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海燕 《kenseicayenne@hotmail.com》

▼プロフィール
25歳、男性。


URL : http://www.globetown.net/~maxi/

推薦図書
・ 銀盤カレイドスコープ vol.2 フリー・プログラム:Winner takes all?
・ マルドゥック・スクランブル The First Compression-圧縮
・ おいしいコーヒーのいれ方 7 坂の途中
・ 失はれる物語
・ きみとぼくの壊れた世界


イラスト評




銀盤カレイドスコープ vol.2 フリー・プログラム:Winner takes all?
  たとえばの話だ。たとえばあなたがスポーツ選手、それもオリンピックメダリスト級の技術を身に付けた天才的なアスリートだったとする。あなたはその生まれ持った才能を活かして五輪や世界選手権で次々と優秀な成績を残す。はじめは周囲もあなたの活躍を賞賛するだろう。ありとあらゆる美辞麗句を尽くしてその業績を褒め倒すにちがいない。天才、努力家、革命児、エトセトラエトセトラ。だが、それはあくまでも最初のうちだけのことだ。あなたがあまりにも可愛げのない成功を続ければ、いつしかプラスの評価はそのままマイナスへと転じる。

かれらは周囲はあなたのささいな欠点をあぶり出し、取るに足りぬスキャンダルを見つけ出し、あなたを非難するようになるだろう。それがこの国の国民性なのだ。まして、もしもあなたがだれに何と非難されようが気にも留めない気の強さと、言われたことは倍にして返す減らず口の持ち主だったとすればなおさら。そしてそんな徹底的にかわいげのない性格と天才的な才能をそなえた少女こそが、この物語の主人公、ひと呼んで「氷上の悪夢」、あるいは「減らず口プリンセス」桜野タズサ(16歳)である。フィギュアスケーターとしてオリンピックや世界選手権での活躍をめざす彼女の敵はふたつ。自分自身と、周囲の声――すなわち、マスメディアの声だ。

海原零という聞きなれない作家のデビュー作「銀盤カレイドスコープ」は、人気は高いもののまだ一般的な認知度が高いとはいえないフィギュアスケートの世界を正面から描き切った正統派スポーツ小説である。フィギュアをあつかった作品といえば、川原泉の傑作「銀のロマンティック…わはは」(しかしまあ何度見てもすごいタイトルだ)がすぐに思い浮かぶところだが、小説という表現手段の特性を考えれば、これは前代未聞の挑戦といえるだろう。なにしろ、小説の表現ではどんな流麗なスケーティングも、華麗なジャンプも、絵として見せることはできないのだから。

小説家が扱うことができるのは、ただ言葉のみ。ヴィジュアル面はイラストレーターが多少は補ってくれるにしろ、それに頼るようでは作家として一人前とはいえない。言葉、言葉、言葉。あえてスポーツを題材として取り上げるとき、作家は文字だけを武器にスポーツが持つあの興奮と躍動感を再現させてみせなければならないのだ。スポーツをめぐる人間像ではなくスポーツそのものを題材とした小説の傑作など、ほんの二三が思い浮かぶだけだ。それではこの作家はただ奇を衒って新規な素材をもてあそんでいるだけのだろうか。

否。驚くべし。スーパーダッシュ新人賞というお世辞にも知名度が高いとはいえない賞を受賞して斯界に登場したこの新人は、みごと読者をして氷上を舞うスケーターたちを幻視させてみせる。正直なところ、ここまで正面からスケートを描いているとは思っていなかった。物語は主人公のタズサがあろうことかひとりの幽霊に憑りつかれるところからはじまる。幽霊の名前はピート。話を聞くところによると、カナダで暮らす平凡な少年だったかれは落雷で死亡し、なんの因果かタズサのからだに100日間仮住まいすることになってしまったらしい(余談だが、カナダと日本では時差があるのだからこの100日間というリミットの時間があまりにぴったりしすぎているのはおかしいと思う)。

プライバシーのかけらもない生活にはじめは苛立つタズサだが、やがてかれの飄々としたアドバイスを頼りにするようになっていく。そんな彼女の最大の弱点は「笑えないこと」。その弱点を克服してオリンピックをめざすタズサとピートの二人三脚の活躍がこの小説の眼目だ。前述したように、タズサはこのうえなく可愛げのないキャラクターである。フィギュアの女子選手に期待されるものが可憐さや可愛らしさや女らしさであることを知り尽くしているタズサは、しかし、ことごとくそれに逆らっていく。

それが自分にとって利益にならないことを知っていてもなお、曖昧な微笑を浮かべてただ黙っていることは彼女にはできない。 タズサは媚びず、へつらわず、ごまかさない。どこまでも自分の信じるやりかただけを貫く。その負けん気の強すぎるトラブルメーカー的性格はまさに減らず口プリンセス。ヤングアダルト小説の登場人物として、異端のキャラクターとしかいいようがないだろう。この種の小説のヒロインに要求されるものも、可憐さやかわいらしさや女らしさだったりするからである。

なにが彼女にそうまでさせるのか。あるいはそれはイエロージャーナリズムの存在に象徴される日本の社会システムそのものに対する反感なのかもしれない。いつのころからか、この国では「平等」という理念が重んじられるようになった。人間は「平等」なのだから、だれかひとりが集団から飛び抜けるようなことがあってはならない。みんなが同じようでなくてはならない。このばかばかしくも格調高い理念に従って、この国の教育では運動会の徒競走ですら順位をつけることを避けるような傾向が見られるようになる。むろんこのような社会にあっては、当然ながら群集から突出する人間はねたまれることになるだろう。

かくして登場するのが大衆の剣としてのマスコミである。かれらは「有名税」という意味不明の概念を持ち出して他人の醜聞をあばきたて、プライバシーを盗み見し、火のないところに煙をたててまわる。人権侵害としかいいようのないこれらの蛮行が、この日本では有名人に対してはなぜか赦されることになっているのだ。なんという汚猥に充ちた職種だろうか。しかし、この醜行の背景にあるものが大衆の支持であることを忘れてはならない。内心で有名人の失敗を望んでやまない個々人こそが、マスコミのこの構造を支えている。

かれらはマスコミのあぎとにかかった有名人を目にして、心の奥底ではこう思っているのかもしれない。いい気味だ。たまたまちょっと成功したくらいで調子に乗っているからそうなるんだ……。大衆は、すくなくとも日本の大衆は、浪花節と苦労話を愛するようには天才を愛さない。平等を重んじるわれらが社会は簡単に成功を手にするような(何もしない者の目からはしばしばそう見えるものだ)「例外」を歓迎しないのである。世間がそのような天才を無条件で認めるのは、たぶん海外での評価が定着した場合のみだろう。どういうわけか、多くの日本人は自分の目よりも外国人の目のほうを信用する。

タズサは敢然とこういった大衆の性癖を敵にまわす。オリンピックでのメダルは彼女にとって競技人生の目標であると同時にこれら衆愚への武器でもある。だが、真に崇高で公平な戦いのなかで、やがてはそういった想いすらも消えていく。現在、現実の女子フィギュアスケート業界では競技選手の着実なレベルアップが進む一方、不況の影響による相次ぐアイスリンクの閉鎖によって(僕が棲んでいるN市でも、先日ひとつ閉鎖した)、選手の練習環境はむしろ悪化しているともいう。

オリンピックでメダルが取れる可能性があるとなると急にその競技への興味にめざめて当たり前のようにメダルを要求する人々は、はたしてこういった状況を改善する意欲があるのだろうか。ただ要求し、ただ責める。日本人がその姿勢を変えていかない限り、これ以上日本のスポーツが進歩していくことはむずかしいだろう。話が逸れた。処女作ということもあり、小説のしてのこの作品の出来は完璧とはいえない。なにより、タズサを囲むライバルたちの造形的魅力が致命的に欠けている。

フィギュアスケート史上に残る天才少女リア、清廉な美少女ガブリーなど深く描きこんでいけば魅力的になりえるキャラクターが揃ってはいるのだが、英語が話せないタズサの一人称で物語が語られるせいで、彼女たちの個性が際立ってこない。ライバルの個性が弱いことは、タズサ本人の魅力、そしてフィギュアスケートそのものの魅力にも関わってくる。せっかく多彩な人物を揃えたのだから、もっと彼女たちの人物像を描きこんでほしかった。もっともそんな描写をはじめてしまった途端、例によって何千枚もの大長編になってしまうのかもしれないが。

しかしともかく小説という媒体を使ってフィギュアスケートを描くことに挑むという斬新な挑戦は評価したい。オリンピックのロングプログラムでのタズサの演技はすばらしい。彼女の世界が氷上を覆っていくさまが目に見えるようだ。そこにはもうマスコミに対する抵抗も残っていない。ただ音楽と物語と演技だけが世界に残り、あらたなアーティストの誕生を告げる。この似非平等の社会にあって、それでも全体の流れに適合することをよしとせず、どこまでもみずからの「個」を貫く人々を、ひとは敬意と羨望をこめてアーティストと呼ぶ。かれらの世界には、決して「平等」はない。努力がかならず実るという保障もない。

生まれつきの才能に恵まれたものが、わずかな時間で先駆者を追い抜いていくことなどめずらしくもない。そこにはただ美と洗練と、そしてその末の選別があるだけだ。この物語の設定では、一億を超す人間のなかで、フィギュアスケートのオリンピック代表に選ばれるのはただひとり。決してふたりに分けられることのないその一枚きりの切符をめざして、タズサは踊り、タズサは滑る。めざすものは銀色に輝くリンクを万華鏡に変えて広がる夢幻の世界。「銀盤カレイドスコープ」。この作品は、世間の流れに迎合せず、周囲の声にも惑わされず、ただ自分の信じる道を歩んでいく果敢なる氷上の反逆者の賛歌である。
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マルドゥック・スクランブル The First Compression-圧縮
  エンターテインメント! 「マルドゥック・スクランブル」は今日、娯楽小説を読むものすべてが注目すべき作品だ。過去のさまざまな作品のサンプリングによって生み落とされた異形の未来はポスト・サイバーパンクSFの域を越え、読者の心臓を一撃する。
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おいしいコーヒーのいれ方 7 坂の途中
  新直木賞作家村山由佳が贈るせつない恋愛小説の逸品。
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失はれる物語
  現代娯楽小説の最先端を最速で疾走する鬼才乙一畢生の名作「しあわせは子猫のかたち」をはじめ、リリカルな感動とクールな戦慄をよぶ異形の小説六編を収録した短編集。時代を越えて語り継がれるべきほんとうの傑作がここにある。
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きみとぼくの壊れた世界
  西尾維新「きみとぼくの壊れた世界」

とんでもない小説だ、これは。思わず「Fate」と比較してしまうのだが、奈須きのこと西尾維新の作風は性格が正反対の双生児のように似ていると思う。表面的にはかぎりなく相似していながら本質的には対極。その立ち位置は萌えムーヴメントの両極にあるので、萌え民はこのふたりの作品だけを読んでおけば、ほかのアニメとかゲームとか漫画なんかはべつに触れる必要がないかもしれない。

すくなくとも僕は「Fate」とこの作品を読んでいわゆる「萌え」的な作品に関する興味が薄れていくのを感じている。この二作品のなかに「萌え」の両極端を見てしまった、という気がするのだ。すなわち「依存」と「自立」の極をである。「依存」を担当するのは「きみとぼくの壊れた世界」。この作品はいままさに一線を越えようとしている兄妹の危険な関係に殺人事件を絡めて学園ミステリに仕立て上げているのだが、その妹の兄への依存ぶりは驚異的である。

そもそも「萌え」とは依存的人間関係を苗床にして咲く妖しい花だ。この業界では完全に自立していてひとりでなんでもできるようなキャラクターは人気が出ない。したがってビジュアルノベルの世界ではヒロインを主人公に依存させるためにさまざまな設定を持ち出してきている。不治の難病にしてみたり、廃棄寸前のアンドロイドにしてみたり、未来人にしてみたり、と超日常的な設定のオンパレードである。現在、それはユーザーの要求に応えてさらにさらに先鋭化しつつある。

だが、それでもこの作品の妹キャラほど依存性の強いキャラクターはまずいない。これではいくらなんでも読者は萌えを通り越して引いてしまうからだ。このキャラクターは性格的には普通の萌え妹(なんだそれ)なのだが、とにかく兄なしでは生きていくことができない。たぶん兄が拒絶したらそれだけで死んでしまうだろう。主人公と彼女の関係性はグロテスクなまでに歪んでいるが、これはあきらかにわざとやっている。そう、この小説で西尾が取り組んだのは「萌え」の戯画化なのだ。

「きみとぼくの壊れた世界」。現代ミステリを切り取る重要なキーワードをふたつも嵌め込んだ象徴的なタイトルからわかるとおり、本書は現代の「壊れた世界」を描こうとするメタビジュアルノベル的な学園小説である。西尾の代表作である戯言シリーズの主人公が徹底してはぐらかしに終始し本心を見せようとしないのに対し、この作品のキャラクターの台詞は一貫して率直だ。だが、その言葉のひとつひとつはいちいち歪んでいる。病んでいる。狂っている。

しかしその歪みと病と狂気にもかかわらず、否だからこそ本作は予定調和的な幸福な結末へとたどりつく。嘘と依存の輪舞のすえにたどりつく「えんでぃんぐ」の光景はちょっと正視できないほどグロテスクだ。しかし、と西尾は無言で読者へ問いかける。歪んでいてなにが悪いのか? 病んでいてなにがまずいのか? 狂っていてなにが問題なのか? 僕の答は当然「なにも悪くない」だ。

嘘と偽りに満たされた「仲良し空間」は同時にこのうえもないほどのやすらぎと幸福でも満ちているのだから。だが――とも僕は思う。やはり、歪みではたどり着けないものもある。病では克服できない境地もある。狂気では獲得できない誇りもある。幸福とやすらぎを選ぶのなら、それは棄てなければならないのだろう。これは「Fate」をプレイしたからこそ思うことだ。あの作品はある意味でこの作品の影絵である。

一応本格ミステリでもあるのだが、僕は解答編を飛ばしてしまおうかと思ったくらいなので、ミステリ的要素抜きでも充分に楽しめる作品であることはまちがいない。僕は病院坂黒猫とちがっていくらでもわからないことを放置できるのである。ミステリとしてみれば、たしかに「あの描写」はアンフェアだろう。どうでもいいけどね。それにしても夜月、いい本の趣味しているな。国枝士郎読んでいる女子高生なんて一万人にひとりくらいしかいないぞ、たぶん。
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