
 旧作を、今の子達が読みやすいようにアレンジして提示する。
 小説などは時代の産物だから、書かれた当時には普通であったことが、今読むと古臭くなっている。けど、その古臭さを払拭して、新しい作品として提示する。
 この意味で、文芸ジャンルで言えば、翻訳物のほうが、作品が長く生かされますよね。新訳がでるってのはそういうことだと思います。
 これが、国内の、ふつうの「小説」「児童文学」「ライトノベル」においても行われていいんじゃないかと思うんです。
 骨組みはいいのだから、現代に合うようにしてみようって。作家本人がしてもいいけど、別の手によってアレンジされるのもいいかもしれない。
(このとき、よく聞くのが「昔の文体のほうがいい」ってやつですけど、それは、テレビでもアニメでも、映画でも、リバイバル時には必ず起きる反応ですから、しかたないと割り切るしかないと思いますが)。

 そうすることで、違う世代間が共通して体験できる事項が増えるんじゃないかと思います。



>時海さま
>殺人本番シーンはまだ、自分が読んだ範囲にありません

 悪者が成敗される、という意味でない、いわゆる殺人と考えるなら、殺人を犯す瞬間まで描いたものであれば、『夜の少年』(ミリアム・プレスラー)があります。
 不可避的ではあるが人を殺してしまったというシーンがあるのが、『ご家庭でできる手軽な殺人』(那須正幹)というのがあります。
 これ以外だと、わたしも、ふっとは思いつきません。
 状況的に人が殺されてるだろうな、というのはいっぱいあるし、被害者側として殺人が描かれたものは多くあると思います。



>ヤンさま
>方法論が過激になっている

 というのには、大いにうなずく部分があります。
 それは殺人だけでなく、性的な表現であるとかでもそうではないかな、と感じるところがあります。
 わたしは、その是非は作品そのもので回答をされていくべきかな、と思います。

27 名前 : 一意見 投稿日 : 2004年06月17日(木) 17時43分34秒
いつもコラムを楽しく拝読させていただいております。
ずっと読むだけのつもりでいたのですが、NO.19の久美さまの書きこみに反応して思わず書いています。

久美さまがご自分の意見を発言されることは自由ですし、そういうふうに感じる方もいるのだなあと思いました。ですが、あの投稿を読んで、こんなふうに感じた人間もいるのだということを伝えたいと思いました。

NO.25で草三井さまが「少女というイメージが」とか「心理的特性を持った」とか書かれていますが、
NO.19の文章はどう見ても、一般的な少女のイメージについて書かれているのではなく、はっきりと「長崎の11才の女の子に関して」と書かれています。ですので、小説のなかの話ではなく、現実に起こった事件、実在する人間に関して書かれているのだと受け取りました。

もしも被害者少女や、その父親や、きょうだいの気持ちを少しでも想像することができるのなら、

>わたしは彼女をこころからスゴイと思い、同時に気の毒だと思います。

などと書けるものだろうか? と思います。
自分の気持ちを抑えきれずに人を殺した少女が気の毒なのですか? ヒーローなのですか?

「異常者扱いにせず」と言っていますが、むかつくことを掲示板に書かれたとか、不愉快なことを言われたとか、そういう理由で(それが動機がどうかはまださだかではありませんが。また複雑が動機があるのかもしれませんが、それをふまえても)、人を殺す人間が、普通ですか?
戦時下とか、異常な状況での殺人とは意味がちがうと思います。

世の中の多くのごく普通の人達は、そこで我慢をしたり、喧嘩をしたり、他で発散したり、あるいは相手とは距離を取ったりするもので、たいていの人はそこで相手を殺しはしません。

>表面をとりつくろって感 情を抑圧させるかたちの矯正は、ぜったいにしちゃいけないんではないかと。

感情を抑圧させる、って、
あの11歳の少女は、「人を殺したい」という感情を抑えることができなかったのではないでしょうか。
そういう性格を矯正することはよくない、という意味でしょうか?
そんなふうに読めます。

>「よい子」に矯正する
のではなく、人として最低限のモラル、社会で生きていくためのごく最低限のモラルをこの少女には知ってもらおうというだけのことではないですか。
自分が殺しておいて、「会って謝りたい」などと発言する少女が、そう簡単に、自分の犯したことをほんとうに苦しむことができるかどうかは疑問ですが。

そして、万が一、たとえ少女が自分の罪の重さに気づいたとしても、決して被害者の少女の命は戻らないし、父親やきょうだいの心が元に戻るわけでもないのです。
一意見として読んでいただければ幸いです。

28 名前 : 草三井 投稿日 : 2004年06月17日(木) 21時14分31秒
長崎の件につきまして。
じっくり考え直してみましたところ、たしかにご家族への配慮が
欠けたものでございました。
ほかにも考えの至らぬ発言がございました。

心よりお詫び申し上げます。
若輩者のたわ言とお聞き流しくだされば幸いです。

29 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月17日(木) 21時45分41秒
ごめんなさい。すみません。実は19を書いたあと草三井さんに相談してヤバそうだったら消してくれといった卑怯者のわたしだったのです。やはり問題になりましたね。

11歳だとか14歳だとか17歳だとか、年齢でなにかを判断するのはアブナイとはわたしも思います。
ただ、あの事件の、あくまで報道されたものを見聞きしてですが、もっとも強く感じたのは「してはいけないといわれていることをしたくなってしまった」ことのほうではなく、誰もたよれない状況で「ひとりで打開策を必死に考えて行動にうつした、やろうと決めたことは確実に実行した」その実行力のほうだったんです。
それほどの能力を、あまりにもバカらしい方向に(と、あえていってしまいますが)使ってしまったこと、強く敵視したのが小さな小さな学校という閉ざされた人間関係の中でたまさかこじれてしまったにすぎない相手だったこと、自分の傷を表現するために相手を死という再起不可能な状態にまでやっつけてしまったことは、みな、確かに、とてもよいこととはいえません。幼いし、短絡的です。
ただね、せっかく持っているその能力そのものを否定してしまったら可哀想だとわたしは感じてしまったのです。

>感情を抑圧させる、って、あの11歳の少女は、「人を殺したい」という感情を抑えることができなかったのではないでしょうか。
そういう性格を矯正することはよくない、という意味でしょうか?

感情と性格とはまるで違うものだと思います。
また、どんなに大勢の他人にとってそのほうが望ましいとしても、持ってうまれた「性格」を他人の都合で矯正されることは、とびぬけた個性にとってはどうしたって苦痛であるだろうと思います。
一般論として、社会というのはかならずそこここに小さな齟齬のあるものですから、その齟齬に敏感に反発してしまう、つまりなんらかのかたちで不適応してしまう性格(キャラクター)は、矯正するか幽閉するか抹殺するかしてかまわない、しなければならない、と言い切るとしたら、そりゃファッショです。
わたし自身は殺人を肯定しませんし、殺されたくもありませんが、ヒトゴロシをしたいと思って実行にうつし成功してしまうひとが数の中にいるのは「しょうがない」ことだと思いますし、小説家としては、そのようなひとのことも、できるならよくわかりたい、自分のことのようにわかってみたい、と考えます。なにしろ太古の昔から人間社会の中にずーっといつもなぜかなくならない、どうしても現れるひとたちなのですから。

かつて、まったく無関係の婦人を殺して「ひとを殺すという経験がしてみたかった」と言った当時17歳の少年がいました。このひとの場合は、ムシやカエルを殺してみる延長に人殺しがあったみたいに聞こえる。誰だって蚊はつぶすし、どこかで殺されてパックづめにされた動物や魚や野菜を食べる。彼とわたしたちとに、本質的にどういう差があるのか、あるいは相対的な程度の差でしかないのではないか、人間は、蚊やマグロよりもそんなにエライのか? 考えこんでしまうワタシには正直、まだ「コレ」という答えが見出せないのです。ふつう人間は、同属は食わないし殺さないものですが。社会の暗黙のルールがありますから。ルールだから一応守る。じゃあ、どんなルールでもいつでも完璧に守るかというと……スピード違反や駐車違反、あなたはぜったいにしませんか? カンニングは? 

今度の彼女の場合はその17歳の彼とはちょっと事情が違うでしょう。彼女の本心はわからないので、あくまで、たぶん、の話ですが、「ともだち」だから、殺したように見えます。
「誰かを殺してみたかった」わけではなく「あいつが許せない→殺してやる」だったように見えます。
正直驚きました。昨今のわかものはどちらかというと、人間関係に関してもっとクールなように感じていたので。ストーカー的になってしまった恋愛関係ならいざしらず、単なる同級生に対して、愛憎とか怨恨とかがそこまで深まるというのは、きっとよほどのことがあったのだろう、とわたしは感じました。他人から見て「そりゃムリもない」と感じられるかどうかはわかりませんよ。そもそも彼女の場合の実際のところはわかりませんよ。
しかし、女子同士のなかよしグループ関係は、しばしばどうしようもなく残酷です。わたし自身、ちょうど彼女とおなじぐらいの年頃に、陰湿なイジメや無視にあって、もう耐えられない、と感じたことが何度もありました。過ぎてみればバカみたいなことに、幼い心は容易に傷つき、くじけそうになります。誰かにグチをこぼすなり、どこかよそに居場所をみつけるなりできればいいのですが、……それができないなら、黙って耐えるか、反撃するしかない。

黙って耐えるひとのほうが多いでしょうし、社会はもちろんそちらをすすめます。醜い面や弱いところは隠して見せない、言わない、ともだちとはとりあえずナカヨシなふりをしていればそれでいい、ほんとうのホンネは「親友」にも「家族」にもぜったいに言わない、みたいな、そんなふうに表面的をとりつくろった人間関係が、かなり多いのではないかと思います。
でも、そっち方面でなんとかしようとするあまり、自分がガマンすることでなんでも乗り越えようとするあまり、リストカットやひきこもり、摂食障害、ウツやパニック障害、家庭内暴力、そしてついに「キレた」結果の種々の犯罪が起こるのではありませんか? 

だから……ともだち、あるいは同級生、たまたまクラスメイトになったにすぎない同年齢の他人に対して、そこまでビビッドな、制御しきれないほどの感情を「持つことができた」ということそのものは、良いこと、素晴らしいことではないか、とわたしは思いました。それほどのエネルギーは真逆に方向を変えれば、ものすごい慈愛にも献身にもつながりうる。そんなふうに感じるのはわたしの「願望」かもしれませんが。
善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや、といいますから。

一意見さまはたぶん、優しくて、穏やかで、真面目なかたなんだろうと思います。

わたしは、すみません、そうではありません。たいそうな悪人です。かなりどろどろしたものを心の底に抱えていますし、そーとーイジワルだし、ジコチューです。そしてそういう顔はたいがいはうまく隠蔽しておくウソツキでもあります。

>人として最低限のモラル、社会で生きていくためのごく最低限のモラル

わたしはひとがみな生まれつき十分なモラルをもっているとは信じておりませんし、いまのこの社会をその構成員全員がその生命や幸福や快楽を二の次に投げ出してまで守る価値があるほど素晴らしいものだとは感じておりません。
つらいことがあっても多少のことは辛抱して忍耐してとにかく世間に逆らわない波風たたせない日常を生きて生きたいと思うひとびとがいるということは頭では理解しています。しかし、同時に、ただ耐えてガマンして他人にあわせて生きていくことにどれだけの意味があるのだろう? 誰だってみんなどうせいつか死んじゃうのに? この自分がここにいまいるのはこれっきりで、たったいちどの人生なのに? と、感じてしまう部分もあるのです。

彼女が実際のところどういうひとなのかはわかりませんが、はみだしたかったわけでもないだろうになぜかはみだしてしまうひとたちのことを、あれは異常だから、不適応だからと、切り捨ててしまったり、その異常性が発揮されないように去勢してしまったり隔離してしまったりすることにためらいがないような世の中だったら、わたしはそんな世の中のほうがひとりの異常者よりずっとずっとコワイと思います。
現状にうまく適応できないひとが実際少なからずある以上、いまあたりまえだとか普通だと言われていることのほうに、すでに破綻があるのではないかとわたしは思います。

そういう意味で、封さま、
>「社会復帰のために、周囲に迷惑が及ばぬよう、感情をコントロール出来るようにする」
には、諸手を揚げて賛成しかねるのです。
あれだけのことがあんな若さでできてしまうひとをどうして「平均的な普通の」人間のほうにひっぱりこまなければならないのでしょう?
いまの日本には「仕置き人」とか「殺戮奇術のなんとか」とか、レオンみたいな暗殺・狙撃のプロは、確かに必要とされていないかもしれませんが、たとえば、スポーツの分野には、弓道、アーチェリー、射撃など、もともと殺戮のための分野であったものが昇華したジャンルがたくさんあります。そんな方面なら、彼女は世界的レベルのすごい才能を発揮できるかもしれない。だとしたら、むやみに「やめろ、なおせ、そんなやつなままでいけはいけない」と矯正するより、すなおに伸ばせと、問答無用で否定するのではなく、できるかぎり多く彼女の現状を肯定して社会の中でその特別の能力が十分に発揮できるようなかたちを、彼女にも適応できる居場所を、どうか見つけてやって欲しい、とわたしは思ったのです。



30 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月17日(木) 22時43分20秒
三田誠さま。

>いかにして、自らの殺人能力と向き合うかというお話です。

はい。『空の領域』、まだ上巻の半分ぐらいまでしか読めていないのですが、なるほど確かにだんだんそういう方面になってきましたです。すみません。短絡でした。
ただ、最初の章、一見「このいまの現実」とたいへん近い世界の中で、いきなりああいう場面がでてきて、すぐそこをまったくなにごともなかったかのように平然と歩き続けるようなキャラクターが登場したことが、わたしにはあまりにもショッキングだったのです。

獏さんや高千穂さんのお描きになった小説は、舞台が最初からあきらかに「異世界」で、登場人物たちがほとんどの場合あきらかに「格闘技」を戦うプロの戦死たちみたいなものだったので、だったら生命を賭して戦ってみせてもらっても(プロレスを見るように)抵抗がなかったのかもしれない。もっいも、高千穂さんは、ほんの一行で、惑星いっこあっけなく吹っ飛ばしたしていますから、いわゆる民間人も膨大な数の犠牲になってはいるんですけど……たしか、破壊されたみたいに書いてあるだけで描写されてなかったですから、リアルな悲劇の実感はなかったしなぁ。
また、あの頃はまだ、ごくふつうのひと、特に若年層による残虐な事件がそんなにたくさんは目につかなかったような……あるいは、実はあっても報道されなかっただけなのかもしれませんが。

ことばを重ねれば重ねるほど、無知を晒し、矛盾を晒し、どんどん墓穴を掘っているような気がしてきましたが、

十代で、まだその日常に「ふつうの高校生」だったり「ふつうの中学生」だったりする側面ももっているキャラクターたちが、日常的に死んだり殺しあったりしているものが、ラノベではとっても高い人気を博しているように見えるんですが、気のせいでしょうか?
また、ほんの小学生ぐらいの年代のことに女の子が、戦闘や格闘技が妙に得意だったりなにげに刃物やチェーンソー振り回したりする様子が、ギャグっぽく楽しげに書かれているものも多いように思います。
たまたまそういう印象をうけるようなものを、続けて読んでしまっただけかもしれませんが。
ちなみに『空の境界』のちょっと前に読んでたのは西尾維新さんの戯言シリーズなんですけど。
最近読んだライトノベルに入るレーベルで、暴力シーンや血がまったく出てこないものをなんとか思い出そうとしても、……うーん、ちょっと思い浮かばないです。昼間、極楽トンボさんから是非にとススメていただいた『銀盤カレイドスコープ』はたぶん違うと思いますが。このところ、ほぼランキングや話題にあわせて手にいれたつもりなんですけど。

正直、わたしは、そういうものばかり読むのがちょっと精神衛生上ツラクなってきたので、仏教関係の本とか、橋本先生の美についてのご本とか、重松清さんのとか、「違う世代」のかたがたの書いたまるで別の種類の本をときどき「間にはさんでココロを休ませずには」読み続けられなかったりしました。

上で書いた長崎の女の子の事件に対して抱いた感情とはわれながら矛盾するんですけれども、
あんまりしょっちゅうひとの死にすぎるものや主人公集団が乱暴すぎたり殺しすぎたりするものばかりを読みふけってしまうと、影響されて、死とか殺人とか暴力とかに対して、どんどん慣れてしまうのではないかという危惧も抱きます。
たとえ、暴力をふるうことにキャラクター自身がかなり深刻に悩んでいたとしても……ミジメに負けてしまうぐらいなら先にやっちまえ、みたいな気分を、焚きつけている面があるのではないか。

そういうものがあってももちろんいいんいですが、そういうものばかりになっちゃったら、ちょっとなぁ、と思います。

そうでなくても、現実のほうも、テロだ戦争だとなにかとキナくさく、個人情報は漏洩するわ、自動車メーカーはクレームを隠すわ、オレオレ電話はかかってくるわ、エスカレーターでは鏡でパンツをのぞかれるわ、盗聴だの盗撮だのされまくわ……ボーッとしていると「いつどこで誰にカモられるかわからない」「どんなひどい目にあわされるかわからない」世の中。

小説ぐらいはもっと夢を……特に若いひとに向けに書かれるものには、もうちょっと穏当で楽しく愉快で明るくさわやかで、もしもどうしようもなく戦うんだとしてもちゃんと凛々しく戦って、正義が勝つような、いいひとが報いられて悪いひとが反省するような、……イヤなやつは殺して滅ぼすのではなく、できれば、理解して許して仲直りするとか改心させてそのひとにも場所を与えてあげられるようなものが……たまには……いや、バランスの点からすると、できれば、もうちょっと多く、あったっていいのではないか、というような気もします。甘い?











31 名前 : 三田 誠 投稿日 : 2004年06月17日(木) 23時13分11秒
丁寧なお返事ありがとうございます。

>舞台が最初からあきらかに「異世界」で、登場人物たちがほとんどの場合あきらかに「格闘技」を戦うプロの戦死たちみたいなものだったので

ひょっとしたらそう言われるかと思って、『キマイラ・吼』と『女神転生』を持ってきたのですけれども、ひょっとして『ダーティペア』以外はお読みになられてなかったでしょうか? そうでしたら説明をいれなくて申し訳ありませんでした。
『キマイラ・吼』も『女神転生』も、「ほとんど現実と同じ世界」で「普通のはずだった高校生」が血みどろの宿命に巻き込まれていく物語です。

『ウルフガイ』の流れを汲む物語たちといえば、分かりやすいでしょうか?

つまるところ、これらの物語はずーっと綿々と若者たちに人気のある物語なのです。
で、血みどろさや陰惨さ、そして暴力への肯定についていえば、『ウルフガイ』とあの時代がいまだ頂点です。最近出た作品では『デビル17』が近い傾向をもっていますが、ことえげつなさでは到底及びません。
そして、今あのレベルの殺人キャラクターを出しても、読者にはちょっと受け入れがたいでしょう。その点をさして、昔よりも「殺人するキャラクター」が好かれているとは思えないと申し上げた次第です。

>最近読んだライトノベルに入るレーベルで、暴力シーンや血がまったく出てこないものをなんとか思い出そうとしても、……うーん、ちょっと思い浮かばないです。
>小説ぐらいはもっと夢を……特に若いひとに向けに書かれるものには、もうちょっと穏当で楽しく愉快で明るくさわやかで

おそらく、「このライトノベルがすごい!」ランキングにあわせて購入されているせいでは?
ほかに指摘されている方がいましたが、ここのランキングはやや「重めの文学指向」があります。軽くて明るいものを好む読者はわざわざ投票企画に参加しないわけですから。

すぐ思い浮かぶところで、『マリアさまが見てる』だとか阿智太郎氏の諸作品だとか『気象精霊記』シリーズ(特にぷらくてぃか)とか『まぶらほ』とかはとても人気がありますし、けっして少数派ではありませんよ。

32 名前 : 三田 誠 投稿日 : 2004年06月17日(木) 23時22分37秒
申し訳ありません。
先の投稿で見落としがありましたので、つつしんで訂正させていただきます。

『まぶらほ』は長編バージョンには、暴力シーンも含まれていました。常にほんわかしているのは短編バージョンの話ですね。

訂正ついでに、非暴力で人気のあるライトノベルをあげますと『天国に涙はいらない』『新フォーチュンクエスト』(これはギリギリラインかな?)、『涼宮ハルヒの憂鬱』などがありますね。

33 名前 : 風狐 投稿日 : 2004年06月18日(金) 00時19分37秒
>久美先生

人間とは、社会的な生き物ですので、つまり、
「他者を大事にする」ことで、みんなで助け合って生きてきた
生き物ですので…
同族ののどを、カッターで深く切り裂くような少女は、
「矯正」されないと、人として生きていけないと思います。
そのままでは、人の輪の中に入れません。
どこかの孤島で生きていくというならともかくとして…。

>18
>(という点で、オトナが安心してこどもに読ませたがる
>児童文学の方面はどうなっているのか気になります)

殺人を肯定的に書いたら、たぶんその原稿は日の目を見ないでしょう。
そもそも、そういう資質を持つ作家は、児童書には来ないと…。

それと、「子どもに読ませたがる」という表現がどうも…
それは少しばかり、古い表現じゃないかと。
今時の子どもは、主体的に本を選書して、読んでいますよ。
少なくとも、本が好きな子は、好きで児童書を読んでいます。
ライトノベルスや、おとな向けの本といっしょに。

このへんの児童文学を見る視点の「古さ」は、くぼさま時海さま
にも感じているのですが…。
旧態依然とした児童文学は、もう滅びつつあるのに、その場しか
たぶんご存じないのでしょうね。
なんかここにくると、タイムスリップしてるような気がするん
ですよ、実は。自分が属している業界の話とは思えない。

34 名前 : ヤン 投稿日 : 2004年06月18日(金) 00時41分06秒
 フィクションの影響力、というのは難しい問題ですよね。

 殺人事件や、残虐な暴力事件を起こした犯人が(特に少年が犯人の時)、
 暴力的な描写の多い作品を所持していたら、まず間違いなく「原因捜し」が
 始まりますよね。
 「最近の、過激な暴力描写を含む漫画や映画、ゲームの影響が大きい」と
 コメントする「識者」が、さも世間の声を代表しているかのような顔で登場します。

 これに対して、良識ある人間であれば「問題の本質は、家庭や教育の環境にある。
 フィクションに影響されたから事件を起こしたなんて理屈はおかしい」と反論します。

 しかし、これは言葉を変えれば、「フィクションに人間の心を動かす力なんて無い」
 と言ってるのと同じです。

 これって、作家という立場の人間としては、素直に頷いてよいのでしょうか?
 作家を志す人間ならば、「物語の持つ力」を信じているのでは?

 信じているとすれば、プラスの影響だけでなく、当然マイナス方向の影響だって
 認めざるを得ません。
 100パーセントがフィクションのせい、なんてことは有り得ないとしても。
 少なくとも、フィクションには「犯罪行為を誘発するだけの影響力もある」ことを
 常に自覚しておく必要はあるかもしれませんね。


> 三田誠
 横から口を挟むことをお許しください。

 確かに、日常の中に暴力や殺人がある、という作品は昔にもありました。
 しかし、絶対数としてはそれほど大きなパーセンテージでは無かったと思います。

 久美様が驚かれたのは、「少年少女がメインターゲットのライトノベルで、そういった
 要素を使っている作品が、大量に増えている」ことではないですか?
 昔に同じような作品はあったかどうか、ということは、久美様は主題にしていないと
 私には読めたのですが、どうでしょうか。

35 名前 : 投稿日 : 2004年06月18日(金) 01時16分15秒
皆様、こちらの掲示板には初めて書き込ませていただきます、空と申します。よろしくおねがいします。

私のような無学の者が横槍をいれるのはどうかと思いましたが、少しは皆様のお役にたてるのではないかと思い、書き込ませていただきます。

まず最初に、私の立場を明らかにしたいと思います。
私はどうも久美さまの意見には賛成しかねます。
その理由について少しづつ話していこうと思います。

まず最初に、物語においての死というものについて書きたいと思います。
物語と死というキーワードで私が最初に思いついたのは、
大塚英志『人身御供論』角川文庫
でした。
かいつまんで話しますと、ビルドゥングス・ロマンにおいて、死・殺害というものが転機として利用された、と書かれておりました。
それは、通過儀礼において生と再生が重要なキーワードとなるからであります。
死を乗り越えることで大人になる、殺害することで大人になる、そういうことです。
くわしくは読んでみてください。
つまり、私がなにを言いたいかともうしますと、物語において、とくに大人になろうとする少年・少女が読む物語において、死が描かれることはつい最近の傾向でも、否定されるべきことでもないということです。
ですから、No.18のタナトスについて久美さまが書かれているような心配はされなくてもいいことだと思います。
むしろ物語においてかわりに殺害してくれることは、自分がしなくても良くなることですから、歓迎すべきことかもしれません。

次にライトノベルと死についてですが、上記のような理由で、ライトノベルに死がよく出てくるのはしょうがないことだとお思います。
それに三田誠さまがおっしゃっているように、けしてライトノベル作家の方々は生をかろんじておられるようなことを書いてはいないと思います。

次に移る前に、これから書く話題について考えるための私の足場についてはっきりさせておこうと思います。
これは、私も先週の講義で習っただけですので誤りがあるかもしれません。
ですからぜひ、誤っている場所は、ご指摘くださるとありがたいです。
特に久美さまは、哲学部で学ばれたということですので、私なんかよりは数倍どころか千倍二千倍ご理解されているかも知れません。

アダム・スミスの道徳感情論という名書があります。
ここでスミスは同感によって人間関係が作られていると述べております。
観察者は想像上の境遇の交換により当事者の情念を理解できる。
当事者は観察者がついていける程度にかれの情念を低める必要がある。
そうすることで協和音的な人間関係が形成される。
ということらしいです。
おもいっきりプリントを写しました。
私もよくわかっていませんが、
当事者は理解してもらうために情念を抑えなさい、そうすれば観察者は同感してくれます、とスミスは言っているのだと理解しました。
同感されないとどうなるか、それはイラクで拉致された三人の方のご家族に中傷や非難が集まったように、観察者は当事者を排除しようとするでしょう。

で、それでなにが言いたいかと言いますと、久美さまは頭の中にある少女に同感していまして、封さまや一意見さまは同感できなかっただけであるということがひとつです。
別に話し合うことを否定しているわけではございません。
話し合いによって理解することもあるということは、私にもわかっております。
私が批判的に見ているのはそこではなくて、久美さまの同感の仕方です。
久美さまは先ほどもうしましたように、頭の中の少女と同感しているのではないかと考えます。
しかし、私は少女とは同感できないものだと考えております。
彼女は異常者です。
殺人するものと自殺する者についてどなたか書かれていたと思いますが、私はどちらも異常者であると確信しております。

ここまで読まれた方は気分がわるくなられていると思います。
しかし、私がそう考えるには理由があるからです。
私は、つい最近まで、自殺したいと思っていました。
それはちょっと自分には無理だと分かっていましたから、事故でも起こって死にたいと思っていました。
同時に、今まで会った嫌なやつを殺してやりたいと思っていました。
そのときの自分というものは、今とまったく違う、異常なものだと確信しております。
だって、まったく理解できませんもの、過去の自分が。
同感できないんです。
情念が高すぎるんですね。
そのとき私が考えていたこととか、したかったこととか、望んでいたこととか、やっていることとか、まったく同感できません。
もうそれは異常だったとしか言えない。
このことが皆様に伝わるかどうか自信がありませんがとにかくそうなんです。
そうすると、異常だった私にできなかった、殺人や自殺ができた者が異常でないとは、私には到底言えない。
私は少女自信はあまりに情念が高すぎて、誰にも同感できないと考えます。

では、なぜ久美さまが少女に同感できているように見えるのかというのは、私は次のように推察しました。
久美さまは自分の頭の中で少女の情念を低く見積もっているのだと思います。
ご自身でもおっしゃっておられましたが、これは久美さまが小説家であることと不可分なのではないかと思いました。
小説というものは、一部をのぞいて、読者に同感してもらうことでなりたっていると考えます。
ですから、異常者というのはほんとに一部の小説にしか出てこないでしょう。
殺人者でも殺人する理由が必ずあると思うんです。
主人公がほとんど何も考えずに敵を殺すと書かれていましたが、そんな物語はウルトラマンとか仮面ライダーとか、一部にかぎられてくると思います。
だって、物語って葛藤があって、悩まないとおもしろくないし、同感できませんもの。
そう考えると、小説家という職業についてらっしゃる久美さまが少女に同感をおぼえるというの、はとても興味深いことです。
でもそれは、キャラクターとしての少女でないですか?
本物の少女ですか?
久美さまの言葉を拝見しましても、そうは思えない。

それなのに、
>わたしは彼女をこころからスゴイと思い、同時に気の毒だと思います。
>だから、自分を「凡庸な俗物・愚民ども」のワンノブゼムではなく、あくまで特権的で突出的で世間の注目を集めるヤツにしたいなら……他人の思惑に踊らされるヤツではなく、ジリツしたジブンであろうとすると……なんと、いっそ優れた「殺人者」にでもなる他ない! という考えが(わたしは短絡だと思いますが)芽生えてしまう場合があるのではないか。
といった発言は不適切だと感じざるをおえません。

ここまでとってもとっても批判的に久美さまの意見について論じてきましたが、久美さまの意見について全否定する気はまったくありません。
しかし、もうひとつ言わせてください。
やはり異常であるのですから、良いところをのばすというの前に、多少の矯正は必要なのではないかと思います。
同感によって、異常を認めないのでは、やはりその人のためによろしくない。
人間、人を殺したり、自分を傷つけたりして生きたくないですから。
そうして最後には、本当に被害者やその周りの人に同感してほしい。
私はそう願っています。

最後に話は変わるのですが、久美さまの掲示板、そしてこの掲示板において、数々の無礼な言動、申し訳ございません。
ものすごい後悔でいっぱいです。
今回もこんな駄文を長々と書いてしまい、反省しております。

36 名前 : 三田 誠 投稿日 : 2004年06月18日(金) 01時20分19秒
>「少年少女がメインターゲットのライトノベルで、そういった
 要素を使っている作品が、大量に増えている」ことではないですか?

はい、それはそのとおりです。
ですが、あの時代=1970年代初頭にはライトノベルは生まれていないので、完全な比較はできません(本当に小中学生向けになっちゃうのですね)。
なので、現在のライトノベルのメインターゲットであるところの「十代後半から二十代をメインターゲットとした作品群」という形で書いたつもりです。
ライトノベルのメインはそこじゃない、という方もおられるかもしれませんが、現在の基礎となる層はここで間違いないかと思います。

なので、「ウルフガイとあの時代」という風に書きました。
この時代、十代後半から二十代をくぎつけにした小説という意味なら、確実に『死亡遊戯』や『ウルフガイ』を筆頭とした暴力ものがあがってくるからです。

明らかに子供向けに限定するならば、おそらく小説よりも漫画のほうが印象が強いでしょうか。
当時の漫画であれば『愛と誠』『男組』『デビルマン』など、非常に日常での暴力描写の多い漫画が週刊少年誌に掲載されていた頃です(多分今のジャンプやマガジンでは載せられませんねw)。
その比率は、今より少なかったとはいえないと思います。

私的な見解であるならば、十代後半が主に読む(この意味で少年向けとは異なるのは事実です)、小説の暴力描写・頻度は七十年代にピークを極めていたと思うのです。
同時に、漫画においては、間違いなくピークの時期でした。

37 名前 : くぼひでき 投稿日 : 2004年06月18日(金) 02時44分17秒
>風狐さま

書き込み、ありがとうございます。

投稿33における、
>殺人を肯定的に書いたら、たぶんその原稿は日の目を見ないでしょう。
>そもそも、そういう資質を持つ作家は、児童書には来ないと…。
について、
書簡では
>完全な悪意を肯定しない
と、わたしは書いたのですが、
その意味であれば、よくわかる話です。

そこで、もう少し勉強させてください。

同じ投稿33の
>このへんの児童文学を見る視点の「古さ」は、くぼさま時海さま
にも感じているのですが…。
について、どのあたりが古く感じられ、
かつ、どのようなのが新しいのかを教えていただけたら、と思います。

もうひとつ(わがままでごめんなさい)、
旧態依然とした児童文学が滅びようとするとき、その古典的価値は別として、それら滅びようとしている部分に該当する作品は現実の人々にとってどのような意味を持つのでしょうか。
まったく意味を持たないのでしょうか。

新しく出版されている作品を見回したとき、その古さ・新しさについて、わたしが見当違い(または不勉強)であるのなら、その潮流を具体的に示唆していただければ幸いです。


38 名前 : 海燕 投稿日 : 2004年06月18日(金) 02時46分01秒
すいません。われながら異様に長いです。適当に飛ばしてください。ああ、来年は僕も正式参加して、コラムで書こ。

>彼女は異常者です。

この話題は、掲示板の趣旨から逸脱しているのでこれくらいでやめておいたほうが良いと思うんですが、これは「異常」という言葉の定義の問題にすぎないと僕は思います。理解できないものが異常なら、天才なんてみんな異常ですよね。ひとはじぶんに理解できないものを畏れ、それについて「物語」をつくろうとする。それが「動機探し」でしょう。しかし真実は藪のなか、もはや本人にすらわからないかもしれません。それから、森博嗣「黒猫の三角」、京極夏彦「魍魎の匣」、乙一「GOTH」など、昨今の本格ミステリでは「動機なき殺人」を描いたものがむしろ主流になりつつあります。

これについては、ぜひ「魍魎の匣」を読んでほしいですね。傑作です。僕もべつに殺人を肯定はしません。迷惑だから。殺されたくないから。しかし、どんな安全な社会にあっても、殺すものは殺す。それは事実であって、ある意味、避けようがない。そしてひとたび殺人者が出たら、その人格をなんとかまわりに迷惑じゃないように修正するか、殺すしかないんだけれど、それはようするに社会のエゴに基づく安全管理の問題であって、当然ながらべつに偉いことではなく、正義でもない。

「黒猫の三角」から台詞を引用させてもらいましょう。「沢山の固定観念が作られる。どんどんどんどん、その固定観念で人間は鈍化していく。それが、歳を取るってことだ。何故か? それが一番安全で、楽ちんだからです。人を殺すことは道徳的でない。年寄りはいたわるべきだ。友情は美しい。努力は報われる。こういうのって、いったい何でしょう? どこの誰が、こんな陳腐な法則を考え出したんでしょうね?」。そして、「遊びで殺すのが一番健全だぞ」「仕事で殺すとか、勉強のために殺すとか、病気を直すためだとか、腹が減っていたからとか、そういう理由よりは、ずっと普通だ」。

>フィクションの影響力

例の11歳の少女は傍迷惑にも「バトルロワイヤル」を読んでいたそうですが──おかしいな、あれをまともに読んだら殺人なんてしないはずなんですが。「簡単に人を殺すような奴は、結局だれも信じられなくなり破滅する」ということがわかるから。畢竟、ひとは自分の読みたいようにしか本を読まないわけで、一冊の本がだれにどのような影響をあたえるか、それはもはや想像の外としかいいようがない。もし読んだらひとを殺したくなるような本があるとすれば、それは空前の大傑作としか呼びようがないし。

これに対して、読んだら自殺したくなるような小説というものは、「人間失格」とか「若きウェルテルの悩み」とか、たしかに存在していて、実際それを読んで死んでしまったひともいる。つまり人間というものは殺人の抑制より自殺の抑制のほうが弱いということなのかもしれません。本の影響を受けて自分を殺しはしても、他人を殺しはしない(ことが多い)。とはいえ、何事にも例外というものがあるわけで、確実に数知れない殺人者を生んでいる本の名前も、まあ思いつかなくはありませんね。聖書とか。

>10秒でわかる(かもしれない)「冬のソナタ」(ネタバレあり)

「実は君たちは兄妹だったのだ!」「がーん!」「実は違ったのだ!」「がーん!」「かれは交通事故に遭ってしまった!」「がーん!」「おまけに記憶喪失になってしまった!」「がーん!」「と思ったら記憶を取り戻した!」「がーん!」「でも失明してしまいそうだ!」「がーん!」「それでもきみを愛しているよ」「うっとり」という話だったような、違うような……。ツッコミいれながら見ているとけっこうおもしろいですよ、このドラマ。20代男性でそう感じるのはマイノリティかもしれませんが。

ここらへんのプロットというものは、70年代少女漫画や2000年代コリアンドラマがどうのこうのというよりは、人間が普遍的におもしろいと感じる物語の原型なのではないかとおもいます。人間精神の地下鉱脈のいたるところに無尽蔵に埋まっていて、各時代各地域のクリエイターがそれを掘り出して新作をつくる。人類がオーバーロードの善導を経て集合的超意識への進化を遂げでもしないかぎり、おそらくは2030年にも、2050年にも、この種の甘ったるいメロドラマは生き延びているでしょう。

メディアそのものはナノ投影3Dスクリーンになっていたりするかもしれませんが、それでも本質的にはなにも変わらないはず。ライトノベルにしてもほんとうに先鋭的なものはごくわずかで、ほとんどは古い酒をあたらしい皮袋に入れた類のものに過ぎません。世代間における価値観の落差は、文化の変容の速度が増すにつれてたしかに拡大していくでしょうが、それでも「ロミオとジュリエット」の変奏曲が消えてなくなることはないと思います。人間は変わるものですが、同時に変わらないものでもありますから。

>予約して買った『空の境界』を読み始めましたが、「ひとの死を目の前にしても、とりたてて騒ぎもしない」登場人物たちに、すでにかなり衝撃をうけているわたしです。

ここらへんの「日常的な死」の感覚は、ひとつライトノベルを離れて、最近の若手注目株の作家の作品には、通底音として流れているような気がします。たとえば乙一「GOTH」。優しさや慈しみなどポジティヴな感情をほとんど持たず、その代わり殺人や死に強い興味を抱く「GOTH」と呼ばれる人種を描いたこの作品は「ザ・スニーカー」に連載されたものが単行本化されたとき、大きな反響を呼びました。この小説では「死の重み」は徹底的に欠落しています。

ひとがひとり死ぬということはとんでもないことで、死体を見つけたひとはきゃーと悲鳴をあげ、まわりの人間はどたばた大騒ぎするものである──という「常識」を、乙一の天才は嘲弄する。まさに「ひとの死を目の前にしても、とりたてて騒ぎもしない」ことのほうが、むしろあたりまえのことなのではないかと確信しそうになるほどに。こういった感覚をライトノベルの世界に持ち込んだのは、おそらく上遠野浩平衝撃のデビュー作「ブギーポップは笑わない」でしょう。

この作品では、きわめて重要な登場人物でも、実にあっさりと死んでいきます。伏線もなく、前触れもなく、ちょっとした偶然でかんたんにその人生は手折られる。この物語の舞台となる学園には、女子学生に化けた「マンティコア」とよばれる怪物が潜んでいて、学生たちを殺しつづけているのです。あたりまえの顔をしてとなりに座っている同級生は、ひょっとしたら「人喰い」の化け物で、どこへとも知れず失踪してしまった友人は、ほんとうはそいつに喰われているのかもかもしれない──現実的に考えれば到底ありえそうにないこの設定には、しかし奇妙な迫真性があります。

それはここで描かれている「命の軽さ」が、時代の空気を敏感に反映したものだからでしょう。今日び、大人たちは口を揃えていいます。「命は重い」「命は貴重だ」「いまどきの子どもは命の大切さをわかっていない」。しかし、ほんとうにそうでしょうか? どこかに綺麗ごとの欺瞞が隠されてはいないでしょうか? 「ブギーポップ」における「命の軽さ」には、そんな欺瞞を吹き飛ばす爽快さがあった。人間はちょっとしたことでたやすく死んでしまう儚い存在に過ぎないという事実。そして倫理で縛っても、道徳で絡めても、それでも殺すものは殺すのだという現実。

このふたつのファクトから目を逸らさず誠実に物語を綴ったところに上遠野浩平の成功の所以の、すくなくとも一端がある。三田さんが仰られるように、作品内における死亡者の数や、表現の残酷さといった点では、おそらく70年代、80年代の小説からそうひどく過激化したというわけではないでしょう。しかし、「死のリアリティ」が希薄化していることは、たぶん間違いない。これは「生のリアリティ」が薄れていることと裏腹で、つまり生と死、現実と虚構を隔てる狭間が急速に希薄化していることを意味しているのではないでしょうか。

これらは肉体感覚のリアリティが薄らいでいることとパラレルであるような気もします。70〜80年代の伝奇小説の傑作といわれるものには、平井和正や夢枕獏の作品は端的な例ですが、総じて強烈な肉体感覚があります。同時代の少年漫画を見ても、「北斗の拳」「魁!男塾」などにはまだまだ肉体信仰が残っていた。しかし「空の境界」の主役を務めるのは、きゃしゃな美少女、両儀式。彼女の持つ能力は「死」という「概念」を視ることができるという、非肉体的なものです。奈須きのこのひらいた新境地は、肉体そのものではなく、「概念」で戦うという世界なのです。

かれの世界では全身に繋がる「死の線」を一本切ってしまえば、人間はそれだけで死んでしまう。かならずしも血塗れの肉弾戦は必要ありません。この感覚は現在「週刊少年ジャンプ」で連載されている「DEATH NOTE」の「ノートに名前を書けばその人物は死んでしまう」という感覚とどこかしら似通っているようにも思えます。しかし、それでは「空の境界」や「ブギーポップ」が世相への嘲笑と皮肉に充ちた厭世的な作品なのかといえば、それは違うでしょう。「ブギーポップは笑わない」の結末は、ある人物がこんな歌を口ずさむところで終わっています。

「狎弧燭澆犬し、恋せよ乙女
 黒髪の色あせぬまに
 心の炎消えぬまに
 きょうはふたたびこぬものを瓠帖帖

命は軽いからこそ、たやすく喪われてしまうからこそ、いまこの時を精一杯に生きよ、そんなメッセージが読み取れるではありませんか。生と死、現実と虚構、平凡人と殺人者、その境界はいまやあいまいで、不確かで、ちょっとした契機で簡単に乗り越えてしまえるものとして捉えられつつある。そう、まさに「空の境界」とでもよびたくなるほどに。そして、平凡な日常からほんのすこしだけ離れたところにあるその境界の向こう側からは、「悪」が、「闇」が、「死」が蠱惑的な誘惑の手をのばしている。

境界の彼岸は、自由と混沌の世界であるがゆえに、斯岸にはない魅力に充ちています。ほんのすこし手をのばしさえすれば、それに手がとどくかもしれないという誘惑は、あらがいがたいものにも思える。しかし、ひとたびそちら側に渡ってしまったなら、もう二度とこちらに戻ってくることはできない。いまや、生きるということは、この境界線の上ではてしなく踊りつづけるということにほかならないのかもしれません。デッドライン上のダンス──バランスを崩し落下したものに待つものは、栄光か、破滅か、それもまた物語の焦点となるでしょう。

>ひとが死なないお話

なにも事件が起こらずただひたすらまったりとした空気のなかでまどろむようなものも、僕は「コージー派」と呼んでいるのですが、けっこうあります。作品名は書かないけれど、「人が死ぬお話は、嫌いなんです」(たしかこんな感じ)という台詞で終わる小説もあった。「マリア様がみてる」はこの種の作品の代表格で、既刊17巻、ただのひとりも悪人が出てきません。一応、「憎まれ役」はいるんだけれど──それすらも、巻数が進んでいくに連れ、「なんだ、いい子じゃん」になってしまう。いや、萌えるよな、瞳子ちゃん。

おかげでドラマとしては緊迫感に欠けることは否めませんが、その雰囲気はひたすら心地良い。だから、まあ、別段それほど凶悪になっているわけではないと思いますよ、ライトノベルも。性描写にしても、そんなに過激化はしていないような気がする。新木さんの「星くず英雄伝」あたりがせいぜいだから。秋津透さんの「魔獣戦士ルナ・ヴァルガー」とか、もっとエロかったもん。いまでもかすかに憶えているんですけど、「ルナ・ヴァルガーRPG」には「床上手技能」というスキルがあって、それを持っていると情報入手がしやすくなるという設定だった(笑)。

ここらへんの前衛性は、むしろ後退しているんじゃないかな。少年ジャンプの漫画なんかも、「BASTARD!!」とか「電影少女」が連載されていたころから比べればおとなしくなったものです。ただ、前述したように「彼岸」と「斯岸」の壁は薄くなっている気がする。「ウルフガイ」と「ブギーポップ」は、一面で同質でありながら、あきらかに異質です。「ブギーポップ」には「ウルフガイ」のような強烈なバイオレンスはないけれど、そのぶん、「死」は身近で、あっさりとひとを飲み込む。

そして、ひとが何人も死んでも、日常は崩壊せず、そのままなにげなく続いていってしまう。言い換えれば、日常性が異様な強度を有していて、世界ごと崩壊でもしないかぎり、どんな事件が巻き起こってもそのまま平和な日々が続いていく。「日常」と「非日常」、「現実」と「超現実」が平然と混在し、同級生の少女が人喰いの化け物であるかもしれない異様な世界は、昨今の新世代作家の作品に多く見られるもので、これを「壊れた世界」と呼んだのは、ミステリ評論家の──えーと、だれだっけか。

それは忘れてしまいましたけれど、とにかくこれはすでに批評の俎上に載せられている現象で、特に本格推理小説の世界では、活発に議論されています。最も精密な評論を展開しているのは、笠井潔でしょう。詳しく書きたいのですが、資料がないので、また今度。しかし、それならただ穏健になっただけなのかといえば、やっぱりそんなこともないと思う。「ウルフガイ」的な「超伝奇バイオレンス」と、現代の「新伝綺」(胡散臭い名称ですが……)や「新青春エンタ」、一部のライトノベルとの落差は、次の三つの「失墜」によって定義付けられるのではないかと、いま考えました。すなわち、

1.男性性の失墜。
2.肉体性の失墜。
3.現実性の失墜。

まずは1から行きますが、「空の境界」の両義式にしても、「ブギーポップ」シリーズのブギーポップや「炎の魔女」霧間凪にしても、内面はともかく、外見はすらりとした美少女です。「十二国記」にしろ、「マルドゥック・スクランブル」にしろ、「イリヤの空、UFOの夏」にしろ、「デルフィニア戦記」にしろ、「涼宮ハルヒの憂鬱」にしろ、超常的な能力を持つヒーローは女性ないし女性の姿をした存在であるわけで、「ウルフガイ」の犬神朗のような超男性的なヒーローは、いまでは見つけづらくなった。

その場合、男性の役割は多くはそのサポートないし安全管理といったところで、「イリヤ」の浅羽がその役割をどうこなし、どう失敗したかについては、すでに語った通り。久美さんがいま読んでおられるという「戯言シリーズ」のいーちゃんなどは、一応主人公ですが、事件が起きても「戯言だけどね」と誤魔化すのが関の山で、どう考えてもいくじなしです。大好きだけど。この「ヒーローの女性化」は、あまり自信はありませんが、「スレイヤーズ!」のリナ・インバースあたりから顕著になった流れなんじゃないかな。

次に、2。これも上に書きましたが、健全な──というのは政治的にまずいか、理想化された肉体への憧憬は、年々衰えているように感じられます。筋骨隆々とした肉体派のヒーローは、最近あまり見かけない。少年漫画では「バキ」あたりに細々と生き残っていますが、ライトノベルでは……うーん、すぐには思いつかないけれど、だれかいるかな。ま、とにかく少数派になってきているとはいえるんじゃないかと。

むしろ今日においてはヒーローはしばしばミケランジェロ的な肉体美からかろやかに逸脱する「異形の身体性」の持ち主であり、それはゴムのように伸縮するからだをもつ「ONE PIECE」のルフィや、からっぽの鎧に魂を宿した「鋼の錬金術師」のアルに象徴的である、と考えるのは、むろん牽強付会かもしれません。しかし、「バジリスク」が山田風太郎のフリークス世界をよみがえらせたりしているのは、偶然とばかりもいいきれないものがあるようにおもいます。

で、3。現実性の失墜。大人の目からはまるで邪悪な玩具箱をひっくりかえしたように見えるかもしれない「壊れた世界」こそが、今日のオタク系の漫画やゲームやアニメやライトノベルにおいてはしばしば主戦場です。時として、そこにはもはや最低限のリアリティすらない。ブギーポップ・シリーズには、MPLSという超能力者を使って世界を影から操る「統和機構」という秘密組織が出てきます。子どもの夢想じみた強迫観念的なイメージ。

しかし、こういった世界設定の奥行きの欠如や、先述した人間の生死のリアリティの欠如は、作家の技量の不足というよりも、あきらかに意図的に選択されたものと見るべきだと思います。そもそもオウム真理教やアルカイダのテロにどれほどのリアリティがあったでしょうか。「リアリティがないのがリアル」。僕たちはそういう時代に生きているのではないでしょうか。まとめると、つまりマッチョな男らしさや、健全な肉体や、生死にともなう現実性は、今日の若年向けエンターテインメントにはもはや必須ではない、と。

「愛と誠」みたいな話は、もはやどうやったって書かれないでしょうし、書かれたところで読者の支持を受けはしないとおもいます。いや、まあ、このリバイバルブームの昨今ですから、「コミックバンチ」あたりで「続愛と誠」が始まらないとは言い切れませんが、しかし仮にそうなったとしても、その主要読者は若い層ではありえないはずです。僕としては、もはや世界は逆行しえないところまで来ているのだから、このまま果てまで行ってみるしかないと思う。

現実が殺伐としているのに、小説だけがのどかで平和な世界ばかり描いていたら、早晩あきられて見捨てられるでしょう。小説を平和なものにしたいなら、社会に平和になってもらうしかない。でも、それは当分無理そうですよね。しかし、だからといってひたすら暗く厭世的なものばかりでよいかといえば、やはりそれも違う。できうるならば、物語には、小説には、「ブギーポップは笑わない」や「バトルロワイヤル」がまさにそうであったように、泥沼のような世界を描いたうえで希望の光を差すようなものであってほしいし、また読者にもそういうものを読んでほしいと思うのです。

39 名前 : くぼひでき 投稿日 : 2004年06月18日(金) 04時03分06秒
>海燕さま

投稿、慄然としつつ昂然としつつ、しかしとてもおもしろく読みました。
3つの失墜については、たしかにそのとおりだと思います。
いま、若手と呼ばれる作家さんたちは、まだそれらの失墜してない(と思われていた)ころに、いや違うんじゃないか、と思っていた人たちだと思うのです。
悪い言葉かもしれませんが、あのころ(マッチョが普通だった年代。強いアメリカだったころ)ヘタレだったという実感、それが作品をしてそれらが失墜した世界へ導き、かつそれを埋める形で「戦う少女」であるとかが浮上してきているのではないかと。

最後の一文。
>また読者にもそういうものを読んでほしいと思うのです。

ここも共感します。少しだけ、わたしなりの感覚で望むことは、
読者にもそういう「ふう」に読んでほしいと思う
ってことです。

どんな作品でも、読まれ方次第であるというのは、投稿していただいた文脈にもありましたが、
どんなに殺伐としてても泥沼であっても、
そういうふうに読んでほしい と思うんです。

そしてそういうふうに書きたい、と思うんです。

けど、これも古いのでしょうか・・・。

40 名前 : 風狐 投稿日 : 2004年06月18日(金) 04時18分17秒
38の海燕さまのご投稿が、おもしろかったんですが…
とても、共感するし、拝読していて、楽しかったんですが…
ここでその感想を書いていると長くなりそうですので。
くぼさまへのレス優先で。

ご質問のうち、前二つへのレスは、長くなりそうですので、
申し訳ありませんが、割愛させてください。

>その潮流を

今、児童文学は、かつてのように隔離されたジャンルではなく、
ライトノベルスやおとな向けの読み物と同じ場所で、選択される
ものになってきているのです。
娯楽をもたらすものとして、楽しみの一つとして、です。
選択される、というのは、かつてのようにおとなによって、では
なく、読者である子どもたち自身の手によって、です。
そして、児童文学を読む子どもは、以前よりも、数が増えて
きています。

ここのところ続いた、児童向けの海外ファンタジーの流行、そして
朝の読書運動の定着、各社が発行している文庫(児童書の)が売れて
いること、が、この流れを作り出している、と、私の周りの人々は
分析しています。ちなみにこの「分析」は、それなりに、数字や、
いろんな現場での感触という裏付けがあってのものです。

早くいうと、児童書も、子どもに喜ばれる本、愛される本が、
そのまま、売れる時代になってきているのです。
「喜ばれる」といっても、「甘口」「子どもに迎合している」という
意味ではありません。
子どもに評価され、よいとされる本が、生き残る時代になっているんです。

今の本好きの子どもは、自分のお小遣いで本を買います。
何しろ、テレビゲームより、よほど安い娯楽ですから。
そして、文庫なら、自分のお小遣いでも買えますし、話題の本だったり、
学校で読むための本なら、親も買ってくれるのです。

ライトノベルスやおとな向けの本と比べられますから、作家にも
それなりの技術力や文章力が必要とされる時代になってきています。
児童文学の狭い枠の中でだけ、競争していればよかった牧歌的な時代は
もう終わったのです。

そういうわけで、今、児童書業界は、二つに分かれています。
「初版三千部」で、「課題図書に選ばれれば幸福」だけど、あとは
絶版になってしまう、くぼさまがご存じの古い世界の作家の方々と、
出版社からの依頼と子どもからのファンレターが殺到する作家、です。
他のジャンルと競合しても生き残ることができる作家たち。
ちなみに、後者の作家の場合も、推薦関係には強かったりするので、
両者の格差は、開いていく一方という現実があります。

時海さまが、あれはどこのログだったか、「児童書業界でも、ライト
ノベルス的な作品作りを要求する傾向がでてきた」というような内容の
かきこみをなさっていた部分があったように記憶していますが、
そういう動きも、つまりは、上のような事情からなのです。
文庫の依頼や、発行部数が増えているのも、同じ理由。
児童書の出版社は、今、進行方向を模索中なのです。
業界の中にいると、いろんな動きが見えて、面白い時期ですけれどね。

41 名前 : くぼひでき 投稿日 : 2004年06月18日(金) 05時00分36秒
>風狐さま

ご教示、ありがとうございました。
なるほど、その潮流は、たとえば、わたしの家の近所にある大きな書店(ジュンク堂とか紀伊国屋書店とか)などでも、店頭でやはり多く手に取られる本(平積み、面出ししてある本)が、それにあたるのだと思います。

>「初版三千部」で、「課題図書に選ばれれば幸福」だけど、あとは絶版になってしまう

そうした本たちを、わたしが、わたしでさえ古いな、と思うことは間違ってるわけではないのですね。
けども。
格差が開いていく一方で、そうした本たちに描かれていた世界が、ほんとうに必要でなくなってきているのか、というふうに思ってしまいます。
たしかに手に取らないかもしれないけども。
ライトノベル的ではないけども。
辛気臭いかもしれないけども(書簡でそういう言葉を使いました)。
そういう本たちは。

たとえば。
国内ではないですが、しかも古参の本のひとつですが、
『灰色の畑と緑の畑』のような本は。

わたしはこのような本が好きだったんですね。小さいころから。
楽しくない、けど、わたしには必要だった本。

いま、そういう本を必要とする若い人たちはいなくなったのでしょうか。
まだいると仮定して、
そうした作品が新しく提供されるには、
どのような形で生き延びていけばいいんでしょうか。
>子どもに評価され、よいとされる本が、生き残る時代になっているんです。
であるとするならば、これらはそういう評価に耐えうるんでしょうか。

ひとつの疑問が解決すると次の疑問がぞろぞろと浮かび上がります。
たくさん聞いてすみません。

42 名前 : 風狐 投稿日 : 2004年06月18日(金) 06時00分33秒
>>子どもに評価され、よいとされる本が、生き残る時代になっているんです。
>であるとするならば、これらはそういう評価に耐えうるんでしょうか。

それが、「よい」本であるならば。
本が好きな子どもたちの目を信じましょう。
(ちなみに子どもたちは、「辛気くさい」本でも、読みます。
その本が、面白ければ。読み出があると評価されれば)。

私は作家ですが、予言者ではないので、現状は知っていても
未来のことまではわかりません。
どの本が生き残るかなどということまでは、とてもいえないです。

ただ、今の子どもたちも、「ぐりとぐら」や「エルマー」や、
「クレヨン王国」、子どもによっては「ナルニア」も読みます。
それで十分ではないですか?
生き残るべき本は、残ってゆくのです。

消えてゆく本があるとすれば、それは、時代の流れとともに、
役目を終えた本、ということなのではないですか?

いつの時代も、児童文学は、その時代の現役の子どもたちの
ものです。
おとなの郷愁で、その流れを押しとどめるのは難しい。
とくに、これからの時代は。

43 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月18日(金) 09時17分41秒
話がちゃんと児童文学に戻ってきてよかった。余計なことを言ってひっかきまわしてしまってすみません。毎度のことながら海燕さんには驚嘆です。大共感です。そうかそういうふうに説明すればよかったんだなぁ。くぼさま、風狐さま、三田さま、他のみなさま、不必要に挑発的なことを申してしまってごめんなさいでした。

ごめんなさい。しつこいけど、もうひとつ言わせて。

>例の11歳の少女は傍迷惑にも「バトルロワイヤル」を読んでいたそうですが──おかしいな、あれをまともに読んだら殺人なんてしないはずなんですが。

そういうあたりまでちゃんと真剣に話しができる相手がそばにいなかったのが、ほんとうに可哀想で、不幸だと思います。彼女は例のおおぜいでやっていたという交換日記で「もしあんなふうに殺し合いをしろといわれたらどうする?」と質問を発したそうです。おともだちのみなさんはそんなこと考えたくもなかったし、そんなことマトモに聞かれるのがたぶんイヤだったんでしょう、日記をやめてしまった。

彼女は「もし自分がこのひとみたいな立場にたたされたら、どうしよう? どうしたらいいんだろう?」って、とてもセツジツに考えたんだと思うんですね。「こんなのただのお話だ」「こんなこと実際にはありっこない」ではなくて。あるいは、学校や少人数のクラスの中で「誰がトップにたつのか」「勝つのか負けるのか」といった問題に関して、もともとひどく感受性が高くなっていたのではないか。ゼロサム殺人ゲームというのが、ショッキングな比喩ではなく、金八先生のブラックなパロディとしてでもなく、ハダにヒリヒリするほどリアルな現実に感じられてしまうほどに。

それって……モノカキとしては、すごく嬉しい、得がたい「ありがたい」読者さまじゃないか! と思うんですね。そんなにまで真剣にハマッてくれるというのは。

現実と虚構の区別がつかない、のは、よくないことだ、幼稚でバカだ、とおっしゃるかたもあるかと思いますが、虚構の「作り手」のほうからすると、そんなにまで熱中してもらえたらやっぱり嬉しいですよ。たとえ悪影響を与えた悪いものを書いたと非難されるとしても、単なる文章テキストにそれほどのちからがあるとわかったら、そりゃ嬉しいです。そんなちからがあるんだと実感したら、そりゃもちろん、そのちからはよく気をつけて使うべきですけれども。

作り話はさまざまな「もし……だったら」を仮定して、願望充足的なものからぜったい勘弁なものまで、いろいろな体験をさせてくれます。どーせ嘘っぱちのお話だから、アハハと笑って、ギャアッと怖がって、本を閉じたら、映画館を出たら、そのとたんに忘れてしまえばいい、それが健全だ、というひともいるでしょう。でも、時には、現実のほうがおぼろになってしまうほど没入してしまう作品もある。ありませんか? どんな作品を「そういうふうに」読むか、どの程度それに共鳴してしまうかはみんなそれぞれでしょうが。

とりあえずいま現実には選択する必要のないなんらかの究極の二者択一などを迫って「どうする?」と聞いてみると、「なんでそんな不愉快なこと聞くのよ!」と怒り出すひとっていませんか? 「だから、もし、あくまでもしかしての話だとして、ちょっと考えてみてよ」「そんなこと考えたくない! なんでそんなアホなこと考えるの? バカじゃない?」「……ごめん……へんなこと聞いて」
ええ。とても面と向かって考えたくないようなことはもともと考えないことにして、それでおさまっちゃえばいいんです。いいいんですが、何故かふと気になって、つい考えこんじゃって、もちろんも結論など出せなくて、ううう困った、どうしたらいいんだ! になっちゃったりすると……そういうことがわたしなんか時にあるわけですが……しょうがないから、小説を書いたりするわけですよ。小説の中で登場人部にその究極の選択に直面させるわけですよ。
かんたんに割り切れず、かといって、考えないですませてしまうのも怖いようなことがらこそ、読者になるべく共感されやすい主人公などの避けては通れない問題として、波乱万丈の物語の中に組み込んで、「さぁ、あなたならどうする?」と、ひろくおおぜいのひとたちに、問いを投げかけたくなるんですね。

なまじ自分なりの結論が出てること、だってこうするしかないだろ! と確信をもって言えることなんか、書いてもつまんない。ともすると説教臭くなったり、アジ演説みたいになっちゃいますから。

このへんは、昨晩みなさまのスレを見て、あとから考えついたことなんですけど、……たぶんこれが、わたしがとっさに彼女に居様にカタイレせずにいられなかった理由というか動機というかなんじゃないかと思います。



44 名前 : 一意見 投稿日 : 2004年06月18日(金) 09時30分39秒
>久美さま
レスをいただき、恐縮です。ありがとうございました。
スレ違いのようですので、今回の投稿にて最後にします。再度の投稿、申しわけありません。

>ただね、せっかく持っているその能力そのものを否定してしまったら可哀想だとわたしは感じてしまったのです。

たしかに、自分しか見えない、自分の感情にのみとらわれている人間にとって、それを個性というのであれば、その「と びぬけた個性」にとっては、自分の感情(相手を殺したい)を抑えることは「大変な苦痛」でしょう。しかしそれを覚えないことには、社会でどうやって生きていくのでしょうか? 2才の幼児というわけではないのですから。
彼女は自らの意志を持って、人を殺しているんです。(それが個性なのでしょうか?)
自分を抑えられずに、なにかを盗んだとか、気に入らない奴を殴ったとか、そういうことではないんですけど。
久美さまはその豊かな想像力でお考えになったことがありますでしょうか?
殺された少女は、もっていたかもしれない能力や個性を、もう、永久に、発揮することはないんです。
被害者少女の「能力や個性」を全否定して消し去ったのは、ほかでもない、加害者少女自身です。
加害少女は、自分の実行力を充分に発揮したのです。

>ヒトゴロシをしたいと思って実行にうつし成功してしまうひと が数の中にいるのは「しょうがない」ことだと思います

たしかに、そういう人間が一定数、存在することは事実です。
そして、「したいと思って実行にうつし成功してしまう人」によって、「もう学校にもいけない、家族と話すこともできない、生きていくことを唐突に奪われた人」が存在することも事実です。
昔からずーっとそういう人たちがいることは事実ですし、今さら始まったことじゃないですね。
だから、彼らを自由にさせてあげようと? ルールなど無視して?

>彼とわたしたちとに、本質的にどういう差があるのか、

彼は人を殺したが、久美さまは人を殺していない。という差があります。

>スピード違反や駐車違反、 あなたはぜったいにしませんか? カンニングは?

交通違反と殺人罪は、等しく語れるものでしょうか?
人を殺してはならない、というルールは、「一応」守るものなのですか? 厳密には守らなくてもいいルールだといえるものなのですか。(正当防衛などはもちろん別です)

>……それができないなら、黙って耐えるか、反撃するしかない。
>(中略)そしてついに「キレた」結果の種々の犯罪が起こるのではありません か?

なんだか、「だから」殺してもいいんだ、というふうに聞こえてしまう(もちろんちがうんだと承知していますが)。
上記引用部分では、久美さまが何を言いたいのか、よくわかりませんでした。
黙って耐えることのみをよしとするような考えは、私も持っていません。
また、社会がそれをすすめているのかどうか、私にはわかりません。
人間関係に苦しみ、悩み、もがき、出口を塞がれて、辛い思いをしている人はたくさんいるでしょう。
それをただただ耐えろ、なんて思いませんし、書いていません。

>そこまでビビッドな、 制御しきれないほどの感情を「持つことができた」ということそのものは、良いこと、素晴らしいことではないか、とわたしは思 いました。

「殺したい」という感情を持つこと自体が、悪いとは私もぜんぜん思いません。
でも、実際に殺してしまうことは、良いことでも、素晴らしいことでもないんではないのでしょうか?
そこには天地の差があると思います。

>それほどのエネルギーは真逆に方向を変えれば、ものすごい慈愛にも献身にもつながりうる。そんなふうに感じる のはわたしの「願望」かもしれませんが。

その可能性はあるのでしょうが、残念ながら、例の少女の場合、慈愛にも献身にもつながらなかったようです。あの少女の場合は、殺人につながったんです。

>一意見さまはたぶん、優しくて、穏やかで、真面目なかたなんだろうと思います。

そうであればいいとは思いますが、まったくちがいます(笑)。
人間はだれしもどろどろしたものを心に抱えているものではないですか?
人間が自己中だなんて、ある意味当たり前というか、そういうものではないですか?
だからこそ、社会を営んでいく上では、最低限、「人を殺すことはいけないよ」というのがあるのではないでしょうか?

>>人として最低限のモラル、社会で生きていくためのごく最低限のモラル
>わたしはひとがみな生まれつき十分なモラルをもっているとは信じておりませんし、いまのこの社会をその構成員全員がそ の生命や幸福や快楽を二の次に投げ出してまで守る価値があるほど素晴らしいものだとは感じておりません。

ですから、素晴らしい世の中とか、そんなことを言っているんじゃ全然ないんですけど。
私が生きていて、久美さまも生きている。ひとりひとり違った人間が、たくさんの人たちが生きている。そういう「社会」が、「現実」が、でんと目の前にある。
社会の価値がどうのこうのとそんな大層なことを持ち出すつもりもなく、理想主義でもないです。十分なモラルではなく、最低限のモラルです。
なにも、ひたすら耐え続けて波風立てず無難に生きていく人間になる必要なんてまったくないでしょう。

>しかし、同時に、ただ耐えてガマンして他人にあわせて生きていくことにど れだけの意味があるのだろう? 誰だってみんなどうせいつか死んじゃうのに? この自分がここにいまいるのはこれっきり で、たったいちどの人生なのに? と、感じてしまう部分もあるのです。

繰り返しますが、私が言っているのは、「だから」人を殺していいんですかってことです。
「生きていくことの虚しさ」「無常さ」なんて、じつにポピュラーな悩みというか、多くの人間が感じたりするものなんじゃないでしょうか?

>あれだけのことがあんな若さでできてしまうひとをどうして「平均的な普通の」人間のほうにひっぱりこまなければならないので しょう?

「平均的な普通の人間」に引っ張り込め、ではないでしょう。
最低限、辛うじてでもいいから、なんとか、この社会で、生きていける人間になれるようにってことでしょう。

この社会で生きていく必要がないのなら、それこそ、社会から遠く疎外されたところで、自由に個性を発揮して生きればいいのだ、ということになってしまいませんか。

それから、「あれだけのこと」というのは、
放課後でもなく早朝でもなく、昼間の、全校生徒のいる時間帯に、校内で、椅子に座った同級生の後ろから手で顔を押さえ、喉をぐっさりとカッターで切ることなんでしょうか?

>彼女は世界的レベルのすごい才能を発揮できるかもしれない。

そのためには、あるていど社会との接触が必要ですね。
もちろん、多少の、あるいはかなりの、自己中、わがまま、傲慢だったり、暴力的、短絡的、幼児的だったり、狂気を秘めていたり、あるいは奇人、変人であっても、才能を発揮できる。しかし、最低限の自制心は必要でしょう。
最低限、です。
また久美さまが19で例にあげておられた自衛隊、警察、医療関係などは、それこそ命に関わる職業であり、最低限のモラルどころの話ではないと思います。

>できるかぎり多く彼女の現状を肯定して社会の中でその特別の能力が十分に発揮できるようなかた ちを、彼女にも適応できる居場所を、どうか見つけてやって欲しい、とわたしは思ったのです。

繰り返しますが、被害者少女の「能力」「生」を全否定したのは、加害者少女です。
この前提がすっぽり抜け落ちている気がしてならないのです。

居場所を見つけてやってほしい、じゃなくて、それは本人が、自分で、苦しみつつ見い出していくものなのでは? と思うのですけど。

「人を殺した」現状を肯定し、なんの矯正もせず、彼女の「特別の才能」を発揮できる、適応できる居場所を、他人が見つけやって、与えるのですか。

45 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月18日(金) 11時33分32秒
一意見さま。お怒りを買ってしまってすみません。

一意見さまは、とにかく殺人はなにがなんでもぜったいにいけないことだ(戦争中などは別かもしれないが)と思っておられるのですね。
わたしはすみません、そうではありません。

殺し、盗み、姦淫などなど、どの国どの文化でも確かに禁忌ですが、神なり法律なりがわざわざ「やるなよ!」と厳命しなければならないものであり、ということは、人間は誰しも(わたしも)ちょっとしたキッカケで、ついやりたくなってしまいがちなことで、バレなければ、あるいは相応の罪や罰をうけることをいったん覚悟すれば、いっそ思い切ってやってしまうという選択も「あり」なものなのだと思っています。

今回の事件での選択理由はたぶん詳しい事情を聞いても理解も支持もしにくいものなのではないかと思いますが、アダウチや専制君主の暗殺など、「なるほど確かにムリもない、あんなやつは生かしておけぬ」という気持ちのほうに共感できるような殺人も皆無ではない。それでも殺人はとにかくいけないことになっていて、だから、ふつうはとてもとても実行などはできないわけですが。

具体的に想像するに、わたしには、他人の身体に刃物で切りかかることなどとてもできません。痛いというか、怖いというか、手が震えてしまいそうで、とにかく、できないです。病院で、隣のベットで、よそのひとが注射されているのを目にしてしまっても気が遠くなるほうなので。しかし、もし、拳銃や毒薬など、遠くから、あるいは時間差をつけて……つまり直接的でなく、殺せるような道具を手にいれてしまったら、よほどカッとなったら、やってやれないことはないような気がします。
それでも、たぶんやらないのは、もしも実行してしまった場合に、当然のこととして自分にふりかかってくるだろう罪悪感や、過酷な捜査をかいくぐって逃げ延びる自信がないからです。また、自分が「どうしても殺さなければならなかった」と言い張っても、十分な説得力を持たないような場面ぐらいしか想定できないからです。ようするに、ムチャするより、ガマンしたほうがいい、ということですね。
殺してしまうのは相手に悪いからやらない、という考えは、もし出てくるとしても、かなり順番があとのほうだろうと思います。そもそも、相手を可哀想だと思ってしまうぐらいなら殺意なんかわかないでしょう。許せるなら、黙って許してしまえばいいし、ひっぱたいて、あるいは、口でののしって気がすむなら、そうすればいいので。

昨日、冷蔵庫詰め遺体の事件の被疑者が逮捕されましたが、彼あるいは彼らは、年若い女性を誘い出して怖がらせて殺し、それを巧みに隠蔽しようとして失敗しました。千葉だかのお墓で石で殴り殺された若い女性の戸籍上の夫は、こぶんのような若者たち複数を犯行にも隠蔽工作にも多数巻き込みました。このひとたちは、被害者を性的にあるいは経済的に好きに利用できる道具として使おうとした末に消費してしまったのであって、殺された彼女たちが「ひとりの人間」として自分とすくなくとも対等には価値のあるものだとなどまるで感じていなかっただろうし、あまつさえ自分ひとりでは殺人という「重たい」ことがらを背負おうともしませんでした。
去年の長崎の事件の少年は小さなこどもを高いところから突き落としましたし、てるくはのるもサカキバラも宮崎勤も、自分よりずっと幼いこどもをなんらかの欲望のターゲットにしました。性的要因があったのか、鬱憤のはけ口であったのかは個々それぞれだろうし、本人でないのでわかりませんが、このひとたちはあきらかに、まともには抵抗などできないだろう弱者を「いけにえ」として狙いましたし、犠牲者になったのはたまたま偶然選ばれたにすぎない、なんの罪もないこどもたちでした。

これらの事件と今回の事件には、ふたつの大違いがあります。
今回のほうは、被害者と加害者の間にすくなくとも過去にはともだちとしての親しい交流があったということと、加害者が自分の犯行をまったく隠そうとしなかった点です。
殺人という極端な選択が良いことだとはわたしもまったく思いません。しかし、それが、表面的にはなんということなく行われていただろう「ともだち関係」や正常な「学校生活」の陰に長らく圧殺されていた種々の思いから導き出され集積されたものであることは、無視してはいけないのではないかと思います。

彼女は上で書いた殺人者たちのようには異常ではないし、ひとをひととも思わない独尊的な人間でもないと思います。

壊れるほうが悪い、負けちゃうほうが悪い、と、フェアチャイルド時代のYOUさまがかつて歌いましたが(「鳥になんかなれない」)、みんながふつうにやっていることができないおまえが異常だ(あるいはみんなができないことができてしまうおまえが)、みんなが耐えているのに耐えられないおまえは弱い、不適応だ、と、ここで声を大きくしてしまえば、これまでも圧殺されていた側はますます圧殺されるだけです。
逃げ出すか、誰かを殺すか、さもなきゃ、どこからか飛び降りて自分を殺さざるをえないところまで、いままさに追い込まれつつあるこどもが、どこかにもっと大勢かくれているかもしれない。
彼女を責めることで、その隠れた大勢のこどもたちを……あるいはこどもとはいえない世代のひとたちまでも、もっと圧殺する方向に進んでしまうのは怖いのです。

意識的なのか無意識なのかわかりませんが、彼女は犯行を隠すどころか、できれば、むしろ、知って、わかって欲しかったのではないかと感じます。彼女に共闘意識があったかどうかわかりませんが、彼女の凶行を知って、「そうだ、イザとなったらわたしだって、イヤなやつをやっつければいいんだ。殺すことだってできるかもしれない」と自覚したコだっているかもしれない。
自殺せざるをえない気持ちにジワジワ追い詰められるというかたちで殺されるぐらいなら、反撃しよう、と思ってみることで、いったんドロ沼の底にアシをついて、「でも、ひとひとり殺す覚悟をするんだったら、もっと別の選択肢が……たとえば、転校するとか、学校なんかやめちゃうとか、他にいくらでもあるじゃないか!」と浮上することだってできるかもしれない。

彼女の場合、計画があまりに完璧で、おまけに度胸があって、なまじ失敗ができなかったのが、まことに気の毒だ、とわたしは思うのです。イザその場になったらやっぱり怖くなったとか、実行しようとしてもどうしてもためらってしまったとか、やりかけたけど途中でやめてしまったとかだったら、これはたんなる傷害事件ですんだかもしれないし、たんなるこどものケンカとして、ニュースになどまるでならなかったかもしれない。
ふつうのひとならそうだと思います。
そういう事件は、わたしたちが知らないだけで、多々あるのかもしれない。
しかし、彼女は、やろう、といったん心に決めたら、効果的な方法を検討し、確実に実行し、途中で考えこまず躊躇もしなかった。成功してしまった。
こんなクソ度胸というか、揺るがぬ強い心は、すみません、どうしてもホメた言い方になってしまいますが、なかなか持てるものではありません。一意見さまは、冗談じゃないと反対を表明しておられますが、警察機構、医療関係などには、そういう「特別な」クソ度胸が必要な場面が多々あると思いますよ。
刃物はようは使いようなのですから。

人類何千年、熾烈な戦いがなかった時代のほうが少ない。人間のDNAの中には、イザというときにはひとを傷つけてでも苦しい戦いを戦ってでも生き抜く力が、もともと歴然とあると思うんです。個体保存本能というか。平和な日常の中ではそれは眠っていて、一生一度も使うことはないかもしれない。そんなふうにいきられたら幸福です。
また、緊密に多くの他人と結びついている生活、あまつさえ、学校という管理された機構のなかでは、生存本能を強くおしだして我を通すことよりも、おとなしく静かにしていて出る杭にならないことのほうが「生き延び戦略」として正しいかもしれない。

それでも、そこに居心地の悪さを感じてしまうひとが少なからずいることがこれだけ歴然となっている以上、個々の犯罪をおかしてしまったひとの社会復帰や精神的ケアもさることながら、機構や教育に、そろそろ見直しの必要があるのではないでしょうか。

「とにかく殺人はいけない」「自殺はいけない」は確かに正論ですが、正論は学校の先生やマスコミなどがいくらでも言ってくれる。
チンピラですが、わたしも小説家、異端や異形に目をむけ、この世の正常ならざる面や人間の業、巧みに隠蔽されている真実などを描きだすのは、マスでないメディアの果たすべき使命のひとつです。「正論」が耳に入りにくい場所にいる(自分から行った、あるいは生まれついた)ひとたちの、独自で、それゆえにかけがえのない心のほうをこそ、できれば、わかり、分かち持ち、多くのひとに理解されるようなかたちに変換し還元し表現したいと思わずにはいられないのです。

46 名前 : 時海結以 投稿日 : 2004年06月18日(金) 11時59分21秒
ずいぶんと活発な議論になっておられますが、自分、次の刊行の原稿の締め切りが迫ってまして、ごめんなさい、ピンポイントレスでお許しをお願いいたします。

>風狐さま
本当に、若輩者へのご親切なアドバイスをありがとうございました。
まだこの世界へ入りまして、日が浅いものですから、不勉強で申し訳ございません。
ぜひとも風狐さまのご本を読んで、勉強させていただきたくなりました(^^)。

古さを感じるというのは、おそらく、私が投稿時代からライトノベルと児童文学を自分の中で書き分ける際に、その「児童文学的古さ」を区別の基準としていたからでしょう。
でなければ、自分の中での「垣根」というか区別が皆無になってしまいます。
デビュー後は、読んで面白いと感じてもらえるならば、どちらでもいいではないか、媒体にこだわらず、と思いました。

しかし、私も接した児童文学関係者の方々が多くはないのでいろいろと語れないのですが、「区別のない作品」を特に児童文学分野では求められなかった、要するに「ライトノベル」とは違うと関係者が感じられる作品を児童文学の媒体では書いてほしいと、複数の方に教えていただきました。
なので、区別するとしたら、多少保守的な部分を敢えて残すほかに、私の拙い表現力では今のところ応えることができないでいるのです。
言い訳じみてますが、まだ自分には諸先輩方のアドバイスをはねのけ、「どうだ」と胸を張っていえる筆力も実績も全くないのです。
今後そうできるといえる保証も自信もないですし。模索中です。

ただ私は、大人がお勧めするのではなく、子どもが自ら選ぶ本だけを書きたいと常に願っています。
私自身、「大人の言うことを聞かない悪い子」のレッテルを貼られて育ってきたへそ曲がりですし(笑)、それに誇りすら持ってますので。



47 名前 : 三田 誠(さんだ まこと) 投稿日 : 2004年06月18日(金) 14時02分18秒
>海燕さま
なんと分かりやすいコラム。
命の軽さというのは、現代をとらえて見事かと思います。それは命を大切にしないとか軽薄であるということではなくて、ただ単純に「失われやすいもの」でしょう。

>くみにゃさま
横レスで失礼いたします。
どうも一意見さまと話がすれちがっているようですが、おそらく「被害者」の視点が欠けているためではないでしょうか。
くみにゃさまはずっと「異能者」であり「加害者」の立場にたっておられますが、「被害者」の「失われた命」についてはほとんど言及しておられません。失われた可能性について、失われた未来について惜しむ発言はほとんどなかったかと思います。

横レスした理由ですが、これはある意味、ライトノベルについての意見の相違にも関係するかと思うからです。
つまり、上でも書きましたが、現代では「命は失われやすいもの」という認識を帯びています。
暴力なんてなくても、伏線なんてなくても、あっさりと消えてしまうものです。

だからこそ、キャラクターは奪った命をあっさり流すことができません。
ボタンひとつで惑星が吹っ飛んだよ、と書いたとき、「そこの命は?!」という視点を持ってしまうのが現代だともいえます。
そのため、この視点を欠いたままライトノベルを読むと違和感を感じられるのではないでしょうか。

48 名前 : ヤン 投稿日 : 2004年06月18日(金) 15時59分00秒
>海燕様
 見事にまとめられていて、非常に感心しました。
 概ね納得いく内容なのですが、一点だけ。

>現実が殺伐としているのに、小説だけがのどかで平和な世界ばかり描いていたら、
>早晩あきられて見捨てられるでしょう。

 この前後、「現実が殺伐としているから小説にもそれが現れる」という部分には、
 私は違う意見を持っています。

 例えば9.11がどれだけ悲劇でも、オウム事件が衝撃的であっても、今現実に
 自分の生活は何も変わっていません。
 テレビのニュースとして眺めるだけで、自分がそこに直接関わることはない。
 自分の日常の中では、ライトノベルや漫画を読み、アニメやサッカーを見る。

 つまるところ、日本はまだまだ(一般市民レベルでは)平和を甘受しているのです。
 だから、物語の中に、現実には体験できないような刺激を求めるのでしょう。

 若い人々が日常をブチ壊すような過激な物語を好むとすれば、それは平和で退屈で緩慢な
 日常を過ごしているからこそ、物語の中にその脱出口を求めているからではないですか。
 卑近な例でいえば、真面目な女の子が不良っぽい男の子に憧れるとか、そういう心理と
 根っこは同じことだと思います。

49 名前 : 鷹見一幸 投稿日 : 2004年06月18日(金) 18時13分29秒
 このスレには、初めて書き込みさせていただきます。ライトノベル&仮想戦記作家の鷹見一幸と申します。

 話がちょっと違う方向に行きそうなので、まったく違う意味も無いことを書き込んで見ます(笑

 皆様の活発な論争を拝見しながら、語るべきことがある方はいいなあ、とうらやましく思います。
 私は、語るべきものを、あんまり持っておりません。
 正確に言うならば「このような場所で語るべきこと」と言うべきでしょうか。
 まあ、要するに、私は作家(私は雑家と自称しておりますが)ですから。

 毎月毎月、書店の店頭に、まるでダンプカーから投げ出される土砂のように、新刊本が平積みにされていく中で、
どんなものが残り、どんなものが廃れていくのか、それは誰にもわかりません。
 それを決めるのは作家でも編集でも、そして評論家でもネットの書評ページでもありません。
読者であり「市場」です。
 市場という名前の得体の知れない消費者のエネルギーは、大河のようなものでして、意のままになるわけはありません。
 その大河の中で生きていく方法としては、一番楽なのが、流されることです。
 でも、まあ、少なくとも魚として生まれたからは、ちょいと自分の力で泳いでみたくなるのも当然といえば当然ですけどね。

 作家としてできることは、この市場という大河に向かって
『ベストセラーだけじゃなくて、ロングセラーにも価値があるんだよ〜』
 と叫び続けることぐらいじゃないかと思っています。

 何の因果か、物語の受け手から、送り手になってしまった身としては、
 せめて、読んだ人の引越しに連れて行ってもらえる本を書きたいと思っています。

 道は遠いですけどねえ。
 まあ、走る者は疲れ、休む者は遅れます。
 のんびり歩いて行こうかと思っております。

 閑話休題(あだしごとはさておきつ)では、何事も無かったかのように続きをどうぞ↓

50 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月18日(金) 18時39分08秒
三田さま。
>被害者側について言及できないのは、どうしても考えがまとまらないからです。被害者そのひとに関しても、残されたご家族のかたがたに関しても。

 週刊朝日に連載中の東野圭吾さんの『さまよう刃』を、ドキドキしながら見守っています。
 多視点の小説ですが、娘をレイプされ殺された父親長峰が主人公のひとりです。二人組の犯人のうちのひとりが捕まり、長峰は、まだ逃げ続けているもうひとり菅野を追いかけています。この犯人は複数の同種の犯罪を繰り返していました。別の被害者の父親であるタクシーの運転手さん鮎村の独白として、5月21日号掲載分に、こんなことが書いてあります。
[引用]
『自分はこの事件の結末がどんなふうになるのを望んでいるのか――そう考えた時、鮎村は混乱する。長峰が復讐を果たさなければ、いずれは菅野快児も警察に捕まる。だがそこから先に、自分たちを納得させるようなシナリオは存在しない。少年法の壁は加害者を守る。そして殆どすべての法は被害者に対して冷酷だ。
 もしかすると、今の状態が続いてくれることが一番いいのかもしれない、と鮎村は思った。今頃菅野は怯えていることだろう。復讐者が追っていることはあの男も知っているはずだ。そのくせ警察に出頭する勇気も出せないでいる。もっと苦しめばいいのだ、と思う。
 それに何より世間が忘れないでいてくれる――。』
[引用]
このあと、鮎村は、週刊誌の記者が自分が特定できるような記事を書いてしまい、会社の同僚などに「知られてしまった」ことに驚き、腹をたてることになるのですが……

 もちろん、これは小説であって、事実ではありません。
 また、日本では法治国家であり、仇討ちは法で認められていませんから、長峰が復讐に成功してしまえば、彼自身も罪を犯すことになります。警察も、長峰に、自分たちに任せろと必死に訴えています。

 この小説の読者はみな、「もし自分の愛するものが誰かの欲望に蹂躙されたら」と考え、長峰と鮎村のどちらよりの立場をとろうとするか考えこまずにいられないでしょう。また、犯人の少年たちや、その友人、親、あるいは長峰の追跡行をたまたま知ってしまった第三者の心境や行動も描かれています。みな、迷いながら、ためらいながら、なんかを考えたり、したりしています。
 こういう悲惨な事件に巻き込まれたりなどぜったいにしたくない、「もし」つきでもそんなことについて考えたくもないかたもあるかもしれませんが、わたしにはたいへん興味深いです。どの立場も他人ごとではないと思います。小説の行方を見守りつつ、わたしがどの立場だったらどうするか、どうなってしまうか、どうしたいか、どうするようなヤツになりたいか、よく考えたいと思います。


51 名前 : 海燕 投稿日 : 2004年06月19日(土) 03時26分24秒
>だから、物語の中に、現実には体験できないような刺激を求めるでしょう。

たしかにいまの日本では、北朝鮮政府がちょっとテポドンでも撃ってみるかとチャレンジスピリットに燃えないでもしないかぎり、空からミサイルが降ってくる心配はしないでも良いわけで、そういう意味ではまったく平和です。そのレベルでは先の大戦から半世紀、この国は泰平の午睡を楽しんでいると良い。昨今、日本を囲む状況は、自衛隊のなし崩し的な海外派遣などにより、多少きな臭くはなってきましたが、まだまだ日本本土が戦場になるような事態を日本国民は現実的な脅威として想像してはいないでしょう。

そういったレベルではたしかにわが国は実に平穏なのですが、しかし、多くの年少の読者が、ライトノベルや漫画のなかの過酷な物語をじぶんの充たされた現実とはまったくべつの他人事と感じ、虚構と割り切って楽しめるほどおのれの人生に充足しきっているとは、僕は考えません。たしかにそういうひともいるかもしれないし、徹底的に現実とは切り離されたカタルシスを目した作品も多いでしょう。しかし、同時に現実世界における切実な苦悩を虚構のなかに投影しながら小説を読んでいる読者も少なくないと思うのです。しばらく前まで、ライトノベルの主流はいわゆる「剣と魔法のファンタジー」でした。

この流れは「ロードス島戦記」から「スレイヤーズ!」「魔術士オーフェンはぐれ旅」などを経て拡散浸透し、いまでは陳腐化して廃れてしまった感があります。これに対して、ここ数年のライトノベルにおける秀作のなかで目立つのは、「ブギーポップ・シリーズ」「空の境界」「戯言遣いシリーズ」「イリヤの空、UFOの夏」「ネガティヴ・ハッピー・チェーンソー・エッヂ」など、読者の日常にかぎりなく接近した「亜現実」を舞台に現実と虚構の境界線上を彷徨うような物語群です。

しかしこれらは「ウルフガイ」がまさにそうであったような「日常をブチ壊すような過激な物語」ではない。もしそうならば、刺激は強いほうがよく、カタルシスは強烈なほうが良いはず。しかし「ブギーポップ・シリーズ」各作品の主人公たちも、「戯言遣いシリーズ」のいーちゃんも、時として活劇を放り出して延々と悩む。娯楽小説としては余計にも思えるほどに。むろん実際にはそれらは余計ではありません。これらの作品群の主題はむしろ「いかにして日常を生き抜くか」である場合が多いのですから。

上記した作品のほとんどすべてが、事件をくぐりぬけた主人公がそれまでの日常に回帰する展開で終わっていることは象徴的です。ようするにこれらは「ウルフガイ」系学園伝奇小説の後継者であると同時に、あたらしい青春小説の嚆矢でもあると思うのです。いま、日本で学園説活を送ることは、むろん戦時下の混沌のなかで生きることとは次元がちがうことではあるにしても、決して楽なことではないと僕は思います。

教室という名の戦場を、誇りと尊厳を保ったまま、疎外や暴力の標的になることなく、だれも殺さず、だれにも殺されないように生き抜くこと。それは立派に「サバイバル」の名にあたいするのではないでしょうか。42名の中学生が「殺すか、殺されるか」究極の選択を迫られる「バトル・ロワイアル」の物語を、たんなる荒唐無稽な絵空事ではなく、現実の社会のありようの投影として読んだ読者は決して少なくないと僕は思うし、また、あきらかに作者もそういう読まれ方を期待していると思しい。

今日の日本の学校空間において、じっさいに肉体的に殺害されることは、たしかに滅多にあることではないでしょう。しかしそこは一歩対応をあやまればようしゃなくプライドと尊厳を打ち砕かれ、消えることのない傷を負うことになる「魂の戦場」である──そう述べたら、誇大な言い草だと思われるでしょうか。ですが、僕には滝本竜彦「NHKにようこそ!」のひきこもりの主人公や、乙一の諸短編の内気な登場人物たちは、まさにその戦場における苛烈な闘争に敗れ心に傷を癒しえぬ負った敗残兵にほかならないと思えるのです。

今日も、明日も、明後日も、安全で、平和で、豊かな社会の影で、少年少女たちの魂の尊厳を賭けた死闘は続いている。僕はそう信じていますし、それこそがあらたな切実な青春小説の源泉にあるものだと考えています。先述したように、これらのあたらしい青春小説は、「性差」「肉体」「現実感」という三柱の神々の像が倒れた廃楽園で繰り広げられる真夜中の舞踏会という側面を持ちます。この呪われた舞台であらたなヒーローたちは、死と殺人を巡る選択を迫られ、みずからの能力に悩みながら、綱渡りのようなサバイバル・ダンスを続けています──いつか深い夜があける、そのときを待ちながら。

52 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月19日(土) 09時17分51秒
海燕さま〜!
毎度のことながら素晴らしい。なんてキチンとものを考えてなんてキチンとわかりやすく順序だてて説明できるんだ! わたしは海燕さまのファンになりました。どうかもっともっと語ってください。たくさんのことを。

学校というところの最大の欠点は、ほとんどの場合、学校という機構から外に出て生きてみたことのないひとばかりがそれを形作っているということだと思います。教職員の大半は、大学で教員になるための過程を選択し、卒業するやいなやどこかの学校に就職するわけで。ということは、いちどもレールをはずれることなくそこまで行ったひとたちがほとんどですよね。内心はわからないですけど、すくなくとも目に見えるカタチの上では。留年とか浪人とかぐらいはしたことはあるかもしれないし、夏休みとかに留学とかもしたことはあるかもしれませんが。大雑把にくくれば、学校は「学校というシステムの中でうまくやっていけた/いけるひとたち」によって作られ、管理されている。そこでどうにも居心地が悪く感じ、やってられないや、と、とびだしてしまったひとたちは、あまり学校には戻ってこない。

先生がたの大半は、誠実で立派なかたで、こどもが大好きでこどもたちを守りたい気持ちであるはずだと思いますが(そう思いたいですが)、それでも、クレたことのないひとにはグレる気持ちはわからないし、オチコボレたことのないひとにはオチコボレる気持ちはわかりにくい。聖職であるべき教員ですが、中には、授業という舞台で独裁者としてこどもたちを支配できることを楽しんでしまっているみたいにしか見えない、最悪のセンセイがただってある。

舟越保武さんという彫刻家のかたの講演で聞いた話ですが、ダミアン神父という若くて志の高いひとが、その当時は治療方法がわからず島に隔離されていたハンセン病のひとたちの魂を救いたい一心で宣教しにいった。いくら真心をこめて説教しても、看病しても、誰も気にとめてもくれなかった。何年も医療を手伝いながら患者さんがたの中で暮らすうちに、ダミアン自身も病気にかかってしまった。彼の説教は「あなたがたハンセン病患者は……」というものから、「わたしたちハンセン病患者は……」にかわった。その時はじめて、患者さんたちが近づいてきて、心を開き、神の教えに耳を傾けるようになった……とか。

昨今、このダミアンのような先生がた(過去にさんざんヤンチャやったことのあるかたがたなど)があちこちの中学高校などに出現し、著作をお書きになったり、テレビに出たりなさっておられる。とても頼もしい。でもそういうふうに注目されているということは、そんなかたがたがあいにくまだまだ少数で、すべての学校に「そういう先生」がいる状態にはなっていないということですよね。

できれば、学校には……特に、義務教育でこどもたちは全員どっかの学校にはいかなきゃならないことになっている小中学校には……かならず一定の割合で「これまでの先生がたとはまるで違うタイプ」の先生にいて欲しいものだと、つねづね思っております。それもカラフルにいろんなタイプに。徴兵制がないんだから、かわりに徴教職員制でもつくって、できるだけいろいろなそれぞれ違った人生を歩んできていろんな価値観を持ったおとなたちに、一生のうち何年かは教育に携わる義務を課したらいいのではないかと思う(もちろん、あきらかにコドモに近づけたらマズイひとはきちんと除かなければなりませんが)。現状の授業は、たいがいの場合、教育1人で一クラスを一コマ持つようになってると思いますけども、これも疑問です。教員と生徒の両方に悪意がなくても、なぜか相性があわないということはあるから。これが叶わないならせめて、授業はぜんぶ公開制度にすることです。生徒の親なり地域のおとなたちがいつでも好きにいって見物あるいは監視でき、教職員の勤務態度や教師としての成熟度を評価できるらうにしたらどうでしょう?

戦前、学校はまず国を守る兵隊たちの基礎を作るために発足し、同時に、各地方各藩ごとにバラバラだった日本を「ひとつ」のものにするべく(たとえば標準語教育)働いた。戦後は、高度成長経済社会を実現し、他国との経済戦争に負けないための人員を作るために発達し、同時に、必死に働く都会の(つまり何世帯も含めた大家族ではない)お父さんお母さんが忙しくて面倒をみるヒマのない時間に、こどもたちを集団で預かって管理しておく役割も担った。受験戦士には夏休みも正月もなく、良い学校に入るという目的のためには余暇など不要とされた。「良い子」は忙しすぎ、悪いことする余裕などなかった。互いは受験競争でライバルだから、仲間は実際には敵だった。「♪おとなになったら宿題はなくなるものだと思って」日々の課題に埋没し、さぼりもせず、自分を鼓舞し、楽しみはあとにとっておいて、可能性に賭けることができたのは、まだしも先にいちおう希望があったからですね。がんばって働けば、ステキにゴージャスな生活が待っている、という。
しかし、ネット社会になり、世界各国との「境界」が脆くなり、日用の役に立つ家電製品などはあらかた手に入ってしまい、あるいはレンタルしたり、クレジット決済したりすることがどんどん容易になり、昔ならよほどのお金持ちしか享受できなかったようなゼイタクが誰にでも手の届くものになってしまった。おかげで、名門校なり一流企業なり、かつてはすごろくの「あがり」であったものの意味がすっかり薄れてしまった。
いま、こどもたちには、これまでのオトナが持ってきたのとはまるで違う動機や目標が必要なんじゃないですかね。
まじめな「良い子」をやっていても、ズルいやつ乱暴なやつにカモられて損をするばかりじゃあつまらない。他人を疑い、時にはだしぬくぐらいの覚悟がないと、安全で安定した生活なんか望めない。
「若いうちに楽しまなきゃ」「いまがサイコー、あとはどうせ下るだけ」生き急いでしまうコたちが、年金なんて払うわけがないのに。 
状況のほうがどんどん変わっていることを、ヨノナカを動かしているひとたちはわかってない。自分たちが持っていた基準や指針を、いまさら大胆に変えなきゃならないなんてきっと考えたくもないんですね。権威は、いまだに「オカミ」で、「上」から「あーしろこーしろ」「こんなことはやるな」といえば通用すると思ってる。
こどもはしたたかですから、ふつうは面とむかってコレにタテツいたりしないです。忍従しているふりをして、見えないところで毒をためる。毒がいっぱいになって苦しくなると、自壊してしまうか、やってもやりかえしてこないだろう相手にぶつける。いや、なかにはそれでもじゅうぶん満ち足りていて、ノホホンとして、すべて受け流せるひともいるかもしれませんが……そういうひとが、誰か怒りにかられてしまった人間の攻撃対象に選ばれないとも限らない。
まさに「魂の戦場」です。

じゃあ、とりあえず、いま個々人が自衛するためにはどうしたらいのか? ……そりゃ、視野を広げることしかないんじゃないかとわたしは思います。たまたま居合わせてしまっている環境は、ぜったいではない。流されているところから脱出するのはちょっとシンドイしめんどくさいし、種々のシガラミを外すのは大変だけれど、思い込みをはずして、よーく探せば、必ず脱出経路はある。出口の先には、希望も可能性も生き甲斐もある。わたしはそう思うので……

>事件をくぐりぬけた主人公がそれまでの日常に回帰する

のが、正直、違和感なのです。そんなとこになんで未練があるのか、そんなにあわてて戻らなくたっていいじゃん、というか(笑)。いや、あえて戻ったそのひとの影響で、そこがジワジワと前向きに変質していくというのなら理想的なのかもしれないんですが。どうしても離れられない何かあるいは誰かがそこにいるからなのかもしれないんですが。
勇者の道は伝統的に「探索〜クエスト〜」なんだぞー(笑)。


53 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月19日(土) 09時19分26秒
まちがいました。『さまよう刃』。長峰は犯人のひとりをもう自分の手で殺してしまってました。

54 名前 : ヤン 投稿日 : 2004年06月19日(土) 09時38分32秒
>>海燕様
 こちらの書き方が悪かったようです……
 別に、海燕様の意見への反論(否定)のつもりで書いたのではなく、
 こういう考え方もある、という程度のつもりだったのですが(^^;

 海燕様の意見は、的確かつ見事でいつも感心しているのですが、
 あまりに見事すぎるため、結果的に誘導的になってしまうというか、
 それが「たった一つの正解」であるかのように見えてしまって、
 人によっては物事の見方は異なる……ということを切り捨てられて
 いるかのように思えてしまいまして。

 といっても、これはこれで私の勝手な思いこみですよね……。
 なんか正論に感情論で噛みついてるみたいで格好悪いですね(^^;
 すいません。
 こちらの意見を正解として押しつけたかった訳ではないことは
 ご了解くださいm(__)m

55 名前 : ぎをらむ 投稿日 : 2004年06月19日(土) 13時57分47秒
多くの方にとって、はじめまして。
コラムもスレッドも興味深く読ませて頂いております。

海燕様、ヤン様

>海燕様の意見は、的確かつ見事でいつも感心しているのですが、
>あまりに見事すぎるため、結果的に誘導的になってしまうというか、
>それが「たった一つの正解」であるかのように見えてしまって、

私の感想とヤン様の感じたことと同じかどうかまでは分かりませんが、
私は海燕様の38の書き込みについては、大筋で賛成なのものの、
一方で誘導的にも感じました。

ライトノベルの内容はとても多様です。
そこに傾向を探し出すのはとても興味深いことですが、
その傾向からこぼれている例外や少数派の作品も当然あります。
海燕様ももちろんそこを分かっておられると思いますが、
38の書き込みはなにかその例外、少数派を
切って捨ててしまっている印象を持ちました。(^^;

で、例外や少数派の例を少し。

>筋骨隆々とした肉体派のヒーローは、最近あまり見かけない。
>少年漫画では「バキ」あたりに細々と生き残っていますが、
>ライトノベルでは……うーん、すぐには思いつかないけれど、
>だれかいるかな。

安井健太郎さんの「ラグナロク」に登場するリロイ・シュバルツァーはこの系統の典型的なヒーローではないでしょうか。
それから花田一三六さんの「野を馳せる風のごとく」のダリウス、
マイナー作品ですが嬉野秋彦さんの「神咒鏖殺行」の神咒、「ホルス・マスター」のアルハイムもそうだと思います。
冴木忍さんの「天高く、雲は流れ」のフェイロン、雑賀礼史の「リアルバウト・ハイスクール」の南雲、
水野良さんの「魔法戦士リウイ」のリウイも・・・
ヒロインに押され気味であまり主役っぽくないですが肉体派のヒーローです。
とはいえ、海燕様のおっしゃるように少数派ではあると思います。

それから、38の海燕様の書き込みで少々違和感を感じた箇所がありました。

>ブギーポップ・シリーズには、
>MPLSという超能力者を使って世界を影から操る「統和機構」という秘密組織が出てきます。
>子どもの夢想じみた強迫観念的なイメージ。

超能力者がバシバシ出てくる部分が「ブギーポップ」の魅力ではないと思います。
超能力者が大安売りのように登場する作品なら、それ以前にも沢山あります。
例えば若木未生さんの「ハイスクール・オーラバスター」など。(これはこれで好きですが。)

「ブギーポップ」は今でこそ超能力者達のバトル小説みたいになっていますが、
シリーズ開始当初は、超能力者達よりもむしろなにも能力をもたない普通の少年少女達が存在感を示していました。
うまく言えないですが、超能力という安っぽい異常と、平凡な少年少女達と、
2つの間のバランスで読者の共感を得たのではないかと考えております。

56 名前 : ぎをらむ 投稿日 : 2004年06月19日(土) 14時46分43秒
51の海燕様の書き込みに対して

>しかし、同時に現実世界における切実な苦悩を虚構のなかに
>投影しながら小説を読んでいる読者も少なくないと思うのです。
>しばらく前まで、ライトノベルの主流はいわゆる
>「剣と魔法のファンタジー」でした。

>これに対して、ここ数年のライトノベルにおける秀作のなかで
>目立つのは、「ブギーポップ・シリーズ」「空の境界」
>「戯言遣いシリーズ」「イリヤの空、UFOの夏」
>「ネガティヴ・ハッピー・チェーンソー・エッヂ」など、
>読者の日常にかぎりなく接近した「亜現実」を舞台に
>現実と虚構の境界線上を彷徨うような物語群です。

1970年代からのライトノベルの流れは
もっといろいろなものがあったようですが、
私がライトノベルを読み出した1980年代終わりからは、
この「剣と魔法のファンタジー」→「亜現実」の流れが強いですよね。

私はこの流れを、「剣と魔法」を日常世界の外に用意するのではなく、
日常に取りこんでしまったものと捉えられないかと考えています。

この場合、日常にどうやってファンタジックなものを取りこむか、というのが
大きな問題ですが、1つの解決策として
あざの耕平さんが「Dクラッカーズ」でやった、人間の深層心理内に
ファンタジー世界を構築してしまう方法があると思います。
「剣と魔法のファンタジー」というのは想像上の世界なのですから、
つまるところ存在する場所は
現実に生活している人間の心の中ではないか、というアイデアです。

もちろん他にもいくらでも方法はあるはずで、
今も作家さんたちが頭をひねっていると思います。(笑)

>上記した作品のほとんどすべてが、事件をくぐりぬけた主人公が
>それまでの日常に回帰する展開で終わっていることは象徴的です

私はこれで良いのではないかと考えています。
くみにゃ様の言われるように

>勇者の道は伝統的に「探索〜クエスト〜」なんだぞー(笑)。

とも思います。正直、激しくそう思います。(笑)
でもファンタジックな体験は、それ単体でより、現実とセットでの方が
魅力があるとも思います。

57 名前 : 時海結以 投稿日 : 2004年06月19日(土) 16時25分50秒
ああ、原稿締め切り、ちょっと執筆から気分転換、お許し下さい。

研究者を目指していた私は現在民話とか昔話を研究しているのですが、と言いますか、そっちを本格的な小説の創作よりも先に始めたのですが(笑)。

民話といいますのは、非日常の物語、ファンタジーです。日常のご近所のうわさ話とは別の物語です。
これを遠い昔は、口承で、たき火とか囲炉裏とか暖炉とかの周囲で、語り部やらお年寄りが、子どもたちに語って次世代へ伝えたのです。
で、その目的は何か。

子ども・若い人に「生きる知恵」を教えるためだったんです。そうそうやたら、命が危険にさらされるような冒険はできません。
知らない世界へ旅に出て、探求もできませんよね、子どもにも生活のための仕事がいっぱしにあるのだから。
一部の狩猟採集を主な生業とする民族では、例えばバンジージャンプみたいな通過儀礼をしましたが、農業だの牧畜漁労山林業が生業になった民族では、よその土地への移動も自由ではなく、民話が「ピンチに生きるサバイバル術、異文化との交渉術」を定型化して疑似体験させる役割を担ったのですね。

だから、自分が育って暮らしている「日常空間」である村社会から境界を越えて、「非日常空間」でサバイバルやら交渉やら未知の経験やらをして、知恵をつけて村社会を導ける大人になって帰ってくる、これは疑似体験として当然なわけです。村社会の存続のため、帰ってくる必要があるのです。
ということで、ファンタジーの主役は若者だし、冒険と探求をするし、大きな存在を倒すし、成長して帰ってくるんです。

とくに目的の一つに子孫を残す相手を見つける、というのがありますから、伴侶を捜し、恋もするのです。
なお、民話の冒険者に男性・少年が多いのは、女性の地母神信仰との関連などが考えられますが、割愛しますね、専門的になってくるので(笑)。畑仕事の少ない北欧だと、少女も同等に冒険をする民話が多いですよ。

なので「往還」つまり「冒険へ行きて帰りし物語」が民話・ファンタジーのスタートなのです。
これを、日常から切り離し、異世界の中での「往還」を創作・確立したのが、多分「指輪物語」のトールキンではなかったかと。

これに対し、日常世界へ、非日常のの何かがやってくる「召喚・到来」タイプという派生が生まれるのですが、それはまた別の機会のお話とさせてください。

ですから、作家の皆さまは、何万年と続いた人間の大切な文化を担う、末裔なのですよ(笑)。
余談、江戸時代の草双紙・合巻にて形が確立され、大正時代の立川文庫で普及して以来、ライトノベルの文庫のスタイルというのは、日本の伝統文化です。私は断言しちゃいます(笑)。
フルカラーでかっこいいキャラがポーズを取っているイラストの表紙(カバー)、アクションと恋愛に特化した荒唐無稽ともいえる非日常のストーリー、次々と読者の求めに応じて出る新刊、自分がこの伝統を受け継ぐ作り手の末席であるのを、誇りに感じています(笑)。

なんか時海、初めて自分の経験ではない話を語ったような(^^;)。
力が入って、失礼いたしました。

58 名前 : 時海結以 投稿日 : 2004年06月19日(土) 16時34分15秒
上記に補筆。

江戸時代から、このファンタジー本の手のひらサイズとか、中に挿絵がいっぱいとか、読者層ってほぼ変わらないんです(笑)。
このスタイルで200年以上もやっているんですね。
だから、「絵師」さんという呼び方にだって、粋な伝統を自分は感じています。

失礼しました。

59 名前 : 海燕 投稿日 : 2004年06月21日(月) 06時41分42秒
>「バトルロワイヤル」

正確には「バトル・ロワイアル」です。ごめんなさい。

>どうかもっともっと語ってください。たくさんのことを。

そう言っていただけると恐縮です。嬉しいです。ビルから飛び降りるのはしばらく延期しようかと思います。

>そんなとこになんで未練があるのか、そんなにあわてて戻らなくたっていいじゃん、というか(笑)。

これは僕の書き方が悪かったかもしれません。むしろこれらの作品では「事件」と「日常」が対立的に捉えられてはいないと考えたほうがわかりやすい。事件は日常のなかにあらかじめ組み込まれていて、事件が終わったらふたたび日常生活の平穏な部分が(次の事件までの一時の平穏にすぎないにせよ)顔を覗かせるということなのだと思う。ところで、「壊れた世界」という言葉のソースを見つけました。「本格ミステリこれがベストだ!2003」のなかの巽晶章氏の論述です。この文章は非常にわかりやすく的確に現状を捉えているので引用させていただきます。

 壊れた世界とは、妄想を組み込んだ世界といっていいかもしれません。彼らに共通するのは、日常と非日常、正常と異常、常識と妄想がなし崩し的に同居するような世界像です。人間の肉しか食えない女の子が澄ました顔で高校の授業を受けているといった風景が、当然のようにあらわれる。そこには、事件の舞台として確固たる別世界をしつらえようとする意思が希薄だし、非日常的な事件が日常世界を侵犯し、崩壊させるといったドラマの緊張もありません。そうした侵犯は、当たり前のこととして物語りの初期設定に組み込まれている。いいかえれば、日常と非日常があいまいに密通し、妄想が日ごろの生活のあちこちで不可分のパーツとなっているような状態こそが、「日常」であるとみなされているわけです。

これが僕たちの時代、僕たちの日常、僕たちの戦場です。生と死、日常と非日常がチェスボードのような入り組んだ模様をえがく異形の世界。家から一歩足を踏み出せば修羅の戦場が待ち受けているかもしれない危険な世界。もはや暴力的な反抗によってそれを破壊し蹂躙することすら魅力的ではありません。なぜなら、世界ははじめから「壊れて」しまっているのですから。この「壊れた世界」は、従来の価値観がすべて崩れ去ったあとの廃墟でなお生きていかなければならない若者たちの切実な苦悩を反映しているようにも思えます。大人はすぐに忘れるけれど、子どもであることは、いつだって楽じゃないんですね。

>一方で誘導的にも感じました。

えーと、僕の書き込みはライトノベルについての一般論ではなく、「ファウスト」あたりに作品を発表している作家の作品を中心とする一部のライトノベルと一部の漫画を作品群の作品傾向を、70年代〜80年代に流行した伝奇小説の傑作(「ウルフガイ」とか「ヴァンパイアー戦争」とか)と比較しつつ観察した論考として読んでいただければ嬉しいかな、と。そう読めない部分があれば僕のミスです。ライトノベル全体を俯瞰した作品傾向については僕よりもっと適切な論者がいると思うので、だれか書いてください。

>超能力者がバシバシ出てくる部分が「ブギーポップ」の魅力ではないと思います。

超能力者がバシバシ出てくるものはたしかにむかしからありますね。このテーマのいちばん古いのはオラフ・ステープルトンの「オッド・ジョン」あたりにまでさかのぼるんじゃないかと。で、そのイメージがヴァン・ヴォートの「スラン」に繋がり、日本にわたって平井和正や筒井康隆の作品を生み、今日のライトノベルにまだつながっている……という歴史が、あるようなないようなやっぱりあるような。「ブギーポップ」はその超能力者の組織について奥行きのある説明をつくることを放棄しているようなところがあたらしいな、と。「ウルフガイ」とか「ヴァンパイアー戦争」では非常に重要だったところをあえてスルーしている。まあ、「ビートのディシプリン」で多少出てきましたけど。

>人間の深層心理内にファンタジー世界を構築してしまう方法があると思います。

むかしむかし富士見ファンタジア文庫から出ていた「夢探偵矢尾一気」シリーズを知っているひとはいるでしょうか。これも「夢探偵」の主人公が人間の精神のなかの世界を巡るサイコダイバーものなんですけど、けっこうおもしろかった記憶があるんですよね。ここで僕は「ああ、あれね、たしかにおもしろかったね」と言ってくれるひとがあらわれることを期待しているんだけれど、無理かなー。

60 名前 : 来無 投稿日 : 2004年06月21日(月) 09時33分40秒
久美様
他スレで放置してしまっていた「基礎」の話も含めつつ

机の上が水浸しになってしまい。ノートや教科書がびしゃびしゃになってしまった。
洪水が起きて机の上まで水が寄せたのだろうか?
喉を潤そうとポットを傾けたとき水を受けるコップが小さ過ぎたのだろうか?

歪んで伸びてしまった苗がある。土に触れてしまう葉が傷み、それが他の苗をも蝕むことになった。
苗は苗床が窮屈だったが故に自分の伸びるべき狭い空間を探した挙げ句に歪んでしまったのだろうか?
それとも温室の苗床においてすら、己を支えられぬほど茎に勁さが無かったのだろうか?

件の少女が前者であれば久美様の言にも理があるだろうし、後者なら封様や一意見様の言の方が正鵠を射ているだろうと思ったり。私はおそらく後者だろうと見当つけていますが。
自制の壁が無ければどんな些細な感情や妄想だって溢れます。
反省や批判、妥当性等一切考慮しなくていいならどんな計画だって実行出来ます。
普通の人が殺人や自殺を恐れるのは、勇気や行動力が無いからではなく。正常なリミッターが働くからで。普通の人ならつばつけて直す程度の傷が怖くて怖くて、だから凶行に走ったんではなかろうか?

他人を傷つけるのが怖い、というのは、自分の方が傷ついても多少なら平気ということでもあろうし、
自殺が怖いというのは、生きて苦しむのなんかそれほど怖くない、ということであろうと。
恐れるべきものを恐れ、自制すべきものを自制するのが、勇気であり行動力ではないかと。
酷い高所恐怖症の人は恐怖に耐えきれず「飛び降り」ることがありますし、不潔恐怖症の人は汚れることを恐れるあまりにそれ以上汚れないほど自分を汚す(ホームレス化したり)ことがあります。
恐怖の対象に同和することで恐怖から逃れようとする逃避行動であって、勇気の末じゃありません。

>>事件をくぐりぬけた主人公がそれまでの日常に回帰する
>のが、正直、違和感なのです。
事件の遭遇が探索ではなく逃避の結果だったりするから、物語では日常に回帰するのではないでしょうか。改めて、本来の場所から本当の探索をはじめるために。主人公、逃げ回るだけで勇者になったらおもんないですし。
あ、いや、ちょっと手強い敵に遭遇しちゃったから次にもっとヤバいのに合う前に手堅い所で経験値稼ぎに戻ったとかかな?次はもっと遠くまで行くんだ、と。そういうことかも


学校や教育
そこが戦場ならファッショもむべなるかな、と言う気がしなくもなかったりするわけですが

>学校というところの最大の欠点は、ほとんどの場合、学校という機構から外に出て生きてみたことのないひとばかりがそれを形作っているということだと思います。教職員の大半は、大学で教員になるための過程を選択し、卒業するやいなやどこかの学校に就職するわけで
外を知らないことよりも、教員になる過程での訓練が緩いんじゃないかと。大抵の大学は教職過程をとれば教師になれるし、デモシカなんて言葉が昔ありましたが、教師が余って採用待ちになるほど、教員免許自体は簡単だと言うことでしょう。教育実習も2、3週間ですし。大半がプロがなりきれてないんじゃないかと思うんですけどね。そっちが問題で。

>クレたことのないひとにはグレる気持ちはわからないし、オチコボレたことのないひとにはオチコボレる気持ちはわかりにくい
グレたことのある奴にはグレる気持ち、オチコボレた人にはオチコボレる気持ちが、わかりやすい。
かもしれない。でも、真面目に正面から克服してる奴の気持ちは解り難いだろうな、と思うし。
私なんぞは、“学生時代にグレて他人様に迷惑をかけていたような輩”に先生面されたら、それこそ反発を覚えるタイプなのでヤンキー先生だのGTOだのは、物語としては楽しめなくもないけど実際には御免被りたい(もはや自分が学校で教わるようなことは無かろうけれど)。第一ああいう連中に体が弱いとか、運動できないとか、いじめられっ子の気持ちなんか解るんだろうか?
もっとも個人的には教師が生徒の細々した心情なんか理解出来なくて当然だしそれで良いと思ってるんですが。(だから真面目な純粋君で全然OKなので変なのに来て欲しくはない)


現場、実社会から講師を招いての授業、一見良さげだけれど、本当にそうだろうか?
そもそも、学校教育には素人なわけで指導力にも疑問がなくもないのだけれど。
で、実際、そういう手法に熱心な教育機関があります。専門学校と言う奴が。教師陣はみな現場の人間、金のある学校ならば一流の成功者が「たまに」顔を見せることもある。で、これは役に立つのか?

大体、講師に来れるのは、それなりにその道でなんとか身が立っている人。つまりは小なりとも成功者であって失敗者は来ない。(となるとやっぱりオチコボレの気持ちは解らないんじゃ?)
その人独自の成功法があって多くの場合それは他人には真似出来ないし、しても二番煎じにしかならない。
誰でも役に立つ方法を公開することは大抵の場合公開者の首を絞めることになる。
若いライバルを育てるだけな場合、本当に大事な手の内を、教えられる人が何人いるでしょう?
現場では、技は盗むもの、であるのが普通です。盗むのはその時点で相応の技術と目が出来てないと無理です。
で、そういう所から学校と言ういわば温室に来て何を教えてくれるのか。ありきたりで毒にも薬にもならない、その場のウケのいいだけの知識ではありますまいか。
結局、頼りになるのは基礎技術とその反復修練で鍛えられた地力(のみ)です

>いま、こどもたちには、これまでのオトナが持ってきたのとはまるで違う動機や目標が必要なんじゃないですかね。
と言うのには同意です。
と、いうか。学校の勉強にはやはり普遍的な動機や目標が必要なんでしょう。
今まで半端に実用を追いかけてたから、時代が変わるごとに無用の長物になりそうな不安感で荒れるのだ
と思います。役に立つだろうと見返りを求めてやるから見返りがなくなるとやる気が削げるのです。
最初から特別な見返りが無いことをハッキリさせ、その意義を正確に教われば、基礎の反復と言うのは実に楽しいものです。
土台は土台だけでは何の役にも立たない。しかしいつか自分の家の土台になるのだと思えば、土台を作るのをおろそかにしたがる人間はおそらく居ない、しかし、それが土台であることを説明されなければ、あるいは土台の重要性をしらなければ、土台を作る作業は拷問みたいなものでしょう。大事な説明を省く(あるいは出来ない)教師が多すぎるから学校が拷問を耐える場所になってしまい結果荒んだ“せんじょー”と化してしまうし、魂が“せんそー”と言う無益な時間を過ごすことになってしまう。のではないか。と思う次第です。

61 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月21日(月) 12時06分21秒
海燕さま。

>事件は日常のなかにあらかじめ組み込まれていて、事件が終わったらふたたび日常生活の平穏な部分が(次の事件までの一時の平穏にすぎないにせよ)顔を覗かせるということなのだと思う。

ああ、なるほど。そういう意味なのならよくわかります。ごめんなさいです。

来無さま

>普通の人が殺人や自殺を恐れるのは、勇気や行動力が無いからではなく。正常なリミッターが働くからで。普通の人ならつばつけて直す程度の傷が怖くて怖くて、だから凶行に走ったんではなかろうか?

そうかもしれない。あのね。わたしは自分にその正常なリミッターがあるかどうか、正直、自信がないんですよ。天然素材に信頼がおけないから、なにか「しないですむ」理屈が欲しい。しかし理屈で納得しているだけだとアタマがイカれてしまったらどうなるかわかんないんで……他力本願するしかない。わたしは特定宗教を信仰していないので(やおよろずのかみさまは信じてるつもりですが)人間関係のキズナってやつに、ウェブ状に守ってもらうことを期待するしかない。アホしようとしたら「よせ」と止めてくれるだろう誰か。理屈がどうでも、自分の感情がどうでも、とにかく「そのひと」を悲しませるようなことはしないでおこう、と思わずにいられない誰か。そういう誰かが(たとえすぐそばにでなくても、連絡しようと思ったら連絡がとれるだろうどこかに)いてくれないと、ワシ、なにするかわかんねーです。
だから……いちばんこわいのはコドク。大好きなともだち、大事だと思えるひとたち、そのひとに嫌われるような自分になりたくないと思える誰かが、もしひとりもいなかったら、わざわざ生きてなんかいたくない。生きてるのがマッピラになっちゃったら、どんな「禁忌」も抑止力にはならないんじゃないかなぁ。

教育に関して。すみません、コトバ足らずでした。

現代社会の構成員にほんとうに必要とされる学力はそんなに高くないはずだとわたしは思ってます。ヨミカキ計算、歴史や地理や科学の基礎教養は全員が一応おさえておいたほうがいいとしても、いまもっとも必要とされているのは、むしろ、知らない誰かとであったときにコミニュケーションを成立させる能力なのではないかと思っているんです。
各教科でテストのために暗記させられるようなことは、多くの場合、思考力を増しているというより、単に記憶術を高めているだけ。ネットでちょっと検索すれば多くの分野で原点やその評論、まだ「教科書にならない」ような最先端の知見にでも、直接触れることができる現在、単なる「暗記」能力なんかもう必要ないですよ。本人が興味をもって深く詳しく知りたくなったら、好きに探索し追及できるような環境は必要だし、リファレンスの基礎を身につけるために何度かは「特定の」課題を出されて調べものをしてみる経験も必要だとは思いますが。
で、「ふつーのオトナが知らないこと」「もう忘れてしまったこと」ようするに「日常生活ではまったく必要としないこと」を、テストやら受験やらのためにセッセとツメコむ時間があったら、もっと大事なことにつこたらええやんか、と思ってるわけです。
(もちろん、学者になるようなひととかは話が別ですよ。学問することそのものが好きで、どんなことでも、トリビアでも、とにかくいろいろな分野の細かな知識をたくさん知ってそれを自分なりに体形だてて繋ぎあわせたりすることが楽しいのだし、その結果新しい発見やものの考えかたなどがうまれてくるのですから)

だから、「学校教育には素人なわけで指導力にも疑問がなくもない」ひとが、逆説的に「必要」だと申したのです。
そういうひとが自分のひごろの生活の中で感じたことや考えたことを、次世代に伝えていったらいい、と思うのです。どんなシゴトをしてたって、それぞれの知恵、発見、工夫、喜び、後悔、反省、その他いろんなものが出るでしょ。そのうちには「このことだけは是非コドモたちに伝えたい、ここから何かを学んで活用してほしい」と感じるようなことがあると思うんです。
そして……たまたま現れた知らない大人、そんな機会がなければ面と向かうことなんかないヨソのオジサンオバサンオジイサンオバアサンの話を、一期一会と感じて、そこから何か自分に役立ちそうなことをそれこそ「盗んでやろう」と真剣に聞くことができるなら、コミニュケーション能力は、すごいあがりませんか?

いわゆる一方通行の「成功者の自慢話」講演をやれといっているのではなく、あくまで、双方向で、コドモのほうからも聞きたいことがあったらどんどん質問し、ツッコミどころはツッコンだらいいと思いますし、むしろ「さまざまな失敗」に学ぶべきことがらが多く隠されているだろうことはいうまでもありません。
はたまた、必ずしも、現況の授業のような、一対多数の「エライひとがそっちのいいたいことを一方的にいってきかせる、黒板になにかかいてノートにうつさせる」スタイルである必要もまったくありません。たとえば、保健室に養護のセンセイがいるように、図書室に司書のひとがいるように、学校内に「今月のゲストの溜まり場」みたいなのがあって、そっちにいきたい子はいつでも自由に出入りできるようにしたらどうでしょう?

>私なんぞは、“学生時代にグレて他人様に迷惑をかけていたような輩”に先生面されたら、それこそ反発を覚えるタイプ 

わかりますわかります。
だからね、「先生面」をしないオトナが欲しいんですよ。ふつうのオトナが。年齢はコドモたちより高いかもしれない、自分なりの経験は積んでいるかもしれない、そういう意味ではそれなりに尊重はしなさいとコドモには言っていい、でもあくまで「ふつうの」生活人であり職業人であるオトナが。
そういうオトナが入れ替わり立ちかわりそこらにいる状況になると、そういったオトナの目からみてもなにか尊敬できるような面をもしもひとつも持っていないような教師がいたとしたら、そんなひとそうそう「先生面」なんかしてられなくなると思いませんか?

「親」と「先生」しか知らないまま、その狭さを自覚しないまま、将来のことを考えるのは、シンドイ。

たとえばの話。農村とか漁村とかコドモも労働力にした地方や、お祭りなどで地域の交流の強い地域には、これに近いことが実際に起こってたと思うんです。ムカシは。都会でも、そこらじゅうに銭湯があって、コドモさんも赤ん坊じゃなくなったら、ひとりで、あるいはきょうだいそろって、銭湯いってお風呂はいったりしたでしょ。そこでは(同性に限るかもしれないけど)いろんなよそのひとに出あって、否応なく「社会性」のトバグチを身につけただろうし、「おう、サカタんちの坊主か。おっきくなったな」とかっていわれることによって「家族」単位のコミニュティーの「その場での代表」としての自分を意識せざるをえなくなったこともあったと思うんですよ。そういうとこでね、たとえば、釣り、とか、囲碁、とか、エスエフとか、どうもタトエが古くて申し訳ないですが、同じ趣味とか道楽を共有する同士なら、その「ハマッテるもの」の習熟度で、年齢が逆転することもあるだろうし、ジーサンとマゴみたいなふたりが、すごいかけがえのない友達になったりもできたかもしれない。

イヤ、たとえばこのサイトとかスレなんていうのは、実はすごいことやってますよね。お互いがどういうトシで性別かなんてのはいったんタナにあげて、あくまで「個人と個人」がそれぞれのものの考えかた感じ方を交流させているので。だから面白くて、なかなかやめられないんですけど。

おおお。小説が、あるいはライトノベルでもいいんですが、そういう意味で、世代の断層にカザアナをあけてくれるものであってほしいですねぇ。そういうのかけるといいなぁ。

 





















62 名前 : Surreal 投稿日 : 2004年06月21日(月) 19時19分32秒
 わ、ヘンなこと言っといて全然おいつけてないよ〜。

 なんていいますか。
 もうとっくに言われていることですが、「剣と魔法のファンタジー」も結構ボコボコ殺してたと思うんですよ。
 それこそ、殺すものあるいは戦闘するものの立場はけっして憎むべき「悪」ではなく、むしろ「そうありたいヒーロー」であると言えるぐらいに。
 対怪物がやはり多かったけど、そればかりでなく対人戦も多かったし。

 で、舞台が現代的な亜現実が増えてきて、やっぱり同じぐらいボコボコ死ぬ。
 なのだけど舞台が亜現実な分だけ、別世界のことだしみたいな頭の中での言い訳がしにくくなって、現実の倫理や現実の方をダイレクトに印象づけられるし、そもそもより現実と照らしやすくなったのが、最近のモノは人死にの扱いが軽くなったという感じに感じる一因なのかなと。

 でもまあ、それこそドラゴンクエストII辺りの時期からしばらくは「RPGは戦闘ばっかりで殺し殺され、しかも殺されても教会でお金使えば復活できて命を大事にしてる様子がない」って批判する人はいたわけで。
 ……それ考えると、もう10年後には、亜現実でキツ目の生死のやりとりというスタイルもそれなりに定着あるいは飽きられ、もしかすると別のまた違ったスタイルが同じような批判を受けてるのかも知れないなって気もしないでもないです。

 ちょうど、“悪魔の音楽”として批判の対象になったモノがブルース、ジャズからロック、その中でもヘビーメタルという感じに移り変わっていったように。


 でもそれってドンドン過激化してくってことなのかなあ?
 何か個人的印象かもしれませんけど、最近ライトノベル、あるいはマンガアニメゲームと全般的に見て、ちょっと前と比べると、なんかどっかバランス欠いて濃い味になってるのが流行りなんじゃないかなあ、という印象は覚えます。

 なんていうのか……ご飯あって、味噌汁あって、おひたしあって、肉じゃがあって、焼き魚あって……って感じじゃなくて、カステラ一斤丸々食べちゃった!とか羊羹一棹丸かじり!とか生ハム山のように買ってきてひたすらつまんで食ってるとか。
 いや、食べ物で例えたのが適切かはアレですが、おいしいものだけ単品で山ほど的な。

 よしあしは別として、そんな感じの偏りと濃さが印象として残る感じがします。


 ……しかし、このスピードで回ってると、全然追いつけないなぁ(苦笑)。
 頭も議論に追いつけないし……まあでも、隅っこで気楽にしてるのがいてもいいよね?(爆)


63 名前 : Merlin C. 投稿日 : 2004年06月23日(水) 22時45分08秒
>ヒーローの女性化のはじまり
 Dr.スランプの則巻アラレでしょうか。

>教育とか
 現代社会はそれこそ「バカ」でも生きていけます。分数のかけ算割り算が出来なくても、やる気がまるっきりなくても深夜のコンビ二バイトで日銭を稼いで何も頭を働かせることなくテレビ見て排泄して風呂入って寝るだけで。その意味では学力は全く必要ない。下手したら九九も要らないかもしれない。
 でもそれはすべて他人に依存する生き方です。誰か(機械でもいいけど)を無条件に信用して生きていく方法。言い換えれば、脳みそを他人に預けて生きていく方法。
 そりゃ楽です。人類それを目指して一万年頑張ってきたんだから目指すところまでこれたわけで目出度いです。そーなっちゃたらそれこそ何もやる気起きません。
 でも、人間としてそれでいいんですか?
 あ、さっきの例えは何かの目的を持って頑張って深夜のコンビニバイトしている人をそういう目で見ているというわけではないので念のため。会社の中にだって頭動かさないで座ってるだけでお金もらってる役立たずが山ほどいて(それも会社の上の方に多いような)、でも今の企業にはそれを養うだけの体力はもはやないので職場を再構築しよう、それがリストラ(Re-structure)。やりすぎたり何かの間違いで有能な人間まで切ってしまうとその会社はさらに傾きますが。

 で。コミュニケーションを図るにあたってはお互いに持っている知識の集合が重なれば重なるほどスムーズになるという経験則があります。いわゆる特定ジャンルのヲタク同士の会話は高圧縮呪文みたいなもので別ジャンルの人間には全く理解不能ですが、その中では凄まじい密度で情報交換がなされているわけです。この呪文をプロトコル(情報規約)とよびます。
 このとき、相手が特定ジャンルについてある程度の知識を持っていればある程度スムーズにコミュニケーションが進行しますが、まるっきり素人だったりするとそのプロトコルを説明するところから始めないとコミュニケーションは成り立ちにくい。もしくはまるっきり成り立たない。
 このとき必要とされるプロトコルは、いわば知識の有機集合体です。
 つまり、知らない誰かとのコミュニケーションにはやはりある程度の知識を必要とする、というわけです。で、知識を増やす行為は結局暗記のネットワークです。
 最先端の知見に触れるためにもプロトコルは欠かせません。「ニュートリノに重さがある確率は99%になった」といわれて面白いと感じられる人間には宇宙核物理学の素養のプロトコルが備わっているわけです。
 もちろん、その事について興味を持つためにはあらゆるきっかけが必要です。学校教育での「暗記」で触れた知識に興味を持つ可能性はないといえますか? むしろ、興味を持たせるためにこそ多くの知識に触れさせることが必要と感じています。
 思考力の基礎にも知識は欠かせません。ものを知らない人間の言論の何と浅薄なことか。もちろんわたしのこの意見は棚のはるか上の方に(笑)
 思考は言葉でつづられます。言葉を紡ぐことで人間はものを考えます。言葉の量はそのまま知識の量です。言葉を知らないから自分の感情に理由を見いだせない、説明を見いだせない、キレる。
「単なる暗記」と「有機的知識集合体」の境界条件はなんですか? 暗記はただのショートカットに過ぎません。それだけのことです。
 他にも、今の社会はやっぱりものを知らないと損します。インチキ商品買わされます。無茶な高金利を貪られます。それでも楽したいというのなら止めはしませんが。
 ついでにいうなら、暗記力は脳科学的に使わないと育ちません。脳が発達する時にいろいろなものを覚えさせようとする行為は否定すべきではないと思います。
 でも、教える立場になってみると教えるという行為は自分のこれまでの知識すべてを総動員するとてつもない作業です。考えると先生は大変です。
 で、「優良な労働力を社会に提供する」目的が薄れた今の教育現場で必要なのは、「子供たちに社会のあらゆる正当な選択肢を提示し、それに向かうための手段を提示すること」じゃないかと思います。暗記だってなりたい自分になるためのもっとも有力な手段の一つです。たいていの大学入試なんて暗記力テストですし、たくさんものを覚えてテストでいい点を取ることで選択肢は確実に広がるのですから。その意味で、大学入試は日本でもっとも機会平等な進路選択方法です。まー、それだけに価値を見いだすのはおかしいと思いますし、見いだされたら芸術なんて成り立ちませんけど。
 ま、こんなことが言えるのも受験社会のほぼ中央をまがりなりにも突き抜けて数年経った人間だからかも知れないですけどね。自慢です。
 ちなみに暗記は苦手でしたが下らない(脈絡のない)知識だけはやたらとため込みました(笑)

 国土が荒廃した国で、真っ先に必要とされる施設は、病院などの医療施設と教育施設です。新しく学校が出来た土地の子供たちの授業の、何と楽しそうなことか。
 逆に、奴隷制度が生きていた時代、奴隷には名前と命令を理解する程度の言語しか与えられませんでした。それでも奴隷は生きていけます。使用者にとっては奴隷に死なれることは損ですから、最低限生命の保証だけはしていたようです。
 日常生活に使わないだろう、ということでも考えずにいられないのが人間であり、むしろ考えるからこそ人間なのでは?
 大事なこととそうでないことの境界条件は?
 ついでにいいましょう。テレビとかCDとか、仕組みをきちんと説明できる人間がどれだけいますか?

 何となく、「テスト」に否定的な気持ちをもたれているのかも知れません。でも、ほとんどのテストは「その知識を有することを示す免状」のようなものです。文部科学省が示す基準は、この免状がどれだけあれば卒業に値する、というだけのことで。テストしなくても免状は出せますが、テストの方がはるかに楽です。主に受ける方が。

 といいつつ、わたしは教育関係者じゃないので、もしかしたら眉を顰められる意見かも知れません……。
 我ながらちょっと乱暴な意見だなあと思いつつ。

>児童文学とライトノベルとイラスト
 児童文学はイラストを背景的に使い、ライトノベルはイラストをアイコン(板絵・イコン)的に使っているような気がします。
 もちろん何事も例外はあると思いますのでとてもざっくりとしたきり分け方です。
 わたしが児童文学方面に戻ってきたのはごく最近で、そして最近の方ではまだごく僅かの作家さんの作品しか読んでいないのですが。
 保育園時代は図鑑好きだったわたしが物語、ひいてはファンタジーにどっぷりハマるきっかけになったのは佐藤さとるさんの作品、とりわけ「コロボックル」シリーズでした。
 佐藤さとる作品と切っても切れないのがあの挿絵です。コロボックルシリーズの初期は違う方が挿絵を描かれていたそうですが、今となっては全く想像できません(一度拝見してみたいものです)。
 う゛ー、この先ちょっと苦しくなってきた(汗)ので思いつきだけ、申し訳ないです。

64 名前 : 来無 投稿日 : 2004年06月24日(木) 06時28分29秒
久美様
>生きてるのがマッピラになっちゃったら、どんな「禁忌」も抑止力にはならないんじゃないかなぁ。
なりませんね。抑止力が全くなければ、誰でも、どんな行動をとることも出来ます。戦場みたいな所で残虐行為が起きたりするのも同じ理屈でしょう
私の場合は、死んでも、迷惑かけられない人が居るので安心です。連絡が取れるかどうかは重要な関係ではないので(生死も問わず)、確実に一人ゲットです、よかった(ほっ)
私が子供だった頃に比べると、田舎だったせいもあるにしろ。学校の外での他人との接触が減ってるんでしょうね
その意味ではある程度のバランスで学校でそれを補っても良いのかも知れませんが。実際、体験教育みたいなのはそうですよね
ただやっぱり教師は学校教育のプロであって欲しいし授業のプロ(受験指導のプロではなく)であってもらいたい。金を出して(含、税金)教育を受ける以上プロの技術を味わいたい。
たまには素人のヨタ話をきくのも悪くはありませんが。それが正規のカリキュラムというのはなぁ
で、ですね
>いわゆる一方通行の「成功者の自慢話」講演をやれといっているのではなく
と言ったって、本当の恥や挫折をネタに出来るような人がいったいどれほど居るものか。子供に蔑まれることを承知で講師に来る人もいないだろうし、で、結局失敗は克服したからここに居る、状態なんで、どう聴き回しても結局は成功譚になるだろう、と。よくビジネス書にある「誰それに学ぶなんとかの秘訣」みたいになっちゃうだろうと。
それとは別に私的には学校は学校、外は外、と区別して欲しいんですよね。うちの田舎の中学、帰宅してからも外出に制服来て出歩かなきゃ行けないみたいな変な規則があって、もうね、本当嫌だったんですよ。私は多分一番それを守らない生徒だったんで度々問題になったんですが(親もさすがに馬鹿げた規則だと思っていたので結局卒業するまで守らなかったんですが)外で会う人(自分が師事したい人)まで学校に決められたないわ、という、これはこれで、そういう相手を外で勝手に見つけられる性格の奴のわがままかも知れませんが。

コミュニケーションですが、授業でのやり取りはまんまその訓練だと思うわけです。
明らかに世代が違う相手に、授業内容と言う制約をしつつ。何が解らなくてどう質問するのか、失礼は無いのか自分に落ち度は無いのか、そういう訓練をしつつ、思考力と分析の基礎になる知識を貯え、行動範囲が広がるに従って外で少しずつ実践していくという。
問題なのは教師の方にその能力が無さげだと言うそのことでして。

>おおお。小説が、あるいはライトノベルでもいいんですが、そういう意味で、世代の断層にカザアナをあけてくれるものであってほしいですねぇ。そういうのかけるといいなぁ。
やっぱり結構昔から体験不足を補うのは書物でしょう(映像やWebもありますが)御著作に期待しております
別スレの話ですが
>『死せる詩人の会』の映画版
いまを生きる、でしたね。月刊OUTで絶賛されていた覚えが…なんでこんなタイトルになったのか?

Merlin C. 様
暗記さえしていればどうにでもなるようなのは勉強とは言いませんわね。
コミュニケーションの基本が知識の蓄積、暗記であるというのは同意できますが(まず相手の顔と名前を覚えることから始まりますしね、私はこれが苦手で…(ーー;)
>たいていの大学入試なんて暗記力テストですし、たくさんものを覚えてテストでいい点を取ることで選択肢は確実に広がるのですから。その意味で、大学入試は日本でもっとも機会平等な進路選択方法です。
は、どうなんだろう?やる方もやられる方も解りやすいのは確かですし、機会は均等ですが、これだと暗記力が高いことが選択肢を得る条件ということになり選抜方式として適正かというと違うような気はする、受験能力と学力、知力はやっぱり違うでしょう(共通部分はあるものの)
受験能力が現実的知力に必ずしも反映されないから、学歴の威光が最近多少なりとも薄れてきたわけでしょう

65 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年06月24日(木) 09時09分58秒
おふたかたありがとうございますー。

慣性の法則ってなんにでもあり、現状って「ちょこちょこ手直し」だけだと、そう簡単にかわんない。で、やなとことかへんなとことかを相殺しいったんバランスを回復するために、なにがいいだろう? って考えたらアレだったんですね。

教師とも思えないようなハレンチでムチャクチャな教師がいろんな問題起こしてニュースになっているけど、1匹いるとこには30匹いるはず、このへんをどうするかとか。
ベンキョウについていけなくて、あるいは、ベンキョウどころじゃなくて、家庭と学校のどちらにも居場所がなくなっているコたちをどうするかとか(←これはかなり緊急課題だと思う)。
ついでに、不況とか高齢化社会でともするとあまってる「オトナ」を、なにか効率よく有益に使う方法はないのかとか。

一石三鳥いけるやんか! と思ったんですけど……あまりに極端で実現可能性がなさすぎたかなぁ。



66 名前 : 早雲 投稿日 : 2004年06月24日(木) 15時19分28秒
基本的な質問ですけど児童文学の対象年齢って何歳なんでしょうか?
ついでにガジェットとはどんな意味ですか?

>くみさんへ
家庭と学校のどちらにも居場所がなくなっているなら
社会に居場所求めるしかないんじゃないですか?
地域社会で安らげるコミュニティをたくさん用意できるかは
解りませんが。

67 名前 : くぼひでき 投稿日 : 2004年06月24日(木) 15時50分34秒
>早雲さん

対象年齢。
難しい質問です(^^;。

書く人によって変わるし、売り方によっても変わるんですよ。
何歳になって読んでもいいし、むしろ、お年寄りが読む児童文学があってもいい、と、童謡論の講義を受けたとき、矢崎節夫さんは言ってましたし。

児童文学にかぶっている「児童」という冠が、
実際にその本を読む年齢としての「児童」をさしているのか、
それともそうではないのか。
これも、まだ決着がついてない(つかないはず)問題なのです。

その年齢以下は読めない、って書かれ方があるとしても、その逆ってのはないと思うんですね。
とすると、その年齢じゃないとだめ、ってのはないはずなんです。
むしろ、どの年になって読んでもいい。
年をとってから読むことで、再発見をする作品ってのもある。
だから、わたしは年齢は関係ない、というふうに考えています。


ガジェットは、小枝、小道具、それに類するもの。とわたしは思ってます。
(ほんとうに小道具的なものもあれば(たとえば武器とか)、
 そういう物理的な形状をとらないガジェットってのもあると思います)。


68 名前 : 時海結以 投稿日 : 2004年06月24日(木) 21時50分37秒
おじゃまいたします。
阿修羅のごとく、六臂で原稿が書けたらいいなとか思って一刹那現実逃避する締め切り前。
修羅場状態なので、ピンポイントレスでごめんなさい。

>早雲さま

児童文学の対象年齢は、自分で書いたり読んだりは自由でしょうが、商業的には決まっています。新人賞の応募では対象年齢を外すと、審査対象から(たとえどんなに良作でも)落とされる可能性が大きいですので、ご注意を。
大ざっぱにグレード(対象年齢)は以下の4段階ですね。
童話・幼年童話・幼年文学:読んであげるなら未就学児童から、自分で読むなら小学校1・2年生。
低学年向け:小学校1〜4年生
中学年向け:小学校3〜6年生
高学年向け:小学校5・6年生と中学生
YA(ヤングアダルト):中学生・高校生

児童文学の商業出版ではこのうちのどのグレードか、内容はエンターテインメントか否か、ということからまず編集者との打ち合わせがスタートします。
グレードにあわせて、主人公の年齢と、全体の最適なテキスト量と文章表現、漢字使用の制限が取り決められます。
早雲さまはもしかしたら、こちらのような具体的なお答えを求めてらっしゃるのではと感じましたので。

失礼いたしました。

69 名前 : 時海結以 投稿日 : 2004年06月24日(木) 21時52分12秒
訂正です。
すみません、グレードは5段階ですね。

70 名前 : くぼひでき 投稿日 : 2004年06月25日(金) 00時38分14秒
>時海さま

詳細ありがとうございました(^^。
おしごと、がんばってください!

71 名前 : 風狐 投稿日 : 2004年06月25日(金) 01時25分35秒
>対象年齢

低学年 1、2年生(幼稚園児まで対象に含むこともあり)
中級向け 3、4年生
高学年 5、6年生(中学生も含むこともあり)

だと思いますが…

ちなみに漢字の閉じ開きは、グレードによっても変わりますが、
シリーズによっても変わってきます。
普通は、作家が気にすることではなく、担当編集者さんが、
適当に開いてくれます。
ので、あんまり神経質になるべきことでもないような。

えー。意地悪でこういうこと書きに来てるわけじゃないんですが。
すみません。

72 名前 : Merlin C. 投稿日 : 2004年06月29日(火) 22時31分17秒
>暗記について
 指摘されると思ってましたが、わたしも暗記「だけ」に価値を置いているわけではありません。それはたしかに極めて偏った価値観です。先の意見はあくまで現実問題として、そうなっている気がするということで。
 以前申し上げましたがわたしは、高校までの「教育」はなべて暗記じゃないかと考えてます。辛うじて除くことが出来そうなのが国語の読解ですけど、これにしたって「原作者」の意図ではなく「問題制作者」の意図を読み取れというひねくれたものですからこれってそもそも教育なのかなあと。
 わたしだってこれが良いというつもりはありません。暗記力がその人の知力を表すものではないというのも。その辺の齟齬が起きちゃってるから学歴の威光が消えかかってるんでしょうね。
#ちなみに中央付近を通過したとはいえ学歴を誇れるほど有名な大学を出たわけではないです(苦笑)
 わたしが知力として定義するのは、「自分が知っていること、暗記していることを有機的につなぎ合わせる能力」です。で、自分の印象としては受験能力ってやっぱり暗記力に重きを置いてるなあと。
 筋道立てて理解していった方が本筋だし、暗記なんてショートカットでしかないんですけど、筋道立てて教える時間がないのもこれまた事実なわけで、この辺が難しいところだと思っています。
 たまに受験問題にも知力を問うものがありますね。有名なところでは「1〜10の数字を2つのグループに分けた時、それぞれを構成する数字の積が等しくなることはあるか?」という名古屋大の問題です。こんなもん暗記じゃ解けないでしょう。大学という機関の役割からすると、本来ならこういう問題を使うべきなのですが、考える方も大変そうだし……。
 大学で有機的な知力の育て方を教えてくれるのならいいけど、大学は教えてくれるところじゃないし。通過した人間がその辺を勘違いして「自分は選ばれた人間なんだ」という変な誤解をやらかしてるからいろいろ変なことが起きているような気がしますね。

73 名前 : 栗灰 投稿日 : 2004年07月30日(金) 10時54分37秒
大分上に流れた話題ですが、「命の軽さ」について思うところがあったために書き込ませていただきます。あくまで個人的な、「戯言シリーズ」、「GOTH」などを好んで読む一読者の抱いている思いとして聞いていただけると嬉しく思います。

「人の命は地球より重い」と言う言葉がありますが、正直、そんな重いものは持っていられません。こう書くと屁理屈のようですが、命について尊い、尊いといわれていると、まるで自分が「特別なもの」でなければならないかのように思えてくるのです。
そういった考えはかなりのプレッシャーになります。そんな風に言われても自分は取るに足らない一個人であり、意志や感情は脳の機能でしかなく、魂などと言う霊的なものが単なる有機機械である人体に宿る確信もない。自分や他人に尊厳のようなものがあるのか疑問に思えてくるのです
言ってしまいますが、そんなときに「現実感のない死」の出てくる作品を読むと、「安心」します。命なんてものはその程度でいいのだと思えて落ち着きます。
実際に、仲間の死に怒り狂う主人公と言うものに深く感情移入できることはあまりありません。死んだキャラの大切さがよほど上手くかけていた場合でなければ「よくあるパターン」の一つとしか認識されないのです。
これは現実に対しての現実感の欠如ということなのかもしれません。これが自分の人間性の欠如なのではないかと不安に思い、それが更にいーちゃん等への共感となります。
情けない、ヘタレの発言でしかないのかもしれませんが、こういう思いをもっている人がそれなりに大勢いるからこそ「ブギーポップ」「戯言シリーズ」「GOTH」等の作品に支持が集まるのだと思います。

くだらない悩みを書き連ねたようになってしまいましたが、ご勘弁を。


>バランス欠いて濃い味になってるのが流行りなんじゃないかなあ、という印象は覚えます。
それはあるとおもいます。まいじゃー推進委員会などは正にこういった作品を推すためのサイトでしょうし。
単に普通の作品に飽きただけ、ということもあるかもしれませんが、歪さそのものに魅力を感じるのも事実。フィクションのなかにも秩序ができて「作品にとっての普通」とでも言ったものが出来上がったために、その枠を破るような話に快感を覚えるのではないでしょうか。
思えば、「スレイヤーズ」の良さもそこにあったのだと思います。

74 名前 : 海法 投稿日 : 2004年07月30日(金) 19時10分59秒
 大きく本題を外れちゃいますが……。

>栗灰さん
>実際に、仲間の死に怒り狂う主人公と言うものに深く感情移入できることは
>あまりありません。死んだキャラの大切さがよほど上手くかけていた場合で
>なければ「よくあるパターン」の一つとしか認識されないのです。
>これは現実に対しての現実感の欠如ということなのかもしれません。これが
>自分の人間性の欠如なのではないかと不安に思い、それが更にいーちゃん等
>への共感となります。

 栗灰さんの人間性は、なんら欠如していません。
 あるとしたら、多分それは、欠如じゃなくて勘違いです。

 「人の命を大切にすること」
 「人の死、悲惨に感情移入して、悲しくなったり苦しくなったり腹が立ったりすること」

 この二つを一緒に語る人がいます。
「人の死を、命を、大切に、感じるべきだ」という人です。
 そういうのは気にしないほうがいいです。
 もし栗灰さんも、なんとなく、そんな風に思われてるのでしたら、ちょっと、聞いてください。

 上で述べた二つは、よくよく考えてみれば、全く別のことです。

 まず、感情移入すること。
 たとえ現実の事件であっても、自分に全く関係ない悲劇に感情移入するというのは、とっても難しく、大変なことです。それは精神的にも重労働ですし、ほんとうに始終、自分に関係ないことに感情移入していたら、疲れて何もできなくなってしまいます。

 だから、人が死んだら、怒ったり、悲しまなきゃいけない、なんてことは、別にないのです。それが小説の登場人物なら、なおさらです。
 そんなのは作者が下手なせい(栗灰さんにあわなかったせい)であって、なんら栗灰さんが気にすることではありません。

 一方、「命を大切にすること」というのは、命を大切にするように、行動することです。その時に、感情が伴ってるかどうかは、多くの場合、どうでもいい問題です。
 例えば、外科医。外科医であっても、身内の手術は難しいといいます。家族を思う気持ちが強いと、冷静な手術ができなくなるからです。
 逆にいうと、外科医が、自分の患者の一人一人を、本当に家族のように思っていたら、誰一人手術なんてできないことになります。
 「命を大切にすること」においては、余分な感情移入を切り捨てることが必要な時だってあるというわけです。

>命なんてものはその程度でいいのだと思えて落ち着きます。

 命が失われるたびに、いちいち感情を動かす必要はありません。というか、動かないものは仕方がない。そういう意味では、「その程度」でいいんです。

 「死」に現実感を感じないことに、引け目を感じる必要はありません。
 そもそも人間の感情、感覚なんてのは気まぐれで、「そうあってほしい」と思う通りには、なかなか動いてくれないのです。

 ただし、感覚と現実のズレは、理性で埋めることができます。

「さっきから、すっごく寒いけど、暖房つけてるし、温度計見ると、普通だよな。もしかして俺、風邪引いてる?」
 とか。
「このポン酒、口当たりがよくて水みたいでいくらでも呑めそうだけど、アルコール度数は結構あるんだよな。二杯で止めとこう」
 とか。

 それと同じように、現実感を感じない出来事は、「現実感がないな。でも、感じがなくても現実ではあるんだよな」と頭で判断し、行動することのほうが、有益です。

 自律する有機機械は有機機械なりに、自分に出来る範囲で出来ることを見つければ、結構うまくいくと思いますよ。

 栗灰さんが挙げた作品の中にも、単に命を「軽く」書いているのではなく、軽く感じる命の中で、なにごとかをなそうとする人を描いている作品があると思います。
 だからこそ、栗灰さんも「安心」できるんじゃないかな、と。

75 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年07月31日(土) 09時19分51秒
おひさしぶりですー。暑いですね。
「ライトノベル完全読本」が届いたら読んで「こんなのでたよ」と紹介しようと思っていたのにウチにはまだ届かないです……なんでだ。
えっと。

>「現実感のない死」の出てくる作品を読むと、「安心」します。命なんてものはその程度でいいのだと思えて落ち着きます。

ああっ、そうか。なるほど! そうだったのか。
そんな読者さまがおられるということは、わたしにとってはものすごく驚きです。正直、想定外でした。が、「だったら」作者としての自分にもこの先まだまだやってないことでやれることがみつけられそうな気がします。希望がでてきました。栗灰さん、ありがとうございます。

海法さまのコメントもすっごく面白かったです。
私自身は、理性は、なくはないと思うんですがメチャクチャツギハギの穴だらけの欠陥品のようです。わかったようなクチをきいていても、落ち着いてよーく考えるとたくさんボロがでてくることがたくさんあるにちがいない。なのにそれをまじめに反省もせず、ともすると情緒的反応をしてしまう、陰陽でいうとあきらかに「陰」なヤツです。それでいいと思ってるわけじゃないんですが「わかっちゃいるけどやめられない」。

だから「死」があまりにもあっけらかんとでてくるものをみたときに、ビックリしてショックをうけて、「なんかイヤ」と感じてしまったのですね。きっと。

情緒過多な自分を思い知って、なるべく冷静になって、余分な感情は切り捨てることができるやつにやれるように、訓練しよう。

76 名前 : 海燕 投稿日 : 2004年07月31日(土) 12時53分15秒
海燕です。ちょっとおひさしぶり。

>「命の軽さ」

乙一や西尾維新ら新世代作家の作品にみられるこういった傾向は、決してたんなるシニズムやニヒリズムではありません。それどころか、過酷な現状を真摯に見つめ対処していこうとする誠実な姿勢ですらあるのだと僕はおもいます。人間の命は重い。人を殺してはいけない。愛は美しい。努力は大切だ。そういった社会的にあたりまえとされる通念にひとつひとつ疑義を突きつけていくことこそかれらのスタイルなのです。

人間の命は重い、人間が死ぬのは哀しいことだ――しかし、それはほんとうでしょうか? たとえば親しい友人が死んで号泣しているひとがいるとします。傍からみれば、そういうひとは「人間的」で「感情豊か」に見えるかもしれない。しかし、かれはほんとうにその友人の死が哀しくて泣いているのでしょうか? 「友達が死んだら哀しいものだ」という思い込みにしたがって涙を流しているだけなのでは?

親友が死んだら、哀しい。哀しいから、泣く。ほしいものが手に入ったら、嬉しい。嬉しいから、笑う。殴られたら、苦しい。苦しいから、叫ぶ。そういった「人間的な」反応は実はコンピューターのプログラムでも達成できるような単純な反射行為にすぎないようにもおもえます。あるいは二流の小説家の作品の登場人物のよう。哀しいから笑い、嬉しいから泣き、苦しいから黙る。それもまた人間であり、否、それこそ人間なのです。

「命は重い」という社会通念を疑ってかかる姿勢は、すくなくとも生きることは尊いことだなどという宗教を無条件に信じ込み、疑うことをしらないことよりはよほど人間的です。あらゆる思い込みやイデオロギーを疑い、疑い、疑っていった末にこそ、それでも疑うことのできない「ほんとうの喜び」や「ほんとうの哀しみ」、固定観念に毒されていない純粋な感情があるのではないでしょうか? 「ヒトクイマジカル」で、親しいひとの死を心から哀しんだいーちゃんのように。

いつの時代も、ひとの生は、儚く、脆く、むなしいほどに短い花火です。しかし、まさにそうだからこそ、人間はほかの人間をいとおしく思いもし、また激しく憎みもする。すべての命のどうしようもない軽さを正しく認識することこそ、ほんとうに人間を知ることの第一歩だとおもいます。命は軽い。命は重い。このふたつは実は同じことなのかもしれません。つまり、最も軽く儚いものであるからこそ、ひとはしばしばそれをこのうえなく重いものと感じるのです。

77 名前 : 栗灰 投稿日 : 2004年07月31日(土) 20時41分44秒
反応をくれた皆さん、ありがとうございます。

>海法さん
>この二つを一緒に語る人がいます。
「人の死を、命を、大切に、感じるべきだ」という人です。
 そういうのは気にしないほうがいいです。

>それと同じように、現実感を感じない出来事は、「現実感がないな。でも、感じがなくても現実ではあるんだよな」と頭で判断し、行動することのほうが、有益です。

 自律する有機機械は有機機械なりに、自分に出来る範囲で出来ることを見つければ、結構うまくいくと思いますよ。

それはもっともなことだと思います。実際、僕自身もそのようなかんがえをもって暮らしてもいるのですが、それでも上に書いたような感情は「ある」んです。
理屈で解かっていても、昔から教えられていた道徳はある程度染み付いていて、感覚的に違和感を感じるとでも言えばいいのでしょうか。
世間が命について「尊い」と当然のように捉えているように思えるために、時に疑問を感じる自分が間違っているかのように感じるわけです。
「自分の方が正しい」と思えればそれでいいのですが(できる人にはまた違った感想があると思います)、賛同してくれる人がいないと自信がもてないものです。
そこで「必ずしもそうではない」という考えをもった作品を読むことで、こういう感じ方をしてもいいのなのだと思えることが、僕の言った「安心」です。
そこまで具体的にそう思うのでなくても、普段漠然と感じていた違和感を上手く言い表してくれる作品は魅力的でしょう。

海燕さんも言われるように、命を重んじるなら、無条件に価値を信じるのでなく、正面からそういったテーマについて考えた結論として大切にしていきたいものです。できれば、ですが(^^;

78 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年08月01日(日) 09時14分48秒
このテーマおもしろいので、ちょっと余計なことかもしれないし、話がズレルかもしれないと思いつつ。

地球上の全人類の生命がみなすべて等しく重たいものである、と感じなければイカン! なんてのは、たぶん無理ですね。みんなどっかでセンビキないと耐えられない。
自分にとって大事なひとや、自分が感情移入できるひと、同情や共感できるひとの生命は、大事にしたい、というように。
ところが、その「守りたい」がわの生命や幸福を脅かすのが、しばしば他の人間だったりする。守りたい側をじゅうぶん守るためには、ジャマな側はおとなしくしていてくれるか、さもなきゃいっそ、存在しないでくれるほうがいい。「死んじゃえ!」ですね。

またまた話をサッカーにもどして申し訳ありませんが、アジアカップできのうまで日本代表が戦った舞台は、1930年代〜40年代にかけて日本軍が市街地爆撃をしまくった中国は重慶でした。毎度スタジアムを沸騰させた敵意と憎悪に「忘れる気がないんだな」と感じました。きれいなおねえさんが、日本のテレビ局のカメラにむけて、ゆっくりと親指を下にする「死ね!」のサインをだしてたりしてましたからね。

まぁたいがい、やったほうはアッサリ忘れてもやられたほうはなかなか忘れない、おカネでいうと、借りたほうは一瞬で忘れても貸したほうはしつこく覚えてたりするわけですが、和をもって尊しとなすニッポンのひとたちは、人間関係をむずかしくしそうなことは、自分に損なことでもサッサと忘れるほうを「是」として生きてきた。

だから、たとえば、広島や長崎の市民のひとがアメリカ人観光客に憎悪をぶつけたとかいう話を、わたしはきいたことがないんですが、こっそりやるひとも中にはあったりするんでしょうか?

ラムズフェルドは何年か前に公聴会だかなんだかでアメリカが殺傷力がメッチャの高い兵器をつかう根拠を問われて「敵を殺すため」と答えてました。

タナカマキコさんには「家族と使用人と敵」しかいないそうですが、世界標準でいうと、そっちがメジャーなのかもしれない。

敵は、殺すべき相手であって、強くおそろしい敵を殲滅するためなら「なにやったっていい」、そこにはハジとか外聞とかカッコつけとか考えてる必要ない、そんな余裕ないじゃん! グズグズしてたらやられちゃうじゃん! というほうが、グローバルスタンダードというか、生物としての人間のあたりまえなのかもしれない。

>昔から教えられていた道徳

と、栗灰さんはおっしゃった。
しかしその「昔」は、せいぜい昭和の後半からのコッチかもしれないし、ひょっとすると、あくまで「平和」(ってことになっている)この特殊な国での話にすぎないかもしれない。

もちろん、敵にナサケをかける、敵の体面までも重んじる、名誉と生命は等価交換で「一命をもって問う」ってなことがありうるニッポン独特の食わねど高楊枝ハラキリ感覚は、はるか戦国時代とかから(アメリカ建国よりだいぶ前ですね)あったわけですけども、こりゃ武士階級のしかもモノガタリなどにのこされて語り継がれる英雄のみなさんの独自規範であって、歴史的事実がほんとにそうだったのかどうかはとってもアヤシイです。そもそも語られることのすくない一般庶民の大半はきっと、んなキレイゴトなんか言っちゃーいられねーよ! だったんじゃないですかね。

なのに、戦後日本社会は「一億総中流」で、みんなに「武士階級のタテマエ」極東流ノーブレス・オブリージュを求めた。そら無理です。そもそも武士は階層の上のほうだからああなんであって、中流でも下層でもない。「下」がなかったら「上」も「中」もありえない。

山田風太郎先生の忍者ものや、隆慶一郎さんの時代小説にも「軽い死」から「重い死」まで、ありとあらゆる死が出てきたのを思い出しました。彼らの小説は多く、笑えて泣けてせつないです。たとえば山田先生の『風来忍法帖』には、あまりに巨根すぎて童貞な馬左衛門というキャラがでてくるんですが……その彼のソレがうまれてはじめて「役にたつ」シーンときたら! 
生命は軽く、童貞なんてなおさら軽い、でもなんらかの事情でふと重たくなることもある。世間がどう考えていようと、ふつうがどうであろうと、「そのひと」にとって重たければ重い。

戦中派の山田先生や六十歳すぎて作家デビューした隆先生は昭和後半〜平成の世にあっては「いまどき」珍しい「おとな」であって、「常識」に対してあくまで反骨でニヒルで懐疑的でした。もしかしたら、昨今の乙一さんや西尾維新さんは、その「孫」世代なのかもしれません。働き盛りの「親」世代が日々忙しすぎ、自分のことでせいいっぱいすぎて見失ってしまうなにかが、老人とこどもの目にはよく見える、ということなのかもしれないなぁ、とちょっと思いました。

79 名前 : コウ 投稿日 : 2004年08月01日(日) 10時55分39秒
 私の知り合いは、イラクで死体が転がってる写真を見ても
 悲しむどころか興味も示さないのに、小説やゲームの中で
 キャラクターが死ぬシーンではボロボロ泣いていたり、
 「命って大切なんだな」と感動してたりします。
 そういうのを見ると、どこか歪んでるような気がします。
 どこがと言われると、上手く理屈にできないんですが・・・

80 名前 : 木村航 投稿日 : 2004年08月06日(金) 17時34分00秒
 書き込みついでに、こっちにもひとこと。
 生死をめぐるテーマはあたくしにとってけっこう重いので、そのうち作品でちゃんとやります。茗荷屋甚六の仕事をご存知の方々、お楽しみに。
 で、コウさんが書いてらっしゃる問題は、つまり「作家が、キャラをきちんと描写し、ドラマを描くことができていた」というだけのことではないのかなあ。
 お知り合いの方にとっては「キャラが、親しい人になっていた。その死を悲しむ気持ちが起きてくるほどに」。

81 名前 : Rana 投稿日 : 2004年08月09日(月) 22時35分45秒
Ranaです。ご無沙汰しております。

「命の軽さ」について。
私自身は、これまでの書き込みに反する意見を持っているわけではない(むしろ同意できる部分も多い)のですが、ここまで読んできて、何となく息苦しさを感じてしまったので少しだけ。

私は自分の身近な人間や親しい人が死んだら悲しいです。悲しいと感じたらストレートに泣きたいです。嬉しかったら笑いたいです。苦しかったら叫びたいです。
そういうストレートな感情を、

> コンピューターのプログラムでも達成できるような単純な反射行為
> 二流の小説家の作品の登場人物のよう

とは考えたくありません。

人間も生物の一種である以上、確かに、反射的な反応というのはあるでしょう。
しかし、人間の感情というのは、それほど単純なものではないと思います。道徳も宗教も関係ありません。ただ、現実レベルで、多くの人間が逝く現場に立ち合い、彼らを見送ってきた自分の体験を通して、率直にそう感じます。

他者から見てどれほど単純な反応に見えても、人間の行動や感情の表出の背後には、そこへ至るまでの個人の歴史や、ちょっと大袈裟ですが有史以来の人間の業みたいなものが、累々と積もり積もっているような気が致します。その深い地層をかきわけ、人間の本質を掘り起こすことも「人間を知る」ことであり、小説を書く(あるいは読む)うえでの醍醐味であるはずです。

ストレートに結びついているものを「単純」「浅い」と言い、クロスして一ひねり二ひねりしたものを「複雑」「深い」と、二分法的に分けてしまう考え方にこそ私はひどく居心地の悪いものを感じます。両者が絡み合い、交錯し、ぐっちゃぐちゃに、わけがわからん状態になっているのが「人間」ではないのでしょうか。
すっきりと割り切れてしまうほうが奇妙です。創作者であるならば(そして創作物を楽しもうとする者ならば)むしろ、割り切ろうとする意志(思考)にこそ警戒心を抱くべきではないかと思います。

だから私は、堂々とストレートに泣きたいし、笑いたいし、ときにはきちんと怒りたい。それと同時に、偽善を見抜くための、厳しく醒めた眼も持っていたいと思うのです。

82 名前 : くみにゃ 投稿日 : 2004年08月10日(火) 07時37分14秒
ストレートな感情というと、つい最近やたらみてしまったチャイナのひとたちのなんでそんなに激しいんだ? な反日感情の吐露を想起してしまうのはわたしだけではあるまい……いやわたしだけなのか? >Ranaさま。
話がズレちゃったらごめんなさいね。あれだけセキララな反日感情ってのが、実はかなり「安全弁」あるいは「やつあたり」なのではないか、つー話もあり。つまり、貧富の差とか、生活不安とか、共産党の政策に対するイキドオリとかなんかのどろどろしたもんをまとめてぶつける先として「にっくき小日本のブタ野郎」があると。日本の馬鹿野郎と大声でいうことはストレス発散になるし、周囲のひとからも肯定あるいは称賛される行為なので、他のなんだかんだがみんな、ともするとそこに収束されちゃうわけだ。

Ranaさまも、きっとそんなことはじゅうじゅうわかっておられるだろうと思いますが、感情って自分も騙しますからね。
泣いてしまう底には、刹那的表層的な「泣きたい理由」の奥に、もっとちがうなにかが隠れてるかもしれない……まぁたぶん隠れてる。なまじ小出しにコマメに泣いてしまうことで、ガス抜きをして、その奥にあるかもしれないなにかを自分にも隠し続けごまかし続けるのもコワイ。かといって、もちろん、すっかり鈍麻してしまって、どんなことがあっても、まったく泣かない、笑わない、怒らない、感じないやつになるのもコワイ。

虚構のウソ八百である小説を読んで、その中のキャラに感情移入して泣いたり笑ったりするっつーのなんか典型的な代償行為であって、読書は、実生活上ではなかなか気持ちよく得られないカタルシスやウップン晴らしをするための装置であるのかもしれない。「泣ける」小説や「ドラマ」がはやってるのは、みんな、ほんとは、もっと自分のことでセツジツに泣きわめきたいのに、それするのはコワイみたいな壁がデキちゃっているからかもしれない。

だとすると、われわれモノカキの使命は、感情の複雑性を複雑なままたくみに再現しつつ、同時に、読者のひとを「読書している間ぐらい」おもてなしすること……表面的なハケグチとしてと、そこからモノを考えることをはじめていただくキッカケとしての、二重の役割を果たすようなモノを書くことなのかもしれないですね。
Black Goat BBS3 Ver2.01