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推定少女
推定少女』illust: ぎをらむ(竜人館)

桜庭一樹「女の子×女の子」 (作:蟲森)

● はじめに

 このコラムでは桜庭一樹さんの作品『赤×ピンク』の内容についての解釈をしてみたいと思います。
 桜庭さんの小説に、通過儀礼、つまり成熟の儀式の構造があることはすでに他の方が指摘されていますが(注:参照)、実はそれと同時に、隠れた主題が埋め込まれているのではないか、それを詳しく見てみよう、というのがこのコラムの主旨であります。
 なぜ取り上げる作品が『赤×ピンク』なのかといいますと、成熟に隠れた主題が最も前面に出ているのがこの作品であると思われるからです。『赤×ピンク』を分析することで、桜庭作品全体を見るときにも有効な視点が得られるのではないかと僕は思っています。
 最初は三時間くらいで書けるかな、と思ったのですが、予想よりもはるかに深い鉱脈だったためにとんでもない長さになってしまいました。かなり蛇行の激しい内容となっていますが、僕の文章構成力のなさを笑ってやってください。なんでしたら最初と最後だけ読むなどで対処していただければ(笑)。また、書きやすさの問題で、本文はだである調になっております。
(注:以下の文章で、桜庭一樹作品の内容に触れておりますので、ネタバレを避けたい方はご注意下さい。)


●「女の子」という主題

 さて、そうして桜庭の作品を読んでいくと、確かに彼女の作品は一貫して「成熟」ということが大きなテーマになっているように思えた。すでに他の方が指摘しているように、『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』や『推定少女』には、文化人類学用語で言うところの「通過儀礼」的な物語構造が埋め込まれている。桜庭の作品はやはり現代の物語であるゆえんか、そこにある通過儀礼の形はいくぶん奇形的であるように感じたが、成熟というテーマが大きく関わっていることは間違いないようだった。
 しかし、僕は桜庭の作品を何作か読んでいるうちに、成熟ということと密接にかかわりながらも、しかしそれとはやや異質なテーマが作品の中に潜んでいるように感じた。それは一言で言えば「女の子である」ということになるのだが、これが桜庭の作品を読み解く上で欠かせない要素であるように思うのだ。こう記すと、いや、桜庭一樹は女性なんだから作品に女性的な要素が多くなっても当然じゃないか、という意見も出てくるかもしれないが、それとはまた別に、作品の主題とか根幹といったものに関わる部分で、非常に強く「女の子である」ということが意識されているように思われるのだ。


●ジェンダーで見るライトノベル

 最初に、唐突だが中島梓のライトノベル評論を紹介したい。中島梓の評論では、成熟とその他にもう一つ、ジェンダーがライトノベルを論じる切り口となっている。中島は自身が公言するようにライトノベルのよき読者ではなく、またライトノベル界の現状をよく知らない上で、論じるために二十冊程度読んでみた上での印象批評を試みているのだが、しかしその上で語られた彼女のコメントはライトノベルの現状における本質をなかなかうまく言い当てていると思う。

 しかしそれにしても、「女性が書き、読むボーイズラブ小説には、一切女性が登場せず、男と男の世界であり、男性おたくが読むものであるライトノベルの主人公はひとつ残らず、いうところの『戦闘美少女』である」という事実そのものが、非常にはっきりと証明しているのは、「ライトノベル及びボーイズラブは、『ジェンダー小説である』」、あるいは少なくとも「ジェンダーというものが非常に大きくかかわっている小説である」ということではないか、と私にはまず思われたのですが――(略)

(中島梓「幼年期は終わらない」、『小説トリッパー 2005年春季号』掲載)


 中島のこの発言に僕は大まかな部分で同意する。しかし中島はあくまでボーイズラブ小説との比較によるそれこそ大まかでかつ限定的なアウトラインを浮かび上がらせることにとどめており、桜庭が抱えているテーマに深く寄り添ってるわけではない。
 これから僕が述べることは確かにジェンダーが大きく関わっているのだが、あくまで述べるのは桜庭一樹の作品におけるテーマであり、ライトノベル全般のジェンダー問題とは関わりがないわけではないものの中心となる議題ではないことは強調しておきたい。しかし中島の発言をまず念頭に置いてもらうことにより、ここからの話がいくぶん分かりやすくなるのではないかと思われるので留意されたい。


●『赤×ピンク』というターニングポイント

 さて、桜庭一樹は『このライトノベル作家がすごい!』におけるインタビューで、「『赤×ピンク』で作風が変わった感があって、この作品が自分の原点かなぁと思います」と語っている。だが一般の作品紹介を見る限り、デビュー作からすでにここで扱うテーマが明確に成熟も含めて明確にあると僕は感じている。桜庭一樹名義でのデビュー作の『AD2015隔離都市 ロンリネスガーディアン』に『赤×ピンク』と同じ皐月という名前の少女が登場していたり、『君の歌は僕の歌』の主人公である天花寺マリが『赤×ピンク』の皐月と同様、大学へのスポーツ推薦に失敗していたりするのも恐らくは偶然ではない。しかし、桜庭本人が明確に何かが変わった感があると述べている『赤×ピンク』を足がかりにすることで、その前に発表された作品をより鮮明に理解することもできるのではないかと僕は考える。
『赤×ピンク』は夜の廃校舎で行われる非合法のガールズファイトクラブをメインの舞台にして三人の女の子の物語をそれぞれの視点から描いた作品であり、いうところの「戦闘美少女」が冴えない男のために戦ってくれる、というような「いわゆるライトノベル」とはかなり異質な感じのする独特の作品である。いや、ファイトクラブで戦う女の子は「戦闘美少女」と言えなくもないし、「ファイトクラブの観客」=「冴えない男」と置き換えれば「いわゆる戦闘美少女ライトノベル」のフォーマットに忠実な作品であるとも言えるかもしれない(それを言えば表紙イラストを書いている高橋しんのまんが作品『最終兵器彼女』が戦闘美少女をめぐる物語であるのも偶然ではないような気がしてくる)。しかしこの作品はむしろ、そういった「いわゆる戦闘美少女ライトノベル」に対してのメタな視点、すなわち批評性を持っていると僕は考えるが、それは後述することにする。
 桜庭は『赤×ピンク』のあとがきにおいて幾つか重要な発言をしている。桜庭は往々にして自身の作品についてあとがきやインタビューでストレートに語ってしまうところがあり、恐らくそれらの発言は素直に受け入れて問題ないと思われる。そのあとがきによれば「タイトルの意味は『女の子×女の子』ってこと」であり、この作品が「いまはもういない安藤千夏さんっていう一人の女の人に捧げる小説」であり、作中で、体は女だが心は男である(明記されていないが性同一性障害と思われる)皐月が女の子からもらうラブレターは作者である桜庭自身がもらったことのあるものだ、ということが語られている。これらを互いに関係付けながら順番に検討してみよう。


●二人の女の子

 まずタイトルの『赤×ピンク』の意味である。作中、三人のヒロインのうち、ミーコという少女のエピソードの導入および回想シーンに以下のような描写がある。

 わたしは山茶花の赤ピンクの花に埋もれた
 月明かりが白かった。雪が降ってた
                (80頁)

 庭の山茶花の木立に落っこちて、枝をバリバリ折りながら、なんとか怪我もせず着地した。冬だった。わたしは山茶花の赤ピンクの花に埋もれて、灯りのついた二階の窓を見上げた。母親の顔が見えた。鬼だった。もう帰れないと思った。

(108頁)


 僕は最初に読んだとき、タイトルの意味はこれか、と素直に思ってしまったのだが、この部分だけだと作品全体に対するタイトルの意味づけが見えてこない。ここでは、「家」あるいは「家庭」という本来日常的で安定しているはずの空間が崩壊し、「赤ピンク」の「非日常空間」に移行した、ということを示すように思う。ただしこの安定した日常空間の崩壊は、ある日突然訪れたのではなく、ありふれた家庭の問題によってほとんど初めから崩壊した状態であった。
 では「女の子×女の子」という関係に当てはめた場合はどうだろう。「赤×ピンク」が「女の子×女の子」に置き換えられる関係性とはいったいなんだろうか。それは恐らく、「現実」と「虚構」と呼べるものである。具体的には三つのエピソードにおける「高山真由とミーコ」、「ミーコと高山真由」、「皐月と安藤千夏」の関係がそれにあたると思われる。そしてこの関係は桜庭の作品群に連綿と描かれ続けている関係でもある。『竹田くんの恋人 〜ワールズエンド・フェアリーテイル〜』における「水菜とキャラシャンドラ」、『君の歌は僕の歌』における「マリと雪野」、『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』における「山田なぎさと海野藻屑」、『GOSICK』における「久城一弥(あるいはアブリルか?)とヴィクトリカ」、『推定少女』における「巣籠カナと白雪」、これらはいずれも「赤×ピンク」の関係のバリエーションとして読める。
『GOSICK』の久城一弥だけが男の子だが、このキャラクターはもともと女の子という設定であり、男の子の視点を作品に盛り込むために性別が変えられた、ということはすでに他の論者が指摘している。しかも、男の子の視点という割に、実はこの久城一弥というキャラクターはあまり男っぽくない、むしろロマンチストであるなど女の子っぽい部分を持ったキャラクターである。この「性転換」が他の作品とはまた違った展開をもたらすのではないか、と個人的には思っているのだが、それは物語の完結を待つことにしよう。
 ところでいま僕は「他の作品とはまた違った展開」と述べたが、上記の様々な「赤×ピンク」のヴァリエーション関係は、それぞれの作品において、ある類似したパターンの経過をたどる。それは「赤」に該当するキャラクターが「ピンク」に該当するキャラクターと非日常空間を共に行動し、日常空間に戻るとともに最終的に「ピンク」のキャラクターを失う、というものである。
 キャラシャンドラはその魂が猫に乗り移ってしまうし、海野藻屑は父親に惨殺され、白雪は宇宙(?)に行ってしまう。『君の歌は僕の歌』の雪野は一見その構図が当てはまらないように思えるが、マリが将来の伴侶であろう楼崎と結ばれれば、ガールズガードの活動という非日常的な祝祭空間は失われ、それは同時にマリと雪野との「赤×ピンク」の関係の終焉を意味する。ちなみにだから僕は『GOSICK』の最終的な展開が久城一弥とヴィクトリカの別れになるのではないかと予想しているのだが、それはさておこう。
「赤×ピンク」の関係は「ピンク」に該当するキャラクターの喪失で終わる。ではここで具体的に取り上げる作品である『赤×ピンク』において、その関係は作品中でどのような意味を持っているのかを検証してみたい。
 

●真由のエピソード

 まず、作中の三つのエピソードのうち、最初の「“まゆ十四歳”の死体」では高山真由がミーコを喪失する。高山真由が「赤」のキャラクターであり、ミーコが「ピンク」のキャラクターである。さて、このエピソードの中に、「赤×ピンク」の関係の内実を示す以下のような表現がある。

 ……ライトに照らされたわたしの目の前の泥に、もう一人のわたしがいる。その少女ももがいている。わたしより長い手足。わたしより大きな瞳に、わたしより高く通っている鼻筋。赤い唇は肉食獣みたいにヌルリとてかっている。


 これは高山真由とミーコがファイトクラブショーで戦っている最初の描写だが、ここでミーコが真由にとって「もう一人のわたし」であることが明らかにされている。恐らくは他のすべての「赤×ピンク」の関係にこれは当てはまるはずである。すなわち、「ピンク」のキャラクターは「赤」のキャラクターにとっての「自己投影対象」であるということだ。「生命力が弱」く、「パッとしない」と自己言及される真由に対して、ミーコは「生臭い血の滴り落ちる生肉をむさぼり食う」「ちょっと大きめの猫のふりをしている」「ほんとはベンガル虎の」「野生動物」だと表現される。もちろんこれは真由の視点である。


●移行対象的なもの

 おそらくこのような自己投影像としての「ピンク」の相手キャラクターは、「赤」のキャラクターに欠落している要素を代償している存在だと言ってよいだろう。自己の欠落を埋めてくれる相手と同一化することで、「一人では世界と対峙できないわたし」という存在をなんとか保たせているわけである。
 それを説明する最もわかりやすい例としては、スヌーピーのライナスがいつも肌身離さず持っている毛布がある。ライナスは毛布があるときはとても知的で大人びた少年だが、しかし毛布が奪われるとパニック状態に陥り、自分が自分でいられなくなってしまう。以下は〈移行対象〉についての精神科医の香山リカの説明である。

 母親と一体化した内的幻想の世界に生きる赤ん坊が、無数の他者により構成される現実の世界に足を踏み出していく際に通過する移行領域。そして、現実に脅威を感じる赤ん坊を支え、励まし、ときには慰めるという移行対象。「ほら、ライナスがいつも手放さない毛布」と言えば、精神医学の知識がない人も「ああ、あれ」とすぐに理解してくれるこの移行対象論ほど、私たちと深いかかわりを持つ精神分析の理論はないのではないか。私は、そういう実感を持っていた。

(大塚英志『人身御供論』角川書店)


「赤×ピンク」の関係とは、つまり「赤」のキャラクターにとって「ピンク」のキャラクターが〈移行対象〉としてあることを示すということだろう。しかし、このような〈移行対象〉は、その所有者の成熟とともにやがて捨て去られなければならないものでもある。真由はファイトクラブを続ける日々の中で、突如表れた一日一回はプロポーズを仕掛けているというちょっと危ないケッコンマニアの男、安田友和と「ケッコンする」ことを決意し、ミーコを捨てる。この結末に驚いた読者は少なくないのではないだろうか。ひとまず部外者的にそのよしあしを判断することは保留し、この結末の物語上の意味と根拠を考えたい。


●檻に求めるもの

 作中、真由は幼少時から中学に入学するまで続いた虐待の記憶を回想する。それは母親から赤ちゃん用の木のフェンスの中に閉じ込められるというものだった。そしてファイトクラブの舞台となる八角形の檻が、その絶望と求愛の場を代償している。

 わたしは家事を手伝い、学校に行き、普通に暮らした。だけど、短大に通い始め、実家を出て、会社に就職して……そのあいだずっと、わたしは心の中にその檻を持っていた。
 ある日とつぜん、会社を辞めた。そこには檻がなかったから。そうむずかしくない仕事と、楽しい飲み会と、おもしろい同期の男の子と、やけに親切なおじさん上司がいた。誰も檻なんて持っていなかった。それはどこにもなかった。
 会社を辞めて、アパートに引きこもった。
 ここ(ファイトクラブのこと)に面接にきたとき、薄暗い校舎の中庭に、悪夢のようにうっすらと浮かび上がるこの檻をみつけた。
 ここにあったのかぁ、と思った。不思議な懐かしさと、喜びと、絶望が、津波のようにどこからか押し寄せてきた。わたしは言われるままにこのおかしな衣装をつけて、檻に入った。
 安堵感と、ずっと近くなった死の気配。
 ここにいたら、しばらくは生きられるだろう。
 ここにいたら、そう遠くなく、死ぬしかなくなるだろう。

(桜庭一樹『赤×ピンク』エンターブレイン、括弧内筆者)


 ここで浮かび上がる疑問は、なぜ、真由はすでに脱出したはずの檻を再び求めてしまったのかということだ。それには彼女の「父親」との記憶が大きく関係している。

 密かに思っていることがある。
 わたしが檻にいたころ……これではなくて本物の檻、赤ちゃん用フェンスの中にいたころ。家には、父と母がいた。わたしを閉じ込めているのは母だった。だけど父も同じ家にいたから、わたしがそうなっていることはもちろん知っていた。
 父にとって、わたしを檻から出すことは、母への裏切りだった。
 多分。
 だから、わたしが檻の中から、ビールを飲んだり、夕刊を開いたり、テレビのリモコンを捜す父をじいっとみつめているあいだ、父は、一度も助けなかった。
 わたしを檻から出して、黙って頭を撫でてほしかった。
 誰かがわたしを愛してるってことを、そうされることで知りたかった。
 ずっとそう思ってた。
 だけど父はそうしなかった。家の中で、わたしが檻にいることは犁こっていないこと瓩砲覆辰討い燭掘∪人したいまではさらに爐覆ったこと瓩砲覆辰討い襦
  〈中略〉
 不思議なことに、わたしは母より、父に対して怒っている。母は病気だったと思う。でも父はちがった。多分、父に助けてほしかった。でも誰も……わたしを助けない。


 ここで、真由がただ優しい空間にいるだけでは満たされない理由とともに、一体何を求めていたのかがはっきりと示されている。“檻の中から助け出される”ことがない限り、彼女の心は救済されることがないのである。


●ステファン卿の視線の彼方に

 だが「檻の中からの救済」の意味をさらに正確に理解するためには検討しなければならないことがまだ残されている。すなわち、閉じ込められる側ではなく、閉じ込める側が抱えている問題は何だろうか、ということだ。ここで注意するべきなのは、幼少時に真由を具体的に檻に閉じ込めた母親よりも、真由を助け出さなかった「父親」のほうに責任が問われているということだ。「不思議なことに、わたしは母より、父に対して怒っている。母は病気だったと思う。でも父はちがった。多分、父に助けてほしかった。でも誰も……わたしを助けない」というくだりをもう一度思い起こしてもらいたい。そしてこのような父親像はファイトクラブの観客の姿へとトレースされるものだ。

 その夜、わたしを指名したお客さんの一人に、ふと聞いてみた。
「わたしと話して、た、楽しいですか?」
「ぎゃははは! なに言ってんのまゆちゃん。ぼくはまゆちゃんの姿に、とっても癒されるから、きてるんじゃないか」
「はぁ?」
「キャバクラじゃあるまいし、そんな、しゃべんなくていいよ。かわいいかわいい。愛しいよ。ずうっとそうやって、困った顔して座っててくれよ」
  〈中略〉
「まゆちゃんがさ、檻の中で怯えてる。ほかの女の子はみんな、強い。闘志むきだしだろ。だけどまゆちゃんだけ怯えてる。それで、一人で怯えてるだけじゃなくて、救いを求めるようにこっちをみつめるだろ?」
「はぁ……。あの、あんまり見えないんです。檻の中から、外は。ライトが眩しくて」
「ふーん、でもさ、なにか、こう、捜すように、すがるような瞳で見回すだろ。助けてって顔で。でも、助けない。でも、見てる。……それがいいんだよね。たまんないんだよね。あ……まゆちゃんもう行っちゃうの。来週もくるね」


 真由の父親は自分の妻を裏切らないためという理屈で真由を放置した。妻に対して、そして何より真由に対して、それが「責任」のあり方だとは誰も認めはしないだろう。だが、真由をいけにえのように扱うことで、父親は妻に対しての「責任」を果たしたことにした。そうすることで父親は自分の立場を立証していたつもりだったのだろう。そして観客達はどうだろうか。「お客さんたちは、つかのまステファン卿になるためにきてるんだと思う。日常ではありえない役割を買いに」と真由は述べる。ここで例えに出されているステファン卿の話というのは、ポーリーヌ・レアージュの『O嬢の物語』である。内容はO嬢という名のない女性が男たちの奴隷としてマゾヒスティックな調教を受けて深みにはまっていく(これを昇華と評価する声も多いようだ)というものだ。続編ではO嬢はステファン卿の関心を失い、許可を求めて死を選ぶことが書かれているそうだが確認はできていない。『聖少女』という日本の小説にも『O嬢の物語』を読む少女が出てくるらしいがこれも僕は未読である。真由を求める『ガールズブラッド』の観客たちは、サディスティックな調教の代わりとして檻の中の格闘を位置づけ、かつ相手の心が自分に依存している、そういう体験を買っている。「戦闘美少女」をめでる視線とはつまりはこうしたエセのステファン卿の視線でもあるのではないか、という気がする。
 真由が檻について「ここにいたら、そう遠くなく、死ぬしかなくなるだろう」と述べるのは、マゾヒスティックな献身が究極的には死をもって終わるということだろう。それはO嬢が続編において死を迎えることと一致する。
 だが、真由にはO嬢とは決定的に異なる点が幾つかある。第一に真由はマゾヒスティックな性格の持ち主であるわけではない。O嬢が生きているのは調教の世界だが、真由は舞台の趣向はどうあれ、「格闘」の世界に生きている。その「格闘」の部分が檻への完全な依存を引き止めているように僕には思える。それはいつか檻を出るときを待つ闘いだったのではないだろうか。またO嬢は無名だが真由には名前がある、いつか捨て去るべき「まゆ十四歳」という名前、そして取り戻すべき「高山真由」という名前が。そして彼女は「二度と再び」檻の中に戻らない。


●檻の外へと

 話は少しずれるが、囚われのお姫様を救い出す王子様の物語はその過剰なヒロイック性や形式性ゆえにかなり陳腐化し、逆に女性の死や別れによって何がしかの生きる根拠や慰めや甘美な感傷を得る男という図式は近代日本の小説に多く見られる傾向であるように思う。僕はフェミニストではないが、両者はどちらも男のための物語に過ぎないことは指摘しておこう。真由のエピソードを肯定できるかもしれないと思うのは、安田友和が「女の子殴ったりしちゃダメじゃん。いや、女同士か。……でもダメじゃん」という全く個人的な倫理観で行動しているからだ。彼は真由の過去や複雑な心境について「何も知らない」し、真由が精神的に不安定で弱弱しいことは周知の事実としてあるため、その部分についても安田だけが特権的に分かっているわけではないことになる。自分のことを全肯定して分かってくれる人間がやってきて、「あなたのことは自分だけがわかっている、結婚して」、という表現はかつて橋本治が少女マンガを批判的に分析したときに提示された構造だが、決して救いの手を差し伸べることのない「ステファン卿」だらけの世界で、檻から助け出されることを願い、そして助けることを誰が責められるだろうか。助けが必要とされているときに助けないことの方が強く批判されるべきなのは自明のことだろう。
 O嬢の場合、彼女は最終的に「あちら側の世界」の人間として幕を閉じるわけだが、桜庭は一貫してそのようなセクシュアリティをあまり肯定的に扱っていないように思われる。『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』において、海野藻屑の父親への愛は「ストックホルム症候群=間違った脳の作用」として論理的に位置づけられ、藻屑は「頭がおかしい」親に殺されたのだとしか結論されない。そこには禁断の世界のエクスタシーとでも言うような甘美な幻想は存在しない。また山田なぎさと兄の友彦の関係も、ともすれば一生依存関係に陥ってしまいかねないものであった。そのことは藻屑と担任の教師が指摘している。「山田なぎさは、うさぎの世話が好きなんだ」「兄の世話も好きなんだね」「山田なぎさは、飼育係」「兄が実弾を撃てるようになったら、山田は困るんだ」。そういうわけで、最終的に友彦は「貴族」でいることを許されないし、山田なぎさは「飼育係」であることを許されない。それはまさに「砂糖菓子」のような、ちっとも格調高くも美しくもない、甘美な、自立しない言い訳に満ちた関係だからだ。実際のステファン卿とO嬢の関係についてとやかく言うつもりはない。問題なのは擬似的に役割を買うに過ぎない『ガールズブラッド』、あるいは互いに依存しあい、自立を拒んでいるだけの飼育係と貴族の関係が、あたかも崇高で切実であるかのように偽装されたり、そこに沈溺してしまうことだ。O嬢の物語はあくまで「ゲイジュツテキな物語」なのだ。そのゲイジュツテキな虚構性をいったん取り払えば、“仕方なく”そこでしか戦えない女の子や、どこにも「安心」のない場所で父親に殺される子どもの話にしかならないのである。そのような関係に閉塞している限り、檻の中から助け出して欲しいという願いや、砂糖菓子の弾丸のさらにその後ろにあるものが見えなくなってしまうのではないか。自分を助けなかった父親への真由の怒りが象徴するのは、「砂糖菓子の弾丸」そのものへの否定ではなく、実弾を撃つべき立場にいながら撃たない、あるいは撃たせない者たちへの批判であるように思う。


●消費される身体

 ミーコの話に移りたいと思う。
 僕はミーコのエピソードが三つのエピソードの中で一番分かりやすいと感じるのだが、彼女が抱える問題の性質がいかなるものであるかは「ミーコ、みんなのおもちゃ」というタイトルが正確に表している。これは実際に作品を読めば分かることだが、ミーコの周りの人々が悪意を持ってミーコを弄び、おもちゃにしているということはない。ミーコは自分から進んで主体性を捨て、相手が望むこと、喜ぶことに応えることに邁進している。
 だがミーコは、自分が本当は何を求めているのか、なにが理想なのか、という問いに対して困惑してしまう。彼女にとって人の期待に応えることこそが自分の存在の価値だと認識されているからだ。
 だが、ミーコが個人から求められていると錯覚している快感は、実はミーコ自身が求められているのではなく、ミーコを「おもちゃ」として「消費」することによってなりたつ「物語」こそが求められているということなのだ。
 また「こうして人を喜ばせることを追求しているのは、己の追及とは違うんだろうか?」という問いもミーコは発しているが、自分の身体を切り売りすることで自己実現をしようとする女性たちというのは現実に存在する。

 つまり、自己実現としてAVに出て、自己顕示としてディスコのお立ち台の上に立ち、あるいは自己肯定や自己確認のためにパンツを売り援助交際をする。そこでは、女性の身体が性的な消費物となっていながら、しかし、消費する男がもはや彼女たちの視座の中に入っていない。それを男の側に都合のいい事態の隠蔽ととるのか、男女の決定的な乖離ととるのか、そのあたりが難しい問題としてあるのだろうし、八〇年代の「フェミニズムのようなもの」の評価の基準にもなってくるような気がする。

(大塚英志『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』講談社)


 ミーコの場合、状況としてはこれと変わらないものの、「こんなふうに生きていると、わたしの人生はわたしの手からすり抜けていく。/いつか自分の名前も、歳も、なにを欲しているのかまるでわからなくなって、廃人みたいになって、ドブにでも捨てられてしまいそうな気がする。/消費されて、捨てられる。/おもちゃの宿命」というところから自身が抱える困難さについて自覚的であることがわかる。真由に「都会の野生動物」と形容されるような軽やかで強靭な生き方は、実は〈内面〉とか〈生身の身体〉というものの存在をごまかすことによってかろうじて成立しているのだ。
 十五歳で夜の街に出たときに、ミーコは体を壊したために「肉体を酷使する仕事はやめ」ているが、それは必ずしも身体が消費されることを拒んだということを意味しない。相手から欲望される役割を自分だと思い込むことによって、逆に〈内面〉は後退する。だからミーコは自分のセクシュアリティにはまったく関係なくSMという特殊な世界にも入っていける。ミーコは本当は自分の存在そのものを、他人が欲望し消費する「物語」の中に委ねてしまっている。そしてそんな自分の不在をごまかすための代償として、真由はあるのだ。

 かわいいと思って飼ったものの、いまにも死にそうな小動物の世話を、祈るような思いで続けているような、そんな気持ち。
 つまり、たいへん迷惑な存在なのだ。そして、愛しい。

 小さなまゆ。
 大切なコ。
  〈中略〉
 わたしだけがほんとのまゆを知っている気がする。


 一見、このような感情は弱いものを気遣う優しさとしてなんら問題がないように見える。しかしこの関係はどこかで見た気がしないだろうか。そう、山田なぎさと友彦の「飼育係」と「貴族」の関係、その関係とミーコと真由の関係は構造としては同じなのだ。もしかしたら、ミーコのかつての担任教師、義理の父親、ソープランドやSMクラブの客、そういった人々がミーコに求めた関係、あるいはエセのステファン卿が真由に求めた関係や、現実の世界の話で言えば子どもではなく自分のために里親になる人なども同じことなのかもしれない。前述した〈移行対象〉の関係がここにも当てはまるが、ところどころで告白される真由を失うことへの恐怖や、真由を失った後の幼児返りを見ても、ミーコの方が強く真由に依存していたということが分かる。山田なぎさが兄が実弾を撃てるようになってほしくなかったのと同じように、ミーコも真由が実弾を撃てるようになって欲しくなかったのだ。ここでわかるのは、〈移行対象〉というものは、それに過度に依存してしまう危険性があるということだ。ずっとそれにしがみついている限り、回避し続けてしまう「現実」があり、そして桜庭一樹は常にそのような〈移行対象〉への依存を断念させているのだ。
 真由を失ったミーコは、自分がまだ「二階の窓から投げ捨てられた十五歳の子供のままなんだと気づ」く。真由への依存は〈内面〉や〈生身の身体〉の隠蔽であると同時に、成熟を遅延させ、子どものままでい続けることでもあったのだ。そしてそういう時間はもう終わりだと宣言されてしまったのが真由喪失の意味である。
 ミーコはその後、皐月の住むマンションの一室におもむく。ここでミーコは皐月と一晩過ごすうちに「やりたい格闘技のスタイル」だけはなんとか見つけることができる。そこから世界と関わっていくことでどこかにたどり着けるのかは分からないが、「生きてるって楽しいね」という前向きな予感を感じさせる台詞でこのエピソードは閉じられている。


●心と身体の狭間

 あとがきに書いてあることをそのまま受け入れるなら、『赤×ピンク』は安藤千夏という「いまはもういない」、「一人の女の人」に捧げる小説ということになる。
 安藤千夏は1984年にデビューした競艇選手である。2002年に自らが性同一性障害であることを公表し、名前を安藤大将に改名している。このときの会見で安藤選手は「僕は性同一性障害という病気にかかっています」と述べたそうだが、先進的な人々はこの「病気」という見解に異議があることだろう。しかし社会的に性同一性障害である人のセクシュアリティーをどう認知するかはいまだに宙ぶらりんの状態にある。一般的には男と女の線引きは自明であり、普段はこのような問題が意識に上ることが少ないだろう。
 ひとまず、性同一性障害そのものについてはここではこれ以上深入りしない。考えなければならないのは桜庭一樹自身が抱えるテーマについてである。
 桜庭一樹は、デビューしてからしばらくは女性であることが一般には知られていなかった作家である。むしろ三村美衣のように「桜庭って男だとずーっと思ってたんだけど、『赤×ピンク』で「あれ?」と思い始めたら、「女だ」って判明して」(「ライトノベル座談会 キャラクターから作家へ」『SFが読みたい!2005年版』)という思いを持っていた人が大半だろう。しかし、そのペンネームまでもが意図的かどうかはともかく、素直に女性であることを自己肯定できていない印象は『赤×ピンク』以前からずっとあるように思う。女性性というものを素直に自己肯定できない、という部分がここでは性同一性障害の皐月の物語に託されていると考えられる。
 作中に安藤千夏という競艇の安藤選手の改名前の名前と同姓同名の人物が登場する。このキャラクターは、安藤選手に決別を宣言された一人の女性としての「安藤千夏」を救済するために生まれたのだと思われる。桜庭の中には、女性性を素直に受け入れられない自分と、逆になんとかしてそれと和解しようとしている自分がおそらく同居しているのだ。
 作中の安藤千夏はだからそういう女性性の部分の象徴のような存在として捉えることができる。

 「家がいやで、高校生のときにケッコンしたけど、そこもいやになって飛び出してしまった。だからもう帰る家がないのに、それでもどこかにかえりたいなんてねぇ。へんねぇ、わたし」


 そしてまた、安藤千夏のこうした複雑な心境はどこか現実の女性たちにもつながる質のものでもある。

 「うーん、あの……なんて言うのかなぁ。少しね、ちょっとズレてるかも知れないんですけど、ここはね、男の子たちと女の子たちの違いだと思うんですけども。要するにね、女の子が結婚して家庭に入ってお母さんになってという、親と同じ道を辿るとしたら、お母さんとか親戚のおばさんなんかがモデルになるんですよね。だけど、社会的に生きていこうっていう時に、女の子にとってはモデルがいないんですよね。限られてる。モデルがいても、例えば親戚のおばさんが独りで猫と一緒に暮らしてる、とか(笑)、離婚して先生してた、とか。今はちょっと違うかもしれませんけど、私たちが青春時代に、手探りでどこかに自分のモデルというのがないかなぁと思った時に、そういう女性とかは、一種のマイナスのモデルなんですよね。プラスのモデルっていうのはほとんど周りにいない。まぁ、ものすごく恵まれた人たちは、芸術家のおばさんがいたりとか、そういうのがあり得るかも知れないですけど。とにかくあんまりいない。そして、女の子も昔と違ってお勤めしたり、自分の一生の職業を選択しなくちゃならない時に、モデルになるのは年上の男の人になるんですけども、でも女の子だからちょっと違うんですよね。それで、男の人たちってのはモデルがいるわけですよねぇ、いっぱい」

(「樹村みのりインタビュー 少女まんがと日本国憲法」『新現実vol.5』)


 安藤千夏もまたそういった自分のモデルのない中で、あるいはモデルを見つけ損ねて苦悩する女性の一人であるのだろう。そういうわけで、彼女は自分でモデルを作らなければならないのだ。

 「実家でも、夫のいる家でもないわ。わたしが帰りたいのは、いつか作るはずのわたしの家庭なのよ。そこにはきっと、愛しい人と、守りたい子供がいて、わたしはとても幸せ。でもね、その家はまだないの。未来にしか。だから帰れない。どこにも」


 それとは対称的に、皐月は家に帰らなければならないという決意をする。父母の揃った理想的な家庭に皐月は育っているが、桜庭作品ではこれは例外的である。真由やミーコのエピソードでは、彼女たちの問題は家庭の問題に根ざすところが大きいのだが、皐月の場合だけは、家庭は安定しており、個人のセクシュアリティのみが問題になっている。ここから分かるのは、家から離れるのはあくまで自分を見つめなおす時間と場所を持つためであり、もしそこが壊れていないなら、もう一度家に帰らなくてはいけない、というのが桜庭の一貫したスタンスであるようにも思う。だから皐月のエピソードを性同一性障害の困難さ、という具体的な問題のみのこととして考えると、意味がとりづらくなる。あらかじめ「制度」としてある男であること、もしくは女であることから離脱し、この場合は特に「女であること」について自分なりの解答を得ようとする営みがあるのではないだろうか。もちろん、皐月自身は男としての自意識を持っているし、ストーリーそのものは皐月の抱える問題に向き合うものだ。しかしそこにはやはり、女性としての身体を持ち、女性として生きていくことの困難さという、女性としての自意識が投影されているように思えてならない。それが「安藤千夏」という「女の人」に捧げる小説である、ということの意味でもあるように思うのだ。
 

●成熟と性

『推定少女』に性的な分化を象徴するものが描かれていることはすでに他の方が指摘している。成熟と自分の性について自覚することは切り離せない。それらは常に一体のものとしてある。
 大人になるとか社会に出るとかいったことが、子供の状態とはとてつもないギャップがあるように感じてしまう人々は相応にいる。いや、程度の差はあれ、誰もがそういうギャップに不安を感じるものだろう。
 そして、身体の成熟と社会からの視線に対して、自分の性というものをうまく受け止められない人もいるのだ。『赤×ピンク』で全面に押し出されたこのテーマは、他の作品にも形を変えてしっかりと埋め込まれている。
 ところで、僕が一つ疑問に思っているのは、桜庭一樹の作品を実際に読んでいるであろう中高生はこのテーマをどう受け止めているのだろうということだ。僕は男だからそのあたりのことがさっぱりわからない。いや、今の女の子は自分の性についてそんなナイーヴな感覚を持ってはいない、という意見もあるし、そうかもしれないな、と思う。
『荒野の恋』では、桜庭一樹は新たに恋についての物語に挑戦しているが、恋愛と性はやはり切り離せない。場合によっては『赤×ピンク』以上に性の問題に向き合うことになるかもしれない。そしてライトノベル、というには微妙だけれど、『少女には向かない職業』では再び二人の女の子の物語が描かれることになったが僕はまだ未読である。桜庭の抱える女性性という主題がこれからどのように変奏されていくのか、一つのポイントとして見ていくと面白いのではないだろうか。


●おまけ

 桜庭一樹がインタビューで紹介していた『花のあすか組!』を資料として買ったのですが、桜庭作品の様々なルーツがここにあります(笑)。入手しにくいですが、興味があれば探してみましょう。

 桜庭と同じ主題を抱え込んだ人たちとして、萩尾望都、大島弓子といった二十四年組と呼ばれるまんが家たちが有名です。今回のコラムは大塚英志がこの人たちを論じた評論を大いに参考にしています。これも興味があれば読んでみてください。



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