創 世 記
新井素子の感想文



(スタッフ注)
あの新井素子先生が『創世記』に飛び込み参加されました。
そういうわけで今回は新井素子先生のご登場です。



 コラム、面白く読ませていただきました。(というか、これは、これから始まるんだよね。本題は、ちらっと影が見えただけって感じ。)
 そんで、感想じゃなくて、読んでいて思いついたことを書いてみます。


『マコとルミとチイ』
著 手塚治虫
→bk1 →ama →楽天

 第二回、メディアの状況の、電話。
 うちなんてさー、(私の方が久美ちゃんより年下だと思うんだけど)、私が十六になって、大正時代からの家建てかえるまで、電話、居間にも茶の間にもありませんでした。(……考えてみれば、大正時代に建った家に住んでいたっていうのも、ちょっと凄いかも。)どこにあったかっていうと、玄関だよ玄関!(勿論、一家に一台で子機なし。これは、断るまでもないか。)
 冬は寒い、夏は暑い、そもそも暗い。茶の間に電話があったら、そりゃ、あったかくて(冬は。夏は……当時は、我が家のどの部屋にもクーラーがなかったので、暑いのは一緒だな、けど、玄関の場合、窓をあけるって選択肢がそもそもとれないから、暑い上にも暑い)いーだろーなーって、心から思っていました。
 しかも。私が小学生時代には、うちの電話、親子電話だったんです。(親子電話……御存知?)徒歩三分くらいの処に伯母さん家があって、そこと共有の電話なの。だから、うっかり受話器をあげると、伯母さんの話声なんかが聞こえてきてしまうことがあり、人の電話を盗み聞くなんて絶対失礼だから、慌てて受話器おろすでしょう、すると、こっちが電話を切った音が、あっちにもろ聞こえなんですよね。だから、親子電話じゃなくなるまで(伯母さん家が専用回線をひくまで)、電話って、もの凄くかけにくいものでした。(それに、あの時代は……余程緊急の用件がない限り、小学生や中学生が自分から電話するなんていけないって雰囲気がなかった? 少なくとも、うちには、あった。)
 ああ。そう言えば、『あたしの中の……』が奇想天外の佳作にはいったって連絡をうけたのは、建てかえ中の我が家の玄関の電話……だったのでした。あんまり嬉しくって、当時一緒にファンジンやってた友達に連絡しようとして、でも、電話のある場所が玄関で、建て替え工事中だから人が結構玄関にはいってきちゃって……なんか、わたわたしたような覚えがあります。
 (あ、でも。手塚治虫さんの『マコとルミとチイ』って漫画があるのね。手塚家のホームドラマ。ここでは、長女のルミさんが幼稚園時代から電話魔になっているってエピソードがでてくるので……これ、家庭の経済事情の差かなあ? ちなみに、お兄ちゃんのマコこと眞さんは、確か私と大体同世代。)


(C)いんなあとりっぷ社
「いんなあとりっぷ」
推理小説雑誌。新井素子氏の「ずれ」を掲載。









 それから、第三回
 奇想天外の最初の本のソフトフォーカスの写真!
 これはもう、発売直後から、さんざ、友達にからかわれたからかわれた。
 けど、弁解させていただけば……。
 当時の私、そもそも“写真”ってものを、よく理解していなかったんですう。(というか、一貫して、私は、写真がとっても嫌いで、とっても苦手。)
 本の見返しに写真をつけるからって言われて、写真撮影を了承して、カメラマンの方がうちに来て……。
 私としては、写真が必要なら、二、三枚とって終わりかと思いきや、カメラマン氏、もの凄い勢いでシャッターを切る。あまつさえ、途中でフィルムをいれかえてしまう。
 何故、使う一枚の写真をとる為に、何十枚も(いや、百何十枚も、か?)写真をとるのか、当時の私には、まったく理解できませんでした。しかも、道中、カメラマン氏は、何か紙はったようなレンズを使ったり、色々なことしてて……そんで、できた写真が、あれだ!
 いえ、私も、女ですから。
 自分がきれいにとれていれば(あんだけソフトフォーカスがかかっちまった以上、きれいかどうかは謎になっちゃうんだけれど、きっちりフォーカスがあった写真より、絶対いいよね)、文句は何もありません。
 この本がでる前、私、依頼された初めての原稿を、『いんなあとりっぷ』って雑誌に書いたんですけれど、その時、『いんなあとりっぷ』から言われたことが、「胸より上の顔写真をください」。
 そんなこと言われても、その時の私には、私が単独で写っている、胸より上の顔写真なんか、一枚もありませんでした。(写真がもの凄く嫌いなんで、当時の私が持っていたのって、殆どが集合写真か、友達の脇に自分の一部が写っているだけ。)
 そんで。そう言われた私が、どうしたか。
 駅前の、三分間証明書用の写真ボックスで、証明書用の写真をとって、それ、『いんなあとりっぷ』に送ったんですよね。駅前三分間ボックスでとった写真だぞ、しかも、まったく写真に慣れていない私が硬直している写真だぞ、いやあ、我ながら、まるで凶悪犯罪者。(その上。そんな写真が、目の荒い紙に印刷されると、これはもう、指名手配の犯人以外の何物にも見えなくなるっていうていたらく。)
 この二つの写真を比べると……本人が見たって、この二人は、同一人物には見えないっ!
 以上から得られた教訓。
 雑誌に載せる写真は、駅前三分間ボックスでとってはいけない。


(C)講談社
『文学の輪郭』
著 中島梓
現実が既に何かのパロディとしてしか存在し得ない時代の始まり…。栗本薫との同時文壇デビューで話題をさらさった連作評論。

 あ、それから。落合恵子さんはよく判らないんですけど(先輩だと思う、詳しい時制はよく判らないんだけれど)、栗本薫さんと橋本治さんは、氷室さんと私にとって、多分先輩作家って言うと、ちょっと違うと思う。橋本さんの『桃尻娘』が小説現代新人賞にはいったのは、同じ77年。これは、“同期”って言っていいと思う。(要するに、氷室さん、橋本さん、私は、まったく同時期に偶然でてきちゃっただけで、お互いにお互いのことを、デビュー当時は知らなかった筈です。ちなみに私にとっては、大和眞也さんが同じ新人賞の佳作にはいったって意味で“同期”で、同じ雑誌で同じ年にデビューしたって意味での“同期”は、夢枕貘さんです。)
 栗本さんが『ぼくらの時代』で江戸川乱歩賞をとるのは、78年です。
 ただ、栗本さんの場合、もの凄くややこしくなるのは、この時すでに、“中島梓”って人がいて、その人は私の先輩作家なんですねー。しかも、中島さんと私、“栗本薫”が乱歩賞をとる前後から、共通の友人を通しての知り合いだったから、余計話が訳判らなくなる。(『文学の輪郭』で中島梓が賞をとったのは77年、その前にも、76年、幻影城の評論部門の新人賞をとっている。)
 えー、だから、私にとって、彼女は、いつまでも“中島梓さん”です。いや、今となっては、ネームバリューがあるのは“栗本さん”の方なんだろうけど、知り合った時、中島さんで先輩だったんだもん、これは中島梓さんだよ。
 あ。何を書いているのかよく判らなくなってきた。









『奇想天外』
SF小説誌。主に日本人作家の作品を掲載。新人の発掘にも熱心。第1期「奇想天外」休刊の後、復活→休刊→復活と2度も蘇えるも、現在休刊中。
参考 : 奇想天外LIST


 さて、いよいよ第四部
 私の初期の読者が、男性ばっかりだっていうのは、本当です。星さんだの小松さんだのに可愛がっていただけたっていうのも、本当です。
 けど、一つだけ、言っておきたいことがあります。
 それって……あの……私、出身が、SFなんです。
 んでもって、実はこの当時、女性のSFファンっていうのが、そもそも殆どいなかった!
 私のお話が“男性”にうけたんじゃなくて、当時は、SFを読む女性なんて、極め付きの少数派だったんです。
 その上、私がデビューした『奇想天外』っていうのが、相当マイナーなSF専門誌だったのね、と、いうことは、これ読んでいるのは、それなりに濃いSFファン。その殆どが、男性。(だって、SFが好きだったって書いている久美ちゃんだって、『奇想天外』、読んでいなかった訳でしょ? えーと、そもそも、『奇想天外』って、日本に定着した二つ目のSF専門誌なんです。“SFマガジン”を除くと、SF専門誌って、日本にこれしかなかったんです――当時は――。にもかかわらず、SFが好きだって言ってくれている久美ちゃんですら、読んでいない。存在を知っていてくれたかどうかも、謎だ。このくらい、目茶苦茶、『奇想天外』ってマイナーだったんです。自分が投稿しといて何なんだが、ほんっと、女性読者の少ない雑誌だったんだ。)

久美沙織注:(イナカの高校の裏手にあるちっこい本屋さんにはおいてなかったんだよー!)

 もとになるデビュー誌の読者の、おそらくは90パーセント以上が男性なんだもん、私を支持してくれる読者の大半が男性になるのは……理の当然としか言いようがないんじゃないかなあ。(そもそも、私のお話に女性読者がつく必然性というか、きっかけがまるでない。)
 そんで、実際。
 コバルトに書かせていただくようになり、いきなり、この読者層は反転します。
 コバルトで本を出した瞬間から、私の読者は、女性の方が多くなってしまったのでした。(コバルトの読者は、少なくとも当時は、圧倒的に女性だったから。)これはもう劇的というか何というか、本人があっけにとられる程、驚くような展開でした。
 いやあ、でも、これ、私には凄く嬉しかった。
 えっと、実は私、男より女の子の方がずっと好きなので、女の子が私のお話を読んでくれる、嬉しい、これで女の子がSFを好きになってくれれば、こんなに嬉しいことはないよな、ってな気分になったのですが……なかなか、そこまでは、いかなくて。(未だに、SF好きな女の子はあんまりいない……っていうか、只今の情勢では、そもそも、SF好きな人間の数が減っているかも。)

 それから。
 これは自分でもよく覚えていないんですけれど、私と久美ちゃんが初めて会ったのは、コバルトの企画で、じゃ、ないのかなあ。
 あの当時、氷室さん、久美ちゃん、田中雅美さん、正本ノンさん、私を、まとめて売り出そうっていう企画が、コバルトにはあったと思います。そこで、私と久美ちゃんが知り合ったんじゃないかなあ。(というか、この時点で、氷室さんや田中さんや正本さんなんかと、まとめて知り合ったような気がする。大っ嫌いな写真をやたらと撮られて、もの凄く嫌だった覚えがある。)
 そんで、この後。
 私が久美ちゃん家に遊びにいって、初めて胸の谷間を作ってもらって、感動して只今のうちの旦那(当時はボーイフレンドか)に電話したような覚えがある。
 んで、更にこのちょっと後に、SF作家クラブ主催による、私のデビュー七周年のパーティがあって、若い女の子で七周年だからっていうんで、“七変化”パーティってことになって、私が七回お色直しをするっていう、訳の判らない企画が成立し、衣装を久美ちゃんに借りた……って経緯が、あった筈。
 ……これ……『ジュピター』の、前かなあ、後かなあ。
 この辺、私の記憶も、かなりいい加減です。
(この時。私の七周年パーティの招待者リストに、“久美沙織”が載っていないっていうことで、私は、豊田有恒さんの奥さまから――言い換えると、パラクリの専務から――、そっと注意をされました。けど、それは誤解であって、久美ちゃんはちゃんとリストに載っていたんだよね。ただ、私が本名書いちゃったんで、それ、豊田さんには判らなかったんだ。と、なると、この時期の私と久美ちゃんのお付き合いって、作家新井素子と作家久美沙織のおつきあいじゃなくて、本名同士の素子と○○ちゃんのおつきあいだってことになって、でも、本名の○○ちゃんはパラクリの専務に認識されていなくて、奥さまが知っていたのはあくまで“作家久美沙織”だってことになって……うーん、この辺の人間関係と時制は、ほんっとおに、よく、覚えていない。)


 と、まあ、以上が、久美ちゃんのコラムを読んで思ったこと。


 んで、以下が、久美ちゃんのコラムに関する反論。

 反論……いや、水掛け論ともいいますけどね。
 その要諦は、たったの、一つ。
 私は、そんなにおしゃべりじゃ、なあいっ!

野阿梓
日本SF作家クラブ会員。おもな作品に『花狩人』『兇天使』『バベルの薫り』『月光のイドラ』などがある。

 いえ、私は、確かにおしゃべりな方です。無口だとは、口が裂けても言えません。
 けど、よりにもよって、久美沙織にそれを言われる筋合いはないと思います。
 はい。
 久美沙織だって、新井素子と同じくらい(というか、新井素子的に言えばそれ以上に)おしゃべりだろうが。
 氷室さんもおしゃべりだし、素子もおしゃべり、久美沙織もおしゃべり。
 三方一両損じゃないけど、そんなもんじゃない? 三方全員おしゃべり。
 対談で、「……お……どーしよう、口、はさむ余地はないな」って、素子だって、対久美さん相手に、時々思ってます。最近は、素子と久美さんが公的にしゃべる機会って言ったら、SF大賞新人賞が主であり、ここには、野阿梓さんって言う、「どうしよう、本当に口をはさむ余地がない」っていう王者がいますから、ちょっとあれですけれど……私がおしゃべりなのは本当なんですけど……けど……でも……あの……私としては、久美ちゃんには、久美ちゃんにだけは、(あと、氷室さんと野阿さんにだけは)、おしゃべりだなんて、言われたくないです。(あ。中島さんにも言われたくない。知識量の圧倒的な差により、小松左京さんにも言われたくない。うん、私より、はるかにしゃべる人は、世の中に、山のように、いるんです。)
 これだけは、せひ、主張、したいです。


本来これは私信だったのですが、久美ちゃんに言われて掲載を許可しました。
新井素子  2004年4月20日


原稿受取日 2004.4.20
公開日 2004.4.24
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